ロンドンとか
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エッセー2.「資本市場と医療市場における効率性の問題」

問題が何を問うっているのかを理解するのにも一苦労という問題が結構あったりする。いや、問題の意味とコンテクストを理解できたら、90%くらいは終わりなのではないかとまで考えることができる。


「効率的市場の特徴にはどんなものがあるのか?資本市場と医療市場が効率的か否かを説明し、それらの効率性を上げるための方法を述べろ」


新古典主義的な経済モデルにおいて、市場が「効率的」というのは価格システムが摩擦(Friction)無しに作動する場合を指す。その逆は市場の失敗などがある。医療市場には、単純に明示的な「価格」によって効用が決まるわけではなく、厚生経済学におけるPareto Efficiency(Wikipedia:ある集団が、1つの社会状態(資源配分)を選択するとき、集団の内誰かの効用(満足度)を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高めることができない状態)などの要因も重なりかなり複雑となる。けれど結局はResource Allocationが効率的か、そしてDistributionが効率的かという問いに帰結する。逆に資本市場の効率性はFamaなどによる株式市場の効率的市場仮説(Efficient Market Hypothesis)に基づき、それが正しいか否か、そしてその正否を資本市場全体に広げることができるのかを論じるだけで十分だと思われる。そして医療市場とは違い、Resource AllocationやDistributionの効率性は、市場メカニズムに組み込まれているか、無視され、Information Efficiency(情報がちゃんと伝わったか)が問題となる。このエッセーでは、非効率性(非対称情報、エージェンシ問題、外部性)や行動ファイナンスや情報コスト(Stiglitz and Grossman 1980)などを挙げた。効率性を上げる方法としては政府の介入(これもまた非効率的になりうるのだが)などを挙げた。

エッセー1.「チャンドラーとManagerial Capitalism」

参考までに、これまで書いたエッセーの題材を並べてみたいと思う。

1.アルフレッド・チャンドラーは「すべての経済形態は、発展することによって、やがて雇われた管理者(Salaried Managers)という階級によって代表される「Managerial Capitalism」に行き着く」といった。論じろ。

結局は、多様なる資本主義(Variety of Capitalism)が収束するのか否かというのがこのコースの隠されたテーマだった。社会的・技術的な変化がいかにして企業の支配構造(Governance Structure)に影響を及ぼすのかというのは、ファイナンス、会計、経営史、移行経済(Transitional Economics)などの諸分野で、いろんな観点から論じられてきた。Berle and Means(1932)は、アメリカの株主構成は段々と「破片化」し、大株主が少なくなり、雇われ管理者らが自由に経営戦略を立てることができると主張する。日本でもAoki(2001)などは、M-Form、J-Formの比較制度研究を通してこの問題に取り組んだ。

私は、まずチャンドラーが上記の結論に至ることになった前提が、昔の、アメリカにおいては当てはまったかもしれないけど、今の世の中では、間違っているか、もしくは少なくとも普遍的ではないことを指摘した。それから現実として、日本やドイツなどの国々は、チャンドラーがモデルとする20世紀前半のアメリカよりも、もっと発展しているにもかかわらずFamily CapitalismやFinancial Capitalism(チャンドラーがManagerial Capitalismの前段階と説明している)に留まり、なおかつグローバルな競争力を持つことを指摘した。すなわち、チャンドラーの議論は前提が普遍性を持たないばかりか、実証的にも正しくないので彼の考えは棄却せざるを得ない。Economies of Scale and of Scopeの便益が小規模で居続けることのそれを上回る場合はVertical/Horizontal Integrationを用いて規模を増やすことが正しい戦略であるけれども、Coordination Cost、Agency Problem、Technological Advancement、Globalizationなどにより、Transportation、Communication、Transaction Costが低くなり、Opportunism(機会主義)による被害が少なくなり、Porter (1998)によると産業のクラスター化によるSpillover Effectもあるので、20世紀の前半よりも今のほうがEconomies of Scale and Scopeが重要ではなくなったのも事実である。これは別にチャンドラーが間違っているというのではなく、The Visible Hand(1977)とかScale and Scope(1990)における彼の説明がちょっとばかり「予言的」で「一般理論」であろうとしすぎただけだろう、という結論を出した。

