もん・りいぶる21(21世紀のレビュー三昧)

もん・りいぶる21(21世紀のレビュー三昧)

雑食性のレビュー好きが、独断と偏見でレビューをぶちかまします。

古今東西の本も音楽も映画も片っ端から読み倒し、見倒し、ガンガンレビューをしていきます。

森羅万象系ブログを目指して日々精進です。





                


*お断り 当ブログに無関係と管理者が判断したコメントは投稿者に断りなく削除することがあります。


それはそれとして、ペタ、コメント大歓迎です。


異論、共感いずれにしても感じたことをそのままに、書きとめていただけたら幸いです。


限定記事の予定がないので読者登録はしていません


こんなヘンテコでよろしければ、末永くお読みいただけると、もう、幸せ一杯であります。


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2002年 日本経済新聞社(日経ビジネス人文庫)


今朝あたりの報道では、ビール市場では発泡酒を抜いて第3のビールの出荷量のほうが多くなったと書かれていた。
琥珀色して泡の立つ液体、という意味ではどれも同じ。
酔ってしまえばホッピーまで含めて同じ。
と一言には切り捨てられない悲喜こもごもを飲ん平は誰しも感じているはずで、第3のビールが売れている背景は味よりも税額だ。

税法の抜け道とそれでも「ビール系」にこだわる飲ん平の喉を潤すための商品開発に精進し続けるビールメーカーの動きはそれはそれで面白いのだが、実際にはその前段階でビール業界に生まれていた大革命があったおかげで、飲ん平が財布の厚さ加減でいろいろ選べる仕組みになっているわけで、その辺りを知っておくと、酒飲み話の内容のほうには「重厚さと芳醇さ」が加わることだろう。

ビールは大衆的な飲み物となったのは、実は相当最近の話である。
大瓶のビールがドンと食卓にあって、テレビの正面に陣取ったオヤジが晩酌にそれを一本飲む。テレビに映っているのは必ず野球でおかずはコロッケが毎晩続く。ビールは酒屋の冷蔵庫で冷やされたものが届けられるものだった。

というのが日本の一般家庭のビールの原風景だった。それ以前は飲食店で飲むものだったのだ。
というあたりで実はビールメーカーのシェアは大きく遷移していて本書はそうした遷移がいったん落ち着いたキリンビールの天下だった頃をスタートラインに書かれている。
なので、実際にキリンビールがずっと首位を走っていたわけではなく、一般家庭に冷蔵庫とテレビが普及してからキリンの時代、言い換えれば家長の家での地位の象徴キリンビールの時代だったということだ。
そこに今にも身売りしそうな状態のアサヒが起死回生の「スーパードライ」を放って今の首位争いに至ったのだが、少々そのあたりの話は抑え気味なのが本書に対する不満ではある。

さてと、ビールの話は実はなかなか酒席では深まらない。
理由は簡単で案外ビールのことを詳しく知っている人は少ない。
おそらく薀蓄に関して言えば、ワインのような専門家も居らず、日本酒や焼酎のような老舗の造り酒屋もない、ウィスキーのように長々と薀蓄広告も打たないといった具合で、実際には情報があまりないのだ。
ひところ大量に流されていたテレビCMにしても「コク」やら「キレ」やら「香り」などの定量情報に欠ける表現だけで、じっくり語り合える薀蓄はビールメーカーの社員でも同席しない限り耳に出来ない寸法なのだ。
いいかえれば、そうした話とビールが合わないということか。
そう考えると、この理屈は抜きで気合営業で売りつくした伝説の営業マンエピソード満載の本書は、まさにビール戦争の本質を表しているといえるだろう。

本書の15年戦争の後の世が現代だが、後半部分に書かれている内容はまさに今の第3のビール時代を予言している。
ましてはこれほどの不況が一気に来て、しかも「税率」に庶民が神経質になっている時代に、第3のビールの今後を占うための情報が満載だという点では本書は面白い。
もう少しマーケティング戦略的なものが欲しかったところだが、よくよく考えたらビールほど新製品が生まれては消えるバブリーな業界もなく、マーケティングそのものを憂いた結果削られたとだとしたら、それは正解なのかもしれない。

