石の上にも3年の未修者
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最判23.5.30(南葛高校君が代不起立)補足意見まとめ

平成22(行ツ)54 再雇用拒否処分取消等請求事件  
平成23年05月30日 最高裁判所第二小法廷

竹内、須藤、千葉各補足意見のまとめは以下のとおり
(※は私のコメント。ただし、現時点ではコメントは最小限にして、とりあえず論旨をまとめた)

【竹内意見】
POINT
1)本件制約は間接的制約である
2)間接的制約の正当化審査では、行為と内心の関連性に立ち入るべきではない
3)職務命令は「国旗国歌教育の必要性」「教員が起立斉唱する教育的意味」の2点から必要性・合理性が認められる

1)について
・制約の対象は個人の歴史観ないし世界観自体ではなく、そこから生じて外部的に表象される(不起立という)外部的行動。
・外部的行動を制約することにより、歴史観ないし世界観が制約を受けることになる
⇒間接的制約である
(起立が一般的に単なる儀礼的所作と捉えられていても、行為者の内心によっては不起立は内心の自由の問題となる)
・本件職務命令は、間接的制約と見せかけて個人に特定の思想を強制するようなものではない
⇒“純粋な”間接的制約である

2)について
・外部的行動と内心の関連性濃淡によって審査密度を定めるアプローチ(千葉補足意見)は採らない。
∵関連性濃淡の判断は結局内心の自由に立ち入ることになる

3)について
・他国の国旗国歌を尊重する姿勢を教育するために自国の国旗国歌を教育する必要性
・教員であれば生徒の指導のために起立斉唱して範を示すべき


【須藤意見】
POINTは3点
1)直接的/間接的制約の二元論への疑義(ただし結論としては二元論肯定)
2)二元論を基準とした審査密度区別を言明
3)制約の必要性・合理性を一般人基準によって導き出す

◆表現の自由の矛盾衝突
・「特定の思想が内心にとどまらない場合は,外部的行動との関わりにおいて他の利益と抵触するため,それは常に絶対というわけではない面がある。」
⇒例)一夫多妻制の信条と重婚禁止規定

◆矛盾衝突による制約の2類型
1)直接的制約
 重婚禁止規定はこっち
 ※はたしてそうか?重婚という外部的行為が制約を受けているだけで間接的制約ということも可能ではないか?
 ※しかしそう考えるとそもそも内心の自由への直接的制約って何が想定できる?頭に電極埋め込むとか?
2)間接的制約
 本件はこっち
 「信条の制約」(須藤)もこっちに当たる

◆直接的/間接的制約の二元論への疑問
cf)1(3)
「もっとも,このように一般的,客観的観点からは間接的制約と評価されても,それを受ける者にとっては,当該外部的行為を要求されることで,自己の歴史観等の核心部分を否定されたものと,あるいはその外部的行為を自己が否定する歴史観等を外部に表明する行為と評価されるものと受け止めて,精神的葛藤を生じることがある(直接的か間接的かという区別は,当人自身の主観としては無意味であろう。)。」 

◆しかし外部的行為の制約が正当化され得る場合を認める
 「このような外部的行為を介しての間接的制約の場面では,その規範等に間接的制約を許容し得る程度の必要性,合理性がある場合には,憲法自身が,それを内在的制約としてなお容認しているものとみるのが相当であると考える。」
※外部的行為に対する間接的制約は内在的制約として予定されているという「公共の福祉」原則論が根拠

◆そして外部的行為に対する制約について審査密度が低下することを容認
cf.)1(5)
「これについては,思想及び良心の自由の保障が元来当人の主観を中心にして考えられることとの整合性が一見問題となるように思われないでないが,この判断は,飽くまで法的判断として主観を前提とした上での客観的な評価を行う作用であって,その判断方法自体は異とするに足りない。」
※須藤自身が提起した二元論への疑問に対して自ら答えられていないのではないか
 つまり判断過程としては客観化されても、その制約の効果が「制約を受ける側」にとっては直接的制約に他ならないのであれば、区別に意味はないのではないか。
 そもそもなぜ区別するのか。結局は、表現を取り締まる側から正当化根拠を論理化する(須藤)か、表現を取り締まられる側に立って内心の自由を守る(原告)ために論理構成するかの立場の違いになってしまうのか。

◆必要性・合理性判断
・国旗国歌教育の下での教員として要請される行動
・「全体の奉仕者論」
・特定の国家像と結びつかない国旗国歌→一般人基準にして起立は儀礼上の所作
・社会生活上の信条からの不起立であれば比較衡量における要保護性が低下される


