薔薇十字制作室:Ameba出張所

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2018年8月12日に刊行されたタナカカオリ編『前衛都市を知りたい子供たち Vol.4』(孤独な惑星社刊、名古屋・栄の特殊書店BiblioManiaの通販で購入できます。)に、私の書いた「アーバンギャルド☆クロニクル」の解説篇と資料篇が載っていますが、今日は購入を検討している方のために、一部を抜粋して公開することにします。

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『前衛都市を知りたい子供たち Vol.4』では、編集者の方針で2010年と2017年のアーバンギャルドの作品と活動を扱っています。私の「アーバンギャルド☆クロニクル」は、アーバンギャルドの作品、ソロ活動や他のアーティストへの参加・楽曲提供を含む、を網羅するかたちで行っています。

『前衛都市を知りたい子供たち』は、年1回の発行で、既に4年目です。

毎回、前年度のアーバンギャルドの作品の総括と、過去の回顧を行っています。

『前衛都市を知りたい子供たち Vol.4』(2018年夏刊行)は、2010年度と2017年度。

『前衛都市を知りたい子供たち Vol.3』(2017年夏刊行)は、2011年度と2016年度。

『前衛都市を知りたい子供たち Vol.2』(2016年夏刊行)は、2012年度と2015年度。

『前衛都市を知りたい子供たち Vol.1』(2015年夏刊行)は、2013年度と2014年度。

※バックナンバーも、BiblioManiaで購入できます。

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『前衛都市を知りたい子供たち Vol.4』が順調に売れると、次回『前衛都市を知りたい子供たち Vol.5』を刊行することが出来ます。そして、私の「アーバンギャルド☆クロニクル」は、全5回連載完結予定なので、2018年度とともに、2009年度以前(アーバンギャルド結成当時や、前身となる劇団308同盟、さらにその前身の九段高校演劇部まで遡行します)を取り扱うことが出来ます。

 

『アーバンギャルド☆クロニクル【解説篇】・20102017

 

2010年

◆CDアルバム 浜崎容子『Film noir』(ZETO-004/前衛都市)2010年4月25日リリース

フィルム・ノワールは、虚無的な暗い色調の犯罪映画を指す。思いつくままに挙げると『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『三つ数えろ』『現金に体を張れ』といった映画である。(ちなみに、本作では「思春の森」以外の歌詞は、すべてアーバンギャルドのリーダー、松永天馬が手掛けている。2017年に発表された松永天馬のソロ・アルバム『松永天馬』収録の「天馬のかぞえうた」では、ハワード・ホークス監督作品・ハンフリー・ボガード主演『三つ数えろ』が歌詞に組み込まれており、『三つ数えろ』等のフィルム・ノワールが彼のダンディズムに刻印を残していることを伺わせる。)浜崎容子のファースト・ソロ・アルバムは、彼女の専門領域であるシャンソンを、テクノ・ポップの電子音で再現するとともに、映像喚起力の大きい歌詞と歌唱で、漆黒の宇宙を表現することに主眼がおかれていた。漆黒の宇宙とは何か。端的に言えば、ゴシックの美学の世界、反宇宙的二元論の世界である。ゴス(ゴシック)の世界では、光と闇の相克と闘争が行われ、その戦いの中から脱自的に魂が超出する。浜崎容子の『Film noir』から、そうした超越を希求する聖なるエコーを聴き取るのは容易い。

『Film noir』の冒頭の曲は、「樹海の国のアリス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)である。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に出てくるアリス(及び、そのモデル人物であるアリス・リデル)は、松永天馬が好んで使う物語中の主人公であり、「少女」の表象である。タイトルに「樹海」を入れることで、アリス(聴き手は、感情移入によって、自身をアリスにアンデンティファイするだろう。)が、死と隣り合わせであることを指し示している。「樹海」から連想するものは「自殺」である。松本清張の小説のタイトル『黒い樹海』ではないが、「樹海」は漆黒の闇を連想させる。歌詞の中に出てくる『絵のない絵本』は、アンデルセンの童話集である。冒頭に出てくる「不思議の国」の戦争は、「女の子戦争」を指すと考えて良いだろう。「女の子」は、大人の恋に憧れて、少し背伸びして恋愛に落ちる。その際に「まぼろし」の向こうの過酷なリアルに晒される。それが、「不思議の国」の戦争である。「少女」は、恋愛によって傷つくが、それは大人になるための通過儀礼でもある。「少女」は、幾たびかの精神の危機を通過しながら、成長を遂げていく。

「暗くなるまで待って」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)は、テレンス・ヤング監督作品・オードリー・ヘプバーン主演のサスペンス映画から、タイトルが取られている。冒頭にある「ティファニー」も、オードリー・ヘプバーン主演で、トルーマン・カポーティ原作の映画「ティファニーで朝食を」を連想させる。作中、フェデリコ・フェリーニ(代表作「道」「甘い生活」「8 1/2」)とジャン=リュック・ゴダール(代表作「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」「中国女」)の名前が見られる。ビデオとゴダールの親和性、フェリーニとゴダールが眠くなる(ゴダールに至っては「ゴダール・タイム」という言葉さえある)など、シネフィルを頷かせるような歌詞が続く。歌詞の前半で「ピストル」、後半で「オペラ」があるのは、どことなく鈴木清順の「ピストルオペラ」を連想させるための仕掛けだろう。結局、「暗くなるまで」とは、映画館の闇であり、精神の闇であり、真夜中の恋愛の事だろう。

「印象派」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。印象派は、19世紀後半にフランスを中心広まった芸術思潮である。クロード・モネの絵画「印象・日の出」に由来する。当初、ルイ・ルロワらの批評家からは悪評をもって迎えられた。印象派絵画の特徴は、視覚を重視し、眼に映るままに光の移ろいを描くことにある。印象派では、写実主義のように事物の形態を明確に描く事から離れ、事物の輪郭が曖昧となることが多い。代表的な画家は、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、エドガー・ドガ、エドゥアール・マネらがいる。後期になると、点描法を用いたジョルジュ・スーラのような画家が現れる。点描法は、スーラ独自のもので、後期印象派或いは新印象派に共有されたものではないが、印象派の本質を踏まえた技法といえる。微細な点でもって色彩を表現する点描法は、写真の原理そのものである。

2018年に名古屋市美術館等で開催された「モネ それからの100年」展では、クロード・モネから始まった印象派の影響下で、その後の20世紀のアヴァンギャルド絵画(フォービズム[野獣派]、キュビズム[立体派]、シュルレアリスム[超現実主義]、アンフォルメル[非定型]、アクション・ペインティング、ポップアート等)が始まった事を明らかにしていた。

印象派と映画の繋がりといえば、画家のピエール=オーギュスト・ルノワールの次男が、「ビクニック」「大いなる幻影」「黄金の馬車」で知られる映画監督のジャン・ルノワールであることが思い浮かぶ。父親譲りの色彩感覚を映画に持ち込んだジャン・ルノワールは、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーらのヌーヴェル・ヴァーグ、ロベルト・ロッセリーニやルキノ・ヴィスコンティらのネオレアリズモに影響を与えた。いわば、クロード・モネの「印象・日の出」から、20世紀のアヴァンギャルド美術が始まったように、ジャン・ルノワールの映画から、20世紀のアヴァンギャルド映画が始まったのである。

印象派と映画の共通点は、眼の快楽にあり、表層での戯れだけが問題になる。表層の背後にあるものはない、或いは、あっても表層に現れないのだから、ないのと同然で無視してよい。その事をおさえた上で、浜崎容子の「印象派」を聴いてみよう。「赤」の「主義」は、コミュニスムのことであり、「黒」の「主義」は、ファシズムのことと思われる。前半に「導火線」、後半に「ピエロ」があると、ゴダールの「気狂いピエロ」の、青いペンキと黄色いダイナマイト、更に赤いダイナマイトを顔につけたフェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)を連想させるが、関係がないかも知れない。後半の「子どもたち」から、SPANK HAPPY第2期の「Les enfants jouent a la russle/子供達はロシアで遊ぶ」(『Vendome,la sick Kaiseki』2003に収録)を連想するが、実際のところ、どうなのかは不明である。サビの部分で、「印象派なら」が続くが、視覚で捉えたことを言語化することを拒否するなど、これは「表層批評宣言」(蓮實重彦)ではないかとも思う。作詞の際に、ゴダールとSPANK HAPPYの事を考えながら書いていたというのはあてずっぽうだが(様々な誤読をしながら、妄想と戯れるのも、アーバンギャルドを聴く愉しみのひとつなので、記録として残しておく)、「エクリチュール・アバンチュール・シュール」の作詞者ならば、ここで「表層批評宣言」するのも十分あり得る可能性だと思う。

「ブルークリスマス」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。「パン」と「ワイン」は最後の晩餐を、「十字架」と「いばらの冠」は、イエス・キリストが十字架に架けられる際に、ローマの兵隊がいばらの冠を被せたエピソードを指している。『新約聖書』に由来する言葉を散りばめながら、「ブルークリスマス」は、大人への階段を登る「少女」の「恋」を歌う。なにゆえに、『聖書』か。それは聖なるもの、「少女」の処女性の象徴的表現のためである。「血が赤くない」とは、この「恋」がまだ熟していない、青い「恋」だということを指している。「赤」は、情熱の「赤」である。「ブルークリスマス」は、同じ歌を歌ったり、同じレコードを聴くことから、「恋」が始まるとされる。ともにアーバンギャルドの歌を歌ったり、ともにアーバンギャルドの歌を聴いたならば、すでに恋人たちの不可視の共同体は出来ているというべきである。

 

「フィルムノワール」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。歌詞に出てくる「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は、原作ジェームズ・M・ケインで、4回映画化されている。ピェール・シュナール監督作品(1939)、ルキノ・ヴィスコンティ監督作品(1942、マッシモ・ジロッティ主演)、テイ・ガーネット監督作品(1946、ジョン・ガーフィールド、ラナ・ターナー主演)、ボブ・ラフェルソン監督作品(1981、ジャック・ニコルソン、ジェシカ・ラング主演)。これは直感だが、この曲の題材となったのは、ルキノ・ヴィスコンティ監督作品のような気がする(他の作品に出てくる映画の傾向からの推定)。映画を題材にした曲づくりは、ムーンライダースの『カメラ=万年筆』などの音楽作品の影響が考えられる。『夜の言葉』は、『ゲド戦記』『闇の左手』で知られるアーシュラ・K・ル=グウィンの評論・エッセイ集のタイトルでもある。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のような犯罪映画、映画館の闇は、何をもたらすのか。それは、陰影から出来たレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインの絵画世界のように、人間の精神を浮き彫りにするだろう。その結果として、昼間には見えなかった魂の真の姿が顕在化する。闇の中に、火をともす行為は、隠された魂を見極めようとする行為に他ならない。

「思春の森」(作詞・作曲・編曲:浜崎容子)。タイトルは、ピエル・ジュゼッペ・ムルジア監督による1976~1977年のオーストリアで撮影された思春期の性をテーマにしたイタリア映画『思春の森』に由来する。しかしながら、日本では、1999年に制定された「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」(2014年の法改正により「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」と改称)により、この映画は児童ポルノに分類されてしまう。また、出演者であった女優エヴァ・イオネスコは、2012年に子供の頃のヌード撮影や出版を巡って、母親の写真家イリナ・イオネスコを提訴するとともに、2014年に子供時代の苦痛に満ちた体験を基にした自伝的映画『ヴィオレッタ』を制作しているというエピソードもある。「思春の森」は、こうした今では見る事の出来ない幻のカルト・ムービーを題材に、登場人物に自己を投影し、思春期の子供と大人の境界線のせめぎ合いを曲にしているといえる。境界線上のぴんと張り詰めた緊張感と、一瞬にして壊れそうな思春期特有の純粋さの表現が、この曲の美点であり、個人的にはいやらしさは微塵も感じない。

 

CDシングル『傷だらけのマリア』初回限定盤ZETO-005/前衛都市)2010年7月9日リリース

CDシングル『傷だらけのマリア』には、初回限定盤通常盤があり、初回限定盤のジャケットは、マリア様が血の涙を流しており、通常盤のジャケットは右上に虹が出ているという違いがある。初回限定盤はCDとDVDの2枚組であり、CDに「セーラー服を脱がないで RAVEMAN(Aural Vampire)remix」が収録されている。一方、通常盤はCDのみであり、「女の子戦争 YOKOTAN remix」と「傷だらけのマリア(KARAOKE)」が収録されている。

表題作の「傷だらけのマリア」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)は、多感で、自傷癖があったり、大人と子供の境界線上で、霊肉のバランスに悩んだりする事があり、保健室を逃げ場所にしているような15歳の少女に、血の涙を流すこともある傷だらけのマリアのイメージが重ね合わさり、思春期という季節だけに特権的な聖なる領域を描き出す。少女の内で、普通だから普通になりたくない、個性がないから、個性的なことをしてみたい、傷つきたくないから、傷つきたくないなど、相矛盾する願望が交錯しては、少女を傷つける。その矛盾が止揚される時、人は多感な季節の終わりを感じ、大人への一歩を進めるのかも知れない。トートロジー(同語反復)・アナロジー(類比)・タナトロジー(死についての学)・コスモロジー(宇宙観)・サイコロジー(心理学)・トポロジー(位相幾何学)と、韻を踏みながら軽妙に、思春期に起きる精神の危機を通して、人間の心と身体の謎に迫っていく。

 

 

「あした地震がおこったら」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。東日本大震災は、2011年(平成23年)3月11日なので、この曲はその1年前に制作された予言的な曲ということができる。後の「大破壊交響楽」に繋がる主題といえる。アーバンギャルドには、「不在の少女」等、この世界で自明とされているものが、実は幻想であり、シミュラクラであるという主題がある。アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックには『シミュラクラ』というタイトルの小説がある他、その他『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』など「人間そっくりのまがいもの」が出てくる小説が多い。また、フランスの哲学者・思想家・社会学者であるジャン・ボードリヤールに、『シミュラークルと シミュレーション』という著作がある。ボードリヤールにおいては、それまでの社会学が、物の生産に主軸がおかれていたのに対し、現代では記号の消費に主軸が移ったとし、次々と記号が消費されていくシミュラークルを描いている。「あした地震がおこったら」も、都市に地震が起こることによって、東京も街も虚構であり、記号に過ぎなかったことが露呈する話とかっている。このような崩壊の物語を、美しく音楽で表現するのが、アーバンギャルドの美点のひとつである。このような幻想の解体の主題は、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』の複製とアウラを巡る考察から、松永天馬が着想を得たことから始まっているのだろうが、その背景には更に、潜在意識に刷り込まれた日本人の諸行無常の感覚があると直観する。

 

 

「ファミリーソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。アーバンギャルドの「ソング」シリーズは、作詞者である松永天馬の思考実験の記録であり、思考の骨組みをスケルトンのように明らかにする。「ファミリーソング」も同様で、「リカちゃん」に材を取りながら、シミュラークルとしての家族について考察している。「リカちゃん」は、人形のままで、少女のままだとされ、人間になれないとされる。この歌は、玩具の人形について歌っているようにかのように見えて、実は周りにどうあるべきかを規定され、他律的にしか生きることができないロボット的な人間と、そういうロボット的なキャラクターの集合で成り立っているどこかよそよそしい家庭を描いている。一見、カワイイ歌に見えて、実はシニカルに、現代人の虚飾に満ちた、感情の行き交わない空しい家族の人間関係を描いているのである。

