悲しみの果てに、死者の群れを

悲しみの果てに、死者の群れを

『演歌・オブ・ザ・デッド』(c2005-2012りょんりょん)公式ブログ
映画の感想は、ネタバレ全開です。

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ネット上でも話題になったりして、以前から気になっていたPOV形式の映画だったのですが、日本ではビデオスルー(今はDVDスルー、いや、ブルーレイスルーですね)やろなぁと思いながら、早く観たいなぁ、いつ出るのかなぁと待っていました。映画館で上映するとしてもミニシアター系だろうなぁという予想を覆されての、まさかのシネコン上映。最初にシネコンでポスター観た時は、別の映画だと思いましたよ、マジで。凄い。というか、いいのか、それで(いいのら)。

今回は、関西映画クラスタのスピンオフ会の一環として、10名弱の皆様と一緒の鑑賞となりました。鑑賞後、皆様の顔からは、特に不満もなく、堪能された模様で、この映画を大変気に入った僕としては、勝手にほっとしました。

事前にわかっていたことは、POV(Point Of View)の映画であること、ノルウェーが舞台であること、トロールが出てくること(notムーミン)程度で、POV形式ということから、低予算でハッタリだけかました、手ブレ全開の映画かなと訝しがりながらの鑑賞態度となってしまったのですが、実際には、かなり設定を作り込んでいて、細かい配慮もし、お金も適度にかけているっぽい映画でした。

手ブレもほとんど気にならないですし(終盤はほとんどないし)、きっちりと画面にトロールが描写されるところは押さえているし、時折手ブレとかトロール全体を映さないようにしてみるという小技を出して、それを臨場感に変化させているところは職人芸かよと思いました。

序盤は、なんかダラダラしていて、「この映画大丈夫かいな」なんて思っていたんですが、トロール・ハンターが出てきて、実際にトロールが暴れ出してからは俄然面白くなり、最後まで映画にのめり込んで楽しめました。序盤のダラダラさも、実は中盤以降にボディブローのようにじわじわと効いてくるんですよね。序盤がダラダラしているからこそ、トロールが実際に出て来てからの登場人物の右往左往振りがダイレクトに観客に伝わるように(劇中の登場人物との擬似感情の形成)なっているんです。多分、そこらへんはきちんと計算してやってるところにも好感を持てました。

この映画の肝心要のトロールも、大型から中型、小型と色々なタイプが登場し、POV形式の映画にありがちな出し惜しみもなく、これでもかというくらい画面に登場します。また、単体戦、集団戦も織りまぜながら、飽きさせない戦いを提示してくれています。

トロール・ハンターの親父さんが、恐らく手製の鉄製鎧(パワードスーツ、というかマジでアイアンマンですわ)を装着して、トロールと一騎打ちするところとか、最後のデカいトロールとの電磁スピアみたいなものを担いで立ち向かっていくところの勇壮さとか、ヒーロー映画としての側面も感じさせてくれます。

トロール・ハンターの親父さんがね、かっちょいいんですよ。ノルウェーの人気コメディアンが演じているらしいのですが、トロールの設定もこの親父さんがアドリブで色々と喋って勝手に作った部分もあるらしいです。ノルウェーではトロールは有名らしいので、従来の設定をある程度は役者も製作者も観客も知っているという前提だからこそ出来たことかもしれませんが。

粗というか、ツッコミどころは満載です。でも、映画を観ている時は気にならないですしね。設定は作っているけれども、決して映画的な流れを止めてまで設定にこだわらないっていう部分もよかったです。これこそ、ライブ感ですよ。

この映画のいいところは、特定のターゲット層を意識しながらも、全方位に向けての制作姿勢も忘れていないところです。きちんと、映画としての面白さを意識しながら作っているところです。怪獣映画としても面白いですし、トロール・ハンターの親父さんの哀愁漂う生き様も素晴らしいですし、ノルウェーの景色もいいですし、観て損はない映画です。POV形式の一つの規範となるような、そんな映画になっているのではないでしょうか。

続編として、ムーミン谷に囚われた速弾きギタープレイヤーのスナフキン(演者:Yngwie J. Malmsteen)を救出に向かうスウェーデンの特殊部隊と、ノルウェーの軍隊、ムーミン谷のトロール軍団の三つ巴の戦いを描く映画が作られるようです(嘘です、妄想です)。

最後に、本物のノルウェーの首相が登場するのにはびっくりしましたけどね(ツイッターの公式アカウントで本人であると返事を頂きました)。

ほら、disってないじゃん。disらなくても感想書けるじゃん、ボク。
岩井俊二監督の『friends after 3.11【劇場版】』を観てきました。タイトルの通り、2011年3月11日に発生した東日本大震災と、その影響で起きた東京電力所管の福島第一原子力発電所の事故に関しての、地元に住んでおられる人々、原子力関係者、被災地(という表現がいいのかはわかりませんが)で運動等を展開されている方々のインタビューを中心として構成されたドキュメンタリー映画です。

映画としては、監督である岩井俊二氏が出ずっぱりで、インタビューや現地に赴いたりし、東日本大震災による、場所と人々に残された傷跡を、生々しくもある程度の距離を意識して保ちつつ、観客に提示してくれています。

