2018年8月12日に刊行されたタナカカオリ編『前衛都市を知りたい子供たち Vol.4』(孤独な惑星社刊、名古屋・栄の特殊書店BiblioManiaの通販で購入できます。)に、私の書いた「アーバンギャルド☆クロニクル」の解説篇と資料篇が載っていますが、今日は購入を検討している方のために、一部を抜粋して公開することにします。
『前衛都市を知りたい子供たち Vol.4』では、編集者の方針で2010年と2017年のアーバンギャルドの作品と活動を扱っています。私の「アーバンギャルド☆クロニクル」は、アーバンギャルドの作品、ソロ活動や他のアーティストへの参加・楽曲提供を含む、を網羅するかたちで行っています。
『前衛都市を知りたい子供たち』は、年1回の発行で、既に4年目です。
毎回、前年度のアーバンギャルドの作品の総括と、過去の回顧を行っています。
『前衛都市を知りたい子供たち Vol.4』(2018年夏刊行)は、2010年度と2017年度。
『前衛都市を知りたい子供たち Vol.3』(2017年夏刊行)は、2011年度と2016年度。
『前衛都市を知りたい子供たち Vol.2』(2016年夏刊行)は、2012年度と2015年度。
『前衛都市を知りたい子供たち Vol.1』(2015年夏刊行)は、2013年度と2014年度。
※バックナンバーも、BiblioManiaで購入できます。
『前衛都市を知りたい子供たち Vol.4』が順調に売れると、次回『前衛都市を知りたい子供たち Vol.5』を刊行することが出来ます。そして、私の「アーバンギャルド☆クロニクル」は、全5回連載完結予定なので、2018年度とともに、2009年度以前(アーバンギャルド結成当時や、前身となる劇団308同盟、さらにその前身の九段高校演劇部まで遡行します)を取り扱うことが出来ます。
『アーバンギャルド☆クロニクル【解説篇】・2010/2017』
2010年
◆CDアルバム 浜崎容子『Film noir』(ZETO-004/前衛都市)2010年4月25日リリース
フィルム・ノワールは、虚無的な暗い色調の犯罪映画を指す。思いつくままに挙げると『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『三つ数えろ』『現金に体を張れ』といった映画である。(ちなみに、本作では「思春の森」以外の歌詞は、すべてアーバンギャルドのリーダー、松永天馬が手掛けている。2017年に発表された松永天馬のソロ・アルバム『松永天馬』収録の「天馬のかぞえうた」では、ハワード・ホークス監督作品・ハンフリー・ボガード主演『三つ数えろ』が歌詞に組み込まれており、『三つ数えろ』等のフィルム・ノワールが彼のダンディズムに刻印を残していることを伺わせる。)浜崎容子のファースト・ソロ・アルバムは、彼女の専門領域であるシャンソンを、テクノ・ポップの電子音で再現するとともに、映像喚起力の大きい歌詞と歌唱で、漆黒の宇宙を表現することに主眼がおかれていた。漆黒の宇宙とは何か。端的に言えば、ゴシックの美学の世界、反宇宙的二元論の世界である。ゴス(ゴシック)の世界では、光と闇の相克と闘争が行われ、その戦いの中から脱自的に魂が超出する。浜崎容子の『Film noir』から、そうした超越を希求する聖なるエコーを聴き取るのは容易い。
『Film noir』の冒頭の曲は、「樹海の国のアリス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)である。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に出てくるアリス(及び、そのモデル人物であるアリス・リデル)は、松永天馬が好んで使う物語中の主人公であり、「少女」の表象である。タイトルに「樹海」を入れることで、アリス(聴き手は、感情移入によって、自身をアリスにアンデンティファイするだろう。)が、死と隣り合わせであることを指し示している。「樹海」から連想するものは「自殺」である。松本清張の小説のタイトル『黒い樹海』ではないが、「樹海」は漆黒の闇を連想させる。歌詞の中に出てくる『絵のない絵本』は、アンデルセンの童話集である。冒頭に出てくる「不思議の国」の戦争は、「女の子戦争」を指すと考えて良いだろう。「女の子」は、大人の恋に憧れて、少し背伸びして恋愛に落ちる。その際に「まぼろし」の向こうの過酷なリアルに晒される。それが、「不思議の国」の戦争である。「少女」は、恋愛によって傷つくが、それは大人になるための通過儀礼でもある。「少女」は、幾たびかの精神の危機を通過しながら、成長を遂げていく。
「暗くなるまで待って」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)は、テレンス・ヤング監督作品・オードリー・ヘプバーン主演のサスペンス映画から、タイトルが取られている。冒頭にある「ティファニー」も、オードリー・ヘプバーン主演で、トルーマン・カポーティ原作の映画「ティファニーで朝食を」を連想させる。作中、フェデリコ・フェリーニ(代表作「道」「甘い生活」「8 1/2」)とジャン=リュック・ゴダール(代表作「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」「中国女」)の名前が見られる。ビデオとゴダールの親和性、フェリーニとゴダールが眠くなる(ゴダールに至っては「ゴダール・タイム」という言葉さえある)など、シネフィルを頷かせるような歌詞が続く。歌詞の前半で「ピストル」、後半で「オペラ」があるのは、どことなく鈴木清順の「ピストルオペラ」を連想させるための仕掛けだろう。結局、「暗くなるまで」とは、映画館の闇であり、精神の闇であり、真夜中の恋愛の事だろう。