初回限定盤には、オーラルヴァンパイアのレイブマンによる「セーラー服を脱がないで RAVEMAN(Aural Vampire)remix」(作詞・作曲:松永天馬)が収録されている。RAVEMAN(Aural Vampire)remixは、かなり大胆な解体構築をしていると思う。原曲と比較されたい。

また、初回限定盤にはDVDがついており、「傷だらけのマリア OFF AIR VERSION(無修正)」と「傷だらけのマリア ON AIR VERSION(修正済)」が収録されていた。

 

◆CDアルバム 『少女の証明』(ZETO-008/前衛都市)2010年10月8日リリース

『少女は二度死ぬ』(特装盤2009年)、『少女都市計画』(2009年)と並び、後に初期「少女三部作」と呼ばれる作品群の掉尾を飾るアルバムである。

「プリント・クラブ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。プリクラを題材にしながら、ゲーテの最後の言葉「もっと光を」を散りばめつつ、現代の「複製芸術時代」(ヴァルター・ベンヤミン)の恋と欲望の本質に迫る内容となっている。私たちの暮らす資本主義社会は、物の生産という点で豊かな社会を達成し得たが、この曲に出てくる少女は「ほしいものがほしい」と、すなわち今は「ほしいもの」がない社会だと言っている。その社会は、同時にすべてがプリントされた社会でもある。「108」は、仏教でいう煩悩の数。「ドッペンゲンガー」は、自分自身の幻影を見る幻覚の一種。芥川龍之介の晩年の作品『歯車』に「ドッペンゲンゲル」が出てきて、ドッペンゲンガーに遭うと自己の死が近いという迷信に気を病むエピソードが描かれる。「プリント・クラブ」は、終始「複製芸術」に囲まれた社会から外部に出ることのできないディストピアを描いている。それは、自分たちの累積していく欲望の世界を見るようである。果たして、「プリント・クラブ」と化した世界から、外部に出ることはできるのだろうか。

 

 

「傷だらけのマリア(proof mix)」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。シングルとして発売された「傷だらけのマリア」のヴァージョン違いが収録されている。出口のない「プリント・クラブ」から始まり、自分自身まで複製されている認識のもと、リストカットを匂わす「傷だらけのマリア」に入っていく『少女の証明』の前半部分は、問題提起編と捉えることができる。

「前髪ぱっつんオペラ」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:浜崎容子)。「スカート切り魔」が出没する社会とは「プリント・クラブ」で描かれた出口のないディストピアの事だろう。そういう意味では、主題系は引き継がれているといえるだろう。ここで導入される「前髪ぱっつん」とは何か。ここで霊感に基づく超絶的推理を展開すると、この前髪はジャン=リュック・ゴダール(フランス・スイスの映画作家。ヌーヴェル・ヴァーグから出発し、常に前衛的な映像表現の最前線に立つ。代表作『勝手にしやがれ』『中国女』)の『気狂いピエロ』でアンナ・カリーナが持っていた、カメラ目線で水平方向にチョキチョキやるハサミによって、カットされたのではないか。カット?そう、これは映画製作の際に監督が言う「カット」の一声であり、ウィリアム・S・バロウズ(アメリカの現代文学の作家。ビート・ジェネレーションから出発し、テクストを切り貼り(カット・アップ)したり、畳み込む(ホールド・イン)する前衛的手法を導入、さらには電子的革命に向かった。代表作『裸のランチ』『ソフト・マシーン』『爆発した切符』)の唱える「カット・アップ」の「カット」であり、ルイ・アルチュセール(フランスの構造主義的マルクス主義者。代表作『甦るマルクス』『資本論を読む』)の唱える「認識論的切断」の「切断」ではないだろうか。現代映画・現代文学・現代哲学のいずれもが「カット」「切断」をやっているのだから、ここでアーバンギャルドが「ぱっつん」をやっても不思議ではあるまい。大事なことは「ぱっつん」するのは、「前髪」だけでなく、すべてを「ぱっつん」することにある。すべてといったら、すべてだ。そこに人間関係や、意味のない因習や、旧態依然とした考え方や、くだらない社会システムとか、すべて入っている。そう、『少女の証明』は問題提起編から、打開策の検討に入っている。ただ、その打開策は、容易ではない。かつて「複製芸術時代」の病理に、適切かつ明瞭な処方箋を提示し得た思想家やアーティストがいただろうか。ほとんど皆無だ。ただ、この問題に一緒に悩んで、戦ってくれる、アーバンギャルドという同時代のアーティストがいる。それが、どれほど僥倖な事か。

保健室で会った人なの」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。P-MODEL「美術館で会った人だろ」(作詞・作曲:平沢進)へのオマージュと考えられる楽曲である。「美術館で会った人だろ」の主人公が、美術館で会った人がその事実を他人に隠蔽している事に対して、美術館の放火に至るように(三島由紀夫の『金閣寺』を連想させる展開)、「保健室で会った人なの」にも社会の病理を思わせる事件が背景に描き込まれている。1から10までカウントしながら、歌詞が展開されるのも、実験的で面白い。(歌詞カードを見ないと、その面白みは気づかない。)「惨劇」が「3劇」、「午後」が「5後」、「ロックンロール」が「6ンロール」、「野蛮」が「8蛮」、「銃声」が「10声」という具合に。言葉遊びとしては、後半「ガーゼとベーゼ(接吻)」で、韻を踏むところもある。「ドクター・キリコ」は、手塚治虫の『ブラック・ジャック』の登場人物だが、1998年に起きた自殺幇助事件の犯人の使っていたハンドルネームである。ちなみに、この事件の被疑者は自殺し、被疑者死亡で書類送検されている。「保健室で会った人なの」の主人公は、放課後にテレフォンを使った犯罪まがいのアルバイトをしているようだ(テレフォンクラブ?援助交際?)。どうやら、この歌詞は、散りばめられた手がかりから、何が起きているか、探偵小説のように推理させようとする趣向のようだ。「赤い洗面器の男」まで出てくる。「赤い洗面器の男」は、三谷幸喜の脚本に出てくる小話で、「古畑任三郎」にも出てくるが、未だ解決されていない部分である。しかも、歌詞カードに書かれていない台詞まである。「血糖値」のあたりで「私のお月さん」がどうのこうのという声が聞こえる。結局のところ、「保健室で会った人なの」の主人公の語っている事は、どこまで本当の事を言っているかすら疑わしくなってくる。妊娠の危険性のある不安だけが真実で、「保健室で会った人なの」自体がカムフラージュのための嘘なのかも知れない。

「スナッフフィルム」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)。「保健室で会った人なの」に続き、犯罪を題材にした曲が続く。どうして、犯罪に着目するのか。その問いには、ドストエフスキーの事を考えよ、と答えるしかない。フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーは、最終的に究極的な救済に至るまでに、徹底して人間の悪を探求したのだ、と(『罪と罰』ではニヒリズムに基づく殺人を、『悪霊』ではテロリズムを描いている)。なぜ、そんなことが可能になるのか。それは、人間に対する根底的な信頼があって、初めてできる行為だと言っておこう。アーバンギャルドは、現代の病理を描く。それは、最終的に究極的な救済をもたらすためなのだ。そのために、徹底的に懐疑を展開し、苦悩しつくす。スナッフフィルム(Snuff film)は、実際の殺人を撮ったフィルムの事を指している。写真は、被写体を客体化=モノ化するが、その最極端がスナッフフィルムだろう。スナッフフィルムの被写体は、自分から主体的に動く対自存在(実存)であることを止め、完全なる対他存在、すなわち他人のまなざしによって見られるだけの疎外態になる。と、ジャン=ポール・サルトルの存在論(オントロジー)を使って記述してみたのだが、「スナッフフィルム」では、そうした完全なる客体化のもたらす被写体側の自己を喪う快楽が描かれている。これは、健全な社会の構築のためには存在してはならない快楽なのだが、事実としては存在する。そうでなければ、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』のような世界は説明できない。『O嬢の物語』の冒頭のジャン・ポーランの序文の言葉を使うとすると「奴隷状態の幸福」である。なぜ、自己喪失といえる状態を求めるかといえば、強権的な社会システムや、逃れる事の出来ない人間関係による無意識化への刷り込みがあったのかも知れない。人間の闇を知っているものは、人間の非合理性も無視することなく勘定に入れて、共生社会を考えていかないといけない。「スナッフフィルム」は救いのない楽曲だが(とはいえ、シャッター音を含む無機質で機械的な音の響きが、私には心地よい。この響きは、2018年に発表された『少女フィクション』に収録された「ビデオのように」に継承されているように思う。)、ぎりぎりの思考で見出されたという「エクトプラズム(ectoplasm)」が、この世界はマテリアルだけではないと言っているようである。(エクトプラズムは、心霊主義のジャンルで、心霊者などが身体の外に出した霊が半物質化したものとされるが、それらの心霊写真の多くは、今日ではフェイクとされ、写真技術の向上した現代では、エクトプラズムが映った写真と主張するケースも稀となってきている。)この曲の最後は、一輪の薔薇を捧げる事で結ばれる。傷跡のような真紅の薔薇の花言葉は、愛である。

「プロテストソング」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)は、山の手線における鉄道自殺を扱っている。五線譜になぞられる自殺死体、気持ちの「すれちがい」を象徴するかのようなイタロ・カルヴィーノの『むずかしい愛』、死と生を見つめるのにふさわしいヨハン・ゼバスティアン・バッハの「G線上のアリア」。「みんなで解けば」「簡単なこと」とある。だが、その想いは届くことなく、すれ違い、もう誰の声も届かない死体となる。そこが「むずかしい愛」だ。鉄道自殺のニュースに、自殺者の事を知らないにも関わらず、クリスチャンが君の事を悼んで祈る。この歌は絶望的だが、少しでも心を開いて、救いを求めていれば、君のことを助けようとした人がいたに違いないことを示している。

「あたま山荘事件」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:瀬々信・谷地村啓)は、1972年に長野県北佐久郡軽井沢町にあった河合楽器の保養所「浅間山荘」に連合赤軍が人質を取って立てこもったあさま山荘事件を題材にした曲である。小説集『自撮者たち 松永天馬作品集』に「実録・あたま山荘事件」が収録されていることからわかるように、直接的には若松孝二監督作品「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2008年)が、この曲をつくる契機となったと思われる。「あさま山荘」が「あたま山荘」とされている事が、この事件に対する最大の皮肉である。唯物論を唱える革命戦士であったはずの連合赤軍が、誰よりもあたまでっかちの観念論であったこと、観念論であったがために、観念の外の現実を見ることが出来ず、「山岳ベース事件」で仲間を「総括」と称してリンチにかけて殺してしまったことに対する皮肉である。ある意味、笠井潔の『テロルの現象学』でやったのと同等のことを音楽でやったのが、「あたま山荘事件」だったといえるだろう。歌詞中に、カール・マルクスの名前が見出せるが、「丸くする」とのダブル・ミーニングにされている。

『マオ語録』は、『毛沢東語録』の事である。スカートの長さと景気の相関関係について、1926年にヘムライン指数( Hemline Index ) という指数を発表したのは、実際はアメリカのビジネススクール、ウォートンの経済学者ジョージ・テーラーであって、マルクスや毛沢東ではない。ジョージ・テーラーはスカートの丈が短くなると、マーケットは上げ相場に、スカートの丈が長くなると、マーケットは下げ相場になると主張した。論拠は、当時、シルクのストッキングが高価だったので、好況の時はストッキングを見せるために、スカートの丈を短くしたというのである。ジョージ・テーラーのスカート理論の根拠は、シルクの価値がそれほどでもない今日では失われている。

プロレタリアートは労働者階級。アウトサイダーは局外者。アウトサイダーアートは従来の芸術家の範疇には収まらない(アカデミックな芸術の教育や訓練を受けていない)が、芸術作品と認められるものを指す(社会から排除された者や精神病を抱えた者による作品、プリミティヴ・アート、民族芸術等)。クレムリンは、ロシア連邦の首都、モスクワ市にある旧ロシア帝国の宮殿で、ソビエト社会主義共和国連邦時代はソ連共産党の中枢が置かれていた。天安門事件(六四天安門事件)は、1989年6月4日、中国・北京市の天安門広場で、民主化を求める学生と市民のデモを、中国人民解放軍が武力制圧をし、多数の死傷者を出した事件を指す。『赤い戦車』は戸川純が所属したYAPOOSのアルバム『ダイヤルYを廻せ!』の収録曲。「赤飯派」は、松永天馬の小説「実録・あたま山荘事件」に「赤飯派は初潮に由来する。」とある。初潮を迎えると、赤飯でお祝いをするという習慣が日本にあり、この祝いの習慣に反撥するというシーンが、倉橋由美子の小説のどこかにあった記憶がある。端的に、社会自体を再生産して、現行の社会制度を維持するというイデオロギーがあって、妊娠-出産可能になった事で、早速、社会を存続させる社会的責任が負わされるという事なので、その重圧に対する反感が、表面に出る、或いは無意識下に矛盾として記憶されるという事は当然起こる。松永天馬が、社会的タームの中に、赤飯派という言葉を紛れ込ませ、革命運動を扱った歌に別の(パーソナルな、性的な)意味を付与する時、そこのコンフリクトを意識していることを意識して味読すべきである。バルチザンは、抵抗運動や革命戦争のための結社の軍事的構成員を指す。デマゴーグは、政治的扇動者のこと。鉄球は、あさま山荘事件で、警察がとったクレーン車のフック部分をケーブルで補強し、巨大な鉄球を括り付け、連蔵赤軍が立てこもる山荘の壁と屋根を破壊して突入する作戦を指している。「おうちゲバ」は、内ゲバのこと、おうちカフェと重ね合わせることで皮肉っている。「石をバンに」は『新約聖書』「マタイによる福音書」4-3~4を見よ。

3「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

ここで『新約聖書』が導入されるのは、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」が関係していると思う。荒野での悪魔からイエスへの問いかけは、まず第一が前述の「石がパンに」であり、第二が神殿の屋根の端に立たせて「神の子ならば、飛び降りたらどうか」というもの、第三はすべての国々と繁栄ぶりをみせて「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」、要するにパンと奇蹟と権威に関する問いかけであった。ドストエフスキーの(登場人物イワン・カラマーゾフが考えた)「大審問官」は、イエスはこれらの悪魔の誘惑をはねのけ、人間に自由を説いたが、自由な決断をする事は人間には重荷で、苦悩をもたらすので、地上の権力が大多数の人間の道を決めてやり、地上の権力を司る少数者だけが選択の自由の苦悩を負えばよいと主張する。これについて、埴谷雄高『ドストエフスキー』は、ドストエフスキーのいうバンと奇蹟と権威は、現代のソ連と重ねると「パンと電化と党」ではないかと考える。まとめよう。アーバンギャルドが、「あたま山荘事件」で『新約聖書』の「石をバンに」を持ち出したのは、あさま山荘事件の実行犯は、イエスが考えていたような人間の自由よりも、悪魔が唱えていたようなパンを重視するような人たちであったと、ドストエフスキーの文脈では「断定できる」という事なのである。なお、「おうちカフェ」や「おうちごはん」が出てくるのは、後の「くちびるデモクラシー」「コインロッカーベイビーズ」「インターネット葬」と比較すると面白い。「くちびるデモクラシー」「コインロッカーベイビーズ」「インターネット葬」では、現代人の意識が、液晶、スマホ、インターネットの世界に閉じ込められ、外の世界で起きていることに無関心であることが痛烈に批判され、「くちびるデモクラシー」では、結果として言論の統制(言葉を殺す事)や戦争になることが止められなくなるんだと言っている。これと同型で、「あたま山荘事件」では、当時の若者があたまの中の観念の世界に閉じ込められ、外の現実や自己の身体性が見えなくなっている点が批判されている。「あたま山荘事件」は、決して当時の左翼学生という特殊例の考察ではなく、同型の事象は起こりうるということなのである。「あたま山荘事件」は、アーバンギャルド史上、最もシリアスで、ヘヴィな主題の曲と言えるだろう。

