俺日記。

俺日記。

極私的な日記。

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暖かくなってきた朝の通勤路を見上げれば禿げた木々の毛細血管にも似た枝の先々に瘤のような蕾が万遍なく付き、貯水池の水面を照射する陽射しの白色は日々その面積と光度を増しているように見える。

南寄りの生温くも強い風が閉塞的な季節を吹き飛ばしてゆき、皆に平等であるがゆえに居心地の良かった閉塞を名残惜しむ私を尻目に待ってましたとばかりに新しいスタートを切る人々がどうにも目につく。

勝手に置いてけぼりをくらった格好の十四歳的に過剰で独りよがりな自意識が別段何かを始めたいとも変えたいとも思っていないはずの年相応の自分をこの季節に始動もしない愚鈍な者と今年もせせら笑う。

ならば何かを、暮らしを根本から変える何かを始めてやろうかと意気込むがその思案は像を成さず、結局暮らしの枝葉をなんとか装うにとどまるだけでどうにも気分は晴れない。

ならばと思考を停止し、それでも残る鬱々とする気分は雌花を目指していたはずが憐れにも私の鼻腔などに着床してしまった杉の花粉の所為などにして、常緑樹に咲く控えめな小さい花などを見つけながらただボンヤリとこの季節が過ぎ去るのを待つ。
日々年老いていく自分に抗うつもりはサラサラなくむしろ棺桶に向けて着実に衰えながら邁進する自分を楽しんですらいるのだが、中には受け入れ難い衰えもあってその一つが保守的な衰えなのである。
最近欲しいものがあっても「これ、本当に必要か?」と自問し余程の必要に駆られなければ僅かな浪費を惜しみ買い控え、これまた僅かな蓄えに少しづつ貯めちゃったりする。実に嘆かわしいのだがこれがなかなか打破できずにいた。欲しいものをポンポンと買っていた頃とは比べ物にならないくらい責任を背負っているんだから当然だろう、と哀しい思考的自慰行為でこのモヤモヤを誤魔化していたのだが、去年の暮れに歳末セールで賑わう街に触発され突然、いまこそ打破すべきとき!無駄遣いすべきとき!と思い立ったのである。ちょっと大袈裟か。まぁいいか。
手始めに過去「これ必要か?」と思って結局買わずにいた「欲しいけど必要に駆られなかった品々」をリストアップし、吟味した。吟味に吟味を重ね、傘を買った。
傘。
はからずも俺の器の小ささを証明する品物である。だが、ただの傘ではないことだけは声を大にして言いたい。
折りたたみだ。折りたたみ傘だ。
ドイツのクニルプスというメーカーが製造しているTopmatic SLという折りたたみ傘だ。なんと一万円もした。傘に一万円は納得の無駄遣いだ。
さて、こいつを購入してからというもの移動の際には常に携えているのだが、なんせ雨が降らない。年末に買い、今日が1月19日なのだが一日も降っていない。そんな、耳をすませばいつでもウーウーと走る消防車のサイレンが聞こえるほど乾燥している大気のなかで携える一万円の折りたたみ傘が放つ無駄感がたまらなく良い。胸糞悪い保守を打破したことを実感させてくれる無駄さがある。
嗚呼、私といふ土は日々大きく育ってゆく現実という巨木に全ての栄養を摂られることなく、傘という小さな花を咲かせたのだ。
などと思ったりする。大袈裟か。まぁいいか。
チラリと見た天気予報が明日から雪だと告げている。遂にこいつをバサっと広げるときが訪れるのかという期待と、濡らすのちょっともったいない…と思う器の小さい躊躇と、一年ぶりに見る雪への昂揚が綯い交ぜになって、今日が終わろうとしている。
俺日記。