「印象派」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。印象派は、19世紀後半にフランスを中心広まった芸術思潮である。クロード・モネの絵画「印象・日の出」に由来する。当初、ルイ・ルロワらの批評家からは悪評をもって迎えられた。印象派絵画の特徴は、視覚を重視し、眼に映るままに光の移ろいを描くことにある。印象派では、写実主義のように事物の形態を明確に描く事から離れ、事物の輪郭が曖昧となることが多い。代表的な画家は、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、エドガー・ドガ、エドゥアール・マネらがいる。後期になると、点描法を用いたジョルジュ・スーラのような画家が現れる。点描法は、スーラ独自のもので、後期印象派或いは新印象派に共有されたものではないが、印象派の本質を踏まえた技法といえる。微細な点でもって色彩を表現する点描法は、写真の原理そのものである。
2018年に名古屋市美術館等で開催された「モネ それからの100年」展では、クロード・モネから始まった印象派の影響下で、その後の20世紀のアヴァンギャルド絵画(フォービズム[野獣派]、キュビズム[立体派]、シュルレアリスム[超現実主義]、アンフォルメル[非定型]、アクション・ペインティング、ポップアート等)が始まった事を明らかにしていた。
印象派と映画の繋がりといえば、画家のピエール=オーギュスト・ルノワールの次男が、「ビクニック」「大いなる幻影」「黄金の馬車」で知られる映画監督のジャン・ルノワールであることが思い浮かぶ。父親譲りの色彩感覚を映画に持ち込んだジャン・ルノワールは、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーらのヌーヴェル・ヴァーグ、ロベルト・ロッセリーニやルキノ・ヴィスコンティらのネオレアリズモに影響を与えた。いわば、クロード・モネの「印象・日の出」から、20世紀のアヴァンギャルド美術が始まったように、ジャン・ルノワールの映画から、20世紀のアヴァンギャルド映画が始まったのである。
印象派と映画の共通点は、眼の快楽にあり、表層での戯れだけが問題になる。表層の背後にあるものはない、或いは、あっても表層に現れないのだから、ないのと同然で無視してよい。その事をおさえた上で、浜崎容子の「印象派」を聴いてみよう。「赤」の「主義」は、コミュニスムのことであり、「黒」の「主義」は、ファシズムのことと思われる。前半に「導火線」、後半に「ピエロ」があると、ゴダールの「気狂いピエロ」の、青いペンキと黄色いダイナマイト、更に赤いダイナマイトを顔につけたフェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)を連想させるが、関係がないかも知れない。後半の「子どもたち」から、SPANK HAPPY第2期の「Les enfants jouent a la russle/子供達はロシアで遊ぶ」(『Vendome,la sick Kaiseki』2003に収録)を連想するが、実際のところ、どうなのかは不明である。サビの部分で、「印象派なら」が続くが、視覚で捉えたことを言語化することを拒否するなど、これは「表層批評宣言」(蓮實重彦)ではないかとも思う。作詞の際に、ゴダールとSPANK HAPPYの事を考えながら書いていたというのはあてずっぽうだが(様々な誤読をしながら、妄想と戯れるのも、アーバンギャルドを聴く愉しみのひとつなので、記録として残しておく)、「エクリチュール・アバンチュール・シュール」の作詞者ならば、ここで「表層批評宣言」するのも十分あり得る可能性だと思う。
「ブルークリスマス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。「パン」と「ワイン」は最後の晩餐を、「十字架」と「いばらの冠」は、イエス・キリストが十字架に架けられる際に、ローマの兵隊がいばらの冠を被せたエピソードを指している。『新約聖書』に由来する言葉を散りばめながら、「ブルークリスマス」は、大人への階段を登る「少女」の「恋」を歌う。なにゆえに、『聖書』か。それは聖なるもの、「少女」の処女性の象徴的表現のためである。「血が赤くない」とは、この「恋」がまだ熟していない、青い「恋」だということを指している。「赤」は、情熱の「赤」である。「ブルークリスマス」は、同じ歌を歌ったり、同じレコードを聴くことから、「恋」が始まるとされる。ともにアーバンギャルドの歌を歌ったり、ともにアーバンギャルドの歌を聴いたならば、すでに恋人たちの不可視の共同体は出来ているというべきである。
