プーチンの思惑と違うからというだけで、主権国家に軍事侵攻をやったロシア。アラファトがなんとか築き上げたパレスチナの平和を、納得がいかないという理由で、ほぼ軍事作戦レベルで破壊したハマス。どちらも、平和的手段をつかわないで、組織的に訓練された軍隊を使って、人の命を奪う兵器をつかって、平和な市民生活を破壊したことでは同じである。
 

 国連がハマスとイスラエルの停戦を願うならば、当然、戦争犯罪の責任者の処罰が必要であるが、仕掛けたハマスと反撃したイスラエルでは落とし所が調整できないだろうから、文化的に中立な国を使って調停をすすめるべきではある。しかし、事務総長はイスラエルに自重しろというメッセージを出すだけであり、説得力などあるはずもない。ロシアにもハマスにも言い分があるのはわかるが、戦争を起こした責任を取る覚悟もなく戦争を起こした指導者には、何の大義もない。終わらせる手段も考えずに戦争を起こす指導者は、人命に対していかなる正当な言い訳もない犯罪者である。
 

 マスメディアの扱い方も、ロシアに対しては強硬であるが、ハマスに対してはハマスという名前を隠して悲惨なパレスチナという扱いをする。しかし、そもそもオスマン帝国時代には露骨な衝突を起こしていたわけではないユダヤ人とパレスチナ人が、アラブ側に有利だったユダヤ人とパレスチナ人の分割統治案をアラブ側が蹴った形で第2次世界大戦に突入して、その後の国連による介入にも強硬な態度でのぞみ、アラブ側が戦争を起こした過去があるのに、なぜ、かわいそう、気の毒という雰囲気でパレスチナ問題を解決しようとするのか理解できない。ロシア側がプーチン体制を維持するために、ロシアとヨーロッパ文化圏の間に緩衝地帯が欲しいというだけで起こしたウクライナとロシアの戦争で、ウクライナ側が領土を奪われた形での停戦をさせるのではなく、クリミア半島のウクライナへの返還とウクライナ東部の独立と非武装地帯化を条件としての停戦を提案すれば、中立的な立場での停戦案であろう。同じ様にして、イスラエルとパレスチナに対して、パレスチナ地区への封じ込めをやめさせ、就職や就学での差別を法的に禁止し、イスラエルの国会でユダヤ人の代表者とパレスチナ人の代表者の比率をユダヤ人50%強、2/3未満として統一国家を提言するのが中立的な提案ではないだろうか。

 ビリギャルで努力で道を切り拓いた方が、ネット上でのコメントで努力ができない人間という言い方はおかしいと論じたら、噛みつかれたという記事があった。努力できない人間という扱いをされるということは、やればできるということですらないので、人格否定だとすら思える。なんだかんだと言い訳を考えて、努力をしないことを正当化したい人間がいるということはよくわかった。なにかをしたいという欲がない人間が、努力をする必要はない。煩悩なしには、何も成し遂げられないということでもある。それでも、なにかを成し遂げるためには、コツコツとすぐに結果がでないことをやり続けなければならない。強制されてであっても、退屈な作業を続けることで、学力をつける、体力をつけるなどの効果は、成長期であれば期待できる。
 

 今、ノイジーマイノリティという言い方が出てきているが、私に言わせれば、古代ギリシャの詭弁家と同じで、社会に害毒しか流さない存在である。やりたいことや楽しいそうなことしかやってみない、やってみて自分が期待した結果がでないなら、止めてしまう。親がちゃんと育ててやらなければ、子供はできないこととできることしかないと思ってしまう。できないことが、できるようになることが成長なのだということがわからないまま大人になると、生産性の高い組織の中に居場所をつくることはできない。
 

 勝ち続けることや成功し続けることは簡単なことではないし、負けてもいい時にまで勝ちにこだわると社会的には損をすることもある。勝たなければならない時に勝つために、負けたときに教訓を得る、対策を立ててできなかったことをできるようにすることこそが大切なことなのだが、負けた悔しさ、出来なかった悔しさ、失敗した時の悔しさを乗り越える強さを養わなければ、捲土重来ができない負け犬の出来上がりである。マスメディアの論調として、GDPの国際順位が下がった、大変だ大変だという流れがある。栄枯盛衰で衰え始めたらそのままになってしまうということなのだろうが、分析抜きにGDPを上げよう、経済成長だ、少子対策だと騒ぎたてるのは、敗北や失敗を分析して克服する胆力がない連中だからだとしか思えない。
 

 誰もが必要とするものを作ることでしか、経済は成長しない。ものづくりを大切にしない国や社会が豊かになるわけがないのだが、この国で収入の多い業種は、製造業ではないし、農業でもない。3次産業関連の会社に勤めて、事務的な仕事をしている人間が高い所得を得る状況であれば、どうして優秀な人間が製造業に行くだろうか?プレゼンがうまい人間やコミュニケーションスキルが高い人間がいい生活ができる社会より、こつこつきっちり日々良いものをつくる努力を続ける人間が、高い評価と経済的に安定している社会でなければ、成長し豊かな国にはならない。

 東近江市長の発言は、マスメディアで叩かれているが、フリースクールに通わせることができない親や家庭の問題はどう解決するのか?なによりも、児童期の子供の不登校と思春期の子供の不登校を同じに扱うべきではない。特に思春期の不登校は、いじめなどの問題以外に、精神疾患の発症の結果である可能性もあり、親が向き合わなければ解決できないままになる。発達障害やパーソナリティー障害にしても、個性として考えれば、どうやって社会生活に最低限問題なく適応できるのかを、親以外に真剣に考えることができる存在はいない。薬物によって改善できるものであるならば、親の理解や協力抜きにして医療を受けることができなければ、解決できないままである。

 

 わかりやすい例をあげれば、コンピューターのCPUには多様性があるが、そのままであれば利用する場合に、モデルチェンジごとに扱い方を勉強し直さなければならない。現状はOSで差異を吸収して、同じように使えるようになっているから、多くの普通の人が恩恵を得られている。自分の特性を理解している人間だけしかいないという環境は家族のみ、初めて会う人に自分が変わっている人間だから特別に扱うことを期待するのは無理なことすらわかっていないならば、社会での円滑な生活は不可能。その部分は、礼節や社会規範に適応することで解決できる問題である。しかるに、自分の子は特別なんだから周りが合わせろと考える親のせいで、社会生活に適応できる機会を奪われている子は少なくない。
 

 昔の話は否定されるべきと考える人間たちがいるのは、常に新しいことがいいことだ、外国のやり方がいいことだと、無批判に信じてしまう知性に乏しい人たちだからしかたがないが、昔は躾として礼儀を含めて社会生活に必要なルールを、嫌だ面倒だと思ってもやらなければならないこととして身に付けさせてもらっていたから、今ほどに発達障害やパーソナリティー障害が問題とはならなかったのだ。
 

 周りの自分とは違う子たちとうまく付き合っていけないことから、学校に行っても居場所がない子にとって、不登校は当然の結果だ。個性の問題であって病気や障害ではないのならば、親が子供にとっての最良と思える環境を探す以外に、他人がどれだけ頼りになるというのだろう。親が学校や行政に働きかけず、問い合わせることすらせず、調べることすらしなかったら、子供たちが自分の探すしかないのに、親に責任がないという理屈はおかしい。