三谷幸喜劇のにんげんたちはみんなすなおなところがいい。『鎌倉殿の13人』もどこかバタ臭いのはにんげんたちが、奥ゆかしくなく、みんなすなおだからだとおもう。すなおだからトラブルが起きて、みんながそれに対処しようとする。それがドラマになる。かんがえてみれば、『古畑任三郎』も、ひとがさいしゅうてきにすなおになる物語だったのではないか。三谷幸喜はすなおとはいったいなんだろうということをおしえてくれる。いきることのふしぎとしてとつぜんわたしにあらわれる、すなお。
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小倉さんの俳句がとてもすきなんですが、ぼんやりがわたしを支配している、ってのがすごくいいなと思うんですよね。「手紙書く夕立が海からやって来る」。手紙をわたしは書いているんだけど、手紙に集中しないで、世界のほうにぼんやりしてしまう。だから夕立が海からやってきていることにきがついてしまう。てがみをかいているわたしに世界から雨。ぼんやりってひとつの世界へのちかづきかただとおもうんですよ。「道に迷って夏の湖に近づいて」。まようとちかづけるんですよ。アリスみたいだけど。そう。アリスなんですよ。
佐藤みさ子さんと往復書簡をさせてもらったときに、川柳はなにを支えにしているんだろうという話になった。でも今思うのは、その問い自体が間違ってて、川柳はなんにも支えにしていない、毎日失い生まれる、未生としてのジャンルのよさがあるんじゃないか。私はいつもしっぱいしてしまう。いつも間違う
俳句は妖精的な形式だ、と上田さんが書いてる。わざわざ短く言葉を発する短詩ってふしぎだよなあと思っていたが、短詩という行為は妖精的な行為なんですよ、と言われたら、納得するかもしれない。「すみません。答えは妖精でした」と風と風の合間で言われた記憶。
好きなブローティガンのことばで、「どんな本を書いてるの?」「ひとこと、ひとこと、書いているんです。それだけです」ということばがあるけれど、上田さんのこのほんも、そういうほんだとおもう。ひとこと、ひとこと、の範囲でものごとをかんがえていく。それがときどき、ひとごとになって、愛や妖精ややさしさの話になる。そういうほんがこの星にあるということ。