リセヱンヌ」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:浜崎容子、ストリングスアレンジ:谷地村啓)。美しい曲である。後の「キスについて」を想わせるような。「ミッション-フィクション-クエスチョン」と韻を合わせ、心地よい語感を与える曲でもある。犯罪篇(「保健室で会った人なの」のテレクラ援助交際)、「スナッフフィルム」の(快楽)殺人、「プロテストソング」の鉄道自殺、「あたま山荘事件」の左翼テロリズム)は一段落し、「リセヱンヌ」で青春群像劇に入ったと思いきや、この曲は17歳という危うい多感な時期を記述した曲でもあり、自分自身をギフト(贈り物)に変えために、時計を止め、髪を切る等の変身をする過程を描いた曲である。ア・プリオリa prioriはカントの批判哲学用語で先験的、サンデーはストロベリーサンデーなどアイスクリームの入ったデザート、「オリーブの林をぬけて」はアッバス・キアロスタミ監督の「友だちのうちはどこ?」「そして人生はつづく」に続くジグザグ道三部作の第三作め、「ノルウェイの森」はビートルズの曲「Norwegian Wood」にして、それを冠した村上春樹の5作目の小説『ノルウェイの森』およびそれを原作にした『青いパパイヤの香り』で知られるトラン・アン・ユン監督の映画、ア・ポステリオリa posterioriはカントの批判哲学用語で経験的、パッセはバレエ用語で片方の足の膝を曲げ、そのつま先を軸脚の膝あたりに位置させる(両脚で三角形が形作られる)姿勢(ルティレ)を造り出す動き、死海文書は1947年以降死海の北西のクムラン洞窟周辺で見つかった写本群を指し(聖書の成立過程を知る上で重要な聖書考古学上最大の発見と言われているが、それを書いたクムラン教団について、エッセネ派なのか、ユダヤ教分派なのか、サドカイ派なのか、原始キリスト教なのか(共観福音書の元となっているQ資料が死海文書に入っているのか否か)、エルサレムが書かれたものなのか、諸説ある。)、日本ではフィリップ・K・ディックの『ヴァリス』連作での言及や「新世紀エヴァンゲンオン」でゼーレが進める人類補完計画でのバックボーンとして「死海写本」や(実在しない)「裏死海写本」が登場したことから話題になった、ビルエットはバレエ用語でターンを指す。

「ダブルバインド」(作詞:松永天馬、作曲・編曲:谷地村啓)。ダブル・バインド(二重拘束)は、イギリス出身のアメリカの文化人類学者・精神医学研究者・イルカ研究者ジョン・C・リリーの造語で、逃れる事の出来ない人間関係の場で、あるメッセージが発せられ、同時にそれを否定するメタ・メッセージが発生される状況をダブル・バインドと呼び、こうした状況が反復される際に、それから逃れようとする心理が働き、妄想型・破瓜型・緊張型といったスキゾフレニー(統合失調症)を引き起こしやすい状態になるとされる。「ダブルバインド」は、<ママ-パパ-僕>から成る家族の三角形を描くところから始まる。精神分析を適用すれば、家族の三角形のなかで、僕はエディプス化される。すなわち、パパへは反撥を、ママには憧憬を抱く。途中、「君」が登場する事から、4人家族かも知れない。描写からは、ママの虚飾にみちた生活、パパの経済人と化した生活が伺える。「濡れたシーツは白く」「君のショーツは赤く」は、家庭内での性暴力を指しているようにみえるが、断定するには証拠不足だ。同様に「ちいさな火傷」は、子供への虐待を指しているようにも見えるがどうなのか。仮に、私の疑いが真実だとするならば、この家族は、スキゾフレニー(統合失調症)になりやすい金縛りのようなダブル・バインドの地獄だといえる。唐突に、「フランシーヌ」という固有名詞が登場する。これは仮定だが、新谷のり子に「フランシーヌの場合」という曲がある。この歌は反戦歌で、1969年3月30日、パリで、フランシーヌ・ルコントという30歳の女性がシンナーをかぶって焼身自殺を遂げたことで作られた曲だという。ベトナム戦争やナイジェリア内戦に心を痛め、ウ・タント国連事務総長に手紙を書いたりしていた女性だという。自殺した時、ビアフラの飢餓についての新聞記事を持っていたという。家族によると、精神科にかかっていた事もあったという。仮に「ダブルバインド」に出てくる「フランシーヌ」が、フランシーヌ・ルコントさんだった場合、彼女が関心を持っていた世界情勢自体、彼女をダブル・バインドのような閉塞感に陥らせ、心まで病ませるものだったといえる。ここに、遠い異国の出来事にも関わらず、主題的近さが現れる。「ダブルバインド」は、何度も、僕たちの言葉や祈りで、少しも世界が変わらないという。それが、68年のフランス五月革命の敗北と、共振を始める。また、実存的な反抗や変革が「構造」を変えることができなかった事とも、共振を始める。「ダブルバインド」は、想いを遂げる事の出来なかった者を結ぶシンパシーの歌だ。それらの無念を、神様だけは知っておいて欲しいと願う。「ダブルバインド」は、初期のアーバンギャルドの楽曲のなかで、一番ダイナミックな心理展開をする曲といえる。

救生軍」(作詞・作曲:松永天馬、編曲:谷地村啓)。問題提起的な「プリント・クラブ」「傷だらけのマリア」から始まり、ドストエフスキーの『罪と罰』を思わせる様々な犯罪の考察を含む地獄遍歴を経て、「リセヱンヌ」「ダブルバインド」で等身大の少女が抱える心の闇に肉薄した『少女の証明』は、「救生軍」で一気に解決篇に向かう。とはいえ、地獄遍歴で、この世界が抱える闇を直視した後の救済が一筋縄で済むはずはなく、救生軍、すなわち心の十字軍を希求する行為は、見返りの保証なしに、不在の神を覚悟しつつも祈るというシモーヌ・ヴェイユ的なものになっている。「この世の外へならどこへでも」という詩を書いたのは、シャルル・ボードレールだったが、「救生軍」はドラえもんの「どこでもドア」があれば、おそらくはこの世界だが、飛び出したいと言い、ドストエフスキーのドロンゲームに陥っているという。「ドロンゲーム」という事は、「プロとコントラ」(ラテン語で「肯定と否定」の意味。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にそういう章がある。)の間で引き裂りかけているという意味なのだろう。ドリエールは催眠鎮静剤のこと、『飛ぶ教室』はエーリッヒ・ケストナーによる児童文学、『同時代ゲーム』は大江健三郎の小説。救急車が「99車」と表記され、後半の「99パーセントと呼応しているようだ。この表記は、完成の100の一歩手前という事かも知れない。マリアージュは結婚、ストレイ・シープは迷える羊、セイレーンは、ギリシャ神話に登場する半身女性で半身が鳥という怪物、オフィーリアはシェイクスピアの『ハムレット』の登場人物、マジョリティは多数派を意味する。「救生軍」の特質として「マスゲーム」という言葉もみられ、集団行動の強さと一体化しようとしているように思われる。

 

以上は、『アーバンギャルド☆クロニクル【解説篇】・2010/2017』の一部です。全編は、『前衛都市を知りたい子供たち Vol.4』をお買い求めください。(私以外の人が、たくさんのイラストや原稿、そして、編集者のタナカさんが2年分のライブのセトリを載せていらっしゃいます。)

 

 

 

 

※以下は、アムネスティ日本を通じて行ったアクションの控えです。

 

外務大臣 河野太郎 殿

日本の政府開発援助(ODA)の支援先であるミャンマーで、国軍による民族浄化作戦により70万人以上のロヒンギャに人たちが、国を追われました。ロヒンギャの人たちが安全に帰還し、安心して暮らせるようになるには、国による差別的な政策が廃止されなければなりません。また、悲劇を繰り返さないために、国軍による残虐行為の責任追及も不可欠です。日本政府からミャンマー政府に以下の働きかけを行ってください。

・ロヒンギャへの差別や隔離政策を廃止し、彼らの尊厳が守られ、自由意思で安全に帰還できるようにすること。
・ロヒンギャへの暴行・殺害を調査し、これに加わった疑いのある個人を起訴すること
・人道支援のための国内への自由なアクセスを即刻認めること

※この原稿は『前衛都市を知りたい子供たち』に連載中の「アーバンギャルド☆クロニクル」の一部です。サンプルとしてお読みください。

CDミニアルバム『昭和九十一年』は、2015年12月にリリースされたCDアルバム『昭和九十年』のその後を、SF的想像力を駆使して予測する内容の楽曲を収録している。[サル版]と[ヒト版]があり、[サル版]には「くちびるデモクラシー GOATBED REMIX」が、[ヒト版]には「箱男に訊け KEISAMA REMIX」が収録されている。CDミニアルバム『少女KAITAI』と同様に、ライヴ会場限定の販売であった。

「ふぁむふぁたファンタジー」(作詞:松永天馬、作曲:松永天馬、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)。タイトルのFemme fataleは、「運命の女」を指すフランス語である。Phantom Girlは、「幻影の少女」。ビッグ・ブラザーは、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』に出てくる全体主義体制の頂点に立つ権力者のことである。この曲では、私たちはビッグ・データに基づいて数値的に管理されており、コンピュータの検索機能でヒットする事柄は、予測の範囲を超えることはない。では、この管理社会から自由になるにはどうすればいいのか。それは、人生を決断することであり、予め決められた運命の赤い糸を切って、運命的な出会いによって、人生を転換させることである。基本的には、東浩紀『弱いつながり―検索ワードを探す旅』と軌を同じくしているように思われる。東浩紀は旅や観光によって、自分の身の置き場を移動させることで、コンピュータ検索では予測できない遭遇を生じさせようとしているからである。アーバンギャルドの場合、恋愛や結婚を通じて、運命の転換を引き起こそうとしている。

「大破壊交響楽」(作詞:松永天馬、作曲:おおくぼけい、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)。ニヒリスティックではあるが、清涼な風が吹き抜けるような解放感のある曲である。楽曲中の君は、春の晩に飛び降り自殺を図り、この世を去った。この歌は、後に残された僕の心境を綴った内容となっている。君のいない世界は、僕にとってはもはや意味のない世界である。都会の街のすべてが存在しないのと同じになってしまう。心は、まだ君を探しており、街のどこかにかすかな記憶の残像を探そうとしている。この曲は、逆説的な愛の歌であり、君がいないがゆえにより清冽な純度のせつなさに達する。このような悲嘆と絶望を愛する人に与える自殺は罪悪である。

「マイナンバーソング」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)。松永天馬作詞による「ソング・シリーズ」は、アーバンギャルドの基本的な考え方、すべての表現活動の基盤となる原理を示しており、丁寧に読解する必要がある。アーバンギャルドの「ソング・シリーズ」は、2009年発表の「コマーシャルソング」「アニメーションソング」、2010年発表の「ファミリーソング」「プロテストソング」、2011年発表の「バースデーソング」、2012年発表の「ノンフィクションソング」、2014年発表の「アカペーソング」、2015年発表の「ファンクラブソング」、2017年発表の「マイナンバーソング」を指しており、抽象的な概念が扱われることが多い。「マイナンバーソング」は、作中に「十二桁」とあることから、2013年に成立した「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」に基づくマイナンバー制度を指すことは間違いない。とはいえ、「マイナンバーソング」は、政治的なプロテストソングとは言えない。むしろ、「マイナンバー」に関する存在論的な考察を主眼とする曲というべきである。結果として、「マイナンバー」を「囚人番号」だと揶揄する表現が見られるが、これは存在論的な考察から生まれた副産物に過ぎない。

やや迂遠ながら、「マイナンバーソング」の世界に深く分け入ってみよう。柄谷行人は『探求II』において、ほとんどの哲学書において「この私」が抜け落ちていることに苛立ってみせる。「私」一般の問題は取り扱われる。しかし、「この私」は取り扱われない。主観、人間存在、実存……は出てくるが、それは「私」一般のことであり、「この私」だとか「この犬」だとか、「この」が抜け落ちている。柄谷は、「この」性を「単独性」と言い換える。「単独性」は「特殊性」のことではない。「この私」は、必ずしも特殊というわけではない。例えば、恋愛において、人は「この女性(或いは、男性)」を愛するのであり、失恋した人に対し、他にも女性(或いは、男性)はたくさんいるじゃないかと言ったとしても、慰めにはならないと柄谷は考える。というのは、失ったものは「この女性(或いは、男性)」、唯一無比の単独性だからである。単独性を把握することを、柄谷は固有名で呼ぶことと結びつける。相手を固有名で呼ぶこと、相手の「顔」を見ること、これらは単独性の把握に繋がる。柄谷は、兵士は、固有名を持たない敵のなかの一人と考えると、平然と人間を殺せるが、固有名で呼び、相手の「顔」を見て、単独性を把握するようになると、殺しにくくなると考える。

相手を固有名で呼び、相手の「顔」を見て、相手の単独性を把握することは、国民全員にマイナンバーを与え、ナンバリングして管理するという発想とは真逆である。「マイナンバーソング」のわたしは、そのことを理解しているので、計算する思考に抗議をし、このわたしは「割り切れない」と考えるのである。さらに続けて、このわたしは、「この」性という人間の在り様と、マイナンバーを割り当てることで、コンピュータ管理が容易くできるという発想の根本的差異を把握しながら、割り切って生きていこうとする。最終的には、数字に潜む冷酷な部分を理解した上で、能動的な主導権を握り、「割り切らせて」と主張するのである。

「マイナンバーソング」に散りばめられたキーワードを読み解いてみよう。「ポッケ」から連想されるものは、美空ひばりの「東京キッド」である。「百八つ」は、仏教における煩悩の数。「イー・アル・サン・スー」は、中国語の「一・二・三・四」。「数に溺れて」は、ピーター・グリーナウェイの前衛的実験映画のタイトル。「アン・ドゥ・トロワ」は、フランス語の「一・二・三」。『24人のビリー・ミリガン』は、ダニエル・キイスによる解離性同一性障害を主題にした小説のタイトル。「メドゥーサ」は、ギリシャ神話に出てくる髪の毛が毒蛇になっている怪物で、直視すると相手を石に変えるという。サルトルは、人間関係における疎外態を対他存在と呼び、メドゥーサのように他者のまなざしで、人は石化すると説明した。そのことを考え合わせると、マイナンバーによるナンバリングは、疎外態であると作詞者は考えているのかもしれない。「24601」は、ヴィクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンの囚人番号である。「18782」は厭な奴で、「18782」をふたつ足すと、その数字は、トマス・M・ディッシュの『人類〇〇〇』の〇〇〇を思わせて、不穏な事態となってしまう。