たまには「ラガー」にしようか「ドライ」にするか、はたまた「モルツ」か「黒ラベル」かと、悩みたいものだと思いながら、第3のビールの並ぶ冷蔵庫を憂いてしまった。

2008年 文藝春秋(文春文庫)

北島行徳?
どこかで見た名前だと思った。しかし、読み始めてしばらくしてその名前とこの作者の名前が重なって、一気にあのヒール役の顔が思い浮かんだ。

北島行徳。
その名前はプロレスラーの名前だ。そして映画監督でありノンフィクションライター。
全ては「無敵のハンディキャップ」という作品に集約されていく。

実は、評者は北島行徳がリングに立つ姿を生で見ている。
北島自身は法で定める障害を負っていないが、リング上ではさまざまな障害のある人たちを相手にこれでもかと痛めつける役割を持つ。
プロレス技を掛けるのはもちろんだが、ヒールだから反則もやりたい放題だ。
世の中はそういうものだし、障害者が実際に晒されている世の中もまさにそういうものだ。生ぬるいやさしさばかりを表現していると、真実なんて欠片も見えなくなってしまう。

そうしたアンチテーゼを自らの身体を張って表現した作品群はやはり鋭さをもって観るもの読むものの心を撃つ。
そして、その背景にある「同じ人としての目線」がはっきりしているから表現力がぶれない。

そんな北島の初の創作にも、「同じ人としての目線」が屹立している。

タイトルのバケツというのは少々知的能力に遅れのある養護施設の入所児童だ。
そのバケツと出会ってしまった主人公が、バケツと離れがたくなって独立自営の日焼けサロンを始め、託児所に手を広げ、法定外介護サービスもはじめてしまうという個人の多角化をしていく姿が書き綴られる連作が本書だ。

ここではいわゆるむき出しの福祉は見えない。
というよりも、穴だらけの福祉の穴のいくつかを垣間見せながら「同じ人としての目線」を持った人間の苦しみを語らせている。
善意や好意や義務感や理想といった福祉の基本的な要素を取り払って「営業」として取り扱っていく主人公。
その彼の憧れの人は障害者が舞台に立つ劇団の主宰者だ。

土台となるのは1990年代の障害者支援活動の徒花たちの姿。
徒花といっては失礼だが、メジャーになりきれていないという意味では、メジャーにするほど支えていない責任も痛感するが、「憐れみ」を排除しての活動の切れ味の鋭さは、今でも記憶に強く残る。

それはさておき、それが日常になるということと、バケツという一つの命を支えることは実はひとつらなりではないことを徹底して作者は読者に突きつける。

誰でも誰かに支えられている。
口で簡単に言えることだが、物語にすると悲しく美しく重い。

2008年 日本経済新聞社(日経ビジネス人文庫)


いわゆる業界ライターといわれる人の中には、博覧強記で特に人名に詳しい人たちがたくさんいる。
彼・彼女の得意技はひたすらブランド名も含めた人名を記憶しておくことで、彼らの書く文章からこれらの固有名詞を取り除いてしまうと、ほとんど何も残らない。

今回取り上げる川島蓉子という人の文章は、さらにロジックがないからいよいよカラカラスッカラカンだ。

おそらくは川島は膨大な取材記録(ノート?メモ?)をもとにこの百貨店中の最高峰を「人」の面から再構築しようと試みたのだと思う。
日常の仕事とはいえ膨大な取材を敢行し、それをあちらこちらに書きながらも、ひとつに取りまとめようという試みは、いたって全うな発想だし、伊勢丹について総覧的にわかる本があればもちろんよい勉強になるはずだから、読みたい人だってたくさんいるに違いない。

市場はある。
そして、その市場が求めているものを提供するのが日経があり、日経は「本というプロダクツ」と「文庫本という低価格なプライス」と「日経ビジネス人文庫用に確保された書店の棚スペースとうプレイス」という3Pが見事に用意されている。

しかし、最初のP=プロダツクの中身が貧困であっては、これはいただけない。
どこでも安価に買えるものだからといって、中身もチープ、いやお値段以下ならそれは困ったことだ。


