むちゃくちゃ久しぶりの更新です。

ちょっと真面目な話を。

わたし、いくつか弁護士紹介サイトに登録させていただいていますが、そうしたところからのお電話で、よく「無料の電話相談が可能ですか?」とのご質問をいただきます。

すいません、ストレートなお答えとしては、「さすがにそれは正面から受け付けてません、、」となります。

弁護士は労働集約産業でございまして、勉強や実務経験にかける時間を投資しつつ、書類作成や交渉に時間を消費して仕事を行ってますので、時間こそが最も大事な資産であり収入の源泉なのでございます。
なおかつ、法律事務は資格者のみ取り扱い可能なため、一部作業的な側面は事務職に担当させることはできても、全事件について直接話し、直接書面を書き、銀行や市役所を回りと、大部分を弁護士自らが担うことになるため、現実に実務に時間を費やしております。

もともと一般論として法律相談の対価は比較的低額に設定されているのですが、聞いてしまうとかなり頭も時間も使ってしまうため当然シングルタスクでながらではできないため、お金にならない事件はやりたくないとか、タダの客には冷たくあたるとか、そういう非人間的な意味でなく、物理的にどうにもこうにもしんどいんです。家族との時間や睡眠時間を削って弁護士自身のQOLを落としてまで、さすがにそれは勘弁してください、ということになってしまうのです。無料相談ばかり乗っていて子どもの運動会にも行けないとかいうことになると、家族に、弁護士辞めろ!と、言われかねません。

というわけで、専ら時間を守るために無料相談はお受けしかねるのです。

そして、そういう返事をするときに電話をかけて来られる方の落胆と非難のニュアンスを受け取り、こちらもそれなりに凹んでいます。
できれば、どんな相談でも自分が役に立てるなら答えたいのです。
もともと、紛争にあっている方を助けたい、権利侵害をされてる方の力になりたい、という思いで弁護士を志した人が大半ですから、冷たくあしらって平気な人などいないと思うのです。そこんとこ、ご理解いただけると大変にありがたいです。

というわけで、正面から無料相談(法テラス利用による、依頼者は経済的負担なく、弁護士は法テラスから相談料の支払いが受けられるものは除きます)はお受けしていません。
でもって電話相談は、基本的にはお金のとりようかないので実質無料相談になりがちですので、初めての方のご相談はやはりお受けしかねるのです。

とはいえ、もともとの依頼者さんとか友人の紹介とか信頼関係や義理人情のある方のご相談、あまり有効な法的回答ができかねるような気の毒なご相談については、割と無料でお受けしています。前者については、継続的な関係に基づくサービスとか今までの関係への恩返しとか好意の発現であり、後者は士業としてのせめてもの気持ちの表れです。専ら人間的な面からの行動です。それゆえ、そうした人間的な部分が判明していない方にはおいそれと適用できない感情論なのでございます。

そして、こうした場合でも、相談者側から無料を持ち出されるものではなく、常に相談後に、こちらから、お金は要りませんよ、とお伝えすることになります。あくまでも特別な事情とこちらの気持ちからのことですので、その意味でも、初めから、無料ですよね?と言われると、そりゃあ、あんまり気持ちのよいものではありません。そこに、こちらへの気遣いや真摯さを感じない、という面もあります。

ただ、わたしもインターネットで集客をしている関係で、無料相談可、とか、電話相談可、とか表示しているため、誤解してかけてこられる方も一定数おられます。

それはこちらが不十分な情報提供をした結果かれしれませんし、せっかくわたしを検索してかけてくれたのだから、お応えすべきだろうという考えのもとに、「これもご縁なので、簡単な相談、一般的な回答で10分くらいで済むならお聞きしますよ」という方針をとっています。

これを公言してしまうと、ちょい聞きしたい方からの電話がかかりそうなのであんまり言うべきではないのかもしれませんが、まあ、ごまかすようなことでもないので書いておきます。

ということで、法律相談は基本有料なのですということをくどくどと言い訳まじりに申し上げました。願わくば、このブログを読んでからお電話いただきたいかな、、とか贅沢を申し上げて、筆を置かせていただきます。

では、また気が向いたら更新しますね。


お久しぶりです。

大変暑い日が続きますが、高校野球は毎日盛り上がっていますね。

先日、自分の高校時代のことを思い出すできごとがあり、心に留めておきたいこともありましたので、記しておこうと思います。

私は高校時代の3年間、バスケットボール部に所属していました。

顧問の先生は、バスケットがうまく、指導力や審判としての能力も高く、バスケットを高校生の人格形成の一つとして捉えておられ、他の教師からも信頼される人間的にも素敵な先生でしたので、(しかも、部員たちとバカな話も一緒にして大笑いしてくれたりするので)部員たちは皆親しみと信頼を寄せていました。

