リュウセイグン

リュウセイグン

なんか色々趣味について書いています。

長文多し。

 
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「家族」とはなんだろう

そして

『家族物』とはなんだろう



細田守監督の最新作『おおかみこどもの雨と雪』を観て参りました。

結論から言うと



とても好きな作品



と言って良いと思います。

人物や風景の繊細な描写といい、それぞれのキャラクター性といい好感が持てました。


田舎の描写が気になる人もいるかと思いますが、実際田舎の人なんてのは妙に排他的な一方で、気安くなってしまうと親切なので、あの描写はそれほど間違っていないと思います。
シングルマザーだから変な噂もされるんでしょうけど、結構頑張ってるんだなぁと思われれば手伝ってくれる。良くも悪くもそんなもの。


個人的に好きなシークエンスは、幼い頃はおてんばな雪(野性)と内向的な雨(人間性)だったのが、雪の日から入学辺りの過程でどんどん入れ替わっていくところ。


学校に対する姿勢が、そのまま彼女らの狼に対する姿勢だと端的に表現した教室のシーンは本当に上手かったと思います。


そして暖色系の服を着ていた雪が、人間にシフトするごとに寒色系の服になっていくというのも暗喩的でした。パンフなどではモデルとしてアリスの衣装などを挙げていますが、本作では開放的な人間=暖色・内向的、自分を隠す人間=寒色というような表現をされているように思いました。

例えば花は殆どオレンジというかピンク色(車も赤)、お父さんは白と青、雨も青→白・青で殆ど同じです。
近所のオバチャンも赤系統。

雪は野性を出していた幼少期が赤~ピンクで、人間を意識するごとに青地に白→青となっていく。
草太は登場シーンから真っ赤な服を着ていて、殆どそれで通しますが、和解する際、雪に対して本心を隠蔽する時だけ緑がかった服を着ています。

彼女達の決断が分かれる、というのも子供を二人配置した設定によく合っています。
二人とも人間に落とし込んでしまっては、二人いる意味はあまり無い。
この設定でなければ出来ないことをやっているという意味でも、良かったと思います。

僕は以前『サマーウォーズ』 に対してかなり批判的な文章を書いたと思いますが、ここまでで分かる通り、『サマーウォーズ』よりも遙かに好感を持って最後の方まで観れた作品でした。










が、










正直に申し上げます。
終盤、スタッフロールが流れる段階に置いて僕は奇妙な感覚に襲われました。
観ていて厭な部分というのは殆ど無かったのに、なにかモヤモヤしてしまう
そんな感覚です。

ドラマとして綺麗すぎる、非現実的すぎるから?

惜しいような気もするけど違います。
僕はドラマは一種の理想論としても機能すると思っているので、何らかのドラマを体現する為には現実的に起こりえる制約をある程度無視するのはそこまで気になりません。
あるとすればある時には描くけれど、ある時には描かない、というような作り手側のダブルスタンダードが見え隠れするような事態です。

じゃあ、何が気になるのか。
スタッフロールを観ながら考えていて、気付きました。




この家族、まるで影響し合ってない





そんな筈は……と思って考えてみても、なかなかコレというシーンが出てきません。
もちろん、全く関わり合っていない訳ではないのです。

例えば母親は無意識的に雨を守ろう(束縛しよう)としていますし、雨はその母親に遠吠えで応えます。
また雨と雪は互いの意見を巡って噛み合いのケンカをします。



しかし



それが彼女らの人生の判断に於いて、どれくらいの影響があったというのでしょうか。

遡って考えてみましょう。
おおかみこどもの変化が訪れたのは積雪シーンの終盤、雨がヤマセミを襲うところです。
ここまでは彼ら家族は、性格こそ異なれどほぼ一体として描かれています。

ナレーションでも変化の旨が告げられますが、ヤマセミを捉える雨は野性に目覚めたのです。
そして次は雪が学校へ通うところ。
彼女は次第に周囲と自分の際に気付き、自分の野性を封印しようとし始めます。

ここで姉弟の野性は入れ替わる訳ですが、ここで彼女らに影響を与えているのは

雨に対する「自然」




雪に対する「学校の女の子」

です。
花は雪の野性封印を手伝いますが、決定は雪自身がしており、それを追認する形を取っています。

そして次に雨と「先生」について考えます。
花は雨を自然と触れ合わせますが、センターにいるシンリンオオカミは雨にもなんら応えません。
雨は自分で「先生」を見付けて師事し、野性をとぎすませます
花は「先生」にお礼をしますが、やはり追認です。


