中島みゆき(記者)です。

中島みゆき(記者)です。

環境、エネルギー、メディア、建築、アート

Amebaでブログを始めよう!
二川幸夫さんの訃報が伝えられた日、汐留ミュージアムで「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」を見た。「一九五五年、日本には美しい民家があった。」というサブタイトルどおり、潔く美しい被写体と、それらと向き合う若い建築写真家の視点、視線に圧倒された。

展示は、『日本の民家』当初の編集に基づき、「京・山城」から「大和・河内」「山陽路」「四国路」「西海路」「陸羽・岩代」「武蔵・両毛」「信州・甲州」「高山・白川」と廻る。72点の作品一つ一つに微妙な角度がつけられ、見る者は一枚一枚の作品と対峙し、繊細な素材の組み合わせによる構成美を読み取るとともに、建物や景色を育んだ自然や歴史、時の流れに思いを馳せる。中島みゆき(記者)です。

不思議な統一感をもってひしめき合う京町屋、台風と季節風に耐えるよう練り漆喰の上に瓦を乗せ、さらに目地を塗り込めた宇和島の漁村、養蚕によって豊かになり屋根裏や「せがい」が発達した群馬の家、名工・西田伊三郎が手がけた柱や梁組が美しい高山の吉島休兵衛家……。全作品中で人が写っているのは1枚だけだが、どの写真からも、そこに生きた人々の息づかいや姿を感じる。

『日本の民家』撮影の旅は、二川さんが建築家を志し早稲田大学で学んでいた夏休み、教授のすすめで飛騨高山を訪ねるところから始まった。「人間生活とともに長い歴史を生きつづけてきた民家のガンバリと力強さ、私は民家のなかに民衆の動きと知恵の蓄積を発見し、この現在に生きつづけているすばらしい過去の遺産を、自分の手で記録しようと思いたった」と、二川さんは記している。

展覧会タイトルに刻まれた「1955」という年は、戦後日本にとって大きな転機となった年でもある。この年5月、三木武夫と大野伴睦がアラビア石油創始者、山下太郎宅で会談。政局安定を望む財界の意を受ける形で11月に保守合同が実現する。立川基地拡張に反対する砂川闘争が始まった年でもある。以来、東西冷戦を背景に自民党政権の下、日本は米国の傘下に入ることによって「富国強兵」ならぬ「富国」に邁進していく。農漁村から都市へと人は移り、都市部の住宅は次第に画一的な工業製品へと変化していった。

中島みゆき(記者)です。

震災後、私は東北を頻繁に歩くようになった。その先で時折、ただならぬ風情をたたえた古民家に出会うことがある。被災地で立派な民家が取り壊される光景を目にすることもある。その度、胸を切り裂かれるような悲しみを感じる。二川さんの写真を見て、それはそこに生きた人の痕跡の蓄積が失われていく痛みなのだと気付いた。せめて、新しく建つ家は土地の記憶を受け継ぐ意匠をもっていてほしい。張りぼての大都市郊外のような、すでに行きづまりが露呈した「富国」政策の抜け殻のような町だけは、造ってほしくない。

1959年11月3日、二川さんの毎日出版文化賞受賞を伝える記事の隣には、奇しくも国民皆保険が間もなく達成されることを伝える記事が載っていた。TPP参加で変わりつつある日本。その行方を二川さんは空からどう見るのだろう。

悩んだ末、今年は3月11日に被災地へ行かなかった。昨年は、この日を超えれば状況はよい方に向かうという楽観がどこかにあった。けれど2年の歳月は悲しみをより深くしたのではないか、という思いがある。仕事なら話は別だが、この日、多くの人の胸に押し返してくる悲しみを「わかります」などとは口が裂けても言えない。頻繁に通ってはいても、呼ばれない法事に割り込むようないたたまれなさが、現地への足を鈍らせた。

そんなわけで11日は仙台で1泊。12日早朝、石巻の長面浦を訪ねた。静かな静かな朝。大川小学校のわきから県道工事が始まった未舗装の道を土ぼこりをまきあげるダンプや工事車両の間を縫って約10分、神社のほかは何もなくなってしまった長面地区を抜けて橋を渡り、尾崎に着いた。中島みゆき(記者)です。-長面に続く道。両脇は家屋や田畑があった