いい指導者と仲間に恵まれていたものの、私はもともと運動神経はよくなかったですし、当時練習はがんばったつもりですが、もっとうまくなるために努力していたかというとちょっと自信がない程度の取り組み方でしたので、正直技術的なところではあまり上手くはなりませんでした。

そんな私も、キャラクター的なところで、学校に対するオフィシャルな窓口としての「校内キャプテン」(他にゲームキャプテン、練習キャプテンという2つのキャプテンポストがありました。)に選ばれ、割合と顧問の先生からも信頼はあったかのかな、と思います。

先日、ひょんなことから10ウン年ぶり顧問の先生と飲む機会があり(59歳になられたのに溌剌として相変わらずかっこよかったです)、自分でも忘れかけていた当時のできごとに話が及びました。

私は、高校の最後の公式戦で、ベンチメンバーに選ばれたのですが(ベンチメンバーは部員の投票により選ばれます。校内キャプテンという立場もあって、気を遣って選出された面もあったのかなと思います。)、自分がベンチの1席を取ってもチーム全体のためにはあまり意味がないと思い、それだったら最後の大会だし自分は選手として入らずに試合ごとに交代で他の3年生をベンチに入れて欲しい(自分はアシスタントコーチか何かの枠でベンチに並んでいればいいからということで)と、顧問の先生に言いに行ったのです。

先生はえらく驚いておられたものの(私にはなぜそんなに驚いておられるのかすらピンときていなかったのですが)、私の希望をきいてくださいました。

実際、試合にまかり間違って出場してミスをして恥をかきたくないという弱気も数パーセントありましたし、どうやら、私のクラブ活動の捉え方として、単にバスケットが競技として好きということと、日々練習して皆でうまくなるプロセス、個人でなく仲間としかできないことを楽しむこと、仲間と切磋琢磨すること、いいプレイを見たり一緒に作ったりして盛り上がって楽しむこと、練習中声を出して盛り上げたり仲間に声をかけて励ましたり賞賛したりすること…に重きがあり、自分が試合に出るということをそんなに重視していなかったのかなと思います。

…ちょっと余計な私の回顧を挟んでしまいましたが、上記のようなエピソードについて先生が話をされ、今でも現役の教え子にこのことを話すんだと言っておられました。

先生曰く、クラブ活動は自分が試合に出たくてやっているのが普通と考えていたところ、当時私と話して「こんなことを考える生徒がいるんだ」と驚いたというのです。そして、何年かやっていると、ときどきお前のように指導者を学ばせてくれる生徒が出てくる、ということらしいのです。

当時の自分は大した考えもなくやったことで(むしろ消極的な行為だったかなと自分を責める気持ちも少しありました)、先生がそんな風に受け止めてくださっていたんだと知って感慨深く思っていたのですが、ポツリと「俺はお前を試合に使ってみたかってんけどな。その気持ちは酌んでくれへんかってんな。」とおっしゃいました。

私はそちらの言葉の方があまりにも意外すぎて嬉しかったのですが、自分の中でバランスを取ろうとして、
「いや、ぼく下手でしたし、なかなか出られへんし、出てたとしても…」
と返したところ、先生は
「お前うまかったよ。スペースついてのカットインとか、いい動きしてたやん。」
とおっしゃいました。

私が照れで逃げようとしたところに回り込んで言われたこの一言が本当に嬉しかったのです(その道の玄人から認められるのって本当にうれしいものです。)。

とともに、20年も前に指導した、とある生徒の練習での一コマを先生は本当によく観察しておられるなと感服したのです(実際、私はボールを持った状態から1対1で攻めるだけの力はなかったので、ボールを持っていないところでの動き、スペースを作る、スペースにカットインする、というプレイを自然と心がけていたし、他のプレイヤーのそうした動きに合わせるパスを狙っていたし、今でもそういう癖があるのです。自分でもきちんと意識できていなかったのでハッとしました。)。

先生とお話しさせていただくことで、自分の中で長年抱いていた「バスケットは所詮下手の横好き」という自分の思い込みが解放されていくのを感じ(技術はともかく、バスケットはうまい、と言われるだけのことはしてきたんだ、と。)、コーチングを勉強した身として、生徒からも学んだり、一人一人の部員の練習風景や取り組みをものすごく観察しているこの先生は「教育者としてコーチとして本当にすごい」とさらに尊敬いたしました。

