ジョン・コルトレーン John Coltrane

Trane's Works 55, 56 ◆ ◆ジョン・コルトレーン年譜


ジョン・コルトレーンを存分に楽しみたい。John Coltrane を聴く快感、快楽、享楽。そしてその感動、感銘。コルトレーン・ミュージックの多様な愉しみ方を探ります。


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コルトレーン入門 ジョン・コルトレーンのプロフィール
コルトレーン、ヘロインを断つ 目次


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ジョン・コルトレーンのプロフィール(take1)



ジョン・コルトレーン John Coltrane-Giant Steps ジョン・コルトレーン John Coltrane-My Favorite Things ジョン・コルトレーン John Coltrane-Live at the Village Vanguard

ジョン・コルトレーン John Coltrane-A Love Supreme ジョン・コルトレーン John Coltrane-Meditations ジョン・コルトレーン John Coltrane-Interstellar Space



コルトレーン入門です。



John William Coltrane: 1926, 9/23 - 1967, 7/17.

モダン・ジャズの全盛期を代表する黒人のテナー・サックス奏者。アメリカ、ノースカロライナ州に生まれ、フィラデルフィアで青年期を過ごす。長い雌伏の時を経た後、本格的にニューヨークに進出、30歳を過ぎてからジャズ・ミュージシャンとしての名声を確立した。主要作品は1950年代後半から1960年代後半までの約10年間に集中している。

メイン楽器であるテナー・サックスの他に、1959年からは第2の楽器としてソプラノ・サックスも使用(スタジオ・レコーディングでの使用は1960年から)、1965年以降は盟友エリック・ドルフィーの形見、バス・クラリネットとフルートでの作品もレコーディングし、最晩年は胸を叩きながら声を出すというヴォイス・パフォーマンスも披露した(ただし音は残っていない)。

コード:50年代、モード:50年代後半から60年代半ば、フリー:60年代半ばから後半、と次々に即興イディオムを更新し、それぞれの時期における異なるスタイルは同時代及び後発のテナー・サックス奏者に多大な影響を与えた。

しかし、圧し潰されたような硬く締まった音色、時に耳障りなほどの音量、甘さのない厳かな風格、音数の多さといった特徴は各時期を通して一貫している。

特に、途切れなく音を繰り出す傾向は、和声探求の時期(*)に評論家のアイラ・ギトラーによって「シーツ・オブ・サウンド」とネーミングされ、コルトレーンの演奏を形容する言葉として定着。コルトレーン自身はハープに想を得た目まぐるしい速さで吹かれる音の連鎖をスウィーピング・サウンド(急過するサウンド)と呼んでいた。

(*)プレスティッジ時代からアトランティック時代の初めに対応。

例)『ジャズ・アット・ザ・プラザ』『セッティン・ザ・ペース』『ブラック・パールズ』(いずれも1958年。狭義の「シーツ・オブ・サウンド」「スウィーピング・サウンド」がこの時期)、『マイ・フェイヴァリット・シングス: コルトレーン・アット・ニューポート』(1963年)に収録の「インプレッションズ」、『インターステラー・スペース』(1967年)等。


そしてその高度なテクニックを要する演奏を実現するため「強迫的」に練習したことでも知られており、友人のミュージシャンたちの証言による多くのエピソードも残っている(**)。

(**)「シーツ・オブ・サウンドの獲得へ向けて」「難曲レコーディングの顛末」「あの人の音楽は諦めるということがないの」 等、参照。


その一方、バラード演奏では若干のパラフレーズと装飾音を加えるのみで目立った即興はせず、テナーとしては異例の高音を使い、原曲のメロディをほぼストレートに吹いてコルトレーンに固有の静謐さを醸し出した。

例)『バラード』(1961~1962年)、『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』(1962年)、『ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン』(1963年)等。さらに「アラバマ」(『コルトレーン・ライヴ・アット・バードランド』収録。1963年)、「サーム」(『至上の愛』収録。1964年)、「ソング・オブ・プレイズ」(『ザ・ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ』収録。1965年)といったテナー・サックスで詩を吟詠したルバート部分をもつ作品。


