今年職場には3人の新卒採用の職員が入りました。

3人とも係はさまざま、そしていっしょに働く人も環境も異なるので、かなり異なる境遇に今立たされています。

わが係にも一人。

のんびりとしたわが係の雰囲気に合う、ちょっとお嬢さんな感じの彼女。すっかりなじんでいます。

もう少しキツめの仕事を任せたほうがいいのかな、なんてたまに悩みます。

基本的に、自分の能力をちょっとだけ超えた仕事というのが一番その人を成長させるのかな、と思うのです。自分の能力でできてしまう仕事しかしなければ、なかなか成長なない、と。


ただ、あまりに能力を超えた仕事を与えるのはどうだろう、と疑問を持っています。

ほかの係になった新人ちゃんはかなりキツい状況なのです。

毎日11時くらいまで残っているよう。彼女は大学を卒業して、初めての北海道で初めての一人暮らし、そしてこの激務…。

根性がある子なので、きっと乗り越えられるとは思うのです。

ただ、そのような激務をなーんにも経験のない若い子に教え込むことに少し不安があるのです。

事務仕事を早くこなすコツや知識は習得するのでしょうが、忙しさに酔う気持ち悪い人たちを今まで何人も見てきましたから。


人生の中のある時期に、仕事でいっぱいいっぱいで、生活を顧みる時間も余裕もない、という時期があるのはいいことだと思います。

そういう経験はとっても豊かだと思います。

けれど、それ以上に豊かだと思うのは、自分の思い通りの仕事が与えられなくて、「私は人に役立てているのだろうか」とか「私の価値ってあるのだろうか」と自分をみつめる経験。

そこから、自分の強みとか、自分の仕事と社会をつなげるという意識が芽生えるのではないか、と思うのです。


自分自身の経験からも少しだけあるのですが、きっかけは先日見たレディーガガの半生のドキュメンタリ-番組。

レディーガガはまったく売れなくって、誰からも必要とされていないと思い、苦労した下積み時代があったとのこと。

そこから自分をみつめ、自分が仕事音楽にどのように向きあうか、とことん考え抜いたようです。


とっても共感しました。

レディーガガなんてよく知らなかったし、今でも音楽とかはよくわからないのですが、彼女の生き方を見て、「ああ、この人は自分の仕事を客観的に見てるし、人にやさしい人なんだろうな」なんて思ったのです。


逆に今の私は、たくさんの身の丈以上の仕事をこなして、自分を鍛えることが必要な時期だと思っています。

とは言っても、基本的な仕事がおざなりにならないように、気をつけます。

ただいま、本を発行するために印刷やさんと校正のやりとりを行っているところなのですが、上司から「行によって、字数が違っている。句読点の間隔が異なっている」と指摘され、印刷やさんに直していただくことをお願いしました。


そしてできあがった原稿を見て、私はまったく気にならなかったのですが、その上司は「全然直っていない!!印刷やさんにもっと強気で言いなさい!言えないのなら、私が直接言う!」と激怒。


古い人なので、そういう形式的なことが気になるのね…くらいに思ったのですが、よくよく見てみると、やはり行によって字数は異なっており、詰まっている部分と比較的スカスカしている部分とがあるようです。

でも…そんなもんじゃないの??

私の感覚としてはそんな感じでした。


翌日、印刷やさんにお越しいただいて、そして上司も同席しました。

上司が改めて要望を伝えると、印刷やさんは「自動調整つきのソフトを使っているので、ページやレイアウトに合わせて収まりのよいように調整されるのです」と説明。

そうだよね…と思っていたら、上司はその説明にさらに激怒。

「ソフトのせいにするなんて初めて聞いた。どんな理念をもって仕事をしているんだー!!」


印刷やさんにはこれまでも大変お世話になっており、迷惑をかけっぱなしなので、いたたまれなくなってしまい、なんとかフォローしようとしました。

「この段階(最終から2番目の校正)になって、こちらで気付いてしまったので、最初から気付いてお願いしていればよかったですね」

「字数を合わせてほしい、とか特にこちらからは要望を出していなかったですもんね。」

すると上司の矛先はこちらに…

「こっちは素人だ。お前は自分の仕事を素人に対してするときに専門的なことをきちんと伝えたうえで仕事をしないのか。それと同じで、印刷業者は客が専門的な知識がなくても満足がいくように仕事をするのが当たり前でしょう?」

