あれれっ、今日は店仕舞かぃ。

 へぇ平さんおいでなせえ。今日はね、町内で権現様に紅葉狩とかいって。たまにゃあ若い奴にも休みをやろうかと思って出しちまった。おいらぁひまだから急な客でもあったらと店で一服してたとこさ。

 親父もいいとこあるぜぃ。それじゃ髪梳きからゆっくりやってもらうかね。おいらも今日は大工仕事も休みでよ。

 けれど髪結い床の静かってぇのもなんだか落ち着かねぇやな。近頃ぁ世間も何かとせちがねぇもんだが、なんぞ心持ちの暖ったかくなるような話はねぇかぃ。

 そうよなぁ。米味噌はあがるぁ薪炭は値あがるは、町の暮らしもせちがねえからね。儲けるのは札差しや倉持ばかり。髪をあたるもんもずんと減りやしたよ。

 あ、そうそう。こんな話があってね。これぁ先日の長雨で客がこねえから、若いもんけえしておいら独りで一服してたとおもいなせえ。

 ほむ、親方も煙草ずきで一服ばかりだねぇ。

 そこに菅笠の薬売りがやってきた。内のかかあが頭痛持ちだからよ六滋丸でもあがなおうかと思ってね。薬売りもついでだから髪を当たってもらおうかってことになったのさ。

 薬売りってぇのは諸国をへ巡ってるから面白え話も知ってるってぇもんだぁ。それでねあっしも尋ねてみた。
 越後の雪里の弥七つぁんて薬売りでね。ある時仕入れに加賀様の御城下の問屋に行くと、そこの手代に頼まれごとをしたと。

 その手代も越後の生まれてふた親を無くして弟妹が十人もいたらしい。あちこちに里子に出しても親類も受けきれねえ。それで困って廻り薬売りの徳兵衛ってもんに末の妹を預けたそうだ。
 まだ幼い末娘だ手放すのは辛かったようだが、江戸へ行けばなんとか生き延びられるだろうってね。

 まぁそうさなぁ。岡場所や水茶屋にでも下女奉公すりゃ、まんまだけは食べられるからなぁ。あにいも辛かったろうさ。江戸はいまや子も少ないが田舎ぁ子沢山だしよっ。薬売りってぇのは商売の繫がりが深いっていうしなぁ。

 それで弥七さんは同業の徳兵衛どんの足跡辿って江戸に来てその後の話が聞けたんだと。

 そりゃよかったなぁ。娘ッ子はめっかったのかぃ。

 徳さんが世話した口入屋に行くと、確かに奉公を世話をしたんだが。それがね、器量がいいのも善し悪しで、手代に乱暴されかかったとか次の茶屋でも下男の男にいたずらされたと泣いて逃げ戻ってきたんだと。

 口入れ屋も困ってね。そのままじゃ苦界に行って春でも売るより仕方ねぇ。年端もいかねえから気の毒だぁ。受け状書いてやるからおまえ顔に灰炭でも塗ってお武家町の方でも探してごらん。御武家の家内なら奉公人にも厳しいから変なこともされめえ。まんま焚き位なら置いてもらえるやもとな。

 ふむ、しかし武家方は身元もうるせえだろしなぁ。

 そんで、そのおちょって娘ぁ足を棒にして歩き回り。通りすがりの奉公娘に尋ねてもそんな御屋敷はねえだろうと。へたりこんで大名小路の外れの荒れ屋敷に潜り込んでの縁の下で寝ちまったそうだ。

 その御家は松岡様といって、御徒歩目付けまで勤められた方の御家だったが残された一人息子が跡を継いでね。祝言をあげてお役を継ぐ所までいったが。なにがあったのか奥様が三月と立たず無役の若侍と駆け落ちしちまったのよ。

 ふえぇっ。そりゃあ豪気だなぁ。武家の娘っていっても女心はわからねぇもんだ。

 そんで、松岡様はすっかり恥じ入って気落ちし。酒に溺れお役にもつかず籠ってしまいなすった。物狂いって噂もあって奉公人もすっかり去って家は荒れ放題。商人もつけが溜まってお出入りしねぇってありさまだったようだ。

 縁の下からはいでたおちょちゃんは、そんな有り様を見て噂も聞いてから。酒びたりで寝込んでいる殿様にどうか竈の脇にでも寝泊りさせてくれ。ご恩は自分が働いて仕えるからって頼み込んだそうな。

 いぢらしじゃねぇか、娘ッ子も必死だったんだろうよ。

 煤けたような小娘を見て、勝手にしろと殿様は投げやりで。おちょ坊はその日から庭の草取り家の掃除と働いて、近所の米味噌屋に頭を下げて、自分が働いて必ず払うからと米や青菜を借りてきたそうだ。
 暗いうちから米屋の前を掃除したり薪炭屋の荷卸しを手伝ったり。朝の御膳を出すと縫い子の下請け仕事を捜してきては夜なべして働いたと。

 弥七さんが捜し当てて近所に聞くと、どこの家もいぢらしい下女だとおちょちゃんの働きぶりに感心していた。
 連れ戻すのもなんだと様子を伺っていたそうだが。御武家ってぇのは呑気なもんで、相変わらず家の物を酒に変えてはひがなごろごろだぁ。よっぽど嫁御に裏切られたことが堪(こた)えておいでなさったんだろうよ。

 へっ、男なんてぇもんはからっきしだらしねえやな。面子だの御家だとそっくりかえっちゃいても女一人に尻子玉抜かれちまう。おいらぁなんか女に脈がなきゃ他へ行くだけなのにさ。よっぽど惚れてれていなすったんだろうかなぁ。

 そんな日が四月も続いて、あまりにみかねた米屋の主人がついに御屋敷に乗り込んでいったそうな。

 おめえさんは、毎日白飯喰って熱い味噌汁飲んで、僅かなもんは酒に変えちまってるようだが。それは誰のおかげだと思っていなさるってね。おちょちゃんは釜の底の飯粒拾って食いつないでいるのにってな。

 おうよっ、よく言ったってぇもんだ。その通りよっ。さむれえはおまんまに困って辛抱したことがねぇからよっ。

 松岡様も、もとはお優しい気立てのお人だったんだろう。米屋の親父の必死の諌めに、ずいっと心を動かされなすって。おちよちゃんにも詫びたそうだ。

 数日たって幼馴染の御同輩がやってきた。ご同輩も心配していて時々様子を伺ってらしたようだが。あの娘はあっぱれな心根の娘だと、覗いたら顔を洗ってみれば愛らしい顔立ちだ。きちんと奉公人として扱ってやれと些少の金子も持参したそうな。

 へっ、友達ってえのはありがてえもんよなぁ。それでどうなすってぇ。

 松岡様は身じまいを整えて父親の御友人だったお目付けの所へ頭を下げてお役を頂きたいと願ってな。おちよちゃんにも着物もあがなって奉公人にしなすった。ふっきれてお役にも励んだそうな。

 そうこうする内におちょちゃんも年頃で。やがて御同輩の養女として預けて士分の仕きたりを学ばせてその後奥方に迎えた。ってぇ目出てえ出世話よ。
 今では奉公人にも心配りなさる立派な奥方だと。加賀のあにさんの所にも弥七さんに頼んで、立派な引き出物を届けなすったそうだ。

 ほうっ、そりゃまたなんともいい話じゃねえかぃ。あはは、薬売りの語りにすっかり気を良くして親父も六滋丸をしこたま買ったんじゃねえかぃ。

 まあな、こんなつべてえ話ばっかりの世間じゃよ、温もった話ぁ元気の薬よっ。さあて元結きつく締めておしめえだ。

 おうっいい仕上がりだ。さっぱりと気分もいいから蕎麦でもたぐって権現様の縁日でも冷やかしに行こうか。ほい親父御代はここに置くぜ。

 平さんまいどありがとよ。またなんか面白え話もでも仕込んどくさぁ。

 あいよっ。つべてえ風も熱燗の温もりってぇもんだ。またくるぜっ。




 なんか面白い草紙本はあるかい。

 そう声を掛けられて茂次は読んでいた黄草紙から顔を上げた。貸し本の箱荷を降ろして川沿いの土手で一息入れながら、つい草紙を読みふけっていた茂次はあわてた。

 土手の奥の松林から蝉の声が賑やかな暑い昼下がりの八つ時。

 はいはいっ、曽我兄弟、源平物など史記物から季節柄のあやかし話、心中物から落とし噺まで色々とございやす。

 ふぅん、おめがえが読んでるのはなんでぇ。

 これは、天文所のお役が書かれた空の話を子供向けに誂えたもんでやす。

 空にゃ何があるんでえぃ。

 ええっと、昼の空には雲がありやすね。その雲の形で節季の前触れがわかるとかぁ、夜の星で暦を作るとか、えーっとぉ。

 ふふ、貸し本屋は学もつくんだねぇ。門前の小僧ってもんだ。

 二十歳を少しでた年頃の着流しの若い男は、隣にしゃがんで茂次を眺めると。

 おいらぁ、そこの豊洲屋の寮のもんで文七ってぇんだ。おまえさんはこの辺りを廻っているのかぃ。

 へぇ、両国辺りはもう割り振りがあって。この辺りは寮も多いんで無聊の慰めにと声を掛けてもらえることもありやす。

 そうかぃ。佃の方に寄ると大店の暑気払いの寮も多いが、この辺りは囲い者が多いから大した稼ぎにゃならねえだろに。

 茂次は懐から手拭を出して額の汗を拭うと、丁寧に畳んで懐に戻した。稼ぎを思うと疲れが重い。

 手前は、気が利かない不器用者でやすからご贔屓も少ないんで。足で廻るしかありやせん。

 ふうむ、おいらのとこは下働きの爺さんと二人だけだからよっ。くたびれた時ぁ足休めに寄りなよっ。冷えた麦湯くれえあるしな、本も借りるからさ。

 へえっ、ありがとうございます。

 数冊無造作に草紙を掴んで、きょうはこんだけ借りるぜっ。と笑った。
貸し出し帳に矢立で豊洲屋文七さまと書き付け、ありがとうございます。また何日かでお伺いしやす。
茂次はへこへこと頭を下げ、若者の背を見送ってから、重い木箱を背負って立ち上がった。

 深川六間掘りと横川に挟まれた湿った路地奥の地蔵長屋に茂次は姉のおたきと住んでいる。早くに親を亡くして年の離れた姉に育てられたが、その姉も無理がたたって寝たり起きたりで縫い仕事も多くはできぬ。

 十で呉服屋の丁稚にでたが、届け物の反物を転んで汚したと家に帰され。手伝い仕事をあれこれしても愛想もなくてきぱきともできずに、度々雇い止めにされる。やっと差配の知り合いの貸本屋から荷を借りて廻り貸本の荷担ぎになった。