では、なぜそう貧困な内容なのかをご説明しよう。

簡単に言ってしまえば、日常の取材で行っている「ダラダラとしたながれそのもの」がそのまま提示されているからだ。
多少時系列な売り場ごとの章立てにはなっているが、書いていることは目に付いた順思いついた順出会った順であって、それを通す背骨がない。軟体動物がクネクネと身体をくねらせながら脳細胞の間をすり抜けようとするから、個々の固有名詞の羅列意外には何も残らない。
しかも、そこには日常の思いつきそのままの提案だったり意見が挟まれるのだが、その根拠となる理論も比較対象となる客観的な事物も登場しない。
ただ思いつくまま気の向くまま。

それは、一百貨店ファンが通い詰めながら書いた日記だったらそれでいい。思い込み日記でもいいだろう。
雑誌のちょっとした記事の単位=一回分の日記であるならば、まあ断片的に読んで「なるほどそんな感想を持ったのね」で終わる。
しかし、お金をもらって文章を書く以上、もうちょっとましな書き方が出来ないと致命的だ。

こういう類の本を造るときには、基本的にロジック構造を先に構築して造らなければならないのだが、そのあたりは編集者も手が出せなかったのだろう。

ということで、筆者の真似をして勝手に提案をしてみよう。

ロジカルに章立てをするなら
1.伊勢丹のオリジナリティを売り場の変遷から見る(全体の俯瞰)
2.伊勢丹な人々-トップの視座
3.伊勢丹な人々-現場マネージャーの視野
4.伊勢丹な人々-売り場はこうして変わった-現場最前線の視線
5.変わったもの変わらないもの-伊勢丹らしさの源泉
6.伊勢丹売り場変遷年表(世情・百貨店界・小売業界比較)

なんて構造であれば、伊勢丹がよくわかるのだけどな。
大きなもの・範囲からより細かな視点に下ろして行って、最期にもう一度まとめる。
そして文中にちりばめてしまった比較対象群をもう一度客観的に見られる情報を提供して終わる。

まあ、そのくらいやってから書けば、「こんなにたくさんの人を知ってる」「こんなにこのお店がすきなの」以外のことを書かざるを得なくなるだろう。

ということで、はい、書き直し。

2008年8月2日~12月14日 東京都美術館企画展示室


いやはや、これ以下の美術展示を見たことがない。
これは酷い。最低であり最悪であり俗悪でありこれまでのダントツ最低記録保持展示の山梨県立美術館以下だ。

フェルメールの作品を目玉にしているとはいえ、全展示作の2割にも満たないフェルメールがメインで他の作家もフェルメールの名前にくっつかない限り日本で誰かの眼に触れるほどの価値などないものばかりだ。

「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」というサブタイトルですら、嘘八百って感じなのだから、これは詐欺だ。もちろん、作品世界中から集めてきた苦労は理解はするが。

さてと、これは実際には美術展、いや原画展ではなかった。

あまりに低俗な「博物展示」だ。

作品数を遥かに上回るパネルの山。そして読むに耐えないだらだらとしたあいさつ文と解説文が壁面を埋める。
それを何かのありがたい経文であるかのように読みふける観衆。絵を見に来ている人はごくわずかなのだろう。解説に書かれていることやテレビで延々と放送された内容を現物で確認しているだけの人たち。
絵に対しても失礼な話だ。

さんざっぱら記事や番組で宣伝しておいて、内容は低調。それを埋めるのがこれでもかとばかりの解説の山。

平日に行ったにもかかわらず20分待ちさせられた理由は、ひたすらに「ありがたい解説&挨拶」に取り付いて離れなかったり、絵のパートパートを拡大したパネルと原画を比べることに熱中する観客が動かないのだ。絵を望遠鏡で見るというこれまた変則的な人たちや音声ガイドの解説が終わるまで動かない人など、これは美術を楽しむ行為がずいぶん拡大解釈されたなあと思ってしまう。
民度の低さ、美術教育のあまりの低さがこういう観衆を増やす。