HALの惑星」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:アーバンギャルド・杉山圭一)。HALとはアーサー・C・クラーク原作の、そしてスタンリー・キューブリックによって映画化された2001年宇宙の旅』に出てくる人工知能を持ったコンビュータHAL 9000のことと考えられる。なお、アーサー・C・クラークによる続編『2010年宇宙の旅』は、ピーター・ハイアムズが映画化している。2001年宇宙の旅』の冒頭で、ヒトザルの前に謎の黒い石板「モノリス」が現れ、ヒトザルは「モノリス」の影響下で道具の使用を覚え、文明化されたヒトへと進化を遂げる。『昭和九十一年』には、[サル版]と[ヒト版]があるが、『2001年宇宙の旅』を踏まえた発想と考えられる。前作『昭和九十年』の中心曲「くちびるデモクラシー」では、ジョージ・オーウェル的な全体主義体制のもとでの言論統制への恐怖が描かれたが、『昭和九十一年』になると、アーサー・C・クラーク的なSF的想像力を駆使して、人の行きつく果ては、サルへの退行なのかと問いかけているように思える。

「HALの惑星」に出てくるキーワードをチエックしてみよう。CQ」は、無線通信において呼び出しをするときの略符号、「キューブリック」はてスタンリー・キューブリック、「C・クラーク」はアーサー・C・クラーク、「HAL」はHAL 9000のことだが、韻の関係で「春」が呼び出される。「エイプマン」は柴田昌弘の漫画のタイトルで、ヒトとサルの混血生物、最終的に「CQ」は「至急」あるいは「子宮」に聞こえるまでリフレインされる。

HALの惑星」では、恋愛がうまくいかないのは、自分が「宇宙人」で、地球の恋愛と不適合(ミスフィット)だからとされる。「宇宙人」とは、自身がアウトサイダーであることのSF的な比喩を用いた表現と考えられる。ちなみに、『アウトサイダー』を書いたイギリスの新実存主義の作家・批評家のコリン・ウィルソンの著作『The Misfits: A Study of Sexual Outsiders』は、鈴木晶によって『性のアウトサイダー』として翻訳されている。柄谷行人ならば、「宇宙人」の代わりに「絶対的な他者」、或いは「絶対外国人」というだろう。共同体のルールを共有せず、外部にある人という意味である。結局のところ、「HALの惑星」は、共同体から逸脱した人の恋愛の苦しさを歌った曲だということになる。特に、周りを見渡すと、時流が全体主義寄りで、言論や表現への統制が進むなかで、それらに気付かず、内面化している人ばかりで、自分が孤立していると感じるならば、自分が宇宙から来た異星人のように浮いて感じられるようになるだろう。浮いた存在……ここから、自身の気持ち悪さへの自覚はあと一歩である。

 「くちびるデモクラシー GOATBED REMIX」(作詞:松永天馬、作曲:浜崎容子、編曲:石井秀仁)は、『昭和九十一年[サル版]』に収録されている。GOATBED(ゴートベッド)は、cali≠gariのボーカル石井秀仁を中心としたニューウェーブエレポップバンドであり、オルタナティヴで実験的な「くちびるデモクラシー」を聞くことができる。

箱男に訊け KEISAMA REMIX」(作詞:松永天馬、作曲:瀬々信、編曲:おおくぼけい)は、『昭和九十一年[ヒト版]』に収録されている。こちらは、ホラー・ショー風で、化け物屋敷風の「箱男に訊け」を聞くことができる。編曲者によって、曲の印象ががらりと変わるのが面白い。

※解説の都合上、小説( 松永天馬著 『少女か小説か』(集英社文庫) )の内容に踏み込んでいます。未読の方は、先に小説をお読みください。

 

 

 

 『少女か小説か』は、「Web集英社文庫」にて、2015年4月~2016年2月に掲載された短編9編に、書下ろし作品「あした地震がおこったら」「子どもの恋愛」「ゴーストライター」の3編を加えた短編集である。短編のタイトルは、アーバンギャルドの代表的な曲 のタイトルになっているが、内容的に直接的な繋がりはない。同タイトルを用いての文学による変奏と言うべきか。

 『自撮者たち』同様、非常に知的にソフィスティケートされた作風である。観念の操作から成り立っている作品群である。

 

 

 「セーラー服を脱がないで」では、教師と女子生徒の会話から成り立っている。「教える-学ぶ」という関係が非対称であることに留意すべきである。教師は上からの目線で、生徒に話している。グレゴリー・ベイトソンは、こうした上下関係があるところで発生した「ダブル・バインド(二重拘束)」が、統合失調症を引き起こしやすい環境となると考えた。

 「変」「變」「恋」、少しづつ漢字の形を変換させながら、この二人は「変」であること、「恋」することに思索を巡らす。「変」であることは、普通であることを逸脱する事だから、単独者(実存、アウトサイダー)としての目覚めと受け止めていいかも知れない。教師と女子生徒の恋愛は、禁断の「恋」である。女子生徒は先ほど「卒業」を済ませ、両者は教師と生徒の関係ではなくなったというが、さりとて危うい「恋」は、単独者の覚悟がないとできない。

 重要なことが語られる。小説では、そこにないものが、言葉になった瞬間に、そこにあるかのように世界に出現すると。松永天馬の文学において世界は、唯言論であり、登場する先生や少女は記号人間である。アーバンギャルドに先行する英国のテクノポップ・バンドのスクリッティ・ポリッティの楽曲「ワード・ガール」を想起してもよい。スクリッティ・ポリッティの中心的人物グリーン・ガートサイドは、ポスト構造主義の哲学者、ジャック・デリダの影響を受けた人物だった。構造主義系の思想の根底には、フェルディナン・ド・ソシュールの記号学がある。唯言論は、ソシュールの記号学の研究者であった丸山圭三郎が、自身の哲学上の立場を説明するために唱えた言葉である。哲学には、唯心論、観念論、唯物論等、さまざまな立場があるが、丸山の唯言論によると、記号(シーニュ)に着目すると、意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)が恣意的必然によって結びついており、差異を持つシニフィアンで言語(ラング)の共時的な体系が出来ている。唯言論によって捉えられた世界は、事象のすべてが言語のシステムによって言分けされており、私たちの身体感覚自体が言語によって身分けされている。このように言葉で出来た宇宙を考えてみよう。教師と生徒の会話は、言葉だけの宇宙で進行する。

 作中、教師の「売らない」が、生徒に「占い」と受け取られる箇所がある。また、教師によって「恋」と「故意」と書き換える箇所がある。同音異義語である。発音は同じであるが、意味するもの(シニフィエ)が違っていて、コミュニケーションを受ける段階で、意味の誤配が生じる。小説「セーラー服を脱がないで」は、漢字の形態の変化(変→變→恋)と、同音異義語による意味の誤配(売らない→占い、恋→故意、離したくない→話したくない)によって進行する物語である。作中「幽霊」という言葉が現れるが、「幽霊」概念は、ジャック・デリダの哲学における重要概念でもある。デリダの『ユリシーズ・グラモフォン』における電話論、『マルクスの亡霊たち』の幽霊論、『絵葉書』のメディア論を総合すると、「幽霊」とは主体の複数化と関係しており、「幽霊」が生じるのは電話や郵便による誤配のせいだとわかる。松永天馬は、東浩紀の『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』を介して、デリダの考えを咀嚼して、作品に生かしているとおぼしい。

 「新しい服を買うために、制服を脱いだ女の子たち」については、援助交際やブルセラに関して、社会システム論の立場から解析を加えた宮台真司『制服少女たちの選択』を、「セーラー服は……、いわば戦闘服だ。」については、ジャック・ラカンの精神分析を基に、日本のサブカルチャーにおける戦闘美少女のキャラクター分析を行った斎藤環『戦闘美少女の精神分析』を、「変わるぎりぎりのところで、いつまでもとどまっていて欲しい」については、ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』を基に、禁制と侵犯のせめぎ合いを思考した澁澤龍彦の『エロティシズム』を、「生きたままの標本」については、ジョン・ファウルズの『コレクター』を参照されたい。松永天馬の小説には、現代思想や社会学、精神分析学、現代文学等の膨大なバックボーンがある。しかも、小説は、寺山修司の映画『田園に死す』と同様に、この物語を成立させている舞台セットの秘密を暴露して終わる。これは、物語を終わらせるためのオチであると同時に、この虚構と現実世界がひとつづきであり、他人事で済まさないぞという悪意あるシニスムの現われなのである。

 「四月戦争」。一見、一組のカップルの対話から成る恋愛小説の体裁をしているが、同時に米国と日本の関係をメタレベルから捉えた政治小説としても読めるという両義性を持った小説である。言い換えれば、精神分析的な小説だと言っていい。

 日米関係の分析に精神分析を導入する試みとしては、フロイト派精神分析学を基に、唯幻論を唱えた岸田秀と、ケネス・D・バトラーによる『黒船幻想―精神分析学から見た日米関係』があるが、こちらは黒船来航による強制的な開国から始まった日米関係は、日本の対米的姿勢の分裂、すなわち内的自己と外的自己の分裂を引き起こし、今日の貿易摩擦まで問題が続いているというものである。「四月戦争」で扱っているのは、第二次世界大戦以降の日米関係なので、白井聡の『永続敗戦論―戦後日本の核心』が、戦後の日本人の心的構造を解き明かす視点を提供してくれるかも知れない。『永続敗戦論』は、日本人が先の大戦による「敗戦」を直視できず、「終戦」として処理し、その後、対米従属的な戦後レジームが続いているというものである。対米従属的レジームにおける日本人の心を原理的に把握したい方には、16世紀に書かれた本だが、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』を読むといいかも知れない。

 「四月戦争」を基ににして、複雑な日米間の駆け引きを考えることは、各自の作業にゆだねるとして、ここでは恋愛小説であると同時に政治小説であるという文学上の前衛性を押さえておきたい。フロイトの影響を受けて、性の重要性を強調したり、潜在意識の流れを描いたり、更にはシュルレアレスムのように幻想と神秘を重視した文学が生まれたが、「四月戦争」は政治権力のせめぎ合いをも描いている。これは、どういう事か。1968年の五月革命以降、フランスでは、精神分析とマルクス主義を綜合する欲望史観が登場した。ジャン=フランソワ・リオタールの『リビドー経済』や、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』がそれに該当するが、「四月戦争」でやっている事も、精神分析学と政治学が融合した視点で、「男性・女性」と同時に日米関係を思考する試みなのである。このような文学的なチャレンジをやっているのは、フランスならばフィリップ・ソレルス、アメリカならばトマス・ピンチョン……非常に尖端的な試みであることは間違いない。
 「セーラー服を脱がないで」でもそうだったが、「四月戦争」も最終の一行で、物語の状況が一変する。「四月戦争」の場合、三次元が二次元に変換され、すべてがエクリチュール(書かれたもの)の産物であることが強調される。意外性を狙ったオチであるが、それ以外に、この物語がルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の縁者であることを意味しているのではないか。アリスは穴に落ちることで、現実世界を抜け出し、ファンタジーの世界に入り込む。それと同じで、『少女か小説か』では、現実界と想像界の往還が頻繁に起こる。物語の上の愉しみだけでなく、自在に次元を横断し、「セーラー服を脱がないで」では「恋」や「卒業」の意味を、「四月戦争」では政治的な係争を、現実世界の重力に縛られることなく追いかけることができるようになる。

 「水玉病」は、アーバンギャルドの楽曲名に留まらず、初期のアーバンギャルドのファッション・アイテムでもあった。小説「水玉病」では、このファッション・アイテムの意味についての探求が見られる。「御洒落警察」に職務質問を受ける読者モデルの「わたし」。この小説から浮かび上がってくるものは、ファッションから見た消費社会の構造である。『象徴交換と死』で知られるフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールは、現代社会はモノの生産ではなく、記号の消費に重点を置いた社会であると考えた。「御洒落警察」と「わたし」の漫才のような掛け合いから、記号の消費を基軸にした社会に組み込まれて生きるしかない私たちの生態が暴露される。広告と情報操作のくだりは、マーシャル・マクルーハンの『メディアはマッサージである』を連想させる。「御洒落警察」は、「わたし」の水玉ファッションを「ファッション・テロ」と呼ぶが、記号を消費する社会システムの外部に出ることはできず、記号をシャッフルする程度の事しかできないという絶望に裏打ちされているように見える。「御洒落警察」の理念、『美しい国』の美しいファッションを「取り戻」すは、『美しい国へ』という新書本と「日本を取り戻す」という政治的スローガンを連想させる。これに対し、「わたし」は「管理されたファッション」は「ファッショみたい」だと反論を試みる。「御洒落警察」によると、水玉病に感染した少女は、「病んだブログ」を書き、「リストカット」をする可能性が高いという。デヴィッド・クローネンバーグ監督の『デッドゾーン』では、未来の危機を察知して、未然に防ごうとした男の異端への生成変化を描いているが、この小説では「リストカット」を予見して、水玉病を追う「御洒落警察」の方が正統の側にいる。

 最後、物語の舞台セットが暴露される。この物語は、ファッション雑誌上の記号の争いを擬人化したものだった。三次元であったはずの物語は、二次元の世界に還元される。

「コンクリートガール」。「コンクリートで出来たお城」とは、散文的な表現ではマンションだろう。「私」は、マンションの一室に引きこもっている。家族との接触はなく、部屋の前に食事が置かれるだけである。こうした場合、『社会的ひきこもり―終わらない思春期』の斎藤環によると、「個人の病理」ではなく、家族や社会など「システムの病理」として見ることが必要だという。

 「私」が唯一アクセスするのは、電脳空間だけである。アーバンギャルドの楽曲「コインロッカーベイビーズ」を想起するならば、この「私」の在り方は、外界を遮断して電脳空間に引きこもっており、それでは社会が始まらない。「コインロッカーベイビーズ」が説いていたのは、コインロッカーのような閉じた世界から外に出ること、その契機として恋があり、次の世代の子どもの誕生があるということだった。

 「私」はインターネットを通じて、民衆によって幽閉された「ユウ」と呼ばれる王女らしき人物とコミュニケーションを始める。王女らしき人物は「私」に救済を求め、幽閉されている「コンクリートの箱の中」から脱出しないと、民衆に殺されるという。王女らしき人物は、マリー・アントワネットのような人物なのか。その割に、宮殿ではなく、「コンクリートの箱の中」に閉じ込められているとあるではないか。「ユウ」と「私」の対話は、次第に「私」と私のドッペンゲルガーとの間の自問自答のようになっていく。このことは、この「私」がそれ自体として存在せず、私自身を見る私という形で存在していることを反映している。通常、自己省察は、鏡や他者に映る自己イメージとしての私との対話から成り立つが、引きこもりによって社会性が喪われている「私」は私のドッペンゲルガーに出会うだけである。その結果、幻想としての城は、崩壊し始める。「私」は自身の存在の確実さを確認するために、自身の裸の写真をSNSにポストし続けるが、その事は、尚一層「私」自身を無残に消費させるだけである。

