映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ともかく私は、映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる壮麗な徴たちの飽和…。(オリヴェイラ)
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ドン・シーゲルは、映画の面白さを中学生の私に教えてくれた恩人の一人である。

だからドン・シーゲルといえば何よりも「ダーティー・ハリー」であり「突破口」であり「アルカトラズ」であり、そして「突撃隊」と「殺人者たち」である。こう書くだけで涙が出る。

 

それはともかく、「Stranger」という新しくできた映画館でドン・シーゲル監督作を4本(「第十一号監房の暴動」「突破口!」「ドラブル」「殺人者たち」)観た。スクリーンで観るのは初めてだったが、何度も見てる映画である、のんびり楽しもうと思っていたが、さすが人生の師、発見があり驚きがある、のんびりしてるどころではない。

 

ドン・シーゲルといえばシャープな構図、スピーディで暴力的なカッティングである。というと何か言ってそうで何も言ってないのだが、ドン・シーゲルといえばそうなのだ。

 

例えば「第十一号監房の暴動」で暴動が起こるまでのほんのわずかの間。看守たちが襲われる瞬間を、監房2階の回廊と階段を切り取った斜め位置のシャープな構図、監房を捉えた本作の象徴とも言える縦構図をカットバック、さらに続いて、逃げる看守を追うトラックアップから、再び縦構図へ戻ると、既に暴動は勃発しており、監房の廊下は囚人で覆い尽くされている。

あっという間、一瞬のうちに全てが起こる。この的確さを人は「シャープでスピーディで暴力的」というのだ。

 

例えば「殺人者たち」。モーテルの一室にジョン・カサヴェテスとアンジー・ディキンソンが入ってくる。明かりをつけると、裏切ったはずのロナルド・レーガンが拳銃を手に立っており、ディキンソンはレーガンに「早くやって(殺して)」と言う。その言葉を聞いて即座にレーガンは拳銃を撃つ。そのウエストショット。次にカメラは室内から戸外、戸口を真横から捉えた位置に入り、室内から戸外へと吹っ飛ばされるカサヴェテスの姿を捉える。

この2ショットの素早さ。単にカットの尺が短いのではなく、この上なく的確でありながら、かつ思いがけない、予想がつかないカットの連鎖。それがドンだ。

 

しかし今回驚いたのは、意外に長いカット撮ってるじゃんドン、ということだった。

意外に長いカットを撮る男ドン。驚いた。

 

いや、そう長かない、計っちゃいないが長くて2、3分、長いカットを撮る、のではなく、1シーンを1カットで済ませてしまっている、と言い換えてもいい。

 

「突破口!」の、これは有名なシーンだと思うが、銀行の支店長ノーマン・フェルと、その頭取ジョン・バーノンが野原で語らうシーン。これは長い。車を止め、牧場の門扉で二人が語らう。バーノンは門扉の上に登って座り、フェルに語りかける。二人の高低差を如実に表す切り返しによって、この長いワンカットは終わる。

 

車から降りた二人をフォローして右に横移動

ノーマン・フェルがジョン・バーノンに近づくのに合わせてトラックアップ

ここまで1カット。

次のカットがいかにもシーゲル的な高低差のある視線

 

あるいは、銀行を襲って逃げる途中で、ウォルター・マッソーらはクリーム色のセダンから、用意していた仕事用のバンに乗り換える。バンのリアドアは既に開いていて、まずアンディ・ロビンソンがバンに乗り込む。マッソーは札束の詰まった鞄をロビンソンに渡し、ロビンソンはそれをバンの中に置かれた樽に詰めていく。マッソーがロビンソンに「火薬を撒くよう」に命じると、マッソーとロビンソンの役割が入れ替わる。マッソーがバンに乗り込み、カモフラージュするため札束の上に農薬の入った袋を押し込んでいく。カメラはゆっくりとズームし(画質が荒くなるので、もしかしたら現像段階でのブローアップかもしれない)マッソーを捉えていくと、後景でセダンに火薬を撒くロビンソンがフレームインする。そこまで1カット。長い。

 

ハリウッド映画が1カメでこのカットだけ撮ったなんてことはないのだろうが、このカット切れねーな、と思う。

マッソーとロビンソンのプロフェッショナルらしい動き、即物的な動きが素晴らしい、だから切れない、というのが大きな理由だろう。黒沢清は「持続する1カットの醍醐味」と言う。

 

しかし、もう一つ考えられるのは、カットを割るのが面倒臭い、撮影するのに時間がかかる、ということだ。

 

バン後部での金の詰め替え作業を撮影する。バンの後ろから撮るか、運転席側からか、あるいはサイドに回って窓越しに撮るか。作業が最もよくわかるのは後ろからだから、まずこれをマスターショットとする。

サイドのカメラはBカメとして回してもいいがバンの窓は小さいし、そもそもバンに窓がついていたかどうか。

運転席側から撮るとなると、作業工程を一からやり直すことになる。面倒臭いし、二人が同じ演技を同じタイミングでやってくれないとつながらない。

よし、このシーンはこの1カットを撮れば良い。余計なカットは撮る必要がない。

 

