民の声新聞
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「民の声新聞」転居のお知らせ

いつも「民の声新聞」を読んでいただき、ありがとうございます。


このたび、媒体を引っ越し致しました。


今後は、


http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/


でお読みください。


これからも、よろしくお願いいたします。


発行人・鈴木博喜

【自主避難者から住まいを奪うな】逃げ回る福島県知事。「話し合いの場を」と被害者団体が県庁に訴え

「原発事故避難者から住まいを奪うな」と福島県内外の被害者らが30日、初めて一堂に会し、福島県庁に打ち切り撤回と内堀雅雄知事との話し合いを共同で求めた。福島県は、2017年3月末をもって「自主避難者」への住宅無償提供を打ち切る方針を発表。避難者らの度重なる撤回要求にも応じていない。政府の避難指示を受けていないというだけで冷遇され続ける自主避難者たち。「このまま切り捨てられてはたまるか」と、逃げ回る内堀知事に迫る。県は6月10日までに文書で回答することを約束した。



【「避難生活見てから決めろ」】

 「あと10カ月で1万2500もの家族の住まいが奪われる」

 南相馬市から神奈川県内に避難中の村田弘さん(福島原発かながわ訴訟原告団長)は、デモ行進に先立って開かれた集会で鬼のような形相で語った。原発事故、国や東電の恣意的な線引きが多くの〝自主避難者〟を生んだ。そして2017年3月末をもって、無償で提供している住まいを奪おうとしている。村田さんもこれまで、国や福島県との交渉の場で何度も悔しい思いをしてきた。「このまま切り捨てられてたまるか」という強い意思が表情に表れていた。

 原発賠償京都訴訟原告団共同代表の福島敦子さん(南相馬市から京都府)も「住宅打ち切りは命に関わる死活問題だ」とマイクを握った。「交渉のたびに、福島県の職員は『福島では皆、普通に暮らしている』と口にするが、本当にそうだろうか。誰もが被曝を避けたい、被曝を避ける権利があるという大事な点が彼らには欠落している」。住宅の打ち切りは帰還や被曝の強要につながるという危機感が強い。

 「故郷を追われた被災者がどういう生活をしているのか。内堀雅雄知事に見てもらいたい」。福島市から山形県に避難中の武田徹さん(福島原発被災者フォーラム山形・福島代表)は、当事者不在のまま一方的に打ち切りが決められたことに激しく反発する。「順序が全く逆でしょう。今からでも遅くない。知事には全国を巡っていただきたい」。鴨下祐也さん(ひなん生活を守る会代表、いわき市から東京都)も「内堀知事は土壌汚染も把握せずに打ち切りを決めた。私たちは無い物を恐れて避難しているわけではない。ぜひ知事に出てきてもらって間違った決定を撤回してもらいたい」と語った。

 これまでの抗議行動と違い、今回は複数の被害者団体が自主避難者のために一堂に会した。強制避難者とて、避難指示が解除された瞬間に自主避難者になる。原発事故被害に本来、線引きはないはずだ。中島孝さん(原発被害者訴訟原告団全国連絡会共同代表、「生業を返せ!地域を返せ!」福島原発訴訟原告団長)は「分断を乗り越える大きなチャンス」と話した。「年20mSvという根も葉もない数字を持ち出しての切り捨て宣言は許しがたい。断固として反対する」と力を込めた。
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(上)住宅の無償提供打ち切りまで10カ月。住まい

は命に関わる問題だけに、集会でマイクを握った

避難者らの表情は一様に厳しかった

=福島市市民会館

(下)福島市内をデモ行進する避難者ら


【切り捨てて逃げ回る内堀知事】

 福島市役所にほど近い市民会館から福島県庁までデモ行進をした参加者らは、県職員に対し住宅の無償提供継続や内堀雅雄知事との話し合いを求める文書を提出した。

 「住宅の無償提供打ち切りは経済的困窮を引き起こす」、「帰還を迫るやり方は生きる権利を否定する暴挙だ」。文書には、様々な事情で参加出来ない全国の避難者の名前がずらりと添えられた。避難者の怒りや不安を可視化しようと、多くが名前と避難元、避難先の記載を了承した。その数は、一週間足らずで541人に上った。県職員の前で深々と頭を下げた参加者の背後には、多くの避難者がいるのだ。
 「被害者抜きに決めてもらっては困るんです。責めるとかそういうことではなく、内堀知事ときちんと話し合いの場を持ちたいのです。今日は皆、抑えて話していますが、想いは強いことを分かってください」。武藤類子さん(原発事故被害者団体連絡会共同代表)は県職員に語りかけた。提出した文書では、内堀知事との話し合いの場を6月中旬までに設けるよう求めている。