まあ、それはいい、とりあえずその列の中に身を置いた以上、自分も同罪だからだ。

さてと、少々冷静になって展示された作品のついて簡単に感想を書いておこう。

基本的に絵画は抽象絵画が好きな筆者は、こうした具象の風景画はよほどのことがない限り面白いとは思わない。当然ながら、今回の作品はどれもつまらないものばかりなのだが、それでもまだフェルメールはすごかったのかな、と思う部分もあった。

筆者の具象絵画を見るときの基本的なチェックポイントは「質感」「量感」「情感」の3つの感性ポイントだ。
目の前にあるものをそのまま写実しても、それは技術でしかなくて美術ではない。そこには、あたかもそこにあるものに手を触れて触覚や温感が伝わってくるかという質感、持ち上げてみて重みや肌に伝わる圧力といった量感、そして写されたリュートの音色や少女の瞳の中の悪戯心などの情感が欠かせないのだ。

しかし、入り口近くの風景画群をはじめとして、ことごとくがつまらない。
上手ではあるのだろうが、それ以上ではない。構図を含めて眼を留めさせる力がないのだから、それは自分の感性だけで言わせてもらえば凡庸以外の何物でもない。

そういえば、「青、あお、アオ、群青~」と何かのおまじないのように青いところを探す観衆にたくさん出会ったが、出口の先の物販所でラピスラズリ(フェルメールの「青」の原材料)の装飾品の前がもっともひとの密度が低かったのが笑えてしまった。


2008年 角川書店(角川文庫)

小説家には大きな括りで大河の流れに棹を差しながら流れをせき止める勢いを持ったダイナミズム主体の作家と、隙間隙間を捜し求めながら、「機微」の集合体としての人間の再構築を図るミニマリスム主体の作家がいる。
なかなか前者にはお目にかかれないので、勢い後者の中でのせめぎあいになってしまうのだが、そうなると着眼点とその細部に到る機微の生かし方で大きな差がついてしまうことになる。
そうでなければ、脱日常を徹底しながらもう一度機微の世界に立ち戻ることになるだろう。

絲山秋子のこの短編集は、その両方が一冊で楽しめるという点でお買い得だ。
テーマは「非主流」ということになるのだろうか。
主人公となる女性はどうやら作者本人の分身(どの程度の距離感かは不明だが)であるようで、作家であるということも、当然この主流ではありえない人と、これまた主流ではない人との交情が主体になって描かれている。

ニート。

自らそうなることを選択してなれるものではない。
自らの選択の結果なってしまったという結果論はありえるし、自らの努力や行動や環境の組み合わせの合計数がニートに合致してしまうこともある。
しかし、抜け出すための努力や実力はどこかで身につくのか、という今の政策的なアプローチでこの小説は書かれていない。

ニートは少々の助力で浮上したとしても、また後戻りしてニート。

それは運命論に近い。

その運命論の中でのあがき方にしても、運鈍根を金科玉条にしてきた前世代とは根本的に異なる。
自助努力という前提そのものが異なっているのだ。

そして、その自助努力を捻じ曲げたところで、伝統的な糞尿譚を敷衍したラストを飾る「愛なんかいらねー」が成立する。
スカトロプレーに耽溺するまでの転落を執拗に描くこの短編は、さすがに鼻をつまんで読みたくなる要素が満載なのだが、しかししっかりと日常の中にぽっかりと納まってしまうのは、「非主流」が根強いからだ。
ひとりで生まれてひとりで死ぬ宿命の人間にとって、永遠の主流はありえないのだから、この臭気に満ちた人間物語も、やはり幾分の「人間の真実」を含んでいる。

このタイトルの「愛なんかいらねー」。
「ー」という切捨て御免の音引きが、読後感をさらに引き伸ばす。

隙間から臭ってきた人間の臭気が、いかに人間の精神をかき乱すかに気づき、そしてその正体が人間そのものなのだという至ってまともな結論にたどり着いたときに感じる安堵感に出会うと、不思議と満足感に繋がっていくところが面白かった。