イーストウッドは、ドン・シーゲルから、早撮り、合理的な撮影方法を学んだという。それを初めて聞いた時は、なぁんだ、と思いはしたのだが、それは確実に間違いで、合理的な撮影方法とはつまりその人の作家性に直結する。

 

こんなもんでいいだろう、ではなく、これでいいだろうと決断すること。これだけでいいカットを撮影すること。合理的である。それが長かろうと短かろうと同じことだ。

 

例えば、「殺人者たち」でクルー・ギャラガーが殺されるシーンもホテルの入口を俯瞰気味に捉えた1カットのみだった。何が起こったのかわからないほどの一瞬で彼は死に、リー・マービンは重傷を負う。短い1カットで全てを描くこと。これは、ドン・シーゲルにとって、長い1カットで全てを描くことと同義である。

 

この1カットのどこに何を挿入しろというのか。私はこれしかないカットを撮る。それが長い場合もあれば短い場合もある。

その潔さが撮影のリズムを作り、映画のリズムを作る。暴力で映画が敷き詰められる。

 

ところがこういうカットも観た。

「ドラブル」でマイケル・ケインが観光バスに乗り込みイギリスに不法入国するシーンがある。ケインは観光バスの後ろの方の座席にうずくまっている。観光客が乗り込んでくる。乗り込み、後ろの座席へ移動する一人のおばさんをバスの外、窓越しに捉えていく。手持ちカメラがおばさんをフォローし、やがてバスの最後部の座席に座るおばさんを捉えると、やっとケインが座席に座るのがみえる。ここまで長い1カット。

 

このカットは、正直、わけがわからない。ドン・シーゲルの中ではゆるゆるの一編だというのもあるが、これはサスペンスを狙ったのだろうか?そもそも何で必要なシーン、カットなのかもわからない。

 

わからないまま映画は過ぎ、水車小屋での階段上下の銃撃戦と、そのあっけない結末に驚いた。

結局、マイケル・ケインとジョン”ドラブル”バーノンは視線を交わしたことがあったのだろうか。ウォルター・マッソーはジョン”頭取”バーノンともジョー・ドン・ベイカーとも視線を合わさないまま映画を終えた。

ドン・シーゲルの男たちは上下で視線を交わす、あるいは全く視線を合わさない。相手が盲人の場合だってあるのだが、これはまた別の話。

 

視線を合わさぬ男たち

   

 

とりあえず観光バスの長い1カットの意味がわからないので、久々に蓮實先生の「映像の詩学」を紐解いた。「ドラブル」について筆を多く割いていたが、「シーゲルと水」について書くばかりで、まるで水っけのないこの1カットの謎は深まるばかりであった。

 

しかし蓮實は書く。「意義深い細部の時間を超えた居すわりと不意の連繋とが物語の経済的な論理を刻々と裏切って行く」。

よくわからんが、長かろうと短かろうと、ドン・シーゲルは「シャープでスピーディで暴力的」な男として映画史に君臨し、今なお少年たちをしびれさせているわけだ。

原作では、女性たちがワインスタインの行状に傷つき、恐怖し、怒り、証言することへのためらいを描く部分と、ワインスタイン側の弁護士と記者たちとの攻防戦に大別される。

面白さだけでいえば、後者の方が全然面白い。しかし、この映画では、後者はほとんど描かれておらず、つまり、あくまでも女性に寄り添った誠実な映画なのだろうが、お話としてはそう面白くない。

 

ワインスタインの行状を示す証言テープをオフで流し、(レイプが行われた)ホテルの無人の廊下やシャワールームを捉える演出も、そういいとは思えない。なんなら黒バックに音声だけでいい。しかし黒バックはあんまりだし、無人の廊下でも撮っておくか、という安易さ。意味ありげだが、なんの意味もない。

 

とはいえ、アメリカの新聞記者ものだから、ある程度の面白さは当然担保されている。真面目だし、誠実だし、女性たちの痛みと勇気が伝わってくる。立派な映画である。

 

何を悪口とも褒め言葉ともつかないことを言っておるのか、超久々にブログを書いてこのザマか、何事だお前は、と。

 

というわけで本題。

こーゆーことが書きたいんだから仕方がない。拙ブログ初、コンテ付き。

 

キャリー・マリガンがハーベイ・ワインスタインのセクハラ(というかレイプ)を証言してくれる人の元を訪ねる。

マリガンは家の中に招かれ、玄関先で話をすることとなる。マリガンと訪問先の男性と妻が会話するのを、マリガンのバストショット(Bカメ)と、夫妻を捉えたウエストショット(Aカメ)を切り返して綴る。

話が終わると、戸惑う二人を捉えたウエストショット。カメラは固定され(Aカメ)、オフでマリガンが去ったことを示し、夫はそのまま後景のリビングにふらりと歩いていく。妻はその姿を目で追ってカメラに背を向ける。


