どうも、はちごろうです。



中学の頃、学習塾に行くために部活を早退するのが苦手だった。
練習も佳境に入り、全体練習の真っ最中に顧問のところに行って
「早退させてください」と言うのがホントに申し訳なかった。
顧問は理解して送り出してくれるものの気持ちのいいわけはなく、
うっすらと苦い表情を浮かべているのがわかるし、
他の部員が注視する中で帰宅の準備をするいたたまれなさ。
かといって、塾に遅刻すれば当然講師に叱られるわけだし、
その板挟みで塾の日の部活は毎回気が重かった。


集まりで中座するシチュエーションはいまだに苦手だ。
それはオフ会であったり、リモート会であったり、
大勢が集まる場所から離れることを主張するときはいつも気が重い。
自分の都合でその場の流れが一旦止まるあの瞬間、
そしてその後に続く

 「もう帰るの~?」
 「まだいなよ~!」
 「また今度ね~!」

という挨拶で貴重な時間を浪費してしまうことも申し訳なかった。



先月から期間限定と銘打って再開したこのブログ。
そろそろまた一旦「中座」したいと思う。

それと同時に、Twitterやインスタなど、
他のSNSからも一旦「中座」したいと思っている。

アカウントごと消去するつもりはないけれど、

とりあえず、しばらくの間ログアウトはしておくつもりです。



これは前々から考えてて、理由はいくつもあるのだけれど、
それはおそらくすべて後付けであって本当の理由は

 「ただ止めたかった」

これだけなんだと思う。


もちろんリスクは承知。
なにしろ現在の私の交友関係の大部分はネット上にあるので、
デジタルデトックスは即「社会から姿を隠す」ことを意味するから。
ただ、あくまでSNS上から一旦距離を置くだけなので、
会いたいと思えば「か和もっち」あたりで見つかるかもしれない。
(まさかこの件で店を出禁にされることはないと思うが)


とりあえず、しばらくSNSから「中座」してみる。
突然のことで戸惑うフォロワーさんもいるかもしれないけど、
今生の別れじゃあない、気が向いたらまた戻ってくるかもしれないし。

書いてて気づいたけど、「中座」というより「隠居」に近いね。これは。



というわけで、皆さんお元気で。

 

 

 

(追記:どうも、はちごろうです。

 「中座」の説明をする意味がわからなかったという意見をいただきまして。

 実はこれをアップした日は駄話会が予定されていました。

 会の前にアップすると引き止められそうだったので、

 こんな形の投稿になりました。夜中に、ひっそりとね)

 

どうも、はちごろうです。



先日、駄話会のメンバーが経験したことなのですが。

その方はとある女性アイドルが主演する映画を観に行ったところ、
場内にその子のファンと思しき若い観客が多数おり、
その中の数名が外から持ち込んだポテトチップスの袋をカシャカシャさせながら
上映中ずっと音を立てて食べながら鑑賞していたというんですね。
当然作品に集中できるわけがなく、非常に不快だったそうです。


こういう、普段映画館に来ないお客様が鑑賞ルールを知らず、
他のお客様に迷惑をかけるケースは以前からしばしば遭遇します。

数年前、初日の舞台あいさつでお目当てのアイドルが退場したら、
本編も観ないで帰ってしまうファンが多数いたと問題になったことも記憶に新しい。

また、全席指定席になっているのにもかかわらず好きな席に座り、

元々その座席を取っていた人に移動を促された挙句、

本来座るべき席に移動したら別の人がすでに座っていた、なんて話もある。


ただ、この手のトラブルは今に始まったことではなく、

80年代のアイドル映画ブームの頃にもこの手のことはあったと聞く。
例えば大画面に映る贔屓のアイドルの姿を何度でも見たいからと
カメラを持ち込んでストロボ撮影するという暴挙に出たケース。
これ、他のお客様に大迷惑であることはもちろんなんだけど、
そもそも映画は光をスクリーンに投影しているので、
暗い場所だからとストロボを焚くと肝心のアイドルの顔がぼやけてしまう。
そういう基本的な映画の仕組みすら知らないからやってしまったのだろうけど。

こうしたケース、本人は自分が楽しむことが第一義で
他人が被る迷惑はどうでもいいと思ってるかもしれないが、
こういうことが頻発すると贔屓の評判が下がり、活動の場を狭めてしまう、
回りまわって自分が贔屓の活躍を見る機会を失う、
つまり自分も大きく損をしてしまうことに気づいてほしい。