1991年 Smithsonian Forlkways

「ジャカルタ周縁部の音楽」の今昔を収録したスミソニアン博物館のカタログの中のインドネシア音楽シリーズの一枚。

全10曲収録で、前半5曲が古いレパートリー、後半5曲が現代のレパートリーという並べ順。

インドネシア音楽という書き方をしているが、演奏しているGambang Kromongの音楽は、どうやら中国式だったり西洋式だったりの楽器を使用して純度百のインドネシア音楽を奏でているわけではなさそうだ。

そもそも、インドネシア=インドの島々と名づけられた多島国家であり、有史以前からの土俗宗教とイスラム/ヒンズー教を中心とした宗教の多重に混在する多民族国家であり、インド・中東・中国・西洋列強に加えて近代では日本の侵略にまで晒されてさらにその多様な文化性に磨きがかかったといえなくもないだろう。

音楽という面で言えば、東南アジア最大の音楽国家であり、バリ島の伝統文化にばかり目が行きがちだが、インドネシア総体の持つ音楽的な深みもまた、きちんと正対して受容してみるべき音楽群でもある。

さて、音楽面で言えば、インドネシア音楽の中でも最もおなじみのガムラン音楽に使われる楽器群がやはり音色的には一番耳を惹きつける。そこに繰り返しのメロディと重層的なリズムによる眩暈のような酔いを呼ぶ宇宙的なサウンドが加わり、郷愁を引き付ける笛の音で止めを刺される。
ボーカルスタイルは当然のことながらビブラートを使わない歌唱法で、ゆったりとしたメロディを誘い込むように歌われると、やはり強い直射日光の下でダイナミックに展開される極彩色のバザールで飛び交う呼び込みの風景が彷彿とさせる。

分類上の古いも新しいも、そう大差はなく感じてしまうのだが、それはおそらくインドネシア音楽の中の「流行歌」との比較で感じてしまうものだろう。
それをそのまま書いて終わりにしてしまえば、日本でも地域地域の生活の中にある古い民謡と大ステージで全国展開される民謡ショーが同じといってしまうようなものだ。

やはり「古いレパートリー」には素朴と純情とむき出しの欲情が顕著だし、「現代のレパートリー」には、複雑さと自己顕示欲が明確にある。
テンポとしてのゆるさは同じ。しかし、のどかさを感じられるか否かは圧倒的に前者のほうがのどかだ。
どうしても「現代」にはジャズのフレーバーが入る。西洋の忙しなさが紛れ込む。

どちらがいいといっているわけではなく、現代のインドネシア人にとっては後者こそがまさに「living music」そのものであるのだから、部外者が的外れな懐古趣味でそれを批判しても仕方がない。
どちらかといえば、まだ受容の範囲もレベルもそう大きくない分、日本における過剰すぎる模倣の放つ悪臭のほうを強く感じてしまうのだ。
その悪臭にしてもわが日本の音楽の現状。

音楽はそのようにして受容されて廃れていくのか発展していくのかと考えると、#7のStambul Bilaなどは、アフリカからアメリカ大陸に拉致されて黒人霊歌の葬送行列に到る音楽の歴史と、そこから連なりさらにインドネシア諸島からインド亜大陸、そして中東までに流れ込んでいく「憂いのブルース」の普遍的な挑発力を感じてしまって、ついもう一度プレイボタンを押してしまうのだ。


2008年11月29日 日産スタジアム 14:04キックオフ

Jリーグ創設以来15年目の今年、クラシコ(伝統の一戦)と冠してよいのかとも思ったのだが、その前身のJSL(日本サッカーリーグ)時代からの好敵手である日産と読売という黄金カードであるのだから、その実態はともかくとして、歴史としてみれば十分クラシコのなるのだろう。

久しぶりのスタジアム観戦は、レギュラーポジションであるゴール裏後段中央からの観戦ではなく、レビューを書くことを意図したわけではないが、少し冷静にサッカーを見ようというつもりにもなりバックスタンド2階中央部という高見の見物席を選んだ。

このクラシコではあるのだが、実は残り1節というところにいたって、J2への降格圏内からの脱出を図るという位置づけで、とてもこの両チームのファンとしては収まりのつかない気分で臨む試合でもある。
首位争い、優勝争いをしてこそのクラシコなのだから致し方ないが、言い方を変えれば、それだけ育成やチーム編成の技量がどこでも上がっていて、ちょっとしたつまずきで降格もし、戦略が当たれば首位争いに加われるという肉薄したチームが揃ってきたともいえるだろう。

