結婚6年目 不倫をしました
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バーベキュー

秋はいろんなことを経験した。


仕事でも。
夫とも。



夫の職場のバーベキューにでかけた。
秋らしい晴天の日に。


はじめて会う人ばかりで、あたしはやや気後れしていたけれど
奥さんも結構来ていて、助かった。


あたしたちが到着して、夫が
「お疲れ様。そして、こっちが妻です」
と言うと、おーーっという歓声が男性陣からあがった。


日陰にいてちょうどよいくらいのお天気の日。
平和な日曜日だった。


「いや、彼が余りにも奥さんを表に出さないので
僕たちの中では、それほど囲っておきたい奥さんなんだろうと
噂になっていたんですよ」
とある男性がややふざけた調子で言った。


「僕は結婚式でましたよ。」
別の男性があたしに会釈する。
あたしも慌てて、「ありがとうございました」
とお礼を言った。
少し緊張していた。


夫は、気にもしてない様子でにこやかに笑っていた。
内心この雰囲気にほっとした。
夫が会社の女性らしき人と浮気をしていたのは多分事実だし
会社の人ももしかしたらそれを知っているのかもしれない。
内心、不憫に思っている人がいやしないかなんて思ったりした。
行くだけみじめなんじゃないかと。


秋の空は、どこまでも澄んでいて
そんな黒い思いなど、小さなことだと思わせてくれた。


仕事のことなど全然聞いてませんという感じの
おっとりした人や、見るからにお嬢さん風の人が多く、それはあたしを
ほっとさせた。


共働きの夫婦もいて、奥さんのほうが稼ぎが多いなんていう人も
いたけれど、ほとんどが専業主婦だった。
すくなからず、ほっとした。
あたしのような生き方をしている人なんて、結構いるんじゃない。
と、帰り道あたしは少々晴れ晴れしていたほど。


悲しく単純。
自分が離れ小島にいるんじゃないかと思うと
自分の境遇さえ不安でちっぽけに思えるのに、
意外にも多勢じゃないかと思った途端、不安など消える。

あたしと違う点は、子育てに専念してる人が多かった
ということくらい。


男性陣が現場を仕切っていて、パエリアなんかも作ってくれた。
奥様たちは、子供の面倒を見つつ奥様同士で話をする
といった感じで、思っていたよりもずっと楽だった。


聞いてはいたけれど、夫の職場は男性がほとんどだった。
十数名の男性の中に、女性社員は2名だけだった。
普段は、もう少しいて派遣の女の子たちも多くいるのだそう。


「寺本が誘ったから、女の子たちが来なかったんだよー」
なんて男性陣に新人の寺本くんという男の子はからかわれていた。


「違いますよー。みんな若いからデートとかあるんですって!
週末やから~」


「お前も彼女連れてくればよかったのにー。
かわいいのか?」


「もうそんな話はいいんですって!」

まるで、部活みたい。と思ったほど。



夫がその輪の中で笑っているのは、不思議だった。
若いのは新人の彼くらいで、あとはみな30代。


何も持ってこなくていいとは言われていたけれど、
トマトとアボガトのマリネと、シーザーサラダ、それに
梨と葡萄を持っていった。
夫が、
「何も持ってこなくていいとは言え、当てにならない
男性ばかりだから何かサラダとか持っていったほうがいい」
と珍しくアドバイスをくれた。


全員ではなかったが、手持ちの人も何人かいた。
夫は自分の好きなサラミとチーズを持参した。

サラミとチーズは大人にウケて、フルーツは子供たちに人気だった。
そして、マリネは奥様方に人気だった。


「お料理上手でうらやましいです。
作るだけならまだしも、盛り付けとかが全然だめで。。。
どうしたらこんな風におしゃれにできるのかな?」
とある奥様が言った。


自分では無意識だったけれど、多分お店で働いたことで
色使いや見せ方も自然と意識するようになっていた。
あたしには新しい発見であり、嬉しい褒め言葉だった。



夕方には片づけをして、解散した。
帰りに夫に
「お料理を褒められたの。仕事をするようになってから
見せ方も上手になったのかもしれない」
と空の弁当箱を見つめて言った。


「ふーん」
と夫は答えた。


どういう意味なのかわからない抑揚の無い声だった。


この人は人を褒めない。
佐多君ならきっと、褒めてくれただろう。
こっちが照れるくらいに大げさに。



佐多君に会いたい。



今日、夫は少なからずあたしを「妻」だと堂々と紹介し、
不倫などしたことのないような素振りをみせた。
会社の人ではなかったのかもしれない。
もしくは派遣の女の子なのかもしれない。
あたしの気持ちが幾分か晴れたことは事実だった。

世間体はあたしが妻であり不倫相手の女性は
表には出れないのだ。
そしてそれが世の常で、あたしは佐多君の奥さんのようには
隣に堂々と居れないし、不誠実なことをしてひっぱたかれても
仕方ないのだろう。
たとえその気持ちがどんなに本気でも。



佐多君はどうしてるだろう。
こんな週末の日に。


あたしは窓の外を見つめた。
少し暗くなる前の群青色とピンクの空を。





10月の終わり

秋になって、あたしは仕事も忙しくなり毎日のように
仕事に行くようになった。

夕方までの仕事なので、夫も私がいつ仕事に行って
いつ家にいるのかなど分からないらしく
仕事の頻度や内容についても、もう何も
言わなくなった。

朝からきちんと朝食を作って、今まで通りに夫を送り出し
部屋がいつも片付いていて、夫のスーツやシャツを
きちんと生理整頓していれば、
怒られたりしない。

だから、それらのことだけは気をつけた。
今までと変わらないようにする事と、
決して手抜きをしていないように見せること。
妙なまでにあたしは、そのことに気をつけていた。
自分でもおかしなほどに。

