長らく、このブログもお休みしていました。



南北格差や在住外国人といった課題に出会い、多文化共生の現場に軸足を置いた約4年。公共経営や行政改革といった世界に出会い、非営利組織や政府行政の経営の現場に軸足を置いた約約11年。


社会課題に取り組むことにやりがいや使命感を持ち、熱くなっていたナマイキな娘も、いつのまにかそれを「職」として取り組むようになっていました。




フツーに大きな会社でOLさんをしていたら、味わえなかったであろう体験をいっぱいさせてもらいました。機会をいっぱいいただきました。世のオトナは、かようにも若者を育ててくれる懐を持っていたものかと、今振り返れば、感謝しきりです(当時は気づけなかった・・)。


月日を重ねるなかで、ものの見方・考え方、立脚点が大きくシフトし、脳みそを柔らかくしてもらい、視野も広げてもらい、リーダーシップや政治、経営といった新たな関心を抱かせてもらう、すばらしい人々・組織にたくさんたくさん出会わせてもらいました。 


社会が大きく動こうとしているこの時代に生まれ、その胎動を如実に感じることのできる現場の前線を選び続けることができることに喜びを感じ、ありがたさを感じた時空でした。




今、一歩二歩とうしろに足を引いて、自分が身を置いてきた世界を眺めれば、やはりそこには、小さな世界ながら、多様な叡智がぎっしりで、新たな惑星の誕生のように次世代につながるエネルギーを秘めているように思います。




未来は待つものではなく、引き寄せ、切り拓いていくもの。

先が見えないといいながら社会に生きる、という受身発想ではなく、

未来社会を仮説だてて、リスクをとってでもチャレンジを起こしていくこと。

試した結果が、仮説と違っていたら、修正して、また、前に進んでいけばいい。


未来を見る、ということは、超能力でも透視でもなく、

自分が良質の知見や主張と出会えるようなネ(フ)ットワークと読書量と争論力を築き、

自分らしさのもとにアウトプット(発信、実践、行動)していくことでしか、

感触もハマり具合もわからないことだと、改めて思います。




非営利組織の世界が教えてくれたスピリットは、心のなかで、炭のように炎を出さずとも静かにエネルギーを持ち、また、血となり肉となり人生の栄養素として体内をゆるやかに循環しているように思います。これらの得たものを、私が、新たなる場で、お返ししていくことができればと思います。


感謝。



そして、一歩前へ。


本書は、各論者の主張を引き合いに出しながらリベラル・デモクラシー(アナーキズム、リアリズム、ミニマリズム)の矛盾や代議制の限界を示したうえで(p79-80、それを克服する方向性の提示としてストロング・デモクラシーを主張する。主張においては、理論的のみならず、具体的な実践例の提案を含めて提示するが、ここで重視されることは、(投票者、顧客、被保護者に留まらず、統治者、参加者である)市民としての自覚を前提とした共感プロセス(共同審議、共同決定、共同作業)と人間の相互依存による意思(創案、創出)である。



●話し合いの制度化が市民に与える価値や効果 -バウチャー制度を素材に

バーバーは、「共同社会の性格に影響を与えるよう熱望している個人が結集して行う自治活動(p429)」との関係において、バウチャー制度は利用者への権利付与の観点から「考慮に値する」と評価し、現在、失敗している制度の実情に照らし合わせれば「控えめな実験(p431)」を許容できるものとする。

 しかし、自由放任主義やリバタリアンのバウチャーに関する観念は、財産の消費者として個人的利益に働きかけるという「大きな危険」を宿すものであり、それを「平等主義や人種差別撤廃の利用によって偽装することは結局不可能p430」と批判する。つまり、公共の問題となるべきものを個人的な問題に変え、横の絆を分断させ、政治判断を衰退させ、「活力ある行動に資するようにみえるが実際は共同社会を腐敗させる(p431)」と結論づける。