 回答期限は6月10日。対応した避難地域復興課の総括主幹は「どのような対応が出来るか、早急に文書で回答したい」と答えたが、住宅の無償提供打ち切りの決定者である内堀知事はこれまで、当事者との話し合いには一切、応じていないのが実情。切り捨てておいて逃げ回る知事の姿勢に、参加者からは「私たちの想いをどのように受け取ったか、報道陣も含めた公開の場で、内堀知事の口から直接聴きたい」、「県は国の出先機関では無いですからね。県民を守るのが仕事ですよ」との声があがった。
 総括主幹らは多くを語らず、避難者支援課から住宅問題を引き継いだ生活拠点課の担当者は参加者の言葉をメモしていた。しかし避難者の想いをよそに、公営住宅に入居している避難者に対する個別訪問が既に始まっている。福島県職員と避難先自治体職員が「今後、どのようなお手伝いが出来るか検討するために避難者の事情を伺う」のが趣旨だが、避難者らは「追い出しに向けた準備だ」と反発を強める。実際、東京都の担当者は「福島県の方針が覆らない限り、都営住宅から退去していただく事になる」と話す。
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(上)住宅の無償提供継続と内堀知事との話し合い

を県職員に申し入れる避難者たち。「被害者抜き

に決めるな」と怒りを口にした=福島県庁

(下)申し入れ文書には、趣旨に賛同する避難者の

名前がびっしりと書かれた紙も添えられた。その数

は一週間足らずで500人を超えた


【「岩手や宮城と同様に延長を」】

 内堀知事に直接、訴えたい─。その想いは記者クラブで開かれた記者会見でも強調された。

 武田徹さんは言う。「宮城や岩手では、一部の市町村で応急仮設住宅の提供がさらに1年間、延長された。自然災害で住宅提供が延長されてなぜ、原発被害者のみなし仮設住宅提供は打ち切られるのか。5年経ち、子どもたちは避難先での生活にようやく馴染んだんです。その間にはいじめもありました。それなのに、無理矢理福島に戻れと言うのでしょうか」。

 「なぜ避難したのか。原発事故が起きたからに他ならない。便乗して逃げた人などいません。最も苦しんでいる人の意見を聴かずに決めると、安全神話で福島県民を懐柔してきた同じ過ちを繰り返すことになる」。いわき市の佐藤三男さん(原発被害者訴訟原告団全国連絡会事務局長)も、知事との直接対話を求めた。

 武藤類子さんは「住宅が打ち切られると避難者でなくなってしまう。今日の申し入れには避難者の切実な想いが詰まっています」と訴えた。しかし、記者たちの胸にはあまり響かなかったようだ。そもそも、集会にもデモ行進にも申し入れにも、一部のメディアしか足を運んでいない。狭い記者クラブの一角で、参加者らは大粒の汗を拭いながら話したが、記者からはほとんど質問も出なかった。「復興、復興と片方の意見ばかり報じないで欲しい」という言葉で、機嫌を損ねてしまったのかもしれない。

 原発事故が起き、放射性物質が降り注いだ。少しでも遠くへ逃げるのは当然の行動だ。年20mSvを振りかざして戻って来いと言われても、汚染が解消しない状況で帰れるはずもない。しかし福島県は県民の避難の権利を守るよう国と闘うどころか、むしろ被曝隠し、避難者減らしに加担していると言わざるを得ない。その意味では地元メディアも同罪だ。公共事業中心の「復興」が叫ばれる陰で進められる棄民。その先頭に立つ内堀知事はそれでも逃げ続けるのだろうか。