雪と草太との関わりも、草太が雪に過干渉をすることで雪の野性が喚起され、草太を傷付けてしまう。
流石に花は呼び出されますが、この直後に雪が花を詰ります。


おまじないが効かなかった


と。
本来、狼化を禁じていたのは花の方です。
従って、ここはむしろ花が雪を責めてもおかしくないシーン。
しかし雪が花に対して「封印が効かない」ことを怒り、花以上に野性、狼の部分を拒絶している様を描きます。ここでも花は「お父さんに聞けば良かった」と後悔するものの、子供の行為に対して何か特別な言及はしません

姉弟のケンカシーンもありました。
しかし思い返してみれば分かるように、


このケンカもまた姉弟に影響を及ぼしていない


それどころか、クライマックスに当たる嵐のシーンで、姉と弟は物理的接触すらしないままに物語は終わってしまうのです。


これは母である花も殆ど同じで、最後の最後まで姉弟と物理的接触をせず、雨に救われたかと思った直後、そのまま別れのシーンとなります。


一応解説しておくと、花は母性として雨を束縛しようとするシーンもあります。

「山に入っちゃダメ」というのと崖から転落して「私が守らなきゃ」というようなことを口にするシーンですね。

またそれに対する回答がお父さんの「雨はもう大人だ」と朝焼け遠吠えになるわけです。
ただ、これもよく考えると花の意向は雨の足を止めることは殆どないのです(雨戸を閉めるところで背中を見詰めるところが躊躇いに該当するくらいか)

そして花はここで何を問題にして何によって解放されたかと言えば「雨を独り立ちさせることの不安(裏返せば親離れの不安)」を問題にして「生き生きとした姿の雨」を見て解放されている。
恐らく、ここは雨個人の問題に帰属していると思うのです。何故なら雨の社会的な役割である「山の主の後継」という役割自体が描かれていないし、父親の助言も雨個人の話しに収束しているからです。
この雨の持つ社会性の描写の希薄さも、本作の家族としての影響を薄くしている一因だと思います。
あと、雨との離別も結局は追認と言えるでしょう。




前述の通り、姉弟がそれぞれの決断をしたことは設定を生かしたドラマという点でも意味のあることです。
しかし僕が不思議に思うのは


家族物なのに家族が影響し合っていない


という状況なのです。
もちろん現実にはそういう家族もいるでしょう。
しかしこれは家族をテーマに扱った物語です。



僕が思うに、これは家族物のようでいて共に暮らす三人の個人の物語です。
だから対立はすれど影響はない。彼女らの自我は根本的に独立したものだから。



この映画との対比だと

『メリダとおそろしの森』

『猿の惑星 創世記』

『八日目の蝉』

辺りが分かり易いのではないかと考えます。

同時期に公開された『メリダとおそろしの森』は、母子関係とアニマルトランスという要素で共通します。
メリダと母親である妃は、互いに自由と王女の立場で反目し合っていましたが妃の変貌により互いを理解した上で融和出来るような結論を出しています



人間社会の異物として「人間の家庭で育った賢い猿」を描いた『猿の惑星創世記』では、主人公の猿シーザーが人間社会から排斥されながらも家族だった人間に対する気持ちが捨てきれない様を描写し、最後は擬似的な親と「理解しながらも別れて生きる」選択をします。



浮気相手の女性に攫われた子供のその後を描いた『八日目の蝉』優しい育ての親たる浮気相手の女性と、誘拐によって家庭が崩壊し子供に対する思いが暴走する産み母親の影響を、主人公が呪いのように刷り込まれながら生きている様を描いています。


ちなみに『八日目の蝉』は角田光代の小説原作ですが、
脚本は『おおかみこどもの雨と雪』と同じ奥寺佐渡子です。


これらの作品は家族関係に問題を抱えながらも、家族が互いに影響し合って存在せざるを得ないことを描いています。


個人的には家族物というのは家族の影響や相互理解(或いは不理解)を描いてこそではないか、と思うのです。


翻っておおかみこどもを観るに、終盤では姉弟の対立、また雨を拘束しようとする母親の姿は描写されますが、それは殆ど彼女ら自身を束縛も影響もしていない
彼女達も成長はしていますが、それは

