市民社会づくりの日々

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社会性の根源

久々の投稿です。

 

今話題になっているサイト記事があることを聞いて、それが賛同しかないものだったので、紹介しようと思いました。

 

 

 

 

こちらです。

 

このサイト、他もちょっと覗いてみると、とても幅広く公共性を意識した内容がたくさんあり、興味深いです。

 

このシンクロ感覚は何なのかな考えています。

 

おそらく、自分の望みや好みをベースとして、他者への想像もし続けるシンプルな視点なのかなと思ったり、幅広く多様な物事が限りある資源の中で共存していくために何が大切かということを突き詰めていく姿勢からなのか…

 

こういう発想や発信が増えていくといいなぁと思ったので、紹介してみました。

”ナラティブ(語り)の尊重”

数年前から「ナラティブ」という概念について検討しています。

 

連携しているサイトの「生きづLABO」で、所長代理のウ・サギがナラティブ講座をしているので、紹介しようと思います。

 

お勉強 | 生きづLABO (lifelink.or.jp)

 

そして、私からも過去に書いたものを紹介します。

 

最近、今やるべきことはひたすら「ナラティブルネッサンス」だとひそかに思っているところです。

 

ちなみに、この辺を専門的に勉強したい人は教育学のある種のバイブルである「被抑圧者の教育学」(byパウロ・フレイレ)という本を読むことをお勧めしますが、実際のところ自分も再度、この本はじっくり読みたい気持ちです。

 

次の勉強会はこの本かな?

 

 

講義初日

縁あって地元の福祉系の専門学校で非常勤講師をしています。

 

もともとは、ネットワークサロンを始めた頃(20年ぐらい前?)に声がかかり、数年間やっていて、その後、忙しくなったりして一度離れ、数年前から再度、頼まれて再開しました。

 

受け持っているのは、前期が「社会福祉概論」で後期が「子ども家庭福祉」です。

 

保育士さんを目指すコースの授業なので、子ども家庭福祉関係を中心に、福祉の基本的な考え方とごく初歩的な制度知識を伝えています。

 

自分の仕事の都合上、毎週決まった時間に授業に行くことが難しいため、再開する際には集中講義スタイルにしてもらい、土曜日に4講ぶっ通し+振り返りの1講×3セットと一気に進めていたのですが、昨年の春から長女が土曜日利用していた通所施設が人手不足のため土曜日営業がなくなり、それができなくなりました。

 

今年は2時間セットで月2回行くスタイルを採用してもらいました。

 

今日はその1回目で、20名の学生さんたちとともに過ごしてきました。

 

毎回、最初の講義はオリエンテーションとともに一人ひとりから自己紹介をインタビュー形式でしてもらいます。

 

テーマは「福祉とは何か?」で、福祉にまつわる何かを話してもらい、何でこの専門学校に進学してきたのかという動機も聞いていきました。

 

20人という人数がよかったのか、私自身も少し慣れてきたのか、一人ひとりの話がなかなか面白かったです。

 

また、福祉と言ったら何をイメージするかという問いに対しては多くの学生が「困っている人を助ける」とか「介護」などという一定方向の支援をイメージしていましたが、本来の福祉は「自立促進と相互支援」だということを繰り返し伝えて、感触もまずまずというところでした。

 

中でも一度就職したけどやっぱり違ったと思って学び直したり、職業訓練の枠を利用して、シングルマザーになったので資格を取って子どもを育てていくんだという社会人学生さんも複数いて頼もしかったです。

 

やっぱり、動機が大切です。

 

そういう意味では、私はこの動機がどこから来るのか、どうやって形成されるのかということにとても興味があります。

 

外的な因子で誰かに影響を受けて動機が育つこともありますし、自分の中から湧き上がってくることもあります。

 

また、人によって動機の成り立ちも異なりますし、構成も異なることもだんだんわかってきました。

 

実は人の動機の傾向を分析するチェックリストを作っていて、身内で研修活用したりしています。それがなかなか面白いので、機会があったらシステムを組んで多くの人たちに活用してもらえるようなものになると面白いなぁと思っています。

 