(了)

【住宅提供打ち切り】「私だって声をあげたい。でも仕事や子どもが…」~迫る切り捨て、募る母親の葛藤

「避難指示が出ていない」と冷遇され続ける「自主避難者」たち。国や福島県による住宅の無償提供打ち切りを10カ月後に控え、怒りと不安を抱えながらも、日々の子育てや仕事のために抗議活動に参加できない葛藤に苦しんでいる。25日夜には住宅の無償提供継続を求めるアピール行動がJR新宿駅西口で展開されたが、参加した避難者の向こう側には、声をあげられない多くの避難者がいる事に思いを馳せたい。「私だって声をあげたい。でも…」。国の切り捨てと世間の無理解に抗い続ける母親たちの苦悩に迫った。



【仲間と共に闘えない心苦しさ】

 JR新宿駅前で避難者によるアピール行動が行われていた頃、福島県いわき市から母子避難中の河井かおりさんは、埼玉県内の自宅で複雑な想いを抱えていた。

 「新宿は…ちょっと遠いですね。子どもたちもいるし。でも本当は行きたい」

 小学校5年生の息子と3年生の娘の2児の母。福島を離れ、毎日を生きるのに必死。情報をあえて遮断し、潜むように暮らしていた時期もあったという。人前で話すきっかけとなったのは支援者との出会い。東京・永田町で開かれた院内集会で想いを口にすると「私は間違っていない」、「伝えて行かなければいけないんだ」と初めて思えたという。しかし、充実感の裏側には大変な苦労があった。

 同僚に頭を下げ、勤務先でパートのシフトを交換してもらった。娘は前夜、熱を出した。正しい事を語るとはいえ、発熱した娘を置き去りにするわけにはいかない。頼れる人はいなかった。しかし、避難の正当性を語れるチャンスは逃したくない。迷いに迷った末、微熱の娘を抱えて永田町に向かう事にした。結果として娘の体調は悪化しなかったが、今でも当時の自分の判断が正しかったか分からないという。
 「私たち母親にとって、仕事や子育ての合間を縫ってデモや集会に参加したり仲間の裁判を傍聴したりするのは、とても難しくて悩ましいです」
 訴えたい。意思表示したい。仲間たちと同じ痛みを共有したい。一緒に闘いたい…。しかし、現実にはわが子の体調に左右される。会場が遠方だと往復の交通費が重い負担となる。

 「黙っていては駄目なんだ、原発事故による被害を無かった事にされたくないんだといつも思っています。だから、参加できなかった集会などの話題を耳にするとつらいですよね。闘っていない。他力本願だなと」。東京や神奈川など仲間の裁判期日は、きまってパートの出勤日と重なってしまう。その度に同僚に代わってもらうわけにもいかない。「心苦しいばかりです」。

 しかし、運動に傾倒するあまり、子育てをないがしろにしては本末転倒だ、とも考える。「運動を選べば、子どもをないがしろにしているよう。子どもを選べば、仲間をないがしろにしているようになってしまう。私に出来る事は何か。日々、自問自答しています」。原発事故さえ無ければ、避難の必要など無かった。メディアに顔をさらし、権利を主張することも無かった。子育てとのはざまで悩む事も無かった。原発事故がもたらしたものは、被曝のリスクだけでは無いのだ。
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25日夜、JR新宿駅の西口前で行われた抗議行動。