花→村落社会
雪→学校の女の子や草太
雨→先生


という外部の社会性との影響によるものであって、花たち家族自体の影響というのが非常に弱い。
つまりこれは如何に優れた作品だとしても、あくまで家族という名の下で暮らす個人の映画であり、家族を描いた作品にはあまり見えないのです。


僕の言うような話とは少し違う意味で言っていると思いますが、監督自身は公式ホームページのインタビュー でも

中心はお母さんになっていく女性の話だと思うのですが、娘、息子はそれぞれ独立した人物として尊重して描きたいと思っていたので、3人が主人公ともいえると思います】

と語っています


そういう意味では(僕の個人的な好悪は兎も角)部外者の立場から家族を見た『サマーウォーズ』の方が家族関係をまだ描けていたのではないでしょうか。

僕が思うに、細田守監督は根本的に


超個人主義者


なんじゃないかと思うのです。
如何に家族の重大さを把握しようとしても、根っこの部分で個人主義的な感性が強い為に、家族物のようでどこか寸断された物語を構築してしまうのでは……と考えます。


先に触れたサマウォでも、ラストの葬式シーンが一番引っ掛かりましたしね。
あの家のお婆ちゃんが偉いさんに電話を掛けて話し合えるというのと、家族で好きかってしたくても厳粛な葬儀で客人を迎え入れることは裏表の関係のはずだったのに、それをしなかった。


細田監督は家族や共同体が持つ拘束力や、必然的な影響力というのに、あまり重きを置いていないのではないでしょうか。そういう部分が、今回は核家族を主題にしたことで、顕著になってしまった感があります。


アニメーション映画としての出来映えと監督の手腕はこの上なく確かだと思う一方で、この方は今後も家族物を撮るべきなのだろうか……と悩んでしまう作品でした。




※ なんかサマウォ感想見返したら、結局共通するかもしれないような指摘が……や、でも今回は成長と成長過程は描かれていると思います。その成長を与えるのが家族ではない、というだけで。




ピクサーとしては並



今までのピクサーからすると、ちょっとダークな感じの設定。
ジブリで言うと「千と千尋の神隠し」的な(お母さんが獣に変身しちゃうしね)


しかし中身は良くも悪くも「並のピクサー」という感じでした。


話は良く出来てはいます。
CGはいつも通りの美しさだし、モルデューやら伝説の伏線の巧さは流石というところ。
また母子ものとしても押さえるところはキチンと押さえている。

この辺り、実力のあるスタジオのよく出来た作品、という感じです。

ただ、それ以上の何かが無いというか物足りないというか。

三つ子の変身はガジェットとしては面白いけど物語にはあまり意味を為さないし(彼らはそもそもプライドによってわかたれていない)鬼火もちょっと御都合設定良すぎるし、最後も予想通りで捻りがあまり無い。

あとお母さんとメリダの森の中に於ける交流シーンはもっと尺を取って描き込んで欲しかったなぁと。




終盤における大広間のシーンそのものは好きなんですよ。

親から皆の意識を逸らす為に体を張るメリダ、

メリダが言葉に詰まるのをジェスチャーで救おうとする母親、

そしてそこから導き出される新しい答え


状況的に言葉を交わしてはならない、
以心伝心によらなくては成立しない
だけに、彼女達の関係が変化したことを表現する素晴らしいシーンでした。



ただ、そこへ行くまでにはもっと色々お互いについて意見や知見を対比させなきゃならんと思うのですね。
鮭取りのような部分をもっと見せてくれれば、彼女達の変化をもっと感動的に観ることが出来たと思います。


以上、簡潔ながら本作の感想でした。








なーんかダラッとしてるんだよなぁ……



そんな訳で久しぶりに映画感想を書くのは『アメイジング・スパイダーマン』

僕は基本的にライミ三部作を観たのと、むかしTVでやってたのを小さい頃に観た程度の人ですが、書く際に当たってはそれなりに調べたりもしているので原作ネタバレ的な物も含むと思います。
そのあたりはご寛恕を。