 バウチャー制度は、基本的には平等主義であり 、行政権力の自己目的化を防ぎ、市民の地位を確保していく政策手段として注目される。確かに利用者への選択権付与は、格差回避をもたらす一方で、より市民を消費者的な受身の立場にさせ得るが、これは制度の設計次第で、むしろ促進させることにもつながる。例えば、バーバーが重んじる熟議、行動、共有、貢献という要素(p253)は、バウチャー制度にサードセクター組織を織り込んで早期することで、可能性は広がる。「個人の市民活動(参加)と市民活動による公的団体(共同社会)は著しく異なるp254」からこそ、利用者側に前者が位置づけられ、供給者側に後者が位置づけられることで、論理的釣り合いを可能にすることにもつながる。

 本書は、天下りについて、国と地方、戦前と戦後の連続性等を広く概観するとともに、主に国家公務員の天下りの現状および引き起こす問題と規制、国民の反応、実態など細部に入り込み、これまで見えてきていなかった天下りを生み出す構造を明らかにしようとしている。公的データのみならず私的データによる確認作業を多方面から行うことで、実態がどうであるか、全容を浮き彫りにしようとしている。


 具体的には、天下りの定義を、押しつける組織、押しつけられる組織、組織の介在の程度、在職中の人事異動か退職後の再就職か、人事の対象者の5つの項目に応じて、定義の伸縮が可能とする(p32)。構造としては、天下る人と天下りを斡旋する組織の両側があり、斡旋というブラックボックス化された過程を経て、天下り先の種類(営利・非営利法人等)と労働条件(給与・ポスト等)が決定する。筆者は、これら4つの状況をデータで示すとともに、ブラックボックス化された部分についてはヒアリングを通じて、事実に迫る。


 また、要因分析においても、送り出す側と受け入れる側との両者の相互関係を4つに分けて検証するとともに、中央官庁側の外部・内部の両要因と、受け入れる側を営利・非営利に分けたうえで要因を探っている。
天下りに対し、実態解明のための枠組みを整理し、分析可能な視点を示したことと、検証できるだけのデータを掘り起こし活用可能性を示したことにより、今後の天下りシステムの改善検討をする際の手掛かりになり得ると考える。筆者自身は、天下りは生命力の強い粘着性を持ち「状況に依存して姿形は変えるが根絶しない」という見通しを持っている(p504)。また、最も公務員が少ないという「小さな政府」がフィクションであり、国民が実感できない理由が、非営利法人セクターの巨大化にあるという主張を実証的に行っている(p517)。


 天下りは、是非論として語るべきものなのか、それとも必要なシステムとしたうえで、いかに弊害に対する抑止力を機能させるかという制度設計の問題であるのか。そもそも、公務員の雇用保障という前提が変わらない限り、人事の停滞という要因(p506)はあり続ける。労働政策の転換(改革、規制緩和によるビッグバン)が、民間部門のみを対象とし、公務部門を除外すれば、結局、是非論は成り立たない。定年まで働ける環境づくりが必要なのか、むしろ雇用の流動化が全体として行われることが目指されるべきなのか。


 もう一点、「小さな政府」が実質化するためには、送り出す側の問題のみならず、受け入れる側自身が律することができるかどうかも問われている。特に送り出す側のうち、非営利法人が行政委託側公益法人であることが問題ではなく、そうであったとしても、健全な経営体制が確立できるかが問題ではないだろうか。


 本書は、政策形成(というゲーム)に参加するアクターが、制度によって規定される取引費用の高低という計算を通じ、どういう鉄道民営化を形づくるかについて示す。
具体的には、制度とアウトカム(本書の場合、鉄道民営化の形態)を結びつける概念として、取引費用4つ(①コミットメントコスト、②立法コスト、③エージェンシーコスト、④参入コスト)を活用し、それぞれの仮説を示したうえで、実際の国の事例を取り上げることにより、仮説の妥当性を示す。つまり、制度がダイレクトにアウトカムを決定するのではなく、アクターが取引費用を最小化しようとする戦略が、行動を決めることを示す。
 事例研究の寄せ集めの紹介ではないと筆者が主張するとおり、異なる文脈や状況におかれた事例であっても、理論的な枠組みに立脚して分析する構成を貫く形で、結論の如何や取引費用モデルの扱い方のみならず、研究論文としての水準に挑戦していることが印象的であった。