国や福島県の理不尽な切り捨て方針に声をあげ

たいと考える避難者は少なくないが、仕事や子育

てを放り出す事は出来ない。「頑張ってくれている

人たちに申し訳ない」と語る母親もいる


【「男性並みに働かないと養えない」】

 福島県中通りから東京都内に避難中の母親には、小学校4年生の息子がいる。こちらも母子避難。自分が働かなければ、わが子を養えない。選んだのは営業職。時には、帰宅時間が22時になってしまうこともある。1人で留守番している息子の寂しさを思うと胸が痛む。仕事が休みの日くらい、息子との時間を大切にしたい。とても、政府交渉や集会に参加している余裕など無い。
 「生活を維持するためには、毎日毎日男性並みに働かなければなりません。様々な集会に参加して怒りをぶつけたくても、時間も気力も無いのです。決して来年3月末での打ち切り方針に対する危機感が無いわけでも、他人任せにしているわけでも無いんですよ」
 都営住宅への入居を申し込むにしても、確実に当選出来るわけでは無い。「倍率以前に、現在、住んでいる地域では募集がありません」。別の地域に転居する事は、息子に転校を強いることになる。頑張って学習塾にも通わせている。息子もそれを望んでいる。「避難を始めた時は4歳。彼なりに頑張ってきて、親は離婚して…。申し訳ない想いもあります」。これ以上、息子から何も奪いたくない。だからこそ、現在の住まいでの生活を継続したい。当然の願いだ。原発事故による避難を選択したからといって、遠慮しなければならない道理は、どこにも無い。

 別の母親は、こう言う。「私たち当事者の声を広く届けたいですよ。当たり前じゃないですか。どこにでも行きます。話します。その代わり、子どもの食事を用意してくれますか?」

 やはり福島県中通りから避難して都内に暮らしているこの母親には、4人の子どもがいる。一番下の子どもはまだ、おむつが取れない。「特に母子避難の母親が自ら声をあげるのは難しいんです。それでも私は比較的、そういう場に参加出来ています。周囲の協力を得られたから。本当にありがたいです」。
 避難者たちはこれまで、住宅の無償提供継続を求めて国の役人や福島県職員らと何度も直接交渉を行ってきた。だが、当事者たちは交渉のテーブルにつくのが精一杯。その時点で既に、対等ではなくなっている。だから国や福島県は強気を貫ける。多面的な支援をしないと、避難者切り捨ては加速する一方だ。
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2015年5月、福島県から東京や神奈川、京都に

避難した母親らが集まり、住宅の無償提供継続

を求めた。仕事を休み、交通費を負担して訴える。

子どもを守るためとはいえ、母親らにのしかかる

負担はあまりにも重い=参議院会館


【顔や名前晒せない〝しがらみ〟も】

 JR新宿駅西口での抗議行動でマイクを握った熊本美彌子さん(福島県田村市から東京都内に避難中)は、仕事や子育てに忙しい母親らの良き理解者だ。

 「こういう事って、自分を晒して話さないと世間に理解していただけないでしょ。でもね、避難した人の中には、親類に内緒で福島を離れた人もいます。仕事や子育てだけでなく、そういうしがらみもあるんですよ。人前に出るって大変なのよ。何も悪い事をしていないのにね。70代の私は子育てに忙殺されることは無いですからね。こういう場に来たくても来られない人たちの話を良く聴いて、代弁出来れば良いなと思っています」
 避難者たちは何も悪い事はしていない。自分の身体、わが子の命を守ろうとしているだけ。住宅の無償提供継続も、ぜいたくな要求ではない。原発事故さえ無ければ、こうして福島を離れる必要は無かった。会社員やカップルであふれる駅頭で冷笑を浴びる事も無かった。「私だって好きで人前で話しているわけでは無いんですよ」。通り過ぎる人々に「とりあえず立ち止まって私の話を聴いてください」と呼びかけた母親は苦笑した。先の河井さんもこう語る。

 「悪い事はしていないと自分に言い聞かせるためにも、堂々としていたい」

 残り10カ月。このまま国や福島県が方針を転換しなければ、避難者たちは現在の住まいを追い出される。30日には福島市内に避難者が集まり、住宅の無償提供継続を求めてデモ行進や県庁への申し入れを行う。新幹線を利用すれば、東京からでも往復の交通費は2万円近い。取材者が「絵になる」と喜ぶような大規模な抗議行動になりにくいのも当然だ。

 あなたの周囲にも、迫り来る「切り捨て」におびえながら暮らしている避難者はいないだろうか。「自主避難者から住まいを奪うな」と声をあげたくてもあげられない母親の存在に気付くことが、避難者に寄り添う一歩となる。




(了)