モードの採用以降は音楽の外部の意匠として、またコルトレーン自身の内的な必然性から、エスニックな要素と共にスピリチュアルな側面が次第に色濃くなっていき、時に即興と相剋し時に協和してコンヴェンショナルな「ジャズ」の外部へと大きく離脱していった。

ただし最晩年、生前に発表されたアルバムからは 'Prayer and Meditation'("Transition")、'Amen'("Sun Ship")、'Om'("Om")、'Father and the Sun and the Holy Ghost'("Meditations")といったあからさまな宗教的タイトルは姿を消しており、コルトレーン・ミュージック成立後(*)の作品全てを「宗教性」で説明し、受容することには警戒を要するかも知れない。

(*)さて、問題です。それはいつのことでしょう。色々な説があると思います。

実際の信仰の有無にかかわらず、自身が義とするところを探求し、その実現を欲する者を「宗教的」であると見なす、とコルトレーン自身は述べている(*)。

(*)Lewis Porter, "John Coltrane: His Life and Music", p.259。1958年6月15日のオーガスト・ブルーム August Blume によるインタヴュー。


生涯

1926年9月23日木曜日、コルトレーンは服の仕立て兼ドライ・クリーニング業を営み音楽を趣味とする父と、信仰心が篤く音楽教育を受けたこともある母の間に生まれた。両祖父はアフリカン・メソジスト・エピスコパル・シオン(AMEZ)教会の牧師だった。

生後数ヵ月で父母と共にハイ・ポイントの母方の祖父、ブレア牧師のもとに移って幼少期を送る。ブレア牧師を家長とする持ち家には後に従妹メアリーとその父母の伯父伯母も加わり、計8人がひとつの家族のようにして暮らした。

しかしその後、12歳から約2年の間に祖父、父、祖母、伯父が次々に亡くなり、女親二人に息子と娘の4人だけの家族になってしまう(*)。コルトレーンはこの不幸の最中に本格的に音楽を始め、まずコミュニティ・バンドでアルト・ホルンを割り当てられるが間もなくクラリネットに変更。ハイ・スクール入学後はスクール・バンドで主にクラリネットを吹き、のちアルト・サックスを併用。この時期からフィラデルフィア時代の初期までは主にスウィング・ジャズに夢中になり、レスター・ヤングジョニー・ホッジス といった名手をアイドルとした。

(*)少年期に被った近親者の多重喪失が及ぼす可能性がある影響については、「相継ぐ近親者の死」 及び「どうしても死から顔を背けてしまう」 から「父早世の影 」 (『コルトレーン、ヘロインを断つ その64~97』)までを参照してください。


ハイ・スクール卒業後はフィラデルフィアに移り、仕事をしながらオルンスタイン音楽学校に通い、1945年からプロとしてのキャリアが始まる。この頃にベニー・ゴルソン、カル・マッシー、ジミー・ヒースらと出会い、終生の友となった。同年6月、徴兵の2ヵ月前にチャーリー・パーカーの演奏に接して衝撃を受け、強く影響される。それまでホッジスばりのアルトを吹いていた青年は、早くも1年後、徴兵先のハワイで覚束ないながらもパーカーを模倣する姿をプライヴェート・レコーディングに残している(*)。

(*)「1946年、二つの初ソロ」 参照。


除隊後はグラノフ音楽学校に移り、デニス・サンドル、マシュー・ラステリらに師事、プロとしての音楽活動のかたわらレッスンは断続的に50年代の初めまで続けられた。以後ジョー・ウェッブ、キング・コラックス、エディ・クリーンヘッド・ヴィンソン等、R&Bのバンドを遍歴しツアーも経験する。この頃にヘロインに手を染めたらしい。1948年に参加したエディ・クリーンヘッド・ヴィンソンのバンドではリーダーがアルト奏者だったため、やむなくテナー・サックスを担当、アルトとの併用が始まり、この併用は50年代前半まで続いた。

