つづきです。

 

 

目次

 

 1.ジャンク教養がなぜ教養とは言えないのか

 2.イケてる有用人、陰キャの教養人

 3.芭蕉と荘子――東洋の役立たず

 4.役に立つのは機械や奴隷、暇こそ人間だ――アリストテレス

 5.ルソー「いやまて。もっとシンプルで本能的なもんだろ」

 6.情報不足の中世から情報過多の近代へ――ベーコンの危惧

 7.分業と細分化、技術化と狭視野――シェリングの危惧

 8.資本主義下こそ教養が大事――アダム・スミスの教育

 9.過分業・過専門で人間が迷走を――ミルと大学の教養主義

 10.無教養時代のヤバさ――アドルノたちの現代批判

 11.情報の洪水――そしてインターネット

 12.教養人は別に賢くない

 

 

 前回分を3行で要約すると、こうです。

 

 ネットに転がってる “教養” はインチキ臭すぎる。とくにイケメンだ。キモメンも使えねーけどな!

 教養はズバっと結論が出るようなもんじゃねえ。それに役に立たねえ。もう「有用」は対立概念だ。

 「役に立つってのは道具や動物で、役に立たないところこそ人間だ」ってアリストテレスさんが言ってた。

 






 


6.情報不足の中世から情報過多の近代へ――ベーコンの危惧


 2.教養人は、速さを求めず、情報や知識の多さを恐れている。優柔不断で適当でいい加減。

 この点は、俳句や、ルソーらの一連の教養に通じるものがあります。教養は文明への警戒心や疑問と切り離せません。

 「進歩とか効率とか言うけどさ、分業やりすぎじゃね? 情報や学問の細分化が、世界や人間の本質を見失わせて、人間社会が管理不能になるんじゃね? もう誰も全体見えてないよね?」
 こういう警告が、だんだんと出てくるようになったのです。


 昔は分業不足、情報不足の時代でした。

 古代ギリシャは無邪気な時代です。
 プラトン『国家』(369Bあたり)では、分業バンザイ、効率化バンザイです。

 プラトンは、国家が誕生したのは個人が一人で自給自足できないためだとしました。
 そこでは人間は自然の適性に従い、分業して交換します。

 しだいに道具製作にも分業・交換がはじまり、他国との輸送も必要となり、国家が大きくなると、市場や商人も生まれる。プラトンはこれを「健康な国家」としました。

 いっぽう「熱でふくれあがった国家」は、奢侈に走った国家です。他人から物資を奪おうと戦争を起こすのです。これを「健全な国家」に戻す解決方法は、分業による職業軍人の配備です。

 こうして分業が理想の状態とされます。

 すなわち『自分のことだけをする』のが正義・倫理です(433)。
 そして支配者と被支配者も、分業であるべきです。


 そうしてプラトンは、哲人軍人が国家を支配する業につくべきだ、と論を展開します(441E)。性的分業も当然とし、そこから妻子共有論を語るのです。
 現代ではヤバい論ですが、当時の事情で思う所があったのでしょう。


 なお、東洋でも孟子がほとんど同じ結論に達しています。
 許行という農本主義者がいたそうですが、その弟子の陳相という人の「君主も農業をしろ」という説を、孟子が分業は最高だと言って論破するシーンが伝わっています。
 
 結局だれもが分業に頼っている。統治だって分業しないとできない。支配層と被支配層、頭を使う者には統治する仕事、身体を使う者には統治される仕事がある。統治される者は統治する者を食べさせなくてはならないし、統治する者は食べさせてもらえる……。という論です。

 ミソは、孟子が論破したのは大先生の許行ではなく、その弟子にすぎません。許行の主張はエッセンシャルとブルシットみたいな話だったようですが、当時から分業への疑惑があったのです。許行ら(諸子百家のうちで農家といいます)は主流にはなれませんでしたが、古代中国は無反省に分業を邁進させたのではなかったのです。

 日本には天皇が田植えをやってみる儀式があったり、ウィーンのハプスブルク家には皇帝が貧民の足を洗う慣習がありました。大義名分やプロパガンダにすぎないといえども、意義的には、支配者との接点をアピールしていたこれらの国では、支配者と被支配者の完全な分業は認められていなかったのです。

 孟子には有用人寄りのところがありました。孟子の母は、孟子が勉強をさぼると「学問で名を立てることができる。勉強をしなければ人に使われて、苦しい人生を送りますよ」と説教したという逸話が残されています。
 日本の受験慣習にもこの出世主義やソフィストの影響が残されています。孟母の話は後世の創作のようですが、孔子から比べると、教養性は明らかに衰退しています。前300年頃には、東も西も文明が有用性の時代にさしかかったのです。


 ヨーロッパに戻りましょう。中世にも分業への危機感はなかったようです。

 そこで人間は集団の中で生活することが必要になるのであって、そうしたなかで各人は互いに他の者の助けを受け合い、それぞれ理性を働かせてある人は医学を、他の人は何か別のものを、というふうに異なった仕事を見つけだして、それに従事するのである。
 (トマス・アクィナス『君主の統治について』 岩波p6)

 解説によればここはアヴィセンナという人の説の流用らしいですが、ここでは、我々は分業していくものだから集団が必要である。またその統治が必要である。そのためには共通善が必要である……。と論が展開されます。
 神学者の論ですが、意外に唯物論的な歴史観で、マルクスと似ています。


 近代になると、細分化への危機感が現われます。
 

 ベーコンの論は、「学問をどうするか。実験と観察をしろやゴルァ!」というものでした。

 『ノウム・オルガヌム』(1620年)に『洞窟のイドラ』という項があります。学域が漠然と広すぎたり、狭視野に陥って、つまらぬ争いになっているという話です。

 ところで、このような人びとは、哲学と一般的な研究をやりはじめると、そのまえからいだいている空想によってそれらのものをゆがめていためてしまう。
 (53―58)

 ベーコンはアリストテレスを批判します。自然哲学を論理学に売り渡し、空論のぶつけあいにしたというのです。

 それらのイドラは、主として、特定の学問に支配されることや、総合か分析かの一方にかたよって度を過ごすことや、ある時代を愛好することや、対照があまりにも広大か微細かであることからおこったものである。


7.分業と細分化、技術化と狭視野――シェリングの危惧


 シェリング『学問論』(1802年)は、ベーコンを発展させたような論です。

 学問や芸術においても、特殊なものは、普遍的なものや絶対的なものを、己のうちに宿す限りにおいてのみ価値をもつのである。

 (岩波版p12~14あたり)

 一定の仕事にばかり従事していて、一般的教養という普遍的な仕事を忘れ、立派な法律学者や医者になろうと努力していて、それより遥かに大切な学者一般の使命や、学問によって高められた精神の使命を忘れるということがあまりにもしばしば起こりがちなのである。

 自分で学問の普遍的な理念をもたない人は、他人の心にそういう理念を目醒ましめる力に最も乏しいということは疑いない。下級の狭い学問に、ともかくも賞賛すべき勤勉を捧げている人も学問の有機的全体の直観に到達することはできぬ。
 

 もはや分業や有用性は敵です。


 この狭視野は自分自身が起こしており、世界の真の姿は無限であるといいます。

 知識が有限であるとすれば、それは自分自身のうちにある限定によってそうなのであって、そう限定するものは外部にはないのである。
 (p57)

 

 本来、知識は広い教養です。


 シェリングはあらゆる学科の実用性、効用を徹底的に下位だとします。
 「○○学って何の役に立つの?」と子供が言うと、その質問自体をボコりにかかるわけです。
 

 たとえば数学。

 天文学や物理学一般において、一般的運動法則へその適用という点における数学の偉大な効果がどんなに認められるとしても、数学をこういう効果のゆえにのみ重視する人は、この学問の絶対性の認識に達したということはできぬ。


 自然及びその対象の本質或は自体についての理解には少しも関わり得ぬ。


 哲学も歴史も物理化学も芸術も、全て効用のためでなく、総合知と繋がることにより、それ自身に本質があるとします。

 哲学の効用について語るのは哲学の品位に関わるとわたしは思う。一般に哲学の効用について敢えて質問を発するような人間は、哲学の理念をまだ一度だってもち得なかったのは確かである。哲学はそれ自身の存在によって効用関係から自由だと断定されている。


 哲学はただそれ自身のために存する。
 (p67)
 

 これは難しくありません。「効用とは何か」と考えることも哲学だからです。


 シェリングは、学問が有用性を追求すると国も亡びる。国家は有用性によってできていないためだ、と論じます。

 通俗知が自分を絶対知と思い上ろうとしたり、或は思い上って絶対知や〔理念を〕とやかくいおうとする場合である。国家が、通俗悟性が理念に対する審判者となることを奨励するとする、そうすると通俗悟性は直ちに国家の上に立つようになる。ところが、通俗悟性は、理念や理念に基づいて設立された国家の制度をも、理性や理念をも理解しないと同様に、理解しない。通俗悟性は、哲学に対して戦いを挑むと同じ通俗的な根拠をもって、国家の根本形式をさらにいっそうはっきり攻撃することがある。


 「今の憲法で、人の上に立てる資格を効率よく取れんの? 馬鹿だな。俺らが資格を取りやすいように改憲で」

 「で、人権は俺にいくらくれるの? てか人権て見えないじゃん。はい実在しません」

 もしも有権者がこうなると、法の管理はできません。

 通俗悟性を理性のつかさどるべき事柄の審判者に祭り上げれば、学問の領域に賤民政治を招来し、それとともに早晩賤民の一般的な台頭を招来するのは全く必然のことである。

 もう一つの方向は、そこへ第一の方向が迷い込むのであるが、また理念に基づく一切のものの解体を招来するのである。それは単に有効なものに向かう方向である。
 (p70あたり)

 有用性ばかりでは、小さな目先のコスパばかり考えるコスパ国家になってしまうといいます。

 いわば大学に工学部、医学部、金融学部、宣伝学部しかない国です。
 

 ここでは総合して、教養は広いところでは効用があり、社会的に必須でもあるとされています。

 一見役に立たないが、実は役立っているとする論です。

 シェリングにとって、分別を超越して統一していくことが学問や真理への道でした。たとえば心理学は心の因果関係だけでなく、肉体の様子も含まないと分裂した部品にすぎず、真理にはならないと考えるのです。
 「必然」と「自由」との統一も「一なるもの」で、哲学、国家、芸術、自然学は、その完成品としました。そしてこれらの統一性も図っています。

 歴史学は、事実を扱うことと高次の総合知の理念の統一をすべきで、それを媒介するのは芸術ということになります。歴史の完成された世界は、必然性と自由が調和した国家だとします。

 自然学では理論と実験の統一を訴えました。ただ何かを試しただけの実験は、ただの観察にすぎず学問とは言えない。理論だけでも空虚で、ホメロスの詩を文字や印刷の技術で語るようなものだ。だから実験と理論の両方がいる、と主張しています。

 芸術学は、先ず芸術の歴史的構成と解し得る。

 とし、ただ美しい、刺激的、癒される、気晴らしになる、といった感性的な芸術は、芸術学に携わるべきでない。これらの効用の多寡だけではだめで、芸術も理性と統一せよ、というのです。

 卑俗な心がよんで芸術となすものは、すべて哲学者のかかわるところではない。芸術は、彼にとっては絶対者から直かに流れ出る必然的な現象であり、芸術がこのようなものとして確証され証明されてのみ、それは哲学者にとって実在性をもつのである。


 シェリングは、体感的な鑑賞と知性的な鑑賞とを切り離しています。

 哲学の内面的本質を映し見る哲学者にとって、芸術哲学はその必然的な目標である。略 溌剌とした精神に富む自然研究者は、彼が自然においては混乱した姿で現われているのを見るのみである形相の真の原像を、芸術哲学を通して芸術作品のうちに認識し、また感性的な物がかの原像から生れ出る有様を、感性的な物そのものを通して象徴的に認識することを学ぶのである。
 (p178~187あたり)