「フィルムノワール」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。歌詞に出てくる「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は、原作ジェームズ・M・ケインで、4回映画化されている。ピェール・シュナール監督作品(1939)、ルキノ・ヴィスコンティ監督作品(1942、マッシモ・ジロッティ主演)、テイ・ガーネット監督作品(1946、ジョン・ガーフィールド、ラナ・ターナー主演)、ボブ・ラフェルソン監督作品(1981、ジャック・ニコルソン、ジェシカ・ラング主演)。これは直感だが、この曲の題材となったのは、ルキノ・ヴィスコンティ監督作品のような気がする(他の作品に出てくる映画の傾向からの推定)。映画を題材にした曲づくりは、ムーンライダースの『カメラ=万年筆』などの音楽作品の影響が考えられる。『夜の言葉』は、『ゲド戦記』『闇の左手』で知られるアーシュラ・K・ル=グウィンの評論・エッセイ集のタイトルでもある。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のような犯罪映画、映画館の闇は、何をもたらすのか。それは、陰影から出来たレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインの絵画世界のように、人間の精神を浮き彫りにするだろう。その結果として、昼間には見えなかった魂の真の姿が顕在化する。闇の中に、火をともす行為は、隠された魂を見極めようとする行為に他ならない。
「思春の森」(作詞・作曲・編曲:浜崎容子)。タイトルは、ピエル・ジュゼッペ・ムルジア監督による1976~1977年のオーストリアで撮影された思春期の性をテーマにしたイタリア映画『思春の森』に由来する。しかしながら、日本では、1999年に制定された「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」(2014年の法改正により「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」と改称)により、この映画は児童ポルノに分類されてしまう。また、出演者であった女優エヴァ・イオネスコは、2012年に子供の頃のヌード撮影や出版を巡って、母親の写真家イリナ・イオネスコを提訴するとともに、2014年に子供時代の苦痛に満ちた体験を基にした自伝的映画『ヴィオレッタ』を制作しているというエピソードもある。「思春の森」は、こうした今では見る事の出来ない幻のカルト・ムービーを題材に、登場人物に自己を投影し、思春期の子供と大人の境界線のせめぎ合いを曲にしているといえる。境界線上のぴんと張り詰めた緊張感と、一瞬にして壊れそうな思春期特有の純粋さの表現が、この曲の美点であり、個人的にはいやらしさは微塵も感じない。
◆CDシングル『傷だらけのマリア』(初回限定盤ZETO-005/前衛都市)2010年7月9日リリース
CDシングル『傷だらけのマリア』には、初回限定盤と通常盤があり、初回限定盤のジャケットは、マリア様が血の涙を流しており、通常盤のジャケットは右上に虹が出ているという違いがある。初回限定盤はCDとDVDの2枚組であり、CDに「セーラー服を脱がないで RAVEMAN(Aural Vampire)remix」が収録されている。一方、通常盤はCDのみであり、「女の子戦争 YOKOTAN remix」と「傷だらけのマリア(KARAOKE)」が収録されている。
表題作の「傷だらけのマリア」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)は、多感で、自傷癖があったり、大人と子供の境界線上で、霊肉のバランスに悩んだりする事があり、保健室を逃げ場所にしているような15歳の少女に、血の涙を流すこともある傷だらけのマリアのイメージが重ね合わさり、思春期という季節だけに特権的な聖なる領域を描き出す。少女の内で、普通だから普通になりたくない、個性がないから、個性的なことをしてみたい、傷つきたくないから、傷つきたくないなど、相矛盾する願望が交錯しては、少女を傷つける。その矛盾が止揚される時、人は多感な季節の終わりを感じ、大人への一歩を進めるのかも知れない。トートロジー(同語反復)・アナロジー(類比)・タナトロジー(死についての学)・コスモロジー(宇宙観)・サイコロジー(心理学)・トポロジー(位相幾何学)と、韻を踏みながら軽妙に、思春期に起きる精神の危機を通して、人間の心と身体の謎に迫っていく。
「あした地震がおこったら」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。東日本大震災は、2011年(平成23年)3月11日なので、この曲はその1年前に制作された予言的な曲ということができる。後の「大破壊交響楽」に繋がる主題といえる。アーバンギャルドには、「不在の少女」等、この世界で自明とされているものが、実は幻想であり、シミュラクラであるという主題がある。アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックには『シミュラクラ』というタイトルの小説がある他、その他『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』など「人間そっくりのまがいもの」が出てくる小説が多い。