青い鏡面のような水面に小舟が数隻。波の穏やかな長面浦では自宅前に船をつなぎ、漁に出る。「のんびり村」の坂下健さんは刺し網漁から戻って船の手入れを、津波に流され九死に一生を得た小川滋夫さんは跡取り息子の英樹さんらと牡蛎の種付け作業に追われていた。東北工大チームと合流し、小川さんと4月初旬に予定されている4回目の「長面浦の漁業と復興を考える会」について打ち合わせ。これまでに出た意見を振り返り、次回までに確認すべきことなど宿題を明確にしていく。現在、最大の問題は「水」と「防潮堤」だ。中島みゆき(記者)です。-牡蛎の種付け作業をする小川英樹さん(中央)

長面・尾崎地域には震災から2年経った今も電気と水が復旧していない。長面浦では被災後も十数件の漁師が刺し網漁や牡蛎養殖を続けている。冷蔵庫などに必要な電気はソーラーで、漁具の手入れや牡蛎の処理は、井戸水や給水タンクで支給される水で何とかやりくりしている。電気については、県道工事が完成すれば電柱が立ち復旧する予定になっているが、水は水道管が通っていた場所の排水が進まないなどの理由で、復旧のめどが立っていない。

水産加工にも、漁師たちが「日本一」と誇る牡蛎を直売するにも、水はまず必要なものだ。市は一般的な上水道を引くことを想定しているが、両地区合わせて150世帯以上が暮らしていた被災前と比べ人口が大幅に減った今となっては、小規模でよいので1日も早く水道を復旧してほしいと漁師たちは切望している。井戸、山水の採取…などなど、具体的にどんな策があるかを話し合った。中島みゆき(記者)です。-長面浦の自然と漁業について語る小川滋夫さん

防潮堤については「記者の目」や慶応新聞研OBサイトなどにも書いたが、この地域でも宮城県が決めた基準高8.4mの防潮堤が計画されている。周辺一帯が災害危険地域に指定され住むことができない場所に、だ。しかも尾崎側は背後にすぐ山が迫っているため法面をとるため海を埋める案まで出ている。2月25日に開かれた「復興を考える会」でも、漁師たちと市担当者の間で激しいやりとりがあった。

この地域では、北上川河岸は国交省、太平洋に面した通称「横須賀海岸」は宮城県、長面・尾崎両集落にかかる内湾部分は石巻市と、3つの行政主体が防潮堤整備を進めている。市は防潮堤の高さは地域一帯そろえる必要があるため変えられないと説明している。これに対して漁師たちは、外海に面する横須賀海岸については高い堤防を希望しているが、内湾部については「要らない」と主張する。堤防を造るより避難路を整備する方が現実的だし、住民は集団移転地などに転出するので「守るべきものがない」というのが理由だ。

特に議論が白熱したのが、湾口部の扱いだ。長面浦は周囲約8Kmの海跡湖。幅50mほどの水路1.7Kmによって外海とつながっている。湾口にかかる橋の下を出入りする潮の流れの微妙なバランスが、この海に恵みをもたらしている。プクプクとした牡蛎が7カ月で育つのも、味がよいと市場で2割高く売れるヒラメが獲れるのも、山から流れ込む豊富な沢水と、三陸の海の水が絶妙に混じり合う汽水域だからだ。小川さんは「外海から100入った水が100出ていかなくてはいけない。防潮堤で湾口が狭まれば、海が窒息してしまう」と主張する。中島みゆき(記者)です。-長面浦湾口にかかる橋

尾崎側に高さ8.4mの堤防を造るには、湾口部は山と海の間が狭いため海を約30m幅埋めなくてはならない。市は「その分(対岸の)長面側を30m削る」と説明するが、漁師らは「今、最高によい状態になっている潮の流れが変わってしまう」と心配する。「それほどまでにして何を守るというのか」という質問に市は「国土保全」と説明するが、長面浦は縄文時代から人が住み、手入れをすることで美しく豊かな漁場として保たれてきた歴史がある。明治以降は食糧増産のため度々埋め立ての危機に瀕したが、そのたび漁師らが守ってきた海だという自負もある。

かつて湾の畔には「海洋ハ万物ノ宝庫ナリ」と彫られた板碑が建っていた。震災で流失してしまったが、その精神は漁師に受け継がれている。長面浦は穏やかな内海であることや漁師らの自然への関心の高さから、被災前は漁や牡蛎養殖の体験学習も行われていた。昨年夏にも野口健さんの「自然学校」が開かれた。これからも、そうした取り組みを通して、「日本一の牡蛎」ファンや定年退職後に漁師になりたい人の心をつかんでいきたいと考えている。$中島みゆき(記者)です。-被災前の長面浦(2004年3月)                            被災前の長面浦(2004年3月)