長い間

ブログをアップデートしなくなった。あまり、書くべきことがない。以前にも書いたことがあるけど、忙しいこともあるし、アウトプットは課題とおしゃべりで十分、見たいなかんじになったのかもしれない。さて、来月の序盤にテストがある。これまではテストはなく、エッセーだけだった。今度のテストは一年間勉強したのを総決算するためなので、テストのリーディングリストは、論文百個以上、本十数冊。これらから6つ問題が出題され、そのうちに2つを選んで答えなければいけない。


経営学のアプローチは、二つに分けることができると思う。経済学を応用した数学優先のモデリングと、社会学から由来するケース優先の方式がその二つで、うちのコースは社会学的なアプローチを取る。経済学的なアプローチを採るコースではManagerial Economicsに近いことをやっているらしい。イギリスの修士課程にはいろんな細かい分野が独立されたコースとしてあり、うちのコースは、主にOrganisational StudiesとEconomic SociologyとInnovationを扱う。そして修士論文とベンチャー起業のシミュレーションもある。とにかく、うちのコースでは経済学的なモデルを理解することより、いろんな理論を知り、それらの有機的な統合と比較(Comparison and Integration)ができるか否かを問いたいらしい。ちなみにうちの経営学部(Department of Management)には、修士課程のコースだけでも13個(組織論、戦略、Managerial Economics、HR、Industrial Relations、Decision Science、Operation Researchなどなど)があり、ある意味、「蛸壺」の中に篭りっぱなしの一年間だったと思う。ニッチな分野でたくさん論文を読まされるので(ニッチな分野での)レベルアップしたことは確かだ。


ちなみにうちの経営学部はMBA(ビジネスを実際にマネージするための学問)ではなく、あくまでも普遍的な行いとしての経営を「分析」するというアプローチを採っているので、イギリスの経営学修士がみなこういうものではないということをはっきりとしておきたい。

砲声の鳴り響く街で

遠くから砲声が聞こえる。窓の外は、アルプスの雪山。朝ごはんは、チョコレート味のシリアルとフライパンで温めたワッフル。絶え間なく降り続く雪のせいで白一色に埋もれた山間の街に、時々、砲声が鳴り響く。いま、フランス南部のアルプス山脈に連なる山間の街に一週間の予定で滞在している。


大学院に来て最初の学期が終わったので、冬休みを利用しうちの大学の、スキー同好会の主催するパッケージ旅行に参加したのだ。 冬休みのシーズンになるとゲルマン族の大移動にも譬えることのできるだろうイギリスの大学たちのアルプスへの大移動が始まる。今、この雪の谷の街には私を含めて、1700人ものイギリスの大学生がいるらしい。

学校の前で集合して、バスに乗り込み、ロンドンからこの街までバスで20時間。同じバスの人々は、みなうちの大学院生たちで、知らない人もいるし、親しい人たちもいる。自分を紹介し、彼らのことを聞く。走り出してすぐ寝る人たちも要るけど、どこからか分厚い本を取り出し、読み出す人もいる。うちの学校はほっとおかしい。冬休み一日目からリーディングはないでしょうに。と、思いながら自分もちゃっかり本を持ってきていたりして…。


フェリーに乗るためにドーバーでバスから降りた。横殴りの雨に降られながら、3ヶ月ぶりのドーバー港に立つ。フェリーの中では、他の大学の学生たちが酔いつぶれて客室の床で情けない姿で寝るのをじっくりと観察した。イギリス人、とくに若者たちは、公共の場所でも長い時間待つ場合、すぐ横になろうとする習性がある。


フランスに着くまでパスポートの検査などなし。そこからまたバスに乗る。ここ数日、酒を飲んで、ろくに眠っていなかったので、バスの中で、ぐっすりと寝られた。これのおかげもあり、そこまで退屈ではなかった。南に行くにつれ逆に雪が増えて、山が多くなってくる。宿所は高度2100メートルにあるTignesというリゾート。