1949年、ディジー・ガレスピーのビッグ・バンドに加入するが、まだソロをとる能力が充分でなくリード・アルトの席に甘んじる。しかしガレスピーのツアー中、ロサンジェルスで歌手・ピアニストのビリー・ヴァレンタインと初めてのコマーシャル・レコーディングを行い、3曲でテナーによるソロをとる。

1950年、ガレスピー・ビッグ・バンド、バンド経営の行き詰まりからコンボに縮小。コルトレーンはテナーとして留まり、メインの楽器がアルトからテナーにシフトした。デクスター・ゴードンを中核に、ワーデル・グレイ、ソニー・スティット、ポール・ゴンザルベス、やや後にはコールマン・ホーキンス等、多様なテナーを範とし、漸くこの頃コルトレーンと認知可能なスタイルが形成され始める。しかしガレスピー・コンボを去った後、東海岸のジャズ・シーン低迷のため、ゲイ・クロス、アール・ボスティック といったR&Bバンドやホンキングを要求されるバーなどで糊口を凌いだ。


ジョニー・ホッジス

1954年、ジョニー・ホッジスのバンドに加入し、ツアーに出る。この頃ベーシスト、スティーヴ・デイヴィスの家でナイーマと出会う。ツアー先のロサンジェルスでホッジス・バンドの演奏がプライヴェート録音され、"First Giant Steps" (Rare Live Recordings RLR 88619) で聴くことができる。やや切れが鈍いとはいうものの、コルトレーンらしさのベーシックな部分はほぼ完成されており、充分鑑賞に耐える安定したソロを4曲で披露している。ただこの安定をR&Bやスウィング・ジャズではなく、モダン・ジャズのコンテクストにおいても保持するためにはさらに数年を要し、またヘロインを断たねばならなかった。ツアー中ヘロイン使用が昂じたためコルトレーンはホッジス・バンドを解雇され、フィラデルフィアに戻り、フリーランスで活動再開。


マイルス・デイヴィス・クインテット

1955年9月、ヘロイン依存克服のためレキシントンのナルコティクス・ホスピタルに入院したソニー・ロリンズの後釜を探していたマイルス・デイヴィスは、フィリー・ジョー・ジョーンズとレッド・ガーランドの推薦でコルトレーンを起用(*)。それまでリーダーの要求に従って演奏するばかりだったコルトレーンは、プロである以上何をすべきかは自分で考えるべきだというデイヴィス(ママ。笑)の考え方に触れ、自分自身を大きく押し出す必要に迫られて後の大飛躍へと至るその端緒がここに開かれる。ハード・バップを代表する高レベルなグループの中にあって、自身の演奏能力を超えて果敢に挑みミスを多発する悪戦苦闘と共に、この時期(1956年)の演奏には曲ごとに全く異なるスタイル、テイストを試みてテナー奏者としての自身の在り方を模索する悦ばしき拡散とでもいったものも聴きとることができる(**)。

(*)この辺の事情の詳細は「ホッジスの許を去り、マイルスのバンドに合流するまで」 を参照。

(**)「55,56年のコルトレーン、どれを聴くべきか(初期ジョン・コルトレーン、おすすめ)」 を参照。


そして恐らく、このマイルス・デイヴィス・クインテット在籍時に自身がどのようなプレイヤーになりたいのか、なるべきなのかというヴィジョンをつかんだのではないかと思われる。和声探求への開眼である。以後、コルトレーンはハード・バップ的洗練というトレンド・枠組みの中で、ビバップを突き詰め先鋭化した即興を展開することになる。

モチベーションの高まり、クインテットの解雇、モンクとの出会い、プレスティッジとの専属契約といった紆余曲折を経て1957年春、漸くヘロインを断つことに成功した(*)コルトレーンは初リーダー・アルバム『コルトレーン』をレコーディングし、ソロとしての第一歩を印した。この時既に30歳だった。