そして、こんなすごい先生の指導を受けた自分は幸せ者だったと改めて思うとともに、今更、バスケットをもっとうまくなりたいと思い始めたり、バスケット指導の面(最近、娘のミニバスの練習を保護者として見に行っています。指導は期待されていませんが。)でも、もっと積極的にできることをしていきたいなと思った次第です。

高校時代の自分を肯定的に受け止められる機会となり、高校時代に顧問の先生と出会えたこと、今このタイミングで再会してお話しできたこと、コーチングを学び実践してきたこと、最近自分のあかんとこ含めて素直に受け止められるようになってきたこと、、等々全てがいい形でつながりました。

この一連の話を、私が受けているコーチングのコーチとのセッションで話したところ、先生の発言を引用する前に「その先生も辻村さんから学んだのですね」と、シンクロするようなフィードバックをくれて驚きましたし、コーチが「辻村さんって高校生のときからそういう人だったんですね。ものすごく辻村さんらしいエピソードと気づきですね。」と言って感動してくれました。

報われる準備が整うと、報われる瞬間というのは訪れるのかもしれません。

では。
タイトルは西岡恭蔵さんの名曲ですが、このブログの内容は「ぼく住む町」の話です。

さて、この週末、小4の娘の宿題につきあってインタビューを受けたのですが、

「わたしの町(地域)の好きなところは何ですか?」
「不満とかよくないなと思うところは?」

という二つの質問でした。
これを家の人にインタビューしてくる宿題というわけです。

なるほど小癪な質問をしてきますな。
地域愛がほんとにあるのか?と揺さぶりをかけてきよりますな。

でも、改めて問われると、好きなところは案外たくさん挙がります。

駅近い、公共機関がかたまってる、静か、緑がゆたか、PTAのお父さんたちいい人多い、子どもらもいい子多い、、等々。
ハード面だけでなくソフト面も充実してますね。

で、不満……と言われると、ネガティヴに考えがちな性格なのに、なかなか出ません。不満言いたい、不満言いたい、スマートな不満、娘が発表してビシっと決まる不満言いたい、、とはやる気持ちはあれどもなかなか出てきません。

結局、「行きたくなるようなお店が少ない」、、くらいしか浮かばず。

プリントにメモを取る娘が習ったはずの漢字をあまりに知らず、しかも、部首の名前とかヒントを出してもそれすらわからないことには不満を感じましたし、最終、辞書を持ってくるように言いましたがね…。
わからない情報をそのままにせず調べる術をきちんと身につけてもらわんと…。

さて、考えると住環境には満足しているようです。特にコミュニティに良い方が多いのはほんとにありがたいですね。

話変わって、今年は私はPTAのお役もないのでのほほんとしていますが、妻の方は何やら子ども会の役職が回ってきたようで、先日、地域のお偉方や教育委員会の方らとの懇親会のお誘いを受けて参加してきました。

妻はお酒が飲める質でもなく、知ってる人もおらず、行こうかどうか迷っていたようですが、私が何の気なしに

「知らん人ばっかりやから懇親会するんやろ?」

と言ったらしく(本人は眠たかったのか酔っていたのか、全く覚えておりません…)、どうやらそれが後押しになって参加したそうです。

実際行ってみると、地域で子どもたちのために活動してくださっている気さくな大先輩方にたくさん話しかけてもらい、よくぞ来てくれた!と喜んでももらえたようです。
また、挨拶の際、今日来たのは夫のこんな発言があったからですと披露した際には「旦那、偉い!」とお褒めいただいたそうです。圧倒的に妻が偉いのが我が家です。

妻がほめられ、私までほめられ、気分が良いのですが、やはり人の輪に飛び込んで行くことって大事ですね。いろいろ物騒なことはありますが、少なくともこういう局面では、世の中はそんなに危険ばかりのところではない、という気がします。

わが町がまた少し好きになったかもしれません。

因みに、今年は大阪弁護士会のブログのブロガーになりましたので、こういう日常的なことは書かないですけど、またそちらはそちらでよろしくお願いします。

では。

思いつきを書いておきます。

仕事で写真(デジカメデータ)を裁判所に証拠として提出する際、一般的には、

① A4用紙1枚につき2枚程度配置して印刷したうえで、
② 写真の右上方に「甲(乙)  号証」の赤色スタンプをついて、
③ 手書きで「甲(乙)号証の1」「甲(乙)号証の2」…と赤色サインペンで書き込んでいく