夫を送り出した後、朝食を食べて、洗濯物を干して
仕事場に行き、夕方まで働いたら、家に帰って
夕飯を作る。

慣れてしまえば、一日がずっと早く
生活しやすかった。
程よい疲れも、心地よかった。

今までの途方も無い時間の間に自分がしていたことを
思い出せなくなるほどに。



週末、夫と買い物に出かけた。
それはちょっと久々のことだった。
夫は、最近ゴルフにばかりでかけていたし、
ゴルフに行かない日は、DVDばかりをごろごろと見ていた。

お気に入りのインテリアショップから、案内のハガキが届いて
カーテンを新調しようという話になった。
日曜日の晴れたお昼過ぎ。
夫の運転する車ででかけた。
車の中では、休日のお昼らしいラジオが流れていて
差し込む日差しも暖かく、あたしは少しうとうとしてしまった。
10月の晴れた日曜日。

「あのさ。
来週、会社の部のメンバーでバーベキューするんだよ」

前を向いたまま、夫は言った。
都心は相変わらず車が多くて、ゆっくりとしか
進まなくなっていた。

「バーベキュー?」

「そう。みんな家族連れてくるらしいんだけど、
行く?」

夫に何も言わず、あたしが週末の予定を埋めることはない。
予定が空いているのは確かだけれど、夫が
そんな会社の行事ごとに妻を誘うのが不思議だった。
夫はあまり、会社の人を家に呼んだり、仕事以上の付き合いを
しない人だ。
そして、あたしを連れてバーベキューに参加するなど、今までに
一度だってなかった。

あたしは、やや驚いた様子で聞きなおした。

「そのバーベキューって大人数なの?」

「いや、誰が参加するかわかんないけど全部で20人くらいじゃない?
でも、子供が来るかもな」

「そう。あなたはどうしたいの?」

「え?俺?
どっちでもいい」

本当にどちらでもよさそうだった。

「そう、予定なんてないから行こうかな」

「わかった。じゃあ返事しておくよ」

「うん」
と頷いた後、あたしは結婚依頼夫の会社の行事に参加するのは
初めてで少しだけ動揺していた。
一体どうしてあたしを連れて行く気になったのだろうかと。

「何か持って行くものがあるんじゃない?
バーベキューだったら。
聞いておいて」

「え?そんなの誰かが準備してるんじゃないか?
わかんないけど。
会社の子にでも聞いとく」


その日。
リビングのカーテンをオーダーした。
あたしの希望で、ゆったりとした重みのあるクリームがかったホワイト。
小さなダイヤ型の模様が入っていて上品でかわいらしいカーテン。

夫はもう少し暗めの色でも、と思っていたようだけれど
インテリアに関しては割とあたしの意見を尊重しているらしい。
「妻の意見に従います」
とゆったりと笑ってみせて、店員の女性は
「すてきな旦那様ですね」
と微笑んだ。

あたしたちは、外に行くと随分とステキな夫婦に見えるらしい。
どういうわけなのか。
世間一般の理想とはこんなものなんだろうかと思ってしまう。
もちろん。
店員さんたちは全て仕事でそう言っているのもあるのだけれど。


たまにいく美味しいお蕎麦屋に行ったけれどこの日は週末とあって
満席。結局、デパートの地下に行って、お惣菜を買い込んで
家で食べた。

静かな夜。
夫のお気に入りの天ぷらセット。
あたしのお気に入りの和菓子。

ほうじ茶を並んで飲んだ。
久々にソファーに座って。

夏は、思ったよりも早く過ぎ去り、気がつけばもう秋に。


あたしの生活は変わりなく過ぎ去り、夫もわたしもまた1つ
年を重ねた。
仕事も週に4.5回のペースで通い、夫も仕事のことに関して
何も言わなくなった。
あたしたちは、また少し静かな夫婦になってしまった気がする。



夫は最近、仕事が忙しいらしくこの夏、少し痩せてしまった。
もともと少し細めなので、やつれた様に見えてしまうらしく
夫の母親に
「マサキさん。しっかり食べさせてね」
と念を押された。


お盆に夫の実家にかえった時、珍しく一泊した。
翌朝、お義母さんは重箱いっぱいのお稲荷さんを作っていて
「あの子はいなり寿司がすきだから」
と、帰るあたしにずっしりと重いそれを手渡した。


「まだ若いのに、あんなに痩せてたんじゃ困るわね。
あなたたちは、まだ子供も作ってないんだし健康管理を
しっかりするのも妻の役目よ」


帰りの車の中で、その言葉がなんとなく重くのしかかり
この先ずっと子供を作らなかったら、何といわれるだろうかと
流れる景色を見ながらぼんやりと考えていた。


「お義母さんが、お稲荷さん作ってくださったのよ」
家に帰って、お昼に2段の重箱を見せると夫は、
「なんでこんなにたくさんなんだよ?」

と怪訝な顔をして、3つ食べた後、「お腹がいっぱい」と
言い残し部屋に入ってしまった。


翌朝、「要る?」と見せると
新聞の端からちらりと覗き、
「要らない」と即答した夫。


結局、お義母さんが夫のために作ったお稲荷をあたしが
翌日まで食べ続ける羽目になった。


夫が出かけた後、夫がつけっぱなしにしていたテレビを消して
テーブルを片していたら、電話が鳴った。


あたしが「はい」と言ったら、すぐに
「マサキ?」
と勢いよく喋られたので驚いた。



アメリカに居る姉からの実に1年ぶりの電話だった。


姉は国際結婚を随分前にして、それ以来会うのは年に一回に
なってしまっている。


普段からほとんど連絡など取らない人なので何事かと驚いてしまった。


「あなた、久々ね。変わりない?」
姉らしいハキハキした話し方。


「うん、変わらない。
どうしたの?急に。何かあったの?」


「ううん。ただ、気づけば随分話してないなと思って」


「あはは。急に妹のこと思い出したの?」


「そういうところね。マサキ元気にしてるの?
体は大丈夫?」


姉らしいカラカラとした喋り方。


優等生であり、はっきりした顔立ちと物言い。
学生のころから目立つ姉だった。それに引き換え
あたしは、体が弱くてよく風邪を引いたりして家にいる子供だった。
その印象が家族みんな強くて、あたしには
毎回「元気?」と皆が聞く。

挨拶ではなく、本当に元気にしているのかと。


「大丈夫よ。最近は滅多に寝込んだりしないのよ。
みんな元気?