「100年に1度の津波から生命財産を守る」というのが防潮堤設置の大義名分だが、残り99年と364日の暮らしが成り立たなければ意味がない。「ここは神様が気まぐれで造ったような海」と小川さんは言う。被災前はスレート葺き屋根の立派な民家が並び、半農半漁の美しい日本の風景が魅力だった。インフラ復旧や学校再開の見通しがつかない中、両集落の人は内陸への集団移転を決めた。尾崎ではせっかく津波に耐えた古民家が次々と取り壊されている。

漁港集約と集団移転という机上のプランで復興行政を進める宮城県。背景には「食糧基地構想」やTPP参加への思惑があるように思えて仕方ない。多くの小さな浜の不幸と苦悩がそこから始まっている。一方、漁師たちは今日も筏を造り牡蛎の種付けに励んでいる。次のシーズンには念願の牡蛎むき場が復旧する。3年目の3.11は、明るい未来を彼らと共有できますようにと、祈るような気持ちで石巻を後にした。

1年半、ブログを放置していました。このころから休みごとに被災地を歩き、気がつけば今日になっていました。FBには時々、写真などアップしてきたのですが、最近「今からでも東北に行きたい」「何か、まとめられたものはありますか?」と聞かれることが多くなりました。私自身も、自分の見たことや聞いたことを知っていただきご意見やご指導などもいただければと思い、また今日から少しずつ更新していきたいと思います。

震災直後、私は何もできずにいました。仕事や私事で忙しかったこともありますが、あまりにも大きな現実に対して自分に何ができるか即座に思いつかなかったというのが正直なところです。医師や看護師のように被災地に即役立つ仕事ができたらどんなによかっただろうと、自分の無力を呪いつつ。

2011年8月、初めて気仙沼を訪ねました。海岸を呆然と歩き、この現実の中にきちんと身を置かなければ社会と自分との関係がうまく結べないように思いました。そんな時、坂茂さんが女川に建てる仮設住宅の内装ボランティアを募集していることを知り、応募しました。避難所にもなっていた女川第一小学校の教室に寝泊まりし、津波の痕跡も痛々しい港を通って何日も現場に通いました。若い建築家や建築学生、さまざまな仕事をもつボランティアの方たちと棚を作ったり設置したりする作業を通して、人が住むために何が必要か、復興とは何かといったことを日々考えていました。
中島みゆき(記者)です。-2012年3月、女川町の野球場仮設で

女川の仮設住宅は11月に完成しました。3月にはボランティアの学生たちと女川町内の仮設をまわり「住み心地調査」などもしました。そんな中、だんだんわかってきたことがあります。自分は人の話を聞くことについてはプロなのだと。とにかくたくさんの人の話を聴きました。さえぎらず時間を惜しまず、話したいことをとにかく「聴く」ことだけ考えました。取材とはまったく別の聴き方です。記者としては失格なのかもしれませんが、被災地の現実の前では、自分が何を表現するかとか、世に何を投げかけるかとか、そうしたことより、もっと大切なことがあるように思えたのです。

私は今、石巻市の長面浦で漁師さんたちが復興計画をつくるお手伝いをしています。大川小学校の下流、まだ電気も水道も復旧していない地域です。この地域の大きな悲しみに押しつぶされそうになりながら、ひたすら話を聴いているうち、やはり地域の再建を住民が主役となって考えることが必要なのではないかと、話し合いの場をつくる働きかけをしてきました。12月に第1回の会合を開き、これまでに3回、次第に参加者も増え、議論も活発になってきています。明日も早朝から若手漁師さんとの打ち合わせがあり、今夜仙台へ向います。
中島みゆき(記者)です。-2013年2月、長面浦(尾崎地区)で

これが記者の仕事かといえば、異論はたくさんあるでしょう。ただ「人の話を聴く」「行政の仕組みがわかる」「いろいろな人を知っている」という記者としての職能を活かして、何かできればと思います。でも、それは貢献とかそういうことではなく、それによって私も力づけられているのです。

震災の少し前、私はそれまで積み上げてきた仕事を、事実とまったく異なることを理由に突然奪われました。当時の私は仕事が自分の中の10割以上を占めていましたので、しばらくの間は原因不明の動悸に悩まされたり、いろいろなものが思い出せなくなる症状が出たりしました。でも、そうした経験があったから、被災された方の言葉をきちんと受け止められたのだと思います。心を開いて話していただけることは、何より私自身が勇気づけられることでした。

中島みゆきさんの「倒木の敗者復活戦」ではありませんが、打ちのめされ、踏み倒され、踏みにじられ、それでも人は生きていくもの。震災2年を迎え、私自身も傷から芽を出すべき時だと思っています。東北の復活、長い道のりかもしれませんが、できる限り報告していきたいと考えています。