(*)詳細は「コルトレーン、ヘロインを断つ」 その1~9、及び「マイルス、コルトレーンをパンチ!?」その1~3、「コルトレーンとヘロイン」その1~3を参照。


セロニアス・モンク・カルテット

約10年の下積みの後、マイルス・デイヴィス・クインテットできっかけをつかんだコルトレーンが大きな飛躍を遂げたのはセロニアス・モンクの下でだった。音楽に関する会話がほとんどなかったというデイヴィス(ママ)の場合とは対照的に、モンクは始終音楽について語り、質問でもしようものなら理解するまで何時間も費やして説明したというから、和声についてのアドヴァイスも多々受けたであろうと想像される。

コルトレーンひとりをフロントに据えたセロニアス・モンク・カルテットのファイヴ・スポット出演が57年7月18日に開始されるや、その斬新な演奏がミュージシャンを含めた聴衆に強いインパクトを与え、音源が一切残っていないこともあり、このライヴ・パフォーマンスは伝説と化した。

J・J・ジョンソンはチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー以来の衝撃だったと証言している。恐らく当初はモンク目当てで毎晩通っていたのであろうスティーヴ・レイシーは徐々にコルトレーンの演奏に深く魅了されていったに違いない、レイシーもまたその斬新さに言及した。バド・パウエルもクラブの外にできた列に並んで四晩耳を傾け、強く印象付けられたという。

聴衆には他にエルヴィン・ジョーンズ、フィラデルフィアからわざわざ訪れたマッコイ・タイナーらがいた。当時若干二十歳のアーチー・シェップも毎晩通い、和声についてコルトレーンの教えを受けたりした。恐らく、比類ないモンクス・ミュージックの中で、原曲にないコードをスーパーインポーズし、それをあのシーツ・オブ・サウンド、あるいはスウィーピング・サウンドで延々と吹いてみせたりしたのであろうと思われる。

当然のことだが、『トレーニング・イン』や『ブルー・トレイン』といった初期の代表作はセロニアス・モンク・カルテット在籍時の作品でもある。ある意味で、その作風のモンクス・ミュージックとの懸隔が意外であるかも知れない。しかし、コルトレーンにとって、モンクの影響というのは作風の模倣という形では表われず、自分はこれで行くと決めたスタイル、方向性を鼓舞し、何よりコルトレーン自身であることを刺激するものだったと考えれば納得できるだろう。いわばモンクは自分自身であることの自由をコルトレーンに与えたのだ。そして実際に、ファイヴ・スポットの契約が終わると共に自身の許からコルトレーンを解き放った。


マイルス・デイヴィス・バンドに再合流

1958年1月、コルトレーンはマイルス・デイヴィス・バンドの再結成に請われて再加入し、60年前半まで在籍(途中一時的に離脱するも諸般の事情により残留)。この頃和声による即興に限界を感じていたデイヴィス(ママ)はモード(旋法)に基づいた即興を導入して『マイルストーンズ』(1958年)、『カインド・オブ・ブルー』(1959年)をレコーディング、コルトレーンもよくこれに対応し、以後の新たな展開に重要な影響を与えた。

他方でいわゆる“シーツ・オブ・サウンド”により磨きがかかってスケールやアルペジオを縦横に散布、前回のマイルス・デイヴィス・バンド在籍時に比較すると非の打ち所の無い程の驚異的な技術レベル(音色を除けば)へと到達すると共に、ビバップの延長線上で和声探求を徹底的に推し進めたその極限から独自にモードを導き出す。

コルトレーン・チェンジズと呼ばれる代理和声進行による作品・即興は、難曲「ジャイアント・ステップス」(1959年『ジャイアント・ステップス』収録)でピークに達した(この曲・演奏自体はモードを採用しているわけではないので要注意)。

この時期の演奏の速さ・激しさから一部のジャズ・ジャーナリズムから「怒れる若きテナー angry young tenor」というレッテルを貼られたが、本人は「怒り」の感情をきっぱりと否定している(*)。

(*)「独自性の獲得とキャリア前半の消極性」 を参照。むちゃくちゃ読みにくい記事ですビバせんねえ。m(_ _)m


だがこのままマイルス・デイヴィス・バンドにいては自身の音楽的探求を反映させた作品をライヴで演奏できないというフラストレーションを抱えていたことも事実で、ことあるごとに脱退を計ってもいた(*)。