●政権交代が起こった日本において、制度によるアウトカムは変化を見せるのだろうか。
 筆者の仮説検証によれば、政権交代の可能性が高い二大政党制では、コミットメントコスト(政権交代による政策の修正ないしは廃止の危険性を避けるためのコスト)も高いため、完全民営化(野党によって政策が覆される危険性を回避する政策)を選択する。
 たとえば、別産業の例になるが、郵政民営化は自民党内で疑似二大政党的な論争構図を組み立てたことで完全民営化を果たした(同時に、与党としての延命にも成功した)。今、政権を奪取した民主党がその政策を覆う構えにいる。今後のことでいえば、逆に立法コスト(立法者が法律を制定するための合意を取り付けることにかかるコスト)で優位に立つ(立法コストを低く抑えられる)民主党は、郵政民営化を見直すことが可能になる。ただし、文脈としては、政権交代が目的で民営化の見直しという政策の実現は手段に使われたことのようにも思えるが、これに対する取引費用の枠組みのなかで考えられる戦略はあるのだろうか。



 本書は、英国の首相は強く、日本の首相は受動的で脆弱という評価に対し、プリンシパル・エージェント理論を援用しながら、両国の1970年代の具体的事例を用いて分析することにより、議院内閣制における首相の権力のメカニズムについて論証している。
 具体的には、「なぜ首相は政策決定ゲームのなかで、ある場合には政策追求行動をとり、別の場合には政策追求行動をとらないのか(p40)」という問い(首相:大臣のプリンシパル、官僚組織:間接的に首相(直接には大臣)のエージェント)に対して、地位維持ゲーム(プリンシパル:政権党、エージェント:首相と大臣)というもうひとつの側面からの委任関係(PA関係)を持ち出し、この二つの関わり合いによって、筆者なりの結論を導き出している。すなわち、首相の公的権力資源(p9)の充実がただちに首相の権力を高めるのではなく、首相がそれを利用するという選択をするかどうか、さらにその前提として、利用可能となる地位維持ゲーム上の条件がそろっているかどうか、という点が重要になる。パーソナリティ概念や官僚支配論に傾斜しがちな首相の政策追求行動について、筆者は、地位維持ゲームの存在を指摘する。



●今後の変化のなかでの首相の権力資源について
 筆者自身が示唆するように、1980年以降、政権党の変化が起こっている。労働党における労組の弱体化や自民党における派閥の弱体化は、首相が公的権力資源を使いやすい地位維持ゲームの条件がそろいやすいことを意味する。また、改革の流れのなかで、執政府中枢を集権化することに有権者の違和感は障害とならないと思われる。一般有権者からの直接的な支持の調達という政策追求行動上の新たな戦術を確立することで、パーソナリティを地位維持ゲームにおける権力資源と位置づける手法は、今後、増えていくのだろうか。



 本書は、近年の日本におけるNPOと行政改革という二つの流れの連動を指摘したうえで、その必然的合流から浮き彫りになる論点を示し、各論に立ち入り、日本におけるNPO-行政関係を本格的に論じたものである。今を基点として前後10数年程度の日本のNPOと行政改革をめぐる論点を、国際的潮流も踏まえたうえで解明した本は、初めてではなかろうか。行政改革との絡みというよりも、そもそも、今の日本社会でサードセクターが本格的に成立するクリティカルパスとして行政改革を伴う公共サービス抜きには難しいことを考えるとこれは、NPO-行政関係と同時に、本格的な日本生まれのNPO論でもある。その説得力は、米英からの理論的実践的根拠を示している点や政府行政に精通している点からも来るが、加えて、(きっとかなり稀有という意味で)研究者でありながら、本格的なNPO経営者でもある立場からくる迫力というものが背景にあるように思う。