なんでもないショットだが、これしかないショットという気がして感動した。

 

まず、夫がカメラに背を向け、後景のリビングに歩き出すこと。

その必要は特にない。切り返しのショットのままで表情を変えればいい。

しかし、マリガンが訪問したことへの戸惑い、知られたくないことを妻に知られたこと、罪悪感、めんどくせーという思い、などなどなど、それらが混ぜこぜになった心理を、表情だけで語らせるのは演出の無策というものだ。よし、後ろに歩かせよう。

 

次にカメラをどこに置くか。

 

例えば玄関先から室内を捉えた場合(Cカメ)。帰るマリガンが扉を開け、その後景に夫妻がいる、という構図。夫は後ろに去る。しかしアメリカの住宅状況は今ひとつわからないが、玄関の先には2階へ続く階段があるように思う。となると、夫は階段の上へと姿を消してしまい、「戸惑い」ではなく「怒り」といった違う意味が出てしまうだろう。

後ろではなく上手(Cカメから見て右)に移動すると、夫はフレームアウトすることになるため、次にAカメに戻るか、もしくはDカメのカットが必要となる。下手に移動した場合は、BカメかEカメのカットが必要となる。

 

しかし、Dカメ、Eカメの場合、夫は後ろに歩くのではなく、カメラに向かって近づくこととなり、どこか攻撃的な意味合いが感じられ、「戸惑い」といった心理を演出するにふさわしくない。また、夫をカメラに近づかせアップにするほど、彼が物語に占める位置はそう大きくない。

 

夫が下手に移動し、Bカメ(つまりマリガンを捉えていた位置)になった場合、妻はフレームから外れてしまう。妻を動かしフレーム内に収めることもできるが、観客の視点を夫に置くのか、妻に置きたいのかが曖昧なものとなってしまう。

 

 

というわけで、Aカメしかない。切り返しのままカメラを固定し、役者の動きだけで同カットをもたせる。そもそも、切り返しの後でカットを分けてしまうと、マリガンの言葉によって動揺した夫の感情が途切れるような気がする。

夫は妻から離れ、玄関の明るい光から、夜の外光だけが窓から射す薄暗いリビングに移動するのだ。

 

実になんでもないショットだが、いい仕事をしていると思う。

上記のようなめんどーくさい理屈など考えもしていないだろう。本能的に、はいカメラここ、と決めたショットに違いない。そーゆーものだ。

他にも新聞社内の階段やガラスの使い方もいい、(頻繁に過ぎるが)移動ショットもかっこいい。

何が言いたいかというと、つまりアメリカ映画だな、と。そこそこ面白いだけの映画だとしても、やっぱり面白いのだ。

 

ちなみに、原作ノンフィクションでは、ワインスタイン事件に関係した数人の女性が、アシュレイ・ジャッドに招かれ一同に会するシーンで終わる。泣ける。

 

 

 

かつて「映画的」なる言葉があった。これを多用していたのは(何で筆を折ったのかわからない)畑中佳樹と(本庄まなみの旦那)沢田康彦というイケすかないコンビで、塩田明彦は(多分)宮崎駿についての論考で「映画的なる言葉を一切使わず論を進める」と宣言していたほどだ。

 

さらに「多幸感」という言葉。

ジャック・ロジェの旧作が相次いで日本公開された時、このワードがシネフィル界を席巻した。私には小娘が馬鹿騒ぎする映画としか思えなかったが、この「多幸感」なる言葉は、ある種の映画を評するとても便利な言葉として今でも多用されている。

 

要するに、言語化できない映画の楽しさを「多幸感」なり「映画的」なりの言葉で、何か言った気になっている。映画の多様性を一言で断じて良しとする、非常に怠惰な言葉なわけだ。

 

そして本作に掲げられたキーワードが「疾走感」である。確かに走る。

少年少女の恋愛モノのような、恋することに純粋に溺れてしまったような「疾走感」は、この映画の素晴らしさの一つではある。

出会うシーンの長回しが素晴らしい。二人が走るカットの全てが素晴らしい。

 

しかし、長い長い夜の果てに、アラナはゲイの男性を抱きしめる。そして走り出すアラナを捉えた移動ショットの素晴らしさを「疾走感」だけで語って良いのかと思う。

むしろ疾走に至るまでの停滞、弛緩した時間こそが本作の素晴らしさではないか。

 

 

この後、アラナは走る

 

まずP・T・アンダーソンは歳が微妙に離れた男女という条件を設ける。メロドラマの常がそうであるように、恋に落ちる二人の間に障壁を設けるのだ。

 

障壁といっても、いたいけな少年と修道女とか、思春期の少年と義理の母とか、やけにませた少年とやけにエロいお手伝いさんとか、中年親父とヴァネッサ・パラディとか、そういう障壁ではない。二人の仲を邪魔する両親や教師が出てくるわけでもない。