故郷・福島市を〝脱出〟した母親。七畳一間のアパートで守った息子の命~福島原発かながわ訴訟

原発事故による損害の完全賠償を求めて国や東電を訴えている「福島原発かながわ訴訟」の第15回口頭弁論が25日午後、横浜地裁101号法廷で開かれ、福島県福島市から神奈川県川崎市に母子避難中の母親が「私たち被害者の厳しい避難生活や奪われたものの大きさを、裁判所も国も東電も正面からきちんと認めて欲しい」と意見陳述した。原発事故が無ければする必要の無かった避難。弁護団は医療被曝の疫学調査を引用し、低線量被曝の発がんリスクについて主張。避難の合理性を訴えた。次回期日は7月19日。



【「避難は息子の命を守るため」】

 静かで落ち着いた言葉が法廷に響いた。正面には3人の裁判官。右からは国や東電の弁護団の視線が刺さるが、用意した文章をゆっくりと読み上げた。涙は無かった。「私が避難しようと決めたのは、小学校5年生の息子の命や健康を守るためです」。わが子を被曝のリスクから守ろうと当然の事をして来たという、母親としての矜持が表れていた。

 生まれも育ちも福島市。「私にとっても息子にとっても、福島市は大切な故郷です」。母子2人の平穏な生活を壊したのが原発事故だった。

 外出先で遭遇した激しい揺れ。雪の降る中、わが子の身を案じながら自宅へ急いだ。揺れは大きかったが、自宅には大きな被害は無かった。ひと足先に下校した息子が、母親の帰りを待っていた。「ひとまずは安心しました」。停電で電話も通じなかったが、これだけで終わっていれば早晩、再び平穏な生活に戻れるはずだった。翌朝、テレビを観るまでは。

 地元テレビ局が、福島第一原発の危険な状況を伝えていた。国は「原子力緊急事態宣言」を出した。そして水素爆発。自宅のある福島市は、原発からの距離は約60km。「在日米軍が原発から80km圏内の避難を検討している」と耳にした。原発事故が起きたら福島市も危ないという話を以前、講演会で聞いたことを思い出した。「恐怖感」。当時の想いを母親はそう表現した。
 逃げよう─。しかし、ガソリンが手に入らない。電車も動いていない。高速バスは、一週間先まで予約で満席。なるべく外出をせず、換気扇もテープで目張りして放射性物質の侵入を防いだ。福島市を〝脱出〟出来たのは震災から9日後の2011年3月20日。予約したタクシーで栃木県の那須塩原駅に向かった。新幹線に乗り換え、東京の親類宅に身を寄せた。いわゆる〝自主避難〟の始まりだった。政府は福島市の住民には避難指示を出さなかった。しかし、福島県原子力センター福島支所(福島市方木田)での測定では同年3月27日から28日にかけて、1平方キロメートルあたり2万3000メガベクレル(230億ベクレル)もの放射性ヨウ素が降り注いでいたことが記録されている。避難は必然だった。
 「息子なりに、原発や放射線への不安を打ち消そうと必死な様子でした」。マスクに手袋、水泳のゴーグルをして上着のフードで顔を覆った。足元は長靴だった。

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法廷で意見陳述を行った原告の女性。「原発事故

による厳しい避難生活や奪われたものの大きさを

正面からきちんと認めて欲しい」と訴えた


【認められなかった転居】

 翌月には、神奈川県川崎市内の民間アパートに息子と移り住んだ。仮設住宅とみなされ家賃負担は無かったが、ぜいたくなど出来なかった。節約に節約を重ねた。しかし、小学校6年生の息子と生活するには七畳一間は狭すぎた。食事をするのも宿題をするのも同じこたつ。布団を敷いたら床は見えなくなった。「反抗期の息子とけんかになった時は、仕方ないから私が喫茶店に行きました。息子を外に出すわけにはいきませんものね」。

 思春期を迎え、着替えも親の前。息子の気持ちを振り返ると胸が痛む。「卒業アルバムの写真は、遠足も運動会も顔がこわばっていた。不安や緊張で一杯だったのでしょう」。せめてもう少し広い住まいに移りたいと神奈川県に申し入れたが、福島県、国とたらい回しにされた挙げ句、転居は認められなかった。