そうそう。アンナちゃんの写真この前ありがとう」


「バースデーパーティーのね。
大きくなったでしょ?元気よ」


机の上に飾ってある姉と旦那さんとアンナの写真に目を
やって、あたしは微笑んだ。


目鼻立ちのはっきりした姉が、らしく「くっきり」と微笑んでいる。
姉と娘の肩を組んで優しく微笑むパパと、ハーフ特有の甘く
愛される顔の娘。
理想的な家族の象徴のような写真。


その横には、あたしたちの結婚式の写真-二次会で撮った夫の
友達が周りを囲っていて夫が笑っているもの-も並んでいる。
そして、あたしの好きなドライフラワーのような色合いのアジサイ
をその隣に生けている。


「まだ仕事続けているの?」
あたしは視線を戻した。


「うん。カフェの仕事はあたしに合ってるみたい。
キッチン担当だからあまり人と関わらなくてもいいし。
うまくいっていると思う」


「それはよかったわね。
それにしても、マサキがそんなに料理好きだとは知らなかった。
私も仕事に復帰しようかなと思うのよね」


「復帰?」


「そうよ。前職でってわけにはいかないけれど、仕事なら色々
あるし、やれるとも思うのよね」


「相変わらずね。いつも忙しくしててよく平気よね。
今もいろいろやってるんでしょう?」


「まあね」

姉は、結婚前国際線のスチュワーデスだった。
いつも忙しく、華やかな人。
今は今で、習い事も3つくらいスクールに通っているらしいし
ママさん同士のパーティーや、催しも何かと仕切っているらしかった。


「最近変わった事は?」


と聞かれて、いなり寿司のことを話そうかとも思ったけれど
海を越えてまでする話でもないなと思ったら、笑ってしまい


「ないわ」
と明るく答えた。








衝動と

お酒の力は怖い。人を自由にする。
危ないほど開放的に。

でも決してお酒だけのせいではなかったけれど。
すべて自覚のあったことだけれど、あたしと佐多君は同じベットに
いて、横向きになって佐多君の腕に頭を乗せていた。

佐多君はぼんやりと、天井を見上げていた。
彼の下向きの睫毛を、あたしはじいっと見ていた。
適当な量のお酒もすっかり蒸発してしまって、あたしたちは
無言で静かに息をしているだけだった。
空気が静かで、エアコンの音さえうるさく感じるほど。
何もかも喋ってしまいたい。
そう思って話そうとしたけれど、結局すべてを話すことは
なかった。その必要もなかった。

人はたまに空気で会話をしてしまう。
それができる人種という人をなんとなく嗅ぎ分けられる。
多分、それは感覚でしかなくて。
似てるとか似てないとか。
感じがすきとか嫌いとか。
いるとほっとするとかしないとか。
佐多君はそういう点で、いつも気持ちがすっと傍にいられる人だった。
初めて会ったときから、不思議なほど安心感があって
佐多君の言う言葉は、あたしの心の中にいつもすっと入ってきた。
佐多君の言葉にむっとすることも、それは違うと思うこともなかった。
佐多君の発する言葉が私にとって正しいのか、それとも
佐多君を愛してしまったから、なんでも受け入れられるのかはもう
わからないけれど。
佐多君はいつもやさしかった。

昔も。
今も。

一貫性のあるやさしさではなく、時にぶれることもある。
お人よしなのだ。
だから、その場の雰囲気に飲まれてしまう。
目の前で泣いている女性がいたら、思わず抱きしめてしまう人だと思う。
佐多君はそんな人だ。
あたしはそれを百も承知で、それを利用した。

話さえももどかしく、あたしは佐多君が欲しかった。
計画的でもなく、お酒のせいでもなく、自分の気持ちが溢れて
それをぶつけたかった。
すくなくともその時は、爆発しそうなくらいそう強く思った。

あたしたちはチェックを済ませ、店を出ると自然に
適当なホテルに入り込んだ。

入る直前に
「いいの?」
とあたしは不安げに佐多君に聞いたような気がする。

佐多君は答えなかった。
返事の変わりに、佐多君は先に中に入っていった。
後ろめたい匂いのする、白い建物の中に。
最悪だったのは、自分が仕掛けたことなのに泣き出したことだった。
あたしは服を脱がされた後、急にわっと泣き出したのだった。
自分でも驚いたほど。

お酒が残っていて、頭の後ろがじんじんとした。
佐多君はやや驚いた様子で
「大丈夫?」
と覗き込んだ。
「ごめんなさい」泣きながら、そう言うのがやっとだった。

佐多君は、私にシーツをかけてその上から抱きしめてくれた。
その抱きしめ方はまるで、お父さんが娘にするようなしぐさだった。
自分の都合だけで佐多君を巻き込んだ自分や
結婚してしまった佐多君や
その佐多君に抱かれたとしても、あたしは結局自分の世界に戻るしか
ないことや、こんな風にしかできない自分や、いろんな感情が整理
されないまま頭を通過せずにいきなり涙となって出てきた。
佐多君が優しさを見せてくれたらそれにどろどろと流れて行きそうな自分が
怖かったのかもしれない。
欲しい物が手に入りそうなとき、喉から手が出るほどそれを欲しいと
強く思う。でも、欲しい物が手に入ったら失うことが怖くなる。
はじめからなにも持っていなかったはずなのに。
期待をすることという当たり前の作業があたしにはきっとできない。