また、フランスの哲学者・思想家・社会学者であるジャン・ボードリヤールに、『シミュラークルと シミュレーション』という著作がある。ボードリヤールにおいては、それまでの社会学が、物の生産に主軸がおかれていたのに対し、現代では記号の消費に主軸が移ったとし、次々と記号が消費されていくシミュラークルを描いている。「あした地震がおこったら」も、都市に地震が起こることによって、東京も街も虚構であり、記号に過ぎなかったことが露呈する話とかっている。このような崩壊の物語を、美しく音楽で表現するのが、アーバンギャルドの美点のひとつである。このような幻想の解体の主題は、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』の複製とアウラを巡る考察から、松永天馬が着想を得たことから始まっているのだろうが、その背景には更に、潜在意識に刷り込まれた日本人の諸行無常の感覚があると直観する。
「ファミリーソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。アーバンギャルドの「ソング」シリーズは、作詞者である松永天馬の思考実験の記録であり、思考の骨組みをスケルトンのように明らかにする。「ファミリーソング」も同様で、「リカちゃん」に材を取りながら、シミュラークルとしての家族について考察している。「リカちゃん」は、人形のままで、少女のままだとされ、人間になれないとされる。この歌は、玩具の人形について歌っているようにかのように見えて、実は周りにどうあるべきかを規定され、他律的にしか生きることができないロボット的な人間と、そういうロボット的なキャラクターの集合で成り立っているどこかよそよそしい家庭を描いている。一見、カワイイ歌に見えて、実はシニカルに、現代人の虚飾に満ちた、感情の行き交わない空しい家族の人間関係を描いているのである。
初回限定盤には、オーラルヴァンパイアのレイブマンによる「セーラー服を脱がないで RAVEMAN(Aural Vampire)remix」(作詞・作曲:松永天馬)が収録されている。RAVEMAN(Aural Vampire)remixは、かなり大胆な解体構築をしていると思う。原曲と比較されたい。
また、初回限定盤にはDVDがついており、「傷だらけのマリア OFF AIR VERSION(無修正)」と「傷だらけのマリア ON AIR VERSION(修正済)」が収録されていた。
◆CDアルバム 『少女の証明』(ZETO-008/前衛都市)2010年10月8日リリース
『少女は二度死ぬ』(特装盤2009年)、『少女都市計画』(2009年)と並び、後に初期「少女三部作」と呼ばれる作品群の掉尾を飾るアルバムである。
「プリント・クラブ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。プリクラを題材にしながら、ゲーテの最後の言葉「もっと光を」を散りばめつつ、現代の「複製芸術時代」(ヴァルター・ベンヤミン)の恋と欲望の本質に迫る内容となっている。私たちの暮らす資本主義社会は、物の生産という点で豊かな社会を達成し得たが、この曲に出てくる少女は「ほしいものがほしい」と、すなわち今は「ほしいもの」がない社会だと言っている。その社会は、同時にすべてがプリントされた社会でもある。「108」は、仏教でいう煩悩の数。「ドッペンゲンガー」は、自分自身の幻影を見る幻覚の一種。芥川龍之介の晩年の作品『歯車』に「ドッペンゲンゲル」が出てきて、ドッペンゲンガーに遭うと自己の死が近いという迷信に気を病むエピソードが描かれる。「プリント・クラブ」は、終始「複製芸術」に囲まれた社会から外部に出ることのできないディストピアを描いている。それは、自分たちの累積していく欲望の世界を見るようである。果たして、「プリント・クラブ」と化した世界から、外部に出ることはできるのだろうか。
「傷だらけのマリア(proof mix)」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。シングルとして発売された「傷だらけのマリア」のヴァージョン違いが収録されている。出口のない「プリント・クラブ」から始まり、自分自身まで複製されている認識のもと、リストカットを匂わす「傷だらけのマリア」に入っていく『少女の証明』の前半部分は、問題提起編と捉えることができる。
「前髪ぱっつんオペラ」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。「スカート切り魔」が出没する社会とは「プリント・クラブ」で描かれた出口のないディストピアの事だろう。そういう意味では、主題系は引き継がれているといえるだろう。ここで導入される「前髪ぱっつん」とは何か。ここで霊感に基づく超絶的推理を展開すると、この前髪はジャン=リュック・ゴダール(フランス・スイスの映画作家。ヌーヴェル・ヴァーグから出発し、常に前衛的な映像表現の最前線に立つ。代表作『勝手にしやがれ』『中国女』)の『気狂いピエロ』でアンナ・カリーナが持っていた、カメラ目線で水平方向にチョキチョキやるハサミによって、カットされたのではないか。カット?そう、これは映画製作の際に監督が言う「カット」の一声であり、ウィリアム・S・バロウズ(アメリカの現代文学の作家。