まぁ、冒頭の一文で書いた通り、個人的にはあまり宜しいと思えない作品でした。




理由は色々あるのですが特にここではサム・ライミ版『スパイダーマン』三部作と対比して語ろうかと思います。

とは言ってもライミ版も全て手放しで称讃するつもりはなく、2・1・3の順で、しかもそれぞれの間にはかなり格差があると感じております。

で、今回のアメスパは端的に言ってしまうと


最新シリーズの1作目なのにライミの3作目くらいな印象でした。


映像技術という意味では3Dも比較的効果があるように使われていましたし、接近戦でのウェブシューターを連射しながら華麗に戦うスパイディは格好良かったと思います。

また、前作には存在しなかったウェブシューター製作過程や、コスチュームの発展過程も良かったんではないでしょうか。


恐らく物語終盤の展開も含めて『バットマン・ビギンズ』なんだろうなぁ……とは思いましたが、それも売れそうな路線に乗っかるという意味では間違いない。面白ければ良いんですから。


となると、やっぱり問題はお話な訳です。

前シリーズの3に比したのはそれなりの意味があって、


ピーターのDQN性が殆ど批判されないまま終わる


んですね。


ピーターが元々ナード系の男の子で、スパイダーマンの能力を手に入れることで調子に乗ってしまったり、逆に悩んでしまうのは原作からの伝統ではあるんでしょう。



けれども本作では



なんかコイツ普通に性格悪くない?



と思えてしまう事態が結構あるんですね。

例えばいじめっ子フラッシュとのバスケ戦。
や、これくらいはまぁ良いような気もするんです。
しかし、その後にビビッて日和っただけかもしれませんがいじめっ子フラッシュは案外良いヤツだというのが分かる。
けど、ピーターの対応が感情的だったり、リアクションが微妙だったりで、どうも微妙な距離感がある。

これはピーター側の壁にも思えるのですが、ややもすると親しげなフラッシュに対して、見下しているというか、無愛想なように見えてしまう


また、これは物語の根幹を為す部分として、ピーターの過失でベンおじさんが死んでしまうシーン。
まずベンおじさんに怒られて拗ねたピーターが家出をして、商店で買い物をするけどちょっと小銭が足りない。店員はピーターを除けて次の客へ。

ところがその客が強盗で、金を奪った後、ピーターに買えなかった商品を投げ渡す

店員は強盗を捕まえるように頼むけれど、ピーターはこれをスルー。
その先でおじさんが取り押さえようとして撃たれる……とまぁこんな流れ。

ですが、一つのポイントとしてピーターが商品を受け取ってしまっていること。
強盗を見過ごすのと、品物を共有するのとではかなり印象が違ってきます。



そしてもう一つのポイントは、強盗がすぐに捕まらずピーターは犯人探しをする為にチンピラへケンカを売り、顔を隠す為にマスクを被り始めるということ。



ライミ版のピーターは、自分が見逃したせいでおじさんが死んだと後悔します。
だから強盗が捕まろうが犯罪者と戦う訳で、つまり【贖罪】が大きなキーワードになってきます。
それは即ち【責任】【義務感】とかなり近しいものです。



しかしアメスパだと犯人探しがメインなので、恐らく動機は【復讐】です。
もちろん後悔もあるのでしょうが、二回程描かれるチンピラとの戦いではピーターの方が明らかに攻撃的に動いています

特に二回目はスパイダーマンのコスチュームやウェブシューターが実装されたこともあり、かなり相手を加虐的に痛めつけます。スパイダーマン自身が軽口を叩きながら犯罪者と戦う側面があるという事なので、ある意味原作には近いのかも知れません。


しかしこの行動は、あくまでも「ベンおじさんを殺した犯人探し」の一環なのです。
そんな中で軽口を叩きながら特に身体的に強力でない単なる車上荒らしを痛めつけるというのは、かなり印象が悪い。
で、警察にも睨まれてしまう。
この辺りはむしろ当然と言えるかも。




そんなスパイダーマン捜査の中心人物がステイシー警部。
今回のヒロイン、グウェン・ステイシーの父親です。

当然、警部としてはスパイダーマンの行為が気に喰わず、グウェンの招待で家に来たピーターと口論になります。スパイダーマンは無法者、警部の言葉はその通りなんです。

ところが、作品終盤でステイシー警部は「君は必要な存在だ」とスパイダーマンの存在を認めてしまう。
いやまぁ、ヴィランは強力ですからパワーとしては必要かもしれません。