 愉しみは一息つく時に、汚さぬように草紙本を読むことで、おかげで寺子屋にも通わず何とか文字も読み書きできる。

 そんなことがあって。豊洲屋の寮に暮らす若旦那の文七を、廻り仕事の帰りに尋ねるようになった。

 茂、ちょいと外に出ようか、二日も草紙ばかり読んでごろごろしてたらさすがに飽いたわ。

 二人は隅田川沿いを午後の土手風に吹かれて歩き、茶屋の外の床机に座って麦湯と葛餅を食べる。

 おいらなぁ、旅に出てえな。
文七は川向こうを眺めるようにぽつりと言った。

 若旦那なら、お好きな所にいけるんでやしょうよ。

 ふん、おいらの家ぁ知ってのとおり銀座裏の豊洲屋で、まぁ大店の酒問屋よっ。
しっかりもんの兄に働きもんの弟もいて古番頭も雁首並べてる。しっかりときっちりが飛び交う店だ。おいらね。性に合わねぇのよ。

 おっかさんが死んで若い後添えが来て、あんなに嘆いていたおとっつぁんもすっかり張り切っちまってよ。弟も生まれてこれができがいいと大喜びさ。できがいいって茄子かよっ。

 世間じゃ豊洲屋は磐石らしいからもういいじゃねえか。おいらがいなくなればさっぱりしてしっかり固まる。おいらぁいらねぇのさ。

 でも若旦那、そりゃ贅沢ってもんでございますよ。年若の手前が言うのもなんでやすが。立派なご実家があって、喰うに困らねえからそう仰られるんでやすよ。
手前などお先真っ暗ってありさまで、姉が寝付いてしまったら薬代も鼻血もでねえでやすから。どぶ板踏んで長屋巡って、足を棒にしても枡で米が買えません。

 ふむ、そうかもしれねえな。贅沢だってね。
でもさ、生きてるって何だろねぇ。おいらぁ身体が弱いってことでぶらついてるが、博打も女遊びもしねえ。おまんま食べて息してるだけだ。茂と何が違うんでえ。気鬱病だって言いてえんだろ。

 だけどよ、物指しで計ったような道筋から外れると野たれ死ぬってことかぃ。おいら世間って四角い枡が合わねえの。はぐれたら世間のいらねーもんかい。こんなおいらだからてえした覚悟なんてねえんだけど。草紙読みながら考えた。

 旅に出てそのありさまを書いてみようかってさ。大山参りやお伊勢さんばかりが旅じゃぁねえだろ。あそこの茶店の蕎麦がうめえとかさ。この宿は飯がいいとかね。

 ほむ若旦那、そりゃあいいでやんすね。湿った長屋からしょうげえ出られねえようなもんには。身動きままならずぱったり倒れちまうようなもんにも、そりゃ夢だもの。

 そりゃぁいいでやすよ。もう一度、小さな声で茂次は言って。
 そうなんでやす。人にはやれることとやれねえことがあるけれどね。やれるもんがやらねえといけねえんでやすよ。若旦那が旅に出て、旅の話を綴ったら。おいらその草紙本を一生懸命貸して廻るでやんすよぉ。

 ふふ、茂そんなみみちいこと言わず、版元になって売り出しておくれな。おいらも愉しみが増すってえもんだ。なぁに金は天下の回りもんよ。

 またぁ若旦那。そんなこたぁ金に困らないお人が言うことですってば。

 あれっ、茂ありゃ鰯雲じゃねえか。文七は大川の海に溶けるあたりの空を指差した。

 あーっそうでやすね鰯が泳いでやす。もう秋も近いんでやんすねえ。旅に出るにやいい節季ですねえ。

 二人の若者は、松林の上にかすかに泳ぐ鰯雲を珍しい物を眺めるように。並んでながめやったのだ。




 杏子は足早に黄金町の駅から川沿いに出ると通りのパンと駄菓子の店で、クリームパンと珈琲牛乳を買って足早に日劇の入り口に向かう。

 映画館入り口の壁には、小さな屋根付きの張り板があって、ポスターが三枚並んで貼ってある。下のほうには近日上映の次回作の題名が、紅い塗料で紙に書かれて。
その前に辰吉が紙袋を提げて立っていて。ポスターの端から端までじっくりと眺めている。

 辰さん、と声を掛けるとニット帽の頭を振り向けて。
 えへっ、嬢ちゃん今日は西部劇とアクション、そんでハードボイルドだと。
にいっと歯の一本無い顔で笑った。

 寒くなったから今夜は混むねぇと言うと。
うん、前の方に座るなら早めに入らねぇとな。食べる物仕入れたかぃ。
杏子はパンと牛乳の入った紙の袋を目の前で揺すって見せた。

 若えんだからもうちょっと食わなきゃいけねえよ。

 辰さんは食べ物はいいの?

 おいらのはワンカップと貰ったみかんと、さきいか。映画代稼ごうってダンボール頑張ったからさ。さっき立ち飲み屋で一杯やってさきいか買ったの。

 そう話してるうちに開演ベルがジリジリ鳴った。二人は急いで、もぎりのおばさんに半券をもらい、トイレの匂いのする廊下を小走りで前の扉から中へ入った。

 杏子の好きな前列から六番目の右側に、辰吉は突進して席を確保して手招きする。
場内はほぼ満席になり、後から来るおっさん達は、慣れた手つきで通路に新聞紙を敷き壁にもたれて座る。

 辰吉は、入ってきた見知った顔に、おうっメタルとかウエスタン元気かぃとか、あだ名で呼びかけたりしている。
ウエスタンは色黒で痩せた老人で、西部劇の掛かる時はかならずやってくる。メタルは戦争物が好きな若い子だ。若いといってももう40近いだろうが放出品のカーキのジャンパーで、胸ポケットにはウイスキーの小瓶を差してる。

 杏子にとっても映画が好きというそれだけで、友達のように彼らの顔が親しく思える。

 小さい頃から映画が好きだった。
小遣いは殆ど映画に費やして、自転車をこいで遠くの映画館まで行ったりもした。無料パンフレトは大事に箱に入れて取って置く。

 変ってる子と中学や高校でも友達も少なかったけど杏子は平気だった。洋服も化粧品も関心が薄く、雑誌の立ち読みで次にくる映画を愉しみに待つ。

 近所の噂も、学校での無視も、教師の小言も親の喧嘩も。みんな忘れて。映画館の暗闇に座ると、ふぅーっと落ち着くのだ。浮かび上がる様々の人生。哀切であったり残酷であったりしてもその人の人生に供走する一時は広い世界を感じられる。

 母親は何度も、まともな娘にならないと嘆いた。弟はへんじーんとからかう。それでも父親は学生時代に映写技師のアルバイトをしていたこともあるらしく、好きなものがあるのはいい事さと言ってくれた。

 そんな両親ももういない、母は亡くなり父も再婚して故郷の地に越して行き。弟も仕事で中東に出た。杏子は短大を出て、建築会社の事務員として働き6年。

 会社では地味で真面目に働くが、給湯室での同僚の噂話にも入らず、やはり変わり者のまなざしで見られている。

 給料は家賃とぎりぎりの食費以外は、映画につぎ込んでいいるが、独り暮らしで誰にも何も言われず映画が見れるのは何より嬉しい。

 辰吉はむかし、米軍基地で働いていた事があるらしく英語が多少判るのが自慢だ。この字幕ちがうなぁとかも言う。
 どんな暮らしを送ってきたのか知らないが、一時は羽振りも良かったらしい。そんな過去はどうでも良く、辰さんは映画の友達なのだ。

 昔の俳優にも詳しくて、この女優は姉さんのが可愛いんだよ。バリモア一家はみんないい俳優だねえとか。西部劇はね、インディアンが可哀想でやなの。アメリカもさんざんひどい事したんだよなぁ。横浜では米軍の仕事してるってえとでかい顔出来た時代もあんの。

 時々、幕間にワンカップ飲みながら話してもくれた。終電近くなると帰る客と、泊りの客は朝の始発時間まで暖かいスティームの暗闇で半分まどろんでまた映画を観るのだろう。

 辰吉は泊りの時も、半券見せて橋の辺りまで送ってくれて。また来週なぁ、気をつけてお帰りぃとにいっと笑う。

 ひらひらと雪が舞う夜に手を振って別れたっけ。

 そう、あれはもう25年も前の事。日劇が壊されるとニュースで聞いて、杏子は東京の外れから電車で横浜にやって来た。

 結婚して、夫の転勤で函館に長く住み東京へ戻った。子供二人も成長して穏やかに暮しているが。時々、テレビやビデオで古い映画を観ると、あの横浜の映画館の匂いを懐かしく思い出す。

 家事、子育てやパートと忙しく日を送り。映画への渇望はあっても時々TVで観るか子供とそれ向きの映画に出かける程度だ。ビデオの普及で映画館が次々閉館する時代なのだ。

 それでも・・日劇は故郷のようにあった。

 見上げる冬空の中で、日劇は白いテントで覆われ。工事の騒音と工事車両だけが行き交っている。

 辰さんやウエスタンやメタルや皆、もういないのかも知れない・・
ここにあったあの生暖かい暗闇と安心できるシネマの友達はもう薄い想い出でしかない。

 杏子は川沿いに駅に戻りながら、ぽろり泪を零した。

 えへっ、嬢ちゃん泣いちゃいけねえ。
哀しい映画で杏子が泪をみせると、辰吉が汚れたタオルを渡してくれたっけ。

ひらりと雪欠片が舞い降りて川に溶けて消える。

 シネマの友達だったみんな。
杏子はしばらくその雪の欠片を眺め時の流れのなかに佇んだ・・





映画館も減って値上がりして1900円になるとか・・
その頃の日劇は350円で週末は泊まりの人も通路に座るも自由で、ワンカップの人もいたり。不思議と痴漢に遭ったこともない。後に濱マイクの映画のロケにも使われて懐かしく観たのです。


 牧田翔之介は奥州の小藩の生まれだった。
藩が隣藩と山争いで刃傷沙汰があり、咎は藩にありとお取り潰しになって隣藩に統合されるに至った時。

 父親の跡を継いで馬廻り役の下級武士だった翔之介は。両親も既に無く独り身の気楽さと、敵対していた隣藩に仕えるのを嫌い、下男の吉蔵に家と田畑を任せて江戸に出たのだ。剣術修行と云う名目で。
かっての上役もその気持ちは判ると、一年たったら落ち着くだろうから戻って来いと言う。

 江戸は深川浅蜊河岸の梅ノ木長屋は、風雅な名前にはおよそ縁の無いどぶ板長屋だったが。翔之介は「何でも引き受け候」と看板を出し、長屋の人の代書やら荷運びまで手伝う暮らしをはじめた。

 故郷の吉蔵は翔之介の生まれる前から使えていた忠実な老爺で、家を守り裏の畑で野菜を作ったり、屋敷の離れを貸したりして僅かな金を便りにつけて送ってくれている。

 浪人髪ではあるが丸顔で愛嬌があり、気さくな人柄は長屋の連中にも親しまれて。大家の自身番の書き役当番の代役を頼まれたり、向かいの常磐津の師匠の用心棒代わりに遅い出稽古に付き添ったりと。結構長屋の人に重宝がれていった。