4年ぶりにスロープを滑ってみる。あまりこけない。うれしい。アジアンはあまりいなかった。全体の1~2パーセントくらいだろうか。ナイトスキーがないので、四時くらいになると暗くなり、みな家に戻る。20代後半のうちらは、家に戻って、音楽をさびしそうな音楽を聴きながら、夕食を作って、ごろごろしながら駄弁って、本を読んだりした。

遠くから、砲声のような音が聞こえた。雪が積もりすぎて一気に雪崩れることを防止するためにわざと爆破させて山全体の積雪量を調停しているらしい。




寝るとき、酒に酔ったやつらが部屋に来て騒いだりした。

朝から砲声のようなものが何度か聞こえる。まだそれがなにかわからない。ゆったりと朝食を摂って、スノーボードを持って出かけて、積雪のために全面的にストップということを知る。ネットカフェに行こうと思っても、4時に営業開始らしい。部屋で掃除したり、ゴロゴロしたり。13時ごろからボードをして、夕飯は、チャーハンだった。結局、この旅行の間、自分が友人たちを食わせてやった。三度の飯のメニューに悩むことにより、専業主婦稼業のタフさを垣間見ることになった。


昼、スノーボードに乗らないときは、バーでビールを飲みながらネット(WiFi)をしたり、雪山の写真を撮ったり、山のように出された宿題をしてみたりする。夕食を食べた後は、部屋に集まってラップトップで音楽を聴きながら、くだらない話をダラダラしたりした。この街は、ユーロ高の影響もあってか物価は高いし、サービスも悪いので最後の日まで自炊し続けた。で、最後の夜に四つ星ホテルでディナーを楽しんだのでいいけど…。


時々、ヨーロッパ人は本当に「非効率さ」を目標としているとしか思えない仕事をする。トヨタの工場に一年くらい派遣して、ジャスト・イン・タイムが身にしみるほど鍛えてもらいたいほどだ。帰りの飛行機は延着、空港ではまったく変な場所でバスを降ろされたり…。



「The Diffusion of Ideas in the Academy」

今学期のコースワークとかスタディグループなのどの予定がほとんど終わったので、適当に検索してたら、変な論文を見つけた。


「The Diffusion of Ideas in the Academy: A Quantitative Illustration from Economics(アカデミックな世界におけるアイディアの拡散:経済学界を計量分析してみた)」(Shaun P Hargreaves Heap&Ashok Parikh)


最近、「オープンイノベーションにおける情報伝達のシステム」に関することをチョクチョク調べていたら、へんな論文に出会った。一流(Aレベル)ジャーナルのResearch Policyに掲載されたろんぶん。著者は、私が知らないだけかもしれないが、変なお名前の二方。二人ともUniversity of East Anglia(ってどこよ)の経済学教授らしい。


この論文の主題は、アカデミックな世界における新しい情報が伝わる速度および伝達経路を産業界のそれらと比較すること、そしてアカデミックな情報の伝達に国によるバイアスがかかるのか否かを調べることらしい。結論は、アカデミックな世界は、産業界に比べてその情報伝達のパターンが直線的なわけでもなく、早いわけでもないわけで…とのこと。実は、「アイディア」というものの「拡散」というものは計量するのに適してないものなので、この論文の著者たちも文句いわれるのを避けるためにいろいろ条件をつけたりする。ちなみにこの論文の研究対象は、Econometrics(計量経済学)。ちなみにジャーナルの種類によるバイアスの存在は、統計的に有意義なレベルで認められるらしい。


学者が自分たちの内輪のシステムのことについて研究する(社会学者が社会学会の社会を社会学的に研究する、みたいな)ことはちょっと稀なので、じっくりと読んでみた。もう、今学期が終わりかけている。今週末から1週間ほどアルプスのほうでスキー三昧としゃれ込みたいのだが…。アルプスまでバスで20時間らしい、マジで死ねるかも…。