ビート・ジェネレーションから出発し、テクストを切り貼り(カット・アップ)したり、畳み込む(ホールド・イン)する前衛的手法を導入、さらには電子的革命に向かった。代表作『裸のランチ』『ソフト・マシーン』『爆発した切符』)の唱える「カット・アップ」の「カット」であり、ルイ・アルチュセール(フランスの構造主義的マルクス主義者。代表作『甦るマルクス』『資本論を読む』)の唱える「認識論的切断」の「切断」ではないだろうか。現代映画・現代文学・現代哲学のいずれもが「カット」「切断」をやっているのだから、ここでアーバンギャルドが「ぱっつん」をやっても不思議ではあるまい。大事なことは「ぱっつん」するのは、「前髪」だけでなく、すべてを「ぱっつん」することにある。すべてといったら、すべてだ。そこに人間関係や、意味のない因習や、旧態依然とした考え方や、くだらない社会システムとか、すべて入っている。そう、『少女の証明』は問題提起編から、打開策の検討に入っている。ただ、その打開策は、容易ではない。かつて「複製芸術時代」の病理に、適切かつ明瞭な処方箋を提示し得た思想家やアーティストがいただろうか。ほとんど皆無だ。ただ、この問題に一緒に悩んで、戦ってくれる、アーバンギャルドという同時代のアーティストがいる。それが、どれほど僥倖な事か。
「保健室で会った人なの」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。P-MODEL「美術館で会った人だろ」(作詞・作曲:平沢進)へのオマージュと考えられる楽曲である。「美術館で会った人だろ」の主人公が、美術館で会った人がその事実を他人に隠蔽している事に対して、美術館の放火に至るように(三島由紀夫の『金閣寺』を連想させる展開)、「保健室で会った人なの」にも社会の病理を思わせる事件が背景に描き込まれている。1から10までカウントしながら、歌詞が展開されるのも、実験的で面白い。(歌詞カードを見ないと、その面白みは気づかない。)「惨劇」が「3劇」、「午後」が「5後」、「ロックンロール」が「6ンロール」、「野蛮」が「8蛮」、「銃声」が「10声」という具合に。言葉遊びとしては、後半「ガーゼとベーゼ(接吻)」で、韻を踏むところもある。「ドクター・キリコ」は、手塚治虫の『ブラック・ジャック』の登場人物だが、1998年に起きた自殺幇助事件の犯人の使っていたハンドルネームである。ちなみに、この事件の被疑者は自殺し、被疑者死亡で書類送検されている。「保健室で会った人なの」の主人公は、放課後にテレフォンを使った犯罪まがいのアルバイトをしているようだ(テレフォンクラブ?援助交際?)。どうやら、この歌詞は、散りばめられた手がかりから、何が起きているか、探偵小説のように推理させようとする趣向のようだ。「赤い洗面器の男」まで出てくる。「赤い洗面器の男」は、三谷幸喜の脚本に出てくる小話で、「古畑任三郎」にも出てくるが、未だ解決されていない部分である。しかも、歌詞カードに書かれていない台詞まである。「血糖値」のあたりで「私のお月さん」がどうのこうのという声が聞こえる。結局のところ、「保健室で会った人なの」の主人公の語っている事は、どこまで本当の事を言っているかすら疑わしくなってくる。妊娠の危険性のある不安だけが真実で、「保健室で会った人なの」自体がカムフラージュのための嘘なのかも知れない。
「スナッフフィルム」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)。「保健室で会った人なの」に続き、犯罪を題材にした曲が続く。どうして、犯罪に着目するのか。その問いには、ドストエフスキーの事を考えよ、と答えるしかない。フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーは、最終的に究極的な救済に至るまでに、徹底して人間の悪を探求したのだ、と(『罪と罰』ではニヒリズムに基づく殺人を、『悪霊』ではテロリズムを描いている)。なぜ、そんなことが可能になるのか。それは、人間に対する根底的な信頼があって、初めてできる行為だと言っておこう。アーバンギャルドは、現代の病理を描く。それは、最終的に究極的な救済をもたらすためなのだ。そのために、徹底的に懐疑を展開し、苦悩しつくす。スナッフフィルム(Snuff film)は、実際の殺人を撮ったフィルムの事を指している。写真は、被写体を客体化=モノ化するが、その最極端がスナッフフィルムだろう。スナッフフィルムの被写体は、自分から主体的に動く対自存在(実存)であることを止め、完全なる対他存在、すなわち他人のまなざしによって見られるだけの疎外態になる。と、ジャン=ポール・サルトルの存在論(オントロジー)を使って記述してみたのだが、「スナッフフィルム」では、そうした完全なる客体化のもたらす被写体側の自己を喪う快楽が描かれている。これは、健全な社会の構築のためには存在してはならない快楽なのだが、事実としては存在する。そうでなければ、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』のような世界は説明できない。『O嬢の物語』の冒頭のジャン・ポーランの序文の言葉を使うとすると「奴隷状態の幸福」である。