バー

「君も結婚して8年か。早いな。
そういえばあいつは最近どうしてるの?
その、つまり、うまくいっているの?
もちろん、言いたくなければ言わなくてもいいよ」


佐多君は控えめにそう聞いて、ちらりと私の顔色を伺った。


「うーん。佐多君がもう一杯飲んだら言おうかな」
ふざけたように言ったら、佐多君がくすりと笑って


「同じものを」
とグラスをあげた。
ふっと二人とも笑った。



空気がしっとりとしていて、この空気の感触は前に味わった
ものと同じだとわかった。
佐多君が心を開いているときの空気。
やや開放的になっている空気。
そして、それは朝を迎えると消える。


まるで何も無かったかのように、わたしたちは急に遠慮がちな
他人になる。


「正直に言うけど、わからないの。
夫が今どういう状況なのか、あたしは知らないの。
その話をしたこともないし、知らないふりをしてる。」


佐多君はしばらく考えて、
「君は強いな」
といった。


「強くなんかないのよ。臆病なのよ」
その台詞は嘘だった。


「そうかな。僕はそう思わないよ。
知らないふりなんてそうそうできるもんじゃないよ。」


「エリさんなら黙ってないでしょうね」
あたしが笑うと、


「殺されるだろうな。今度は」
と佐多君が苦笑いをした。


「今度?」


「前にね、一度そういう話で揉めたことがあったんだ」


「そう。」
関係ないことなのにあたしは勝手に胸が痛んだ。


「彼が誰かとよく会っているのは薄々気づいていたの。
妙にお洒落してたし。彼は完璧に隠していたつもりよ。
でも、家に毎日帰ってくるし、あたしに冷たくしたりもしなかった。
不思議なんだけれど、家に毎日ある程度の時間になると帰って
くると言うことは、一応家庭を壊したくないと思っているのかなって。」


「そうなんじゃないのかな。
僕もそう思うよ」
佐多君はまるで勇気付けるかのようだった。


「でも、一度帰ってこなかったの。
朝から帰ってきてわざとらしい言い訳をつけられたときに
とても癪に障ったの。それまであんなに平静だったのに。」



こくりとマティーニを空けて、あたしは自分が酔い始めている
ことを感じていた。
このお酒はあたしには強すぎる。


何もかも喋ってしまいたくなった。

相手が佐多君だからなのか、お酒のせいなのか、いつもは
あんなにも慎重に言葉と相手を選ぶのに。
この日、あたしは何もかも喋ってしまいたかった。

夜道

手をつないだ途端、2人とも静かになってしまった。

黙って手をつないで歩く。

佐多君はあたしの冷たい細い指を軽く握っていて
それはいつほどけてもおかしくない位の頼りなさだった。
暖かで、肉感のある分厚い手のひら。
爪が短い。
佐多君の手はいつでも暖かい。

こんな今にもほどけそうな手のつなぎ方をする男性を
あたしは本当は好きではない。
心許ないのは好きじゃない。

あたしの知ってる佐多君は、きゅっと痛いくらいに手を
にぎって、あたしをかわいいと何度も言ったのだ。
あの夜。
一夜限りだったけれど。

佐多君がにわかに緊張しているのが分かって、あたしは逆に
落ち着いてその手を観察していた。
まるで事実を弄ぶように。


佐多君は前を向いたまま黙って歩く。
あたしはそんな佐多君を少しだけ横目で見て話し出した。
助け舟を出すかのように。
自分が困らせていると言うのに。

「大丈夫よ。きっと。結婚生活なんてね、なるようになるわ。
大丈夫」
そう言って、佐多君の手をきゅっと強く握りなおした。

佐多君がにわかに緊張したのが手のひらから伝わったけれど
言葉を発したせいか、お酒のせいか、あたしはふわりと
微笑んだ。

「ありがとう」
佐多君が少し微笑んでそう言った。
それは、あたしの知っている優しい正しい重さの言葉だった。
佐多君の言葉はいつも正しく響く。
何度喋っても同じ重さで、何度聞いても心地がいい。
耳障りなことなど一度もないのだ。

この人の何が好きなんだろうと思う時にいつも声を思い出す。
優しくて、誠実な声。

こんな声の主と一緒に暮らしている彼女。
そして、その主を独りぼっちにして家を空けることのできる彼女。
彼女が羨ましかった。
でも、あたしは彼女になりたいわけじゃない。
家を空けて自由にしたいわけじゃない。
佐多君を置いていける、そんな彼女が羨ましかった。

「どうして結婚なんて重大な事やってのけたんだろうって
思ったわ。佐多君、あたしね、約束事は嫌いなの。昔から。
なのに、どうしてこんな大事な約束したんだろうって思ったわ」

佐多君がこちらを少し見た。
あたしの表情を探るように。

あたしは他人のことを話すみたいに冷静に、晴れやかに話した。

「人の結婚生活はどうしてあんなに安定して見えるのかしら。
本当は不確かなものなのに」

「不確かなもの?」

「うん、少なくともそれは多かれ少なかれ」

「君がそういうことを言うとは思わなかった」

「どうして?」
あたしがくすくすと笑う。

佐多君は少し黙ってから
「後悔してるの?つまり」
と心配そうに覗いた。


「ううん」

佐多君が黙ってこちらを見て、「そうか」とだけ
小さくつぶやいた。

大学で知り合った佐多君。
偶然にも夫の高校の同級生でもあった。
そして今は、それぞれにパートナーがいて、佐多君は新婚で
あたしはもう結婚して8年。
そして、あたしたちは一度だけ関係を持ったことがある。
もっともそれは佐多君が独身のときだけれど。
そして、今日2人だけで食事をしている。
そして、手をつないで夜道を歩いている。

一見ばらばらで、おかしなことにも思えるけれど
自然な気もした。

私がかつて、初めての不倫というものを経験したときも
人が聞けば嘘でしょう?と思うようなシチュエーションで
まさかという展開だった。
そうして、次の日あたしは自分がそんなことを、すいと
やってのけたことに驚いて、少し怖くなった。
夫とは全く接点のない若い男性だった。
若くて綺麗な顔をした、若い人特有の情熱を持った。

