「匂い」と「感情」はいつまでも残る。
死ぬまで思い起こせると強気で言える。
それは、失った人や生き物や全ての現象において、
自分が50年以上生きた上で確証した事だ。
誰でも大好きだった何かを思い出す事がある。
歳月とともに記憶は失われていく。
細部の記憶は年月の流れとともに、まるで手のひらをすり抜けるように
すっと静かに抜け落ちていく。
それは意識していても、そうでなくても、
ともかく人の脳は忘れる機能があるから当たり前のことだ。
忘れることができない機能を持っていたとしたら、
生前記憶や生まれ落ちた時の事まで思い出せるだろう。
でも、そうじゃない。
そして、忘れることは次の人生の扉を開くのに
とても大事な役割を担うこともある。
ただ、その思い出の時に抱いた「自分の感情」と「匂い」は鮮烈に残る。
歪められて記憶されていたとしても、とにかく鮮烈なのだ。
いつまでも、残るものがあって、それは生霊のように
心の底のパンドラの箱の中で毎日息を吹き返している。
22年前に愛猫を亡くした経験がある。
タイトルにある「時が経っても決して失われないもの」・・・
今朝、どうしてそんな事を思ったのかというと、それには訳があって、
いつものように今朝も私は、床に落ちていた猫のヒゲを見つけた。
ウチでは「三匹の子ブタ」ならぬ、「三匹の若い猫」がいる。
5年前に我が家にやってきた新しい家族で、三兄弟だ。
猫は時々、毛が生え変わるのと同じで、ヒゲも抜け落ちて更新される。
そして、その自然に抜け落ちた白い一本のヒゲを見ているうちに、
思い出したのである。
それは、22年前に喪った愛猫のヒゲの抜け落ちたのを、
あたかも遺骨のように箱に入れて「〇〇のヒゲ」とサインペンで書いて、
いつまでも大切に持っていた。今も棚の奥にしまってある。
自分の心の残像を何かの形で残すのが、こういうことなのだろう。
愛猫の顔の細部は思い出せなくても、
匂いと自分の張り裂けそうな辛さは
ありありと残っている。
愛猫の「匂い」と「感情」はそのまま自分の中に刻まれている。
そんな事をぼーっと考えていると、
母方の祖母を亡くした時のことも思い出した。
「大好きだったおばーちゃん」。
祖母の顔の細部は思い出せない。声の記憶も定かではない。
私は小学校低学年だった。
でも、祖母の匂い、祖母の家の匂い、
そして自分が抱いた不可思議で悲しい感情は
ありありと、自分の中で再現される。
みじかな人を失くす人生で初めての経験だった。
人生の最期に関わる仕事をしているものとして、
関わる人たちの、匂いと感情に最大限の配慮をしてあげたいと改めて自戒した。
そこには、永遠の思い出につながるパイプがあって、
どういう記憶となってその人たちに残っていくのかは私たち次第なのだ。
そう、あの時の鮮烈な、「匂い」そして「感情」。