(*)「マイルス・デイヴィス・バンドの辞め際」 を参照。


自身のグループを結成・本格的一本立ち

1960年、脱退を条件にマイルス・デイヴィスの3月から4月にかけてのヨーロッパ・ツアーに渋々同行、帰米後いよいよ自身のグループ結成に乗り出すが、マッコイ・タイナー(p)、アート・デイヴィス(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)という当初望んだ布陣が諸般の事情により実現できず、徐々にメンバー交代して同年9月に漸くマッコイ・タイナー(p)、スティーヴ・デイヴィス(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)というメンバーに落ち着き、10月に都合4回、『マイ・フェイヴァリット・シングス』、『コルトレーン・プレイズ・ザ・ブルース』、『コルトレーンズ・サウンド』として纏められた、アトランティックへの集中的なレコーディングを行った(及び『コルトレーン・ジャズ』に収録された「ヴィレッジ・ブルース」)。

演奏内容はコルトレーン・チェンジズをスタンダード、唄物へ適用(リハーモナイズ)したコンパクトなサンプル集とでもいった既に達成された成果の応用編と、有名曲を簡素化したモーダルなアプローチを採用した試み等から成る。中でも親しみやすいメロディにモーダルなセクションを挿入すると共にポリリズムを導入したソプラノ・サックスによる「マイ・フェイヴァリット・シングス」はジャズにかつてない清新さをもたらし、アルバムは発売後一年間にジャズとしては異例の5万枚以上のセールスを記録し、かつ編集による短縮ヴァージョンがシングルとしてもリリースされ初のヒットとなった。


1961年、ヴァンガード・セッションの年

アトランティックからABCパラマウント傘下のジャズ専門レーベル、インパルス!に移籍した1961年に入り、コルトレーンの音楽的投企は一層拡大され多様化する。モードへの移行により和声の外部がコルトレーン・ミュージックに雪崩れ込んだためで、果ては和声探求時にはひっそりと潜在していたスピリチュアリティがあたかもコンヴェンショナルなジャズの外部であるかのように顕在化の兆しを見せる。

アフリカ、スペイン、インド等、エスニックな要素を導入、インドのウォーター・ドラムに想を得たダブル・ベースなどもしばしば採用される。またオーケストラ作品(『アフリカ/ブラス』)や、エリック・ドルフィー(as, fl, bcl)、フレディ・ハバード(tp)(『オレ』)、ウェス・モンゴメリー(g)らのレコーディングやライブへの参加等、様々な編成による試みが繰り広げられた。

以上のような傾向は11月のヴァンガード・セッションでピークを迎える。直接的にはジョン・ギルモアやエリックドルフィーの影響、そして背後にはオーネット・コールマンの刺激などもあったと思われる、フリークトーンを多用したコンテンポラリーなブルース「チェイシン・ザ・トレーン」、マイルス・デイヴィスの「ソー・ホワット」と同じDドリアンとE♭ドリアンから成るモード曲「インプレッションズ」、ヴェーダ讃歌をもとにした「インディア」、ニグロ・スピリチュアル「Nobody Knows De Trouble I See」の稀少ヴァージョンを参照した「スピリチュアル」等を、4日間にわたるのライヴ・セッション中にトリオからオクテットの幅を持つ編成で演奏し、そのつど異なる響きを引き出した。ヴァンガード・セッションがコルトレーン・ミュージックの爆発的開花の一つであったことは紛れ様も無い。


批判と路線変更

しかしコルトレーンの新しい要素を貪欲に吸収し、あるいは異質な人材を積極的に受け容れた音楽的主体の悦ばしき拡散的複数化はヴァンガード・セッションをメインにジャズ・ジャーナリストたちの批判によって水をさされてしまう。それぞれの楽器の可能性を押し広げることを意図したコルトレーンとドルフィーの独自なサウンドが例えば「アニマル・サウンド」という風に奇矯と捉えられ、当時としては未だ例外的だったソロの長さも冗長だとして槍玉に挙げられた。