横浜は3-4-2-1、東京Vは4-3-2-1で臨んだ試合。
と、キックオフ直後から、いきなり横浜の圧倒的なボールポゼッションが始まる。
東京Vはやたらと多い横浜のパスミスを拾う以外、ほとんどボールに触ることすらできない状態がしばらく続く。
中盤でのボール争いでも、奪った後の展開力でも相当に力の差があるのが見て取れるが、それでもさすがに横浜のボランチを徹底マークして東京Vも少しずつボールに触る回数が増えてきた。

両チームのワントップへのマークが厳しいのだが、横浜の金は左サイドに開いて狩野、兵藤が自由に動けるスペースを確保しながら東京Vのディフェンスを切り裂いていく。一方の大黒は高い横浜のスリーバックにことごとく跳ね返されて、ほとんど機能させてもらえない。
決定的なシーンはいくつかあったものの精度に欠いたりシュートの強さに勢いがなかったりと点が取れない横浜に対して、ほとんど何もさせてもらえないという印象が前半の東京Vには残った。
もはやこれでは、緑の恐怖どころではなく、「緑のおじさん」でしかない。

しかし、後半に入って気合が入った東京Vは、横浜のパスの出所がボランチ経由だという部分を見抜いて最初から飛ばしまくり、二人のボランチにすばやく寄せて切り裂き、順調にボールを奪って横浜ゴールに襲い掛かる。
しかし、点になりそうな気配はなく、逆にボランチ福西が横浜の松田にボールを奪われ、そのまま長い距離のドリブルを許し、寄せの甘いディフェンスをあざ笑うかのようにそのままシュートしてゴールを破った。

そうなるともはや組織的な動きは皆無になり、必死に動けども足は動かず、見方へのパスコースを全て消されてバックパスを繰り返すようになると、あとは鳶にさらわれた油揚げのように長谷川のJ初ゴールを献上してしまう。

横浜の状態にしても、連覇していた頃の激しいチェイシングも切れ味鋭いドリブルも少々迫力不足ではあったが、それでも勝てたところに横浜と東京Vの決定的な違いがあることが明らかになった。

横浜にはアイデア豊富でそれを使いこなせる狩野がいる。
個人で強く組織としているディフェンスがそれを支えてはいるが、狩野の成長は今期の終盤にきて横浜の降格阻止に大きく貢献していることは間違いない。

狩野は得点には結びつかなかったものの、右サイドの田中隼、左サイドの田中裕、そして3トップの一角の兵藤を伴って何度も組織的な攻撃の起点になった。
それだけではなくリズムのおかしいところでは率先してシュートしてリズムを変え、相手のディフェンスの開けた穴に次々と侵入して後一歩のところまで迫っていた。
狩野と兵藤の入れ替わりながらの自由自在なポジショニングが東京Vの守備を混乱させ、その間隙を縫ってパスカットした松田のゴールに繋がったことを考え合わせれば、やはり狩野の勝利に果たした役割は大きいといえるだろう。
終盤田中隼の代わりに投入された清水がさらに東京Vの混乱を誘発して長谷川の初ゴールに繋がったのも、戦術レベルでいえば木村監督の策がこの試合に限ってはフィットしたといえるだろう。

中盤を支配した狩野が横浜を勝利に導いたとすれば、東京Vの中盤を誰も賄えなかったことが最大の敗因だろう。ゴリゴリとこじ開けようとする3人のフォワードとその手前でお膳立てする中盤との間の断絶。
ブラジルトリオの活躍で好調を見せ付けていた時期の東京Vと比べると、やはりまったく別なチームに見えてしまうのだが、横浜で言えば山瀬功という絶対的な中盤の主を欠いても狩野がいるのと比べて、やはり当初のチーム編成時点から既にこの降格争いの主人公格の位置は宿命付けられていたのかもしれない。

まだ、東京Vの降格が決定したわけではないが、親会社「読売」への貢献度ばかりを天秤に掛けられて編成に予算が使えないという現状から変えないと、クラシコと呼べる内容に戻らないのかもしれない。