 破滅の時が来た。部屋の中の異変に気付いた両親は、本棚でバリケードのように塞いだ部屋をこじ開けるだろう。「民衆たち」と「私」が誤認していたのは、両親であった。引きこもりであるがゆえに、両親のリアルを直視し得ず、恐ろしい形相のイメージを付与してしまう。すべての幻想が壊れる時、「私」という個体イメージも滅びる。後に残されたものは、人形のような裸の死体、或いは人形そのもの。

 「リボン運動」。SFには、エヴゲーニイ・ザミャーチン『われら』、ジョージ・オーウェル『1984年』、オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』といったディストピア(反ユートピア)を描いた小説の系譜があるが、「リボン運動」はそれを短編で達成しようとした試みであると考えられる。短編集『少女か小説か』の中でも、特に注目すべき問題作である。ディストピア小説には、政治権力、あるいは管理社会が、人間の恋愛や妊娠・出産等の性の部分、言い換えれば、社会システムを支える人間自体の再生産の部分に介入し、自由恋愛の禁止・産児制限・人口調整等を行うというパターンがあり、「リボン運動」もまた、その系譜を継承し、自由恋愛と全体主義的統制社会を対立関係に置く一方で、自由恋愛と音楽の在り方を重ね合わせることで、作者自身の対社会的な姿勢を明確に打ち出すことに成功している。

 「リボン運動」で描かれるのは、自由恋愛が禁止され、メッセージ性のある音楽が禁止され、音楽が空間を埋める単なるBGMとして消費されているという全体主義的情報管理社会である。自由恋愛と、ロック等の音楽の共通点は、自らが自分なりのやり方で考えるということ、自律的思考がその核に埋め込まれていることにある。音楽において、歌詞カードを見て、その意味を考えることは、自律思考の実践である。その習慣がないならば、音楽は単に聞き流すものとなり、BGMに堕するだろう。この小説のなかでリボンは、単なるファッションアイテムではなく、政治的なプロテスト(抵抗)の意思表示を示すものとしての意味を付与されている。少女にリボンを与えるのは、政府から禁止された音楽をやっているバンドのお兄さんである。

 なぜ、このような小説が書かれるに至ったのか。3・11があり、「あした地震がおこったら」が現実になってしまい、福島原発の事故が起き、「ガイガーカウンターの夜」が書かれ、汚染水はアンダー・コントロールという政府の公式見解の下で、『鬱くしい国』がつくられ、偽善性の告発の意図を込めて「原爆の恋」がつくられる。その間にも「u星より愛をこめて」等、表現をめぐってレーベルの自主規制との駆け引きがあり、『少女KAITAI』の地下出版の如き、自主制作によるライブ会場限定の流通が始まる。時代の証言者として、最先鋭の表現を目指すアーバンギャルドにおいて、ディストピアの悪夢は一般市民に先行するかたちで現出したのだ。このような小説が描かれるのは、必然であったと言えるだろう。

 「リボン運動」は、機動隊との激烈な闘争と喧騒のなかで、クライマックスを迎える。とはいえ、この小説は政治小説ではない。少女はクライマックスの最中に、想いを寄せるバンドのお兄さんが実は別の誰かを愛していることを知り、深い喪失感をいだく。この痛みが、少女にこれが恋愛という事なのだと悟らせる。あらゆる自律的思考が禁圧された世界の中では、あたかもジャン=リュック・ゴダール監督の映画『アルファヴィル』のように、恋愛は未知の領域であり、世界の外部に触れた時に初めて真実の愛が訪れるのだ。

 「プリント・クラブ」。この小説は、村上龍の『ラブ&ポップ~トパーズII』を原作に、『新世紀エヴァンゲリオン』『シン・ゴジラ』の庵野秀明が、テレビ東京深夜ドラマ方式で(要するに、低予算で。『ラッフルズ・ホテル』で興行面で苦杯を舐めた経験を持つ村上龍が映画化を認めたのも、ハンディ・カムを使った低予算の撮影方式を庵野が提案したからだったからだという。)撮影した映画『ラブ&ポップ』を連想させる。両者とも援助交際を題材としており、援助交際の前に水着を選ぶシーンがある。SNSで呼び出した大学生二人組とカフェで会うシーンは、『ラブ&ポップ』でかみ砕いたマスカットを女子高生に食わせる不快なシーンを連想させる。GAP帽の男は、どことなく『ラブ&ポップ』のキャプテンE.O.を連想させる。作中「クロマキー投影」という単語が見られるが、『ラブ&ポップ』で庵野は自転車を漕ぐ女子高生の下着が見えるのを気にして、クロマキー処理で消していたはずである。但し、『ラブ&ポップ』の時代とタイム・ラグがあり、「プリント・クラブ」では、SNSと「自撮入門」を連想させる自撮り棒が登場し、「現実を殴りつける時に使う」という素っ頓狂な解説を加えている。「わたしたちの青春、誰かにとられちゃったのかな」とわざと平仮名で書かれているのは、「撮る」と「盗る」というダブル・ミーニングのためである。「プリント・クラブ」のプリントは、ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』の説くところの「複製技術時代」を示唆している。とどのつまり「プリント・クラブ」という作品は、現代が「複製技術時代」であり、人間の在り方も複製=大量生産品であること。しかしながら、この時代を生きる女子高生は、大量生産品としての自分が、消費社会のなかで開発=利用=搾取(エクスプロイット)されるかたちで盗られることを自覚しつつ、盗られる前に自分から撮るかたちでポジティヴに、生きる意味を取るのだということを確認しようとしている。

「あした地震がおこったら」。この小説に登場する矢崎は、直下型の大地震を恐れ、陰謀論めいた奇怪な観念に取り憑かれているようだ。震災から原発事故が起こることはあり得るので、「放射能」を恐れるというのはわからなくはない。しかし、作中に登場する「地震を呼び寄せる電磁波」や「盗聴」とは何を意味するのか。巨大地震によって地殻変動が起き、花崗岩に含まれる石英に摩擦と圧迫が加えられ、電気が発生するので、地殻から発生する電磁波を基に地震の発生を予知するというのは、理にかなっている。しかし、「地震を呼び寄せる電磁波」という考えは、HAARPによる人工地震といった陰謀論を連想させる。また、地震の繋がりで「盗聴」が出てくるというのはどうなのか。合理的な因果関係がないではないか。「盗聴」ということは、自分が受け身の被害者になるということである。被害妄想、不安神経症、更には統合失調症による被作為感覚が疑われる。これらに対し、矢崎は家の周りにアルミホイルを張り巡らせ、防御することを考え始める。ここまで来ると、新興宗教めいてくる。パナウェーブ研究所とスカラー電磁波が、この小説のモデルケースなのかも知れない。また、自分たちが被害を受けているという主張は、オウム真理教事件での自作自演を連想させもする。こうした奇怪な強迫観念を持って、東京から避難し、山梨の奥の方の別荘でXデーを待つというのは、『洪水は我が身に及び』等、大江健三郎の小説を連想させもする。大江の場合、四国の森の奥であるのに対し、「あした地震がおこったら」では山梨というわけだ。

 矢崎は自称芸術家であり、彼は自分の絵が現実に向かって拡張していくという妄想を抱いている。彼と同棲する「わたし」は、実のところ、彼の才能を認めているわけではない。こころの内で、矢崎の芸術への嘲りがあることに気づいている。「わたし」は彼に対し、適切なアドバイスを与える。絵の中に、自分たちを描き込むこと。このことは、何を意味するのだろう。自分本位の視点を導入しないと、絵が空中楼閣になってしまうということではないだろうか。

 「前髪ぱっつんオペラ」。主人公は、眉の上で前髪を切り揃えたが、そのことを巡って校則違反ということで、校則の履行を求める学校の生活指導や生徒会と対立が起こる。その過程を、この小説は裁判仕立てで描いている。その過程は、フランツ・カフカ『審判』を思わせる。厳粛さと、ナンセンスなドタバタ劇が同時に進行しているといえる。主人公は、現代的観点から抗議をするが、そこで明らかになるのは、前髪が少女の処女性の象徴であり、内心を相手に悟られないように眉を隠すという答えだった。

後半、主人公の前髪を切って去っていったという謎の男の話に移る。主人公が夜道で出会ったという謎の男は、変質者のようにも、通り魔のようにも見えるし、天使にも悪魔にも見える。理解できる範囲を逸脱していると言えようか。後半のエピソードは、意味深長である。こうしたエピソードを書きながら、作者は理解を絶した神との邂逅を、頭の中でシミュレーションしていたのではないか。

 「救生軍」は、「昆虫軍」を連想させる。戸川純の、戸川純とヤプーズの、起源を辿れば、少年ホームランズの、派生形を辿ると、サエキけんぞう&Boogie the マッハモータースの、テンテンコの「昆虫軍」。しかし、ハルメンズにおいては、「昆虫群」と表記されている。それはさておき、「昆虫軍」を想起しながら書いたのか、この小説は「主人公が目覚めるシーンから始める小説は駄作だと言われる。」(『少女か小説か』167頁)というセンテンスから始まっている。翻訳すると、「カフカの『変身』の亜流は駄作」と解される。言うまでもなく、『変身』は、ある朝、グレゴール・ザムザが、何かわからない奇怪な昆虫に変身しているシーンから始まる。今日から「昆虫軍」の一員というわけだ。

 しかし「救生軍」は、カフカの亜流ではないので、「アニメーション・ソング」の世界に接合される。「私」を起こそうとする「パパ」や「ママ」に対して、「私」は機関銃をぶっ放す。とはいえ、アーバンギャルドの「アニメーション・ソング」は、The Boomtown Rats の「I Don't Like Mondays(邦題:哀愁のマンディ)」(1979年1月29日の月曜日に、16歳の少女が「月曜日が嫌い」という理由で無差別に銃を乱射した実際の事件を題材にした曲)ではないので、現実に「パパ」や「ママ」の死体が転がることはない。あくまでも、思考のシミュレーションである。「アニメーション・ソング」の世界では、現実がアニメーションのような想像的なもので覆い尽くされている。そのなかで、アーバンギャルドは、行動によって想像的なものの裂け目を造り出し、外部を露呈させる事が革命なのだと歌っている。アニメーションのような想像的なものは、「コインロッカー・ベイビーズ」のような曲では、電脳世界へのひきこもりに変貌する。アーバンギャルドは、一貫して、外部を持たない閉鎖系の空間に閉じこもることを批判してきたバンドである。「救生軍」では、銃を振り回す「私」の行動が、オーバードーズ、すなわち薬物の過剰摂取によるものだと説明されている。このことは、アンドレ・ブルトンの「もっとも単純なシュルレアリストの行為は、 拳銃を握り町において、できる限りでたらめに群衆に向かって発砲することだ」という言葉を連想させる。

 この後「救生軍」は、『羊をめぐる冒険』へとかたちを変え、村上春樹風の寓話を展開し始める。この寓話は、一見ソフトに見えるが、毒を含んでおり、「私」と対話している「羊」はほどなくして夢魔=狼としての本性を剥き出しにし始める。「夢魔」は澁澤龍彦のエッセイに親しんだ事のある読者ならばご存知だと思うが、意識混濁のさなかに現われる悪魔の一種であり、その本質はイド=エスの暗い力である。

 「救生軍」は、小説の終わりで凄まじい展開をみせる。「私」のベッドに、狼をみつけた「ママ」は、狼の腹を包丁で切り裂き、取り込まれた「羊」としての「私」を取り出す。あたかも倉橋由美子が「隊商宿」(『夢のなかの街』に収録)のラストで、神に捧げる生贄の家畜の代わりに、神から授かった赤ん坊を火に投じてみせたように、内臓の内と外がくるりと反転してラストに向けて、急激な変態を見せるのである。「ママ」の「起きなさい」で、「私」は「小説を終わらせるために」、起きるのではなく、逆に眠る。凡才では決して思いつけない終わらせ方である。

 「子どもの恋愛」。サンタクロースと資本主義を巡る話である。この小説と併せて、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースの『火あぶりにされたサンタクロース』を読んでおいた方がいいかも知れない。『火あぶりにされたサンタクロース』は、センセーショナルなタイトルがついているが、1951年にフランスのディジョンという街で起きたキリスト教原理主義者や聖職者、信者たちによって、サンタクロース像が火刑に処せられるという事件を、文化人類学的アプローチで解明していく内容となっている。要点をかいつまんで紹介すると、クリスマスの起源は、古代ローマやケルトの異教による冬まつりにあり、それをキリスト教が、キリストの生誕祭に取り入れたという経緯がある。元々は信者数の拡大のための施策であったが、商業資本主義の発達とともにクリスマス商戦化すると、異教時代の贈与の原理が前面に出てくるようになった。古代ローマやケルトの異教による冬まつりでは、生者から死者へ、或いは共同体から別の共同体へと贈り物が為されていた。レヴィ=ストロースは、このような贈与の原理が、野生の思考として元々あったとします。サンタクロース像を焼いたキリスト教原理主義者や聖職者、信者たちは、商業資本主義の隆盛と共に浮上した冬まつりに異教復活を嗅ぎ取り、危機感を抱いたというわけです。

 贈与という事に関しては、マルセル・モースが『贈与論』を書いており、そのなかでアメリカ北西部のポトラッチという儀式を紹介しており、これがジョルジュ・バタイユに『呪われた部分―普遍経済学の試み』の核となる考えとなっている。バタイユのおいては、人間は太陽エネルギーの過剰により、常に戦争や祝祭等により、過剰なエネルギーを蕩尽しないといけない定めになっている。ポトラッチもそうで、別の共同体へのポトラッチとしての贈り物は、相手を威圧させる力をもっている。また、相手が非常に欲しがっているものを目の前で破壊するという行為をもする。ポトラッチもまた、過剰な力を蕩尽する方法のひとつなのである。

 こうしてみると、贈り物を贈与の一撃とする古代の異教および商業資本主義の原理と、贈り物を愛の発露とする純キリスト教の原理が、対照的に見えてくる。これを「子どもの恋愛」を読み解くためのパースペクティヴとして取り入れると、「クリスマスを卒業」し、「サンタクロースを辞職」し、「赤い服を脱ぎたい」とする「オッサン」(『少女か小説か』198ページ)は、古代の異教および商業資本主義の原理から、純キリスト教の原理にシフトしてきているように見える。

 「ゴーストライター」。この小説においては、影の実作家の意味ではなく、幽霊(ゴースト)に取材をして本にまとめる人を指している。今回、ゴーストライター(幽霊作家)が取材しているのは、3年前にガス自殺を図って死んだアイドルである。尤も、幽霊話を真に受けてくれる人は少数派なので、関係者への取材から明らかになった話として公表するようだが。

 元アイドルへの取材で分かった事は、常に誰かから私生活を撮影されたり書かれたりすることから来る「病めるアイドル」としての実態であり、プライベート写真を撮らせるようなカメラの仕事をしている彼がいたという事実である。