たまたま出会った二人の歳が、たまたま離れてた風のさりげないものであって、だから15歳の少年ゲイリー(クーパー・ホフマン/顔は子供、体型はおっさん、というのが絶妙にいい)は25歳の女性アラナ(アラナ・ハイム/ユダヤ顔、というのがよくわからんがいい)を何気なくも傷つける。彼女もまたふと思いついたように年齢差を感じたりもする。その程度だ。

 

しかし、その程度の障壁が、だからこそ不器用に進む恋の成り行きに妙な緊張感をもたらす。

二人の行動は唐突で、無防備で、思慮に欠け、危なっかしい。いつ別れてしまうのか、いつ不用意な言葉を投げかけてしまうのか。

 

無言電話を掛け合うシーンの見事さ。意地を張る二人を見つめるゲイリーの弟、アラナの姉からの視線が素晴らしい。

「25にもなって高校生の写真撮ってるの?」「俺と会わなきゃ、まだ高校生の写真撮ってただろ?」と言われ、傷つき、怒る彼女のシルエット。

同年代の少女といちゃつくゲイリーを目撃するシーンのロングショット 、そのセットと照明の素晴らしさ。宣伝用のサーチライト(ファーストショットと同じく「アメリカン・グラフィティ」由来)が回転し、ビキニ姿のアラナを時に逆光に、時にフレアの中に捉える。そして、自棄になって見知らぬ男とキスしてしまうアラナを移動ショットで捉える感覚。

 

さらに二人を取り巻く大人たちの停滞。疲れた表情の素晴らしさ。

アラナをオーディションするキャスティング事務所のおばちゃん、ウォーターベッドを勧める黒人女性、妙にエロいスチュワーデス、彼女たちのどアップはなぜかくも素晴らしいのか。

ショーン・ペンのエピソードのくだらなさ、バーブラ・ストライサンドの恋人と称するクリス・クリストファーソンみたいな男のエピソードはなぜかくも痛快なのか。そして緩やかなトラックの動きとその停止。

 

 

姐さんたち

 

延々と続く、弛緩し疲れ果てた時間の果てに、アラナはゲイリーとその友達がはしゃぐ姿を見て、ふと我に返る。「こんなことしてていいの?」「15歳のゲイリーや何とかや何とかと遊んでていいの?」。歩道に座る、その疲れた表情の素晴らしさ。もうすぐ夜明けを迎えるであろう微妙な光の中で捉えられる彼女の表情。このアップで映画は終わったっていい。

 

金井美恵子はかつて「黄色いリボン」(だったか?)を、全てがラストシーンであるように美しい、と評した。

 

全てがラストシーンである映画。

長い長い一夜に起こったことのような弛緩した時間の中で、全てがラストシーンであるかのような美しく、切なく、儚い時間の集合体。

 

私はポール・トーマス・アンダーソンをいいと思ったことがなく、むしろ嫌いな監督の一人だった。

しかし本作は凄い。心から素晴らしく、愛しいと思う。

 

 

長い長い夜の映画

 

 

 

 

例えばかの「七人の侍」で、三船敏郎は自分の責任から稲葉義男を亡くしてしまう。墓の前で悩む三船。志村喬がやってきて酒を置き去っていく。いいシーンである。

 

「トップガン マーヴェリック」でも同様のシーンがある。

主人公に嫌なことが起こる(何か忘れた)。次のシーンは酒場。トム・クルーズが悩んでいる。するとジェニファー・コネリーがやってきて彼を慰め、次の行動につながるようなアドバイスをくれる。

 

「七人の侍」と同じ展開なのだが、どうもつまらない。些細なことで悩んでんじゃねーよ、と思うからだし、どーせすぐ解決すんでしょ、と思うからかもしれない。「七人の侍」とは訳が違う。

しかし、つまらないのはそれだけが理由ではない。

 

悩んでいるカット自体がつまらないのだ。トムがバーのカウンターに座ってうなだれているだけのカットだ。トムもスタッフも手を抜いている。

土を盛った墓の前でびゅーびゅー風が吹き土埃が舞い三船がうなだれるカットと比べるのもどうかしてる気もするが、気合の入ったカットじゃない。

ルーティンワークをこなしている。本気で悩んでいないのが透けて見える。それがわかるからつまらないのだ。

 

そもそも「悩む」カットというのは「悩む」記号と化しやすい。

 

前作「トップガン」はこういうカットの連続だった。戦闘機のあれこれや、バイクにまたがるトムのあれこれでさえ、そうであった。撮ったカットのことごとくがルーティンになっていくような映画だった。

バブルの頃のフジのトレンディードラマみたいだったし、当時の評価の多くが「PVみたい」だった。スローモーションやラブシーンは松本孝美のコカコーラのCMだ。愛は吐息のようにだ。

バブリーな映画。トニー・スコットの(蓮実御大経由の)再評価には与する者ではあるが、この映画だけは流石にダメだ。

 