1979年 文藝春秋(文春文庫)


そういえば申し遅れていたのだが、半村良を耽読した時期があって、神保町の古書店めぐりをして数十冊をデイバッグに入れて持ち帰ってひたすら読んだことがある。

半村良といえば、やはり伝奇SF小説、というジャンルが最も多いのだが、どっこい人情物も山ほどあって、玉石混交気味ではあるものの、若い頃より今読んでしみじみ味わえるものが多いので、稀ではあるが読み返すこともある。

本書は、そうやって読み返してみて、やはり匠の技なんだなと思ってしまった。

半村良は数十もの職を転々として作家にたどり着いた話が有名であるが、伊達や酔狂でフリーターもどきの職遍歴をしてきたわけではない。そこで得られた知見だけではなく卓抜した人間観察力が徹頭徹尾物語に戻ってくるから、登場人物の心理描写も背景描写も本当に立体的に立ち上がってくるのだ。

どれかひとつの職業を徹底していたらそれはまた違った結果になるのだろうが、名俳優がさまざまな役をこなす「演技」を通して、人生の深みを見事に演じられるようになるのと同じで、半村はそれぞれの職についている時期に、徹頭徹尾その職の本質に出会えていたのだろう。

話の内容はいたってシンプルで、本書に収められている8編には、紫煙と酒精と哀歓をこめた情欲とが溢れている。
ちなみに表題作の「雨やどり」は直木賞受賞作。
鋭いがやさしく包容力を持った人間観察を土台に、ありそうな話の奥底に口を開ける悪夢のようなエピソードや、泥沼、そして後悔と希望。
それを軽妙な会話を中心に書き進めていくのだが、舞台は常に同じバー。
そして半村自身がたぶんに重なっているであろうバーテンダー半田。
まさに半田=半村という掛け合わせで描かれるのだから、自家薬籠中の全てがここに注がれているといっても過言ではない。


半村良というと、軽い作家のように思われる向きもあるだろうが、軽る身のある文体の中に隠された諦念と、人間そのものの執念がしっかりと絡みつく会話を読むと、市井に生きる人たちのあっさりと聞き過ごしてしまいそうな会話こそが、いま、一番聞き届けられねばならない会話なのだということに気づく。

1998年? VIGOTONE

木々の葉がすべて落ちて、煌びやかな電飾がその代わりに点滅する頃になると、ついこの人のことを思い出すのだが、しかし、その日からもう28年になる。

だからといってその日にレビューを書いても気持ちの痛さは薄れることはないから思いついたら吉日と、今日このレビューを書いてしまおう。

20世紀を代表するソロシンガーの作品として、最初に指を折りたくなるのがジョン・レノンの『イマジン』だ。その出自を赤裸々に歌い、バンドメンバーとの相克や真っ白な純愛などをデコレートしたこのアルバムは、詩作という点でも燦然と輝くアルバムだ。

気の置けない友人たちだけに取り囲まれて磨かれたシンプルなサウンド。
そして、虚飾をすべて取り払って研ぎ澄まされたボーカル。
地球上に住むすべてのひとに捧げられた平和への祈りのメッセージ。

このアルバムを聴くたびに思うのだ。
ひとりで人間は生きているが、音楽はそのひとりであることをむき出しにする。
そしてむき出しにされてヒリヒリの肌を改めて覆ってくれて、温もりを提供しながら隣にいる誰かと音楽から得られた感情を共有しようとしてしまう、そんな音楽の効用を。

そして人間の欲望は正直だ。
この感動をいつまでも続けたいと思う。
もう少し違った流れでも感じてみたい。
もっと別な、ほんの少し違ったもの、そして、その出来上がりの源泉のせせらぎの音まで。

という思いが多く重なって、別バージョンのイマジンが正式に発売される運びになったりもした。

しかし、多くのファンはそれだけしかないわけではないことを知っている。
膨大な時間をかけてジョンが自己との対話を記録し続け、その成果として一枚のアルバムが出来上がったことを。
さらにいえば、アメリカのFM曲で膨大な量のジョン・レノンのアルタネイト・テイクが放送され、いつ正式リリースされるのかと心待ちにされてもいることを。