批判というよりはあからさまな嫌悪と言った方がより正確なこの攻撃の正当性はともかくとして、インパルスのプロデューサー、ボブ・シールはこの悪評がレコードの売上に響くことを懸念して翌62年から63年にかけていくつかの企画物を提案、コルトレーンはこれを承諾し、黄金のカルテットによる最初のアルバム『コルトレーン』を異様な丁寧さで創り上げたあと、『バラード』、『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』、『ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン』がレコーディングされ、ジャーナリストたちからも概ね好意的に迎えられたが、後にコルトレーンはこの時期を「音楽によって人々を幸福にする」という、1957年にヘロインを断った際、神に誓った使命からの逸脱として回顧した。

しかしこのヴァンガード・セッションを中心とした多様な試みの一頓挫は、皮肉にもいわゆる「黄金のカルテット」の並外れた成熟へ向かう集中をもたらし、1963年後半、企画物をクリアした後、神に誓った音楽的使命への段階的軌道修正を経て、1964年には「黄金のカルテット」の名を不動のものとする大傑作が産み出された(*)。

(*)この経緯の詳細は“強迫性=完全主義”という観点から検討した「コルトレーン、ヘロインを断つ」の「リテイク魔コルトレーン Retake The Coltrane」 (その55)から「バラードのおさらい、結論、完全主義その後」 (その61)までと、ストレス状況への暴露による断薬後の渇望という観点から改めてたどり直した「I let technical things surround me so often」 (その107)から「音楽的使命の再確認と断薬5年目の危機(おまけ)」 (その112)を参照。


1964年、『クレッセント』そして『至上の愛』

1964年、コルトレーンはインパルス専属以来初の全曲オリジナル(*)のアルバム『クレッセント』と『至上の愛』をレコーディング、即興の衝動性を抑制しトータルな表現を優先したこの2つの作品はその完成度の高さから「黄金のカルテット」あるいは「クラシック・カルテット」の最高傑作であると目されることが多い。コルトレーンはどちらのセッションもソプラノは使用せず、テナーに徹した。

(*)「インプレッションズ」をオリジナルでないと見なせば。

4月27日と6月1日にレコーディングされた『クレッセント』は深い陰影と重厚さ、厳粛な静謐さと緊迫感を湛えたコルトレーン・ミュージックそのものとしか言いようのないバラードで統一され、ミディアム・アップの「ベッシーズ・ブルース」(*)が程よいアクセントを成す。デイヴ・リーブマン、フランク・ロウ、マイケル・カスクーナ(プロデューサー)らは『至上の愛』よりもこちらを評価している。

(*)翌65年6月10日にレコーディングされた、文字通り最後のブルース「The Last Blues」と並び、誰が聴いてもそれとすぐにわかるブルースの最後の顕れの一つ。大文字の「ブルース」は以後ほとんど演奏されなくなるが、「ブルース的なもの」はコルトレーンの演奏に深く浸透して維持される。同様にこの時期既に大文字の「ジャズ」は背景に退き、最早ジャズそのものではないが「ジャズ的なもの」を深く湛えた紛れも無い「コルトレーン・ミュージック」をこの1964年の二つの作品では容易く認知できるだろう。その意味で明らかにジョン・コルトレーンは「ジャズの終わりの始まり」の先駆けだった。だがなぜ「ベッシー・スミス」なのだろう。


12月9日にレコーディングされた『至上の愛』は神に捧げられた組曲で、そのコンセプトと音の有機的な結合は他の追随を許さない。これは単に即興の自由度が増したために音楽を統べる枠組みとして「宗教」が持ち出された、というような皮相な説明のレベルを超えている。実際に信仰を持つ生きた人間が具体的な音楽的実践を重ねた末に達成した傑作と言うべきだだろう。マイナーな一個人の信仰が音楽作品として普遍化され、信仰の有無を問わず、聴く者にスピリチュアルな作用を及ぼさずにおかない。