それはともかく、「トップガン マーヴェリック」は前作ほどではないが、このような記号的なカットやシーンがふんだんにある。トムがバイクにまたがって走り出した時には笑った。お、きたきた、と。ジェニファー・コネリーの姉御ぶりは、姉御のアイコンである。山口智子みたいだ。

戦闘機シーンに気合が入っているので誤魔化されてはいるが、世界的な不況を前にしてのこのバブリー感、懐メロ感、80年代踏襲感はそこにある。

 

戦闘シーンとそれにまつわる飛行シーンに気合入れればOKす。そんな、あなた、クロサワサンみたいに全カット気合入れてどーすんすか、と。

そんなお気楽さがアメリカ映画のいいところでもあって、そこが「トップガン マーヴェリック」のつまらなさと面白さだと思う。

いや、みなさんね、えらくこの映画を評価しているようだが、全然、大した映画じゃないすよ。普通に面白いだけすよ、と。

 

例えばドノバン・マーシュの「ハンターキラー 潜航せよ」はえらく面白かった。話は「トップガン マーヴェリック」と同じようなもんだし、何ならもっと荒唐無稽なのだが、こっちの方が全然面白い。

違うのは誰も悩まないことだ。悩むべき人はいっぱい出てくるが悩まない。すぐ行動する。すぐ人が死ぬ。でもいちいち悩まぬ。悩む暇なし。

映画の「面白さ」にもっと貪欲だ。

 

例えばアルドリッチ。アルドリッチは悩みそうだ

しかし意外とアルドリッチは悩まない、これまた、すぐ行動に移す。「飛ぶフェニックス」は悩んで然るべき人たちが、悩まないが故に対立する映画だった。

例えばドン・シーゲル。これまた悩まない。「ダーティーハリー」にしろ「突破口」にしろ全く悩むカットがない。悩む暇があったら次に進む。

 

イーストウッドの「ハートブレイク・リッジ」なんてのもある。話は「トップガン マーヴェリック」と全く同じだ。実に同じ。

しかし悩まぬ。主役の鬼軍曹イーストウッドは勝ち戦に出たことがないという過去を持っていて、それなりに悩んで然るべきなのだが、悩まない。悩まぬどころか登場人物は誰も何も考えていないように見える。

 

 

悩まぬ男

 

 

というわけで、賢明な映画は悩むシーンを入れないことだ。入れるときは気合を入れたカットを撮るしかない。そういうカットを撮る気合や才能のない人は、悩むシーンを入れるべきではない。

これが「トップガン マーヴェリック」で私が得た教訓である。

 

 

ところが私は登場人物が皆、ずーっと悩んでいる映画も観た。前回、その感想も書いた。

小林啓一の「恋は光」がそれである。

実は、この映画の人たちは、誰も、何も、悩んでいない。話をしているのだ。そして小林啓一は話しているシーンをアクション映画のように撮る。

 

 

悩んでそうな人たち

 

 

この人は悩まなかったなぁ。もっと悩めよ、くらいに悲惨な状況なのだが。

 

 

悩むシーンを入れる場合の模範映画。クリストファー・ウォーケンなら悩んでもオッケー。

 

 

西条(神尾楓珠)が見る「恋の光」は、「発情」した女性が放つ光であり、「フェロモン」であり、「恋=本能」を表する光である。恐らく童貞の西条にとってこの光は、まぶしくて「映画」が見れなくなる「とにかく邪魔なもの」であり、怖い存在でもある。美しくはあるけれど「邪魔なもの」。ここで言う「映画」が本作そのものであることは言うまでもない。

 

つまり、セックスを恐れる童貞くんの物語。

 

西条が近づく女性たち、北代(西野七瀬)と東雲(平祐奈)からはセックスやその肉体性が排除されている。彼女らと西条との間には常に一定の距離が保たれ、決して触れ合うことはない。もちろん彼女たちから「恋の光」が発せられることもない。彼女らを捉えるカメラは柔らかく、白っちゃけ、彼女たちの肌にはシワひとつなく、肉体の生々しさを払拭している。

 

「発情」が可視化されていながら、しかしセックスが禁忌となっているこの世界で、三人は恋愛について語ることになる。

気持ちが悪い。中年後期が観る映画ではない。

 

ところがこれが次第に面白くなってくる。

肉体の感じられない世界で、唯一西条が「おっぱいに惑わされ」る「苦手な」女性、宿木(馬場ふみか)が物語に介入し始めるからだ。

 

パジャマパーティーをしようと(「パジャマパーティでもいかがすか?お嬢さん」!)北代が東雲の自宅を訪れる。古い日本家屋に一人で住む東雲は、北代に入るよう促す。玄関をくぐる足元のアップを挟んで、シーンが変わる。宿木が西条の下宿に入ってくるロングショットがつながれる。

この足元のショットは唐突で、しかも誰のものであるかを錯誤させ、シーンとシーンをスムーズにつなぐ役割を放棄している。

 