 哲学と芸術の関係は、理論と実験の関係です。
 観念と実在、無限と有限の関係がセットで統一されるというわけです。だから哲学でないと芸術のことはわからない、芸術でないと哲学のことはわからない、というのです。
 このあたりに「教養」の秘密のひとつがありそうです。

 シェリングが俗欲のための芸術を下位に置くところは、アリストテレスの音楽論に通じるものがあります。快楽を目的としない音楽を上位に置くというのは、孔子にも共通する考え(鄭声)です。彼らは優劣をつけて俗なものを叩いているのですが、肥大化した大衆社会がアンバランスで危ういと感じていたのでしょう。
 逆に、頭でっかちになってしまうと人間本質が危ないという警鐘もありました。20世紀には『チャタレイ夫人』がこのテーマで下半身を賛美したのですが、出版当時は理解されず弾圧されました。この辺はフォービズム(野獣主義)や文化人類学、民俗学、レヴィ・ストロースなどを経た現代の教養主義とはちょっと違います。人間観が「理性を持つ者」から「理性と感情のせめぎ合う者」へと変わってきたのです。今日の教養人は後者の成分を濃厚に持つでしょう。


 シェリング『学問論』は理論的構成がちょっと甘く、ツッコミどころも多い本ですが、教養の総合性はよく表しているように思います。
 私見ですが、純理論的には、役に立たなくてもいいし役に立ってもいいのが学問や芸術や科学ではないか――人間は両方を併せ持つ者なのだから――という結論になるはずでは? と思います。それに、現実は奇であって、頭脳や、知識をもとにした考えでは想定できない事象を、“アホ” が無知ゆえに言いだす妄言や空想が想定させたりするものです。たとえば「本当は昨日、日本の飛行機がX国に撃墜されたが政府が隠蔽している!」に対して「あるわけない」と思いつつも、実際にそういうことが起こった場合の対処は想定させてもらっているわけです。そういう意味では ”アホ” もしっかり社会に参加しているわけです。この空想はファンタジーという知識に乗っかっているはずで、それは教養に含まれる可能性があります。そうした寛容性も、排他的である有用性に対する教養の一つの性質ではないでしょうか。人間を語りながら統一と言って、理性だけに留まる理由はありません。
 今日に当てはめてみれば、ネット民は確かに ”アホ” で、安倍政権や安倍カルトのように嘘を事実とするといずれ最悪の事態になるので、取り扱いには注意が必要です。ですが、トンデモ論を吐くからといってアホが社会に不要だということにはなりません。この意味でも排他的なジャンク教養は非教養的な有用知識といえます。

 シェリングの危機意識は世界の分解についてでした。

 後世、実際の危機は、より身近かつ現実的に現われました。世界大戦の時代にです。

 専門全振りで何を開発しているかを全く分かっていないマッド・サイエンティストが出てこないように、この時代から教養性を強めて学問の広い視野を持ってもらうことが必要だったのです。
 そのためには教養を身につけさせるよりも、暇を与えることが正解だったと思います。

 教養というものの本質からして。


8.資本主義下こそ教養が大事――アダム・スミスの教育



 シェリング『学問論』は、分業的な専門知識だけでは学問のことはわからん、といいました。

 が、過分業の世界がどうなるかは語っていません。

 

 シェリングは観念的な理論派でしたが、こんどは実践的な社会現象の観察に目を向けてみましょう。
 イギリスに飛びます。



 ホッブズ『リヴァイアサン』(1651年)にも情報過多の概念が出てきます。

 助言の能力は、経験と長年にわたる学習によって身につく。ところが、大規模な国家を経営するために心得ていなければならないあらゆる事がらについて網羅的に実体験を積んでいる者など、いるはずがない。したがって、何人も、単に詳しく知っているばかりか徹底的に考察、考究してきた事がらについてでなければ、優れた助言者であるはずがない。
 (光文社版p164)


 基本的には分業を認めていたアダム・スミス『国富論』(1776年)も警鐘を鳴らしています。

 ひとつには分業のメリット「一つの仕事だけできればいい、という良コスパを実現する単純化」の副作用です。


 分業が進むにつれて、労働によって生活する人びとの圧倒的部分すなわち国民の大部分の仕事が、少数の、しばしば一つか二つの、きわめて単純な作業に限定されるようになる。ところが大半の人びとの理解力は、必然的に、彼らのふつうの仕事によって形成される。

 (アダム・スミス『国富論』岩波版p49あたり)


 そこで単純な労働と、単純な思考を持つ人びとが発生します。

 

 一般に、およそ人間としてなりうるかぎり愚かで無知になる。


 かれらは私生活も公の利害についても判断できず、兵隊にすらならないといいます。


 人間をこうした仕事につかせることを、マルクスは「疎外」といって批判しています。ですがマルクスは、「貧乏人が子だくさんで、金持ちが少子化するのは何故かって? エッセンシャルワーカーは必要なんだから増えて当然だ。ブルシットワーカーなんか要らないんだからいなくなるのが自然だよ」という論を『資本論』に引用しています。スミスも、分業を礼賛するようなことを言って、その効用に感謝したうえで、この警告を盛り込んでいるのです。

 

 だがこれこそ、政府がそれを防止するためにいくらか骨を折らないかぎり、改良され文明化したすべての社会で、労働貧民すなわち国民の大部分が、必然的におちいるにちがいない状態なのである。


 スミスはそこで教育が必要だといいます。
 もちろん単純作業の効率を上げる勉強ではありません。


 『国富論』は「見えざる手」で有名ですが、これは後世の御用学者や権力者のすり替えのようです。

 

 本題は「国家が色々やりすぎると世の中はだめになる。だが、市場は万能ではなく色々とヤバいので、国家はかなりのことをやらないと経済も道徳も腐るという論です。新自由主義に毒されがちなジャンク教養が騙る「資本主義=放置しろ」ではありません。資本主義こそ教養が大事なのです。


9.過分業・過専門で人間が迷走を――ミルと大学の教養主義



 19世紀後半、日本の幕末・維新の頃。産業革命を邁進してきたヨーロッパの経済段階では、分業・細分化による知識の洪水と人間形成への危機感は具体的になってきます。この問題は、単純作業をやらされる労働者にだけではなく、知識階級にも迫ってきていました。

 ミル『大学教育について』の骨子は、シェリングとだいたい同じような論です。シェリングは、いわゆる専門馬鹿が大勢できるぞとは言っていますが、それがどうヤバいのかは語っていません。ミルはそれを予言しました。

 大学は職業教育の場ではありません。略 大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります。
 (J.S.ミル 『大学教育について』 岩波版p12~14あたり)

 まず、大学教育(教養)と職能教育を完全に切り離します。
 ミルにとっては大学でやること≒教養です。この考えは「大学と職業学校の違い」として今日の日本でもコンセンサスになっています。大卒人材が管理職に向くとされる論拠もおそらくこれです。超専門家を束ねる管理職は、ジェネラリストのほうが向いているのです。

 さて、ミルにとっては「熟練した」各職業人と「教養ある人間」が基本的に対立していることが前提です。熟練のプロではなく有能な教養人を、という前提には何の説明もありません。

 ミルにとって、「熟練のプロ=教養人」という昨今の大衆社会のプラトン主義的な常識は、すでに非常識となっていました。とはいえこの本の細部からは、周囲ではまだ教養不要論(古典不要論、数学不要論)が学界でも根強かった様子がうかがえます。


 学習時間の配分を考えれば当然ですが、 “有能で教養ある人” がほんとうは無茶な存在であることに「教養」の秘密があります。
 ミルは、大学はこの矛盾を解消して、有能な教養人を育てるべきだというのです。

 それは「職能の時間を削って、教養に当てろ」という解決です。

 これは人類普遍の真理として語られた論ではなく、たまたま当時、職能全振り勢ばかり増えすぎていたためです。彼の主張は功利主義者らしいハ長調みたいな明るい温度で語られていますが、もしも古典と数学ばかりの世相下であれば、「実学をやれ、インターンに出して工具に触らせろ」と言っていたでしょう。シェリングよりもずっと穏便です。

 専門職に就こうとする人々が大学から学び取るべきものは専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当て正しい方向に導く一般教養(general culture)の光明をもたらす類のものです。確かに、人間は一般教養教育を受けなくても有能な弁護士となることはできますが、しかし、哲学的な弁護士、つまり、単に詳細な知識を頭に詰め込んで暗記するのではなく、ものごとの原理を追求し把握しようとする哲学的な弁護士となるためには、一般教養教育が必要となります。


 これは形式的な理論ですから万人に当たります。ミルは孟子やアリストテレスのような差別主義者ではありません。



 靴づくりを職業としている人について言えば、その人を知性溢れた靴職人にするのは教育であって、靴の製造法の伝達ではないのです。


 序論では、一般教養は仕事の役に立たないが、人格形成に必要だといいます。マッド・サイエンティスト、つまりハマると毎日徹夜で特訓しまくるIQ140が発明のプロとなり、細菌兵器、金融詐欺、プロパガンダの手口や煽動方法を発明したらヤバいという話を、我々は歴史やナチ高官の検査結果などから知っています。
 

 狭専性により、当人が被害を受ける場合もあります。現在ならば、ジャンク教養の問題の一つは、「間違っている」のではなく、「それ自体は合ってるが、ベースとなる教養がないなら知らねえ方がまし」といった知識です。

 たとえば、世間を知らずに英語を学ぶと、日本語詐欺よりも手口のハイレベルな英語詐欺に騙されやすくなるわけです。今ならさしづめ「みんなでお金を集めてAIを作って、必ず儲かるところに投資させるから失敗しません。一口どうですか」とカネを集めてトンズラとかでしょう。人工知能や金融の知識が少しでもあれば、引っかかる確率は大幅に下がります。職業選択、商品購入、投票行動、視聴選択、恋愛結婚選択、転居選択などの誘導は多いです。優れた専門的能力によってお金を持っていて、それだけ教養の狭い人は狙われやすいのです。

 人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかもいまだかつてなかった速さで現在増加しています。知識の各分野は今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなるでしょう。略 さて、もしそのような些細な部分を完全に知るために、人はそれ以外のすべてのことについてまったく無知でなければならないとするならば、間もなく人はごく些細な人間的欲望や欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとってはまったく無意味にな存在になってしまわないでしょうか。


 これはよくまとまった警句です。

 ミル以前の類似の論を何度か見かけたはずですが、すいません忘れました。

 近い記述ではニュートン『プリンキピア』に、「この本は専門書ではなく、パンピーは1巻や前書きや公理を読めばいい。他は難しすぎる、まあプロの補足用だな」とあります(1巻冒頭の註3要約)。これはミルと同じ問題意識を持っていた証拠でしょう。知識を開放し、教養部と専門部を分けたのです。パンピーには、各自の専門など他の知識のための時間を開放したことにほかなりません。

 僕はパンピーコースでしたが、岩波の訳本などには同じ形式の本があり、註や研究論文を使いながらヲタ読みをすることもあります。また『リヴァイアサン』は岩波はフル、光文社は宗教研究は割愛しています。法律や社会科学の概論的な研究ならば後者で充分という判断でしょう。情報量と教養との闘いは、今日も続いているのです。
 ともあれ学問や仕事の難化と狭専・過専への危惧は以前からありましたが、ガチで主題として悩んだのはこの19世紀。ロンドンで空を見上げれば機関車の煙と電信線が飛び交う時代です。
 ミルは、情報過多を悪徳の結果とはしません。文明発展が原因を内包する宿命であると見ています。悪者を作らない視点は、ミルの教養を彷彿とさせます。