 翔之介は、すっかり江戸の町場の暮らしが気に入ったのだ。

 堅苦しいござ候は何だったんでぇい。食べて何とかやっていければ、こんなに呑気で気楽な暮らしはありゃしねぇ。
身一つの気楽さで、武家の面子お家大事もなけりゃ、米味噌貸し借りしても仕事に励めば、ありがとよっの笑顔が嬉しい。

 とりわけ、今までしたこともない料理は面白く。青物売りから大根を買って井戸端で近所の女房達と世間話をしながら、大根や牛蒡を洗ったり調理の仕方を教わっては水屋で拵えてみるのだった。

 そうか、根深汁の葱は大振りに切ったが旨いのだな。胡瓜は塩を打ってから転がすといいのか。

 ぼて振りの魚屋の政吉が井戸脇で注文のあなごや小鯵を捌くのを、横に座ってじぃっと眺める。

 まったくお武家さんなのに、翔さんはへんなお人だねぇ。

 政吉は、ほうほうと感心しながら、横にしゃがんで興味深けに見ている大柄で丸顔の翔之介を見て笑った。

 そのうちに政吉に教わって、魚も上手く捌くようになると包丁にも拘って、砥石も三種類ばかり買い揃え、包丁を並べて井戸端できれいに研ぎあげる。

 刀も包丁も道具は道具でぇい。手入れと切れ味だな。
ついでに頼まれては、近所の家の菜っきり包丁まで研いでやる。

段々と嵌りこんで煮炊きも腕を上げ、長屋の宴会やら大家の祝い事の手伝いもする。

 翔さんの煮付けは上品な味だぁね。そうそう、やっぱりお武家は舌が肥えてるんだねぇ。ほんとなんだかほっとするような味だわねぇ。
すこぶる長屋のおかみさんにも評判が良いのだった。

 そんな日に政吉が盤台からこはだを出しながら。
 翔さん、もうおいらがおせえる事はねえや。おいらの仕入れ先によっ、相葉屋って小泊の料理茶屋があってね。はじいた小魚とか安く分けてもらっているんだが。

 そこでね。大きな祝い事の宴会があって、三日ばかり水屋の手伝いがいるらしい。良かったら様子を覗きがてら手伝いにいってみるかぃ。
多分洗い場か鍋磨き仕事だろうが、料理屋のまかない所を見るのおもしれえだろっ。

 おつっ、そりゃいいなぁっ。同じ物ばかり誂えてても代わり映えもせんからなぁ。板前の仕事も見たいものよ。

 でもなぁ、その髪形と二本刺しはちいとまずいよなぁ。お武家さんが皿洗いってんじゃ向こうも気がひけるってもんでぇ。

 ふうむ、たしかになぁ。

 翌日の朝、政吉が長屋に迎えに行くと、さっぱりした町人頭で縞の着流しの翔之介がにこにこと表れた。

 うへぇ、怖れ入谷の鬼子母神だぁねっ。だんな思い切りなすったぁねぇ。政吉もたまげたようすで言った。

二人はつれだって小泊町まで歩いていった。

 なんだか腰が軽くて妙に足早になるのぉ。

 おいらがぼて振り盥下ろした時と、同じ気分ってわけですかぃ。へへっ、何だか翔さんが仲間にみえるぜぃ。
政吉は嬉しそうに笑う。

 それから三日、料理茶屋の下働きは目の廻るような忙しさだったが。隙を見ては花板や料理人の手元を覗いては、家に戻ると真似て拵えたりする。
出来た料理は、隣の大工の女房おさきに持って行き、おさきは目を丸くして。

 こりゃ灘万の料理だねぇ。もったいないような味だわぁ。

 心底感心して、自分だけではもったいないと、また隣の小間物荷担ぎの信助の女房おくまや、大家の六蔵のとこにまで持っていく。

 大家の六蔵もたまげて、こりゃお武家にしとくには惜しい腕だわい、と箸を置いた。

 料理茶屋の仕事が終わっても、働き振りを気に入られて時々手伝いにいったり。表通りの煮炊き屋が行楽弁当を二十頼まれたと、手伝いに行ったりもする。

そんな時、吉蔵から便りが届いた。

 ご健勝にてお過ごしの御様子嬉しく御座候。先来、御徒歩組み頭の坂東様がお見えになりまして候。

 そこには翔之介の亡き父親の友人で、今や隣藩の馬廻り頭についている坂東左馬ノ介が。
そろそろ出仕して、藩のお役に付いたらどうだろうか、ついては自分の四女たまきを嫁に迎えないかと、心遣いで勧めてきたというのだ。

 江戸に剣の修行に出ている事になってる翔之介を案じ、かって敵対した隣藩で役職についた自分を恥じている風もあったと。

翔之介は、腕組みして考え込んだ。

 馴染んだ今の暮らしを捨てるのも淋しいが、何時までも家を放って牧田の家を潰すのは、親に申し訳がたた無い。
しかし、また日々出仕して上役に頭を下げ、何かあれば武士の面目だ、お家大事と堅苦しい暮らしもいまや気に染まぬ。

 夕暮れに長屋の宿六連中と、蕎麦屋で一杯もやれず、朝に女房達と井戸端で大笑いすることもなく、茶屋の手伝いで新しい料理も覚えられぬ。

どうしたもんだろうか。
翔之介は頭を振って思い悩んだ。

 答えの見出せぬままひと月もたった頃。表の煮炊き屋の手伝いで煮卵を大鍋で煮ていると。長屋のおさきが下駄を鳴らして走ってきた。

 翔さん翔さん、た、たいへんだよぉっ。なんだかね、お武家の格好の旅姿したお嬢様が家に来てるよぉ。ふぅっ、大変だわぁな。

 へたり込むおさきを横目に、前垂れと襷を外し、店に断りを入れて長屋に走って戻ってみると。狭い上がり待ちに腰掛けていた若い娘があわてて立ち上がって一礼した。

 近所の女房達も、勢ぞろいで興味津々と中を伺っている。開いた油障子を抑えて閉めることも出来ない。

 突然のお邪魔大変無礼ながら、坂東左馬ノ介の四女、たまきと申しまする。

翔之介の町人姿を一瞬呆れたように眺めたが、無言でもう一度深々と礼をした。

 翔之介はどぎまぎとうろたえたが、とにかく腰高障子を閉めて水甕から盥にすすぎを汲む。

 まぁ足をすすがれてお上がりなされ。遠路をはるばるお越し頂き、僭越至極で御座る。

 町人髪に武家言葉のちぐはぐさで、うろたえて大柄な身の置き所に困ったように、手拭を出したりすすぎ盥を取り落としたりする。

 父上から命ぜられて遠路参ったのですかな。
火鉢に鉄瓶をかけて湯を沸かしながら尋ねると。

 いいえ、自分で申し出て参りましたの。越し入れる前にもう一度ご尊顔を拝したいと、我儘を言って出て参りました。

ふ、ふうむ。越しいれのぉ。

 翔之介様は、覚えていらっしゃらないかも知れませぬが。わたくし幼い時に姉様達と翔之介様と遊んだことがございます。御尊父が貴方様を連れて、父の所へ囲碁をうちに参られてその折に庭で御一緒に遊びましたのよ。

 ううむ。覚えていず、す、すまぬ。

 何時までも嫁に行かぬと責められて、わたくし咄嗟に翔之介様のお名前を。申し訳御座りませぬ。
たまきは畳に手を付くと、しとやかに一礼する。

 まぁ、と、ともかくこんな所だがゆっくりなされよ。
その夜は翔之介が夕餉を拵えて、二人で箱膳に向かい合って食べた。
手伝いたがるたまきを制して、翔之介は、器用に菜を刻み魚を捌いて、浅蜊汁もこさえた。

 おさきが薄べりを運んで来てくれたり、おくまが良い茶の葉があるからと持ってきたり。女房達はそわそわと成り行きに耳をそばだて。戻ってきた亭主達も、用もないのに障子を開けて挨拶したり、一杯やりにいくかぃと、承知の上で誘いに来たりと鬱陶しいのだ。

 たまきは夕餉の美味に驚き、長屋の連中の騒々しさに目を丸くしていたが。

おかしそうに笑って。
まぁ、なんとご親切な方々でしょうね。わたくし翔之介様がお帰りにならぬ訳が、判るような気が致しますわ。そう言った。

 それから三日、たまきは翔之介に連れられて、回向院見物に行ったり、両国橋や富岡八幡宮の縁日にでかけ、すっかり江戸を楽しんだ。

蕎麦屋や屋台の天ぷら、蒲焼屋から寿司まで食べる物もすべてに。
まぁ珍しい。まぁ美味しゆうございます。とたまきは大層喜んで。翔之介も無邪気に喜ぶたまきに、嫁を貰うつもり無ければ国許に帰らぬ、とも言い出せないでいた。

 ある日戻ると、大家の六蔵が玄関に座っている。
おかえりなさぃよ、翔さんたまきさま。

 六蔵は何やら、にまにまと笑うと。
実はね、話があるんでやすよっ。家賃の催促じゃありゃしませんよ。

 その話とは、二丁先の裏店に煮売り屋の店があったが、主人が年老いて娘夫婦の所に隠居に行くことになった。

 店を家主に返すっていうんだがね、翔さんの腕なら、旨い煮売り屋が開けるって皆も言ってるし。どうですかぃ、そこを借りておやりなすったら。
家主は顔見知りで、いい人がいないかと相談を受けてね。

 余計なおせっかいでやすが、お武家に戻られて、たまきさまと国許へお帰りなるなら仕方がない話でやすがね。その腕は惜しいやね、翔さんが居なくなるのはどうにも淋しくっていけねぇや。

二人は思わず顔を見合わせた。

 翔之介は、たまきが来た以上このままでは居られない。江戸をたまきに見せたら、国許に送りがてら戻るのは仕方ないかと半ば諦めていたのだ。
翔之介は、腕組みして黙ってしばらく考え込んだ。

 良いお話では御座いませんか、おやりなさいませ。
たまきがふいに顔を上げてきっぱりと言った。

 六蔵も翔之介も、ちょっとびっくりしてたまきを見つめた。

 わたくし国に戻って父に許しを頂き、吉蔵さんと一緒に戻ってまいりますわ。煮売り屋の翔さんのおかみさんになって、一緒に店をやりとう御座りまする。

 たまきの顔は輝いて赤らみ、目は生き生きと微笑んでいる。

 翔之介は、ふっ、女房とはいいもんだぜぇ。
思わずそう思った自分に驚いた。なんだぃなんだぃ。

 おうっ、そりゃいやっ。目出てぇの重ね箱だぁね。二階付きだから、上に住まえばいいでやす。大工の佐吉や長屋の皆で手を入れれば上等なもんになりやすよ。六蔵は膝を叩いて喜んだ。