こうして宿木は本格的に物語に介入する。

 

もちろん彼女は本作のファーストショットから登場する。しかもジュースを頭から浴びるどアップのスローモーションで登場し観客を驚かせる。しかし彼女は西条と北代を映画に紹介する役割のみを担い、ひとまずは映画から退場してしまう。

 

その後も幾度かは顔は見せその存在感を示すのだが(特に彼女が西条にフラれるシーンの客観ショットは秀逸だった)本格的に物語に参入するのは、この(誰とも知らぬ)足元のアップショットからである。

 

続いて、北代と東雲が縁側で座りビールを飲むパジャマパーティーのシーンと、西条と宿木がカウンターで語らうバーのシーンが、その台詞をシンクロさせながらカットバックして展開する。

宿木は自分が「人の彼氏が欲しくなる」体質であることを告白し、「あんたなんか好きでも何でもないからね」と言い放つ。

このアップに続いてシーンが変わり、北代は実は西条のことが好きであると東雲に打ち明ける。

 

彼女の告白で物語が大きく変化する。これまで北代が見せた会話の中の一瞬の間や逡巡は、彼女が西条に恋をしていたからであることが判明する。

宿木のアップショットが彼女に告白を促したのだ。

さらに宿木は西条にキスをする。宿木はこの映画に肉体的な接触を初めて導入する。

 

もう一つの物語の重要な転換点にも宿木は大きく貢献することになる。

2回目のパジャマパーティーで三人の女性が一堂に会する。このパーティがなぜ開かれたのか、なぜ宿木も参加しているかについての説明は一切なく、唐突に縁側からのロングショットが挿入される。

 

ここで宿木は、これまでの物語を無効にするように、「恋の光」を「何かの宗教?」と茶化し、東雲を「ポット出のキャラ」と馬鹿にする。「少女漫画じゃ彼氏の幼なじみをポット出のキャラが奪うのよ」とこれからの物語を予測する。ここで言う「少女漫画」が本作の原作漫画であることは言うまでもない。

さらに彼女は「恋は光」ではなく「恋は戦いじゃん」と宣言するのだ。このアップには震えた。このアップで、物語は再び大きく変わる。

ホン・サンスである。 「事件は、只今、進行中」とご機嫌ななめなソニは語るのだ。

 

彼女のアップが、二人の女性に告白することを決意させる。

そして二つの告白シーンを挟んで、ようやく西野七瀬は神尾楓珠とのささやかな肉体的な接触に成功する。その「嬉しくて楽しくて恋する乙女」の表情、しかしどこか恋に戸惑っているような表情が感動的だ。映画はこの西野七瀬のアップで終わる。

 

複雑な感情をシンプルに示すこと、あるいは、シンプルな感情を豊かに示すこと。

 

しかし、映画はここでは終わらない。

宿木こと馬場ふみかのアップショットで映画が終わることはもはや必然だ。しかも馬場ふみかは新たな物語の始まりを宣言する。素晴らしい。

 

いい映画は常にアップで終わる。

 

 

 

阪本順治の「冬薔薇(ふゆそうび)」。

私は阪本順治の良い観客ではなく、「KT」以降の作品では「大鹿村騒動記」しか観ておらず、しかも面白いと思ったことがない。あの評価の高い「トカレフ」ですら全然ダメだった。だから、本作も全く期待しなかった。

 

ところが、本作はこれまで私が観た、乾いた情念で無理くり物語をねじ伏せる、みたいな阪本順治ではなかった。

最も思い出したのが、ホン・サンスであり、ロメールであり、ジャームッシュであった。

 

しかも本作の役者たちは、彼らのように素のママに話す体ではなく、皆、しっかりと台詞を喋る。現実を踏襲したような台詞ではなく、物語を語る、映画の言葉としての台詞を話すのだ。小林薫、余貴美子、石橋蓮司、伊武雅刀、笠松伴助ら、練熟の役者たちが素晴らしい。彼らが話している姿だけで楽しい。

 

この映画はそんな役者たちと、若き演技者らの会話から成る群像劇なのだが、次第に、一人一人の個が際立ってくる。

家族、船長と船員、夫婦、「ダチ」、恋人、様々な関係で成立する小さな社会はやがて緩み始め、社会から与えられた役割から個が浮かび上がる。

 

小林薫と余貴美子の夫婦喧嘩には泣いた。息子の行状に悩み、自分たちが彼にしたことについて、しなかったことについて二人は言い争う。二人の言い分は噛み合わないまま「夫婦」という関係が緩んでいく。

「夫婦」と言う関係のリアルなあり方と、それを映画として示すこと。

余貴美子の「じゃ、別れる?」という「夫婦関係」を壊す言葉に、小林薫は絶句する。言葉を放った女の孤独と、男の孤独が浮き彫りになる。

 