なぜ、自己喪失といえる状態を求めるかといえば、強権的な社会システムや、逃れる事の出来ない人間関係による無意識化への刷り込みがあったのかも知れない。人間の闇を知っているものは、人間の非合理性も無視することなく勘定に入れて、共生社会を考えていかないといけない。「スナッフフィルム」は救いのない楽曲だが(とはいえ、シャッター音を含む無機質で機械的な音の響きが、私には心地よい。この響きは、2018年に発表された『少女フィクション』に収録された「ビデオのように」に継承されているように思う。)、ぎりぎりの思考で見出されたという「エクトプラズム(ectoplasm)」が、この世界はマテリアルだけではないと言っているようである。(エクトプラズムは、心霊主義のジャンルで、心霊者などが身体の外に出した霊が半物質化したものとされるが、それらの心霊写真の多くは、今日ではフェイクとされ、写真技術の向上した現代では、エクトプラズムが映った写真と主張するケースも稀となってきている。)この曲の最後は、一輪の薔薇を捧げる事で結ばれる。傷跡のような真紅の薔薇の花言葉は、愛である。
「プロテストソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)は、山の手線における鉄道自殺を扱っている。五線譜になぞられる自殺死体、気持ちの「すれちがい」を象徴するかのようなイタロ・カルヴィーノの『むずかしい愛』、死と生を見つめるのにふさわしいヨハン・ゼバスティアン・バッハの「G線上のアリア」。「みんなで解けば」「簡単なこと」とある。だが、その想いは届くことなく、すれ違い、もう誰の声も届かない死体となる。そこが「むずかしい愛」だ。鉄道自殺のニュースに、自殺者の事を知らないにも関わらず、クリスチャンが君の事を悼んで祈る。この歌は絶望的だが、少しでも心を開いて、救いを求めていれば、君のことを助けようとした人がいたに違いないことを示している。
「あたま山荘事件」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:瀬々信・谷地村啓)は、1972年に長野県北佐久郡軽井沢町にあった河合楽器の保養所「浅間山荘」に連合赤軍が人質を取って立てこもったあさま山荘事件を題材にした曲である。小説集『自撮者たち 松永天馬作品集』に「実録・あたま山荘事件」が収録されていることからわかるように、直接的には若松孝二監督作品「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008年)が、この曲をつくる契機となったと思われる。「あさま山荘」が「あたま山荘」とされている事が、この事件に対する最大の皮肉である。唯物論を唱える革命戦士であったはずの連合赤軍が、誰よりもあたまでっかちの観念論であったこと、観念論であったがために、観念の外の現実を見ることが出来ず、「山岳ベース事件」で仲間を「総括」と称してリンチにかけて殺してしまったことに対する皮肉である。ある意味、笠井潔の『テロルの現象学』でやったのと同等のことを音楽でやったのが、「あたま山荘事件」だったといえるだろう。歌詞中に、カール・マルクスの名前が見出せるが、「丸くする」とのダブル・ミーニングにされている。
『マオ語録』は、『毛沢東語録』の事である。スカートの長さと景気の相関関係について、1926年にヘムライン指数( Hemline Index ) という指数を発表したのは、実際はアメリカのビジネススクール、ウォートンの経済学者ジョージ・テーラーであって、マルクスや毛沢東ではない。ジョージ・テーラーはスカートの丈が短くなると、マーケットは上げ相場に、スカートの丈が長くなると、マーケットは下げ相場になると主張した。論拠は、当時、シルクのストッキングが高価だったので、好況の時はストッキングを見せるために、スカートの丈を短くしたというのである。ジョージ・テーラーのスカート理論の根拠は、シルクの価値がそれほどでもない今日では失われている。
プロレタリアートは労働者階級。アウトサイダーは局外者。アウトサイダーアートは従来の芸術家の範疇には収まらない(アカデミックな芸術の教育や訓練を受けていない)が、芸術作品と認められるものを指す(社会から排除された者や精神病を抱えた者による作品、プリミティヴ・アート、民族芸術等)。クレムリンは、ロシア連邦の首都、モスクワ市にある旧ロシア帝国の宮殿で、ソビエト社会主義共和国連邦時代はソ連共産党の中枢が置かれていた。天安門事件(六四天安門事件)は、1989年6月4日、中国・北京市の天安門広場で、民主化を求める学生と市民のデモを、中国人民解放軍が武力制圧をし、多数の死傷者を出した事件を指す。『赤い戦車』は戸川純が所属したYAPOOSのアルバム『ダイヤルYを廻せ!』の収録曲。「赤飯派」は、松永天馬の小説「実録・あたま山荘事件」に「赤飯派は初潮に由来する。」とある。初潮を迎えると、赤飯でお祝いをするという習慣が日本にあり、この祝いの習慣に反撥するというシーンが、倉橋由美子の小説のどこかにあった記憶がある。端的に、社会自体を再生産して、現行の社会制度を維持するというイデオロギーがあって、妊娠-出産可能になった事で、早速、社会を存続させる社会的責任が負わされるという事なので、その重圧に対する反感が、表面に出る、或いは無意識下に矛盾として記憶されるという事は当然起こる。松永天馬が、社会的タームの中に、赤飯派という言葉を紛れ込ませ、革命運動を扱った歌に別の(パーソナルな、性的な)意味を付与する時、そこのコンフリクトを意識していることを意識して味読すべきである。バルチザンは、抵抗運動や革命戦争のための結社の軍事的構成員を指す。デマゴーグは、政治的扇動者のこと。鉄球は、あさま山荘事件で、警察がとったクレーン車のフック部分をケーブルで補強し、巨大な鉄球を括り付け、連蔵赤軍が立てこもる山荘の壁と屋根を破壊して突入する作戦を指している。「おうちゲバ」は、内ゲバのこと、おうちカフェと重ね合わせることで皮肉っている。「石をバンに」は『新約聖書』「マタイによる福音書」4-3~4を見よ。