○日本のNPOセクターの課題(p200)の実験台的挑戦としての名古屋
 例えば、今後の名古屋市政は、イギリスモデルを日本で始めて本格的に導入展開することが見込まれる(イギリスモデルに留まらず、日本固有の課題としての伝統的NPOへの改革も本格化することは必須である)。
 では、名古屋のNPOセクターが次の段階へと飛躍するための課題はどう捉えられるだろうか。「大きな政府」の歴史的傾向の転換がまわに行なわれようとしているこれからの名古屋の改革を踏まえて、公共サービス改革の動向を正面から受け止めるという戦略的姿勢をNPOセクター側が確立することができるかどうか。
新しいNPO側の反応として、市民活動的要素を強化すべきという声は、今のところ、名古屋のNPOセクターには見当たらない。かといって、大変なビッグウェーブが来たというお祭り騒ぎにもなっていない。
 もう一方の伝統的NPO側の反応として、外郭団体側がどういう反応を示すかは、現段階でははっきり分からないが、恐らく新しいNPO側よりは(抵抗的か意欲的かはともかく)感度がよいのであろうと考える。
 もうひとつ筆者が指摘した「中間支援組織システムのある種の転換」がカギになるというか、これをカギにせねばならないと思われる。そしてこの名古屋モデルの成否が、次のステージとして、政権交代メカニズムのなかでNPO-政府関係の転換を招く可能性を導き出す(まさにイギリスモデル)。

政治任用制度が、日本でも、徐々に認知され始めている(民主党の基本政策のひとつとして掲げられたし、名古屋市でも採用されている)。

 日本の官僚主導の政策形成や効果効率低下という現状においては、政治主導を少しでも増やすうえで、有効な手法という認識の広がり方をしているように思うが、アメリカでは否定的なイメージを内包している。制度の弊害はどのようなものであれ、常に起こり得るものであり、課題を承知したうえで活用方法を見極めることが肝要である。政治化や政治任用に、絶対的な解決を望むことは的外れであろう(実際、小泉政権では、官邸主導というやり方で改革を推し進めた)。特に、政治家としての活動のための政治任用ではなく、政策のプロフェッショナルが指名される任用制度が必要である。


●政策のための政治化は進むか
 有権者にとって望ましい政治化は、パトロネージではなく、政策のためである。パトロネージよりも困難な、適切な人材がいてこそ実現するという点である。政権交代のたびに、主要幹部陣が入れ替えられるような政治任用予備軍といえる人材層があるかどうか。また、別の問題として、官僚を使いこなせるかどうかという線の追求をすれば、相対的に政治化の追求は必然性が低下する(ことは、ルイスの調査結果でも示されている)。日本の場合、これだけ自民党が官僚を使ってきているため、民主党に政権交代がなされれば、いったん政治任用を採用せざるを得ない。しかし、官僚を使いこなせるだけの手腕というのが政策と同程度に求められる(官僚が有する専門性以外に、より政治的な立ち居振る舞いとして)。


 本書は、18世紀後半~19世紀後半のイギリスにおいて、フィランソロピが一つの自立領域を構成し、時代の転換期(都市化・工業化)への対応や国家的なアイデンティティの醸成に貢献し、社会の各層の生活と心性に浸透するだけの大きな存在感を持っていたことを丁寧に示し、イギリス近代においてフィランソロピは重要な構成要素であることを主張する。
 単にそれだけに留まらず、前近代的で情緒的で宗教的で非効率で偽善的である余暇活動と見られてきたチャリティ像と、社会事業や福祉国家との分断を見直し、改めて、その関係性(連続性)を示し、フィランソロピと国家との結果的な協力関係の説明へと展開することで、現代的なテーマへつなげている。
 日本において、イギリス近代のフィランソロピ像を丁寧に浮き彫りにし、現代につながる意味あるものと示した著書は初めてと思われる。どう浮き彫りにするか、どう明らかにするか、と考える際の範囲の切り取り方や組み立て方、つまり、どの範囲までをフィランソロピの全体像として光を当てるのか、何を掬い取ることがフィランソロピに光を当てたことになるのか自体、判断が必要である研究対象である。歴史学の貢献性にも、メッセージを持たせることが出来たのではないか。