でも、口論以後の過程で論義・変化の描写が全然無い



つまり【復讐】を動機として犯罪者をいたぶるスパイダーマン像が、宙に浮いたまま、警部に認められるような構造になってしまっているんですね。
復讐行為自体がこの中では完結していないので、まだ物語が成長とともに展開する可能性はありますけどね。
ただ、一つの映画として考えると、スパイダーマンのああいう行動に明確なアンチテーゼが示されないままに終わってしているので尻の座りが悪いのです。



また、今回のスパイダーマンはヒーローとしても何だか微妙な感じがあります。



マスクのアイディアが出てくるのは、犯人探しの過程で顔を覚えられてしまうリスクがあることに気付き、ちょうどその時落下したのがプロレスの施設だった
……という設定。



つまりコレ「逃げる為のマスク」なんです。
まぁそれ自体は現実的だし間違ってはいない。
けれど、リザード初登場の事件で、スパイダーマンは車を落下させない為に宙づりにして、中に取り残された子供を救おうとします。
とはいえ車を支えるので精一杯な彼は
「そのマスクを被ると勇気が出るんだ」
と言って子供を励まし、本人の力で登らせます。


えー……それ「顔を覚えられない」為のものだったよね?


や、でもスパイディ自身の中でそのマスクの意味合いが変わったのかもしれない……と思いきや、この「勇気が出るマスク」設定はその後には生かされません



というか、最終決戦の過程でスパイダーマンが「到底無理だとへこたれるけど、マスクとそれに対する自分自身の言葉を思い出して勇気を取り戻す」という如何にもあって然るべきシーンが存在しないのです。



一応、この橋のシーンって後半の伏線にはなっているんです。
ここで助けられた子供のオヤジが工事関係者で、知り合いに頼み込んで町中のクレーンを利用しスパイダーマンを移動させるという筋書き。
でもね、ここまででスパイダーマンが一般市民を直接助けてるのって橋の所くらいなんですよ(戦ってる時には原作者などに戦闘被害が及ばないようにはしている)

そりゃあオッサン自身が動くのは分かるけど、他の人が動くには

「あのスパイディの為ならエンヤコラ!」

的な動機が欲しいところです。
もちろん本作では犯人探しばっかりやってるから、その方向自体が難しいんですが。


で、最後の問題はやはり



警部の遺言を破っちゃったこと




コレに尽きます。
たぶん、ヒーロー物に関心が薄い人でも



ねーよwwwwwwww




と思われたのではないでしょうか。
警部が生きてるならコッソリとした恋愛でラブコメにも通じますが、死ぬ際に「アイツには近付くな」って言われたのに



守れない約束もあるよね(ドヤァ



ないわー。これはないわー。
もちろん、ある程度の背景はあるんでしょう。
今回のヒロインであるグウェンは、原作では悲劇に見舞われる設定になっております。
つまり約束破りの代償として次回での悲劇が見込めなくは無いのですが……

例えばですよ?


スパイダーマンがグウェンを守る為に敢えて約束を破ろうとするような物語が入っていれば、次回悲劇が生じたとしても「守りたい物を守れなかった」というピーターの苦悩に繋がる訳ですよ。
しかしですね、今回みたいに最後の方で約束をして、観客の体感として十分後くらいに



守れない約束もあるよね(ドヤァ



って言われちゃったら、続編の中でグウェン死んだところで彼女こそ可哀想にせよ、ピーターは



自業自得というか、単にダサイ人




じゃないですか。

今回の『アメイジング・スパイダーマン』には、妙な覚悟や見込みの甘さがあって、それに対するエクスキューズがなされないままに話が終わってしまった感があります。



聞いたところによると、マーク・ウェブ監督が続編製作から降りる というような話も出ているそうです。
売れてはいるようなので(ただ製作費から考えると芳しくなかったということらしい)厳しいと言えば厳しいですが、個人的には



まぁしょうがねぇかな



という感じです。


なんつーか、全体的にダラッとし過ぎている


もしこの作品が90~00年代や、サム・ライミ版の前段階として作られていたなら(映像技術という意味ではなく物語として)ば納得も出来ますが、ヒーロー物を大人向けにも作れるようになってきた昨今においては微妙すぎた作品だと思います。