 小説「ゴーストライター」に登場する人物は、誰もが孤独感を抱いている。それが「都会のルール」であるかのように。ゴーストライター(幽霊作家)もまた例外ではない。今は亡き幽霊(ゴースト)に取材すると言っておきながら、誰もいない部屋で、ノートパソコンを叩き続けているのだから。幽霊(ゴースト)の声は、存在しない。ゴーストライター(幽霊作家)としての「僕」自身が造り出した妄想の声以外は。

 「堕天使ポップ」。飛び降り自殺を図ったが無傷だったという少女との対話から成り立っている。「太陽が眩しかったわけではない。」とくりかえし断り書きが出てくる(『少女か小説か』223頁、227頁、240頁)のは、アラブ人の殺害理由を「太陽のせい」と答えたアルベール・カミュの『異邦人』と同じく不条理小説だからか。(ちなみに、カミュの世界観では、小説『異邦人』と哲学的エッセイ『シーシュポスの神話』は、「不条理の系列」として同じ範疇に入れられており、『シーシュポスの神話』は終始、自殺の是非を問う内容となっている。)物語の進行とともに、少女と対話しているのは、担任の先生だとわかる。

 少女と先生は、共依存の関係であることが示唆される。飛び降り自殺で、無傷のはずがない。少女は既に亡く、共依存の先生が現実に記憶を投影し、少女の幻を存在させているのかも知れない。

  物語の末尾に、スローガンのように、「君は君の物語を生きるんだ」という先生から少女への言葉が書かれている。共依存の関係も、切断される必要がある。少女と先生の間を切断。だが、物語はまだ終わらない。共依存の関係は、この小説と読者である「あなた」との間にも成立しているのかも知れない。だから、自律的思考のために小説と「あなた」の間も切断される。

 旧劇場版エヴァンゲリオンのラストが、惣流・アスカ・ラングレーの「気持ち悪い」という拒絶の言葉だったように、この小説も拒絶の言葉で締めくくられる。「わたしはあなたの小説ではない。」と。『少女か小説か』240頁)

 

【お知らせ】

本論考を含む「アーバンギャルド☆クロニクル (連載3回目)」は、『前衛都市を知りたい子供たち Vol.3』に収録されています。連載3回目では、2011年と2016年に発表されたアーバンギャルドの全作品(音楽から著作まで)をすべて論じています。

『前衛都市を知りたい子供たち』は、現時点では3号まで発行されており、名古屋・栄のBiblioManiaの店頭および通販でご購入になれます。

エジプト大統領

 

私は、アザ・ソリマンさんはじめ、エジプトで人権活動に取り組む人たちへの弾圧を強く憂慮しています。

ソリマンさんは女性の人権を守ろうと取り組む著名な弁護士です。しかし、人権活動を抑圧する法律によって、ソリマンさんなどの活動家は不当な起訴、資産凍結、出国禁止などで活動ができなくなっています。

私は以下を要請いたします。
・ソリマンさんや他の活動家らに対する不当な起訴を取り下げること
・資産凍結、出国禁止を解くこと

 

I am deeply concerned about the severe crackdown in Egypt on human rights defenders, including Azza Soliman. 

Azza is a prominent lawyer who bravely speaks out for women’s rights. Due to the repressive law on human rights activities, Azza and many other human rights defenders are unjustly charged, banned from travel and have their assets frozen.

I, therefore, call on you to:

・Immediately and unconditionally, drop all charges against Azza and other human rights defenders.
・Revoke travel bans and asset freezes issued against them.

 

ロシア連邦・調査委員会議長

 

調査委員会議長 殿

私は、チェチェンで100人以上のゲイの人たちが拉致され、不当に拘束されていることを深く憂慮しています。中には、命を奪われた人もいると報告されています。

チェチェン当局は、同性愛者の存在自体を否定していますが、彼らは確かに存在します。性的指向を理由にひどい差別と迫害を受けることにおびえながら、日々を過ごしています。

私は以下を要請します。

・拉致と殺害事件を徹底的に調査し、加害者を処罰すること
・性的指向を理由に危険にさらされている個人を保護するため、あらゆる措置を講じること
 

Dear Chairman, 

I am deeply concerned about the human rights situation in Chechnya where it is reported that hundreds of gay men are abducted; some even killed. 

The authorities of Chechnya denied even the existence of gay people. Gay Chechens do exist, and they live under fear of persecution and discrimination because of their sexual orientation. 

I urge you to:

・Carry out prompt, effective and thorough investigations into the reports of abductions and killing of men believed to be gay and to bring those responsible to justice.
・Take all necessary steps to ensure safety of any individual who may be at risk in Chechnya because of their sexual orientation.

Thank you.

松永天馬著『自撮者たち』(早川書房)2015年10月25日初版第一刷発行

 

 

 『自撮者たち』は、「少女」「都市」「神」「墓碑」という四つのパートから出来ている。これは少女小説のカテゴリーに入るのだろうが、その描き方は観念的であり、写実主義(リアリズム)ではない。かといって、現実に対し、観念的な遊離が起きているのではなく、逆に現実を触発する棘として機能する。この小説は、決して「少女」に媚びておらず、冷徹に「少女」というイマージュを生産する「都市」という装置、一種の欲望装置まで見据えており、時には「神」の如き、ランドサット衛星から見たような俯瞰的な視点さえも導入する。(吉本隆明は『ハイ・イメージ論』の中で、ランドサット衛星から見た俯瞰的な視点を「世界視線」とし、次第に人類は死もしくは歴史の終わりから見た「世界視線」を獲得するようになると考える。)その真意は、概念としての「少女」を解体し、実在の生身の少女を救い出すことにある。そのとき、概念としての「少女」は虚像となり、幽霊となり、言葉となり、「墓碑」が立てられるだろう。

まずは、「少女」のパートから。「スカート革命」は、アーバンギャルドの楽曲にもあるが、小説は楽曲の附随物ではないし、楽曲の補完物でもない、完全に独立した文学作品として存在する。「スカート革命」とは、端的に言って、恋による世界認識の変貌である。女の子は、恋によって、世界の見え方まで変わる。松永天馬は、時にジーグムント・フロイトの精神分析的な視点をも導入しながら、「少女」の欲望を解明する。恋は、身体的な運動を伴うものである。この事と、毒を取り入れ、血液を甘くする事とは、どういう関係しているのか。シモーヌ・ド・ボーヴォワールが『第二の性』で、「鉛筆の芯、封糊、木切れ、生きた蛙」、「コーヒーと白葡萄酒」の「混合液」、「酢の中に侵した砂糖」、「うじ虫」を我慢して口に入れる思春期の女性のエピソードを書いている。(生島遼一訳、新潮文庫、第1巻、147~148頁)なぜ、このような病的行為が生じるのか。ボーヴォワールによると、「自分の肉体に、経血に、大人の性行為に、自分がささげられている男性に、嫌悪をいだく。彼女にいやに思われるすべてのものとなれなれしくすることによって、嫌悪を消そうとするのだ。」さらに、ボーヴォワールは、「若い娘は太腿を剃刀で切り、自分の体を煙草で火傷させ、また、切りつけたり、すりむいたりする。」として自傷行為にすら言及している。(前掲書、148頁)つまり、自分が性に対して抱いている嫌悪以上の嫌悪を経験させ、「自分の処女をうばう突入(pénétration)に対して抗議しているのだ」(前掲書、149頁)。このことを考慮しながら、小説「スカート革命」に戻ると、自分の体内に毒を入れるとは、自分の受け入れがたいものを受け入れるということになる。

「死んでれら、灰をかぶれ」。この小説は、『少女は二度死ぬ』の収録曲「月へ行くつもりじゃなかった」のモチーフを膨らましたものではないかと思われる。少女は地球にいて、パパは月で働いているが、月の先住民であるうさぎに襲撃されようとしている。フィリップ・K・ディックのSF的設定を、さらにチープにしたような舞台設定で始まる。この小説は、「表層」(蓮實重彦の『表層批評宣言』を参照せよ)だけで進行し、背後世界のようなものはない。「表層」だけで進行する『不思議の国のアリス』のようである。「表層」だけなので、パパは熊のプーさんのようになるのではなく、実際に熊に生成変化し、うさぎはアメコミのようではなく、実際にアメコミの画に生成変化する。少女が月に行く方法も、「表層」だけで進行する小説ならではのもので、電車に飛び込むことによってである。「死んでれら、灰をかぶれ」は、終始、二次元の紙の上で進行するポップ文学である。松永天馬は、「表層」だけの物語に、暴露心理学的な毒性のある認識を埋め込む。物語の最後で、この物語自体が造り物で、映画の撮影シーンであることが明らかになる。寺山修司の映画「田園に死す」、アレハンドロ・ホドロフスキーの「ホーリー・マウンテン」のラストのようである。それにより、想像界に亀裂が走り、読者は現実界に放り出される。松永天馬は、次のように結ぶ。「わたしの名前は死んでれら。またの名を、灰かぶり姫。」この言葉は、中沢新一の次のような記述を連想させる。「シンデレラ(Cinderella)という英語も、サンドリオン(Cenderillon)というフランス語も、どちらも灰や煤に関係している。いつもかまどの近くにいて、からだじゅう灰まみれ、煤まみれになっている少女という意味である。」(『女は存在しない』、せりか書房収録「とてつもなく古いもの」196頁)「この少女は「灰尻っ子」という意味の「キュサンドロン」という言い方でも呼ばれています。これはとても下品な意味で、娼婦をののしる時にも「おまえの尻は灰だらけだ」という意味で、このことばが使われます。」(『人類最後の哲学』講談社選書メチエ84頁)中沢は、灰かぶり姫を「人間の世界にいるのに他の人からはよく見えない存在」(『女は存在しない』197頁)と解し、シンデレラは、かまどの近くにして「底無しの暗い死の領域」(同)とつながっているシャーマンの末裔だとする。片方の足の靴が脱げてしまうというエピソードも、一本足で旋回するシャーマンの舞踏から来ているというのである。作者は、シンデレラの語源を踏まえて、少女を暗い死の世界とつながる存在として提示している。

寺山修司少女詩集』ならぬ『松永天馬少女詩集』。語呂合わせや、韻を踏んだ部分があるので、声に出して読むと、またちがった世界が開示されるように思う。死神ならぬ「詩に紙」、「前髪ぱっつんオペラ」を連想させる部分のある「ショートカット」、ジョン・ケージだったら「4分33秒」なので、夢野久作とジョン・ケージではない「少女地獄4’44’’」、ドーナツ盤からCDへ、さらにアイドルブーム時代の少女の歌声に関する考察「幽霊にしか歌えない」、資本主義社会のなかで売買される少女の概念と、生身の血で出来た私の乖離を描く「売秋」、生と死、聖と俗(エリアーデ!)、男性・女性(ゴダール!)を結びつける三途の川を描く「濡れませんように」、資本主義の中で物神崇拝され、交換される少女のイマージュをトリセツ調の文体で描く「その少女、人形につき」。

「実録・あたま山荘事件」。若松孝二監督による映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」をフォーマットにしたプロット展開に、思春期の少女の家庭に潜む心理的問題を流し込んだ快作。この小説では、「山岳ベース事件」が「三角ベース事件」に、「赤軍派」「連合赤軍」が「赤飯派」「連合赤飯」に、「浅間山荘」が「あたま山荘」に、「浅間山荘」に激突させた巨大な「鉄球」が、男性についているものを形象化した「鉄棒」に変換させている。『少女の証明』にも「あたま山荘事件」という曲が収録されているが、唯物論者である革命戦士が、実はあたまでっかちの観念論者であり、そうであるがゆえに、テロリズムの果てに、自己批判による総括と称して内ゲバに至り、自滅していったという皮肉が含まれている。そういう意味で、連合赤軍事件について書かれた笠井潔の『テロルの現象学~観念批判論序説』とも共振性を持っているといえるが、小説の描き方は、ドストエフスキー、埴谷雄高、武田泰淳、椎名麟三、大江健三郎、笠井潔といった作家のような描き方ではない。要するに求心的で、パラノイアックで、晦渋な懐疑に満ちた描き方ではなく、倉橋由美子の『パルタイ』のような観念的で、フォルムからアプローチする方法である。この小説は、ストーリー上では連合赤軍事件をなぞるように進むが、それに仮託して語られるのは、家庭内の心理過程である。先ほど「赤飯派」と書いたが、初潮、性のめざめ、個我の確立、家庭内でのひきこもり、親子関係、母と娘の共依存といった問題が語られる。作中の情報から「あなた」が母親で、「玲子」であり、「わたし」が娘で、「玲丹」という名前だとわかる。最終段階で、母親の「玲子」が、自分の名前を「玲丹」だという。この部分が、この小説のハイライトである。この母親は自分と娘の区別がついていない。ジュリア・クリステヴァならば、一時的ナルシシズムという形で、母と娘が融合しているというだろう。母と子が自立するには、この融合をおぞましきもの(アブジェクシオン)として棄却し、二人の間に距離が生じなければならない。母のこうした態度に対し、「わたし」の方は「家(あなた)」から出ることを考える。自然に起きるのではなく、意識的に起こすのが革命だとすれば、この判断は革命的である。

 続いて「都市」のパートに移る。「病めるアイドル」は、読者参加型の小説である。前衛小説の中には、読者が参加して完成する小説がある。例えば、ミシェル・ビュトールの『心変わり』は、主人公が「あなた」という二人称である。「あなた」である読者が、小説という迷宮に入っていき、この小説は完成する。「病めるアイドル」も、作中の「××××」に、読者自身の名前を入れて読むことで、文学空間が変わる。インターネット社会では、各人が広報手段を持つようになったので、「あなた」もアイドルの要件を満たすようになった。そこで経験するのは、「不在の少女」としてのアイドル……。

都市をテーマにした詩が、この後、続いている。「東京への手紙」、都市を表すのに「絆創膏」「下着」「アクセサリー」という喩えを使っているが、これらの本質的機能は、隠蔽することにあるようだ。都市は死体を隠し、隠したものを廃棄し、虚飾で飾り付ける。今は、全てが商品化され、物象化されている。「Blood,Semen,and Death」、恋することは、時に辛い現実に触れる機会を強いる。これに対比されているのは唯物論者で、魂を信じない唯物論者は傷つかないとされている。「フクシマ、モナムール」、「白い礼服」とは「アクリルバイザー」のついた防御服のことだろう。福島第一原発の事故があって、書かれた詩である。「死者にリボンを」、クリスマスについての考察。