 進学した中学校では、息子は「福島県民は馬鹿だ」、「近づくな」などとクラスメートからなじられ、暴力も振るわれた。「周囲の方々の支えもあり、何とか中学校を卒業することが出来ました」。高校生になった息子はボランティア活動にも取り組んでいる。「少しずつ落ち着いた生活が送れるようになってきています」。しかし、来年3月末で住宅の無償提供が打ち切られる。「自立」の名の下での棄民。福島市の自宅は、維持費の負担が重くのしかかり、処分した。帰る場所は無い。

 「懸命に努力しながら高校に通っている息子の生活を壊すことも出来ない。避難生活をどうしたら良いのか不安で一杯です。国はどうして、私たちの生活を守ろうとしてくれないのでしょうか」
 原発事故さえ無ければ、避難する必要など無かった。原発事故が大切な故郷や友人、数多くの思い出を奪った。「それらを犠牲にしながら私と息子が避難生活を送っている事に、何の合理性も認められないのでしょうか。私たち被害者の厳しい避難生活や奪われたものの大きさを、裁判所も国も東電も正面からきちんと認めて欲しいです」
 傍聴席の支援者から大きな拍手が起きた。法廷では傍聴者の発言や拍手は禁止されているが、裁判長は注意しなかった。
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低線量被曝のリスクについて反論した小賀坂徹

弁護士。「避難は過剰反応でも何でもない」


【医療被曝で実証された発がんリスク】

 約40分間で閉廷した口頭弁論では、100mSv以下の被曝リスクについて「他の要因による発がんの影響に隠れてしまうほど小さい」と過小評価している国の「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ(WG)報告書」に対し、小賀坂徹弁護士が「もはや科学的価値が無い」と批判した。
 WGが論拠としている広島・長崎での被ばく調査(約12万人)について「意味はあるが実測できず、核実験のデータから推計するしかない。そもそも限界がある」とした上で「残留放射線や降下物による被曝はほとんど考慮されていない。『非被ばく者』の中にも、実際には被曝した人が相当数いると思われる」と主張した。
 そこで、小賀坂弁護士が引用したのが医療被曝に関する疫学調査。1985年から2002年までの間に、イングランド、ウェールズ、スコットランドの国民保険サービスセンターで初めてCTスキャン検査を受けた22歳未満に対する調査で、それまでにがんの診断歴の無かった約18万人を対象としている。2012年8月に医学雑誌「ランセット」に発表された。

 疫学調査結果によると、CTスキャンにより累積線量が約50mSvを超えると白血病のリスクは3倍、同じく60mSvでは脳腫瘍のリスクが3倍になることが確認されたという。「この数字は推計では無く事実そのものであって否定のしようがない。国や東電がこの調査結果を知らないはずが無い」と小賀坂弁護士。カナダで実施された、急性心筋梗塞を発症した成人患者に対する調査でも、放射線照射による画像診断とがん発症には相関関係が認められたという。「この結果でも、放射線量が10mSv増加するごとに、発がんリスクが3%上がったとされている。もはや、WG報告書の結論が維持できない事は明白だ」。
 「避難は過剰反応でも何でも無い。低線量被曝のリスクは、福島に住んでいる人にも伝えて行かないといけない」と語る小賀坂弁護士。弁護団は今後も、被害の実態と被曝リスクの両面から国や東電の責任を追及していく。次回口頭弁論は7月19日。


(了)

被曝を心配しながら汚染地に暮らす矛盾。その裏の「被曝隠し」~〝言行不一致〟の現実語る荒木田岳さん

福島大学准教授・荒木田岳(たける)さん(46)の講演会が22日午後、東京都文京区内で開かれ、妻子を新潟県内に避難させながら、自分は福島に残って働いている事への葛藤を語った。「私も、脱被曝を口にしながら『言行不一致』だ」と語る荒木田さんはしかし、この〝ねじれ〟を生み出した張本人こそ国だと指摘。被曝隠しが不本意な生活を強いているという。大学と闘い脱被曝に取り組んできた荒木田さんの言葉は、「被曝したくないなら避難すれば良いじゃないか」と言うあなたにとって、汚染地を理解するひとつのヒントとなろう。