という作業が発生します。

しかも、最低でも裁判所提出用、相手方用、自分用、依頼者交付用の4つ作らないといけないので、愚直にやっていると大変な作業量になります。

デジカメデータであれば、Wordで作成する際に画像を文書内に並べてサイズを調整して、写真の右上方に「「甲(乙)● 号証の1」…とかテキストで打ってしまって、カラー印刷する、ということでだいぶ手作業は排除できますが、それでも写真の枚数がウン十枚となるといちいち大変です。

デジカメデータをまとめてドラッグ&ドロップしたら、差込印刷的にどんどん画像を挿入してサイズもいい塩梅で配置してくれるようなアプリとかマクロとかできたらいいなと思ってしまいました(画像はイメージです)。

写真の下に画像データに含まれる撮影日時とかも入られたらもっと役に立ちそうです。

すでにあったり、作ってみたよという情報があればお寄せくだされば幸いです。

4月になり少し経ちました。
今日の大阪は穏やかであたたかい日になっています。

さて、我が家では末の息子の新入学があり子どもたちが全員小学生となり、この4月は節目となりました。

一方、私の方はコーチ資格の更新時期となり、履修単位獲得のためにライフバランスのクラスに参加したり、自らコーチングを受けたり、弁護士業務以外のところでもバタバタしています。

なんとなくこの流れで、年明けに購入した文庫本、岸見一郎さんの「アドラー心理学実践入門」にようやく手をつけ、通勤時に読み始めたところ、非常に興味深い内容でグイグイと引き込まれてしまいました。

知り合いから「嫌われる勇気」という昨年話題になったアドラー心理学の本を勧められていたのに手をつけずにきたのですが、これはこちらも読まねばならないなと強く思っています。とりあえず夫婦で勉強しようと思い、妻用に購入しました。ちらっと見ましたが、冒頭から興味深い内容で、6年生になる長女にも読んで欲しいですね(少し難しいですが、なかなかの読書家ですから大丈夫でしょう。)。

まだまだ勉強不足ですが、特にアドラー心理学のいう「目的論」には、とてもインパクトがありました。
コーチングに心理学的裏付けを与えるような内容ではないか…という意味でも肚に落ちたのです。

すごく大雑把ですが、目的論は、原因論とは対局にある考え方で、人は何か原因や理由があってそれに基づく行動をとっているのではなく、何かしたいことしたくないことが先にあって行動を選んでおり、することやしないことを正当化するために理由を付けている、というような考え方です。

例えば、人は怒っているから大声を出すのではなく、大声を出して相手を従わせたいとか脅かしたいという目的ありきで、あくまでツールとして怒りという感情を利用しているというような話です。原因とか理由と言われるものは後付けだというのです。

この考え方はポジティブな目標に向けられた行動については割と理解しやすいと思います。

例えば、金メダルでも受験合格でもなんでもよいのですが、成し遂げたいゴールやビジョンがあり、これを達成するために練習や勉強などの行動を起こして行くことになります。
行動が実行に移せない場合、過程で原因(~のせいで)や理由(~だから)が出てくることはありますが、それもこれがあるからできないというところで終わりにはできないので(「じゃあ辞める?」と言うことになりますので、実現できないことになってしまいます)、次はそのような障害があるとしてどうクリアするかが課題になっていきます。あくまで目標を達成するためにはどうするか、どうしたいかをテーマにするとわけで、逆に言えばそれしか出てこないのです。

原因ありき理由ありきのスタンスは本質ではなくて、何をしたい、したくない、というところがやはり先にあって、その理由付けや正当化をしているだけ、という理解の仕方は、残酷であり厳しいのですが、行動を読み解く上で非常に明解で、かなり頭をすっきりさせてくれました。

そして、ここがありがたいのですが、目的論は厳しいだけでなくて、今を生きる希望も与えてくれるのです。
目的論は、過去や感情によって何も縛られることなく、目的に従って行動を選択できる、やっていないことでもそれはしたくないと決断している、という意味でストレートであり、自由なひろがりを感じさせるのです。

人間はいつにても選択ができるし、現に原因や感情や過去から離れて選択をしている、という感覚を持てることは、境遇や過去から自由になれる点で大きな意味があります。

という具合に、アドラー心理学の入口に立ちましたので、これをどんどん深めていき、自らの人格を高めて自分もご機嫌になり、紛争の渦中にある人にも何かしらの役立てたいなあ、と決意しております。