佐多君と夜道を歩きながら、関係ない話をした。
この通りの先がどこの道につながっているとか、
学生のころ通っていた美味しいうどん屋があの辺にあったとか。

そうして、あたしたちは適当なバーで二人並んで
ドライマティーニを飲んでいた。
L字型のカウンターはまあまあ広くて、あたしたちはその
一番端っこに座っていた。

10分くらいお酒についてあれこれ世間話をした後
「さっきの話だけど」
佐多君はそう切り出した。

梅の香り

「出ましょうか」
あたしの方からそう言った。

佐多君は、ちょっと慌てて時計を見た。

「ごめん。もう帰らないといけない?」

「ううん。そうじゃないの。でもここもあんまり居られないから」

「あぁ。そういうことか。
じゃもう一軒行こうよ。ね!」

佐多君は酔っていた。
お酒に飲まれてはいないけれど、いつもよりも随分と顔が赤い。

「大丈夫?」
あたしがそう言うと、
「平気だよ。お酒はわりと強いんだ」
佐多君は下を向いたままそう言って立ち上がった。

「ごめんね。あたしがあんまり飲めないから、佐多君に飲ませちゃって。
ワインも空けさせちゃったね」

「そんなことないよ」

佐多君が上着を着て、部屋を出た。

テーブルの上には佐多君の携帯が置きっぱなしになっていた。
あたしは苦笑いして、携帯を手にする。

佐多君が会計を済ませて外にいた。

「もう随分暖かいね」
そういって空を見上げていた。

「佐多君、お会計は2人でしようって言ったじゃない」

あたしがやや困ったように言うと、佐多君はふと笑って
気にも止めてない様子で、上着を肩にかけて歩き出した。

「佐多君」

あたしは後ろを慌てて追いかける。

「いいんだよ。別に。そんなの」
佐多君は相変わらず楽しそうに笑うばかり。

「困るよ。この前だってご馳走になったから今度は私だって決めてたの」

「奢らせてくれよ」

「だめだって言ったら?」

「・・・。次の店でワインご馳走になろうかな」

佐多君が振り返った。
「そこ段差あるから気を付けて」
そういって手を差し出す。

どきりとした。
酔っているからか、佐多君はちっとも動じてない。

一瞬手が触れただけなのに。
「ありがとう」
あたしはどきどきしていた。
その暖かな温度の手に。

そして、1秒後、その手と手は離れた。
そんなことにがっかりしたあたしの心中など佐多君は知らないだろう。

「男ってさ、奢ったりするのすきなんだよ」

「え?」

「女の子の前ではそういうヤツでいたいのさ」

「そうかな。佐多君はお金に頓着がないからよ」

「それはあるかもなあ。でも、奢られるのは俺は嫌なんだ。
車だって助手席は嫌だし。あ。好きな子とかそういう意味ね」
佐多君は赤い顔をして笑った。

「わかるような気がする。
佐多君って柔らかいけれど、本当は男らしい人だと思う」

ネクタイを少しだけ緩めて、上着を肩にかけてのびのびとした表情で
歩く佐多君。
その酔った顔でさえ、愛しく映る。

「あたし、今日自分で稼いだお金をお財布に入れてきたのよ」

「どういうこと?」

「ほら。あたしずっと専業主婦だったから今まではお金を使うとき
夫のモノを使ってるって感覚がどこかでしてたの。でも、今はそれがないの。
自分のものを買うときや、カフェでお茶をするときは自分のお金から出したりするの。
お財布分けてるわけじゃないから曖昧だけど、そういう些細な事が嬉しいの。」

「へぇ」

「今日は、佐多君とご飯食べるって分かってたから自分のお給料から
お金を持ってきたの」
あたしはふふふと嬉しそうに笑った。

「考えてもみなかったけど、専業主婦の人ってそういう感覚なのかもなあ。
家事に対してはお給料はでないからね」

「うん。そうだよ。
でも、今はわずかなお金でも自分で稼いだものだから嬉しいの。
カフェでお茶をして、今までは考えもしなかったけれど、働いてすぐのころは
このケーキとお茶で私の一時間の時給だわ。なんて考えたりしてる自分がいて
笑えたわ」

「君は偉いよ。ちゃんと仕事もしていけてるし、好きな仕事をのびのびと
している。その腕前も、君の専業主婦の時間にちゃんと培われたものなんだね」

「そんなことないわ」

静かな路地を歩く。
三日月が出ている夜。
桜がつぼみをつけていた。

「梅のような香りがする」

佐多君がそう言って、また空を見上げた。

「ほんとうね。
あたし、佐多君に感謝してるの。仕事したらどう?って言ってくれたから。
だからあたし、真剣に夫にかけあったのよ」

「僕はなにもしてないよ」

「ううん。あたしにとって佐多君は影響力があるのよ。
誰もそんなこと言ってくれなかったから。
自信になったの。ほら、働いたことなかったし」

佐多君がややこちらを振り返った。

「そんなこと言うなよ。
僕がずいぶん君に影響を与えてるみたいじゃないか」
そしてふと笑った。


「僕は、いつもいろんなことに自信がないよ。
この結婚にも、自分の将来にも。
今いろんなことがぼやけてるのかもしれないなぁ」

「どうしちゃったの?エリさんとのこと、そんなに悩んでるの?」

面と向かってないせいか、あたしたちはさっきまで避けていた話も
するすると出来た。
月と温度がそうさせるように。
生暖かく。

「うちの親がこの前上京して来たんだ。
マンション見にきたのもあって。2泊していったんだけど、エリはそんな面倒
見れなくてさ。家でご飯作ってもてなすようなことも出来ないし、朝もエリは一番
遅く起きて来て、お袋が朝食作ってた。
何だか、いいんだけど、ちょっと参っちゃってさ」