同じことを一生懸命やっていても、人それぞれなぜやるのか、何にやりがいを感じるのかはけっこう違うものです。

 

だから、深く考えずに「人を育てるにはほめること」という理論は好きではないのでした(私自身、ほめられるのが嫌い)。

 

人は想像以上に一人ひとり違うってことをもっと多くの人がわかって、認めあえるだけでずいぶんと世の中が生きやすいように思います。

 

参考までに過去に「ほめる」ことはブログに何度も書いているので、一つ紹介しておきます。

 

「ほめる」は定番土産だ | 市民社会づくりの日々 (ameblo.jp)

 

 

市民活動の原点に触れる

火曜日から2泊3日で豊富町に行ってきました。

 

豊富町は北海道のうんと北の方で、釧路からは車で(そもそも車でしか行けないけど)ノンストップで6時間半ほどかかります。

 

そのような遠く何で行ってきたかというと、地域づくりの実践をやっているNPOを見に行くためです。

 

昨年度末に縁があってとある助成金の審査と伴走支援に関わる機会があり、その助成金をもらうことになったNPOの担当になりました。

 

伴走支援の担当といっても、リモートで年何度か情報交換程度の想定ではありますが、初回にリモートで話してみると、私の中で「これは、現場に行かないとだめだ」という気持ちになり、行くことにしたのです。

 

というのも、リモートで話した感触が自分が20数年前に親の会からNPOを立ち上げたころにとても似ていて、その感触をリアルに確かめたいと思ったところがあります。

 

今回手伝うことになった助成金は私が市民活動を始めるきっかけをくれたNPOの恩師みたいな存在の方の遺志を引き継いで創設されたもので、市民活動の原点を思い出しながら関わっていたのですが、その原点をさらに感じさせるものでした。

 

25年前に障がいをもつ長女の子育てから出会った親の会活動をきっかけに、それまで社会との接点もなく子育て生活にいわば閉じ込められていた状況から、ちょっと社会に触れたのが市民活動でした。

 

自分が生活する中で感じた疑問や何とかしたいと思ったこと、そして自分だけではなく、周りの人たちとのつながりや共通点を見出して、できることを一緒に考えていった手応えから少しずつ自分の世界が広がっていきました。

 

そして、社会的な立場や取り組んでいる事業の規模やネットワークは時を経てずいぶんと大きくなってしまっていますが、気持ちとか感覚は25年前とちっとも変っていないなぁとしみじみ思います。

 

そして、今回豊富町に行って自分の暮らしの課題や疑問をきっかけにいろいろな人とつながり、広がった地域づくりの活動を見に行って感じてみて、改めて、「これこれ、こんな感じだわ」と思いました。

 

つまり、今も全然変わっていないのです。

 

前もって、私が10数年前に書いた本を送って、よかった読んでみてくださいと伝えてあったのですが、「すごい、考え方が似ていてびっくりしました」と言われて、現場を感じながら私も納得していました。

 

最初、25年の隔たりはどういうことなのかな?と考えましたが、よく考えてみると、市民活動は時代も関係ないのかもしれないと思いました。

 

さすがに戦前までさかのぼって、社会の仕組みや文化が大幅に違うと話は違うと思いますが、25年の隔たりも、地域の違いも関係なく、普遍的なのが市民活動なのかもしれません。

 

とはいえ、私が市民活動を始めた頃に身近な生活課題だった障がいを持つ子どもの子育ての大変さは私の身近なところでは障害福祉サービスの急激な普及に伴って、商売になってしまい、市民活動の枠から出てしまったと感じます。

 

その点、豊富町では小さな町で今も福祉サービスがほとんどないからこそ、私たちが社会資源のない時に感じていた暮らしのニーズが素直に出てくるのでしょう。

 

でも、何もないのは困るからやっぱりどうやって福祉サービスを実現させるのかとか、事業の持続可能のために制度活用をどうしようか考えていくわけですが、そうなると市民活動とか暮らしのニーズから離れてしまい、手応えのないところに行ってしまいます。

 

これはもう永遠のテーマです。

 

子育ても介護も家族(特に特定の家族)が丸抱えしなくていいように社会のサポートは必要なのですが、それが必要以上に商売になってしまうことも何だか違う気がしています。

 