監督の岩井俊二氏が意識していたのかどうかはわかりませんが、僕は、モキュメンタリー的な作り方というかエッセンスを、この映画は敢えて取り入れたのではないかなと、観ている間、ずっと思っていました。恥ずかしながら、スクリーンに映し出される風景を、僕が住んでいる同じ日本だとは思えなかったのです。まるで、東日本大震災という架空の出来事を扱った映画の中の出来事のように思えてしまって、妙に現実感を抱くことが出来なかったのです。

それは、僕が大阪に住んでいるという物理的な距離と、目に見える影響等があまりない、簡単に言えば、東日本大震災以前との生活となんら変わらないことで生じてしまう温度差が、東日本大震災の影響を受けた方々とかなりあるということです。阪神・淡路大震災の影響があった地域に住んでいるのに、阪神・淡路大震災を間接的ではありますが経験したのに、です。

恐らく、監督の岩井俊二氏もそのことを意識して、敢えてそういう視点、手触りみたいなものを映画の中に放り込んだのではないかな、と思いました。

また、これも意図的だとは思うのですが、福島第一原子力発電所の事故による影響や、今後、原子力発電所だけではなく、原子力というものに対してどう対応していくのかということを映画としての主題に置きつつも、東日本大震災での地震や津波による都市の崩壊についてを、原子力の問題とテーマを分ける形での提示としない(境界を曖昧にさせる)ことで、当事者以外には架空の出来事ではないかという誤認識を、わざとさせようとしたのではないでしょうか。

もし、これが現実に起きたことだとしたら、あなたはどうしますか?と問われているように思えたのです。勿論、現実に起きたことなのですが、あまりにも、日本の中でも考え方や捉え方の温度差が激し過ぎることによって、結果的に時間と共に風化していくことに警鐘を鳴らしたかったのではないでしょうか。

僕個人としては、原子力発電所というか、原子力は、世界の問題として、全て廃止にする必要があると思っています。理由として、原子力は人間にも地球にも扱うには危険過ぎるものだからです。処理出来ない廃棄物がどんどんと溜まっていくというのは、今の人達にとっては、遠い未来に解決すればいいと思っているのかもしれませんが、過去に生きた人間(=我々)としてはかなり無責任な所為だからです。

今までの歴史、培ってきた技術、そういったものを捨てるのは勇気がいることだとは思います。でも、今こそその勇気を使わないと、永遠に勇気を失うことになってしまうのではないでしょうか。それは、世界に対して日本が、日本人が率先してやるべきことだったのではないかと思うと、残念でなりません。これからでは遅いです。しかし、今からでも遅くてもやるべきことなのではないでしょうか。

映画ではナビゲーターとして松田美由紀さんがクレジットされており、松田美由紀さんがこの映画を作る切っ掛けとなったらしいのですが、はっきり言って、監督の岩井俊二氏がずっと出ずっぱりなので、出演してもらう意味はなかったように思います。あ、それもわざとか。それで、焦点をぼけさせて、よりモキュメンタリーっぽくしようとしたんかな。

いつになく真面目に感想を書いていますが、一番気になったのは、監督の岩井俊二氏の若干ロンゲの髪の毛がかなり痛んでいるんじゃないかな、ということだったのは内緒です。藤波心さんと一緒に歩いている場面で、特にそう感じました。

最後に、個人的なことなので、この映画の感想に書くことではなく、別エントリーで書くことでしょうけれども、この映画(だけではないですが)が切っ掛けになったことがあるので書きます。

体調を崩してしまって長期で会社を休む形になってしまったのですが、それで自分の時間が増えたことで、色々と考えたり、映画館で映画を再び多く観るようにもなり刺激を受けたのでしょう、自分にとって出来ること、やりたいことって何だろう、それを見付けて、今後はやっていきたいなと考えるようになりました。

まだまだ具体的には見えませんが、ぼんやりとではあるのですが、歩く方向だけはわかったような気がしています。原子力に対してとか、具体的な何かについての運動をするということではないのですが、自分がやりたいことでしか自分が出来ることはないのかなということを、この映画を観て強く感じました。難しいかもしれませんし、頓挫するかもしれません。それでもやりたいと。この映画がなんとなくではありますが、その方向性を見付ける切っ掛けを作ってくれたことには感謝しています。

公式サイト:http://iwaiff.com/fa311/
※かなりdisってますので、関係者の方はご覧になられない方がいいと思います。



ゾンビ映画という理由だけで観てきました。監督は、あのザボーガー(のリメイク)の人だったので、かなり期待せずに観たのですが、センスのなさ全開なわりには、この映画ではそこそこ頑張っていたように思えます。ごっつ上から目線ですが、仕方がありません、その程度のレベルの出来栄えなんですから。

オープニングはいきなり昔のエクスプロイテーション映画っぽい始まりなんですが、まぁ、なんていうかね、タランティーノやロドリゲスのように、自分の血肉になってないんですよね。表面だけパクってるんですよ。要するに、オサレって言われる行為ですね。いえね、それでも面白かったらいいんですよ、面白かったらね……。

なんていうんだろう、予告編から受けた印象ほど、ぶっ飛んでないというか、中途半端というか。下品なんかなと思ったら、あんましそうでもなくて、それを売りにしていた予告編って一体なんだったんだろう。

主人公の女性は頑張っていたとは思いますが、無駄な頑張りだったと思いますよ、えぇ。つか、可哀想と途中から思ってしまいました。この映画で頑張ってもね、って。そう思わせてしまうのはダメっしょ。

ベクトルがね、内側を向き過ぎてるんですよ。不特定多数の内輪じゃない観客を対象としていないというか。じゃあさ、そういう上映の仕方をしてくれよなぁーって。一応、商業映画なんでしょ?