驚きはしなかったし、特に何にも思わなかった。
そういう細かな問題は結婚すればどこにもある。
うちだって、目には見えないけれどいろいろとあるのは事実で。

佐多君は、いろいろと考えちゃうから間に入って
気を揉んだのだろう。

「もちろんお袋は何も言わなかったよ。
若い人たちだからって笑ってた。でも、僕はなんだかこんなはずじゃなかったとか
今更思っててさ。エリのことは好きだけど、そういうところについていけないんだ。
僕とエリしかいなかったらいいんだけど、彼女は外との距離がうまく取れないんだよ」

「でもそんな個性的なエリさんが好きになったんでしょう?」
自分でも意地悪ないい方だと思った。

「そうだね。ごめんね。マサキちゃんこんな話聞かせて。
あー酔っ払ってるな」

「ほんとね」
あたしがそういってわざとらしく言うと、佐多君は

「しまった!携帯忘れた」
と胸に手をあてた。

「あ、ごめんごめん。私それ気付いて持ってたんだ」
バックの中から佐多君の携帯を出す。

「お。ありがとう。助かったなあ。
本当にありがとう。」

佐多君の手に少し手が触れる。
携帯の重みの分だけ。すこし。

佐多君が少し今日はかわいそうに見えたのかもしれない。
いろんなことで疲れている佐多君。

あたしは佐多君の手を握った。
佐多君がちょっと驚いたのがわかった。

「手つないでもいい?」

一秒の間のあと、佐多君は「うん」と言った。

中庭 2

あたしは携帯を見た。


夫から着信などはない。
早い夕方に会ったこともあり、まだそんなに遅い時間では
なくて、ほっとした。


コンパクトを覗く。
口紅が剥げ落ちているかと思ったけれど
そんなに落ちてはいなかった。
少しだけ頬が赤い。


「ごめんね」
佐多君が戻ってきたときにちょっと酔いの冷めた顔を
していたので、あたしは内心佐多君が帰るというのかと思った。


「大丈夫?」


「あ、うん、ごめん。何の話してたっけ?」


「いいのよ。」
あたしはそう言って下を向いた。


「睫毛長いね」


「何?急に」
あたしが笑った。


佐多君もふっと笑った。

「結婚してよかったって思うことは何だと思う?」
佐多君はいきなりそういった。


「え?なに急に?どうしちゃったの?」


「ん?なんだか聞いてみたくなってさ」

あたしは困った笑みをしていただろう。


「わからないわ。家の中に男性がいるって安心感かしら」

下を向いたときに、自分の黒い髪がカーテンのように覆いかぶさり
あたしは、その髪を手で押さえたりしていた。


佐多君は、ワインを注いでいた。

「安心感ね」
佐多君は、こくりとワインを飲んだ。


そして、自嘲的な笑いをした。

佐多君は何かを抱えてる。
また何か悩んでいる。
エリさんだろうか。

佐多君はもともと大胆であっけらかんとしているのに、
妙に思慮深いところがある。
そして、誰にも言わない。自分だけで抱えている人。
あたしもそういうところがあるから、なんとなく分かる。


「どうしちゃったの?」
あたしは微笑んだ。顔を作ったといったほうが正しいくらいに。


「結婚ってなんだろうって思うんだ。
エリはどうして結婚したいって言ったんだろうって思うんだ。
彼女は元来そんな子じゃないし、家庭的でもない。
結婚しても僕らの生活はなんら変わらなかった。でも、僕はたまに
よくわからなくなるんだ。
僕は結婚したら、ある程度の時間には帰ってきて、毎日一緒に眠る
のだと思っていたし、ご飯も一緒に食べるのだと思ってた。
エリは帰らない日もあるんだよ」


佐多君は急に話し出した。
電話の相手はエリさんだったのだと悟った。
気持ちが揺さぶられてしまったのだろう。

エリさんが自由な人であることは十分理解していたが、
帰ってこない日もあるというのは正直驚いた。


「そう」
あたしもワインを開けた。


正直、佐多君に結婚生活の内側を話されるのは不快だった。
でも、仲良しなんだよ、結婚してよかったよ、といわれるよりは
多分マシなのだろうとどこかで思っていた。


「帰らないって。
エリさんはどこに泊まるの?」


「祖父母の家に行くときもあるけれど、外泊の大半は違うね。
僕もあまり聞かないんだ。でも、知らない人の家に泊まることも
あるみたいだし」


「え?」
思わず、目を見開いてしまった。


「彼女は昔からそうだったよ。飲み屋で知り合った人の
家に簡単に転がり込んじゃうような、そういう所はもう前からあった。
僕と知り合ったのもそうだったしね。別にそれは男女関係ないんだ。
彼女にとって、多分そういうことはどうでもいいことなんだよ」


時間を置いて考えてみると、この人たちは相当変だと思うのに
その時はそう思えなかった。
お酒のせいなのか、佐多君の冷静な物言いのせいか、なぜか
すんなりと耳に入った。


そういえば、彼女はあたしの家にもそうやってやってきて、本当に
するりと家の中に居た。
あげてくれる?子供みたいにそう聞いた彼女。


「今までは日本じゃなかったし。
僕も海外に居たことでなんとなく、何かが歪んでいたんだろうな。
でも、日本に帰ってきて結婚もしてって暮らしていると、もともとの
感覚が蘇ってきて、僕は何をしてるんだろうってたまに思うよ」
佐多君は少しだけ笑って、ワインをあたしのグラスに注いだ。


「今の電話、エリさんから?
早く帰らなくてもいい?」


本当は早く帰ってなど欲しくなかったけれど、
今夜遅く帰ることは佐多君にとって、まずいのかもしれない。


「ううん、大丈夫」


「本当に?気は遣わないでね」


「ありがとう。君はいつも気が利くね。
実を言うと、さっきの電話はエリだったけれど、2日間家を空けるらしい。
だから大丈夫だよ、僕はね」


「そうだったの。彼女は突然にそうやって
出て行くの?」


「うん、でも頻繁じゃないよ。
祖父母の別荘に行くんだと言ってた。葉山にあるんだ、別荘が。
小さくて古いんだけど、なかなかいいところでね。
一ヶ月くらい前に、彼女が『ちょっと出てきます』と
置手紙を残してその夜帰ってこなくて、叱ったんだ。
それで、電話だけはかけてくるようになったんだよ」