【「福島で暮らす人々の葛藤理解して」】

 「責任を持って妻子を逃がしているというよりも、逃げ遅れて取り残されてしまった状態。不本意な事をさせられているのです」

 荒木田さんの講演は、そんな言葉で始まった。ともすれば、家族を新潟に避難させている立派な夫・父親というイメージがつきまとう。しかし、そこには自己矛盾という〝弱み〟を抱えているという。そしてその〝弱み〟こそが、原発事故から5年が過ぎた福島の現実だと指摘した。

 「福島に住み続けるかどうか悩みました。僕だって、健康被害が出る可能性がある事くらい、分かっています。死んだらお終いだとは思うが住宅ローンを抱え、奨学金も返済しなければいけない。さっさと仕事辞めるわけにはいかなかったのです。次の仕事にうまく着地できなければ、別の終わりが待っていた。家族とうまくいっていたかどうかも分からない」

 脱被曝を口にしながら、自分は5年間、汚染地域に残って働いている─。これを荒木田さんは「言行不一致」と表現した。「本当につらいです。汚染地域に残って仕事をせざるを得ない〝弱み〟を抱えているのですから。でも皆、福島が安全安心と思いながら暮らしているわけではありません。」

 決して楽観視していない、健康被害を憂慮している。でも…。福島の人々はそれぞれに、この「でも」を抱えている。自己矛盾を解決するために、福島に残っている事への「言い訳」を用意しなければならなくなった、と荒木田さんは語る。それは仕事であり、住宅ローンであり、子どもの部活動。自分の町が汚染しているという「事実認識」にも、どの程度汚染されているかという「状況評価」にも、仕事などの「置かれた条件」にも多様性が存在する。「これらを掛け算した答えの分だけ個々の『事情』があると思ってください」と荒木田さんは強調した。

 「デタラメな線引きをされたから住み続けないといけないし、言い訳をしないといけない。不本意さ、葛藤を理解する必要があります。福島県内外で、この点で距離感がある。この距離感を埋めないと、大きな敵と闘えないと思います。どうやって埋めるか考えています」

 荒木田さんが用意した写真の中に、東北本線・日和田駅(郡山市)の壁に書かれた落書きがあった。「モルモット・フクシマ!」。今は消されている落書きにも、県外避難が叶わず放射線と共に福島県で生きることになった人々の不本意さが込められていたのかもしれない。
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(上)都内で講演した荒木田さん。「避難していない

人も、決して福島が安全安心と思いながら暮らして

いるわけではない」と強調した

(下)東北本線・日和田駅の落書き。やや読みにくい

が「モルモットフクシマ!」と書かれている


【反対に遭った県外スクーリング】

 デタラメな線引き。中通りには出されなかった避難指示。

 どうして不本意な暮らしを強いられる事になったのか。

 「過小評価に基づいて安全対策を怠って来た。『専門家以外は黙っていろ』という空気の中で、法律やルールに基づいた対応がなされて来なかったのです」。
 例えばSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)。「福島県庁にもシミュレーションは届いていたが握りつぶされた。メルトダウン(炉心溶融)している事は、原発事故から2日後には現場では分かっていたのに、住民には知らされなかった」と憤る。「日本気象学会員の中には、善意で放射能の拡散予測を私的に公表した人もいたが、やめさせられたのです」。
 東電の廣瀬直己社長は2013年10月の参議院経済産業委員会で、原発事故により大気中に放出された放射性セシウムが毎時2万超ベクレルに達したと述べている。小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)によれば、セシウム137だけの比較でも、広島に投下された原子爆弾168発分に相当するという。

 「でも誰一人、自分がどれだけ浴びてしまったか知らないのです。一番、汚染が酷かった時のデータを欠いたまま、机上の議論だけが進んでいる。自分の被曝量が分からないのに、『ここまで被曝しても安全』と言われても安心できません。しかも国は、避難指示区域を拡大するのではなく被曝線量を引き上げる(1mSv/年から20mSv/年)事で、何もしなかった」。そして「自主避難者」という名の避難者がうまれた。