 たとえば「見えない自由が欲しくて見えない銃を撃ちまくる」とか「未来は僕らの手の中」と唄う彼らといつまでも真っ正面から同調していたいと思うのだが、こうして社会でカネ稼いで暮らしているとその青臭い感性から放たれる臭みは俺のような野蛮な環境に身を置いている者にさえなかなか厄介な代物となるので、世間が鼻をつままなくとも済むよう常識や道徳といった消臭剤でその感性を覆って日々を過ごしている。かといってそういう誤魔化しが窮屈かといえば決してそんなことはなく、むしろ円滑に物事を進めるにはとても有用なので率先して消臭しているのだけれども、そうして円滑に進行していく雑多な日々を過ごすうちに俺自身がその臭みを忘れそうになる。そうなるとせめてその臭みをいつまでも忘れたくない俺は毎年この時期に環七通りを歩くのである。
 東京23区の大外を環状に廻るその道路は正式名称を東京都道318号環状7号線というらしいが歩く俺にとってそんなことはどうでもよく、若林の踏切から高円寺もしくは豊玉の陸橋までを環七と認識している。

その青臭い感性を持て余していた若い頃、環七から道路一本都心へと入ったところに住んでいた。かといって単なる道路に思い入れなどある筈もなく、住んでいたその頃を思い出してもその通り沿いにあるコンビニやディスカウントショップや飲食店に行くぐらいでこれといった特筆すべき思い出もない。いま歩いてもそこにあるのはただ既視感だけで、それだけを求めて歩くのである。

環七の街路樹はなんという種なのかは知らないがこの寒い時期でも青々とした葉を携えており、それを街燈や信号機、通行する車のヘッドライトやテールランプが様々な角度から照らし、複雑な色彩と陰影が形成されて等間隔に並んでいる。沿道に建つマンション群の廊下やエントランスから洩れる鈍い光と光の間から夜を劈くように無機質な光を放つコンビニがある。営業を終えて灯りが落とされた全面ガラス張りの外車ディーラーの店内にはあの頃もいまもおいそれとは買えないような値札が貼られた車がその黒い車体に街路樹と同様に様々な環七の光を受けて、それを反射させている。幹線道路と交差すると環七は自動車専用の陸橋となるのでその側道を歩くと陸橋下の緩衝地帯は僅かばかりの車が停められる駐車場になっていて、駐車スペースも確保出来ない矮小なデッドスペースには立ち入り禁止のフェンスが張り巡らされている。フェンスには蔦が絡まって枯れており、その矮小なスペース内にはなぜか不動産や風俗店のチラシが色褪せて大量に地面にへばりついている。環七の歩行者にとって主要となる横断手段の歩道橋が一定の間隔で架けられていてその薄いクリーム色の橋の横っ面に
は黒い字で環七通りと書いてある。


あの頃無意識に見ていたそれら全てから思い浮かぶそれは、ときに今を苛んだり憂いたりする厄介な思い出へと昇華することがない希薄でドライな記憶で、ただあの頃の青臭い感性の臭みだけを不思議と思い出させてくれるのである。

毎年恒例となった若林での穏やかな忘年会を終えてそこから高円寺陸橋まで歩いて電車に乗り、アルコールの勢いに任せていまこれを書いている。 そしてたとえばふるさとへと帰郷し、実家の自分の部屋の窓から見える景色などにこういうことを皆さん思うのかな?とふるさとを持たない俺は考えたりする。この既視感からもたらされる記憶は何物にも替え難い。だから混雑を顧みず帰省するのだろうか?と。そう考えると帰省する方々が見るであろう遥かな尾瀬や遠い空のかわりに、コンビニの光や道路にへばりついた不動産や風俗店のチラシを見るために歩く俺がひどく滑稽に思えたりする。それでも記憶の底から湧いてくるあの頃の青臭さを胸いっぱいに吸い込んできた俺にはそんなことはどうでもいいし、また来年からもこの臭みを自分の中だけに内包し、周囲に気付かれることなくそれなりに狡猾に生きていこうと思っている2011の年末なのである。