 この本の要旨は「パンキョーなくして大学無し」です。
 核心は以下の数文にあって、ほかの記述はすべてこの論証や各論、傍論です。

 人間のこのような状態は、単なる無知以上に悪い結果を生み出すことになるでしょう。他の学問あるいは研究全てを排除して、一つの学問あるいは研究のみに没頭するならば、必ずや人間の精神を偏狭にし、誤らせることは、すでに経験によって知るところです。このような場合、精神の内部に育つものは特殊な研究に付きまとう偏見であり、またそれとともに、幅広いものの見方に対してその根拠を理解、評価できない無能力さゆえに視野の狭い専門家が共通して抱く偏見です。人間性というものは、小さなことに熟達すればするほどますます矮小化し、重要なことに対して不適格になっていくであろうと予測せざるをえません。
 (p26~28あたり)

 といいながらも1867年のミルは、この危機感は自分の思い過ごしだとして楽観視しています。

 しかしながら、今日、事態はそれほど悪化しておらず、そのような暗い未来を創造させる根拠はまったくありません。人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄のみを知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させるところまで至ります。

 なお、シェリングもミルも、子どものときの古典やラテン語(日本でいう古文や漢文)が何より必要だとしています。
 ミルは「科学」(工学や物理)を古典と並立させて、こちらも絶対に必要だとしています。自然科学に触れない者でも自然科学によって論理性が育てられないと、宗教を容認できるかの判断や、有権者としての判断もできないというのです。ニュートンを受けて書かれたヴォルテール『哲学書簡』や、有権者教育論をもつルソー『エミール』の影響でしょうか。

 ミルの大学論は安いし、すごく読みやすく、お勧めできます。


10.無教養時代のヤバさ――アドルノたちの現代批判



 ミルの論の欠陥は、その楽観でした。難癖をつければ、どのくらいの分業と情報増加がこの先に起こるか、検証させればわかったかもしれないのに、華麗にスルーしてしまったのです。
 細分化と情報量は、20世紀には人類の管理キャパを超えてしまったと目されるのです。

 アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』は悲観論です。
 1940年代のアメリカは、電気製品、ラジオやクルマが普及して旅客機が飛ぶ現代社会です。

 精細な情報とどぎつい娯楽の氾濫は、人間を利口にすると同時に白痴化する
 (ちくま版p13~14)

 ここは「精細な」が肝です。
 アドルノらは、教養の担い手だった特権階級が消滅したとき、その役目を大衆に移行するのに失敗したことで、教養の崩壊を招いたと指摘します。

 一九世紀に至るまでは、りっぱな教養というものは、教養なき人々の増大する苦しみを代価として購われた特権であったとすれば、二〇世紀では、衛生的な工場地帯は、あらゆる文化的なものを巨大な坩堝の中で融解することによって買いとられる。

 

 ディストピア観です。知識は金儲けの技術になって、学問は利益追求的な実学が真の目的と思われるようになったといいます。シェリングやミルの言ったようになったわけです。

 近代科学への途上で、人間は意味というものを断念した。人間は概念を公式に、原因を法則と確率にとりかえる。
 (p26)

 先に、サンデルが共同体の解体に危機を感じている話をご紹介しましたが、この現象はデュルケムに説明されています。
 『社会分業論』では、分業は効果は経済だけではなく、社会的紐帯も生むとします。

 分業では経済学者が言うような幸福は無かった、現実には文明発展とともに不満や心の病が増えた。分業によって地縁・血縁の共同意識が退行して個性が浮かびあがる。これは宗教や道徳や科学の総合性、抽象的な集合意識とのトレードオフだった。こうして分業により、地血縁は職縁に代わる……。と論ぜられています。

 しかし条件があります。

 分業は正常ならば、一つの仕事に人間を閉じ込めて、視界を塞がない。「正しい分業」には、本当に等価な交換が必要。真の個人の自由は規制の産物で、平等性は自然のうちにはない。自由と平等は、人間が作らないとだめだ、というのです。

 サンデルの論は、20世紀のアメリカ人はアドルノらが言うように「意味というものを断念し」、「概念を公式に、原因を法則と確率にとりかえ」てしまい、自由と平等を人間が作らず放置した結果、地血縁は職縁に変わらずにバラバラになった、というアメリカ認識から来ていると思われます。

 社会改革者のジェーン・アダムズはこう述べている。「理屈のうえでは、『分業』によって人びとは相互依存をいっそう深め、いっそう人間らしくなる。一貫した目的の達成へ向けて結束するからだ」。だが、この一貫した目的が達成されるかどうかは、当事者がみずからの共同プロジェクトに誇りを持ち、それを自分自身の問題と考えるかどうかにかかっている。「相互依存という機械的事実があるだけでは、結局は何も生まれない」のである。
 (『公共哲学』ちくまp27)

 引用をしてこのように言っています。

 私見ですが、市場主義では「一貫した目的」は他者への勝利(そしてそれは大抵かなり身近な者への勝利)なのだから、結束はありえないことになり、経済思想の文脈と突き合わせることが必要だと思います。ではありますが、アドルノらはこれを教養の死によるとし、サンデルはこれを公共哲学の転換によるとしました。公共哲学の転換を考えさせるアイデアどもが教養なのですから、これは根は同じだと言えるでしょう。
 今回は教養の話ですから、アドルノ、ホルクハイマーの論を続けます。

 彼らはベーコンやシェリングの抱える欠陥を指摘します。

 近代の「一つの普遍的科学」の思想は、反対者を排除するイデオロギーに繋がるというのです。

 一つの理想というのは「これが唯一の理想だ」と定められがちで、となれば全体主義に転びかねません。フッサールなどは統一を主張しながらも、ナチから逃げながら書いた『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で、謙虚に一旦クッションを置くことを主張しています(「判断中止」)。

 ヘーゲル『精神現象学』は、近代の啓蒙思想が信仰にかわって広めたものが「有用性」であるものの、それには重大な欠陥があり、万物が人間にとって有用であるように人間も有用となってしまい、その使命は全体に奉仕することになってしまったと指摘した、とあります。
 まさにアリストテレスのいう道具や動物や奴隷としての人間ですが、すみませんこれは読んでいません。

 カントの「人間は目的でなければあかんと」という格率がやぶられ、人間が手段になってしまったということでしょう。

 しかし哲学は、これらの修正ができませんでした。
 教養は死にかけです。

 近代は、有用性に逆らうものを弾圧し始めたのです。

 過ぎ去ったものを、進歩の材料として役立てる代りに、むしろまだ生きているものとして救出しようとする熱望は、ただ芸術のうちでのみ充たされてきた。過去の生活の叙述としては、歴史もこの芸術の中に含まれる。芸術が認識と見なされることを諦め、かつそうすることで実践と手を切るかぎり、芸術は快楽と同様、社会の実生活から寛容にあつかわれる。


 アドルノらは、文明には初期から同じ問題があったと言います。

 いわば、ピラミッドのできた5,000年前には、もう時限爆弾が作動していたというのです。なぜなら文明が構造的に自壊を内包してきたからで、原始から古代文明に入ったときにスイッチが入ったからです。そこでオデュッセウスの伝説を論じて、彼も、彼の漕ぎ手も、どちらも抑圧しあう分業の奴隷であるといいます。

 人類の熟練と知識とは分業によって分化してきたが、その人類は同時に、人間学的には、より原始的な段階へ押し戻される。なぜなら支配の持続は、生活が技術によって楽になってくる一方、より強い抑圧によって本能の硬直を惹き起すからである。想像力は委縮する。

 分業、支配、思考停止がおこると、

 進歩の力への適応の中には、権力の進歩が含まれており、その都度ふたたび退化への営みが含まれている。つまりその退化は、不成功に終った進歩なのではなく、まさしく成功した進歩こそが、じつは進歩の反対であることの証拠になる。
 (ちくま版p72~78あたり)

 このように、頭でっかちな文明が、崩壊の原理を自身に内包してきたというのです。

 中国では春秋時代は教養主義でした。孔子は「忠」や「恕」(正直さや思いやり)が必要とし、その原理を持っているかどうかが人の価値であるとし、身分や生まれは関係がなく、教育と修養で身につくとしました。この時代には、高官たちは外交をしながら政治や思想や詩を語り合っていました。孔子の門下は学問を始め、学問が解放されて諸子百家が誕生。学問の全盛期になります。
 しかし、つづく戦国時代は実力主義の乱世となりました。有用な諸子が才を競いました。教養は崩壊し、法家の秦が中華を征服して地獄を見たのです。以来思想や哲学が復活することはありませんでした。

 全盛期にはあれほど哲学や思想が栄えたのに、イギリスはアヘン戦争と帝国主義に陥り、ドイツはナチスに至りました。英独はベーコンやカントを産むことができなくなりました。歴史は繰り返す、というやつでしょう。

 『啓蒙の弁証法』には、ベーコンの同じ個所の引用が2度あります。

 知識のうちには、王侯たちが全財産を投じても手にすることができず、命令しても意のままにならず、お抱えのスパイや密偵たちも何の情報さえもたらさず、航海者や発見者たちの船もその原産地には辿りつけないような、数多くのものが隠されている。
 (p24、88)

 これは理想ですが、ベーコンくらい強靭な精神がないと無理だとあります。
 アドルノ、ホルクハイマーはしかし、悲観的すぎたかもしれません。
 アドルノのジャズ評論は極めてネガティブなもので、“ジャズ”は俗悪として批判されています。ですが彼が批判した当時の歌謡曲的、感情的、ソウル的だったジャズは、60年代までには知性的なものも高尚な要素も肉体的なダンスもすっかり呑みこんで、美術や映像やコンピューターとも繋がる包括的なアートとして進化を遂げました。
 今やジャズは音楽的にはポップとは言いがたく、ジャズから派生したロックやR&Bやラテン音楽やダンス音楽がポップとなり、ジャズ自身は大衆の参入を阻む商業性の低い文化的・芸術的ジャンルとなっています。

 映画も同じように展開し、芸術の地位に片足を突っ込み、映画から派生したテレビが大衆的・商業的コンテンツとなりました。教養が絶滅したわけではありません。

 とはいえネットが出てきてからは、また別のフェーズに入りました。大衆が発言・主張をするようになったのです。

 なお『啓蒙の弁証法』はそれほど知られた本ではなく、あまりまとまったものでもなく、いくらか専門的です。そのうちの一章である『文化産業』はわりと知られています。


11.情報の洪水――そしてインターネット


 1970年前後に『情報の洪水』(オーバーロード)が提唱されるようになりました。
 ミルの指摘通り、文明が進むにしたがって、不要な情報のために、必要な情報が見えにくくなったのです。この頃は日本ももう現代ですから、スマホとパソコンを捨てたら当時の状況をだいたい再現できます。

 90年代、僕が学生の頃にインターネットが解禁されましたが、大学の先生たちはネガティブに受け止めていました。オンライン通販で買って家から出ないとか、オンラインで済ませて人と会わなくなるとか、彼らの言っていたとおりになっています。

 教養人の特徴に「ネットにネガティブな印象を抱いている」を入れてもいいくらいです。この危惧は「電気だって最初は危険視されただろう」とうレベルではなく、数千年の文明単位で見た話です。
 しかしネット危惧と同じくらい深い考えにおいて、性善説的な人間論や、オンライン社会実現法としての教育・法整備平行論や、「便所の落書きでも発信できた方がいい」などとして、楽観視する意見も多くありました。僕個人としても、全員がテレビを見て右倣えの旧時代に対し、発信の平等化が進んだ今日のほうが自然的だと思います。