決して際立たず、目立たず、ただ普通に役者たちを捉える笠松則通のカメラが素晴らしい。役者たちをことさらに動かさず、ただ台詞を喋る彼らを見つめる演出が素晴らしい。芝居を観る映画、役者を観る映画の楽しさ。

 

機械的に繰り返される船とトラックの動き、不安定なタラップをするすると上り下りする船員たち(新参者の眞木蔵人は転んでしまう)、船長の操船、プロフェッショナルな仕事ぶりを丁寧に描くこと。

そして船長と船員らが集まる賄いのシーンが最初と最後に繰り返される。最後の食事では、既に彼らの関係が瓦解することが示されている。仲間の一人はすでにいない。船長が嫌いな海老が話題に上る。

この普通さと、しかし、決して現実の延長ではない、映画的な虚構が描く楽しさと悲しさ。

 

正直、若手チームのドラマは作為的でノリきれなかったのだが、若手陣も頑張っている。永山絢斗の冷静な怖さや、伊藤健太郎の憎めないダメさと居場所のない感じ。唯一の「ダチ」である佐久本宝との会話が痛い。彼は家族や「ダチ」という関係を求め続け、しかしその関係に入りきれないままラストを迎える。その虚しい無表情。

 

ハッピーな映画では全然ない。幸せな者は誰一人登場しない。

しかし楽しい。映画を観ることはこんなに楽しいのだ。私は映画が好きだ。

 

 

 

こう撮るしかねーだろ。じゃなく、こう撮るんだと。

 

 

あおりがいい。これしかない感じ。

「Coda コーダ あいのうた」という聴覚障害者の映画も観た。クソつまらなかった。というかただのお涙頂戴だった。しかしこれがアカデミー賞をとったのだという。なるほど、確かに泣ける映画ではある。

しかし泣いたのは、水戸黄門のラストが痛快であるのと同様に、身障者映画や音楽映画の紋切り型を踏襲しているからだ。そりゃ泣ける。泣かせるように作ってるんだもの。

 

作者たちは聴覚障害者とその家族が被るトラブルを何も解決しないまま、無理くり感動劇に仕立て上げ、それで良しとする。身障者映画や音楽映画のフォーマットに、現実を当てはめているだけだ。つまり映画的現実が現実を糊塗している。

 

そうではない。映画は現実をごまかすためにあるのではなく、映画は現実を超えて在るものだ。

森崎東「喜劇 特出しヒモ天国」に登場する聴覚障害者の夫婦(下絛アトムと森崎由紀)は、自分たちに子供ができた時、その赤ちゃんの泣き声に慟哭する。この子は聾唖ではない、と喜ぶのだ。

 

これが聴覚障害者のリアルな思いなのかどうかはわからない。「Coda」の方が現実的なのかもしれない。ポリコレ的に間違っているのかもしれない。しかし、映画としては圧倒的に森崎東の方が正しい。

 

 

ポスターで泣ける。

 

 

「カモン カモン」という、いかにもアメリカのインテリが作ったような映画も観た。以下、Twitterで書いた文章を(ちょっと書き直して)転載。

 

美しいモノクロの風景に耳障りのよい子供の言葉が重なるが、まるで具体がない。イメージだけがある。優しい叔父と少年の姿が描かれるが、それは単なる触媒でしかない。美しいイメージを紡ぐための道具でしかない。生命保険会社のCMじゃないか。小利口で悪辣。

 

監督はマイク・ミルズという人で、私は初めて観たのだが、インディー系ではかなり評価されているらしい。だから貶すのにはちょっと勇気がいるのだが、それよりも、俺はこんなに評価されている監督の最新作にも胸躍らないのか、と絶望的になった。「Coda コーダ あいのうた」なんてのはただのクソ映画だからどうでもいいが。

 

俺は映画が好きではなくなったのか。惰性で映画を観てるだけか。

 

その中にあって、素晴らしい映画を観た。久々に良かった。映画はやっぱすげぇ面白い。俺はまだ大丈夫だと思った。

「冬薔薇(ふゆそうび)」と言う映画がそれだ。

貶すのも褒めるのも映画の楽しさではある。次回「冬薔薇(ふゆそうび)」の素晴らしさを書く。

 

 

 

子供はこうでないと。

「教育と愛国」というドキュメンタリーも観た。

私は自分が(今で言う)左翼だと思っているし、この映画で描かれる自民党や右翼組織「日本会議」の所業には全く腹が立つのだが、それでもこの映画のありようはドキュメンタリーとしてダメだと思う。

 

慰安婦問題がほぼ中心として描かれるのだが、例えばミキ・デザキの「主戦場」は面白かった。杉田水脈や櫻井よしこらお馴染みの歴史修正主義者の愚かさを、インタビューだけでガンガン暴いていくのだ。映画としてどーこーてより、コスタ=ガブラスの「Z」で検事のジャン・ルイ・トランティニャンが次々と悪い奴をあげていく時のように痛快で、(今で言う)左翼でいっぱいの劇場は笑いで包まれたのだった。

 