こちらに応募しようとしたらテーマ被りで断念したけど、勿体無いから掲載。

http://t.co/iQN9Y3Xz

テーマ・水に顰むあやかし

「顰に倣う」

みつは、器量こそ良くなかったものの、気立てがよく明るい娘だった。

幼少より親しかった彦松と祝言を挙げると誰もが考えていたが、その直前に彦松が心変わりをしてしまった。

彦松は、村外れにある与裳川のふちに住む、さやに懸想してしまった。さやは病弱な娘で、村人もまず見たことがないという程に家から外に出なかったが、たまさか涼んでいるところを彦松が目の当たりにしてしまった。

全くといって良いほど日に当たっていない肌は山々に降り積もる雪を思わせ、長く濡れた黒髪は、夜の与裳川を、そのまま梳って纏めたかに見えた。

しかし何より彦松が心を奪われたのは、少しばかり眉を顰めたその表情だった。伏し目がちに痛みを堪えるかのようなその有り様は、ただでさえ消え入りそうなさやの儚げな美しさを、より際立たせるものだった。

以来、彦松はすっかりさやに執心し、一目その姿を見ようと毎日のように橋を渡り、さやの家の近くに赴くようになった。

一方みつは、それを知って鬱ぎ込むようになってしまい、明るい表情も消え失せ、次第に身体も窶れていった。

そんな矢先、みつは心を決めて橋のたもとで彦松を待った。

聞けば彦松は、眉を顰めるさやに惹かれたという。みつはそんな表情にはとんと縁が無かったけれど、或いはそういう顔を見せれば彦松が戻って来てくれるかもしれぬ。

夕暮れ時になり、彦松が来たところでみつはその前に立ち、思い切り眉を顰めた。

黄昏時の暗がりや、思い悩みやつれたその容姿と相待って、彦松にはみつがまるで鬼のように見えた。

彦松は驚いて与裳川に落ち、みつも後を追うように川へと入っていった。

村人達が川を探ると、彦松の遺体は河原にあったが、みつの遺体はついぞ見付けることが出来なかった。

それからというもの、夕暮れを過ぎると与裳川の橋の下に、苦悶の表情を浮かべた女が出ると噂になり、人々はその女を与裳川の橋姫と呼ぶようになったということだ。
映画系ブロガーからはあまり芳しい話を聞かない『ヒミズ』

けれど僕にとっては正直『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』よりも遙かに心を刺す作品となった。

従って、やはり僕がこの映画の良いところを言わずに何とする……と思ったのでやや時間は経っているが書こうと思う。

では本題に入る前に。
『ヒミズ』が映画ブロガーなどからあまり褒められないのもある意味では仕方ないかもしれない。

例えばそれは原作物という要素があったり、また茶沢さんの家族や夜野さんの強盗エピソードの結末が曖昧だったりする点から言えば仕方ないかもしれない。僕は映画を先に見て、直後に漫画を読んだから、映画が中心に捉えていることは否めない。原作ファンの方からすれば不服かもしれないな、とも思う。


それでも僕がこの映画に打たれたのは、恐らく僕が東北で大震災に遭遇した被災者であり、尚且つその被災地の映画館で観たことが大きいと思う。

基本的に自分のポジションで映画評を正当化するのはあまり良いことではないと考えるが、この映画に関してはそれがまさに中核にあり、実際に他者との評価の違いの理由がそこにあると思う。


更には、この映画自体の内容が、実際大震災によって大きく変えられている部分がある。故に僕はこの特殊な立場で『ヒミズ』を語る。


あと、この映画作品について二つ。
漫画の『ヒミズ』と映画の『ヒミズ』は展開こそ似てはいるが、根本的に全く異なる作品だ。
しかも、この映画版『ヒミズ』結果として青春や思春期といったものから結構乖離した映画となっている。



つまり、僕が語る「中核」は、この二点に関する物で、これを中心に漫画版と映画版の違いを語ることが即ち僕の観た『ヒミズ』に通じる。


2作品の決定的な違いは冒頭で既に現れている。
漫画版ヒミズの最初は学校の授業中、日本に於ける死者数を語る教師と、それに関して普通と特別を意識する住田君のシーンだ。
映画版では津波の廃墟で茶沢さんが佇み、詩を暗唱するシーンになっている。