佐多君は愉快そうに笑った。


佐多君と彼女の関係は、ちょっと不思議だ。
若い男女の同棲ごっこみたいでもあり、信頼しあった男女の関係
みたいでもあり。


でも、佐多君は本来そんな人じゃない。
だから振り回されて少し疲れてる。
エリさんはあんな人だから、佐多君のその正しさがすきなのかも
しれない。
あたしが好きなように。
彼女はもてあましてしまうのだろうか。


「不思議な夫婦ね」
あたしは少し笑った。ワインが空気に触れて少しずつ
味が深くなっていく。


「小さいころ僕が描いていた夫婦って、多分うちの実家の両親
のようなものなんだ。母は、父を送り出すべく朝早く起きて朝食を
作って、アイロンをかけたシャツとハンカチを与えていた。
まあ、九州の田舎だから今は煙たがられる亭主関白ってやつだよ。
でも僕の中にはそれが染み付いてるんだろうな。」


「あたしの家は九州ではなかったけれど、そんなものだったよ。
きっと、私たちの両親のころはそうだったのよ」


「そうか。僕は家事をやりたくないわけでもないし
両方が働いていたら、家の事は分担すべきだと思ってるんだ。
でも、僕らはなんだろうな。うーん。
僕が面倒を見ているようなそんな感じだし」


「佐多君どのくらい家事やってるの?」


「ん?週の半分は僕がご飯を作ってるかな。
朝食は自分で作って食べてるし。彼女がやってくれるのは
洗濯かな。それは好きらしいんだ。洗濯は気持ちがいいって。
週末に掃除を一緒にやるんだけど、彼女は途中で飽きてしまうから
テレビを見てるね、大半。
僕、会社の帰りにスーパーで食材買う日が来るとは思わなかったよ」
そういって笑った。


「そっか。佐多君海外のときお手伝いさんいたものね」


「うん、そうそう」


「佐多君が結婚したなんて嘘みたい。なんだか
まだ信じられないような気もする」


「そう?」
佐多君は、困ったような顔をしてワインを空けた。


中庭

出される料理もとうとうメインに近づいた。


「ステーキなら赤ワインにでもしようかな」
佐多君がリストを開く。

そして、飲む?というようにあたしを見た。


「あ、あたしはもう」
と手で遮ると、


「えー、一緒に飲んでくれるとうれしいなぁ。
今から一本はちょっと僕でも抵抗あるよ」
と佐多君にしては珍しく、少し強引な言い方をした。
酔ってるのだろうか。


「えーどうしたの?佐多君」
あたしがくすくすと笑った。


「あ、ごめんごめん、無理しなくていいよ。
グラスで頼むから」
佐多君は少しだけ酔っているようだ。
でも、強引にはなれないらしい。


「じゃあ、頂こうかな。
赤は美味しいのしか飲めないからよろしくね」


ふざけたように言うと、佐多君は嬉しそうに笑った。
子供みたいに素直な人。
夫と違って分かりやすい。



そう。夫はにこりと笑うことがない。
きっと外ではそうやって作り笑いすることもあるのだろう。
自分の実家でさえにこにこしないのだから、夫にとっては
それは当たり前のことだろう。


自分の家族にさえ、たまにひどく冷淡な夫。
たまにそれはあたしを心のそこから冷え冷えさせる。
夫が甥っ子を愛しそうに見つめたり、話しかけたりしたところを知らない。
昔は、夫も自分の子供が出来たらきっと可愛がるのだと思っていたけれど
今は到底そうはおもえないあたしがいた。


佐多君はワインを頼んで、足を組みなおして尚も
ニコニコ笑っていた。


「機嫌がいいのね」


「うん。楽しいときはね」


佐多君がそういって、庭を眺める。


あたしも、視線の方に目を向ける。


緑で青々としている作られた庭を見つめる。
穏やかな夜。静かで、音楽など流れていないのに
なにかの波に揺られているように心地よかった。


「あたし、これからワイン飲んだら本当に酔っちゃうかも」

「おいおい。頼むよ。無理はやめてね。
君を負ぶって帰ったりしたら、俺あいつに殴られるから」


「そんなことないわよ」


2人とも、弱く笑った。

夫は実際にそんなことしても、佐多君を殴ったりしない。
平然とありがとうと言うだろう。
迷惑かけたな、とか。
そうして、次の日はあたしに口も聞いてくれないだろう。



佐多君が窓を少しだけ開けた。
庭には鯉が泳いでいる。暗くて見えないけれど
水の音がする。
生ぬるい風が少しだけ部屋に舞い込む。


佐多君は窓際に座ったまま、外を眺めていた。
憂いがあるような表情で。

あたしはそんな佐多君の横顔をじっと黙って見つめていた。


遠くから笑い声がする。
外の風が舞い込んでくる。
あたしたちの部屋はしんと静まり返っていたけれど
気詰まりな感じはなく、ふっと緩んだ空気が流れていた。


「ワインが来ましたよ」
佐多君にグラスを差し出す。


「少し飲み過ぎたかもしれないな」
佐多くんは目をしぱしぱさせた。


テーブルにはメインの牛の炭火焼が数切れずつ
きれいに並べられていた。


「疲れてるの?」
舞い込む風と同じくらいのぬるさで、ゆったりと聞いた。


「どうして?」


「なんとなくそんな風に見えただけ」


佐多君は質問には答えず、一人でふっと笑って
ワインを口にした。
2人ともいい具合に酔っていた。
お酒にも。
この空気にも。
そして、嘘という共有物にも。


「疲れてるのかもな」
佐多君は外を見たままつぶやくように言った。
そして、悲しい顔をして笑った。


佐多君の空気が、どこか助けを求めているような気がした。
もしかしたら、それは思い過ごしかもしれない。
願望かもしれない。


「なにかあったの?」


「いや。大丈夫だよ。大丈夫」


そのとき、佐多君の携帯が鈍い音を立てた。
ブーンブーンとバックの中から聞こえる。


佐多君は画面を見た後、「どうした?」と電話に出て
私にすまないというジェスチャーをすると部屋を出て行った。

明るい夕方の密会

冷えたグラスに注がれたビールで乾杯した。

摘み湯葉がテーブルには並んでいる。

「へー。こんなところあるんだね。さすが、よく知ってるなあ」
佐多君がビールをごくりと飲んでそう言った。
「私も一度しか来た事ないのよ」

「あービールうまいなあ」
佐多君は心から幸せそうな顔をした。
「好きだよね、ビール」
「うん。好きだねえ」
佐多君は上機嫌のような気がした。
この前のこわばった感じが消えていた。