だが、やはりそれは叶わぬ夢。
だからこうした企画版の密造酒が造られることになる。

全49バージョン。
これですら全セッション記録ではないけれど、バンドメンバーとのやり取りも含めて、生きているジョンがつい目の前で離しながら曲想を固め、徐々に形が出来上がっていく生々しい姿がここにはある。

合間にはアルバムには収められていない曲もあるけれど、繰り返し「眠れるかい?」とさまざまに歌い継がれてしまうと、やはりノックアウトだ。


アルバム構成は
1枚目がオリジナルアルバムと同じ曲順にアウトテイクが並ぶ。
ある意味、同じでありながら違うパラレルワールド。

2枚目はイマジンを中心としたアウトテイクスで、3枚目はハウ・ドゥー・ユウ・スリープ中心。
イマジンの造られるプロセスも興味深いのだが、執拗に7回繰り返されるハウ・ドゥー・ユウ・スリープは、何度聴いても鳥肌が立つ。
執拗に執拗に。

しかし、それは昇華されていくから美しい。昇華されない愚痴は出口を間違えるし、蛇口から汚い廃液しか出ずに他人に害を及ぼすが、昇華されて芸術に高められた愚痴は、その蛇口から芳醇な酒が迸り出て人々を酔わす。

ジョン・レノンの最期を思うと、あまりに悲しいのだが、彼の出自の中で刻まれた数多の悲惨が徹底して磨かれ昇華されたその芸術は、やはり不滅だ。
この徒花は当然の如く否定されるだろうが、徒花があっての名花であることを思うと、やはりこの徒花を飾る栄誉もこの世の中にはある。

2008年 宝島社(宝島社文庫)

ちょうど前作「チーム・バチスタの栄光」をテレビドラマでやっていて、読書習慣のないあるドラマ専業ブログなどでは頓珍漢な批評も登場していてつい微笑んでしまったが、海堂尊の小説は、人的な機微表現を少々逸脱したところが面白いのだから、原作を読まずにニュアンスにかける演技をけなしても仕方がないと独り言を言ってしまった。

そう、海堂の描く人物は文字の森の小説の中では理解可能でも、それを映像と演技で表現するのは難しいところが多い。

おなじみのグッチー田口の耳を覚醒させるための『マタイ受難曲』の件など、どうやったって演技をする側よりも「理解する観客」の側の才能のほうに問題が生じてしまう。

その点、文字情報しかない小説は読む能力がない人は最初からチャレンジしないのだし、わからなければ放棄してしまうわけだから、ある意味冷酷だしそれでこそ作者の工夫も楽しめるというものだ。

と、話が脱線してしまったが、海堂の繰り出すキャラクターたちはひねくれ物そろいでとても楽しい。
裏の裏は表ではなくあくまでも裏の裏、という本来の人間のありようを描いているから、某馬鹿みたいに売れるお手軽推理のような「サンプル帖から抜き出してきたような犯人」や「推理小説アーカイブに登録されている探偵」や「いまどき新聞記事にもならないほど陳腐で忘れ去られたような犯罪を誘発してしまう被害者」という眼腐れな人物はひとりも登場してこない。

これは常に二項対立でしかミステリーを書かない省力スタイルの作家たちに特有の現象なのだが、なにせ白鳥の駆使する被疑者特定システムで分析しようとするとそんなに薄っぺらい人物設定では、何も書くことがなくなってしまうからだ。

そこに少々のSFフレーバーを染み込ませ、医学情報を満載して「病院という密室」を舞台に話が展開していけば、そりゃあ面白くないはずもない。

と、ここまではかなりひねくれた解釈をしてしまったが、なにせ売れまくっている海堂の作品群であるがゆえに、「面白い!」「すごい!」なんて褒め言葉を連発したところで、それは本ブログの役目ではないのだから仕方ない。

多くの方が既に読まれているであろう本書だが、その気になったら意地の悪い2度読みしても楽しめるのだから、出番待ちの在庫本が尽きてきた方は、もう一度読まれてもよいだろう。