 まぁ嬉しいですわ、早速、国許へ旅仕度をいたします。元手のつごうもつけてまいりますから。大屋殿、なにとぞお手配よろしく御願いもうしあげまする。

 女ってぇのは、どうにも大したもんだぁな。

 翔之介は苦笑いしながらもいっそ決心が付いて。やっかいかけてすまぬが何卒よろしくと。六蔵に深々と頭を下げた。

 こっそり覗いてた長屋の女房達が、手を叩き頷き合って、安堵の胸をさする。

ほころんだ梅ノ花がかすかに薫る春であった。




 秋の風に初冬の冷たさが混じる七つ時。九助は、横川の船着場で葛西や押上村の船荷が着くのを待って仕入れると、山芋や青菜を背負い籠に入れ背負った。

 風が冷たくなると、明け方に日本橋横のやっちゃ場に出かけるのはおっくうで、前の晩の客が居座って飲んでいると。どうしても朝が遅くなる。

 横川の船着場の馴染みの老船頭は、山芋の上物や白葱の泥つきを九助のために取り置いていてくれる。まったく年はとりたくねぇもんだぁ。背中の籠の重みに思わず九助がぼやくと。

 おうよ、おいらも隠居してぇもんだが。畑仕事は得てじゃねえから息子夫婦に任せてよ。舟ならお手のもんだ。孫も三人とくりゃ世話にならずに死ぬまで、船荷漕ぐっきゃねぇやな。

 おたげえ、無事にここまでやってきたんだ、もうひと働きよ。

 そうだなぁ、九さんも達者がなによりだ。

 お宝はこれっきりだからな、達者が宝だぁな。筒袖をぴんと張って笑うと、ゆっくり南割り下水の店に戻っていく。

 六間掘りの堀端を歩いていくと。小橋の柳の下に、前髪の子供が座り込んで濁った堀川を見つめている。

 おや坊、どうしたい腹でもいてえのかぃ。

 あ、いいえ。ご心配ありがとうございます。

 見ると身奇麗な筒袖の着物にたっつけ袴、言葉使いも丁寧で見上げる顔は愛らしく、くりっとした双眸も澄んでいるが。何より驚くほどでこが広くでっぱっている。

 おっかさんにでも叱られたのかぃ。

 いいえ、そ、そのぉ少しお腹がすいて。

 おや、家に帰れば何かあるのかぃ。団子でも購(あがな)ってやろうかぃ。

 首をふる少年に、こりゃわけありだなと九助は、心配しねーでこっちへおいでと伴った。歩き出すとその子が右足を引き摺っているのに気づく。

 店に戻ると、炊いてあった白飯に味噌を混ぜて握ってやり前夜の煮ころがしを出してやると、両手を合わせて美味しそうに頬張る。

 お武家の子にはみえねぇが、なめえはなんだぃ。

 あたしは福助と申します。

 ほほう、縁起のいいなめぇだね。おいらは九助ってんだ、ここはおいらの店だから、気兼ねしねえでゆっくり喰っていきねぇ。

 ありがとうございます。
握り飯を平らげると、淹れてやった番茶を、ふうふうしながら両手に包んで口に運ぶ。

 なんかぁわけがあったのかぃ。

 福助は、ちょっと店の隅に目をそらせたが。ゆっくりと話し出した。

 あたしは、吉原の揚屋で勤めておりました。ほんとうの名前は三太と言います。縁起物の福助に似てると、内所のおっかさんが名づけてくれて、お客様が上がる時に、裃つけてはお迎えして茶など立てたりするんです。

 ふむ、変った仕事だが。実の親はいねぇのかぃ。

 はい、揚屋の花魁の桜花が母ですが亡くなりました。内所の女将さんが、よそにやらずに引き取ってくれて、茶や花など習わせてくれて。私が客を迎えると繁盛して、客もゲンがいいと心づけもいただけますし、花魁達も可愛がってくれたのですが・・

 そりゃ運がよかったなぁ、どんな勤めでも立派なもんだ。内所のおっかさんは心配してるだろうよ。

 いいえっ、あたしを大川端の店に売ったんです。福助はちょっと俯いて首を振った。

 おやおや、可愛がってくれていたんだろ。

 あたしもそう思って、恩返しがしたいと励んできたのですが。お使い帰りに、日本堤の土手で荷車を避けようと転げ落ち右足を傷めてしまいました。それで縁起にきづが付くと。それにもう前髪降ろしたら福助はできないから。

 大川端の料理茶屋で働けるだけ勤めて、幇間芸でも覚えてくればまた使ってやってもいいと。習い事で金を掛けてやった元は返してもらうからと売られたのです。

 ふうむ、品物みてえな扱いかぃ。新しい店は塩梅がわるいんだね。

 知った人もいないですし、びっことかでことかからかわれて、女将さんもきついお方で、煙管で下働きを叩いたりもするんです。幇間のデン介さんだけが庇ってくれて、座敷芸を教えてくれたりします。

 小遣いもねぇのかぃ。

 はい、売られた身ですから。揚屋のように心づけを下さるお客様もいませんし、時々デン介さんがそっと波銭下さいます。

 おめぇも、まだ子供なのに苦労してるんだなぁ。けれど、挫けちゃいけねぇよっ。まだまだこれっから先はなげぇや。

 長屋の餓鬼どもは、つぎはぎのたっつけ着物で腹を減らしてかっぱらいもやる。親のいねぇ物乞いの餓鬼もいる。おめぇは身奇麗で働き口もあるんだからな。座敷芸だって芸は芸さな。懸命に覚えて名のある幇間になればいいやな。立派な幇間になって、吉原内に呼ばれるようにおなりよっ。

 おいらも何にもできねぇが、握り飯ならいつでも来て喰っておいきな。それで何をならっているんだぃ。

 福助は少し元気が沸いたのか、にこりとして、いまはかっぽれを習っております。

 ほおうそりゃいいなぁ。かっぽれかっぽれ、よぉいとなよいよいだぁ。九助はおどけたように唄ってひらりと手を振った。

 福助は声を立てて笑うと、手をぱちぱちと叩いた。

 九助さん、ありがとうございます。ごちそうさまでした。わたしは店に帰ります。かっぽれを覚えて、その内に大川端一の幇間になります。

 そうでぇ、その意気だ。おいらも楽しみができたぜっ。川筋一の幇間のかっぽれを見てえもんだな。

 福助は、丁寧に腰を折って辞儀をすると間口から出て片足を引き摺りながら、それでも前を向いて南割り下水の路地を歩いていった。

 九助は、ひょこひょこと歩き去る小さい背中に思わず。

 おめぇはきっといい幇間になるぜっ、人の弱さを知ってこそのおちゃやらけ芸だな、人さまを愉しませる立派な仕事よっ。福を呼びなせぇよ。

 初冬の風が柳を揺らす夕暮れ時の堀端に、陽気なかっぽれの唄が聞えるようで、九助はその背中を暖かく見送った。


 明暦の大火は江戸の人々の記憶に深く痛みを残し、江戸の町の一つの転機ともなった災害であった。
十万の死者を出した大火の時。大川に遮られて、のがれられなかった多くの町民がいたことから大川に橋が渡されることになり。千住大橋に続いて隅田川に二番目に架橋されたのが両国橋。当初大橋と名付けられていたが西側が武蔵国、東側が下総国と二国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれる。

 火災瓦礫の埋め立てによって深川新地が広がり、被災者の弔いに回向院も建立され。多くの寺社武家屋敷も川向こうへと転地替えになった。吉原が日本堤に移ったのもこの頃。

 それ以後、町の各所に火除け地が設けられて。そこは類焼を防ぐため家作を建てる事は禁じられたが。そこは日々人の流れも多い江戸のこと。家作でなければ良いという幕府の目こぼしもあって。屋台、芝居小屋などすぐに壊すことができれば家作ではなしとのはからいで、広小路など盛んに出店が連なったのだ。

 松平定信の天明の改革で、一時は厳しく華美を禁じられても、庶民のささやかなうさ晴らしは途絶えず。両国橋横の猿若町はとみに芝居小屋が多く賑わって、周囲には寿司、田楽、うなぎ屋台、天ぷら屋台がひしめいた。

 仲村座の横に田楽屋台があって屋台の後ろの床机に若い者が数人集って、豆腐の味噌田楽で昼下がりから一杯やっている。

 奥に座っているのは小平次と呼ばれる細面のいなせな男で、まだ若いが手下とも云える地元の若い衆を束ねている。
人が集れば町の揉め事や、すりかっぱらいも起こる。地回りの岡引っきにも地割り屋の元締めにもつなぎがある。掛け小屋の解体や引越しと、いってみれば町の便利屋でもあった。

 みんな孫兵衛旦那の葬式ではおめえ達にも世話になったな。おかげでこじんまりといい弔いだった。ご苦労さんだぁ。

 ところで今日集ってもらったのにはわけありでな。面倒掛けるが手伝ってくれめえか。

 何を水臭いぜ。孫の旦那にはみな世話になったあたりめえよ。それに兄ぃの頼みなら断る奴なんぞいやしめえ。お蔵暮らしの頃からの仲間だ遠慮なんぞいるめえよ。

 年かさの長太が言うと周りの者も頷いたり、そうよっ、と合いの手を入れる。

 ありがとよ。おめえらも知ってるだろうが川筋で夜鷹、船饅頭が殺される物騒が立て続けにあった。金が目当てならしょっぺえ稼ぎの女を殺して何になるよ。夜鷹殺しなんぞお上も相手にしやしねえやな。
 おいらも気にはなっていたが面倒は買ってでるわけにもいかねえと思ってた。ところが、孫の旦那と親しく弔いにもおいで下さった中根嘉衛門ってお方がいる。

 この方も隠居なすっているんだが、元は南町の御奉行肥前守さまの側用人だったお方だ。おめえらも知ってだろうが、肥前さまは町場の噂やあやかし話を綴られている変わったお方で、隠居なすっても度々お忍びでここいらにもおいでになったろ。

 それで中根の旦那が言うには、町の話にさとい肥前さまが、哀れな女達を殺めるとは気の毒な話よと。ひとつ治めてきてはくれまいかと。顛末をまた何やら書き綴られるんだろうが人情の判るお方だ。一肌脱ごうかと思っているんだがどうでえ。

 そりゃいいやっ。おいらも土手の夜鷹にゃ馴染みもいっからよっ。一肌どころかもろ肌脱いぢまうぜっ。
 まだ前髪落としたばかりの清助も生意気に鼻をこする。

 その話は素早く川筋に流れ、船頭、江戸船の風呂屋、夜鷹、船荷担ぎと川端に生きる者達の間を走った。

 その九つ時、大川から横川に入る美棚の船着場の石段を小平次は身軽にひょいと降りていくと。呼び出しちまってすまねえなっと、屋形船の女に声を掛けた。

 障子を開けて船べりに凭れていたお蔦は、婀娜(あだ)に微笑むと。裏を返しに来てくれたかと思えば色気もなしかぃ。
話は流れてきたよ。わたいらみたいなその日暮らしを殺めてるなんぞ、鬼畜さぁね。