■第三章第三節~第四節
 当該節では、言説分析の手法を用いて、チャリティの不健全運営、選別的救済/非選別的救済、貧しいという三つの言説に付される意味を検討している。時代の流れのなかでの転換期(とされた時期)において交わされた論争に着眼し、フィランソロピ実践の転換の証拠とされてきた状況に対しても、核となる倫理は保ち、転換は存在しなかったとする。フィランソロピの時空間は相当な強度を誇ったとする。
 著書は、フィランソロピと国家福祉の両立は、イギリス現代史の特殊な構造とするが、近しい状況は、他の先進諸国では描かれないものなのであろうか。フィランソロピ領域に効率性論理を導入することに失敗した人は、福祉国家の建設に乗り出したというイギリス状況の本格的検討はこれから、と仮説的に言っているが、少なくとも フィランソロピの要素ヌキに国家福祉を論じることは不可能とする。
 また、フィランソロピの実践に対する転換であるかどうか、国家との関係性は、近代の状況として描かれるが、現代も、ある意味転換期であると考えることが可能ではないか。


準市場メカニズムを念頭に置き、公共サービス供給のあり方を論じている。

 まず、公共サービスの供給者の動機に着眼する必要性を指摘し、騎士と悪党に整理して理論的基盤を提示している。動機構造が分かる場合は、閾値を見極めながら報酬体系を設計すればよいが、そうではない場合は、頑強なインセンティブ構造を組み込んだ政策立案が必要であるとする。
 次に、決定や資金を担う立場にある政府でも、供給機能を担う立場にある事業者でもなく、サービスを受益する利用者に焦点を当て、女王と歩兵のタイプに分けて論じる。ルグラン自身は、利用者がある程度の権限あるいは相当な権限を持つべきという主張に説得力があるという立場を示し、利用者に権限を付与するような政策を考える必要性を指摘する。

 この考えに基づいて、後半の政策に関する検討は行っている。


 
1. 利用者に対する権限は付与すべきか(114~128頁)
 利用者に対する権限を付与するかどうかは、「競争」と「選択」を両立させるメカニズムにおいて不可欠な中核的ポイントである。大きな選択としては、利用者よりも、専門職や管理者が権限を大きく持っていたほうがよいのか否かという選択がある。そのうえで、サービスの性質、量、供給者という3つに分けて、どの決定権を誰が持つべきかという選択がある。すべてなのか、程度なのか。福利と自由と社会利益のアプローチのいずれを選択するかによって、歩兵と女王のどちらであることを目指すシステムなのかが決まってくる。
 情報の非対称性が強く、評価が困難であると見られる分野であるほど、利用者に対する権限付与についての議論は多くなる。例えば日本では、医療や教育では民間企業の参入が規制されているが、どこまで許容されるべきだろうか。



2.「競争」は「選択」と並列の価値ではなく、選択に帰する価値か(p.181)
 形態や方法に幅を持たせた総称として使われているため、一概には言えないだろうが、デモグラントの最も制約がない形態(全員、個人単位、資力調査なし、就労要請なし等)はベーシック・インカムに近づく(185)。デモグラントは、資産ベースの平等主義を根拠基盤とし、機会の平等化を図る(貯蓄や投資への誘導や消費の抑制は設計次第)。バウチャーは使途や利用者範囲の制限もあり得るサービス給付の形態であるのに対し、デモグラントは所得調査のない手当政策であるため、直接的な比較は無理があるだろうが、歩兵を女王に変換するという価値機軸に沿った際、同等の有効性を持つものと捉えられる。富裕層にとって事態の改善が起こらなくても、貧困層にとっては以前と比べ歩兵から女王に脱皮する機会提供が高まる。ルグランは歩兵を女王に変えることは騎士を悪党に代えるわけではない(246)というが、悪党を騎士に代える必要もない、のだろうか。

本書は、あらゆる積極的な権力は、自ら変えることのできないルールにしたがって行動しなければならない原理(p204)を主張し、無制限の究極的な権力が存在することを許容しない。本書において、ハイエクは、政党や政治家の多数派維持という行動原理が必然的実態としてあることを直視し、その問題は、無制限の権力という点に見る。無制限の権力を奪取するために、立法(ルール制定)と行政(資源管理)を厳密に分離させる必要があり、そのための独自の具体的なモデル像を示す。ただし、それだけに留まらず、制限された政府の役割についても踏み込み、官民分担という視点と地方分権という視点という、現在の行政改革の流れに通じる論点についても、具体像を示している。