この年、エリック・ドルフィーが死去、コルトレーンは父親が死んだ年齢に達すると共に第一子が産まれて自身が父親になった(*)。

(*)「父早世の影」 参照。


1965年、フリーへの傾斜・突入と、多様な試みの再開

翌65年、アルバート・アイラーの影響もあって、コルトレーンは『至上の愛』で達成された古典的整合性・均衡をかなぐり捨てるかのように即興の衝動を解き放ち、次第にフリーへの傾斜を強めていった。それにつれ、エルヴィン・ジョーンズ、マッコイ・タイナーとの音楽的方向性のズレが具体的に音として顕在化していく。

また、61年のヴァンガード・セッション以来の様々な編成での多様な試みが再開され、アート・デイヴィスを加えたダブル・ベースの復活、アーチー・シェップやファラオ・サンダースのギグへの随時参加、ダブル・ドラムスなども試みられ、9月にはサンダースが、11月にはラシッド・アリがレギュラー・メンバーとして加入した。

ライヴ同様スタジオでも拡大した編成でのセッションが盛んに行われ、新進気鋭の若手を起用したコルトレーンのフリー・ジャズ宣言とも言うべき『アセンション』、ファラオ・サンダース(ts)、ドナルド・ギャレット(bcl、fl)、ジョー・ブラジル(fl)らが参加した『オム』、ジュノ・ルイスのヴォーカル、パーカッションをフィーチャーした『クル・セ・ママ』等が次々にレコーディングされた。

こうした前衛の若手たちの参加はエルヴィン、マッコイとの軋轢を増幅し、コルトレーン自身の即興の衝動と宗教的な表現意図との齟齬とも相俟って時に鬱陶しい程の重々しさ、途方も無い不穏な混濁を産み出し、最早作品の成功・失敗といった単純な価値基準では計れぬ即興の醍醐味をこの時期の作品では堪能できる。タナトス、ごちそうさま。m(_ _)m


1966年の新生クインテット

65年11月の『メディテイションズ』のレコーディング後、12月にマッコイ・タイナーがまず抜け、年が明けて66年1月にはエルヴィン・ジョーンズも脱退、ライヴでは暫くダブル・ドラムスが続けられたようだし(記録にはジャック・ディジョネットなんかの名前も出ている)、アーチー・シェップやロスコー・ミッチェル等がシット・インすることもあったようだが、ピアノには妻のアリス・コルトレーンが新たに加わり、ドラムスはラシッド・アリ一人に任され、最終的にはクインテットとして定着した。そのためリズム・セクションとの軋轢が産み出すこの上ない不穏さは残念なことに払拭されてしまったが、愚直なほどのコルトレーンの過激さ、過剰さはとどまることを知らない。『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジヴァンガード・アゲイン』(*)では「マイ・フェイヴァリット・シングス」を解体・更新して新生面を開き、来日公演ではアルト・サックスも吹いて同曲に57分48秒を費やす熱演を披露、同時にこれまでになく豊穣なテナー・サウンドを実現し、その成熟振りを「ピース・オン・アース」で聴かせた(**)。

(*)パーカッションのエマニュエル・ラヒームが参加。

(**)CD4枚組『ライヴ・イン・ジャパン』(Impulse)収録。


しかし本人が自覚することもなく、この頃既に病がひっそりと、だが確実にコルトレーンの身体を侵し続けていたに違いない。ハード・スケジュールだった来日公演から帰米後、体調の不良で11月のヨーロッパ・ツアーはキャンセルされてしまった。


1967年、最後の年

それでも休養で小康を得たのか、翌67年の2月から春にかけて『インターステラー・スペース』と『エクスプレッション』として纏められたセッションを行い、とても病に侵されているとは思えない、以前にも増して力に漲り切れ味の鋭い驚異的なテナーによる即興を残した。

だが5月、フィラデルフィアの母親の家に訪れた時、突然激しい上腹部痛に襲われる。自宅のあるロングアイランドに帰って病院に行き、医者から入院して手術を受けるべきだと提案されたが、コルトレーンはこれを断ってそのまま帰宅してしまった。7月16日、日曜日に吐血。自ら自動車を運転して病院へ向かい、そのまま入院。7月17日、月曜日午前四時、永眠。死因は肝臓癌だった。元々の原因はヘロインをやっていた時の注射器の使い回しで肝炎ウイルスに感染したためではないかと推測される(*)。