【千葉意見】
POINT
1)保護範囲を限定した上で起立拒否を周縁化、外延化する論理
2)周縁化、外延化に伴う審査密度の低下を肯定

◆19条の保護範囲の限定
人格形成の核心を成す思想のみが保障の対象
「しかしながら,これでは自分が嫌だと考えていることは強制されることはないということになり,社会秩序が成り立たなくなることにもなりかねない。したがって,ここでは,基本的には,信仰に準ずる確固たる世界観,主義,思想等,個人の人格形成の核心を成す内心の活動をいうものと解すべきであろう。」
※それを判断することの危険性は?
 判例の集積による客観化を目指すということか

◆起立拒否の周縁化、外延化
①内心の自由の保護範囲の限定(上述)
②外部的行為にも2類型
内心の領域と密接不可分なもの ⇒ 制約は19条に反して違憲
内心の領域に由来するが不可分ではないもの ⇒ 制約可能
③制約の対象と制約の方法による4分類
内心の領域 × 直接制約 ⇒ 想定しがたい(思想教育、頭に電極)
内心の領域 × 間接制約 ⇒ 論理的に不可能???
外部的行為 × 直接制約 ⇒ 表現内容規制(わいせつ言論、差別的言論、政府転覆言論など)
外部的行為 × 間接制約 ⇒ 内容中立規制(時・場所・態様規制、スピーチプラス規制)

本件起立拒否は
①人格形成上の思想信条=保護範囲内
②内心に由来するが不可分ではない ⇒ 制約可能
③起立拒否という外部的行為に対する間接制約 ⇒ 審査密度緩められる

以上

発言が撤回されました

本日、当該検察官教員が「ディスカッション」ページに、メッセージをアップロードし、発言を撤回する旨表明しました。

前回同様、全文をここに掲載すること差し控えますが、

以下にメッセージの概要を抜粋します。

カギ括弧内は原文の通りです。

 

【メッセージの趣旨】
・「不適切な表現があった」点を認める。

・発言の意図としては捜査の苦労を伝えるもので、「差別的な気持ち」はもっていない。

・しかし、エピソードを紹介する仕方が「至らなかった」。

・もし教室に中国籍やイラン国籍の学生がいたら「不快に思われたであろう」点、及び、

・受講者に、「外国籍の人を低く見る印象を与えてしまった」点を認める。

・上記の点につき、「申し訳なく思っており」当該発言を「撤回させていただ」く。

・今回の件で、授業のあり方について反省すると同時に勉強をした。


私個人宛てにも、

直接会って、「ご意見やご要望を承りたい」旨のメッセージが来ていました。

近日中に当該教員と直接話しあってきたいと思います。


まずは、今回の発言が不適切であったことを認めて、発言が撤回されたことを歓迎したいと思います。

発言が撤回された以上は、期末試験も通常通り受けます。


正直、今の気持ちはまったく晴れ晴れしません。

これで「よかった」という風な気持ちもまったく沸いてきません。

それは、結局今回の教員の発言は、多くの学生の間に共有されていた差別構造を浮き彫りにしただけで、教員の発言が撤回されても何も問題が解決したことにならないからだと思います。

今は自分の置かれている絶望的な状況を目の当たりにして、どうしたものかと思っています。



この件に関して、まとまった文章をアップロードする機会はこれでないと思います。

もし何か新たな状況が発生したら、twitterの私のアカウントでご報告して、

こちらにアップロードします。

私のアカウントは

@yataragenki

です。

フォロー、リムーブなどの動静はチェックしていませんので、お気楽に、かつご自由にお願いいたします。


最後になりましたが、

今回の件で、

本ブログやPC,携帯のメールや、twitterを通して、

応援のメッセージをくださった方、

学問的見地から重要な点をご指摘くださった研究者や弁護士の先生方、

本当に、本当にありがとうございました。


皆様のお寄せくださったご意見によって、

私自身も自分の「差別的・特権的地位」について深く考える機会となりました。

この経験を、近い将来、必ずや、弁護士としてすべての人に還元したいとしております。



差別発言の「意図」を問うことの是非

今回の件に関連して、twitter上で言及してくださった方が複数いらっしゃいます。

特に、私が7月17日に出した「再質問」について、議論していただいたり、アドバイスをいただいたりしたので、この点についてここで補足させていただきます。

 

まず、私は、「再質問」で以下の通り述べました。

>私は今回の先生のご発言の「内容」と「意図」を問題にしてここで議論しています。

>「受け取られ方」については問題にしていません。

>どのような発言でも相手によって受け取られ方は確かに様々でしょう。

>問題は、今回の先生のご発言の「内容」と「意図」です。

>発言の中身が問題となっているのですから、まずはその「内容」を検証すべきであり、「受け取られ方」はその次ではないでしょうか。

>私は、発言の内容と意図について知りたいのです。

>そのために、先生ご自身のご認識とご見解を伺っております。

 