まぁ、この映画のコメディっぽい感触が僕にとって生理的に受け付けないっていう部分を差し引いても、素人に「自分で作った方がもっと面白いものを作れるよ」、なんて思わせたらダメでしょ。

あかん、かなりdisってる(苦笑)。映画をdisり過ぎだとこの前注意されたので、よいところもあったか思い出してみます。思い出してみます。思い出してみます……。

映画館では、笑いが起きたりしてて、楽しめる層は存在しているとは思います。全体の話の構成や展開のさせ方、キャラクター造形はいいとは思います。

あ、そうか。安っぽさをわざと出そうとしてるから、しょーもなくなってしもうてるんや。ビッグバジェットでそれをやっても、そこそこ様にはなるとは思うけど、低予算でそれをやろうとするもんやから、目も当てられなくなるレベルにまで下がってしまうんかな。

あ、やっぱりdisってもうてる……。
ねたばれしてます。




自分の思い通りに人や物を操る能力を持った者と、その能力が唯一効かない者(実は超回復能力の持ち主で、ウルヴァリンほどではないけどヒーリング効果みたいなもんを持ってます)とが偶然出会い、それによって引き起こされるドラマや戦いを描いた映画です。

映画館のポスターを観て、チラシのあらすじを読んで、これは面白そうだと思い、ちょうど公開期間中だったので突撃しました。実は『ゾンビアス』を観るついでというか、待ち時間の埋め合わせとして観たというのは内緒ですが、予想以上に面白かったです。楽しめました。

本編を観た後、家に帰ってから予告編を観たのですが、予告編は哀愁漂う感じで、超能力を持つ男と、超能力が効かない男との二人の触れ合いを描いた映画っぽいような印象を受けたのですが(本編を観た後だというのに、この映画はこういう雰囲気なんかなぁって思っちゃったじゃねーかよ)、本編は全くそんな感じではなく、ほとんどの場面は超能力が効かない男を中心として展開していますし、二人の触れ合い的(心の交流的)なものは、ラストにちょこっとある程度です。それまではずっと追いつ追われつをやってますからね、二人は。

多分、日本では二人のイケメン俳優を前面に押し出して、その二人が実は……、なんていうイメージを抱かせたかったんだろうなぁ、と。

ジメっとしたシリアスな土台にコメディをデコレーションしたような不思議な感覚を抱き、それが隔離しているようにも思えて、普通なら失敗してるなぁと思っちゃうところなのですが、なんかね、妙に居心地がよかったんですよね。世界観、というか、雰囲気なのかな、が気に入りました。強いて言えば、80年代のジャッキー・チェンの映画に、もう少しシリアス分を強く加味したっていう感じをイメージしてもらうと近いかなぁ。

展開も追いつ追われつが主軸なので、ハラハラドキドキもあり、ところどころでコメディ的なやり取りを挟んで、ペースを調整するところはなかなかうまいなぁと思いました。人によっては、コメディ的なやり取りは邪魔って思っちゃうかもですが(実は僕も大嫌いなはずなんですが……)、僕はそれによって、起伏が出たと思っております。

二人が何故特殊な能力を持っているのかとか、超能力を持った男の片足がないのは(小さい頃からないのですが)超能力と関係があるのかとか、そういう映画の本筋にはあまり関係ない部分をばっさりと端折っているのも好感が持てました。いいよね、そんな理由なんて別にさ。観ている時に、特にその理由を知りたいとも思わなかったし。

最後は、超能力を持った男が、実は誰かに存在を認めて欲しかったのかなっていう流れになっちゃって、その纏め方は気に入らなかったです。実は超能力を持った男は寂しかったんだよ、なんていうありきたりな流れになってしまったのが残念でした。確かに、二人のそれまでの対比とかも考えると、それが一番いいオチなのかもしれませんが。もうちょっとヒネった落とし方をして欲しかったですね。面白かっただけに特に。

超能力を持った男は、手を挙げた人形と都会のビルが立ち並んだ模型を大事にしているんですが、それは、自分が世界を征服したい、もっと自分の思うようにしたいという気持ちを表していると思っていたんですよね。現実には自分の超能力は限定的で、自分が関わってる場面でしか効果がないっていうことに諦めと憤りを持っているっていう表現なのかと思ってたんですけどねー。人とか平気で殺すしね。躊躇ないし。唯一、母親だけは殺せなかったけど、二度も。