3「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
ここで『新約聖書』が導入されるのは、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」が関係していると思う。荒野での悪魔からイエスへの問いかけは、まず第一が前述の「石がパンに」であり、第二が神殿の屋根の端に立たせて「神の子ならば、飛び降りたらどうか」というもの、第三はすべての国々と繁栄ぶりをみせて「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」、要するにパンと奇蹟と権威に関する問いかけであった。ドストエフスキーの(登場人物イワン・カラマーゾフが考えた)「大審問官」は、イエスはこれらの悪魔の誘惑をはねのけ、人間に自由を説いたが、自由な決断をする事は人間には重荷で、苦悩をもたらすので、地上の権力が大多数の人間の道を決めてやり、地上の権力を司る少数者だけが選択の自由の苦悩を負えばよいと主張する。これについて、埴谷雄高『ドストエフスキー』は、ドストエフスキーのいうバンと奇蹟と権威は、現代のソ連と重ねると「パンと電化と党」ではないかと考える。まとめよう。アーバンギャルドが、「あたま山荘事件」で『新約聖書』の「石をバンに」を持ち出したのは、あさま山荘事件の実行犯は、イエスが考えていたような人間の自由よりも、悪魔が唱えていたようなパンを重視するような人たちであったと、ドストエフスキーの文脈では「断定できる」という事なのである。なお、「おうちカフェ」や「おうちごはん」が出てくるのは、後の「くちびるデモクラシー」「コインロッカーベイビーズ」「インターネット葬」と比較すると面白い。「くちびるデモクラシー」「コインロッカーベイビーズ」「インターネット葬」では、現代人の意識が、液晶、スマホ、インターネットの世界に閉じ込められ、外の世界で起きていることに無関心であることが痛烈に批判され、「くちびるデモクラシー」では、結果として言論の統制(言葉を殺す事)や戦争になることが止められなくなるんだと言っている。これと同型で、「あたま山荘事件」では、当時の若者があたまの中の観念の世界に閉じ込められ、外の現実や自己の身体性が見えなくなっている点が批判されている。「あたま山荘事件」は、決して当時の左翼学生という特殊例の考察ではなく、同型の事象は起こりうるということなのである。「あたま山荘事件」は、アーバンギャルド史上、最もシリアスで、ヘヴィな主題の曲と言えるだろう。
「リセヱンヌ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:浜崎容子、ストリングスアレンジ:谷地村啓)。美しい曲である。後の「キスについて」を想わせるような。「ミッション-フィクション-クエスチョン」と韻を合わせ、心地よい語感を与える曲でもある。犯罪篇(「保健室で会った人なの」のテレクラ(援助交際)、「スナッフフィルム」の(快楽)殺人、「プロテストソング」の鉄道自殺、「あたま山荘事件」の左翼テロリズム)は一段落し、「リセヱンヌ」で青春群像劇に入ったと思いきや、この曲は17歳という危うい多感な時期を記述した曲でもあり、自分自身をギフト(贈り物)に変えために、時計を止め、髪を切る等の変身をする過程を描いた曲である。ア・プリオリa prioriはカントの批判哲学用語で先験的、サンデーはストロベリーサンデーなどアイスクリームの入ったデザート、「オリーブの林をぬけて」はアッバス・キアロスタミ監督の「友だちのうちはどこ?」「そして人生はつづく」に続くジグザグ道三部作の第三作め、「ノルウェイの森」はビートルズの曲「Norwegian Wood」にして、それを冠した村上春樹の5作目の小説『ノルウェイの森』およびそれを原作にした『青いパパイヤの香り』で知られるトラン・アン・ユン監督の映画、ア・ポステリオリa posterioriはカントの批判哲学用語で経験的、パッセはバレエ用語で片方の足の膝を曲げ、そのつま先を軸脚の膝あたりに位置させる(両脚で三角形が形作られる)姿勢(ルティレ)を造り出す動き、死海文書は1947年以降死海の北西のクムラン洞窟周辺で見つかった写本群を指し(聖書の成立過程を知る上で重要な聖書考古学上最大の発見と言われているが、それを書いたクムラン教団について、エッセネ派なのか、ユダヤ教分派なのか、サドカイ派なのか、原始キリスト教なのか(共観福音書の元となっているQ資料が死海文書に入っているのか否か)、エルサレムが書かれたものなのか、諸説ある。)、日本ではフィリップ・K・ディックの『ヴァリス』連作での言及や「新世紀エヴァンゲンオン」でゼーレが進める人類補完計画でのバックボーンとして「死海写本」や(実在しない)「裏死海写本」が登場したことから話題になった、ビルエットはバレエ用語でターンを指す。
