三谷幸喜劇のにんげんたちはみんなすなおなところがいい。『鎌倉殿の13人』もどこかバタ臭いのはにんげんたちが、奥ゆかしくなく、みんなすなおだからだとおもう。すなおだからトラブルが起きて、みんながそれに対処しようとする。それがドラマになる。かんがえてみれば、『古畑任三郎』も、ひとがさいしゅうてきにすなおになる物語だったのではないか。三谷幸喜はすなおとはいったいなんだろうということをおしえてくれる。いきることのふしぎとしてとつぜんわたしにあらわれる、すなお。
小倉さんの俳句がとてもすきなんですが、ぼんやりがわたしを支配している、ってのがすごくいいなと思うんですよね。「手紙書く夕立が海からやって来る」。手紙をわたしは書いているんだけど、手紙に集中しないで、世界のほうにぼんやりしてしまう。だから夕立が海からやってきていることにきがついてしまう。てがみをかいているわたしに世界から雨。ぼんやりってひとつの世界へのちかづきかただとおもうんですよ。「道に迷って夏の湖に近づいて」。まようとちかづけるんですよ。アリスみたいだけど。そう。アリスなんですよ。





波磨茜也香さんの「A SOAKING GIRL」。穂村弘さんに「リボンってなんなんだろう女の子たちにときどきくっついている」という歌があるけれど、女の子の本体は女の子にあるんじゃなくてリボンにあるのかもしれないなあとおもうことがある。女の子たちはデイヴィ・ジョーンズみたいにほんとうのハートはリボンとしてすこし離れておいておく。ときどきリボンは女の子を置いて会いたいひとに会いにゆく。


佐藤みさ子さんと往復書簡をさせてもらったときに、川柳はなにを支えにしているんだろうという話になった。でも今思うのは、その問い自体が間違ってて、川柳はなんにも支えにしていない、毎日失い生まれる、未生としてのジャンルのよさがあるんじゃないか。私はいつもしっぱいしてしまう。いつも間違う


「たすけてくださいと自分を呼びにゆく/佐藤みさ子」昔はこの句をとてもネガティブに、絶望のぎりぎりの句、わたしがちぎれるような句として考えていたんだけれど、さいきんは、まったく逆の、ポジティブな句として、〈わたし〉が〈わたしたち〉を感覚し予感しているこれは希望の句なんじゃないかと思うようになった。たすけてくださいといえるいわれるわたしがいること。ゆけること。


放送大学・自然と身体の人類学。キリスト教やユダヤ教のさいしょにもう存在している主語的な神とはちがって、ギリシアの神々は、「これは神」「あれは神」と後付けされる述語的な神だという。これは現代川柳にちょっと似ていて、現代川柳も「これは×」「これは○」と述語的なところがある。述語としての現代川柳。「はじめにピザのサイズがあった/小池正博」



放送大学の「文化人類学・世俗と宗教」から。さいきんは悪魔祓いが携帯電話で行われている。「もしもし」とでるとそこにサタンがいて、「サタンですが」と出るので、「そこから去れ」とケイタイでいう。去ったあとすこし、「きみの夫にもよろしくね。ミサにはこない?」と去ったひとと会話したりもする。でんわなんで。



俳句は妖精的な形式だ、と上田さんが書いてる。わざわざ短く言葉を発する短詩ってふしぎだよなあと思っていたが、短詩という行為は妖精的な行為なんですよ、と言われたら、納得するかもしれない。「すみません。答えは妖精でした」と風と風の合間で言われた記憶。


好きなブローティガンのことばで、「どんな本を書いてるの?」「ひとこと、ひとこと、書いているんです。それだけです」ということばがあるけれど、上田さんのこのほんも、そういうほんだとおもう。ひとこと、ひとこと、の範囲でものごとをかんがえていく。それがときどき、ひとごとになって、愛や妖精ややさしさの話になる。そういうほんがこの星にあるということ。