それは、多分、自分のことを認めて欲しい、自分の存在に気付いて欲しい、というメタファーとして用いてたっぽいですね。人形を肌身離さず持ってたし。母親を殺せなかったのも、それが理由なんだろうし。

いつもの調子で書いていたらdisってるような気がしてきましたが、いやいや、本当に面白かったですよ。観てよかったぁと思いましたもん。

そうそう、超能力を持った男が、水嶋ヒロをワイルドにして、ボクシングで3Rくらい殴れた後みたいな感じで、超能力が効かない男の方は、伊藤英明ベースに阿部寛分を注入して、適当に攪拌しましたって感じでした。脳内では、水嶋ヒロと、伊藤寛(伊藤英明+阿部寛)と変換して観てました。

あ、そう言えば、ヒロイン的な立場の女性は出てくるんですが、この映画のメインキャストってほぼ全員男性やんか。男くさくはないけど。最近の映画としては珍しいかもですね。
※この映画に登場するスターウォーズファンをdisっています。また、ネタバレ全開です。



『スターウォーズ エピソード1 ファントム・メナス 3D』が公開されたので、それを観た同じ日に、この映画も観てきました。やっぱり、ほとんどの旧来のスターウォーズファンからは嫌われている新三部作を観てから、この映画を観るというのが、一番素敵やん、と思ったからです。僕が観た回は、上映後のトークショーの特別企画がありました。

この映画の主張は、ジョージ・ルーカスは「スターウォーズ」の創造主及び権利者(著作権者)であるけれども、勝手に改ざんするとは何事だよ、というファンの声を取り上げたものです。「スターウォーズ」というのは映画だけに留まらず、玩具やゲーム等への展開も含めて、世界中の人々を魅了したカルチャーという存在になっているのに、創造主であるとはいえ、ジョージ・ルーカスの勝手(な扱い)がまかり通ってもいいのか、というジョージ・ルーカスへの批判がほとんどです。映画の中では、その主張に対しての明確な反論というのはなく、別の意見もありますよ、的にちょこっと添えられている程度です。

また、ジョージ・ルーカスを批判するファンの中でも、その批判の振り幅は大きな開きがあって、ジョージ・ルーカスに一定の理解は示しつつもやっぱり許せない派や、理解しようともせず否定している派等がいます。許せないという一点のみでの連帯感の保有という感じですね。

そういうことも含めて、スターウォーズを知らない人がこの映画を観れば(観ることないだろうけど)、何を好き勝手言ってるんだろうっていう感想を持たれる方が多いのではないかと思いました。

この映画はドキュメンタリーというよりも、ファンへのインタビューや意見を提示しているだけで、製作陣もジョージ・ルーカス・ヘイト派であろうということは、なんとなく映画からも匂ってはくるのですが、あくまでも話を聞く側でしかないですよというスタンスを維持していたことによって、ドキュメンタリーではなくなっているのかな、と。あ、それがダメっていうことではないですよ。普通のドキュメンタリー映画にあるような質感とちょっと違うなぁと思ったんです。

映画としては楽しめたのですが、主張には賛同出来ませんでした。というか、イラつきました。ジョージ・ルーカスに批判的になるのは、彼、というか、「彼の作ったスターウォーズというカルチャーへの愛情の裏返しですよ」的なことを、明言はしていないのですが(映画に登場する人はその雰囲気をそこはかとなく漂わせている程度)、そのことを免罪符に使ってるだけで、この映画だけではなく、他のことにも言えますが、結局は、「自分の好きな対象には別に支配者(創造主)がおるから自分が支配者(創造主)になられへんから嫌や」ということなんですよね。それって、単なる我儘じゃんか、と。もっと簡単に言うと、「自分が妄想したようになってないから嫌だ」って言ってるだけなんですよね。

確かにね、そういう風に言いたいことはわかります。僕も、好きな映画や、対象に対してそう思っちゃうことは幾らでもあります。でもね、それは我儘なんだよ、俺ザク(自分が考えた設定に基づいたガンプラ作成)と一緒なんだよ、っていうところを、ちゃんと理解というか、認識しているかどうかなんですよね。それが痛いかどうかの分かれ目なんですよね。この映画に出てくる人達のほとんどは、それが出来ていないように思えました。要するに、痛いんですよ、出てくる人のほとんどは。それじゃ、訴求力なんて出ないですよ。

それにね、ぶっちゃけて言えば、答えなんて既に出てるんですよね。スターウォーズは誰の物か、なんて。それは創造主で権利者でもあるジョージ・ルーカスの物です。それが悔しかったら、自分も創造主になれ、っていうことですよ。

トークショーのゲストの方もおっしゃっていましたが、スターウォーズをどの年齢で体験したのか、最初のスターウォーズ体験は何なのか(どの映画なのか)によっても、受け取り方が変わるだろうと思いますし、旧三部作、新三部作と区別して観ていない人も多いでしょうしね。

映画の中にもちょこっと出てきますが、若い年代層の人ほど、新三部作、旧三部作とはわけてはなくて、全部がスターウォーズである、という認識みたいです。ジャージャーまで許せるみたいです。僕は、許せないですが(笑)。