「それもふまえて工程表を作っているはずだ。信頼関係をもって一緒にベストの仕事をしようという気もちがあれば、こんなことにはならない!」


とっても高いレベルで仕事をしている上司の姿勢を改めて感じました。

印刷やさんにはとっても申し訳ないのですが、言っていることはもっともなこと。

私がきちんと最初からそのような姿勢をもって、印刷やさんと仕事をし始めるべきでした。





今日の毎日新聞に、「土曜授業の復活の是非」について、寺脇研さんと小学校教員の対談が掲載されていました。

東京都では月二回までは土曜授業を実施してよい、ということになっているようです。

詳細は省きますが、ゆとり教育推進者の寺脇さんは、地域を巻き込むための仕掛けとして土曜授業を活用するのは大賛成だけど、平日だけでは時間が足りないから土曜に延長するのであれば反対、というようなご意見。

寺脇さんだったらそういう考えだろうな、と予想通りでした。

ただ、なるほどと思った点も一つ。
「丁寧に指導しようとすると、どうしたって時間が足りないのは確か。それを土日に延ばすのではなく、生涯にわたって延ばしては?」

なるほど!そういった意味での生涯学習!

今まで、学校教育と生涯学習(社会教育)は別物と考えていました。でも、現在学校で習うべきものと思い込んでいることを、社会に出てからも学べる、という仕組み、面白いです!

学校教育の社会教育化。つまりそれは、学校の社会化、ですね!

今の文科省の方針では無理でしょうけど、寺脇さんの視点はとっても共感しました。

皆さんはどう思いますか?
毎年恒例のキャンドルナイトの企画を考える季節となりました。
夏至の夜に電気を消して、キャンドルの灯でスローに過ごしましょう、という全国的なイベントで、毎年私たちの施設でもイベントを行っているのです。

今年のキャンドルナイトはちょっと意味合いが違うと思っています。
原発事故に伴う電力不足や、脱原発の流れ…。
今までは“エコ”なんてゆるいおしゃれな雰囲気での啓発だったけど、3・11以降は本当に切実な問題として認識されるようになりました。

私は今年キャンドルナイトの担当者間の連絡用にメーリングリストを作りました。
最初はなかなか議論が盛り上がらなかったのですが、一人の職員が原発に触れてくれたので、私もそれに乗っかって原発論争が始まったのです。

とはいっても私ともう一人を除いてはみな公共施設で原発を取り扱うのは×、という感覚から抜け出して議論ができないようで、残念でした。

市民の生活を豊かにすることが私たち公共サービスに携わる人間の使命のはずなのに。
福島の関連施設で、職員が24時間交代で勤務したり、施設が放射能チェックの場所となったりしているのを聞くと、「私たちは非常時に市民を守ることを第一に考えなければならない、そんな職に就いているんだ」と改めて思い知らされたのです。

やはり、市民の生活を脅かす可能性があるものに耳をふさぐのは公共サービス従事者として罪だとさえ思うのです。

朝日ジャーナル第二号は、私にとってかなり興味深いものでした。

地震直後の3月15日に「日本破壊計画」という副題で発売されたことに、ブラックジョーク、とか間が悪い、空気読めない、といったコメントもネット上にはありますが、私からすると絶妙なタイミングに思えました。特に、辺見庸さんの文章は、今回未曾有の地震、原発の危機に直面している私たちに向けて書かれたかのようです。

辺見庸って預言者?なんて思っちゃいましたが、2009年に編集された「しのびよる破局」を読み返すと、辺見庸さんはずいぶん前から、地震や災害、紛争、などが起きるときの私たちの振る舞い、というものを危惧していたようです。

この本で辺見さんはカミュの『ペスト』に現代の日本を見ています。



以下、引用。

『ペスト』にもでてくるけれども、とくにマスコミがおもしろい。オランの町には通信社と新聞社がある。これがつにね自体を過小評価します。地の文でカミュは書いているのですが、つねに楽天主義を貫くわけです。日常を守ろうとする。…


人間は、どうしてもこれまでの日常がいまもつづいているのだという意識をもちたがる。マスコミはだからそういう報道をする。じつはコーティングされた社会の皮膜の一枚下でとんでもない事態が進行している、…


いまの時代だったら、ペストが蔓延すれば、町からその痕跡をパッと取ってしまう。テレビをつければお笑い番組をやっていたり、歌謡番組をやっていたりする。一方でみんな失業したりしている。はっきりいって、食うにも困るような収入しかなくなってきているのに、なぜか世の中全体がそのつらさというものをコーティングしてしまう。塗料で塗りかためてしまう。主にマスメディアが資本の潤滑油みたいになっているから、無意識にそうやってしまう。…


経済恐慌とか、新型インフルエンザとか気候変動とかあるいは地震、そのパンデミックの先には、前次の大恐慌が結局第二次大戦という戦争を導いていったように、なんらかの地域紛争とか、そういうかたちでまた爆発していく可能性がまったくないとはいえないのではないでしょうか。



その上で、価値の見直しが必要だと主張されています。

今回の震災と、それに続くいろいろな情報の不透明さ、そして新たな差別、…これは今目の前で進行をしているのが見えています。

私たちが今しなくてはならないこと、考えていきましょう。