寒いけど眠い、眠いけど痛い、痛いのに寒くもあって…

最近、週一回ほどバスケをするのと学校に行き来するのを除いては体を動かしていない。もともと、体力のないタイプなので、学校のコースワークについていくのがつらくなってきた(かも)。月曜日の午前にあるクラスのリーディングをしようと課題の範囲をしらべようとシラバスをみたらいきなり140ページほど会計のABC(Activity Based Costing)の話を読まなければいけないとか…。しっかり遊んでいるので、愚痴を言うのもおかしいかもしれないけど。昨日も飲んでたら朝の5時に寝て、3時間半くらい寝て、10時からの授業に間に合ったのはいいのだが、地下にある大講堂でヒーターのない授業ときたものだ。とにかく寒い。筋肉痛で痛いのに、寒くて、同時に眠さまで襲ってきて何がなんだかわからない2時間だった。

「イスラーム世界の論じ方」

池内恵の(一般向けの)本は、今まですべて読んだ(つもりだ)。彼は、イスラーム世界にたいする博識と、論理的な思考を武器に鮮やかな歩みを見せてくれる。彼より10歳ほど年下の私としては、10年後にこういうポジションにいられるのだろうかと疑問に思う。池内の本は、イスラムに興味を持たない人でも一度読んでもらいたい一冊。

「The Unwritten Rules of PhD Research」

不景気なので就職ができない。入社願書を出したところで、面接もさせてもらえず落とさせる。こういう毎日が続くと、博士号に興味はなくとも、来年にすることもなくブラブラするよりはましではないかという理由で、大学院に居続けることを考えるようになる。就職浪人というのはこういうものなのか、と感心してみたりもする。一応、うちの大学はイギリスで就職率ナンバーワンのはずだけど、今年は本当に景気が悪いらしい。


うちは院レベルのリサーチで有名な大学なので、周りには博士をオプションのうちのひとつとして考えている人も多い。少なくともうちの博士号を持っていると就職ができないということはない、と思う。もう、先輩たちの過去の実績にすがりつきたい気分。


さて、この「The Unwritten Rules of PhD Research」は、題名の示すとおり、「博士レベルの研究に関する裏技」を紹介するという触れ込みだけど、はっとさせられる部分はほとんどなかった。基本的にはイギリスの制度を下敷きにしていて、アメリカや韓国(もちろん日本も)のそれとはまったく違った話になっている部分も多かったので、アジア圏で学士や修士を習得した人が読めば文化の差とかもわかって、結構面白いかもしれない。


私の場合は、高校を中退してからは韓国の教育システムから離れていたので、韓国人なのにもかかわらず、時々、友達の大学の話を聞きながら驚いたりする。


で、「The Unwritten Rules of PhD Research」(Gordon Rugg & Marian Petre)という本を偶然図書館で見かけたとき、これは読まないといけないと思った。韓国の大学を出ていないので、韓国の大学のことは知らないといえるが、イギリスの大学院を出たのに、こっちの実情について一言もしゃべれないなんて悲しすぎる。


この本で感心したのは、1)イギリスの教員制度、2)Literature Review、3)推敲の仕方、4)Viva Voce(口頭試験)


1)イギリスの大学教員制度

実は、私はまだイギリスの学制についてよく知らない。いまだに高校を何年通えばいいのか、グラマースクールとはなんなのかよくわからない。A-LEVELについて他人に説明できるほどの知識を得たのはつい最近のことだ。除隊するまでイギリスの大学の名前なんてオックスブリッジ(Oxford & Cambridge)と自分のところしか知らなかった。なので、自分の興味のある分野にいる教授ついてリサーチしたとき、教授(Professor)と呼ばれる人たちが少ないということに気づいたとき、疑問に思った。ここでは教授は、基本的には、その大学におけるある分野のリーダー(Head)でなければいけない。たとえば、Sir Johns Hicks(ケインジアンのヒックス)がうちの学校にいたころは、彼のみ「Professor」で、その下にいた人たちはみなReaderとかLecturerだった。


