さるさる日記
さっき又聞きで聞いたんですが、さるさる日記が6月30日をもって閉鎖されるとのことです。日記とかすべて削除されるそうです。
別にさるさる日記に何の恩も仇もないのですが、「ネットにアップした日記は未来永劫残るから末代までの恥」みたいな笑い話を昔よくしてたのにそれがいざこうやって末代どころか自分の目が黒いうちに削除されるんだから、ほっとした一方で結局なんにも残らないんだという寂しい思いがあります。
僕が書いてたさるさる日記「Not Found」が何の挨拶もなくある日急に始まってるのは、それ以前に書いていた日記がすべて削除されたからです。削除されたのはその当時さるさる日記で一番人気のあった、凛という女が書いてた「叶わぬ恋」とかいう間抜けな恋愛日記みたいのに対して毎日誹謗中傷し続けたからです。朝から晩まで、寝ても覚めても、誹謗中傷してました。さるさる日記の管理人から直接メールがきて「内容が酷い」「凛さんが怯えている」という理由で僕の日記はアカウントごと削除されました。
その頃はなんでそこまで怒ってたんだろうってぐらいにその凛という女の自分に酔った恋愛日記が許せませんでした。その怒りだけを原動力に毎日生きてました。
今となっては凛という女の日記も僕の日記もこうやって無くなってしまい、お互いに末代まで恥をかかずに済んで良かったのかもしれません。
皆さんどうか6月30日から7月1日になる瞬間は部屋を暗くしてパソコンの前でライターに火を灯して、それを掲げて左右に揺らしながら、アメイジング・グレイスを歌ってください。
叶わぬ恋がどこかで叶ったことを祈りながら。
上地問題
以前まで嫌いな芸能人を聞かれたら沢尻エリカと答えていたけど、最近ではもっぱら上地雄輔と答えている。嫌いな、ぐらいでもう食い気味に上地雄輔と答えている。それがたとえ嫌いな食べ物はって質問だったとしてもいちいち訂正しない。上地雄輔でいっちゃってください、とお願いする。上地雄輔に比べたら沢尻エリカなんか全然かわいいもんだった。沢尻に対してはこっちも子供だった部分があった。こっちもちょっと言い過ぎた部分があったし、落ち度はあった。沢尻は沢尻なりに戦っていたんだろうなと今になっては思う。
一方、上地雄輔に関しては何度手元の資料を見返してもこちらサイドに落ち度は見当たらない。ユーチューブで上地雄輔がミツバチという歌を歌っているのを見て実家の親に「すごい動画見つけた」って電話した。母親はいまいち事態を理解してないみたいだったけど「あんたが電話してくるんやから、よっぽどのことなんやろうね」と言った。確かドラクエに自分も死ぬけど敵も死ぬメガンテっていう呪文があったはずだけど、俺、それ、上地に使わせて下さい。そんなのは絵空事だって思われるかもしんないけど、もし良かったら俺にメガンテ使わせて下さい。俺一人のやわな命で世の中が少しでも良い方向に進むんなら俺喜んで自分のタマ捧げます。
ただ一つだけ誤解してほしくないのは、こういうことを書くのは別に「僕も上地が嫌いです」とか「私も苦手」とかそういう同調を求めたいわけじゃないということです。「嫌い」という感情は同調を得た瞬間にいじめになってしまいます。それはフェアじゃない。上地を嫌いなのは自分ひとりで十分です。
自分が1000人分の思い、背負いますんで。
福島の青年
盆の墓参り
ちょっとブルーな話なんですが、昨年末に祖父が亡くなりました。
93歳、世間では大往生とか卒寿とかそういう言い方でなんとか丸く収める年齢ですが、やっぱりどうして、寂しく悲しいものがありました。僕は三国一のおじいちゃん子でして、ここ数年の大晦日は祖父の家で2人で過ごしていました。僕が家に行くと祖父はいつも蕎麦とおせちを用意してくれました。それを食べながら紅白歌合戦を見て何を喋るでもなく年を越していました。呆けてるのかよくわからないのですが毎年1月1日と1月4日にお年玉を2回貰っていました。本当に呆けていた説と、かわいい孫のためにわざと呆けたフリをしていた説が親戚の間では二分してました。どちらにせよ何でお前は2回受け取るんだと僕は批難を浴びていました。
小さい頃、確か小学校1年か2年の時、祖父と2人で道を歩いていたら後ろから石焼き芋屋のラジカセの声がして、僕らの横を時速100キロぐらいで石焼き芋屋のトラックが通り過ぎていきました。その時なんの気なしに僕が「焼き芋食べたい」って言ってしまい、それを聞いた祖父はそのトラックを追いかけていきました。杖をつきながら。時速100キロの焼き芋屋のトラックを老人が杖をつきながら見えなくなるまで追いかけていく。その後ろ姿の光景と結局追いつけずにとぼとぼと戻ってきた時の祖父の申し訳なさそうな顔は今でも鮮明に覚えています。
両親に内緒でファミカセも沢山買ってもらいました。魔界村とかアトランチスの謎とか買ってもらいました。
金沢のダイワというデパートのレストランで800円もするカツカレーをいつも食べさせてくれました。当時の子供たちの間でカツカレーというとワルの象徴みたいな食べ物で、今でいうとシャブに匹敵するほどの価値がありました。
亡くなる1年半はほとんど寝たきりで耳も聞こえず声も出なくなり、最期はくちびるの動きだけでの会話でしたが、いくつかのお礼と約束を伝えることはできました。
この前の盆、田舎に帰り祖父の墓に手を合わせたときに、この世の中に、僕のために、僕だけのために焼き芋屋をあんなに追いかけてくれる人はもういなくなったんだなと当たり前のことを思いました。
別にわざわざここに書くことでもないんですが、何にも書かずに通り過ぎるのも自分の中でちょっとあれだったので。
すいません、なんか変な空気になっちゃって。なんか今日だけは勘弁してやるかみたいな空気になっちゃって。