(*)死因の肝臓癌とヘロイン使用の関係については、「コルトレーン、ヘロインを断つ」の「ジョン・コルトレーンの死因」 (その118)から「Are you ready for this?(最終回)」 (その123)までを参照。


葬儀は7月21日、金曜日にマンハッタンのレキシントン・アヴェニューと54丁目の角に位置するセント・ピーターズ・ルーテル教会で行われ、親友のカルヴィン・マッシーが『至上の愛』の詩を朗読し、アルバート・アイラー・カルテットが「ラヴ・クライ/トゥルース・イズ・マーチング・イン/アワ・プレイヤー」を、オーネット・コールマン・カルテットが「ホリデイ・フォー・ア・グレイヴヤード」を演奏して追悼した。



代表作(リーダー・アルバム)

(代表作と、入門にふさわしいアルバムとは必ずしも一致しません。これからコルトレーンを聴こうという方は「命日にコルトレーン入門! (-_-;)」 を参考にしてください。ただしひねくれた記事なので要注意。)


初期

プレスティッジ時代

『コルトレーン』(57)
『トレーニング・イン』(57)
『ブルー・トレイン』(Blue Note)(57)
『ソウル・トレーン』(58)


中期

アトランティック時代

『ジャイアント・ステップス』(59)
『マイ・フェイヴァリット・シングス』(60)
『オレ』(61)




ジョン・コルトレーン John Coltrane-インパルスのダブル・ジャケット1   ジョン・コルトレーン John Coltrane-Ballads and Ellington 1

ジョン・コルトレーン John Coltrane-Ballads and Ellingotn 2   ジョン・コルトレーン John Coltrane-インパルスのダブル・ジャケット2


インパルスのダブル・ジャケット: Ballads と Duke Ellington & John Coltrane

(クリックで拡大)


インパルス前期(1)

『アフリカ/ブラス』(61)
『コルトレーン・ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』(61)
『インプレッションズ』(61)

インパルス前期(2)

『バラード』(61-62)
『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』(62)
『ジョン・コルトレーン・アンド・ジョニー・ハートマン』(63)

インパルス中期

『コルトレーン・ライヴ・アット・バードランド』(63)
『クレッセント』(64)
『至上の愛』(64)


後期

インパルス後期(1)

『トランジション』(65)
『アセンション』(65)
『オム』(65)
『ファースト・メディテーションズ』(65)
『クル・セ・ママ』(65)
『メディテーションズ』(65)

インパルス後期(2)

『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』(66)
『ライヴ・イン・ジャパン』(66)
『インターステラー・スペース』(67)
『エクスプレッション』(67)


■サイドマンとして参加したアルバム


『チェンバース・ミュージック』ポール・チェンバース(56)
『テナー・マッドネス』ソニー・ロリンズ(56)
『ウィムズ・オブ・チェンバース』ポール・チェンバース(56)
『クッキン』/マイルス・デイヴィス(56)
『リラクシン』/マイルス・デイヴィス(56)
『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』マイルス・デイヴィス(56)
『メイティング・コール』/タッド・ダメロン(56)


『ア・ブロウイン・セッション』ジョニー・グリフィン(57)
『ザ・キャッツ』トミー・フラナガン(57)
『キャッティン・ウィズ・コルトレーン・アンド・クィニシェット』(57)
『モンクス・ミュージック』セロニアス・モンク(57)
『セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン』(57)
『ソニーズ・クリブ』ソニー・クラーク(57)
『ディグ・イット』レッド・ガーランド(57)


『マイルストーンズ』マイルス・デイヴィス』(58)
『カインド・オブ・ブルー』マイルス・デイヴィス(59)



■参考文献
(バイオグラフィー等)

「コルトレーン関連(参考文献6)」 参照。


「John Coltrane Profile 補足写真」




■ジョン・コルトレーン年譜




コルトレーン、ヘロインを断つ 目次

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