佐多君がリラックスしているのはうれしい。
まるで旅館みたいな個室。
絶対に誰にも会いっこないという空間は妙にあたしたちを饒舌にさせた。

そして、あたしたちは少々の罪悪感を共有していた。
それぞれのパートナーに内緒で会っていること。
お互い口にはしないけれど、だいたい察しがつく。

一度だけ関係を持った事があること。
あの夜以来、一度も口にはしないけれどあたしたちは会うたびに
「罪悪感」という名の共有物を持ち合わせる。
それは、あたしたちに微妙な間と親密感を持たせる。
あたしは、あの日の事を後悔などしていなかった。
佐多君はどう思ってるのか分からないけれど。
佐多君の指輪を見るたびに、あたしは
「佐多君は後悔してるかもしれない」
そう思って少しだけ、勝手に落胆する。
お料理が次々に運ばれてくるなか、あたしたちはするすると
アルコールを口にし、だんだんにほぐれていく。
少しだけ酔いしれつつ、頭の半分では
「この時間がずっと続けばいい。終わって欲しくない」
と時間を気にするあたしがいた。
「佐多君。そういえば和食好きだったの?」
「うん、まあなんでも好きなんだけど。
実家ではさ、やっぱり一番口にするのは和食じゃないか。
僕の家では、一番多かったな、母親の影響だね」

「そうね。あんまり和食は家では食べないって言ってたけど」
お互いの家の話は自然に避けていたけれど、でも聞きたいのが
本音だった。

奥さんとは仲良く暮らしているの?
あの奥さんは献身的に尽くしてくれているの?
うまくいっているの?
佐多君は大事にされてるの?

そしてNOだと言って欲しい自分がどこかにいた。
結婚して1年も経っていないのに馬鹿げてる、とどこかで自分を笑う自分も。
そして、佐多君の幸せを願う自分も。

「うん。ほら、うちの奥さんはあの調子だからさ」
奥さんと言う言葉にぎくりとした。
佐多君から、その言葉を聞くのは初めてだった。
そして、そのさらっとした言い方からして佐多君は普段彼女の事を
よそでは「奥さん」と呼んでいることが分かった。
心臓がぎくりとした。
表情が多分一瞬こわばった。
「あんな調子って?」
あたしは慌てて、口角をあげてやさしい表情を作る。
「家庭的じゃない人。会った時分かっただろ?」
佐多君は弱く笑う。
「一度しかあってないし、そんな話はしてないから」
「うん。まあそうだけど。察しはつくよね?
自由で、個性的なんだ。日本で育ってなかったのもあるけど
日本人と結婚してる感覚じゃないんだよなぁ」

「国際結婚みたい?」
「うん、国際結婚がどんなかわからないんだけどね」
佐多君は愉快そうに笑ってビールを飲み干して、
「僕、次は日本酒にしようかなあ。あ、焼酎もいいな」
と顎をさすった。
「エリさんは佐多君と一緒になれたんだもの。幸せよ」
脈絡などなかったかもしれない。
発した後にそう思った。

「そうかな」

「うん。もうエリさんが来たのはずいぶん前になるけど、
あなたのことがとても大事そうだった。それはよくわかったわ」

「突然押しかけてごめんね」
佐多君が自分の事のように謝った。
「エリさんの得意料理ってなに?」
「なんだろうね。たまにパスタとかは張り切って作ってるよ。
よくわからないけれど、多分気分に比例するんだろうね。
たまに、どうしたんだってくらい買い込んで本を見ながら何時間も
かけて料理をすることもあるし。
かと思えば、なんにもない日もある」
佐多君は笑った。

「何にも無い日?」
「うん。ほんとうに帰ったらなんにも用意してない日。
大抵ゲームとかに夢中になってたり、気分的に外にでたい時で
帰ったと同時に『今日どこにいく?何食べたい?』っていう。
僕は結婚したら、彼女は毎日料理を作るのかと思ってて、最初は拍子抜けしたよ。
今までと全然変わらなくて」
「あの人らしいわ。ゲームに夢中になる姿も想像つく」
あたしも思わず笑った。
そうして、ぼんやりと考えていた。
家事を完璧にこなさなくても、愛される人は愛される。
あたしがもし佐多君のお嫁さんだったら、そんなことはしない。
毎日毎日、佐多君の帰りを待って料理を作るだろう。
食べる事の大好きなこの人のために。
でもそんなもの、ただの自己満足で、本当は必要ない。

あたしは、夫に対して家事を完璧とは言えないまでも、
仕事を持っていなかった負い目もあって、手を抜くことなくこなした。
だけれども、あたしに返ってきたものはなんだろう。
夫はどんどんあたしから離れて行った。
あの狭い家の中で。
触れる事もなくなって、あたしがどんなに女として失望したか
あの人は知らない。

かといって、あたしのことを嫌っているわけでもないのだ。
ただ、興味が前ほどなくなった。
それだけのこと。
でも、あたしは傷つき悩んだ。
かつて。

「なんだか、羨ましいな。そんな関係」
あたしは小さなため息をついていた。
自分で切り出した話なのにやっぱり、聞くとショックだった。
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