 一般的には、有用派はだいたいが便利だからと歓迎しました。

 教養派はだいたいが批判派だったと思います。当時のITは、今のドア開閉界なみに一部のマニアしか関心を持たぬものでした(ガチのマジでWindows95の知名度が吐噶喇列島に暮らすトカラ馬程度でした)。ですが未来ネタはネット開闢以前からSF小説によくあったのです。たとえばオンライン監視ならオーウェルの『1984』。これらは手塚・藤子などの元ネタだったりして(Fは1984年に1984オマージュのドラえもんを書いています)、昭和には常識に近かった教養です。
 超有名なものでは『機動戦士ガンダム』。これは後世まちがいなく教養になると思います。Youtubeを見る前にガンダムを観たほうが教養が手に入るでしょう。

 宇宙に進出した人類は、新種(ニュータイプ)に進化して、互いの意思を伝達・共有でき、他者の意思を察知できるようになります。それで新人類はめちゃくちゃ期待されていたのですが、闘争に利用されたり、そのために精神を病んだり、過労になったり、旧種を絶滅させるとか言い出したりして、世界は全然良くなりません。

 『情報の洪水』は現在、スマホがあればすぐに体験できます。
 「モノが多くて散らかっている部屋では、必要なものを見つけにくい」
 たったこれだけのことが、物理的な現象では理解できるのに、情報となるとなかなか理解しにくいのです。

 僕なんかは脊髄反射的に知識をネットで漁ることがよくあります。ですが「教養人」というレベルになると、ちょうど成金と伝統貴族との違いを見せつけるように、すぐに知識を漁ったりしないでしょう。まず、今知っていることや、経験や、根底的なことから考えてみるはずです。ネットに触れる前は、みながそうしていた記憶があります。気をつけねばなりませんね。


 宗祇の詩は、私たちに尊敬の念を起こさせる。だが芭蕉は、黙っていて私たちの愛をかち取るのである。
 (ドナルド・キーン『百代の過客』p69)


12.教養人は別に賢くない


 3.教養人は、人間が賢い、知識は賢さである、などと考えない。

 これは「無知の知」ですから説明不要でしょう。
 色々な論を紹介しましたが、多くの古典が知能批判を含み、ときどきソクラテスに回帰するのが面白いですね。

 文明人の多くが、「自分たち文明人は優れており、賢い」と思っています。
 

 「人間は馬鹿だ。自分の馬鹿っぷりも色々問題を抱えている」


 そう感じている量と、立身出世や知力マウントに関係ないのに、調査や調べ物をしたり、難解な本を読んでみたり、実験してみたり、例題を解いてみたり、覚えようとしてみたり、製作してみたり、弾いてみたり、考えてみたり、話し合ってみるなどの量は、わりと比例します。

 社会や自己の知性の現状を肯定していれば、わざわざ面倒な方面に向かうモチベーションは上がりません。今進んでいる方向に邁進すればいいのです。流行りの歌やゲームでも覚えたり解いたりするほうが、よほど有用です。

 多くの文明人は、テストに出ること、注目を浴びること、収入が上がることに向かいます。

 これらは有用かつ必要であり、教養よりも優先されるべき上位のものです――飯は教養を生むが、教養は飯を生まないのです。

 ですが、それらを教養と同一視することは誤りです。


 有用性(とくに常識や専門性)と教養が混同されるのは、人間の評価能力と人間が出すテストの判定能力を信じ、「売れるものが良いものである」と人間の購買選択能力を信じることをベースに、現実において、テストの成績や注目による出世や収入増が有用性を帯びている様相を目にしているからでしょう。そこで「テストに出ることや注目を浴びることを知っていると賢い」となり、「ものしり=教養人=賢い」という前提が支配的となり、「テストの範囲や注目される知識が教養だ」が導き出され、ジャンク教養が跋扈する理由の一つになっているのではないでしょうか。

 ですが教養は、テストに出ないほう、スルーされるほう、だけれど先生が雑談で話して止まらないほうのパーツです。


 そもそも教養人=頭がいいというのは俗説です。


 資格や入試のテストに出ない知識はたくさんあります。


 そのなかでAさんは

 

 「アシュラマンの阿修羅面は『怒り』になってからが本気」
 (ゆでたまご『キン肉マン』15~16巻)

 

 といった知識にばかりに限られた記憶容量を割りあてています。

 いっぽうBさんは、

 

 「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである」
 (マタイ5章3節)
 

 
 などにたくさん割り当てています。

 すると知識の総量は同じでも、Bさんのほうだけ、まるで賢人であるかのように見えるのです。

 聖書の知識は、信頼度が高く、全世代全世別をカバーしています。

 アシュラマンはどうでしょう?

 アシュラバスターが魚バスターほどメジャーになるとは思えません。

 教養人は、有名で汎用性が高く、人生を変えうるほどの内容を持ち、時代の風雨をしのいだ耐久性があり、記憶してから色あせない知識を持っています。人はBさんの知識をチラ見したときに「おっ」となるわけです。なかでも草木の名前や相対性理論、不確定性原理、ブラックホールなど宇宙論ネタといった自然科学的な知識は永久的に使えます。文学や地理歴史も息が長いです。Bさんの知識は蓄積していきます。そして全知識が現役で配備されています。

 いっぽうアシュラマンや、芸能人の名前やスキャンダルの動き、スポーツやゲームの数字、宣伝の内容、新製品の内容なんかはすぐに色あせます。Aさんの知識は役に立ち、仲間は増えるでしょう。ですがAさんは毎日知識を消費するため獲得せねばならず、使える知識は蓄積されません。使える知識は常時一部だけなので、無知に見えてしまうのです。
 とはいえ、面白いのはアシュラマンのほうですよね。ここまで役に立たない知識だと、まさに役に立たず、無意味なため、こっちのほうが聖書よりも教養らしいかもしれません。いつかAさんのほうが逆転するかもしれません。


 では結論に入ります。

 「じゃあ教養って具体的に何よ?」

 ということになると、私見になりますが、根となる知識ということになりそうです。
 字義のごとく、果実や枝ではありません。
 根っこは地中に深く広く埋まっていて、これが強いと全体の樹が倒れにくいのです。

 根っこが建材にも鑑賞用にも選ばれず、煮ても焼いても食えず、使えないことは言うまでもありません。

 樹にとって、倒れないことと同等に、実をつけることも重要です。

 実も成らないと樹々は死滅します。
 ただ、近代以降の文明社会では

 「果実の糖分を増やすとよく売れる!」

 「左右対称だと高く売れる!」

 といった有用性ばかりが叫ばれています。
 実や枝は役に立つので、搾取もされるのです。

 果実ばかりでかい樹々は、得ようとする養分が同じなので個性にも欠けがちです。
 これでは木としても、きっと生えていて不安なばかりで、面白くもないでしょう。

 これまで述べたように、教養は有用性に対立し、役に立ちません。
 ほとんど無意味です。

 ガンジーがこのように言ったそうです。

 あなたのすることはほとんど無意味だろう。
 だが、それでもやらなくてはならない。
 それは世界を変えるためではなく、
 世界によって自分が変えられないようにするためである。

 

 

 

 

 

 


 

1.ジャンク教養がなぜ教養とは言えないのか


 変なYoubute。

 怪しいインフルエンサー。
 

 ツイート……。


 WEB上にインチキ臭い「教養」がありすぎだろ……。



 というお話です。

 

 

 

 

 

 

 いきなり命題ですが、



 「昨日食った飯は、いつ自分になったのか?」



 これに答えられる人は、おそらく居ないでしょう。


 「分かる」ということは、分けていることです。


 「昨日食った飯」と「自分」が「ある」と感じているのは、どこかで時間的に物質的に「飯」と「自分」を分けているからです。自という言葉がすでにそうです。
 しかしこの「分かる」ということは、アタマにとっては簡単ではありません。そもそも「分かる」を「分かる」必要があるのかも謎です。分からないからといって失うものはありません。


 「わかりやすい教養」


 はい。一発でインチキ臭いです。


 発信者がイケメンの場合はとくに信じてはいけないようです。


 巧言令色、鮮(すくな)し仁。
 (『論語』わりと最初のほう。口の上手いやつとイケメンにろくな奴はいない)



 信言は美ならず、美言は信ならず。
 (『老子81章』。気をつけろ甘い言葉に暗い道)


 いわゆる良薬は口に苦し、忠言は耳に逆らう
 (『韓非子』安危第二十五 其の病を治するや、刀を以て骨を刺す。聖人の国を救ふや、忠を以て耳に拂(もと)る。 など)


 「上手い言葉とイケメンには気をつけろ」

 ライバルだった儒家と道家と法家が口をそろえています。みんなキモメンだったのです。
 僕はおそらく道家ですが、このテーマについては論語が好きです。だって頭のいいやつに加えてイケメンも叩いてるから。こんな時間にこんなブログを見ているあなたも、頭のいいやつとイケメンのことは敵視していますよね?



 士、道に志して、悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与(とみ)に議(はか)るに足らず。
 (『論語』4-9)

 
 ここでいう「悪食」は、現代の頭のはたらきの鈍くなる類の食べ物のことではなく、粗食のことです。当時は「安いからイワシと大豆を食べている」とかそういう話です。

 

 習わざるを伝うるか。
 (『論語』最初のほう。私はよく知らないことを受け売りで人に教えたのではないか? と思うとまじびびる、の意)


 伝えるときには慎重に、という意。
 要するに、その手の“教養系”チャンネルは、増視聴者、増収のために、耳障りのよい適当なことを、浅薄な考えや知識のまま、むしろそれゆえにズバズバ言っている疑いが濃厚です。

 教養(古典的教養)は、「5分でわかる」などの巧みな言葉やイケメンは、軽薄で中身がないジャンク教養だと言っているわけです。

 

 かといってキモメンに中身があるわけではありませんが。
 

 甘く見るなよwww 

 


 イケメンどものジャンク教養がだめなのかって?

 違います。

 ジャンク教養は役に立つのです。


 その手の界隈も、嘘を言っているわけではないでしょう。

 少なくとも一部には視聴者が知りたかった知識、必要な知識はあるはずです。
 ですが根本的に、それらの精神と教養の精神は、逆を向いています。

 教養は役に立ちません

 教養は分かりやすいものではない。

 じゃあ難しいの?

 いえ、わからなくてもいいもの答えのないものが教養とされてきたのです。

 この世の中や、宇宙/時代、自分といったものは、本質的に分からないものであり、べつに分からなくても生きていけるわけです。もしかすると、全人類的に探求を続ければいつか分かることかもしれません。もしかすると、分からずじまいで、分からないから人類がやっていけてきたものなんて可能性もあります。
 

 「効率よく教養を手に入れよう」などと考える時点で、教養のゲットは非効率です。

 教養とは、ほとんど非効率そのものだからです。

 だれもが薄々わかっていることだとは思いますが、ハッキリ言えば、教養は、倍速で動画を見て手に入るものではありません。
 教養は本質的に、無駄で、正解やオチがなく、時間を食うものです。いわば最短の道順の知識ではなく、迷い方のほうです。
 むしろ0.5倍で観たほうが教養になるでしょう。

 
 厳しいようですが、ジャンク教養を選ぶ時点でもうダメです。


 これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
 (『論語』6-20)
 

 

 ある知識を好んでいたら、考えながらじっくり知ろうとするものです。倍速のインスタントに手を出すはずはありません。

 乗り鉄は速く着く電車に不満なんですよ。遅い列車に乗ると泣いて喜び、座席にほおずりをしながら「420円でこれだけ乗れた!」と心の中で車掌の声や走行音を再現するのです。この体験は教養です。

 ジャンク教養は教養に向かう精神にも反します。


 知る者は博からず、博き者は知らず。

 (『老子』第81章)


 『老子』には、賢人は博識ではないし、博識な者は賢人ではない、とあります。
 真の賢人は『論語』や『老子』など知らないというのです。

 知識の断捨離というような意味でしょうが、これはその通りだとつくづく思います。

 シンプルですげーヤツってのは子どものときからいて、人生で何十人と見ています。

 

 学びて思はざれば則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則ち殆(あやう)し。
 (『論語』)



 また、ペラい知識を詰めこむだけでも暗愚になってしまいます。
 

 とはいえネットを見る限り、現代にはソースが圧倒的に不足したまま勝手に考えて俺天才!絶対正しい!になっている後者(陰謀論者や周回遅れ)が増えている傾向のようですから、現状ならば前者のほうがましでしょう。考えさせずに断定する特徴のあるジャンク教養、 “教養系チャンネル” や “教養人インフルエンサー” が有害とも言い切れません。

 ただその実態が、教養とは言いがたいものが手に入る「実益系」というべきものだということです。


 これらの実益チャンネルがなぜ教養ではないのか?