皆さん、よいお年を。
2ヶ月半前に我が家の一員となった猫にはラッキーという犬すぎる名前が付けられている。名付けたのは娘なのだが「ラッキーといえば犬」という世間一般の普遍的観念に強烈な右フックを打ち込むアナーキーな名前と思え、今では気にいっている。「ラッキーといえば猫」という我が家特有の観念が生まれたこともなかなか小気味好い。

俺は以前犬を飼ったことがあるのだがその犬は物心ついたときから傍らにいたので飼っているという意識は希薄で、だから今年の夏の盛りに娘が「猫を飼ってもよいか?」と尋ねてきたときは初めて自らの意思で動物を飼うということに昂揚した。二つ返事でよい、と言いたい気持ちをグッと堪え「ちゃんと面倒をみれるのか?」などとペットを飼いたいと言い出した子供に対する親の定形文を吐いて冷静な俺をアピールしてみたりはしたけれど。

飼い始めてから2ヶ月半も経つと猫がいる特別な時間は日常になる。夕飯時にひとりだけ別の場所で食べることが嫌なのか俺や家族の膝の上に乗って食べ物をねだること、だから食卓に猫大好きでお馴染みのフリスキーが小皿に数粒載せられてオカズと共に並ぶこともいまでは日常だ。

生き物はいずれ死ぬ、そういうことを娘に教えられたらいいと猫を飼うときに少し考えたりした。いま思えば有り得ない思考だ。しかし遠い先、彼が死んだ際に損なわれる、ときに退屈だと倦んだりする日常の大切さに気づき嘆くのは俺なのかもしれないと思ったりする。考えるだけでその事実に耐えられそうもないが。
かけがえのない日常を過ごしている、そう漠然と思わせてくれたことそれだけでも猫にありがとうと言いたい。


家族が揃って出掛けたのをいいことにほぼ全ての生体活動を停止してただ酸素を吸い二酸化炭素を吐き出す役に立たないというか世界にとってむしろマイナスな植物となって怠惰な日曜日を過ごす俺にとってなんだかんだでテレビは友なのだった。
ここ最近怠惰な日曜日を過ごすことが滅法減り故にこうして植物となってテレビを観る日も極端に少なくなっているからテレビは必要ないと思っていた感のある最近の俺にはなかなか衝撃の事実だ。実はテレビは必要だったぜ俺。
それでもインターネッツを楽しんでいると「テレビは観ない」という意思や「最近テレビ観てない」という事実が散見されるため、俺の怠惰の友ことテレビがどうやらひしひしと衰退しているのは間違いようで、そりゃたしかに女性の乳首すら映せないあまりにもPTA的な毒にも薬にも中高生男子諸君のオカズにもならない現在のテレビが別のおもしろ暇つぶしコンテンツが溢れる21世紀に変わらぬ人気を維持するのは難しいっすよねぇ…と我が友のことながら思ったりもする。そう考えると我が友の寿命の儚さが少し心配になるが、最近起きたフジテレビへ対するデモの、主体となる嫌韓の隙間から垣間見えたテレビへの郷愁や期待などにまだテレビは完全には飽きられていないぞ、と救われた気分になる。ひょっとしたらフジテレビのひとたちも心のどこかではその郷愁や期待に少しは救われた気分になったのではないか?そんなことねえか。迷惑なだけか。
この世に存在する全ての媒体が発するどんな些細なメッセージさえ処理するのが億劫なそんなときに友としてテレビはそこにいてくれればいいのだ。もちろんテレビも様々なメッセージを発しているらしいがそんなもの無視だ。友だけど断固無視だ。酸素を吸い二酸化炭素を吐き出す非エコな植物の逆光合成に必要な栄養源としてただそこで灯っていてくれれば良いのだ。

というようなことを、消したテレビの液晶が暗転したときにそこにボヤけて映ったソファに沈む俺やビールの空き缶や煙草の吸殻などの怠惰の残骸、そして傍らに積まれた本や仕事の書類やギターや娘の文房具などに脳を働かせろ、と脅迫され無理矢理働かせた結果思ったので、書きなぐってみてなおかつブログに載せてみる。
そんな日曜日。