それこそ、25年もそんなことに向き合ってきたのですから、そこから得た知恵や課題意識から何か見つけたっていいだろうと自分で自分を突っ込みたくなりますが、見つけては試行錯誤を繰り返し、その試行錯誤は商売にはならないので、持続可能が難しいというジレンマといつも戦っています。

 

うーん、やっぱり、社会の生活保障の仕組みが抜本的に変わらないとこのジレンマは続くような気がしてなりません。

 

すぐに変わるわけもないので、できることをやっていくしない…と元に戻っていくのでした。

 

今回の旅は、若者支援の活動をやっている仲間と長女も一緒に行きましたが、思いのほか、宿泊したコテージが車いすでも使いやすくて快適でした。

 

久しぶりの来るまでの遠出でしたが、長女も終始機嫌がよく、運転も仲間がやってくれたので、私も負担なく楽しめました。

 

実質介護をしながらの遠出でしたが、普段よりも格段にパソコンに向かう時間も少なくて済んだし、道の駅に寄りながら、ちょっとした地元の名産も買いながらの道中で少しリフレッシュになりました。

 

ブログをリニューアルして、久しぶりに道中記を書いたのですが、まだペースが戻らず、短いのに時間がかかり、なおかつ何を書きたいか自分でもわからないまま終わりそうです…苦笑

 

少しずつ慣れて、自分のペースを取り戻したいと思います。

こっそりリニューアル

ネットの居場所ポータルサイト死にトリのリニューアルに伴い、ブログもリニューアルしました。

長年「新サロン日記」として毎日続けて書いていたものを一区切りをつけてお休みしたのち、死にトリのスタートにより再開していましたが、なかなか進まずいました。

 

というのも、死にトリがとてもたくさんの人たちが来るサイトになってしまい、死にトリの趣旨を考えると「こんなこと書いてもいいのかとか、これは大丈夫か」などと迷い、あまり自由に書けなくなってしまったからです。(自分の中の勝手な気持ちの問題です)

 

続けて書くのはしんどいし、でも、書く必要性は感じていて、書きたい気持ちもあります。

 

その結果、もう少し自由に肩の力の抜いて書けるように初心に戻ってました。

 

ブログの名称も迷いに迷って、数年前に自分だけのために作った会社の名前からとりました。

 

多分、今求められているのは、一人ひとりが社会の担い手(つまり市民)となり、一人ひとりが役割をもって参加して社会が成り立つこと。

 

それは言い方を変えると「自分になること」

 

でも、現実は私たちは普通に暮らしていると市民でもなく、自分でもなく、消費者であり商品になってしまいます。

 

そして、消費者や商品になることに喜びを感じてしまったり、価値を感じてしまうようになってしまいました。

 

それは、ある意味社会のバグだと私は理解しています。

 

そして、市民になるなんて言っても、理解されにくいし、イメージもされにくいし、変に意識が高いとか、何だかすごく努力や意識をしなければならないように思えてしまいます。(実際に頑張らないと市民になれなかったり、自分になるのがとても大変だったりします)

 

必要なのは、学ぶこと、関わること、知ること…ととても単純なことなのに、それが自然にできない。

 

人の努力不足や能力不足の問題ではなく、社会の構造的な課題が深刻化して、その構造に私たちは慣れ過ぎてしまい、知らないうちにじわじわと「人としての暮らし」に大切なものを手放しているような気がします。

 

やっぱり、社会がバグを起こしているのです。

 

それを教えてくれているのが、市民活動に取り組むきっかけになった重度の障がいがある長女の存在であり、そこからたくさん出会っていった(今も出会い続けている)今の社会の構造によって不当に権利を奪われたり、脅かされている人たちの存在です。

 

たくさんの出会いの中で、私は自分になり、市民になっていきました。

 

だから、これからもいろいろな人たちとバグに気づいて、少しずつ人になって、市民になって、社会をつくる、そのために何ができるか考えて、地味だけれど、できることからコツコツとやり続けたいと思っています。

 

そんなことをいつも考えています。

 

(社会のバグって表現を見つけて、一人嬉しくなっているリニューアルの日でした)

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