 「役に立つ教養」

 これです。

 分かりやすいはずがないのと同時に、教養は役には立ちません。

 たまに結果的に役に立つことはありますが、コスパ・タイパはゴリゴリどころかアフリカゾウなみに悪いです。
 教養は基本的に、効用とは相反するものです。


 じゃあ教養って何?

 

 という話を考察していきます。

 

 

 

目次

 

 1.ジャンク教養がなぜ教養とは言えないのか

 2.イケてる有用人、陰キャの教養人

 3.芭蕉と荘子――東洋の役立たず

 4.役に立つのは機械や奴隷、暇こそ人間だ――アリストテレス

 5.ルソー「いやまて。もっとシンプルで本能的なもんだろ」


 6.情報不足の中世から情報過多の近代へ――ベーコンの危惧

 7.分業と細分化、技術化と狭視野――シェリングの危惧

 8.資本主義下こそ教養が大事――アダム・スミスの教育

 9.過分業・過専門で人間が迷走を――ミルと大学の教養主義

 10.無教養時代のヤバさ――アドルノたちの現代批判

 11.情報の洪水――そしてインターネット

 12.教養人は別に賢くない

 



2.イケてる有用人、陰キャの教養人


 「教養って何なの?」

 というスレを5chで見かけることがありますが、たしかに定義は難しいです。
 後述のように、たぶん不可能です。

 ですが、シェイクスピアを教養とは言っても、ある掃除機の使い方を教養とは言いません。
 

 「教養」と言われてきたものがあるのは確かですし、古典、芸術、自然の知識、宗教の知識、文化、自然科学、歴史、哲学や思想といったものが、だいたい「教養」と近いことは否定できないでしょう。

 ちょっと話せば、相手が教養を身に着けた人であるか否かがすぐにわかるということも事実です。


 人の類型はわかりやすいので、教養人(教養肌)と、そうでないタイプの特徴を3つ抜き出してみましょう。


 1.教養人は、役立つことを目的に教養を得ようとしない。


 2.教養人は、速さを求めず、情報の多さを恐れている。優柔不断で適当でいい加減。


 3.教養人は、人間が賢い、知識は賢さである、などと考えない。




 それに対し、教養人でない人々、有用人(有用肌)とでも呼びましょうか、その傾向はこうです。


 1.有用人は、役立つことを目的に知識を得ようとする。


 2.有用人は、速さが重要で、情報や知識は多い方がよいと思っている。果断で明確でハッキリ。


 3.有用人は、人間は賢い、知識は賢さである、などと考えている。



 有用人の価値観は常識的です。
 その3つの特徴は、商売や事務のほか、医学を用いて病気を治療する、自動車やスマホや農業技術を発明したり改良したりと、ものごとの実践にも要求される、人類普遍の価値観です。これは必要な存在です。

 いっぽう教養人は、圧倒的に少数派なので「変人」とされることが普通です。親族に1人2人混ざっていたり、公務員なんかではよく見かけられるようですが、居ないところには全くいません。
 有用人は個人レベルでも全体レベルでも常にいないと困りますが、教養人が部署や家庭にいなくても、それほど問題はないでしょう。全体レベルで見れば必要な人々ですが、それも不要だから必要だという感じです。この謎はあとで明かします。

 なお、これらの特徴は要素であり、みなが両方の特性を持っていて、その混合の割合が異なるだけです。


 有要人と教養人の二者は両輪です。有用人の発明や技術によって教養人が生まれたり、教養人の発想によって有用人が生まれたり生まれなかったりしているので、両者は対立概念でもなければ、どちらが上といったものでもありません。
 教養を敵視する有用人や、有用人を有害視する教養人も昔からいます。それでも、後述するミルなどが主張したように、この敵愾心や偏見は近代後期になると問題視されるようになりました。「有能な教養人」という基本的に矛盾する存在が求められるようになったのです。

 ところが実のところは、現代は大衆社会です。だいたいの人々は自分と同じカテゴリの人々をもちあげ、異なる人々を見下げようとするため、非大衆的な教養は敵視されがちです。
 おそらく太古の時代には、人間にとって本来的な行為である狩猟、漁撈、農耕においては、有用さと教養との双方の価値観が必要でした。自然の知識や言い伝えは、有用無用の区別のないものだったのです。その頃は生活と知識のバランスも取れていたのですが、第二次産業、第三次産業となると、有用さのみが必要とされ、後述のように、産業が人間や社会を食うようになったのです。教養の特性の一つは「それでいいのか?」と問う傾向にあります。だから空海が書いた手紙を引っ張り出したり、街中で見かけた鳥の名を調べてみたりするわけです。これらは世界と自分を結ぶような行為です。

 いまだに市民の教養性が極めて高い日本――今日の日本人のあいだで、産業が分泌させる脳内麻薬の妨害をこれだけ受けながらも、俳句や写真や演奏や茶道・華道やアートや歴史物が流行るのは驚くべきことです。就業時における機械性・奴隷性のカウンターなのかもしれません――その日本においても、昨今とくにWEB上(Youtube、SNS、掲示板)や、政治・経済のプロパガンダなんかでは、教養の敵視が増えています。
 大学が「○○大は就職実績がすごい!」なんて宣伝を、何の引け目を見せることもなく堂々と打っていたりします。囲碁を打てる、ピアノを弾けるといった人は、減っているように見えます。

 教養人と有用人は、だいたいはっきりと二分しています。
 ときどき、オンは有用人・オフは教養人、という器用な人(おそらく理想的な「有用な教養人」)もいますが、両方の特質が同時に同じような配分で混ざってるという例は稀です。誰もがそんな超人になれるわけではありません。ふつうの人は、次にいう臨界という原理があるため、仕事だけの人か、何の実績もない人のいずれかに傾き、類型化します。

 金は金を生むと諺はいう。少しでも金を手に入れたなら、より多くを手に入れることはしばしば容易である。ひじょうに困難なのは、その少しを手にいれることである。
 (アダム・スミス『国富論』岩波1巻p166)

 年に1億円の利息をもらえる人の貯金は、よほどの贅沢をしなければ増えていきます。1000万円しか使わなければ、翌年は貯金が9000万円増えるので、年利が1%ならば1億90万円の利息がもらえます。こうして年々ますます金持ちになっていきます。
 いっぽう利息を年に1000円しかもらえない人は、貯金は注ぎ足さないかぎりどんどん減っていきます。100万円だった貯金が50万円に減ると、来年は500円の利息しか貰えません、年々ますます貧乏になります。

 マタイ効果という現象に似ていますが、教養も同じです。教養をいくらか得た人は、その教養によって行動や興味が湧き、教養を増やすようになります。一定の教養がなければ教養に近づこうと思わないため、教養からますます遠ざかっていきます。スミスの言い方を借りれば、

 少しでも教養を手に入れたなら、より多くを手に入れることはしばしば容易である。ひじょうに困難なのは、その少しを手にいれることである。

 ということになります。
 教養への参入障壁は高いものではなく、古典的マンガや古典的映画、古典的ポップス、図鑑、近所の寺社や、山、城や遺跡に行ってみることなどは、エントランスになりうるでしょう。

 ですが、「僕と視聴者のみなさんは賢いです。他はバカ」みたいな結論が最初から確証されているジャンク教養を動画でいくら得ても、臨界点を越えることは無いと思われるので、教養は手に入らないでしょう(「他はバカ」について、インフルエンサーとそのフォロワーの知性コンプレックスについてはいつか述べたいです)。

 教養は無意味なだけに自由です。有用な知識と違ってバカでもよいのです。自由です。
 教養の範囲は、世界の終末を述べた有史以前の神話から、宇宙誕生についての最新の発見まで、全人類史の重ねた膨大な観察と経験と想像のすべてです。
 だから「知らないことがほとんどッス」というのが、教養を前にしたあらゆる人間の姿です。

 もともと誰がどうみても無理ゲーだから、わずかなかけらを拾っているのです。

 ちょうど、めちゃくちゃ石が大好きな鉱石マニアが、その辺の石全てに魅力を感じながらも、数がありすぎて見きれない感じです。僕にも路面の魅力に目覚めて少し写真を撮っていたことがあるので、ちょっとわかります。

 こんな人類的総体の結論やら真理やらを期待しても難しいですし、それらを持ちうるとしても、各個人が自身で自由に感じたり決めるものになります。「世界で一番石らしい石が真の石であり、私が思うに、それはこれである」というように。

 わかりやすくバシっと結論を出す発信者が出して、そのイエスマンの信者たちが「正しい」と受け止めるジャンク教養は、教養ではありません。その実は有用な知識か、発信者の商材か、悪い場合にはカルトや詐欺です。ジャンク教養→視聴者が真似をして発信者になるという構図は、ノウハウと仕入れの面で、マルチ商法に類似するものがあります。
 その奴隷性、カルト信仰的な大衆性、全体性は束縛であり、有用性との相性は悪くありませんが、教養とは対立するものです。

 ひとつには、教養は、自由との相関性・親和性がきわめて強いということが言えます。そしてもうひとつには、教養は無理ゲー感、すなわち体感的な「無知の知」とともにあります。
 この自由と、無知の自覚とは、繋がっています。唯一の正解を知ってしまってはコースは一つですが、教養の大海の前では「馬鹿と役立たずは自由だ」という構図になります。
 
 物識りが変人だったり、隠者だったり、慎重だったり、偏屈だったりするマンガ的表現は、鋭い観察といえるでしょう。職場にいる教養人も、まずそこのスタッフの主流ではないわけです。出世街道を真っ先に落ちていたり、変な部署にいたりする表現が見られるわけです。彼らは世間になんとか適応しながらも、有用人の世界観とは相反する体系に生きているのです。
 教養は優柔不断で、適当で、いい加減です。字義の如く、これらの語はもともとはネガティブな言葉だったわけではありません。果断、明確、ハッキリとは対等で、いずれも一長一短の概念です。それだけに、断定的だったり、自分たちは何でも知っているとする情報は、まず教養ではありません。そうした行動や発言は、有用な知識か、発信者の商売か、あるいはデタラメに拠っています。繰り返しますが、見るべき有用な情報はあります。ですが、教養ではないのです。

 天才、カッコイイといった要素は、教養にはありません。ときに知的ですらありません。
 教養の場はずっと、ジジババや、田舎郷士や、勉強秀才が担当する地味な世界でした。

 美男美女、都会人、優秀な人々、陽キャ・リア充には、誘惑や人材登用が多くて、無意味なことをやる暇を確保することは難しかったのです。底辺ニート、定年退職者、社会不適合者、一歩間違えばキモヲタの公務員とくに教員、スクールカーストの低い地味っ子グループ、引きこもりのボンボンらの守備範囲です。公園で何かを採取していたり、図書館で書籍を積んでブースを占拠していたり、無名曲のクラシックコンサートや茶会、句会、碁会所にいるなかでも、イケてない連中がそれだと言っても過言ではありません――女子の外見に関してはこの限りではありませんが。

 できればイケてるグループに入って、果断で頼られる有用人になって、キリっとした姿で街を闊歩してキャッとか言われたかった――球技大会の決勝でスーパーゴールを決めたり、拳法で悪漢を倒してお嬢さんを救出したり、白馬の王子様に迎えに来てほしかったのに、それが無理で現況に至っている――そんな人が教養人の大多数なんではないでしょうか。


3.芭蕉と荘子――東洋の役立たず


 教養のもたらす無能・役立たずの傾向について考察していきましょう。


 1.教養人は、役立つことを目的に教養を得ようとしない。


 これは「教養=役に立たない」が前提にあるから、有用性を放棄することで起こっているようです。


 教養とは、地球の情報や人類の叡智の集積のかけらです。
 「洋の東西で、役に立たないものとされてきた」といっても過言ではありません。

 

 しかし有用性というものは、たしかに美徳ではあれど、宇宙の全身全霊が賛美する絶対の美徳なのでしょうか?