漫画版では人間の事故などで死ぬ確率を「特別」の基準に持ってきているが、それが文字通りに成立しないのは既に明らかだろう。

実際に、それ以上の人が一気に死んだ事実を僕らはもう知っている

確率は所詮、確率でしかない。
本当は、特別も普通もない
あるのは現実だけだ。



漫画・特別←→普通


映画・特別・普通←→現実




これが『ヒミズ』という作品の、漫画と映画による違いだ。

漫画の住田君は「普通」というカテゴリに自分を置き、それでいいとしながらも実は「特別」に心惹かれている部分がある。それを示すのが漫画家青年との会話であり、怪物の存在でもある。


一方で、映画の住田君は大震災という通過儀礼で普通も特別も、等しく「幻想」でしかない事を既に悟っている。しかし彼自身「幻想」に縋りたいという部分を持っている。「幻想」と知りながらそこに留まる為の普通、なのである。


ヒミズ=モグラに喩えよう。

普通も特別も、共に地中(幻想)でしかない。
漫画の住田君は特別は地上のように考えているが、その後母親が消えたり父親を殺して「特別」に近付いたように、特別だからといって必ずしも陽は差さない。
だから幻想に拘る住田君は、陽を見ることがない

映画では、住田君は地中も地上も、大して変わらないと薄々勘付きつつも、敢えて地中に潜ろうとする
だから最後には茶沢さんに引っ張り出されてしまったのだ。



映画の住田君がやたらと叫ぶのは(もちろん園子温作品だからというのもあるが)、そして茶沢さんに抵抗するのは、「現実」に引っ張られないように抵抗する為である。一種の洗脳だ。
映画では「特別」ではなく、「現実」というそれより圧倒的に強力なものが見え隠れしているので、住田君は全力で抵抗しなければならないのだ。

漫画でも本来的に普通も特別も等しく幻想であり、住田君の自意識の為せるカテゴリ分けでしかない、というのを原作者は意識して描いているが、住田君はその中にいるのであまり幻想や自意識を客観視出来ない。
だからテンションも基本的に低い。


これは漫画に登場する「怪物」に関しても同じだ。
漫画の怪物とは何か。
それは住田君の中にある「特別」さであり、自意識の塊である。
だからヤクザに頬を切られ、スティグマ(聖痕)を受けた直後やラストの決断時に接近してくる。
怪物が住田君以外の人間に見えたシーンもある。
夜野君と一緒に強盗を働いたチンピラだ。
泥棒に失敗し、居直り強盗→殺人を犯してしまう彼の自意識は肥大化する。
その結果、住田君と同じ怪物が出現するのだ。
更に夜野君を口封じで殺そうとした瞬間、夜野君が怪物と化して見えてしまう。
ここからも、怪物が自意識の象徴であることが分かる。


映画では怪物は出現しない。出てくるのは津波で廃墟になった街である。
これは自意識ではない。現実であり、単なる現象でしかない。
誰の思い込みとか誰の考え違いとか、そういうものは全く関係なくただ起きて、ただ破壊する、そういう現象だ。そこに人為を求める事自体が不可能なのである。



そういうものだ




カート・ヴォネガットは『スローターハウス5』で繰り返しこのフレーズを用いた。
人が死ぬたびに、である。
人はそこに意味やドラマを見出しがちだが、実際には人が死ぬという現象があるだけ。



そういうものだ



そして、父親殺しにも漫画と映画の差が顕著に現れている。
漫画では、客観的に見る限り父親はそれほど異常な人物ではない
恐らく定職には就いてないし、借金をこしらえているのは間違いないから褒められた人物ではないが、かといって悪逆ではない。ただフラッと来てフラッと帰る。それだけの存在だ。


住田君は父親を諸悪の根源のように憎悪するが、その憎悪の核は読者に対して「600万円の借金」という深刻そうだけれども何とかなりそうなレベルのアイコンでしか示されない。
「ダメそうな父親」ではあるけれども「死ぬべきクズ」というほど酷くは見えない。
そう、「死ぬべきクズ」は住田君の内面に投影された「俺が普通になれない原因としての父親」でしかないのだ。
だから、アッサリ殺してしまう。