 それでな、おとくって川筋の夜鷹の姐さんがいる。この人ぁ今はすっかり身を落としたが元は御浪人の女房だったこともあるのさ。

 それである晩、堤で若い男に声を掛けられた。かなり酔っている様子で目が血走っていたから誘いを断って離れようとすると、いきなり男がだんびら抜いた。

 鉄火な姐さんだから、赤鰯なんぞ怖いもんかと、持ってた茣蓙莚を投げつけて走ってのがれたんだというのさ。男は御家人崩れかたぶん冷や飯だろうとね。

 さむれえも次男三男の冷や飯にゃうさもあるだろうさ。おいら達のように町とんびの気楽さもねえ。お家も継げねえお役にもつけねえ。婿の口でもありゃましってぇもんだからなぁ。腕組みしながら小平次は言った。

 おきやあがれだ。そりゃお侍にも苦労も辛抱もあるだろうさ。だけど地べた這いずって生きてるようなもんを殺めてどうなるのさ。ふん、そんなのぁてめえかっての唐変木の屁理屈ってものだぁね。

 人斬り包丁捨てる度胸もなけりゃ町場で喰ってく気概もねえくせに、弱いもんいたぶってうさ晴らしなんぞ、人でなしのするこったぁ。冷や飯だろうが飯が喰えるのにさ。

 おめえの言うとおりだ。何とかぶっちめて日の出湯の源蔵親方にでもつきだそうとな。相手が御家人となりゃ与力扱いとは云え町場のことだ。若い奴にも用心させねえと怪我人は出したくねえやな。

 小平次さんもお気をつけなさいな。裏を返して貰わなくちゃわたいの女がすたるからねぇ。

 おうよっ、お蔦さんも客をとる時ぁ用心しなせえよっ。さむれえはよしなよっ。

 おや、心配してくれるたぁ嬉しいねぇ。あいよっ、わたいも中川辺りまで流して伝えておこうさ。なんかあったら猿若町に使いをやるよ。

 猿若町の朝は早く芝居小屋さえ明け六つ(御前6時)から開く。昼興行と夜興行の長い幕間は、上客は続きの芝居茶屋で食事も摂れて。一日芝居三昧に浸れるのだ。

 仲村座の楽屋部屋でごろり横になった小平次に、茶を啜りながら首に白塗りの役者が言った。

 小平次あにい、あてもなく無く川筋歩き回っても埒があかないわよ。いまどき冷や飯なんて掃いて捨てるほどいるものねぇ。まったく浜の真砂はつきるとも世に悪党はつきないものよ。

 仲村紫は近頃売り出しの女形だが、元は御霊神社の境内の捨て子でお蔵河岸の掃除の爺さんに拾われて育った。こまかい時は小平次について廻っていたが、顔立ちの良さから孫兵衛が芝居小屋に世話をしてくれ。下働きから仲村市蔵に踊り芝居と仕込まれて、資質もあったのかいまや看板女形と人気も高い。

 でもね、酔っているってのは呑み食いの金はあるのよねえ。賭場に話を流してみたらどうかしらん。川筋の居酒屋や煮売り屋にもあたってみるとか。走り小僧を廻らせてつなぎをつけときゃいいわよ。瓦版屋の庄吉にゃわっちの方から知らせておくからさぁ。

 そりゃいいかんげえだ。おいら達も足が棒っきれになる程へめぐっちゃいるが。なんせ何時出るかもわからねぇ幽霊だからな。

 町の知らせはじわり広がって、口の堅そうな居酒屋や出入り商人、道端仕事の夜なき蕎麦屋と口伝えで流れて行く。

 冷える晩で、小平次が長太と小名木川のニ八蕎麦屋でかけ蕎麦を啜っていると。あにぃでたぁーと、草履を両手に持って素足の清助が走りこんできた。

 おうよっと二人も立ち上がる。親父蕎麦代はあとだ、二人は夜の闇に転がり出た。親父も心得て気をつけなせぇよっと送り出す。

 煮売り屋の善さんとこから出て川沿いだぁ。二人ばかり夜鷹冷やかして避けられてらぁ。

 長太は走りながら通りすがりの小屋脇から竹の竿をひっつかんでいる。薄暗がりの土手沿いに人影を見出すと三人は足を止めて、ゆっくりと静かにその影を追う。

 ふうらりと身体を揺らせながらなにやらぶつぶつと呟いている後姿は、小平次達とそう年合いも変わらぬようだ。土手柳に時折身を潜めながら半町ほどついて行くと、手拭を髪に掛けた夜鷹が柳下に佇んでいる。

 おいっ、侍が声を掛けると女は手拭の端を咥えたまま振り向き笑いかける。遊んでいくかぃ。女は気だるいように男の側に寄る。前金で二十文だよ。

 そのとき男の顔が歪み、前金だとぉ。人が金を持っていないとみての侮りかぁ。夜鷹ふぜいが馬鹿にしおって。

 鯉口を切っても手元が震えて一気に刀が抜けない。小平次が飛び出して。
やぃ、夜鷹殺しはてめえだなっ。弱いもんいたぶりやがる根性が気にいらねぇ。引っ括ってやるから覚悟しな。

 男はやっと刀を抜くと、きさまぁと向かってくるのを、身をかわして避けるところを長太が足元に竹棒を差し出して転ばせる。清助もとんで出て草履で頭を張った。小平次は手首を捻って刀を落とすと。

 姐さん、腰紐ないかぃ縛り上げるぜ。夜鷹も怯えて腰をついていたが、あいよあいよっと震え声でいって腰紐ほどいて手渡す。


 小石川の根岸肥前守の隠居所の庭に冬の陽射しがこぼれている。
広縁に渋柿色の袖なし羽織の老人が、小鉢で鳥餌を練っている。広縁には鳥籠の目白がさかんに囀ずって餌を待っている。

 嘉衛門は庭にしゃがんで微笑みながら。
と、いうような経緯にて、武家方ということで与力に渡されました。不埒者は小普請組の兵頭家の四男庚之介たる者。酒癖と賭場通いで厄介者と家のものからも見放され、跡取りの嫁からもさんざんと罵られおいたようで女への怨みもあったかと。

 ふうむ、哀れと言えば哀れな者よ。わしも軽輩出の身ゆえその気持解らぬでもないが。弱い川筋の女を斬ってうさを晴らしてなんになるのか。まぁ身内にあまり類が及ばぬようにな。嘉衛門はかってやってくれぃ。

 はっ、御意の通りに与力に伝えておきまする。それでこの町とんびの小平次なる者、なかなかに世事に通じておりますれば、手札でも与えて子飼いになすってはいかがかと。

 孫兵衛が可愛がっただけはあろうて。ふふっしかしな嘉兵衛、とんびは紐をつけると思うがままに飛べぬもの、祝儀をやって飛ばせておけ。また面白い話でも耳にしたら知らせおけとな。

 隠居はくっと面白そうに笑って、鳥籠に餌を差しいれてやった。


 お蔦さんおいでかぃ。小平次は冬晴れの昼下がり、竪川の船着場横に顔を出した。

 あいよっ、昨日小僧が使いを持ってやってきたから今日はここまで流してきたのさ。聞いたよお手柄だったそうじゃねえか。これで安気に商売できると川筋の女達も喜んでいるさぁ。

 へっおかげさまよ。ご祝儀も出たんだがみなで分けちまってよ。流してふれて歩いてくれたおめえにも世話になった。
船にばっかしじゃ足が萎えちまうぜ。どうでぇ長明寺に餅でも喰いにいかねえかぃ、おごるぜっ。

 おや誘ってくれるのかぃ。今着替えるからちょいと待っておくれな。

 船をもやって船着場の船頭に小銭を包み、ちょいと留守をみといておくれな。と声を掛けたお蔦と小平次は、午後の川風に吹かれながらを並んで長明寺に歩き出す。
 冬晴れの風の中に春の匂いも混じる、陽射しが背中をほのかに温める昼さがりだった。<了>



 ※船饅頭とは小船で春を売る者で。船頭のいることもあり夜鷹よりは少し値が張った。

 ※江戸船ー船に風呂を載せて川筋を移動し、船人足や荷担ぎに一汗流させる商い。

 ※根岸 鎮衛(ねぎし しずもり)は郷士の三男に生れ、根岸家の御家人株を買って士分になったとも云われているが。勘定方から頭角を表し、やがて佐渡奉行、勘定奉行をへて南町奉行を十八年の長きに渡って務めた。肩口に赤鬼の刺青があって赤鬼奉行と呼ばれた一説あり。あやかし話や巷の話を綴った「耳袋」の作者としても名高い。




 ふいに冷たい風が吹きぬけたかと思うと、ぱらりと雫が肩にあたって静かに雨が降り始めた大川沿いの土手道。

 ちぇっ、降ってきやがったか。

 小平次は舌打ちして提灯の灯を手で囲った。今井村の孫兵衛の家を見舞い、泊まって行けと作男の茂吉に勧められたのを断ったのは、病みつかれた孫兵衛の側にいるのが辛かったからだ。

 単の衿を思わずかきあわせた時。
にいさん降ってきちまったねぇ休んでおいきかい。と女の声。見下ろすと萱の原に小ぶりな屋形船が舫ってあり、女の顔がぼうやり明るんだ障子の間から浮かんでいる。

 船饅頭か、さんさしぐれか茅野の雨かってもんだな。まあ雨宿りに寄って見るかと土手を降りて行き、提灯を吹き消して草履を持って船に乗りいった。

 酒はあるかぃ。

 あいよっ、丁度あたいも一杯やるところだったのさぁ。

こんな道外れで商いにもならねえだろうにおめえも酔狂だなぁ。

 船饅頭にも休みはあるさ。あにさんこそこんな夜半に川筋を行くのは酔狂ってもんさね。お店者には見えないけどどこかのお帰りかい。

 手あぶりに掛けた鉄瓶からちろりを取上げると、愛想なしの茶碗酒でごめんなさいよと白い茶碗に酒を注いだ。

 今井村に世話になったお方の見舞いにな。

 ずいぶんとお悪いのかい。

 ああ、もう晦日まではもたねえかも知れねえなぁ。

 そりゃいけないね、縁続きなのかい。

 小平次は茶碗酒をぐいと煽って、隠居なすった八丁堀の旦那なんだが、お独り者で身よりも薄いお方さ。

 女の眦がすぅっと細くなって、ふん八丁堀かい。と一息に息を吐いて言う。

 おめえ、悪さでもして八丁堀の世話になったことでもあるのかい。

 八丁堀なんぞ、威張りくさって情無用な奴でなきゃつとまらないのさ。

 ふふ、まぁおいらもずっとそう思っていたのよ。だけどよお上も人の子だ、気立てのいい人も剣付くな奴も強欲もいらぁな。

 孫の旦那ってえお人は南でも人情十手と呼ばれた人だが、同僚に妬まれて深川十六組にとばされた方よ。

 女も自分に注いだ酒を口に運んだが、目の険をゆるめずひゃやかに。
 にいさんもお上のお手先なのかい。

 小平次は笑って、いやおいらぁ下っぴきじゃあねえよ。一度は誘われたが性にあわねえ。だが川筋には詳しいからな、時々町場の噂や話を流してはごちになったりでさ。

 おいらぁ、親に早くに死なれちまって浅草お蔵の倉庫の隅で育ったのよ。親無し仲間とかっぱらいや脅かしをしてはいっぱし悪ぶっていたもんだぁ。小博打に女と背伸びしてたが餓鬼はしょせん餓鬼だ。それが孫の旦那に捕まってからは、ずいぶんと可愛がってもらい人の情けってものを教えてもらった。

