――柴崎さんは小説を書かれる際、登場人物に仮の名前をつける時は、上條作品からとられることがあるそうですが?
柴崎 みんなじゃないですけどね。困った時に暫定でつける名前は、みんなナツとユキ(笑)。かっこいい名前としての刷り込みがあるんです、きっと。
(上條淳士との対談、11ページ)
――『海獣の子供』は、女の子が主人公ですよね。女の子の視点には特に興味があるというか、意識されたりするんですか?
五十嵐 や、特には意識してないですよねえ。基本的には自分の感じで描いているだけなんですけど、……なんとなく女の子の方が信用出来る、というか。大雑把にいうと男の方がバカだろうと思ってるんで、自分も含めて(笑)。だから主人公にちゃんとしたした人を据える場合は、なんとなく女の子になりがちかなあ、とは思いますね。描いていて楽しいとかそれくらいで、あんまり深くは考えてないんです。
(五十嵐大介との対談、82ページ)
五十嵐 (笑)人がどう生きるか、っていのが基本なので。漫画描くために何かやるよりは、自分がまず楽しいことをやってみて、自然にそれを描きたくなった時にうまく描ければいいかな、という思いがあるんですけど。実際には締切とか色々あるので難しいんですけど、その中でなんとかうまく転がっていけば幸せかなあと。
(同、85ページ)
目に見えて現われている世界がこんなにも美しいのは、そこになにかの調和があるからで、調和していることは美しいのだと思う。音楽も調和した数字で表されるもので、そういえば『陰陽師』で重要な役割を果たしている源博雅は音楽の才能を与えられている。
(「世界の秘密」岡野玲子との対談後、103ページ)
柴崎 (略)いわゆる「物語」をどうやって切るかと考えると、「時間」なんです。一日の話だったり、一週間の話だったり。書く時はだいたい実際の天気とか調べてカレンダーをつくるんです。
(浅野いにおとの対談、111ページ)
電車で人が読んでいる本なんかを横から覗くのが好きなのだけれど、最近、子供がめくっている漫画をちらちら見たり、夏休みや春休みになると増えるアニメ映画のCMを見ていて「世界を救うために戦う」「○○のためなら死んでもいい」というようなセリフが溢れているのが気になりだした。もしくは「汚い大人にはわからない」とか「夢のない時代なんだよ」とかいったふうな。
(「現実の感覚」浅野いにおとの対談後、124ページ)
――外出はよくされますか?
くらもち 外はあまり出ないと思います。景色を見るためだけに出るとか、アイディアを探すことを目的にしての外出はしないです。そういう風にアイディアを探しにいくと逆に見つからないんです。
(くらもちふさことの対談、139ページ)
柴崎 ちょっと考え方や作り方が違っていて、例えば小説だと前から順番に思った通り書いていけばいいんですけど、脚本だと長さや登場人物などの事情を事前に織り込み済みでクリアしておかなければいけない、とか順番が違うんですよね。
(同、141ページ)
くらもち 「物語を考えること」を長くやってきて、自分にとって今はその何段階目になるか分からないんですけど、頭の中に物語が一つある場合、すでにある「それ」を、そうではない別のスタイルで展開することに興味があるんですよね。それがたまたま「スタイル」として今は面白いと思うので、結果、時間が前後したり毎回キャラクターが違ったりしているんです。自分のモードがあくまでも「偶然」「そこ」にフォーカスしている、ということで、オーソドックスに起承転結を考えられる時は、最後までキッチリ考えるようにしてますね。
(同、142ページ)
柴崎 また格好いい男の子を描いてください。あの、くらもち先生の漫画を読んでいると私はすごい半笑いになっているので……。
(同、149ページ)
柴崎 写真って出来上がってくると良くも悪くも平面になっちゃいますよね。そうすると、自分がファインダーをのぞいていた時見ていたもの以外のものも同じレベルの情報として写り込んでいるじゃないですか。だから、逆に余計なものが多くなっちゃって、かえって難しいんです。自分がその時見た印象、覚えているもの、選び取ったものを書いた方が、読む人にとってもちゃんと印象に残る。そうやって書くのが私にとっては一番いいし、伝わるんだなって。
(上條淳士とふたたび、240ページ)