観た回数としては、最初のスターウォーズが一番多いですし、旧三部作直撃世代なので、勿論大好きではありますが、新三部作も大好きで、どちらかを取れってなったら、新三部作を取っちゃう派です、僕。旧三部作の直撃世代で、昔からスターウォーズが好きでも、新三部作が好きなんですよねー。こういう奴もいるってことでよろぴく。

あ、これって、『仮面ライダー響鬼』の前期派と、後期派&関係ない派の争いに似ているな、と、この感想を書きながら思いました。誰か作ってくれないかなぁ、『仮面ライダー響鬼前期厨VS白倉プロデューサー&井上敏樹』っていうのを。
ネタバレしてますよー。




「刀」の文字がタイトルに含まれていては観に行くしかないという本能から、この機会を逃してはいけないということで、観てきましたよ。

今回は、アジアン映画祭のプログラムの一つとしての上映ということもあってか、上映前に監督とプロデューサーの挨拶がありました。監督は、この映画は実験作だったという主旨の発言をされていました。プロデューサーは、あ……、何を言ってたか忘れましたが、面白い映画を今後も発信していきたいという旨だったと思います。

あらすじは、倭寇(英語字幕ではJapaneseと表記)が攻めてきた後の中国のある都市で、倭寇が使っていた武器(日本刀)を改良した長い刀身を有した刀を武器とした武術と、それを考案した将軍の戦略を後世に伝える為に道場を開きたい部下が、その都市の武術の四大道場と争うというお話です。

多分、この映画のテーマは、「人の思惑には関係なく、時代は移り変わっていく」というものだと思います。武器が進化(変化)していくことで、武術は必要なくなり、戦術が大事になってくる。人個体の強さではなく、作戦の質が戦局を左右する。ただ、武術を志して、それに生涯を捧げてきた者には、その現状は認識はするが受け入れ難い事実であり、時代の流れに抗おうとする者もいれば、受け入れる者もいる。作戦の質が重要であり、それをもってして既存の武術に対抗する将軍の部下もまた、最終的には武術そのものに魅了され、武術という存在から逃れられない。ということを描きたかったんではないかと思います。

監督が上映前の挨拶でも言っていたように、言われてみれば実験作っぽいよなぁと思いました。それ故に、色々とやりたいこと(情報ではなくて)を詰め込もうとして、取り留めない状態になっちゃったよなぁ、と。はっきり言えば、失敗作だったと思います。嫌いではないんですが、面白かったかと言われれば、うーんっていう返答しか出来ないというか……。

よかった部分としては、四大道場主のキャラ(特に隠居して戻ってくる自称最強のおっさんと、現在の四大道場主達のリーダー)が立っていたことと、場面場面の構図や景色がハッとするような美しさ(と雰囲気)を持っていたところ、社長版ホームズみたいに戦う前に妄想する場面、とかですね。

悪かった部分としては、立っているキャラをうまく扱っていなかったこと(テーマ的に仕方がない待遇だったとはしても)、ギャグに走る部分が浮いてしまっていたこと(ギャグ自体はいいんだけど、緊張感が解れるんじゃなくて、途切れるんですよね)、テンションが持続しなかったこと(というよりも、テンションの継続が考えられていなかったことかな。シリアスなのかコメディなのかギャグなのかが曖昧過ぎました)、アクションが観客の妄想に委ねている部分が多かったこと(もっと具体的に直接的に映像で観せて欲しかった)、でした。

風刺を効かせているだろうと思われる場面がギャグにしか見えないということが、この映画の不安定さを表している要因ではないかと思いました。

結局、主人公が何をしたかったのか(道場開設が目的なのに、街を火の海にしようとしてたりするし)、周りのキャラクターもどうしたかったのかが不明瞭で、人物相関図がややこしいわけではないのに、キャラクターの行動が印象に残りませんでした。

個人的には残念な出来だったと思いますが、先にも書いたように嫌いにはなれない、そんな映画でした。
ネタバレ全開してます。



ロバート・ダウニー・Jrもジュード・ロウも役者としてはお気に入りだというのに、一作目は観たことがありませんでした。もし、一作目が面白かったらこの映画も観に行こうと、一作目のDVDを買って観たのですが、これがかなり面白く、もうすぐ公開される続編は映画館で観ないとダメだと思い込み、そうなると早く観たいと思うのが人情でありまして、そそくさと公開初日に観に行ってきました。

ホームズの小説は、小学生や中学生の頃に読んだきりで、詳細な内容なんてほとんど忘れていますし、ホームズの映画やテレビドラマ等もほとんど観たことがないほど、はっきり言ってホームズに対してあまり思い入れがなかったので、このシリーズのこれまでのドラマにおけるホームズ像とは違うキャラ設定(原作に実は忠実という部分もあるようですが)といったことはまったく気になりませんでした。原作に登場するキャラクターを、役者(ロバート・ダウニー・Jrやジュード・ロウ)のスタイルにマッチング(再構築)させた新機軸のホームズ映画だと、僕は捉えています。