 女は煙管を取って火鉢で火をつけ、長く煙を吐いた。

 そうかぃ。人の縁ってのはよくも悪くもあるものだねぇ。女郎の身の上話なんぞ客の情けを引きたいだけで。酒のあてにもならないけれど雨の夜さ。

 わたいの親は小名木川の船宿の船頭でね。おっかさんが病で亡くなるとすっかり気落ちして酒びたり。ある晩川に落ちて死んじまった。妹とわたいは十二で奉公に出て働いたのさ。妹のみよは両国の糸問屋の下働きに、わたいは横堀の料理屋だった。

 ところが在る夜糸問屋に押し込みがあって、八丁堀の詮議じゃ内戸の掛け金が掛かってなかった。これは手びきしたもんがいたからだと。口入屋から雇った妹が疑われた。
 庇ってくれる親もなし、身請け人もわたいしかいない。さんざん責められて白状したと手柄目当ての濡れ衣でみよは遠島(えんとう)になっちまった。

 ふうん、そりゃいかにもついてねえやなぁ。それで妹さんはどうなすったい。

 要領の悪い子で数年後に死んじまった。首を吊ったかとらまえられてむごい目にあったか。島帰りのねえさんに聞いたが定かでもないさ。お上も酷えことをするじゃないか。

 妹の帰りを待つこと無いわたいは。それで溜めた金でふるい船をかって人別も抜けての川暮らし。それでも誰の世話も、縛りも無い気儘が何よりってものさ。てて親に仕込まれたから舟は自在だしね。

 ごろりと肘を突いてちびちびと呑んでいた小平次も眉をひそめて。

 おめえも苦労したんだなぁ。世間は親のねえもんには生きずらいもんだ。おいらも町とんびで先のことなんぞ思いもできねえが。それでも天気の日も雨の夜もある。生きてりゃこうして酒も呑めるってことさ。

 夜半の話をするうちに、小平次はそのままうとうとと眠り女が薄べりを掛けてくれたように思う間に、障子が明るんだ。

 寝入っちまったかすまねえなっ。身を起すと女は板戸にもたれてぼんやり外を眺めていた。

 少しお休みになれたかね。おめざも無くってすまないけれど番茶でも淹れようかね。

 いやおかげで濡れずにすんだ、やっかい掛けちまったなぁ。

 小平次は懐の財布から小粒をだすと懐紙に包んで女の方へ押しやり、そのうち裏を返そうぜっとにやりと笑う。

 いいんだよ、安酒だし添い寝もせずだったんだからさ。女も笑って言った。

 雨上がりの朝の湿った空気の外に出ると。
 おっとおいらぁ小平次っていうのよ。猿若町あたりでそういえばわかるから困りごとがあったらそういいな。

 わたいはお蔦っていいやす。雨の夜には時に思い出しておくれなぁね。

 お蔦は障子につかまって見送りながら、今日はいい天気だねぇと微笑んだ。

 小平次は土手道に出ると足早に歩みながら片手を上げてもう一度お蔦の方をみやった。夜半の雨はうそのように明るい陽射しが土手を照らす初秋の朝。

 舟饅頭に餡もなぁく、夜鷹に羽根はなけれど、つつんつんとくらぁ。たまには雨も粋をするってもんさ。
小平次はひょいと水溜まりを飛び越えた。




 作次が生まれたのは、深川菊川町の中長屋。冬のはじめで、生まれてすぐに高熱を発して辛うじて一命は取りとめたもの、作次の成長はまだるこしいものになった。
長屋の他の子が走り回る年頃にも、よちよちと歩き、言葉も拙く遅い。何を言っても、えへっえへっと笑う。

 父親は柴辰工房の大工で、稼ぎもよければ、母親のおさとも、とと屋という小間物問屋に通いの下働き。長屋住まいながらも暮らし向きはゆとりあって、幼い作次は姉の千里と一緒に寺子屋にも通わせてもらったが。悪童達から、ぐづのろまと随分と苛められたものだった。

 千里は勝気な娘で、作次は何時も姉の小さな背中に大きな図体を隠し、長屋のいじめっ子に千里が反撃するのをおどおどと眺める。
千里は、縫い物も寺子屋の読み書きも手上手で、長屋内からも可愛がられる、色白でくりくりした双眸の愛嬌のある娘だった。

 けれどある底冷えの冬の午後、父親が寺社の修復の足場から落ちて亡くなると暮らしは一変。おさとの働きだけでは菜を買うので精一杯で。
千里は、差配の世話で太物屋の相模屋に住み込み奉公に出て、作次も風呂屋の釜炊きの仕事をもらって働きに出る。千里十六、作次は十三の年だった。

 作次にとって、千里のいない母親と二人暮らしは何とも淋しく。母のおさとは働きに出ると夜も遅くに戻り、時には酒の匂いも漂っている。

 それでも、日の出湯の釜炊き仕事に作次は励んだ。薪を割ってはきちんと裏庭の壁沿いに積み上げる。作次はその仕事がすっかりと気に入ったのだ。
 日の出湯の裏庭は二間四方の狭さでもそこは作次の場所で、材木置き場から材木を運んできては割り台の上に立てて、鉈ですっぱりとくべやすいように割ると、白い壁沿いに下から崩れぬように丁寧に積み上げていく。

 その三角のきちんとが作次にはひどく楽しく、隙間の無いようにみっちりと積み上げるのだ。そうして於けば、風呂釜にいくらでも薪をくべられる。その炎を眺めながら、作次は湯にゆったりと浸かる人を思う。
 職人もお武家もお店の小僧も、一日の疲れをほぐし温(ぬく)まって一日の煩わしさを湯に溶かす。それを想うと作次は嬉しい。自分の炊く炎が色んな人を温めているんだと。

 朝早く、陽が昇る頃に裏庭にやってきて、ひたすら薪を割る。下女のお民が、火入れしておくれっと言いに来れば、釜の灰を掻き出して薪をくべる。

 お民は日の出湯では一番年若の下働きで、押し上村の百姓の娘だった。作次のもたついた話し方をからかいながらも仕事振りには安心して、帳場や主(あるじ)にも良く働いてくれると伝えてくれる。

 穂口の藁に火打石で火を付け、その上に薄い木屑を乗せて炎がめらりと膨らんで温かい色を見せると、細い薪から差し込んでいく。

 その頃に彦爺さんがやって来る。彦助は作次の師匠で釜炊きを仕込んでくれた。年で腰も痛めて薪も割れぬようになり日の出湯は作次を雇ったが。若い時から馴れ親しんだ釜が心配で、日に一度は覗きにやって来る。時には掻き出した灰を麻袋に詰めたりと作次をすけてくれる。

 姉の千里も、時々作次の様子を見にやってくる。住み込み女中にとっては、お使いの合間を盗んで走ってくるのだろう。そんな時は、片隅の丸太に並んで腰を降ろして、互いの仕事や長屋の様子などを話すのが、作次にとっては何よりの喜びだった。

 作ちゃんみごとだねぇ。薪がこんなにきっちり揃って積んであってさ。これなら中の人達も熱い湯にたっぷり入れるねぇ。

 うん、お、おいらぁそれを思うとえらく嬉しいの。

 作ちゃんの仕事はとっても人様の役にたってるのだね。ねえちゃんもすごく嬉しいよぉ。

 朝に薪を割って積み上げると、首に掛けた手拭で汗を拭って、今日あたり姉ちゃんこねかなぁ。陽だまりで一息つくと、作次はさっぱりといい気分なのだ。

 時には、八われ猫のとんびがやってくる。黒い耳がとんびのつばさのようにぴんと尖っているから作次がそう名づけた。とんびは陽だまりをみつけると作次の横で気落ちよさげに蹲る。

 作ちゃん、ちょいと火を上げておくれなっ、とお民がやってくる。あーいっ、作次は待ってましたと薪をくべ足す。それが作次の日々の全てで、作次はそれを滅法気に入っていたのだ。

 おいらは幸せもんだぁなぁ。

 ところが、小雪がちらつく初冬の日、夜になっても母親のおさとが通いの小間物屋から戻らなかった。作次は心配で長屋外の木戸まで見に行ったが。木戸番の爺さんも木戸を閉めながら、どうしたんだろかなぁ、腹が空いたろうと蒸かした芋を手渡してくれた。

それでも翌朝には、残り芋を包んで懐に入れ日の出湯にでかけたが。主に呼ばれて奥座敷の廊下に座ると。

 おさとが、小間物屋に仕入れに来る荷担ぎの男と逃げたと聞かされた。日の出湯の主は甚三郎といって、元は十手持ちで北町のお手先も努めていた老人だった。

 長火鉢の前に甚三郎が座っている。お女将さんも孫を膝に横に座っている、お民も心配そうに廊下の陰から覗いていた。

 茶碗から茶を啜ると一息ついて、勘三郎が口を切った。
 おさとさんも、まだ女盛りだからなぁ仕方がねえが。けれど、とと屋が銭箱の小銭をかっさらっていったと届け出たからにゃ、おめぇや千里ちゃんにも類が及ぶってえことだ。

 一両に満たねぇ銭でも盗みは盗みだぁ。五両盗めば打ち首の御法だからなぁ。作次、おめえ朱印地外に親類がいるんなら一旦そこへ行くがいいや。千里ちゃんも奉公先にや居られねぇだろうし。
甚三郎は、諭すようにゆっくりと言った。

 お、おいらぁ、嫌だ。おいらぁ、薪を割りてぇ。きちんと積むのが仕事だ。あったけぇ火おこして、みんな湯に入るのがいいんだ。

 思わずお民がそっと袖を目に当てた。お女将さんも孫をあやしながら、痛ましいように作次を見つめて言う。

 作次、おまえは良く働いておくれだ。息子夫婦に任せていても、あたしも内の人も目はちゃんと配ってるんだよ。湯屋は湯がうりもんだからね、火加減が命だ。おまえに居なくなられると、湯屋もどんなにか難儀だ。

 でも、駆け落ちだけならともかく銭金を盗んだと為ると、その責めはお前達にもいくのだよ。内の人が言うように一旦江戸外に出て、ほとぼりが冷めた頃に戻ってくればいい。行方は知らないとしておくからね。戻ったらまた何とか相談にも乗ろうさ。十手預かってたもんが盗人の銭を立て替えるってわけにゃいかないのさ。