ただ、普段行き慣れていない公共の場所でのマナーを知らないばかりに、
その場での立ち居振る舞いを間違えて顰蹙を買うことは
特に若い時代にはやりがちなことです。

例えば最近サウナがブームになっていますが、
暑くて我慢が出来ないからと何度も入退出を繰り返したり、
汗もろくに流さずに水風呂に飛び込んだり、
水風呂の中にタオルを浸けたりするのはマナー違反です。
何度もドアを開ければ室内の温度は下がるし、
汗まみれの体やそれを拭いたタオルを大勢が使う水風呂に入れれば不衛生ですし。

しかし、この手のマナーを初回から全てマスターしている人間は皆無だし、
利用していく中で従業員や他の利用者に注意されながら覚えていくものなので
若い世代の無知からくるマナー違反は致し方ない部分もあると思う。
大事なのは注意されたときに素直に謝ることであり、
そこから正しい利用方法を学んでいくことであってね。



一方、これは同じ駄話会の別のメンバーの話なんですが、
この人は都内のとある映画館を絶対に利用しないと豪語する。
そこは土地柄や上映作品の傾向から客層の中心が高齢者なんですが、
ここの観客の鑑賞マナーがすこぶる悪いという。
上映中に私語は多いし、携帯電話もマナーモードにしないなど。
なので、その方は仮に観たい作品がその映画館でやっていても
他県に越境してまで別の映画館で観るようにしているそうです。


思えば、昭和の映画館はいまの基準からすれば鑑賞環境が非常に悪かった。
私の子供の頃でもさすがに場内の禁煙は徹底されていたけれど、
かつてはたばこの煙でスクリーンに靄がかかることもあったというし、
家から弁当を持ち込んで食べながら観ることも珍しくなかった。
また、最近は売店で売っている食べ物は音のしないものが大半だけど、
昭和の頃には平気で袋入りのスナック菓子が売店で売っていたのである。
(伊丹十三監督の映画「タンポポ」では、スナック菓子の外装フィルムを鳴らす客に
 役所広司扮するやくざが脅しをかけるシーンもある)

しかし現在。この手のルールは厳格化されだいぶ鑑賞環境は改善されたが、
それでもマナーの悪い客は一定数存在する。

 

ただ、同じマナーの悪い観客でも世代によって傾向があって、
若い世代は前述したように無知によってトラブルを引き起こすんですが、
高齢の世代はそのルールが出来る前から映画館に通っている場合が多く、
「かつては許されていた」「少しくらいいいだろう」と
勝手な理屈でルールを拡大解釈する、もしくは堂々と破る傾向がある。

「(無知ゆえに)守りたくても守れない」のではない、

「守れるのに(敢えて)守らない」のだから始末に悪い。



ただ、こうしたマナーの悪い高齢の観客に憤るこのメンバーは、
そうした観客から離れるため、上映中に空いている席に移動するという。
都内の映画館、特にシネコンは基本的に全席指定席。
なので上映中に席を移動するのは立派なルール違反なわけです。

この人にしてみれば「空いてるんだからいいだろう」、
「昔はどこでも好きな席に座れた」と考えているのだろうが、
コロナ禍の昨今、劇場側の場内清掃・消毒作業の効率化を考えれば
勝手に座席を移動するのはより重大なルール違反だと私は思う。

つまり、このメンバーもまた他人の鑑賞マナーを厳しく非難しながら、
自分の鑑賞ルール違反には甘いという、見事なダブスタぶりを発揮してるわけで。



 子供叱るな 来た道だもの
 老人笑うな 行く道だもの

という言葉があります。

若者のマナー違反はかつての自分だった可能性もあるわけです。

「私の若い頃はあんなことはしなかった」と豪語してもただ自分が忘れてるだけ、

そして周囲から寛大な心で不問にされていただけかもしれませんし。
だから、ここはあまり目くじらを立てない方がいいかもしれません。
もちろん限度問題で、あまりにも目に余るなら注意する必要がありますが。

ただ、高齢者のマナー違反は反面教師とし、
自らのこの先の行動を改めるきっかけにするべきだと思いますね。

 「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」

みたいなもので、老害を笑う者はすでに老害になっているのかもしれませんし。

どうも、はちごろうです。


月曜の米アカデミー賞で主演男優賞を受賞した俳優ウィル・スミスが
直前に登場したプレゼンターのコメディアン、
クリス・ロックを平手打ちしたことが話題になっている。
クリスは授賞式には同席していたウィルの妻の短い髪形をネタにし、
長年脱毛症に悩んでいた彼女を侮辱したことにウィルは我慢できず
壇上に駆け上がり平手打ちをしてしまった。
アカデミーは「いかなる暴力も許さない」とウィルの行為を非難し、
本人もSNSでクリスに謝罪をしていた。
一方、彼の行為を視聴していた全世界の人々の間では賛否両論。