研究者の道のりは次のようになる。

まず、博士課程中に「Research Assistant」をやっておく。そしてPh.Dをもらってから「Postdoctoral Research Assistant」を経て、正式に大学の職員になる。これが「Lecturer」。それから大多数の(イギリスの)学者にとっては最終的なポストとなる「Senior Lecturer」になって、「Principal Lecturer」までなるとそれまでよりずっと管理者的素養が求められる。「Reader」は、読書人ではなく教授に次ぐランキングで、一応、教授と「Reader」との間に「Proper Research Fellow」というのもある。




2)Literature Review

「自分の論文の進む方向性を固める」

「権威付けをする」

「自分の論文と他人の論文の違いを明確にする」

という目標がある。


自分が思うに、Literature Reviewは、「ここまで勉強したということをはっきりとしめして、下らんツッコミをさける」役割もする。たとえば、「A教授のBモデルを使えばもっと面白い結果をだせると思うけど?あなたその論文読んだことある?」という突っ込みにたいして、「Literature Reviewで紹介しているとおり、A教授の論文は読みました。しかしBモデルを適用してみたところ、実際のデータとの整合性が足りない部分があったので、別のモデルを使うことにしました」と切り返すことができる。



3)推敲の仕方。

博士課程の話だから、文法の間違いなんてない、と仮定する。(修士課程の自分でもProof Readingをしてみるとかなりの間違いがあるのだが…、それはさておき)

まず、蛍光ペンを持ち、「普通の人」が聞きなれていない単語や概念をマークする。それらが少ないと、著者がその分野に対する下調べ・勉強をまったくしてないということになる。いろんな概念を短く正確に伝えるためにそれらの専門用語があるので、ジャーゴンをさけるのはよくない。無論、それらを正確な文脈で使いこなすことも重要だ。

見苦しくなったとしても本文中にたくさんの引用元を書き記しているかも重要。著者がどんな文脈においてこれらを語っているのか、どんな知識的なバックグラウンドを持っているのかを簡明に示せるよい機会だ。引用は、序盤に多いほうがいい。読む側としては、文章が括弧によって途切れ途切れになるので、読むのが疲れるけど、これをしておかないと論文全体の信頼性が損なわれる。(脚注として処理するのもひとつの方法としては正しい。私は脚注が嫌いだ)

専門分野に関する辞書を使って、ジャーゴンの定義が正確であるかを確認することも必要だ。

それとは別に、論文全体とひとつのお話と仮定して、そのお話のストーリの構造や流れが明確であるかを確認する必要もある。

ブログの定期的な更新をしたいのだけど

ロンドンに来て、あまり刺激のない人生を送っている。


アメリカにいるときなどは結構ブログに書くことも多かった。やはり物事を誰かに伝えたいという考えがあった。


インプットが減っているわけではないけど、だけど、もうブログに書きたくなることもない。当分、ないかもしれない。


学問的なものを読んでも、本という形よりは論文を読むか、部分的にしか読まないので、ひとつにまとめて語るのも難しい。


なにを語ればいいのか、それを選ぶことが非常に難しい。


たぶん、授業の話とか、食生活の話とか、同じコースの人たちの話をするのが正しいんだろう…。

ハロウィーンの日

先日、ハロウィーンだったらしいけど、実は、たいしたことはしていない。朝おきて、学校に行って、知り合いにつかまって、リーディングをこなして、あわてながら昼ごはんを食べて、ライティングの授業に出席して、くだらないことをだらだらと発表して、論文の初稿を書きつつ、バスケットコートまで出かけて、1時間ほど練習をして、また帰ってきて、図書館で後輩と落ち合って、中華街に出かけカツどんを食べた後に、コベントガーデンで酒を飲んで、後輩を家まで送って、ウォータールー橋をわたって、川沿いの道をだらだらと30分ほど歩いて帰ってきて、また別の友達と部屋で就職活動の話などで盛り上がった。平凡な毎日、これでいいのかな?と疑問には思う。

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