前作に比べると、展開自体はストレートに突き進む感じで、よりホームズが中心になっているように思えました。前作は、一応の敵(中ボス扱い)はいますが、ラスボスとしてモリアーティ教授が配されていたりと、続編を作りたい気満々な部分もあり、一作目ということでキャラクターの説明や関係性も提示しないといけないしで、 ストレートに敵に迫る展開は無理が出てくるのは見えてましたから、一作目はあのやり方でよかったとは思います。モリアーティ教授の登場のさせ方とかは、不親切だとは思いましたけどね。

ワトソンも活躍はするんですが、前作に比べると空気感が増したように思えたのは気のせいなのかな。兄ホームズ(マイクロフト、not マイクロソフト)も登場するんですが、キャラクター(というか役者というか)のアクの強さで、更にワトソンの存在感が揺らいだような気がします。でも、展開的にはホームズとワトソンの関係は強固に描こうとしているので、そこでなんとなく締りの悪さみたいなものが出てしまったように思えます。

今回のラスボスは、原作でもお馴染みのホームズ最大の敵であるモリアーティ教授ですが、なんか風格がないというか、オーラがないというか、ラスボスにしては小悪党って雰囲気というか。モリアーティ教授の犯罪目的が軽い(やってることは酷いけど)描写になってしまっていることも大きいんじゃないかなと。描写が甘いんですよね。というか、最初から捨ててたのでしょうかねぇ。これなら、もっと風格のある役者を配した方が楽だったと思うんですよね。この映画での役者さんの佇まいだったら、モリアーティ教授の実際の恐怖感を見せる為の直接的な描写が必要だったのではないでしょうか。ホームズとモリアーティ教授って、この映画では似た者同士であり、才能の使い道が違うだけって感じなので、今回のモリアーティ教授役の役者さんは合ってなかったように思います(あ、役者さんがダメっていう意味ではありません)。

あれ、かなりdisってるぞ(笑)。いやいや、そんな弱点はありつつも、面白く楽しめました。上に書いてきたことなんてどうでもよくなるほどに。

最後の対決は、やはりのホームズとモリアーティ教授のアベック滝落ちなわけですが、ホームズの生死を続編まで引っ張るのかと思いきや、あっさりと生きてますよーってバラしちゃうのは清々しかったです。

既にあんまし細かい部分は憶えていないですが、楽しかった、面白かった、という余韻を残させてくれるという、かなり良質な映画でした。
※かなりdisってる上に、ネタバレまでかましています。




3D映画が最近お気に入りの僕としては、予告編を観る限りではあまり食指が動かなかったのですが、観た方のよかったという評判を多く目にしたことと、3D映像が綺麗だったという話を耳にするにつれ、これは観ておいた方がいいのではないかという気持ちにさせられ、どうせ後悔するなら、観なくて後悔するよりも、観て後悔しようという気概で観に行ってきましたよ。3D映像を大画面ではなかなか観ることが出来ませんし、機械人形(ロボットと勝手に脳内変換してましたが)も出てきますしね。

3D映像は綺麗な部分(特にオープニングは秀逸でした)も多く、映像面に対する不満はないのですが、物語と映像のリンクがほぼない(リンクというよりも溶け込んでいないと言った方がいいのかな)ことが、3D映像ではあっても、3D映画にはなっていないなと感じました。この辺りの感覚は個人的なもので、『世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶』から抱いた印象ともまた異なるものなのですが……。

監督のマーティン・スコセッシが今回3D映像にした大きな理由として、リュミエール兄弟が初めての映画を公開した時に、列車が駅に入ってくる場面で、列車が観客席に突っ込んでくると観客が錯覚して大変驚いたという逸話があり(この映画の中でも再現しています)、現在の観客に同等の衝撃を与える方法として、3D映像が適しているのではないかということで選択したみたいです。

映画前半のヒューゴ in リヨン駅の描写配分が長いしかったるいしで、メインの登場人物とも絡んだりはするんですが、どうも薄味というか、物語が大きく動く気配もないままに、退屈な時間が積み重なっていってるだけに感じました。映画館で僕が座っていた席(当然ぼっちだよ)の両隣がアベックだったんですが、それとも相まって、早く終わらないかなぁと思ってました。映画館にアベックで来るなよなぁ、ったくよぉ。

ヒューゴのこの映画の中での与えられた役割は、狂言回しというか、登場人物間同士の接着剤であって、直接的ではなく、間接的に人を再生させるというポジションであったと思います。再生対象がこの映画の中で大きくは二人で、マジシャンで映画監督だったジョルジュ・メリエスと、元々孤児で第一次世界大戦で足を負傷してしまったリヨン駅の常駐警官なのですが、ヒューゴが全編に渡って出ずっぱりな割には、彼らとの関係性の描写も薄く(これは、間接的な立ち位置故という事情もありますが)、ヒューゴが邪魔というか、ヒューゴは必要?と思ってしまうほどでした。

ヒューゴとその次に出番が多いイザベルって、映画的には特に必要がないというか、イザベルの存在がヒューゴを直接的に再生させるようなポジションではなく、結果的にはヒューゴと同じような感じで役割が被さってしまっているということもあって、長い時間登場している二人が結局何もしてないじゃんかってなっちゃって、余計に時間を長く感じたのかもしれません。