「妻を侮辱した者に対して怒りを表明するのは当然」
「暴力に訴える手段は許されることではない」

などなど・・・



賛成にしろ反対にしろ、両者の意見は「一理ある」。
だが、この「一理ある」からこそ問題がややこしくなる。

「大事な人やものを侮辱されて我慢するのはよくない」も
「どんな理由であれ暴力を使ったら負け」も
他者を納得させられるだけの正当性があるし、
おそらく対立している双方にも相手の正当性は響いている。
でもなまじ正当性があるだけにどちらか一方を安易に否定できず、
議論は平行線をたどることになる


「侮辱された妻の名誉を守ろうとした彼は素晴らしい」

「暴力という手段は肯定されるべきではない」

「そうはいっても、コメディアンだからといって何を言ってもいいわけではない」

「そうはいっても、暴力で表現を封じることはあってはならないことだ」

「そうはいっても、他者の非礼に対しては毅然とした対応を取るべきだ」

「そうはいっても、暴力をふるった時点で負けだ」

「そうはいっても、黙って我慢するのが常に正しい判断ではない!」

「そうはいっても、暴力はどんな状況でも否定されるべきだ!」

「そうはいっても!」

「そうはいっても!」

・・・・・


最終的にはお互い「そうはいっても」の応酬に終始して、
結局何も解決にはならずに話題自体が自然消滅してしまう。



今回の件に関しては、

「他者から尊厳を傷つけられたらその場で怒りを表現すべき」
「その表現手段としての暴力は否定されるべき」

どちらも正しいし、なんなら共存もできるわけです。
暴力以外の手段で怒りを表現することは可能なわけで。
ただ、それでも自分たちの正論だけを通そうとする人々は、
ただ単に自分の内なる暴力性を正当化するための理由を探してるか、
正論を言い訳にして行動しないことの正当化を目論んでるかで、
建設的な議論とは程遠いのではないだろうか?

 

実際問題、いまネット上には「私ならこうした」という代替案を出す者がいる。

しかし、その代替案に「即時に反応しなければ意味がない」と反論する者がいて、

さらに意見は平行線をたどっているわけですが。



ま、こんなことを書いてると
「そうはいっても!」って言われそうですけどね。

どうも、はちごろうです。


3月17日放送のTBSラジオ「アフター6ジャンクション」。
午後7時台の音楽コーナー「LIVE&DIRECT」がリスナーの間で問題になっている。
この日はこのコーナーに頻繁に出演してきたDJさんがMIXを披露したのだが、
選曲された楽曲が午後7時という時間帯、そしていまのこの番組にそぐわない、
かなり直接的な下ネタが盛り込まれたものばかりで。

その内容に、パーソナリティの宇多丸さんも
この日のパートナーだった男性アナウンサーもドン引き。
Twitter上も放送中から大荒れの状態だったようだ。
(私も翌日、タイムフリーで聴いてみたんだけどさすがに引いた)

この番組は普段から国内外のカルチャーの現場を紹介しながら、
これまで蔑ろにされてきた人権問題、
女性や外国人、障害を持った人たちの権利向上も訴えてきた。
この日のLIVE&DIRECTは、そんないまの番組のスタイルを無視した、
かつてのホモソーシャルな空間で共有されてきた
「公の場で下ネタを言う俺たち、面白いだろ!」という
時代錯誤ぶりが露呈した内容にも感じた。


ここ数年、様々な分野で価値観がアップデートされ始めている。
それに対し、その対応をする労力を疎み、従来の価値観を貫こうとする人々に対し、
これまで沈黙せざるを得なかった多くの人々から非難の声が上がっている。

ただ、残念なことにそうした声が強まれば強まるほど、
バックラッシュ(反動)もまた強まっている。
一昨年、米国大統領選で負けた前大統領の支持者たちが、
暴徒化してホワイトハウスに乱入した事件。
あれはまさに価値観をアップデートしようとする現政権に対し、
ぞの変化に対応できずに社会の中心から追いやられていく人々の焦りや悲しみ、
そして怒りがその心理的背景にあったと思う。

まー、この日のMIXを披露した出演者にそうした意図はなく、
ただ単に自分たちのMIXと、番組とリスナーが求めるものとの間に
ズレが生じていたことに気が付かなかっただけだったのかもしれないが。