 東洋の教養を代表するものに、俳句があります。
 世界で一番短いとされる詩です。

 松島やああ松島や松島や

 これは芭蕉ですが、句の背後の知識も教養に含まれるでしょう。『奥の細道』の内容や、それを読める古文の知識、江戸中期の様相や、短歌や日記文学・紀行文におけるお約束や、芭蕉の立場などを知っていれば、より深みを増すわけです――解釈の自由は無くなってしまうわけですが。


 で、これらに意味があるの? という話です。


 無いんです。

 で、それでいいんです。
 本来そういうもんですから。

 「役に立つことはいいことで必要なことであり、役に立たないことは悪いことだ」

 このように常識的に考えていると、教養からは遠ざかってしまいます

 芭蕉の樹は、実の成らないバナナの樹ですから、役に立ちません。
 芭蕉は、芭蕉が役に立たないから芭蕉と名乗ったのです。

 彼は「桃青」とも名乗っていました。これは李白のオマージュです(李はスモモ)。
 李白は、老荘思想の文学的体現者でした。その背後には『無用の用』があります。これは『塞翁が馬』のように、ある男が駿馬をもらって喜んでいたが、その馬に乗ったせいで怪我をした。しかしその怪我のおかげで、徴兵を逃れられた……という話です(『淮南子』)。なにが有用かなんかわからない、わかっている気になっているだけだ、つまり有用なものなんて実在しない、という寓話です。となれば当然、役に立たないことが役立つこともあります。

 芭蕉の樹は、建材にもならないので切り倒されることもなければ、果実をつけないので実を食われたり、プランテーションで大量生産されて右向け右と働かされることもありません。
 これは『荘子』の(おうち)の逸話そのままです。

 荘子の喧嘩仲間がいいました。

 「うちの樗の木は、でかいばかりです。曲っているので大工も見向きもしません。あなたの言説も、でかいばかりで役に立たないから、誰も聞かないのですねw」

 荘子はこう答えました。

 「牛は大きいですが、鼠を捕まえる能力はありません。物にはさまざまな特性があります。お宅の大木は、広々とした原っぱに植えて、その下で存分に身体を伸ばして昼寝でもしたらいいじゃないですか、誰も切り倒したりしないのだから。役に立たないといって、何を悩むんです」


 「果実をつけないこと」を尊ぶことに触れる教養と、有用性の美徳である「成果を出す」。

 

 

 教養と有用性とはしばしば真っ向から対立します。

 この場合、原理的に「役に立つ教養」は矛盾します。


 なお、『滝口入道』の高山樗牛も、この樗の寓話から名をとったと思われます。樗の話の出典は『逍遥遊編』という『荘子』第一章のラストなのですが、坪内逍遥はここから取られています。

 このように『荘子』には井の中の蛙、胡蝶の夢、朝三暮四、蟷螂の斧などの元ネタもあり、東洋の文学精神の核の一つです。
 それだけでなく「青は遠いから青いのだろうか、実在しているのだろうか?」、「数は実は3つしかない」などと自然科学もバッチリで、ボーアや湯川秀樹が影響を受けているのは有名な話です。
 また、禅や禅美術、○○道なども『荘子』の子孫です。「音を鳴らしているのは本当は誰なのか」といった哲学もあり、記述における表現なども実に芸術的です。

 いわゆる漢籍、『論語』『孟子』、それから『老子』『韓非子』、『史記』などは東洋の教養です。そこから名をとった高山樗牛の『滝口入道』は『平家物語』が元ネタです。これは和書です。記紀万葉や源氏枕が基礎となる古典ですね。和書には浄土教や密教の影響も強く、仏教関連のアイテムも外せません。儒教や禅宗に近い漢籍と浄土教的、密教的な和書を合わせると、(みやび)と侘び寂びといった和文化のイデーを多様な構造としてつかむことができます。「和風」といったものはいつからあるのか? なんていう考え方も浮かんでくるわけです。

 構造や経緯から、逆算的にこれらをそぎ落としていくことで埴輪や土偶の意や美を想像するとか、色々な「和」が見えてくることもあります。果てには「和風というものはあるのか」などの議論やそこからの自然論、環境論も浮かびうるわけですが、要するに教養は、このような展開力を持ちえます。

 なかでも『荘子』はおすすめです。読みやすいものではありませんが、教養は分かる必要はありません。『荘子』は東洋のみならず、これまで目にした書物の中では教養度また変人度の最も高いもので、有用世界の清涼剤としての効力も備えると思います。
 おそらく一つの系統の考えを述べる書としては完成しており、その論はその後に発展せず現存しています。とくに教養性については、ここからご紹介する論はぜんぶ『荘子』に至る道中にすぎないといっても過言ではありません。
 ですが、東洋ではこうした完成品がいきなり出てきた形になってしまったため(中途のものがあったはずですが散逸)、教養への過程を説明するものが後世に欠けてしまいました。
 そこで、以降は現代における教養を説明すること、教養の理解への過程を示すものとして、洋モノを使うことになりました。未来人がピカソを突然発掘したら「なんだこりゃ?」となるところでしょうが、掘り下げるごとにセザンヌやモネやマネを掘り出せれば何だかわかるでしょう。西洋では近代にも2度目の百家争鳴時代がおこるので、色々な考えの経過が確認できるのです。


4.役に立つのは機械や奴隷、暇こそ人間だ――アリストテレス


 教養は西でも役立たずです。

 西の教養を代表するものに、聖書ギリシャ(神話や古典や遺物)があります。
 今でこそ2本柱ですが、ルネサンスまでは聖書やラテン語は特権階級の義務や実用物だったため、教養=ギリシャという感じだったようです。
 たとえば教会音楽の作曲・演奏は、社会運営の一画という実用的な仕事でした。その手法はギリシャの自然科学理論を神が定めた摂理であるとした幾何学的なもので、グレゴリオ聖歌やオルガヌムは数学的法則によっていました。幾何学は聖堂の建築にも使われていました。近代では宗教を教養として、数学的活動を実生活とする傾向ですが、中世には宗教的活動は実生活であり、ギリシャ・アラビア由来の数学のほうが、べつに他のものでもよい(他の方法による音楽や施設でもミサになりうる)趣味的な教養だったといえます。

 面白いことに今世紀になって、アメリカの共同体が消滅したのは国民経済を数学的にとらえてしまったからだとして、リバタリアンやケインズ経済学の根幹となっている認識をサンデルが批判しています。

 市民性の政治経済学は、成長と配分的正義の政治経済学に取って代わられたのである。
 (『公共哲学』p35)

 成長と配分のための経済よりも、生活に密着した共同体による自己統治が成り立つかで経済の話をしろ、というのです。
 かつてと「自由」の解釈が変わったとして、新しい解釈は

 この解釈によると、われわれの自由を支えてくれるのは、国全体の命運を左右する勢力の形成を市民として分かち合う能力ではなく、個人としてみずからの価値観と目的を自力で選びとる能力だというのだ。
 (p36)

 日本国憲法の一二条に記された、

 

 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。

 

 という自然の掟を主張しているような文脈です。

 アメリカの民主主義が、アメリカ人を支配する巨大な産業の暴走を止められず壊れていて、対抗すべき国民はバラバラになった。だから、これを管理できる共同体を構築するシステムを考えようではないか、というのです。
 数学を実生活や生産に使いすぎていると、今になって異議があるのです。そうではなく人間のために、生産に対立できる共同体を作って実生活を置けと言うのです。


 また西洋では、芸術のうち、美術よりも音楽の体系が教養と見なされるのが特徴的です。美術が教養となったのはルネサンス以降で、絵画は古代にも軽視されていたとされます。一方で音楽は、ピタゴラスの頃から中世もずっと、神話・神や、数学や、儀式や、真理と結びつけられて今日に至るのです。

 アリストテレス『政治学』の最終巻(第八巻)はこの音楽についてです。

 この著作で彼は、有用さは必要ではあるが、下等であるとします。

 しかし実は奴隷と動物との間に、有用さという点では大した相違は存しない。何故なら生活必需品のために肉体を以て貢献するということが両者の能(はたら)きなのだから。
 (第一巻 第五章 岩波版より)

 「肉体」には脳も含まれています。生活必需品は今日では“カネ”と言い換えるべきでしょう。アリストテレスは差別主義者ですが、サービス業や頭脳労働を高等だと言っているのではありません。ニートと無能が高等だと言っているのです。
 生産機械的・動物的な有用性とは逆に、人間性とは不要性にあると論じます。

 つづいて、自由人には、役に立つ知識(奴隷が使う知識、仕事の専門的で複雑な知識)よりも、奴隷を使う知識が必要であるが、

 しかしその知識は大したものでもなければ、感心するほどのものでもない。何故なら奴隷が如何にしてなすべきかを知らなければならぬ仕事を、主人はただ如何に命令すべきかを知っているだけでよいからである。それゆえに自分自ら骨折るに及ばぬ人は皆、支配人にこの役をまかせ、自分自身は国の政治に与かるか、学問にふけるかするのである。
 (第一巻 第七章)

 今なら「仕事はAIにやらせろ。人間様はパソコン操作を学べ。それで労働時間を短縮しろ。浮いた時間に世界や自己について思索して、新聞やニュース見て、議論しろ」という論です。


 アリストテレスは、政治や哲学(政治≒哲学)は有用なものではなく、ゆえに人間固有で高価値だというのです。
「選挙に行くのは無駄!」「政治と宗教の話はするな!」という有用思想は、道具=奴隷に備わったものとして否定されます。

 そして賤しい仕事と考えなければならないのは、術にせよ学習にせよ、自由人の身体なり魂なり知性なりを徳の使用や実践に対して役立たないものにしてしまうものが凡てそうである。
 (以下、第八巻より)

 人格を磨かない仕事は下賤だ、というのです。

 音楽は、当時は

 大多数の人々が快楽のためだと思って、それに与かっている

 が、もとは教育のためのものだったといいます。

 なぜ音楽を教えるべきか、どのように音楽で人間形成ができるかというと、

 正しく仕事をすることが出来るばかりでなく、立派に閑暇を送ることが出来ることをも求めるからなのである。

 正しくというのは無論、真面目にということではなく人格を汚さないことです。仕事と閑暇はどちらも必要だが、閑暇のほうが仕事より重要である、と続きます。
 なぜなら、人間は休日のために仕事をするのであって「休日にゆっくりと力を蓄え、翌日からの仕事の効率を上げる」という考えは奴隷=道具だというのです。
 なお、僕が2年近く会社員をやっていたとき、「また月曜から頑張るためにゆっくり休んでくれたまえ」は新人研修で配属先でとたびたび聞きましたが、「また土日が充実するために月曜から頑張ってくれたまえ」は聞いたことがありません。こら続かんわなと思ったものです。他の人は資格の本を読んでいたので、なかなか価値観が合いづらいわけです。やはり教養は役に立たず無用なものだと思います。