映画の大きなメインテーマ(実はメインテーマじゃないんだけど)であるジョルジュ・メリエスの再生作業は、結局は、少年の頃に彼の映画の撮影現場でジョルジュ・メリエスと出会ったことで映画好きになり、更に教授にまでなった人が担うことになります。そこから描かれる映画の後半がかなり面白かったこともあり、これなら、原作(『ユゴーの不思議な発明』)をかなり改変することになるかもしれないけど(原作は未読です)、ヒューゴとか外して、この教授を主人公に据えたらよかったんじゃないかとすら思いました。ノンフィクションじゃないんだし。レインボーからリッチー・ブラックモアを替えたら更にいいバンドになるのにと思ってしまう人間ですから、ボクって。なので、原作の主人公を外すという考え方も平気でしちゃいます。

後半の、ジョルジュ・メリエスの映画撮影場面や、彼が自分の過去と向きあうことに至る流れは、本当に素敵だったんですけどね。この映画は2時間ちょっとあるんですが、前半を30分から 40分程度カットして、後半のこの展開を中軸にすれば、まぁまぁ面白かったかもレベルにはなったように思います。ヒューゴにモザイクもいれてね。

この映画のメインテーマは、「人には誰しも役割があり、重要である」というものだと思います。そういった中でのヒューゴの役割は、人同士を繋げていくことであり、それが、父親の死から逃れられずにいたヒューゴ自身も周りの人達を間接的に再生させたことで報われていくのですが、それを大きくアピールするでもなく映画が終わってしまったのには呆気に取られたというか。大団円のところの描写でわかれよってことだとは思いますけど、「それはわかるけどさぁ、一応主人公だったんだから、もうちょっとなんとかしてあげてよ」っていう気分でした。

あ、そうそう、それからヒューゴってさ、別に不思議な発明はしてないんですよね。機械人形だって、実はジョルジュ・メリエスが作ったものだし、それをヒューゴ の父親が博物館で捨てられたも同然になっていた状態だったのを無断で引き揚げてきたものだし。その機械人形にしても、切っ掛けは作るし、それは重要な要素ではあるけど、映画の宣伝が悪いのか、もっと物語に絡んでくるんかと思っていたら、そんなに出て来ないしねー。

これなら、『アイアンマン』でゲリラに捕まった社長が、有り合わせの材料で社長スーツMk.1を作るという場面がありますが、これに倣って、ヒューゴがリヨン駅で色々なところからパクりまくった部品で機械人形を直していくという過程を深く掘り下げて描写していれば、まだ興味が持続したかもしれないなぁと思いました。それなら、ヒューゴも活きてくるだろうし。

僕は、子供が中心の映画というか、物語は大嫌いなのですが、最近はそのことを忘れていたのに、ものごっつ思い出せてくれるほどでした。ヒューゴが我儘で、周りの状況が見えない盗人でしかないんですから、しゃーないですよね。やっぱし、ヒューゴっていらない子だよね……。

クリストファー・リー、ベン・キングズレー、クロエ・グレース・モレッツの吸血鬼経験役者が出演しているので、3人の吸血鬼がパリにやってきて、メリエス作の機械人形と激闘を繰り広げるお話だと脳内変換し、妄想しながら観ていたのは、内緒、にしなくてもいいです。つか、そっちの方が観たかった。

悪くはないものの、全体的な登場人物への焦点とリレーションシップのズレや、主人公が間接的にしか物語の表のテーマ(人の再生)に関与しないのに、そこのところを明示化していないので、ヒューゴが間接的に人の再生を手助けることで、自分も再生していくという表現が抽象的な提示だけになってスッキリしないというか、だから何?と思えてしまうのは、この映画の余韻をかなり悪いものにしているように感じました。あ、長々と書いてきたけど、この段落だけで言い切れてるや(泣)。
ドキュメンタリー映画の3Dってないのかな、と思っていたら、なんとこの映画が一応ドキュメンタリーで最初の3D映画かもしれないということをツイッターで教えて頂き、偶然ですが日本での公開も間近だったということもあり、俄然期待値が上がり、公開日を楽しみにしていました。

この映画は、南フランスで1994年に発見されたショーベ洞窟にある世界最古と言われる壁画を、今回初めて研究以外の目的でのカメラでの撮影が許可された、洞窟と世界最古の壁画、それに関わる人達へのインタビュー等を含めたドキュメンタリーです。

3D映画は近年増加傾向のように思えますが、別に3Dにする必要はなかったよねっていう感想をよく見掛けます。3D映画は通常の映画よりも割高だったり(TOHOシネマズの場合、通常料金:1,800円、3D映画メガネ付き料金:2,200円)、レイトショー等の割引サービスが適用されない場合もあり、2Dと表記される通常の映画が併映されている場合は、敬遠されることも多いように見受けられます。

僕は、ここ一年ほど、映画館で映画を観ることが多くなったのですが、付加価値を求めるという欲求からも、3Dで公開される映画は3Dで観ることにしており、これまでも幾つかの3D映画を観てきましたが、未だに飛び出るだけとか、遠近感(奥行き)の表現だけといった感じで、確かに3Dにする必要はなかったよねっていう映画が多かったように記憶しています。