 それでも作次は首をぶんぶん振って、岩のように身体をこわばらせていた。お民も口も挟めず袖口を噛んで俯むいた。

 その翌朝も、作次は長屋を出て何時ものように日の出湯に行った。
 おいらぁ、ここから離れたくぁねぇ。ねえちゃんどうしたらいい、ねえちゃん。

 歯を食いしばって薪を割りながら、作次は心の中で叫んでいた。そこへお民が裏庭に顔を出すと。

 作ちゃん、今聞いたよ。おまえの姉さんがな、盗まれた銭を返すんで、水茶屋に奉公換えすっからお前をここに置いてくれって頼みにきたと。

 わぁ、ねえちゃんがぁ。やっぱり助けに来てくれたんだなぁ。
作次は無邪気に大口を開いて嬉しそうに笑った。

 ばかぁ、前金背負って水茶屋に出たら、どうなっか判らねぇに。おめぇをここに置きたくて、姉さん覚悟したんじゃねえか。わからねえのか。

 お民は地団太踏むように身を揉んで言った。
そこに千里が、風呂敷包みを抱いて裏木戸からそっと入ってきた。

 ねえちゃん、ねぇちゃん、おいら此処にいられるんだねえ。

 千里はにこにこと寄って来ると、作次の肩に手を置いた。

 そうともさぁ、作ちゃんの大事なお仕事場だもんね。しばらくは顔をみせに来れないけれど、旦那様や日の出湯のみなさんに可愛がってもらえるように、気張ってお働きねっ。

 長屋は侘しいし店賃もあるから、明日からでも日の出湯に住み込みにして頂いたからね。
日の出湯の旦那さんが、とと屋さんに話をつけて銭さえ返せばお咎めないようにはからってくれた。

 ねえちゃんも働いて、晴れてまた一緒に暮せるように、踏ん張るから作ちゃん待っていてね。
千里は笑いながらもその目を潤ませた。

 作次は働ける喜びで、こくこく頷いて笑った。お民は俯いて、作次が鈍い子でよかったのかも知れないと思う。こんなに働く事を喜ぶ作次と、それを守ろうとする千里の想いが胸を浸して思わず泪ぐむ。

 千里さん、あたしがきっと作ちゃんの面倒をみるからね。きっとに早くに、早く帰ってきて下さいな。
 きっぱりと言ったものの、気恥ずかしくてまた俯いた。千里も嬉しそうに、お民さんありがとうね、と微笑む。

 猫のとんびが陽だまりにのそのそと現れて、にゃぁと鳴く。小さな湯屋の裏庭に、陽射しが優しく差し込む午後だった・・




 九助が、束ねた薪を竈横に運び店の内外を雑巾で拭き上げて、軒下に赤提灯を吊るしてると。西の空が急に渦巻いて、ピカと雲間が光るとゴロゴロと雷鳴が鳴り轟いた。

 おいおいっ、月の晦日に夕立かぃ、雷神様も意地が悪いぜ。独りごちながら店に入ると。ばらりと落ちてきた雨粒が、夕暮れの風に煽られるように広がった。

 南掘割下水の向こう岸を尻端折りで走っていく男やら。裏の長屋の女房達が、あめだよぉ、あめだぁと叫ぶ声があがり、あわただしく人も声も行き交う。

 首に掛けた手拭を取ると、九助は店の樽椅子に腰をかけ、腰の古ぼけた煙草入れを抜き出して、ゆっくり一服つけた。これで少しは蒸した暑さも柔らぐかぃ、止むまで待とう不如帰だぁな。

 夜の遅くには荷船の船頭が。葛西や品川に荷を運び終わり、帰りに一杯やりに寄るかもしれない。
まぁそれまで、仕込める味噌漬けの魚や豆の鞘(さや)取りやら,ゆっくりと仕事をやっつけるかと思った。

 どおぉんと音がして、びりびりとあたりが震え。どこかに雷神様が降り立ったなぁと、九助が店の油障子を開くと。激しい本降りの雨煙の中から、悲鳴を上げて一人の女が飛び込んできた。

見ると四十は越えるかどうか、鶴小紋の銀鼠の縮緬だ。大店のお内儀風の女が、店の飯机の下に蹲っている。

 でぇじょうぶですよ、おかみさん。向こう裏の、お不動さんの榎あたりに落ちやしたよ。少ぉし時を稼いでお帰りなせぇな。

九助は笑って女に手を差し伸べて立ち上がらせると、樽椅子を勧め厨房に回って、鉄瓶の湯で番茶を淹れた。

 お恥ずかしい。どうも、すみませんねぇ。あたしゃ雷が大の苦手で、もう怖ろしくて足がすくんぢまうんですの。
女はまだ怖ろしそうに障子の陰から空をみやった。

 雷神様の機嫌が悪いだけでやんしょ。近頃は、何でも派手はいけねぇと松平さまのお達しで。芝居はいけねぇ派手な簪はいけねぇと、締め上げてやすからね。雷神様もたまには派手にやりたいんでしょうやっ、茶でも飲んでる間に夕立も過ぎやしょう。

 九助は大振りの湯飲みに湯気を立てる番茶を淹れて、自分も飯台の端に腰を掛けた。

 ありがとうございます。申しおくれましたが、私は川向うの両国端に店を構える、油問屋伊豆屋のおさんと申します。

 ほう、伊豆屋さんといえば大店でござんすねぇ。

 いえ、表見(おもてみ)はそう伺えるかも知れませんが。五年前に主の利兵衛がみまかりまして。看板を張り続けるのは、それは人に言えない苦労もございます。

 ほうっ知りやせんでしたが、ご苦労はいかばかりかと思うでやすよ。こんな萎びた店一軒でもやりくりはあるもんで。
九助は微笑んで、自分も湯飲みから茶を啜った。

 それで、お店はお女将さんが切り盛りしなすってるんですかぃ。

 跡取りは一人息子の利吉がおりまして。

 そりゃ何よりでやんすね。

 それが・・
言い淀むと、おさんはふっと息を吐いた。

 みつくろって小鉢でもおくんなさいな。久しくゆっくり茶も飲んでなかったし。雷さんが過ぎるまでごやっかいかけます。

 実は・・昨年、嫁を同業の奈良屋さんから迎えましてね。
 おさんは濡れた肩口を手拭で拭うと深く吐息をついた。

 益々、お店安泰というわけでやすねぇ。

 あたしも、元締めの佐野屋さんの口利きで、いい縁だと思って添わせましたが。この嫁が油屋の娘とも思えぬ物しらずで。菜種油と魚油の区別もつかない娘なんですの。

 それじゃ店に出せないと奥に回せば、煮物ひとつも作れないんですの。昼間っから息子にしなだれかかるありさまで、店の内にも恥ずかしいやら腹がたつやら。

 溜まったものを吐き出すように、おさんは一気に話した。

 九助は、酒粕に漬けた瓜と漬物を小鉢で出すと、煙草盆を小机の上から運んで煙草を煙管(きせる)に詰めた。

 お女将さんはさぞ苦労して、油のことも奥向きも、踏ん張ってこられたんでしょうねぇ。

 あたしは、貧乏長屋に生まれましたの。
手習いに通うにも、おっかさんが夜なべして、縫い物をして通わせてくれたんです。おとっつぁんは働き者の桶職人でしたが、あたしが物心ついたた頃は、病でろくに働けなかったから。

 それで、姉とあたしは近所のお使いやら頼まれごとをやっては、小銭を稼ぎ、弟二人も蜆取りやら貸し本屋の届け本を運んだりと、働きました。十六になってすぐ、あたしが水茶屋に働きに出て、そこで主の利兵衛に見初められて所帯を持ちました。

 年は離れていても利兵衛は優しい主で、あたしも油の種類も一生懸命習い覚え、利兵衛を助けて働きぬきましたの。

 ご身内もそりゃ喜ばれたでしょうや。

 おとっつぁんはなくなってしまいましたが、姉も弟達も、主のおかげで其々に落ち着き、おっかさんも年の初めに、下の弟の所に引き取られて小田原に隠居できました。

 ほうほう目出てえ事で、お女将さんも安気でやすね。

 それなのに・・
嫁は商も奥向き仕事も好きじゃないと、毎日、縁日やら芝居小屋に出かけては、きゃぁきゃぁと騒ぎ立て、息子が茶を飲みに奥に来ても昼間っから甘い声をだすんです。とうとう嫁に、里に帰れと言ってやったんですの。もう一度親からきっちり躾けてもらえってねっ。

 そりゃお嫁さまの親御さんも、さぞびっくりでやんしょうねぇ。

 当たり前ですわ、甘やかして躾もせずに育てて、琴や書は学ばせましたなんて、よくのうのうと言えますもの。

 商人の娘なら、商人に嫁がせて恥じないように、お武家ならお武家のお内儀にふさわしいよう躾けるのが親の勤めですわ。のんしゃらと姫御前では商家の嫁は勤まりゃしやせん。

 ところが、息子の利吉が三日前から行方知らずになって、あたしは寿命の縮まる思いで、町の鳶やら町役人、ついには定町のお役人にまで願って捜したんですの。

 ほむ、見つかりなすったのかぃ。

 昨晩、鳶の頭が来て言うには、嫁の実家の離れに嫁といるっていうじゃありませんか。

 奈良屋さんも奈良屋さんなら、息子もだらしが無い、なんて情けないと悔しくってくやしくて。
 
 さっき奈良屋さんに怒鳴り込んでやりましたの。そしたら、若い夫婦がお気に要らぬなら、奈良屋で引き受けましょうって。あちら様より伊豆屋は大店ですのにずうずうしいったら。

 おさんは悔しそうに箸を噛んだ。雨が油障子を打つ音がばらばらと弾ける。

 それで息子さん夫婦を諦めなさるんですかぃ。

 そんな・・利吉は伊豆屋の跡取りですもの。

 お女将さん。
九助は煙を長く吐いてぽつりと言った。

苦労はした方がいいんでしょうかねぇ。
確かにした苦労の分だけ、いい暮らしや商いをまっとうできるのぁ、運が良かったんでやしょうがね。

 自分の苦労を息子や嫁にさせようってのぁ、あっしは違うように思いやすよっ。苦労自慢なんて、所詮自分に言い聞かせるもんで。人におっつけていいもんじゃねぇ。

 お女将さんは、えれぇお人だよっ。苦労して一生懸命にやってこられたでやしょうや。それでもね・・
若い夫婦に同じような辛い思いをしろ、はねぇでしょうや。

 そうやって、後家の頑張りでお店を張っているのは、何の為かってことでやすよ。
伊豆屋を立派に残して継がせていく為でやしょう。
若い夫婦をね、もう少し寛い心で受け止めてあげてくだせぇよっ。