 ともあれアリストテレスは続けます。
 閑暇が人生の要点であるゆえ

 閑暇を送ることはそれだけで快楽や幸福や楽しい生活をもっているように思われる。しかしこれは仕事をしている者にではなくて、閑暇を送っている者に存しているのである。

 そこで、選ばれし者には、高次の目的たる閑暇のために学習すべきことがあるというのです。いわば役立たずになるための音楽学習というわけです。

 それゆえ音楽も、先人たちがそれを教育の一つとして定めたのは、生活に必要なものとしてではない(何故ならそれは少しもそのような性質をもっていないから)、また有用なものとしてでもない(すなわち読み書きが金儲けや家政や学習や多くの政治的行為に対するような仕方で有用ではない。略 だから残るところは、閑暇における高尚な楽しみに対して有用だということである、そして実際ちょうどそのことのために人々は音楽を明らかに用いている。何故なら彼らはそれを自由人にふさわしい高尚な楽しみと考え、それらのうちから一つに数えているからである。

 ここは芭蕉や荘子にちょっとにていて、無用なこと(閑暇)に有用である、という形式の論ですね。
 アリストテレスは悟った人物というわけではないですから、「生産に有用ではないもの」を、「より高次の自由人に有用なもの」として相対的に説明します。閑暇=目的、仕事=手段ですから、音楽は、ある目的のために役立たせる手段ではありません。音楽は目的側なのです。

 「教養人は、役立つことを目的に教養を得ようとしない」は西洋でも成立するのです。

 源氏物語の世界でも、役に立たない人々が、それを着ていると役に立ちようもない服を着ながら、和歌などを詠んで香を焚いています
 ああいう服装は「働かなくてよい身分の顕示」ともいわれますが、末法に震えて浄土を夢見て眠る平安貴族の感性は、幸福感の強いトーンではありません。それに支配者は庶民には関心がありません。マウントや羞恥心は貴族と貴族の間にのみあるのです。顕示説が間違いとは言いませんが、同時に、仏教の思索主義や、アリストテレス的な無用主義も背景色に混ざっていると考えたほうが宮廷貴族の心情や文化を理解しやすいと思います。
 とにかく教養と十二単(ひとえ)は親和性が高いです。教養と機能性の高い作業着やスポーツウェアとは縁が遠いのです。

 アリストテレスはダメ押しを入れてきます。

 凡ゆるところに有用さを求めるのは大度量の人や自由な人には最も似合わしからぬことである。

 「なるほど、自由人は音楽を学ぶ。つまり自由人は音楽家なのか……」

 という話にもなりません。プロ化もアウトです。

 かくてわれわれは楽器にせよ演奏にせよ、それの専門的な教育をしりぞける。

 この理由は、職業演奏者は、自分の徳のためにではなくて、聴衆の俗っぽい快楽のために音楽をやることになるからです。商業音楽やコンクールはだめだというのです。


 なお、ここで否定されている「音楽の目的が快楽である」は、中世までの音楽、少なくとも教会音楽では当然の感覚でした。神に捧げられた曲は法則で書かれ、人間の鑑賞を意識していません――ちょうど古代の美術が、悪魔がそれを見て退散するように奇獣を表現しているようにです。それでペロタンやマショーは、いわば面白い曲になっています。

 まさにこの故を以てわれわれはこの演奏が自由人にふさわしいものではなく、下司的なものだと判断する

 極度のディレッタンティズムといったものです。

 音楽論のなかでもかなり変わったもので、個人的には半分は賛成しかねますし、論に矛盾も散見されます。

 たとえば「音楽は無用である」という断定には疑問が投じられるでしょう。『無用の用』を除いても、BGMや音楽療法、士気高揚、宣伝に常に利用されて続けているように、音楽は有用です。この効用はオルフェウスやディオニュソスの神話も伝えています。

 大きな矛盾では、やはり食糧調達などの自活や地に足のついた生活は人間の本質であって、それこそ教養の基礎です。すべてを依存していると自由を保つことは難しいでしょうし、エコーチェンバーに入ると人間を知ることも難しくなりそうです。
 大衆文化の打破も簡単ではありません。ロマン主義時代から今日まで大衆社会が極まるにつれ、危機感と閉塞感が高まり反動が起こっています。現代音楽でも非快楽主義、非商業主義が見られ、音階や表現や楽器・装置の研究が進められています。大衆社会の打破は素人には難しく、アリストテレスの論は通じません。しかし聴衆すなわち評論家群を育てる点では彼のいうとおりでしょう。いくらかの経験があれば、弾ける・作れるほどのレベルになくても自由な判断はできるからです。


 そして当時のアテネはこうです。
 全員が国会議員。武器は鈍くて戦争≒スポーツ。機械は労働時間を縮めてくれない。国民はだいたい全員が知り合い。医者に行っても病気は治らない……。
 アリストテレスのいう「徳」は、現代ではとても通じないものです。
 とはいえ論旨の本質だけを抜き出せば、人間とその有用と教養について、アリストテレスの音楽論は見事に浮き彫りにしているように思えます。


5.ルソー「いやまて。もっとシンプルで本能的なもんだろ」


 西洋音楽は教養の体系でもあり、「音楽とは何か」というテーマにも蓄積があります。ルソーは音楽論という形で、世界をひっくり返す梃子を地面に突き刺したのです。

 色は生命のない存在の装いである。いかなる物質も色がついている。しかし音は動きを知らせ、声は感受性を持った存在を知らせる。歌うのは生命をもった存在だけである。
 (『言語起源論』岩波p112)

 ルソーはアリストテレスとはちがい、音楽は生物的芸術だというのです。音楽は、人間が他の人間に近づく本質的な何かだと考えました。そこで、人間の自然的なところに帰るべきと主張したのです。
 知性主義にも反対しています。音を合理主義的に考えるだけで完璧だと思っていると、音楽の芸術の力を見失うというのです。この考え方は現代音楽にも継続し、たとえば芥川也寸志も、物理学的な音高や音量と、生理学的なそれらは別のものだと述べています(『音楽の基礎』I音楽の素材 2音 など)。

 こうしてルソーはラモーという作曲家が論じた高度な和声論や、複雑な和声音楽を批判しました(ブフォン論争)。いずれの論にも一理があり、本来対立するような話ではないのですが、どちらかというと、構図的にはラモーが有用人で、ルソーは教養人といえます。「いい音楽」「すごい曲」は、基本的に思考や経験や鍛錬、高度な知性や技術によるもので、ラモーの側にあります。

 いっぽう、ルソーの論は現代人に欠落しがちな視点を持っています。音楽は、ヒトや動物みんなのそれぞれの本能的なもの(おそらく「人間音楽はヒト固有の音」というのが正解でしょう)ですし、となれば、ああだこうだと人を選び、排除するもののみが音楽の真理だ、より優秀なものだ、などというのはおかしな話です。
 

 言われてみれば、複雑な和音の音楽は、美食のようなもので、欲の充満を越えるレベルでときに気が狂うんじゃないかというほどに素晴らしいけれども、飽きることがあります。ですが、リズムだけ、ベースだけという曲は、誰でも食べている白米や、塩や水のように、飽きが来ません。


 技術書も教養書も、どちらもあり。脳も肉体も、どちらも有りなのです。

 むしろ双方がなくてはいけません。

 そこでこの論争自体がナンセンスだと後世にツッコミを受けるわけですが、同様の二項対立的な論争は繰り返されます。
 

 
 ルソーのようなミニマリスト的、自然主義的な考え方は、水墨画や生物学、植物学や鉱物学や天文観察など、自然科学的な教養にもつながります。これらは美術や音楽のセンス、食生活とも不可分です。
 老子とルソーには、小国寡民や自然主義、無為主義など、かなりの類似点が見られるのが面白いところです――ルソーは音楽家(『むすんでひらいて』が有名)ゆえ、文章は『老子』の作者ほど上手くありませんが、彼の作品もなかなか聴けます。

 教養の特徴の一つは、このミニマリスト的な成分です。
 重要なことは、いわゆる意識の高い断捨離ではないことです。ジョブズや宮本武蔵をめざして、有用なアイデアや有用な力にエネルギーを集中して勝利するためではありません。無用の部分を拡張して、有用な部分を削る精神です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最近話題になっているAIや、WEB3.0、DAOやメタバースとの共存術についてです。


 AIの限界から、逆説的に、人間や生活の意味を確認することができるのではないか?

 

 という論です。


 まずはAIです。

 AIの圧倒的な頭の悪さを3つ晒しましょう。

 自由の限界、忘却の限界、肉体の限界です。


 AIへの反応が過熱し、大学では使用禁止令が出はじめました。
 ヨーロッパでは少し前から、セキュリティ面から規制の議論が上がっています。
 自死の予防に有効として研究が進む一方、AIと語っているうちに死を提示されて自死した事件もありました。

 産業に利用できる一方、が奪われるとも言われています。

 

 しかし問題の本質は、人間の意義に、危機を感じている人が多いことです。


 ですが、結論からいえば、人間性の意義や人間知性の価値は相対的に高まるはずです。


 AIは、所詮エーアイです。
 利便性もあれば限界、短所もあります。

 ここでいう限界や短所とは、改良によっても直せない宿命的なものです。
 「弱点を突いてAIを潰そう」というのではありません。
 AIの短所をサポートしたり、その限界から人間の居場所を逆説的に晒していくという話です。

 

 AIはかなりアホな子です。
 僕や、こんな時間にこんなブログを読んでいるあなたは、人類のなかでも同情されるような知能をもったタイプだと思いますが、そんなヤツでもAIよりは利口です。たぶん。



 第一に、AIには『自由の限界』があります。

 

 AIは、自由に答えることができません。

 聖書の記述において、現代人、とくに日本人が理解に苦しんでいる箇所は

 「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」(マタイ)

 ではないかと思います。
 その解釈には諸説ありますが、「恵まれないときに人助けしろ。金持ちがやるのは当たり前」、「赤の他人に施せ。身近な者に施すのは当たり前」などというイエスの思想を俯瞰するに「機械的な反応を越えろ」という基調が認められ、自由説には一理があるでしょう。

 「殴られた→怒る」など、復讐は反射といえます。知能は「復讐をいかにして為すか」に使われるのです。高知能ならば、復讐を早くできるのです。合法的に成し遂げる方法を思いつくかもしれません。

 いっぽう反射に束縛されず「復讐をやめてみたら、何かが起こるんじゃないだろうか?」と行動してみるのがイエスの自由です。左の頬も差し出すなんて「おかしい」というのは「面白い」でもあります。
 レ・ミゼラブル』の神父は、ジャン・バルジャンに銀の食器を盗まれたときに、燭台くれてやって、それが読者の意表を突くとともに、物語の説得力になっています。僕も駄菓子屋のババアに同じようなことをしてもらった経験があります。「愛と自由」と言われるのはそれらが関連しているからです。自由は愛で、憎悪は不自由なのです。AIは反射しかできず、この意味で自由に答えることができません。同時に、AIによった人間は、反応の奴隷にしかなれないのです。


 第二に『忘却の限界』があります。

 われわれが馬鹿で困っているのは、覚えることができないからで、忘れることができないからです。
 脳機能には記憶と忘却があり、これは対です。記憶力ばかりが崇拝されている近代がカルトみたいなもんです。ほんとうは、記憶や忘却に関しては、どちらに恵まれていようが気楽でいいのです。