この点につき、発言者の「意図」を争点とすることの是非について、議論がありました。


まず、@yhlee さんが

差別する「意図」を問題にすることは必要か、という問題を提起されました。

 

これに対し、@han_org さんは

「意図を争点にすると「ねじれ」で泥沼化しますね」と、筒井康隆の小説での問題を題材にした社会学の論文を提示されました。そして、「(前略)問われるべき「意図」とは、「われわれ」(講師と受講者)を同一化しようという目的のために、「彼ら」(中国人受刑者等)を見下しの対象として他者化しようとしたこと、です。」という見解が提示されました。

 

また、@GenYamaguchi さんは

意図を問題にすると水掛け論になる。人種差別撤廃委員会の意見では差別を「目的または効果」で判定することになっている、と教えてくださいました。

 

これに対して、@mahbo さんは

逆に意図を争点とすることで「ねじれ」を解消できる、という見解とともに、

「ことこれが差別問題なのかというと、やはりその意図が焦点ではないでしょうか」

と、やはり意図を問題とすべきであると主張されました。

 

以上が今回の件について今までに議論していただいたことの大まかな内容です。


私の考えは以下の通りです。

まず、私は発言者(検察官教員)の「意図」を問題にする必要はないと思っています。おそらく、当該教員は自分の差別性にあまりに無自覚すぎて、自分が差別表現をしている認識すらなしに今回の発言をしたのだろうと思います。だから、ここで今更「意図」を問いただすことに重要性は感じていません。

「そのような差別的「意図」を本人が意識していない以上は今回の発言は差別発言ではない」、ということができないことは明らかですし、発言者の「意図」はやはり問題にならないと私は思います。

 

それでは、なぜ私は、「再質問」において「発言の内容と意図について知りたい」と言ったのか。

それは、学内ネット上での「公開質問」という議論形式を取る上で、ある種の「戦略」を意識しているからです。

 

どのような「戦略」か、ご説明します。

まず発言者に差別的意図があったのかを問いました。この問いに対しては、「差別的な意図をもって行った発言だ」という答えは間違いなく出されません。仮に差別的な意図をもってなされた発言であったとしても、発言者が自らの差別的発想の存在を公の場で認めることは、こと大学教員や検察官としてはできないはずだからです。

そのことは質問者である私以上に、聴衆であった他の学生が一番わかっているはずです。

 

しかし、それと同時に、この件に関して沈黙を貫いている大勢の学生は、「今回の発言は、単にお調子者の検事がウケを狙いにいって中国人・イラン人を馬鹿にしたみたいにきこえる発言をしちゃっただけだろう」「差別的な意図などないだろう」「それならば大きな問題にする必要はないのではないか」という程度にしか思っていないようにも、私には思えます。

私が問題にしたいのは、まさにその点なのです。

 

今回の発言は、なぜ表面的には差別の「意図」をもっていないにもかかわらず、それが差別と「受け止められる」のか。

そのことを聴衆であり、「法曹倫理」の受講者である学生に対して問題提起したいのです。

 

つまり、私の「戦略」とは、発言者の「意図」を問い、これを否定させることで、差別的「意図」がなくても、差別表現が成立しうることを明らかにする。そして、今回の発言が差別表現となるのはなぜなのか、差別が成立する意識構造の存在を問題にする、ということなのです。

 

そして、このことを考える上で重要となる視座は、@han_org さんがおっしゃったように、中国人・イラン人の被疑者を見下しの対象として「他者」化している、我々の無自覚な差別性そのものだと思うのです。

 

このことは、私が最初の「質問」で以下のように書いたことそのものです。

長いですが、再掲します。

 

>「メイヨー」とか 「アッラー」が面白いのは、そうした言葉や態度が「他者」の発する、理解できないものであり、奇妙で滑稽なものに映るからです。そして、それを取り上げて、モノマネして、笑えるエピソードとして紹介して、聴衆が笑う。先生のご発言が学生の笑いをもって受け入れられたのは、こうした意識構造があってこそではないでしょうか。

 

私は今、このような差別的意識構造を指摘することなしに、仮に当該発言が撤回されたとしても、意味がないと考えています。ロースクール生の多くは経済的にも社会的にも恵まれた立場にいますが、そのことは、自らが差別「される」側ではなく、「する」側に立っている(もしくは、そのような立場と親和性が非常に高い)ということに無自覚となる危険を孕んでいることを私は今回の件を通して訴えたいのです。

 

長くなりましたが以上です。


この件につき、どなたでも、ご意見があればこちらのブログのコメント欄でも、あるいはtwitter上の私のアカウント(@yataragenki)にでもいただければうれしく思います。



 

 

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