「自撮者たち」。スキャンダラスで超破壊的な問題作。「自撮」と書かせて「じさつ」と読ませるのは、『鬱くしい国』に収録された楽曲「自撮入門」でやっていることだが、「自撮」の背景には、自分を完全なる客体(人形)に変えたいという心理が働いているとして批判をする、それがこの小説の基本的なスタンツだ。アイドル業界(AKB48ならぬ「JST444」(自殺死死死と読める)、AKB劇場ならぬJST劇場が登場する)を題材に、主体であることを止め、人形化された人間をエクスプロイット(開発=利用=搾取)する産業構造を、筒井康隆ばりのスラップスティックによる暴露心理学、舞城王太郎ばりの暴力と疾走、事態を俯瞰的に捉えるメタフィクション(この小説に登場するゴシップ誌は、『ディスコ探偵水曜日』ならぬ『ウェンズデー』である)で、グロテスクに描いている。この小説の世界は、スキャンダル中毒で、暴露合戦と自撮写真のアップロードが過激なほどにデッドヒートしている。「殺影会」と呼ばれるゲーム上で、アイドルたちは戦うが、その際に使用するアプリ(機関銃アプリ、パチンコアプリ『ゆきゆきてKOKYO』……ところで、『ゆきゆきて○○』とは原一男監督による奥崎謙三のドキュメンタリー『ゆきゆきて、神軍』に由来するのではないか。)は、殺戮を快感に変えるようなアシッドとして機能しているように思われる。アイドルたちはスキャンダルを引き起こすと、ペナルティーで膨大な数のペニスを手術で付けられてしまうが(こんな残酷な人体改造の物語をアーバンギャルたちは読んでいるのだろうか)、この設定は膨大な数のファルスで埋め尽くされたソファを創造する草間彌生を連想させる。草間は、セックスへの恐怖を克服するために、あのような創造をしたのだというが、「自撮者たち」で何でもありの世界を疑似体験するのも、規則で縛られた現代人にとっては、一種のセラピー効果があるかも知れない。

 松永天馬詩集・都市篇の後半戦。台風ではなく、諷刺の諷を使った「台諷」。擬人化されたレコードから伺える聴くことへの偏愛。太陽のせいで人を殺した『異邦人』のムルソーが脳裏を掠める。蛇足を加えると、アルベール・カミュの創造したムルソーはmort(死)とsoleil(太陽)から出来ており、その前作の習作『幸福な死』では、mer(海)とsoleil(太陽)に由来するメルソーが主人公である。よこたんの愛猫の名前はsoleilソレイユ。フランス語で太陽の意味。この猫の誕生日が11月1日と私が知っているのは、私の誕生日と一致するからである。続いて「僕は吸血鬼か」。吸血鬼のテーマは、ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』から、日夏耿之介『吸血妖魅考』を経て、種村季弘『吸血鬼幻想』に至る幻想文学の歴史のなかで、禁忌に触れる愛、異端的なエロティシズムを表現する題材として選ばれてきたが、この散文詩においても同様である。ただ、「郵便的な距離」という言葉が指し示すように、この吸血鬼のテーマは、デリダの『絵葉書』以降の、送信されたメッセージは確実に送りたい相手に届き理解されるというロゴスへの信頼が失われた不確実性の世界において、再考される。それは、想いが届くのが不確実であるがゆえに、その絶望が不条理な狂おしいまでの想いとなって溢れるという新たな局面の開示である。都市が主題の詩がならんでいるが、どうしようもなく男であるが故の、或いは表現の探求において、ストイックで妥協を許していないが故の孤独を表現した作品が続いている。「男は僕は俺は」がそうだし、「Tのトランク」もそうだ。寺山修司の『血は立ったまま眠っている』、或いはフランツ・カフカの「なぜ、人間は血のつまったただの袋ではないのだろうか。」といった表現にも、孤独の翳を感じるが、書くことが即自己探求であるような書き手である場合、この孤独は宿命のようなものである。「君について」では、愛は、軽々しく口にして表現するものではないといった主旨の言葉が見られる。詩人の言葉は、時に反時代的である。

 続いて、「神」を主題とするパートに移る。「神待ち」。隠れ家レストラン<第七官界>でのカントクと生体サイボーグ製のウェイトレス、そして支配人の対話が中心の物語である。読者は、<第七官界>という言葉から、この物語が尾崎翠の『第七官界彷徨』の系譜に属する少女小説であることに思い至るだろう。カントクは、神様が撮ったこの世界の全情報を映像のかたちで収めたHDを編集しようとしているが、物語の最後まで神様は登場しない。終始、神が問題となっているのに、主役が登場せずに終わる点では、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のようである。物語は、カントクが注文したラーメンに切断された指が入っていたことから始まるが、(切断された指という題材は、その後の「ふぁむふぁたファンタジー」でも使われる。この指には、運命や宿命ということを意識するほどの約束という意味が含まれているように思われる。)物語の後半、カントクの映画のキャステングを決めるオーディションに移っていく。端的に言えば、神様の映画に出る適格者を選ぶのに、飛び降りさせてみるというものだ。キリスト教的実存主義者の祖キルケゴールは「私がそのために生きそして死ぬことを願うようなイデーを見い出すことが必要なのだ。」といった。セーレン・キルケゴールの言ったイデーとは、彼の神のことである。信仰者にとって、神は生死を賭すほどの濃縮された意味が込められている。飛び降りによるオーディションは、神と人のそういった関係性を勘定に入れたものなのだろう。そして、飛び降りにも耐えられる<強度(アンタンシテ)>を有する者だけが、神様の映画に出演できる適格者となるのである。勿論、飛び降りにも耐えられる人間などいるはずがない。ここで、この小説の意味合いが変容を遂げる。倉橋由美子に「隊商宿」(『夢のなかの街』)という作品がある。「隊商宿」の最後の方で、神はKに子供を授けようと、サライを身ごもらせる。こうして赤ん坊が生まれるが、神にささげる生贄の家畜がないことがわかると、Kは神から授かった赤ん坊を生贄にしてしまう。この場合、Kは神に対し過剰なまでの帰依を徹底することにおいて、神に叛逆を企てていると言える。「神待ち」に話を戻そう。なぜ、カントクは神様のためのオーディションで、少女たちを飛び降ろさせるのか。それは、怒りの神でもよい、とにかく、この世界に神を出現させたいという願望の現われではないか。被造物である人を連続的に殺すことは、悪である。そうした悪の極致において、神は存在するのだと神自らをして姿を現さざるを得ない状況に追い込むこと。カントクの行為は、神への帰依を衣裳にまとった神への叛逆ではないだろうか。つまり、マルキ・ド・サドの文学が、無神論ではなく、実は反有神論であって、悪徳を謳うことで眠れる神を覚醒させようとする倒錯した試みではないかと評されるように、カントクの行為は倒錯した信仰者のものではないかと思われるのである。なお、この物語は、そうしたメタフィジカルな物語とともに、映画業界のスターシステムの権力構造と、資本主義の中での消費財としての芸能人を追求するオブジェクトレベルの話が進行するように出来ている。カントクとは、映画業界における帝国主義的権力者であり、飛び降りをして死ぬとは、映画業界から使い捨ての消費財と見做されることを意味する。勿論、時代を超えたスターになる道はあるが、それは稀有な奇蹟であり、飛び降りても死なないような<強度(アンタンシテ)>を持つ者だけが、不死鳥として時代が変わっても記憶される人間になるというものだ。

再び、松永天馬詩集、神篇。映画の世界を語り、自身の世界(ゴダールを初めとするヌーヴェル・バーグに詳しいシネフィル?)を開示する「夢精映画」、「人間は神様のコスプレ」と語り、資本主義的消費社会の中で生き、やがて土に還っていく孤独を明らかにする「Costume P”r”ay」、人間の不完全さを語る「点点天使」、私と私でないものの境界線を思考する「肌色の夢」、自身の内に既に死が用意されていると語る「墓場にくちづけ」、神様がめくる頁として、この世界の時間の流れを捉える「めくら ないで」、詩集は悪魔の書であるべきだとする「実用詩」を収録。

「モデル」。資本主義社会の、広告代理店が幅を利かす世界での聖と俗を描く。まこと(まこちゃんと呼ばれている)は、モデルである。しかし、何が流行するかは、神様が筋書きを書いている。まことのブログの文章も、神様が書いている。まことは、造られたモデル=虚像である。この小説世界では、枕営業が常態化しているようである。まことは、広告代理店Dと、そういう関係を持っている。広告代理店DはCMをつくるが、Dの夢は映画をつくることにある。或いは、映画の話で、まことを釣ろうとしているといえる。Dは「下着はラッピングだ」などと、上野千鶴子(フェミニスト理論家。マルクス主義的フェミニズムを標榜。)の『スカートの下の劇場』のような事を言う。このことは、一時期、上野を含むニューアカデミズム、若しくはポストモダニズムが、資本主義的消費社会と共犯関係にあったことを示している。Dは生理鎮痛剤のCMを撮ったとされ、本当は血を流させたかったと言っているが、このことは暗に、アーバンギャルドの『セーラー服を脱がないで』PVはTVでは流せないということを示している。Dは、まことに対し、業界の仕組みをつくったフィクサーである神様に会ってほしいと懇願する。自身が映画を撮るために、神様に枕営業をせよというのだ。だが、まことが会った神様は、そういう存在ではなかった。この神様は、人としての身体を持っていない可能性がある。神様は自身を不確かな存在で、女性の肌に触れることができず、天から見ており、音だけの存在だとしている。この神様が、ほんものの神様か、かつてフィクサーであったものが、この世を去る時に悟り、下界を解脱し、コンピーターの中のAIに置き換えられたのか、この小説からはわからない。物語の最後に、神様の声は社長の声になるが、これがリアルな現実か、まことの観た夢か、判別がつかない。肝心なことは、まことのモデルとしての醒めた視点、一種諦観のような悟りが、この神様との意見の一致をもたらしたということ。その認識は、自分がモデルとしての肩書しか持っておらず、誰かの夢になろうとしていること、服を脱げば、人々の持っているまこちゃん像は消失するということである。まことの語る境地は、アーバンギャルドの「ノンフィクションソング」で「君の夢」と言っていることと一致する。まことは立ち上がり、歩き始める。広告のない世界へ、言葉から遠く離れて。ルプレザンタシオン(再-現前化。 表象=代理。)のない世界へ。

 最後、「墓碑」のテーマに移り、『夜想#アーバンギャルド』に初出掲載された「文字で書かれたR.I.P.スティック、或いは少女Y」が収められている。資本主義のもたらした高度情報化社会のなかで、実体とは無縁の「少女」のイマージュが増殖している。このイマージュは、資本主義の利潤追求のために利用されてきたとおぼしいが、この幻想によって実在としての少女ははなはだ生きにくい状態に置かれている。そのため、幻想の外側に連れ出すことが重要だという認識が、この作品に要領よくまとまっている。『自撮者たち』全体のコンセプトを明らかにするために、ここに置かれたのだと思う。

 

本論考は『前衛都市を知りたい子供たちVol.2』(孤独な惑星社)からの抜粋です。

https://twitter.com/harapion/status/768193002661568512

 寺嶋真里監督の主要映像作品についてまとめている間に、これらをひっくるめると、竹本健治さんの「世界征服同好会」の世界に近くなるのではないか、と思い始めた。「世界征服同好会」は、『汎虚学研究会』のなかに収録されている短編小説である。

 

 

 文学作品の映像化というと、巨大な作品の映像化を望む声があるが、たとえば、竹本健治さんの代表作『匣の中の失楽』を映像化しようとすると、至難の業である。

 『匣の中の失楽』は、『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』を継承する異端のミステリである。このうち『ドグラ・マグラ』は、寺嶋さんのお師匠さんである松本俊夫監督によって映像化されている。また『虚無への供物』は、「薔薇の殺意~虚無への供物」というタイトルで、NHKがドラマ化したことがある。これらの作品も、映像化が難しいと言われたそうだが、『匣の中の失楽』の場合は、書物として書かれたものという事自体が、非常に重要な課題になっており、虚構と現実が侵食し合うという事態になっている。これを映像化するのは、他の三大ミステリ以上に困難であろう。

 

 

 ということで、短編なのである。そのなかで「世界征服同好会」という作品を推すのはなぜなのか。

 「世界征服同好会」で描かれている世界は、大きく分けると3つのパートに分かれる。第一に、制服の少女等が出てくる学園のシーン。彼女彼等たちは、汎虚学研究会を名乗り、部活のようなことをしている。その過程で、先輩たちが残した過去の文集、過去の映像作品を見つける。これは、そこで見出す天才作家にして映像作家を探すというストーリーだ。登場する若者たちは、そんな天才作家兼映像作家なら、今も作品を書き続け、撮り続けているのが当然だと推理する。

 「世界征服同好会」を映像化するとしたら、映像内映像が必要になる。この映像内映像は、世界征服同好会と名乗る先輩集団がつくったものである。先ほどから、汎虚学とか、世界征服とか言っているが、よく言えば澁澤龍彦的・種村季弘的な幻想世界、至高性や超越性を目指す志向を表現した言葉、要は中二病なのだと思えばいい。そこで、映像内映像は、とびきり非日常的で、幻想的かつ耽美な世界でなければならない。この映像内映像は、第二のパートである。

 さて、第三のパートだが、それは何かはミステリなので言えない。それは、若者たちが予想できなかった真実の世界だ。

 問題は、第一のパートも、第二のパートも、第三のパートも、寺嶋さんが類種の場面を撮ってきたということである。初々しい制服の少女が出てくる映像も、世界を超越するかのような幻想的な映像も撮って来たし、第三の世界も「宙ブラ女モヤモヤ日記」で撮ってきた。この三つの領域をすべて撮れる映像作家というと、寺嶋さん以外にいないように思えるのである。

 仮に、これを映像化した場合、従来の映画通の客層に加えて、ミステリ系の客層を取り込むことができる。制服の少女を前面に出して、テーマ曲をアーバンギャルドのリセヱンヌにしてもいいかな。そうすれば、アーバンギャル&ギャルソンも、客層として取り込める。

『宙ブラ女モヤモヤ日記 ~ダンナに言えない秘密~』

(2016年/60分)

 イメージフォーラム・フェスティバル2016東京会場・京都会場観客賞W受賞。

 「アリスが落ちた穴の中」でみせた幻想的で耽美な作風とは一転して、なぜ現在、映像作品を撮り続けるのが困難かをドキュメンタリーと、漫画による自己戯画化で綴ったコミカルだが、シリアスな作品。

 

『つつがなき遊戯の秘蹟』

(2011年/26分)

 画廊・珈琲Zaroff 三周年記念映像作品。

 台詞がない分、観る者の想像力に働きかける作品と言える。冒頭、学校生活に打ちひしがれるスクールガールが出てくる。不安感と緊迫感。蟲とマメ山田の演ずる「??」は、少女の抱くアブジェクト(おぞましき)なものへのオブセッション。

 後半、魔女術の儀式光景が描かれる。ケネス・アンガーだとアレイスター・クロウリーだが、ここで魔女術が要請されるのは、フェミニズムとの関係だろう。五芒星と結界。聖別された領域での旋回する舞い。おぞましきもののサクリファイスが行われ、少女は再度、理科室に向かう。

 アブジェクシオンとは。http://1000ya.isis.ne.jp/1028.html

 理科室に向かうとしたのは、立ち向かうという意味である。受動態から能動態への変化。この意識革命は、魔女術による覚醒である。少女を苦しめた理科教師は、緊縛状態にされるだろう。

 

『アリスが落ちた穴の中~Dark Märchen Show!! 』

(2009年/58分)

https://www.youtube.com/watch?v=AlbTOJy3LtQ

https://www.youtube.com/watch?v=2ggyP6PqIf4

 愛知芸術文化センター・オリジナル映像作品。

 2011年4月20日、ちくさ正文館本店にて、寺嶋真里さんの『アリスが落ちた穴の中 ART ALBUM+DVD 』(STUDIO PARABOLICA)を入手。今、中身を開封。不思議なカードに捕らわれる。これは迷宮への扉なのだろうか。