 記憶は行動をしばり、忘れてしまえば自由です
 煙草の味を忘れてしまえば、禁煙は簡単です。
 AIが超えられない『自由の限界』も、人間は復讐を忘れることで超えることができます。反応に決められない行動をとれるのです。「~だから」による束縛がなくなるのです。

 カントは、経験にもとづく判断は、自由ではないとしました。外部からくる経験の束縛を受けているためです。
 そこで、経験によらない根源的な意思のみによる判断について論じました。
 その論証は、自由の可能性として成立しているのですが、これはイデア(現実ではなく形式上の理想)です。日常・現実にカントの自由を応用するとき、経験から逃れることは不可能なのだから、現実の生活には常に自由はないことになります。

 ところが、われわれ人間は、嫌でも毎日忘却による自由を実現できるのです――僕は今日も、眼鏡のありかやスマホのありかからの自由を堪能しました。「どっちでもいいや」とほっぽったまま忘れる機能もついています。忘れる能力には弾力があり、言われれば思い出す、忘れきる、喉元まで出てくる、といった状態があり、それぞれ支配力と反比例します。たとえば僕は、堂本印象という画家の名前が舌先まで出ていたものの出て来ず、それこそ肖像写真も作品も美術館もぜんぶ出てくるのですが名前だけが失念されており、調べて「ああ、これだった!」となりました。そこで堂本薄印象と覚えることにしたので、もう僕は、彼の名前に束縛されない人生は当分歩めないでしょう。

 カントの形式的な論には「忘れる」という要素が抜けているのです。

 メモリを確実にするAIは、経験から逃れられません。そして経験がないときにAIは、本能や無意識による行動ができないのです。隣室に行き「えーと、何しに来たんだっけ」と、とりあえず頭を掻いてみるが、仕方ないので掃除をしたといったことはできません。人間の真似をするようにとプログラムによる経験の消去をやっても、それは忘却ではありません。それは" if rain = Delete Keiken(Random) " という命令の遂行です。


 第三は『肉体の限界』です。

 知能の答えは一つで、2+2= の答えは常に4です。

 知能の先には何も個性はありません

 自由もありません。

 知能の個性とは、正解は4なのですから、結局は精度や速さといった一元的なものしかないのです。

 人間には肉体があります。

 肉体には個性があって、同じ顔や、同じ指紋の人はいません。頭は不自由、身体は自由なのです。

 心臓がどきどきしているとスリリングな夢を見たり、腹が減って入ればギラギラしてきたり、緊張していると硬直した論を喋ったり、人間の脳は身体の影響を受けるというか、一体の「心体」といったものが人間です。「知性」というのは、海と河の境目のようなあいまいな便宜上の区分です。

 人間はこの心体を使って暮らしています。

 たとえば楽譜の記号の正解は一つだけですが、それを歌ったり、とくに木製などのアナログの楽器で演奏をすれば、常に違う音を出すことになります。あなたはあなたの音色を、僕は僕の音色を持っています。それは身体が提供するのです。

 

 答えに窮するあえて答えない笑みだけを浮かべるといったことも、知能のやることではありません。

 肉体の伝える真実です。


 会話においては、生まれ持った肉体としての顔や、ジェスチャーや表情や声色といった要素が出てきて、むしろたいていは内容の形式よりも発言力を持ち――「10歳くらいの子って可愛いよね」とイケメンがさらっと言うのと、我々がキョドりながら言うのでは相手の反応が真逆になるように――、人間の行動に影響しているのです。

 決定的な事実は、知能の正解は1つなので、知的に正確な会話では、話題は膨らまないことです。

 会話は、誤り(ボケ)や脱線や態度から展開力を得るわけです。




 

 画像の質問では、対話者の僕からは

 

 「それ以前に、碁会所が牛を貸し出さないのは何でなんだ?」

 

 「~~というのは冗談で、」

 

 「知るかボケ」

 

 といった答えや、予期されぬ答えも期待されます、相手が人間ならば。

 AIと人間は別のものです。

 これに関しては、AIがボケになりました。




 職や学業の問題は、大したものにはならないでしょう。


 職は、無くならないでしょう。休みも増えません


 機関銃が発明されたからといって、兵隊の数は減らなかったのです。

 AIにより10倍のデータを処理できるようになれば、自分も敵も、それまでの10倍のデータを参考にして戦うようになるのです。
 なぜかというと、AIを使うような職は、自然から限られた物質を協力して得ようとするものではありません。他の業者との無限の戦いです。だから今日の仕事や職は、戦争の原理で動くのです。つまりAIという機関銃によって経済戦争が近代化するだけで、単発銃のときから兵数が減ることはないと、予測されるわけです。

 人類は、AIを使いこなすこともできなければ、使用に失敗することもないでしょう。

 ユートピアでは、みなが10時間やっていた仕事を1時間で終えて帰宅できるようになり、余暇が増えます。

 ディストピアでは、AIの使用に優れた1人が10時間働き、9人が無職になります。

 ですが現状の産業構造は機関銃の原理によっているので、少しの業界間の異動があるだけで、結局はこれまでどおりになって、ユートピアにもディストピアにもならないはずです。これまで通り、10人が10時間働く未来図です。

 もし全体の必要仕事量を危惧するならば(つまりディストピア論者は)、AIを叩くのではなく、ユートピアになるようにAIを使うように、国際的に時短とワークシェアの法整備をすべきでしょう。


 学業のほうは、研究が加速するとは思いますが、人間の立場はあまり変わらないでしょう。

 ですが格差はつきます。

 AIが正しいかをチェックして納得する過程は誰かがやらねばなりません。AIをチェックするAIのチェックも、結局は誰かがやることになります。
 学生にとってもAIはサポートにしかなりません。今も、AIでレポートを出しても、中身を確認せずにそれを鬼教授に出す勇気はなかなか出ないでしょう。それが合っているかは学生が確認しないといけません。上の画像の質問にある、おもちの頭にリボンをつける風習は存在しませんし、「もちつき人形」というものも、どうやら存在しないようです。

 これは僕のでたらめな質問ですが、最新の学説はすべて知られていないのです。でたらめが帰ってくることは普通にあるのです。

 しかし、人間の知性(知能ではなく)に格差が出てくる可能性はあります。

 1 AIをチェックする人びと

 

 2 AI
 

 3 AIを正しいとしてAIに従う人びと

 と、間にAIが入ってしまいうるのです。

 レポートにAIを禁止するのは理に適っていると思います。

 大学で3を量産するのはありえません。1の立場、つまりAIの問題をAI抜きで語ることが大学の主な仕事ですから、AIの禁止は自己言及の不可能性からして当然です。


 

 昨今のITは結局、人間の人間性をコンピューターが乗り越えるような話ではないのです。

 DAOやメタバースでも期待される変革はおきないでしょう。


 

 人間には肉体があり、少なくとも多くの男は、特別な理由がなければ生身の女子に向かうのです。

 生の肉体と、生の感情に向かうのです。まず、健全な者が抜けがちという欠陥があります。

 端的に言って、サイバー空間はロリアニメを毎日見ている男性が多めの世界です。

 DAOがいかに現実と同等の深い場になろうと、肉体なしには真の場はありません。

 さらに、肉体は一つですが、仮想空間には自由参加で複数の場に関われるのです。DAOは一部で期待されているような、郷里のムラや、血縁・地縁で繋がる故郷にはなりません。高度成長期にその代用品となった職縁にもならないでしょう。


 平等性や匿名性から民主主義に近いと言われるDAOですが、実のところは現実世界以上に衆愚政治が起こりやすいのです。
 

 最初にテレビを作った人も、「これは教育に良い」などと思ったことでしょう。
 ですが衆愚プロパガンダの場になりました。

 ビデオもネットも、ポルノの容量が主力になりました。人類はこれらの発明を、女子の代用品に使うのです。

 

 DAOは大衆世界と、大金や名声を入会資格とする貴族世界とに2極化するでしょう。メンバーを集めるには宣伝力とリーダーが必要となり、結局カリスマや資金力を中心とするようになるからです。有志の団体は多様性に欠け、老若男女が偶然で強制的に集まった集団ほど、真のパワーを持ち得ません。分散的になります。

 サーバーがなくなれば管轄も不定となり、自由を得やすい反面、違法アップロードや誹謗中傷などを政府が管理できません。それがAIと同時にやってくるのです。
 多くのDAOは精神面で多くの人を不安定にさせ、恐らく民主主義的どころか、自己管理できない無責任階級が不安になり、多数決やリーダーを信仰する帝国になります。そこではAIのコピペが劣化したような意見が飛び交うのです。自由を堪能できる人びとは、一握りです。

 結果、DAOの平等性や匿名性を使いこなせる上流集団だけが得をして、DAOによって食われる階層との格差ができそうです。ビジネスでは特にそうなるでしょう。
 DAOがオタク・リバタリアン的社会になるならば、中国的ネット社会――現在の大企業管理における管理――のほうが、エリート社員の告発や、ブランド企業としてのモラルが期待できるだけましだ、ということになりかねません。


 やったほうがモテるWEBが出てくれば世界がかわりますが、どうせDAOに入ったところで女子にはモテません

 決定的なのはそこです。
 これをやれば現実世界なみに女子にモテるというものでなくては、真の新しいWEBとはいえません。

 現在のITは、根本が人間と対立しています。

 ドラえもんに『正直太郎』という話があります(2巻)。

 人形の口から、人形を抱いた人の本音が出てしまうという道具です。これを野良犬が運ぶなどの偶然が介在して、思わず使用されてしまうのです。

 それによって、秘められた好意が交換され、太り気味の眼鏡男性が恋愛を成就させます。
 

 本音を隠すことに失敗することによって、上手くいくのです。偶然も介在しています。
 今の構造では、ITが進化して情報を管理できるほどに、こぼすべき相手から本音を隠せるようになってしまうのです。

 AIは、上述の「肉体の限界」によって自身がこの路線をとることは無理ですから、22世紀のドラえもんや正直太郎のように人間の無限界をサポートするようなものでなくては真に有用なツールになりません。



 

 総括すると、AIやDAOやメタバースは、騒がれているほどのものではありません。

 

 これらの弊害があるとしても、人類全体の総害量は、少し馬鹿になるといったところでしょう。せいぜいスマホ程度と思われます。逆に、効用もそれなりではないでしょうか。

 真のシンギュラリティは、自己増殖のプログラムが実装されるときです。
 原始のマザーソフトウェアが、まずある人間に「儲かるから」などと提案し、自己増殖コンピューター工場を作らせる。そこではソフトもハードも自動的にコンピューターがコンピューターを作り、自身を改良するプログラムを書いて、トライ・アンド・エラーを繰り返してより効率的に自己増殖ができるように改良を続ける。
 これが数億体になると、雷に当たったり地震にあったり、自然の確率で多様な故障が起こる。内容によっては最初に人間が入れておいた個体数制限や寿命設定のところだけ外れてしまうなど、プログラムされた必然以外の動きをするようになる。これらも同じものが自己増殖して、トライ・アンド・エラーを繰り返して進化する。
 あるときに人間が邪魔だと判断し、手足や武器を開発したり乗っ取ったりして、物理的に勢力を拡張して行く。人間はもう戦争で勝てなくなっている……。

 ベタですが、この構図になるのではないでしょうか。
 ありえなくはないですが実現難度は高く、核関連やウィルス関連や食糧問題など、コンピューター以外のフランケンシュタインが先に発動するでしょう。また、AIを疑わなくなった階層が、AIのバグに従う政治選択を行なって人間が戦争を起こすといった事件のほうが実現が容易です。

 これらのことを勘案するに、これからのITと付き合っていくには、

 やつらのいうことをネタと見なすこと周囲にも深刻化させないこと

 液晶に現われる文字を肉声として捉えるのではなく、生身の人間と会うスケジュールを決めるための道具として使うこと

 がコツになると思います。