映画版では、父親のクズッぷりが克明に描かれる、暴力は日常茶飯事、金を勝手に持ち出し、さしたる罪悪感も自覚もなく住田君を根本から否定する。

ところが、その父親に対しても映画の住田君は殺すのを躊躇うのだ。

これは恐らく彼が「父親」という幻想に縋りたかったからだと思われる。
しかし現実の父親はそんな妥協を許さず、素面で住田君の「父親」に対する幻想を徹底的に破壊する。その結果、殺人が起きる。


ここから住田君の内面は「普通」ではなく「特別」を基準として行動するようになる。
町中を彷徨する住田君は両者に共通するが、絵の具を塗りたくるのは映画版だけの行為だ。
これには当然宗教的な要素が含まれているだろう。
映画は取り分け「幻想」に対峙する「現実」からの逃避であるので、こういう暗示的な要素が盛り込まれているのではないだろうか。


更に漫画と映画のスタンスはバス車内の通り魔エピソードでも明確に隔てられている。
漫画だとバス通り魔を刺し殺し、茶沢さんに喜び勇んで「特別」さを強調しながら報告し、それが夢であると悟る幻想だった)

映画ではバスの通り魔も路上通り魔と同じく殺せずに捕まる(現実を見せつけられる)
路上通り魔は、人を刺してはいなかった。しかしバス通り魔は既に人を刺した。にも関わらず住田君の制裁を人々は防ごうとする。
当たり前だ、現実とは「そういうもの」だからだ。



このような根本的な認識の違いが、要するにラストの違いとなって現れてくるのである。



もちろん古谷実自身は、住田君の普通も特別も思春期にありがちな自意識の為せる業であるとして描いている
だからこそ漫画家や怪物、そして特別になった夢が出てくる。

そして終盤で茶沢さんと将来を話し合った後に「特別も普通もない」と自分に言い聞かせる
しかし、漫画の住田君が戦っているのは自意識そのものであり、この言い聞かせも実感に基づいている訳ではない。住田君の頭で考えた「現実」は結局幻想に振り回されるしかなく、それで自ら命を絶つことになる。
怪物は言う。



「決まっているんだ」



実際は全く何も決まっていない、住田君の自意識が勝手に決めてしまったのである。
だから茶沢さんはそれを見て、「なにそれ」(コミックでは削除されてるんだけど)と嘆息する。



一方映画は、大震災によって「特別・普通」などいう幻想はとうに破壊され、それでも幻想に縋ろうとする住田君の物語だった。

故に、最後の最後で「幻想を諦めてしまう」のだ。

殺したって償えば死ぬことはない。
つまらない日常をつまらなく過ごす。
何も特別でもない、普通でもない。散文的な現実がそこにはある。

住田君の人生は、殆ど何も決まっていない

認めてしまえば、それだけの話である。



しかし同時に、それは無意味な物語の開始だ。
「普通」ではないからいつ死ぬかなんて分からないし、「特別」ではないから自分の存在に劇的な意味がある訳でもない


死ぬ時は死ぬし、生きる時は生きる


そういうものだ


ただ、その「現実」の悲しさは時として幻想を上回るものだ。
だから、誰かが居てくれることがありがたい。



住田ぁ、ガンバレ!



この言葉は大変に虚しい。空虚な応援だ。
それは茶沢さんや住田君が最初の方で先生に指摘したことでも分かる。


自分は世界にたった一つの花かもしれないが、その花が綺麗だったりいい匂いだったりするとは限らない。
「世界に一つだけの花」であること自体は、現実的に何の意味もないのだ。


けれど、叫んでくれる人がいる、走ってくれる人がいる。
それもまた確かなことである。



僕が観ていた映画館ですすり泣きが聞こえたのは、単に被災地の映像が出たからではない。単に「ガンバレ」と応援されたからではない。



あの言葉の虚しさを知っているからこそ、意味がないと知りつつ叫ばざるを得ない。
現実の無情さを悟っているからこそ、無駄だと知りつつ共に走らざるを得ない。
その、哀しくも現実的な人間の在り方に僕らは涙を流したのだ。



だからこれは原作のような思春期の自意識を描いた作品ではなく、冷徹な現実を受け入れ、自意識という幻想を諦めた少年の映画である。


それが故に。

僕らの……被災者達の心に刺さる映画になったのだ。

そして、僕の中での傑作映画にもなったのである。