最近、なぜだか小林一茶に惹かれる。
老が身の値ぶみをさるるけさの春
「値踏みをする」は「値段を見積もる」という意味。
老人である一茶に対して、世間の目はあたかも商品の値段を付けるかのようであるというのだ。
一人住まいの貧しい老人である自分は価値のない存在としてみられている…。一茶は、そんな世間の冷酷な視線ですら面白がり俳句にしてしまう。
『楽しい孤独』という本を見つけた。
この本は、一茶の生涯をたどり、彼が遺した俳句を味わいながら、つらいことばかりが多い人生と折り合いをつけながら、それを楽しみに変えて、世間という荒波の中を泳いでいく術が書かれている。
一茶は、いつも孤独だった。
3歳で母を失い、継母とそりが合わず、あげく15歳で生家を追われ、信州柏原から江戸に奉公に出された。
根なし草のような生活を送っていた一茶は、52歳にして、ようやく妻子と暮らすことになった。
しかし、その幸せもつかのま、妻子と死別し、再び孤独になる。
これでもかこれでもかと、艱難辛苦に見舞われる。
めでたさもちう位なりおらが春
ともかくもあなた任せのとしの暮
一茶は、二万句に及ぶ俳句のほとんどを「諧謔」で表現した。
わが身に湧き上がる我欲、怒り、妄執を句作で鎮めた。
ある意味、俳句で憂さを晴らしたのかもしれない。
正岡子規は、一茶の俳句の特徴を「滑稽、風刺、慈愛の三点にあり」と評している。
草の戸やどの穴からも春の来る
梅が香やどなたが来ても欠茶碗
貧乏暮らしそのものも、どこか楽しんでいる風情だ。
一茶は、こういう文章を残している。
「わざくれの事も好ましからず。このままの自然(じねん)に遊ぶこそ尊かるべけれ」
わざとらしさは気にいらない。「あるがまま」に遊ぶことこそ尊いのだ。
これが一茶の生涯を貫いた生き方なのだろう。
かくれ家や歯のない口で福は内
49歳ですべての歯を失った一茶だが、肉体の衰えを自虐的な笑いに変えている。衰えた自分も認めている。
ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び
58歳で中風に罹るが、奇跡的に回復。「生きているだけで丸儲け」と苦境にもめげない。
死下手とそしらば謗れ夕炬燵
死に損ないと揶揄されても聞こえないふりをするしたたかさも持ち合わせている。誰になんと言われようと、どんなにぶざまであろうと、与えられた命を全うする。それが一茶の美学だった。
春立つや愚の上に又愚にかへる
愚に徹して生きようという、一茶61歳の句である。最期の一瞬まで、煩悩に囚われている愚かな人間の生を懸命に生き抜こうとした。
一茶は辞世の句を遺さなかった。事前に辞世の句を拵えて人生を飾り立てるような「わざくれ」をよしとしなかった。
一茶は今わの際に「南無阿弥陀仏」と一声発したと伝わる。