1.官民分担の観点から考える政府の役割とその帰結としての社会像について


第三者政府モデル(サラモン)が示す構図と同じく、資金供与は政府が担い、実施機能は民間が担い、ルグランが示す原理と同じく、競争と選択によって提供される、という現代の公共サービス改革そのものを示している。さらには、競争的企業のみならず、公共サービス供給主体として、サードセクターへの可能性を指摘している。
ハイエクは、企業との競争という位置づけにサードセクターを置くという次元ではなく、サードセクターの存在感を政府と直接に競争する主体、政府肥大化を食い止める主体として、その可能性を示唆している。運動体としてではなく、公共サービス供給者という事業主体であることによって、サードセクターがある種の脅威を感じさせる本来の相手は、企業ではなく政府であるとしている点に「国家に取って代わる(スティーブン・バブ)」というような(現状の延長というよりも、より中長期的な)社会の未来像を想起する材料を与えてくれている。


▼関連抜粋 
・ 「(中略)そのようなサービスの組織と管理を競争的企業に一任するとともに、強制によって徴収された資金を、なんらかの形で表現される利用者の選好にしたがって、生産者のあいだに配分する適切な方法に頼るほうがいっそう効果的なやり方であるだろう(p69)」「(中略)依然として望ましいのはそのメカニズム(市場の自生的メカニズム)に頼ること、そして資金の徴収のためにだけ強制的な中央決定方式をもちいて、こうしたサービスの生産の組織化や異なる生産者間への利用可能な手段の配分については、可能なかぎり市場の力に委ねることである(p70)」

・ 「この種(財団や基金、民間協会、無数にある民間慈善団体、福祉事務所、地域的な再建・復興活動)のより大きな発展は、次のような場合に数多く見られることになるであろう。すなわち、政府に訴える癖や手元にある救済策をすぐに、しかもあらゆるところに適用しようとする近視眼的な願望によって、全分野が政府に先取りされてしまうというような事態が起こらない場合である」「商業的なものと行政的なものとのあいだに、今日政府によって供給されねばならないと信じられている多くのものをいっそう効果的に供給できる、また供給すべきである第三の独立部門を保持することが、健全な社会にとってきわめて重要なのである。(中略)公共サービスの点で政府と直接に競争して、政府活動がはらむもっとも重大な危険、すなわちあらゆる権力を握った独占の創出と独占の非効率性を緩和することができるであろう」「この独立部門とその能力を発展させることが、多くの分野において政府による社会生活の完全な支配という危険を防ぐ唯一の方法なのである」(p75)





2.中央と地方の役割分担の観点から考える地方政府の役割について


 ハイエクは、政治的中央集権化が自己決定機会を奪ったとする(p200)。政治的な中央集権以外にも、サービス供給機能についても、地方に委ねられることとしている。その際のイメージとして「共同体精神の復活」という点が興味深い。 (近隣政府のような)住民自治機関というイメージなのであろうか。そうなれば、共同体精神の復活という表現ともつながってくる。


▼関連抜粋

・ 「地域的に行使できるあらゆる権力を、その地域にしか権力をふるえない機関に委任することは、おそらく政府活動の負担と便益を近似的につり合いのとれたものにさせる最良の方法であろう」(p69)「いまや、中央政府によって提供される大部分のサービス活動は地域当局や地方当局に委任できるであろう。これらの当局は自分たちが決定できる率で税金を徴収する権力を保有するが、あくまで、中央の立法府によって制定された一般的ルールにしたがってのみ、税金を徴収したり、割り当てることができるであろう。その結果として、地方政府さらには地域政府でさえも、市民と競争する準営利法人に変わるであろう、と私は信じている。」(p199)「政府の大部分のサービス活動の管理を、より小さな単位に再び委任することは、おそらく中央集権化によってほとんど絶やされてしまった共同体精神の復活につながるであろう」(p200)