ところが「愛国と教育」はつまらない。慰安婦問題と教科書との関係を時制に沿ってわかりやすく描いてくれるのはありがたいが、左翼プロパガンダとしか思えない。

いやプロパガンダですらない。一体これは誰が観るのだろう?歴史修正主義者たちを嘲笑うために観るだけでいいのだろうか。

 

権力に守られた歴史修正主義者たち VS いたいけな学者や教師、という構図、恣意的なモンタージュ、挿入される風景ショットの醜さ。何より「教育」される子供たちの姿が一向に見えてこない。

しかし(今で言う)左翼の集いと化した劇場は、暖かな笑いと閉じた怒りに包まれるのだ。

 

 

これな。

 

 

と書いたところでジャン・ルイ・トランティニャンの訃報が。驚いた。

「月曜ロードショー」で観た「男と女」「殺しが静かにやって来る 」「Z」「狼は天使の匂い」「流れ者」「刑事キャレラ/10+1の追撃」「離愁」「サンチャゴに雨が降る」、

大人になってから「モード家の一夜」「暗殺の森」「日曜日が待ち遠しい!」。

沈着冷静、クール、無色透明、モーゼル、内に秘めた激情の男。

「離愁」のラストショットを思い出し、泣いた。二人とももういない。合掌。

 

 

「きさらぎ駅」という低予算映画も観た。なんというか、高橋洋がやってきたことは何だったのか、と思わせる映画だった。

 

今時POVというのも相当に辛いが、それを後半のアリバイとしているのが輪をかけて辛い。高橋洋がやってきたことを水泡に帰す恐怖描写、紋切り型のキャラクターがきつい、フラッシュバックは頭が悪い、低予算を言い訳にしたCGを一体、誰が喜ぶと言うのだ。

 

この映画も、お話、一発アイデアネタで勝負し、それが映画として昇華されていない。

その一発ネタを評し「拾いもの」とされているようだが、そーゆーもんじゃなかろう。

 

先日、Twitterで褒められていた「フロッグ」という映画をアマプラで見たのだが、「拾いもの」というのはこのレベルの映画を言うのだ。

 

「女子高生に殺されたい」という映画も観た。これも評判がいい。

しかし、何のために、何が面白くて作っているかが全くわからなかった。これは面白いお話なの?

誰が喜ぶのかよくわからない面倒臭い設定と、それを成立させるための面倒臭い設定やら小理屈の説明に汲々としているだけではないか。これを撮ってて面白いか?

 

いや、面白かろうと面白くなかろうと、企画が来たらそれを演出するというのは、職人さんとして正しいあり方だ、と言うのは一理ある。だが、どうか。

 

 

 

 

これな。

「ベイビーわるきゅーれ」を観たのが2021年10月で、以来、拙ブログも開店休業状態。これじゃいかんと、別に思わなくてもいいのだが、ま、これじゃいかんと思い立ち、書く。

 

とはいえ、最近、見る映画、見る映画、面白くなく、「トップガン マーヴェリック」などは流石に楽しんで観はしたが、どう考えても年間のベストに入る映画ではない。書くこともそうない。

「シン・ウルトラマン」も観た。楽しかったが、これは映画ではない。ファスト映画というのがあるならこれだ、と思う。

じゃ、何について書こう。

 

まずは、片山慎三の「さがす」について。

世評はいいが、全然よくない。ただ、書くことはある。

 

寝たきりの妻を抱える佐藤二郎が、ある日、妻が自殺を図ろうとしているのを見つける。

佐藤は妻の自殺を止めようとはせず、それを見守ることになる。やがて妻と目が合い、佐藤は我に返り妻の自殺を止めようとする。

 

つまらないシーンだと思う。

妻を介護することに疲れた夫が妻の自殺を傍観する。介護にまつわる、ありそうでない状況、なさそうである状況である。想像しうる現実の範疇に、そう珍しくなく存在する状況である。しかし映画にすると、なんとなく絵になる状況ではあって、だから本作はそれを嬉々として描く。

「さがす」は想像しうる現実を超えてこない。しかし超えたような気になっているシナリオが醜い、シナリオをそのまま絵にすることに汲々とした演出が醜い。

 

つまり、そういうレベルの映画なのだ。

確かに時制を変えた構成は巧い、様々なツイストが効いている、話が面白い。役者たちは皆頑張っているし、達者な演技を見せてくれる。

そんな映画を「そういうレベル」で言い切っちゃうのは酷だと思うし、すべての日本映画が高橋洋を目指せとは言わないし、目指したいとも思わないだろうが、しかし、そういうレベルなのだ。映画に求めているレベルが違う。

 

ラストですべてのネタが明かされ、その終幕にふさわしいであろう行動を佐藤二朗と娘がとる。それで良しとする。伏線もはってある。絵にもなる。しかしお話としてありえない。そして、「お話」という以前に「それで良しとする」レベルであることがダメなのだ。

 

 

ハードルは恐ろしく高いが大丈夫か。