個人的な3D映画の利点は、字幕が画面に浮き出たみたいになって読みやすい(人によっては読みづらいという意見もあります)のがいいなぁというところなんですが、それしか利点が浮かばないっていうのも、問題アリですよね。

この映画を観て、3D映像という表現手段の可能性を感じたと同時に、技術面や想像面(制作側も鑑賞側も)での現時点での限界というのも改めて思い知らされるという、複雑な心境になりました。3Dは、モノクロからカラー、無声からトーキーという変革に続くものだという見方もあるようですが、そうなるには、大きな発想の転換(それこそ、パラダイムシフト)が必要なのではないかなと感じました。

映像は確かに綺麗ではあったのですが、結局、立体感というか、奥行きを出すということに囚われすぎていたような映像にも見えました。そういったことから、この映画は、3Dという映像技術をどう映画に利用していけるのか、組み込んでいけるのかという実験作であって、商業映画として公開する領域のものではなかったと思います。映像と書いた理由もそこにあります。率直に言って、映画にはなっていないなという感想を抱いたからです。これは僕の感覚的な捉え方なので、説明するのが難しいのですが……。

「3Dを使える」と「3Dを使わないといけない」という方向性は別のものでしょう。ただ、3Dを鑑賞するには、現時点の技術では、鑑賞側(特に観客)に3D専用のメガネ装着という強制があり、制作側としては、観客への強制を有することによって、3Dを一部分にだけ使うということへの鑑賞面での不満が出る恐れと、営業面でのアピール度の低下に繋がることにもなり、それなら効果があろうがなかろうが、全編を3Dにしてしまった方が楽という側面が、「3Dを使わないといけない」という方向にしか道がないようにしてしまっているという現状もあるでしょう。今はまだ「3Dを使える」という方向性も選択肢に入れるのは、制作側にとっても鑑賞側にとっても、受容出来ない部分かもしれません。

日本語ナレーションにオダギリ・ジョーを迎えていますが、この映画の雰囲気に合ってなかったというか、軽い印象を与え、映像から受ける少し硬い質感を上滑りしていたのではないでしょうか。出来れば字幕で観たかったです。受ける印象が変わったかもしれないなと思うからです。
※いつものようにネタバレしています。




7年に一度開かれる、殺し屋同士の生き残り合戦の模様を描いた映画です。

うーんとねー、なんていうかねー、アクションはよかったんだけど、纏め方が下手というか。群像劇なのか、誰かを中心に据えて展開させるのかが曖昧になってしまっていて、物語に弾みというか勢いがつかないまま、ダラダラなまま終わっちゃいましたって感じです。深作欣二が撮っていれば、勢いは出たのにと思いながら観ていたのは内緒です。

ロバート・カーライルが、情けない神父を演じているのですが、この人はこういう役が似合うというか(『28週後…』しか他は知らないけど、あれもこういう感じだったし)。この神父役が先ずは一番邪魔というか、必要ないよねってしか思えませんでした。もうずっと、邪魔だよ、早く殺されろよって思っていたのも内緒でお願いします。

殺し屋同士が顔見知りだったりするのはいいとしても、なんか、僕がイメージする殺し屋というよりかは、ギャングって感じ(仲間意識があったりするし)だったんですよね。キャラや殺し方というか必殺技は、それぞれ特色を持たせたりしてるんですが、それが活かせていないというか、結局、銃を持った奴が一番強いのかよっていう流れだったりで、殺し屋同士の戦いにも、心踊らされるものがなかったんですよね。

殺し屋は、トーナメントの主催団体に体に発信機を埋めこまれて、お互いの位置がわかるようになっているのですが、一人の殺し屋がそれを体から抜き出すんですよね。っていうかさ、これが簡単に出来るんなら、他の殺し屋もそうすればいいじゃんっていう、この映画の最大の設定である殺し屋バトルロワイヤルを根底から覆してしまうような展開を前半にするもんやから、余計にのめり込めなかったんです。

前の大会の優勝者も、動きにキレがなくて(のっしのっしっていう感じです)、配偶者アイラブユーな状態で、ほんまにお前は殺し屋かよっていう感じなんですよね。これは全員に言えることですが、殺し屋にしては隙があり過ぎませんか。いえね、現実の殺し屋は、映画のようにスーパーマン的なものではないのかもしれませんが、これは映画だしねぇ。

唯一の見所は、ケリー・フーVSスコット・アドキンスでしょうか。すいません、エンドロールで知るまでは、スコット・アドキンスって気付きませんでした。こいつは結構動けるよなぁと、観ている時は思ってたんですけどね。

それぞれの殺し屋のキャラはよかっただけに、残念さがかなり残る映画でした。指切り男とかさ、キャラは最高だったのになぁ。殺し屋の数を絞って、もっとケリー・フーを中心に据えて展開させた方が、この映画の資産では面白く仕上がったと思います。それか、神父は実はっていう展開や、神父が金を欲しがって優勝をさらっていく展開とかがあればねぇ。