 DVDで観た寺嶋真里監督作品「アリスが落ちた穴の中」は、”シュルレアリスムが戦争という大量死の時代に誕生した、状況に抗する純粋な思念の集結である”ということを想起させてくれる稀有な作品であると思った。

 「穴の中」とは何か。それは、地上との差異から意味を生じる。コリン・ウィルソンは『オカルト』の中で、人間の未知の潜在能力=X機能を「月の暗い側」にあると位置づけたが、それと同様に「アリスが落ちた穴の中」は、人間の純粋な思念もまた、地上ではなく「穴の中」にあると言っているのだ。

 「アリスが落ちた穴の中」に登場する、「穴の中」の王国。その中心に、ロウズ姫がいる。ロウズ姫は、不在の姫である。それは存在ではなく、当為である。私たちの純粋な思念、美しく無垢な思念が、不在の姫を存在せしめる。私たちが邪悪な心に囚われるとき、ロウズ姫は悲嘆あまり消失する。

 白ウサギを追って穴の中に堕ちたアリスが、ロウズ姫らと心通わせることができるのは、「アリスが落ちた穴の中」のアリスは、ある両義的な性質を持ち、地上では排除された者だからである。アリスが、ジョン・ディー博士の魔術と通じているのは興味深い。シュルレアリスムと魔術の類縁関係。

  「アリスが落ちた穴の中」が、シュヴァンクマイエルらと同様に、シュルレアリスム系の映像作品であることは、作中にエルンスト風のコラージュが応用されているからだけではない。排除と差別、戦争という暴力に満ちた地上世界に抗する精神の方向性によって、シュルレアリスム的なのである。

  ロウズ姫が、自分の眼をえぐったのは、戦争や暴虐に明け暮れる地上の人間たちの未来を見たくなかったからである。地上の人間であるアリスに心を許し、再度見ることを許したのは、アリスが無垢であるがゆえの地上の単独者であったためである。

  地底の王国は人間の純粋無垢の想念が紡ぎ出した王国である。従って彼らが地上に出てくると、冷酷非情な現実原則に遭う(戦争の銃弾が降り注ぐ)。最後、アリス役のマメ山田が白紙の本を広げていたのは示唆的で、地底世界が、想像上の世界だと示している。

 わたしたちは、各人が心のなかに、純粋無垢の想像上の世界をもって生きるべきである。そうすれば、戦争と暴虐の支配する世界への、微力ではあるが確実な抵抗の精神となるだろう。

『shanghai flowers』

(2008年/20分)

 タトゥー、ボディ・ピアッシング、スプリット・タンの世界を、嘗め回すように撮った作品。(ケネス・アンガーは「スコピオ・ライジング」で、バイクをこんな感じで撮っていた)

shanghai flowers ダイジェスト版 

https://www.youtube.com/watch?time_continue=2&v=y8z91HDUkDU

https://www.youtube.com/watch?v=Ew7VYy1Tktw

 

『エリスの涙』

(2003年/15分)

 森鴎外『舞姫』とジョルジュ・バタイユ『エロスの涙』の邂逅。

 寺嶋作品の多くは、こちらが没入して作品世界に入り込み、想像力を働かせて作品と観る者とが共同でストーリーをつくっていくタイプのようで、この作品もその範疇に入るようです。

 森鴎外の『舞姫』を基にしたロマンティシズム溢れる短編。日本から来た医学生、鴎外はエリスを棄て日本に帰国する。エリスの流す涙が黒いのは、一人残された者の絶望である。だが、黒い絶望と拮抗する形で、生は美しく輝く。美と絶望は、硬貨の表と裏のような関係なのだ。

 

『姫ころがし』

(1999年/35分)

 山形ドキュメンタリー映画祭出品作品。

 19世紀のフリークス趣味に関するナレーション(偏奇なものを見たがる人間の方こそ、異常なのでは)から、この映画の趣旨が判る。この映画に登場するのは、ドラァグクイーン(シモーヌ深雪)と軽度の知的障碍者の女性。差別に対する価値転倒の企てこそ映画の狙いである。

 この映画は、作り物の部分と、事実の部分が交互に現れる。映画の冒頭から、撮影対象の小夜美ちゃん自身にカメラを持たせるのも、価値転換を起こすためだ。事実の部分は、好きなものを撮らせたり、好きな音楽と映像を選ばせたり、小夜美ちゃんの好きに任せている。

 虚構の部分では、小夜美ちゃんに白いドレスを着せて、シモーヌ深雪と同席させたり(ジャム好きの小夜美ちゃんは口の周りを真っ赤にしてしまう)、雛壇の前で見合いをさせるが、最終的には言い寄ってきた男をお母さんが殺す等の、意図的にわざとらしい素人芝居が続く。

 この映画は文化人類学を連想させる。文化人類学者が未開民族のもとに行く。慣れてくると未開民族が文化人類学者のタームを使って、自身の習俗や神話を解説し始める。この映画も最終シーンで、小夜美ちゃんに「寺嶋さん、こんなん撮ってて愉しいの」と言われてしまう。

 

『夜の公園・白薔薇』

(1997年/11分)

 百合的めいた雰囲気の漂う女学生二人とその母親らしき女性が、青い布を裁断し裁縫をしている。この母親が鋏を掲げると、「気狂いピエロ」のアンナ・カリーナのようになる。

 気狂いピエロ https://www.youtube.com/watch?v=WLSqoC4iRWA

 三人の女性の裁縫のシーンの背景で、レオノーラ・キャリントンのシュルレアリスティックなテクストと尾崎翠の少女小説『第七官界彷徨』の朗読が行われている。朗読というのもゴダールがよく使う手法だが、この作品では二つの朗読が同時に行われ徹底されている。

 しかし、ハサミとか朗読よりも、最後の方に現れる無数の針を刺した手袋、裁縫の針が突き刺す生地が人の柄であることが重要で、女性だけの夢想で閉じられた世界に、無意識の不安感が露呈する、そこが重要なのだと思う。広義の超現実主義的な映像。

 もう少し探求してみよう。針が示しているものは何か。端的に、加虐と被虐であると思う。(女性だけの世界に加虐と被虐の関係性が入り込む文学作品としては、松浦理英子『セバスチャン』がある。)たぶん夢想の外部のリアルを求める願望が、そうさせるのだろう。

 

『女王陛下のポリエステル犬』

( 1994年/ 35分)

 オーバーハウゼン国際映画祭入選作品。

 非常にポップな作品。題名から『女王陛下のピチカート・ファイヴ』、作中の水玉から『スウィート・ピチカート・ファイヴ』のジャケットを連想してしまった。

 どの角度からでも映画的に見える主演の女性は誰か調べたら、美術作家のやなぎみわさんだった。音楽レイ・ハラカミ。

 

『夢のとりで』

(1991年/19分)

 教会の礼拝堂、但し椅子等はなく、廃墟でのシーンから始まる。主人公はメイド。鬱屈したものがあるのか、そこにあった宗教画を破壊する。メイドが仕える家族のシーンに切り替わる。動画ではなく、写真を連続させる形で進行するのが斬新。

 家族は、それぞれ高い棒の先に繋がれたロープをもって、円環を描くように回っている。予定調和の象徴的表現か。メイドの語りにより、坊ちゃまから求婚のメッセージを受け取ったとされる。秘密のやり取り。この語りが真実を言っているか、虚言なのか、判定ができない。

 再び、教会堂のシーン。メイドが幻視するのは、古代エジプトのような衣裳の坊ちゃまと、その家の子供。過去生において繋がりがあるということなのだろうか。シュルレアリスティックな表現。坊ちゃまとのやりとりが露呈し、混沌が生じる。予定調和の円環の崩壊。

 最終的に鮮烈で破壊的なシーンに向かう。最初の絵画を傷つけるシーンは、この事の象徴的表現だった。メイドを置くような名家の抑圧性は、作中、雛鳥を踏むシーンで表現されていたが、恋を禁じられたメイドは、この家族に叛逆を企てる。精神分析的な内的宇宙のドラマ。

 登場した家族の父親役は、どうやらこの人のようだ。

幸村真佐男総合研究  http://kohmura.org/

 

『緑虫』

( 1991年/41分)

 「幻花」に赤い部屋が出て来ましたが、今度は緑の部屋です。むぅ少年は、緑の部屋に引きこもり、呪術に近い奇怪な想念に耽っているようです。時折、女性が食べ物を持ってきます。むぅ少年は、窓に貼った紙を剥がしてみるのですが、外を恐れているようです。

 「緑虫」は、心理的ホラーというべき作品なのでしょう。見る人は、少年がなにゆえにこのような状態になったのか、少年の心に何が起きているかを考えるでしょうが、手掛かりはわずかです。どうやらピアニストの男性の恋人と母の不和が、次世代である少年の心を歪ませているようです。 

 とはいえ、通常のミステリとは違い、明確な像を描くことはありません。少年の歪んだ夢想のなかで推理しないといけませんから、最後までリアルな地点に着地することはありません。少年の父母?の生死すら分かりません。真夏の夜の寝汗のような作品。要するに心理的ホラーとしては最上質の作品だと思います。

 

『幻花』

(1990年/35分)

 赤い部屋で小人が踊るのは「ツインピークス」だが、あの赤い部屋は俗なる世界とは一線を画した超越性の次元を示していた。「幻花」でも赤い部屋が出てくるが、そこで展開されるのは禁断の見てはいけない世界。ピエール・クロソウスキーの「ロベルトは今夜」の如く倒錯の世界が……。

 赤い部屋には異装倒錯の老人(堀宗凡 http://2ndkyotoism.blog101.fc2.com/blog-category-106.html)がいて、その部屋には少女の肖像画が掲げられている。少女は既に故人である。手袋に対するフェティシズムなのか、白痴の下男が老人を手袋で撫ぜると、幻影の世界に入る。

 手袋に対するフェティシズムにより、幻惑の世界に没入した老人は、さらに紅を引き、少女の衣裳を身にまとい、死せる少女と自己同一視をする。だが、幻覚は永遠に続かない。忽然と少女の死に気づくと、老人は覚醒し眠りに就く。再び目覚めると、手袋と異装で再度狂気に陥る。 

 つまり、老人は、狂気と正気の間を何回もループしている。いわば『ドグラ・マグラ』の時計の音の代わりに、この「幻花」では少女の手袋で触覚を刺激するという行為があるといえる。「幻花」の世界は、この世界からは狂気だが、現実に穢されていない純粋な世界である。

 最終場面は、鳥の羽が無限に降り注ぐ恍惚の世界である。少女は甕から、老人に何やら白い液体をかけるが、おそらくは老人は、自身の自我の解体に対して快楽をかんじていると思われる。このような強度をもった幻影は、それまでの幻影の水準を超えており、老人の死の示唆だと思う。

 

『初恋』

(1989年/25分)

 「車椅子の男(木下長宏)と少女」と「タロット占いの女(山口通恵)と少年」の組み合わせがあり、少年が少女に恋をするという話だが、事は簡単ではない。実は、少年(亀川容子)は、少女(亀川容子)であり、これは人格形成の一過程でナルシシズムが忌避される話だから。

 この作品は、シュルレアリスティックで、幻想的に描かれている。妄想世界のなかで、少年は車椅子の男になり、鎖に繋がれている。或いは、少女は、少女の飼っている文鳥になり、籠の中に入れられる。このことは、少女も少年も、家族のなかで自由ではない事を示唆している。

 夢幻は、死への憧憬へと誘う。ある時、車椅子の男の前に、棺が置かれている。棺の中に少女が眠っているが、これはお芝居である。少女は車椅子の男(父親?)の手を取り、棺の中に引きずり込む。死との戯れと、禁忌としての近親愛。小さな死=オルガスム。

 欲望は、家族の外部への接続を希求する。少年が見ている時に、少女は車椅子の男を後ろから突き落とし、殺意を露わにする。これもまた、妄想であって、現実ではないが、家族の外に出て自由になりたいという希求を表している。

  タロット占いの女性(母親?)は、少年に死神のカードをみせる。この事は、この映画の最後を暗示している。家族の外に出たいという欲求が表面化するにつれて、自分が自分に恋する、少年が少女を恋するというナルシシズムの欲求は殺害されなくてはならない。

 ナルシシズムの欲求の殺害は、象徴的次元で行われる。仮面のダンサー(高安マリ子と仲間たち)の舞いは、自由になるための儀式を示唆し、炎の輪という聖別された空間での死は、過去の自分の死と新しい自分としての再生を意味している。

 出演者の木下長宏氏は、『思想史としてのゴッホ』を書いた美術史学者であり、山口通恵氏は、京都造形芸術大学教授だった染色作家だと思われる。

 

 

 

「映像女性学の会」は、
2001年に生涯学習事業として開催された都民カレッジの「映像女性学」を受講した者を中心に結成され、2002年より女性監督作品の上映と監督トークを企画・開催してまいりました。

【日時】2016年8月20日(土)
18:30~20:30

【場所】渋谷男女平等
・ダイバーシティセンター
(渋谷区文化総合センター大和田8F)

【参加費】無料
※カンパ歓迎!!
※事前予約の必要はありません。
ゲストトーク:寺嶋真里監督
http://honey-terashima.net/index.php?option=com_content&task=blogcategory&id=1&Itemid=2

『宙ブラ女モヤモヤ日記~ダンナに言えない秘密~』

【上映作品】
『宙ブラ女モヤモヤ日記~ダンナに言えない秘密~』
(2016年/60分/デジタル作品/寺嶋真里監督)
※イメージフォーラム・フェスティバル2016東京会場観客賞受賞
http://imageforumfestival.com/2016/archives/1565

◆作品解説◆
もし更年期だった場合のタモリがブラタモリしたらどうなる?という着想から、「Hours」ジャージにサンダルのD.ボウイを頭の中で妄想しつつ、スケッチ的に撮り溜めた素材と漫画家・榎本由美先生とのコラボでブラブラモヤモヤ感を描くコメディータッチのささやかな日常セルフドキュメンタリー。

◆作品データ◆
★漫画:榎本由美
★出演:アマネ、榎本由美、小口容子、霞鳥幻楽団、今野裕一、セーラー服おじさん、寺嶋真里、土居晴夏(HALUKA/スリーフィンガーズ)、トム・ソーヤ工房 / 王様、madclown、まぼろし搏覧会 / 館長セーラちゃん、真夢、マンタム、森園みるく、ヤジマチサト士、山崎丈、山崎はな、山崎幹夫、山田勇男、よねやまたかこ(スリーフィンガーズ)、Rose de Reficul et Guiggles
★ギター演奏:吉本裕美子
★音楽:綿引浩太郎
★撮影:岩切等、JK、寺嶋真里、春佳、三浦淳子、ヤジマチサト士、山崎スヨ
★デジタルテクニカルアドバイザー:山崎スヨ
★絵画提供:横田沙夜『赤ずきん』
★ロケ協力:Billy's Bar GOLD STAR、Parabolica-bis、まぼろし搏覧会
★資料提供:中村趫
★その他協力:Rose de Reficul et Guiggles
www.victorian666.com
toecocotte.com
victorian.cocotte.jp/salonindex.html
★協賛:藤田暉正、kenG

【主催】映像女性学の会
【お問合せ】映像女性学の会・小野まで
(mail★ ycinef@yahoo.co.jp tel★ 090-9008-1316 fax★ 03-3306-2762)