翻って自分自身にも問うてみる。
果たして自分は変わっていく時代の価値観に対して
きちんとアップデート出来ているのか?と。
メディアで流れる話題に対し、条件反射的に浮かんでしまう前時代的な価値観。
これをどう自分の中から引っぺがすか?はたして引っぺがせるのか?
これまではそうして浮かんだ古い考え方に対し、発言する前に脳内でチェックして、
「これはもう古い」と発言を止めることが出来たのだが、
これから徐々に加齢とともにそうした判断力が低下していく前に
アップデートが完了するのか?そんな不安を抱えている。

実はここ最近、明らかにそうした自己チェック機能が落ちていて、
「これは言わなければよかった」と反省することが増えた。
また不用意な発言をして大事な人を不快にさせてしまったこともある。
他人から「それはよくない」と指摘されているうちはまだいいのだが、
「言っても無駄だ」とさじを投げられる前に
自分でどうにかしてアップデートをしていかなければとは思ってる。



 アップデートされた考えは強要する一方
 アップデートにかかる時間は許容しない  (ツイート/神門)


昨年、ラジオで聴いた日本語ラップの一説。
これが結構自分の中では引っかかっていて。
もちろん新しい価値観に対して「けっ!」とは言わないが、
一度染みついた価値観を変えるのは生易しいことではないのもわかってほしい。
若い世代にはそのスピードを「遅い!」って感じるかもしれないけど、
アラフィフのおじさんも出来るだけ早くアップデートしていく所存です。

どうも、はちごろうです。


週末に顔を出す練馬の居酒屋「か和もっち」。
最近諸般の事情であまりお店に顔を出さないオーナーの「かわもっち」さんは、
TBSラジオを中心に活躍してきたメール投稿者。
それだけにお店にはTwitterを通じて知り合ったメール投稿者がやってくる。
人のことは言えない、私もその投稿者の一人でもあるわけなんだけど、
やはり自分がリスナーとしてラジオから聴いていた名前の人が
実体を伴って目の前に現れるのは奇妙な感じである。


これは「か和もっち」に限らず、オフ会や番組イベントなどで
それなりに名の知れたリスナーさんとお目にかかることがあるのだが、
リスナー同士の初対面は

  「お名前はよく番組で拝聴しております」
  「いえいえ、そちらこそご活躍で」

といった感じになることが多い。
しかし、実際にどれだけメールが採用されているかは当人がよく知っている。
たいていは月に2,3枚も読まれればいい方で、
投稿者本人とリスナーの採用率の実感には明らかに差が出ることが多い。


「常連リスナー」と呼ばれる人種には2種類いて、
投稿する番組を一つに決めてそこにだけ毎週大量にネタをねん出するタイプと、
聴取している複数の番組に思いついたときに送るタイプがいる。

前者はそれこそ毎週出席を取るように番組で名前が呼ばれるし、
その番組のリスナーにとっては、下手な若手芸人よりも知名度が高い。
一方、後者の方は実際の採用率は低いけれども
複数の番組で名前を耳にすることになるので、
結果的に「よく読まれている」というイメージを持たれることが多い。


最近、Twitterで旧知のメール投稿者さんが
他のリスナーから名指しで揶揄されてる悲しい光景を見た。
いわゆる「こいつらみたいな特定のリスナーが読まれすぎ」みたいな。
この手の陰口は何十年も前からネットでは散見されてるし、
私もその手の陰口を言われたことがなくはない。

ただ、これまでいろいろな「常連」と呼ばれるリスナーさんにお目にかかったけれど、
みんなメールを書くのを楽しんでるし、
また採用されるための創意工夫を怠らない人ばかり。
だから例え自分が無い知恵絞って思いついた渾身のメールが採用されなくても、
全くもって悔しいと思わない。もっといいのを書こうと思うだけで。

また、多くの投稿者がいる番組は当然採用されるメールの質も高くなる。
アフター6ジャンクションの映画評論コーナー「ムービーウォッチメン」も、
コーナー開始当初と比べたらリスナーのメールの質は格段に高くなったと感じる。
私も何度かこのコーナーに採用させてもらったことがあるけれど、
いま採用されているリスナーさんの感想の方が圧倒的に鋭い。
でもそうした良質な1枚のメールが生み出されるためには
他のリスナーからの何十通、何百通というメール投稿が必要であり、
大量の没メールがそうしたメールを生み出す礎になっているわけです。


メールが採用されなくて陰口を言う暇があったら
ネタを考える方がよっぽど建設的だと思うんですけどね。