大人が習っている空手で、しっかりと基準を満たすことができないのに昇級試験を受ける人間が増えている。子供が親に習わされていて、いやいややっているならしかたがないかもしれないが、自分の稼いだ金でわざわざ試験を受けるのに、十分な準備をすることもなく、試験を受ける大人が急に増えてきている。道場経営という視点からは、ある程度の甘さも必要だとは思うが、習い事としての特性を考えるならば、一定の基準を超えるように手助けをし、指導をしてできるようになったという実感を与えることこそが一番大切なこと。金で帯を買う感覚で試験を受ける大人は、物事の本質を理解できないまま大人になっている。名にし負うという言葉の意味や価値すら感じることのできない、矜持という言葉の意味を理解できない大人が増えているのは、パワハラセクハラといった定義をしっかりと決めないままに、運用されるおかしな訴訟であり、その結果として、屁理屈をこねればなんとかなるというおかしな風潮のせいである。
 

 心のゆとりは落ち着いて取り組む上で、小さな部分細かな部分への気配りをするために必要なことだが、自分を律することのできる一部の人間だけにしか意味はない。自分を律することのできない人間の割合が増えてくると、事細かに規則を作って管理しなければならなくなり、真面目にやっている人間には窮屈になり、不真面目な人間にとっては、なあなあで済ませられたことが、規則違反という厳しい対応を引き出すことになってしまう。
 

 今回もまた、息子の昇級試験に遠い場所まで付き合って行って、指定されている型の順番すらまともにできない大人を見せられると、館長が、指導の先生はちゃんと教えて下さいという言葉の意味が、どれほどちゃんと伝わっているのかと暗い気持ちにしかならない。ちゃんと教えられている息子は、型にしても体力にしても、1週間前には十分に仕上げてあり、組手が規定の数だけあったらきついかもしれない、余分にさせられたらきついかもしれないと多少の緊張感を持ってのぞみ、開場前にも型の復習をしていたのに、ちゃんと教えてもらえていない大人の方は、型の順番の復習のための通しの練習すらせず本番に望んでいた。心構えという武道の一番大切なことを教えることができないならば、習い事としての価値はない。
 

 どんな器具も機械もゆとりを持った設計や組み上げは必要だが、ゆるい組かたをすれば、壊れる以前に機能を果たすことはできない。人の社会も、仕事もゆとりは必要だが、ゆるさは有害でしかない。

 プーチンの思惑と違うからというだけで、主権国家に軍事侵攻をやったロシア。アラファトがなんとか築き上げたパレスチナの平和を、納得がいかないという理由で、ほぼ軍事作戦レベルで破壊したハマス。どちらも、平和的手段をつかわないで、組織的に訓練された軍隊を使って、人の命を奪う兵器をつかって、平和な市民生活を破壊したことでは同じである。
 

 国連がハマスとイスラエルの停戦を願うならば、当然、戦争犯罪の責任者の処罰が必要であるが、仕掛けたハマスと反撃したイスラエルでは落とし所が調整できないだろうから、文化的に中立な国を使って調停をすすめるべきではある。しかし、事務総長はイスラエルに自重しろというメッセージを出すだけであり、説得力などあるはずもない。ロシアにもハマスにも言い分があるのはわかるが、戦争を起こした責任を取る覚悟もなく戦争を起こした指導者には、何の大義もない。終わらせる手段も考えずに戦争を起こす指導者は、人命に対していかなる正当な言い訳もない犯罪者である。
 

 マスメディアの扱い方も、ロシアに対しては強硬であるが、ハマスに対してはハマスという名前を隠して悲惨なパレスチナという扱いをする。しかし、そもそもオスマン帝国時代には露骨な衝突を起こしていたわけではないユダヤ人とパレスチナ人が、アラブ側に有利だったユダヤ人とパレスチナ人の分割統治案をアラブ側が蹴った形で第2次世界大戦に突入して、その後の国連による介入にも強硬な態度でのぞみ、アラブ側が戦争を起こした過去があるのに、なぜ、かわいそう、気の毒という雰囲気でパレスチナ問題を解決しようとするのか理解できない。ロシア側がプーチン体制を維持するために、ロシアとヨーロッパ文化圏の間に緩衝地帯が欲しいというだけで起こしたウクライナとロシアの戦争で、ウクライナ側が領土を奪われた形での停戦をさせるのではなく、クリミア半島のウクライナへの返還とウクライナ東部の独立と非武装地帯化を条件としての停戦を提案すれば、中立的な立場での停戦案であろう。同じ様にして、イスラエルとパレスチナに対して、パレスチナ地区への封じ込めをやめさせ、就職や就学での差別を法的に禁止し、イスラエルの国会でユダヤ人の代表者とパレスチナ人の代表者の比率をユダヤ人50%強、2/3未満として統一国家を提言するのが中立的な提案ではないだろうか。

 ビリギャルで努力で道を切り拓いた方が、ネット上でのコメントで努力ができない人間という言い方はおかしいと論じたら、噛みつかれたという記事があった。努力できない人間という扱いをされるということは、やればできるということですらないので、人格否定だとすら思える。なんだかんだと言い訳を考えて、努力をしないことを正当化したい人間がいるということはよくわかった。なにかをしたいという欲がない人間が、努力をする必要はない。煩悩なしには、何も成し遂げられないということでもある。それでも、なにかを成し遂げるためには、コツコツとすぐに結果がでないことをやり続けなければならない。強制されてであっても、退屈な作業を続けることで、学力をつける、体力をつけるなどの効果は、成長期であれば期待できる。
 

 今、ノイジーマイノリティという言い方が出てきているが、私に言わせれば、古代ギリシャの詭弁家と同じで、社会に害毒しか流さない存在である。やりたいことや楽しいそうなことしかやってみない、やってみて自分が期待した結果がでないなら、止めてしまう。親がちゃんと育ててやらなければ、子供はできないこととできることしかないと思ってしまう。できないことが、できるようになることが成長なのだということがわからないまま大人になると、生産性の高い組織の中に居場所をつくることはできない。
 

 勝ち続けることや成功し続けることは簡単なことではないし、負けてもいい時にまで勝ちにこだわると社会的には損をすることもある。勝たなければならない時に勝つために、負けたときに教訓を得る、対策を立ててできなかったことをできるようにすることこそが大切なことなのだが、負けた悔しさ、出来なかった悔しさ、失敗した時の悔しさを乗り越える強さを養わなければ、捲土重来ができない負け犬の出来上がりである。マスメディアの論調として、GDPの国際順位が下がった、大変だ大変だという流れがある。栄枯盛衰で衰え始めたらそのままになってしまうということなのだろうが、分析抜きにGDPを上げよう、経済成長だ、少子対策だと騒ぎたてるのは、敗北や失敗を分析して克服する胆力がない連中だからだとしか思えない。
 

 誰もが必要とするものを作ることでしか、経済は成長しない。ものづくりを大切にしない国や社会が豊かになるわけがないのだが、この国で収入の多い業種は、製造業ではないし、農業でもない。3次産業関連の会社に勤めて、事務的な仕事をしている人間が高い所得を得る状況であれば、どうして優秀な人間が製造業に行くだろうか?プレゼンがうまい人間やコミュニケーションスキルが高い人間がいい生活ができる社会より、こつこつきっちり日々良いものをつくる努力を続ける人間が、高い評価と経済的に安定している社会でなければ、成長し豊かな国にはならない。