 それが、お女将さんの老後の安気でもありやすよ。昔は出来なかった好きな事をおやんなせぇ。書画でも俳諧でもいいや。琴三味線でもかまやしません。

息子夫婦で、もしも店が立ち行かねぇ時は、お女将さんの知恵の出番だなぁ。隠居ってのぁいいもんでやす。隠居して、渡す身代があるって事でやんすよ。

 おさんは、すこし項垂れて九助の言葉を聞いていた。その肩はいきり立ってるようだったのが、気の抜けたように落ちている。

 そう長い行く末でないことは、おさんも解っている。物分りの良い隠居として息子夫婦と仲良く暮らし、可愛い孫が産まれれば、孫に甘い老婆となって過ごすのは、おさんも思い描いていたのに。

 苛立つのは、自分の苦労を褒めてもらいたい、どんなに辛抱して今を築いたか見て欲しい。あたしを認めておくれってことなんだ・・

 おさんは、我に帰ったように顔を上げて九助を見た。

 お前様、ありがとうございます。何だか憑き物が落ちてしまったような気が致します。主がみまかってより、あたしを諌める人もなしで、ちょいと苦労自慢がすぎたようです。

 命より大事と育てた息子に、あたしは要らぬ焼餅をやいた。生まれ付いてのお嬢である嫁を妬ましく思った。なんてことだろ・・人の思い上がりとは怖ろしいもんですわ。

 おやっ、夕立はいっちまったようでやすよっ。

 外は静かで障子を少し開くと、夕暮れの雲は重いながら、雨はあがって、穏やかな夕べの風が優しく店に滑り込む。

 おさんは小机に代金を置くと、ほんに夕立のなせること、静かな宵ですねぇ。
お前様ありがとうございました。明日は、もう一度奈良屋さんに伺って、頭を下げて息子夫婦に帰ってもらえるよう御願いしましょ。

 へぇっ、そうなさいまし。お女将さんのご苦労が実を結ぶといいでやすよっ。

 おさんは微笑んで、開いた油障子から夕立の過ぎた南割り下水の道に出た。

 あたしは、長いことゆっくり漬物で茶も飲まずに、夕立の後の匂いも味合わなかった。人とも話をしたのやら。

 お気をつけてお女将さん。

 九助はおさんの後姿に声を掛けながら、苦労というのは人を活かし人を殺す、やっかいなもんだなぁと思った。

 ご苦労無しとは、おいらの事だぁ。苦労って思ったことは何一つねぇからねっ。
九助は夕暮れの路地で腰を伸ばすと、思わずにやりと笑った。






 昼下がりの八つ時、江戸深川は氷雨が立ち込めて、お蝶は、白い幕のような冷たい滴りの中を蛇の目の中に身をすぼめて歩いていった。

 小さな小間物商いの三沢屋は、小僧一人の小商いで、天気の良い日には、お蝶も担ぎ売りにでるような店。
亭主の才介は、口喧しい吝嗇な男で、小僧も良く変った。それでも、堅い商いで暮していけるのは幸いとお蝶は思っている。

 雨で荷担ぎ仕事も無く、馬喰町に安価な紅問屋が出来たと聞き及んで、様子をみに出かけたのだ。菊川橋を下駄を鳴らして渡っていると、いきなり向うから来た男とぶつかった。

 あ、ごめんなさいよっ。お蝶は傘の陰から詫びた。

 すまねぇ、すっかり濡れちまったんで、どっかの店に飛び込もうと急いでいたんだ、ごめんよっ。

 お蝶は顔を出して男を見る。
唐残の棒縞袷を片端折り(かたはしょり)に、雪駄の素足も雨に濡れている。

 あれっ、お前さまは。

男も不審気にお蝶を見つめた。
 お、おめぇっ。

 お蝶ですよ、辰吉さんだよね、辰つぁんだね。
 お蝶、おちょうかぁ。懐かしぃぜぇ。

 お江戸は広いのに、ばったりとはなんとも嬉しいねぇ。
 まったくだぁ、すっかり色っぽい姐さんになったじゃねぇか。あのぴぃぴぃ泣いてたお蝶がよぉ。

 いやだよ、辰つぁんこそ、粋な若衆におなりだね。昔っから威勢はよかったけどねぇ。

 へっ、威勢だけでからっきしだがまあ何とかな。

 まぁまぁ、傘にお入りなっ。
 おう、その辺で蕎麦でも手繰ろうか。
 あいよっ、川端に信濃屋があるから、そこへね。



 ここはね、真田蕎麦がおいしいのさ。
 そうかぃ、それと熱いの一本やろうぜ。

 二人は蕎麦屋の小机に向かい合って、しげしげと見詰め合った。

 長屋のおみつちゃんは下谷の水茶屋にいるのよ。六ちゃんは上方に出て呉服屋の商い覚えてね、今じゃ芝で古着商いしてるんだよ。

 ほほう、新吉はどうしてる。

 新ちゃんはね・・池田屋に奉公に行ったけど、流行り病で死んじまった。

 でも、ご浪人の真崎さまの大吾ちゃんは、御養子に出てね、黒田様下屋敷のご用人勤めなのよ。聖天長屋とびっきりのご出世だねぇ。

 ふうむ、それでおまえぇはどうなんでぇ。

 あたしっ、あたしは。
茶屋つとめが長かったけど、小間物問屋に嫁いでね、使用人も二十といるから、ご苦労無しに暮させて貰ってるの。

 そりゃたいしたもんだぁ。いっ時は岡場所に売られそうになったおめぇが、ご新造さまとは嬉しいやなぁ。
 辰つぁんは何してるんだい。

 おいらかぃ、お、おれぁ。
番隋院の親方のとこで、陸棒担ぎを仕切ってるんでぇ。

 まぁ、そりゃいいねぇ。あそこはお大名筋の籠かきだもの、そこらの町駕篭とは格が違うってものさぁ。

 二人は長屋の想い出をあれこれ語りながら、熱燗を注ぎあい蕎麦をたぐった。

 貧乏長屋の子供達はそれぞれに、楽な育ちはしていない。かっぱらいや置き引きさえみんなでやって、団子一本が何よりの豪勢さで、それさえも分け合ったものだ。

 ぼろな肩継ぎを笑われて、お蝶が泣いていると、
辰吉が顔を真っ赤にして飛んできては、悪童達を追っ払ってくれた。

 お蝶、おいらがえらくなったら、おめぇに金襴の着物買ってやる。だから泣くなっ。

 ほんとうかぃ、お蝶も金襴の着物を思って、涙の筋を袖で拭って笑ったものだった。

 辰吉が父親に薪でぶったたかれて家を飛び出していったのは、お蝶が十で、辰吉が十二の時だった。

 すきっ腹に耐えかねて、饅頭を盗んで捕まった。辰吉は殴られながらも、泪をみせずに歯を食いしばって耐えながら、叫んだ。

 へっつ、餓鬼に飯もろくに喰わせねぇで、酒ばかり飲んでいやがって、殴る威勢はあるってんだな。好きで貧乏長屋に生まれたんじゃねぇやっ。

 お蝶とおみつが泣きながら父親の腕にぶら下がり、おじさん止めて辰ちゃんが死んぢまうよ。辰ちゃんは新ちゃんが腹がすいたって泣くからやったんだよぉ。

 必死に止めたが、よけいに煽り立てられて、父親は辰吉が気を失うまで殴り続けた。

 そして辰吉はいなくなった。

 今思えばね、親も辛かったんだろねぇ。どこの親も、まっとうに働いても子に充分食わせられない。やるせないから酒に逃げたり、女房子にもあたるのさ。

 へっつ、自分もそうやって育ったからって、餓鬼を殴ってうさばらしするなぁ親じゃねぇよ。

 おいらぁ、お前が岡場所に売られるって佐助に聞いた。あん時は腹が煮えてにえて、金を掻き集めて佐助に頼んだ。

 そうだったわ。家を出るあたしの所に佐助が走ってきて、おとっつぁんに金の包みを投げつけたんだんだった。

 お蝶売ったら生かしちゃおかねぇって、親分がそういってるよっ。ねえちゃん売ったらおとっつぁん殺されちまうよっ。って、そう叫んだんだっけ。

 どこの親分かしらねえが、お蝶はてめぇの子だぁ、生かすも殺すもおいら次第よっ、目腐れ金で恩を売うったってそうはいかねぇやっ。

 そう言っても、おとっつぁんも娘を売りたかなかったんだろうね。その金で塩屋の借りを払ってしのいでさ、あたしも茶屋つとめに出れたんだ。

 あれは辰つぁんのお金だったんだねぇ。知らなかった・・借りができちまったね。
お蝶は思わず袖口で目の縁をぬぐった。

 いいってことよぉ。
お、おいらも金に困っちゃいねぇし、昔のことだぁ。

辰吉は額を手でつるりと撫で、白い歯を見せて笑った。

 辰つぁんがどこかで見ていてくれると、あたしも働きぬいたよ、佐吉はおとっつぁんが亡くなると、家を飛び出てしまったしね。

 そうかぃ、おいらもお蝶に金襴きせてえと、危ない橋も怖くなかっぜっ。夢中でやってきたもんだ。

 何時か、辰つぁんが迎えに来てくれると、聖天長屋も出やしなかったのさ。訪ねてくれれば・・

 どこかですれ違って、別の道をいくってやつさ。

 それも縁ってもんなんだろかね。無事でいてくれろと願っていてもね。
 それで、辰つぁんにはどこでまた会えるのかぃ。

辰吉は下を向いて手酌で酒を注いだ。

 ・・いや、会わねぇほうがいいのさっ。
おめぇは無事に大店のお内儀だぁ。おいらは荒くれの中で日がなを送ってる。幼馴染みが達者でこの江戸で生きてる。それだけで、おいらぁ嬉しいのさ。

 そうだね。もう、毎日一緒に走り回ってる時は過ぎちまったんだねぇ。

 氷雨は冷たく降り止むようすもなかった。勘定を済ますと二人は蕎麦屋の軒下で並んでそれを見つめた。

 辰つぁん傘を持っていってな、あたしゃその先に取引先があるから傘も借りられるんだ。

 そうかぃ、おめぇの傘だ有難く受けようぜっ。
それじゃ達者でなっ、また会うことがあったらな。

 あいよっ、金襴の着物だよっ辰つぁん。
お蝶は淋しく微笑んだ。

 辰吉は、おうよっ帯もつけてやるぜっ。
そう威勢良く言うと、傘を開いて白い幕を切り裂くように、道へ飛び出していく。


 辰つぁん。嘘ついてごめんよ。

小間物屋の女房は、櫛笄(くしこうがい)はいい物を身につける。それも商いの知恵でもあったが。
良かった、みすぼらしくない姿で。お蝶は辰吉が見えなくなるまでその痩せた背中を見つめつづける。

 ばっきやろう。
博打の金に追われてるおいらが、おめぇに金襴なんぞ買えやしねぇや。それでも、それでもよっ。たまにゃ、夢でも言いてぇのさ。お蝶、堅気で達者にすごしてくれぃ。命があったらまた会える。逃げて逃げて、逃げ切ってみせるさっ。

 辰吉は、傘の柄の温もりをしっかりと握り締めながら、冷たい雨の中を走っていった。