「ダブルバインド」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)。ダブル・バインド(二重拘束)は、イギリス出身のアメリカの文化人類学者・精神医学研究者・イルカ研究者ジョン・C・リリーの造語で、逃れる事の出来ない人間関係の場で、あるメッセージが発せられ、同時にそれを否定するメタ・メッセージが発生される状況をダブル・バインドと呼び、こうした状況が反復される際に、それから逃れようとする心理が働き、妄想型・破瓜型・緊張型といったスキゾフレニー(統合失調症)を引き起こしやすい状態になるとされる。「ダブルバインド」は、<ママ-パパ-僕>から成る家族の三角形を描くところから始まる。精神分析を適用すれば、家族の三角形のなかで、僕はエディプス化される。すなわち、パパへは反撥を、ママには憧憬を抱く。途中、「君」が登場する事から、4人家族かも知れない。描写からは、ママの虚飾にみちた生活、パパの経済人と化した生活が伺える。「濡れたシーツは白く」「君のショーツは赤く」は、家庭内での性暴力を指しているようにみえるが、断定するには証拠不足だ。同様に「ちいさな火傷」は、子供への虐待を指しているようにも見えるがどうなのか。仮に、私の疑いが真実だとするならば、この家族は、スキゾフレニー(統合失調症)になりやすい金縛りのようなダブル・バインドの地獄だといえる。唐突に、「フランシーヌ」という固有名詞が登場する。これは仮定だが、新谷のり子に「フランシーヌの場合」という曲がある。この歌は反戦歌で、1969年3月30日、パリで、フランシーヌ・ルコントという30歳の女性がシンナーをかぶって焼身自殺を遂げたことで作られた曲だという。ベトナム戦争やナイジェリア内戦に心を痛め、ウ・タント国連事務総長に手紙を書いたりしていた女性だという。自殺した時、ビアフラの飢餓についての新聞記事を持っていたという。家族によると、精神科にかかっていた事もあったという。仮に「ダブルバインド」に出てくる「フランシーヌ」が、フランシーヌ・ルコントさんだった場合、彼女が関心を持っていた世界情勢自体、彼女をダブル・バインドのような閉塞感に陥らせ、心まで病ませるものだったといえる。ここに、遠い異国の出来事にも関わらず、主題的近さが現れる。「ダブルバインド」は、何度も、僕たちの言葉や祈りで、少しも世界が変わらないという。それが、68年のフランス五月革命の敗北と、共振を始める。また、実存的な反抗や変革が「構造」を変えることができなかった事とも、共振を始める。「ダブルバインド」は、想いを遂げる事の出来なかった者を結ぶシンパシーの歌だ。それらの無念を、神様だけは知っておいて欲しいと願う。「ダブルバインド」は、初期のアーバンギャルドの楽曲のなかで、一番ダイナミックな心理展開をする曲といえる。
「救生軍」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。問題提起的な「プリント・クラブ」「傷だらけのマリア」から始まり、ドストエフスキーの『罪と罰』を思わせる様々な犯罪の考察を含む地獄遍歴を経て、「リセヱンヌ」「ダブルバインド」で等身大の少女が抱える心の闇に肉薄した『少女の証明』は、「救生軍」で一気に解決篇に向かう。とはいえ、地獄遍歴で、この世界が抱える闇を直視した後の救済が一筋縄で済むはずはなく、救生軍、すなわち心の十字軍を希求する行為は、見返りの保証なしに、不在の神を覚悟しつつも祈るというシモーヌ・ヴェイユ的なものになっている。「この世の外へならどこへでも」という詩を書いたのは、シャルル・ボードレールだったが、「救生軍」はドラえもんの「どこでもドア」があれば、おそらくはこの世界だが、飛び出したいと言い、ドストエフスキーのドロンゲームに陥っているという。「ドロンゲーム」という事は、「プロとコントラ」(ラテン語で「肯定と否定」の意味。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にそういう章がある。)の間で引き裂りかけているという意味なのだろう。ドリエールは催眠鎮静剤のこと、『飛ぶ教室』はエーリッヒ・ケストナーによる児童文学、『同時代ゲーム』は大江健三郎の小説。救急車が「99車」と表記され、後半の「99パーセントと呼応しているようだ。この表記は、完成の100の一歩手前という事かも知れない。マリアージュは結婚、ストレイ・シープは迷える羊、セイレーンは、ギリシャ神話に登場する半身女性で半身が鳥という怪物、オフィーリアはシェイクスピアの『ハムレット』の登場人物、マジョリティは多数派を意味する。「救生軍」の特質として「マスゲーム」という言葉もみられ、集団行動の強さと一体化しようとしているように思われる。
以上は、『アーバンギャルド☆クロニクル【解説篇】・2010/2017』の一部です。全編は、『前衛都市を知りたい子供たち Vol.4』をお買い求めください。(私以外の人が、たくさんのイラストや原稿、そして、編集者のタナカさんが2年分のライブのセトリを載せていらっしゃいます。)