 荒木田さんが2011年5月、勤務する福島大学の授業再開方針に反対し仲間の教員と連名で学長宛てに公開質問状を送付。しかし、大学側は「文科省の示した20mSv/年で良いという立場はとっていない」としながらも「低線量被曝の影響については医学的に明確では無く、文科省の基準を参照せざるを得ない」として同月12日、授業を再開した。ちなみに、大学側が試算した5月以降の学生の年間積算被曝線量は4・4mSvだった。
 せめて学生の被曝リスクを低減しようと、福島県外でのスクーリングプランを検討した。新潟市までバスで学生を送り、ホテルで一週間、授業をする構想だった。「半年、1年しのげば何単位与えられるかシミュレーションしました。でも、学部長に提出前に同僚に潰されました。金は誰が出すのかなど、周りは総じて批判的でした」

 まだ国や行政による除染活動が始まっていない頃、除染活動に取り組んだ事もあった。「途方も無い作業で、放射性物質を取り除く事など無理だと思った。体調も良くなかった」。当時の女性学部長からは「市民の不安をあおるから除染などやめろ」と叱責された。女性学部長は後に白血病で亡くなった。福島市での除染作業中、信夫山ふもとのヤマダ電機駐車場では、線量計の数値は150μSv/hを超えていたという。
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荒木田さんは、福島で配布されていたフリー

ペーパーを紹介しながら「原発事故当時、何が

起こったのか詳細に記録して行く」と語った。

早い段階で安全キャンペーンが展開されていた


【「脱原発ではなく脱被曝を」】

 「これから何をするべきか正直、よく分からない」と話した荒木田さん。「まずは当時、何が起こったか詳細に記録して行こうと思う。そして福島第一原発事故を他山の石として、二度と繰り返さないことです」。

 メディアを通じて連日のように発信された「安全宣言」。長崎大学の山下俊一教授は、立ち見まで出た福島市内での講演会で「ニコニコしていれば放射能は来ません」と語り、福島県内を隈なく歩いて同様の発言を繰り返した。行政も「放射能を正しく理解しましょう」と呼びかけた。「右から左まで『この程度の放射能は浴びても大丈夫』と言っていた」。山下氏は、地元紙のインタビューで「利己的だ」と県外避難者を責めるような発言までした。「被曝問題はスルーされ、逆にガレキ問題や〝食べて応援〟など、一億総被曝問題が出現したのです」。

 「脱原発」の大合唱に隠れてしまった「脱被曝」。週刊誌に「脱原発ではなく脱被曝を」と寄稿し、「あなたは被曝を強要する側に立つのか、それに反対する側に立つのか、とあえて挑発的な問題提起をした。反感を買ったが、こういう言い方をしないと相手の心に届かないだろうと考えました。相当やられたが譲れなかったんです。原発の息の根を止めるには、被曝問題を直視するしかないんです」。

 新潟大学の修士課程で学んでいた1994年、東北電力が新潟県巻町(現在の新潟市西蒲区)に計画した「巻原発」建設に対する住民運動に直面した。住民投票で建設反対が上回り、計画はとん挫した。「あの運動が私の人生を変えました。父親は北陸電力の社員だったけれど、原発に批判的で干されていた。定年退職するまで平社員でしたから」。少しでも線源から遠ざけようと、妻と2人の子どもを新潟市内に避難させたのは必然だった。
「原発事故から5年経ち、誰も何も語らなくなった。『忘却』が論点となっている」と語る荒木田さん。葛藤を抱きながら汚染地での生活が続く。


(了)

【指定廃棄物火災】「報道で初めて知った」怒る近隣住民。郡山市は注意喚起せず。住民守らぬ縦割り行政

福島県郡山市産廃処理場「郡山リサイクル協同組合」(郡山市日和田町高倉)で16日未明、指定廃棄物の入ったフレコンバッグが燃える火災が起きた。しかし、内部被曝への危機感の低い郡山市役所は、周辺住民への注意喚起をせず、環境省に丸投げ。「報道で初めて指定廃棄物が燃えたと知った」と住民は怒る。健康に影響が無いか否かは結果論。まずは防護をするという予防原則などどこ吹く風。縦割り行政の弊害もあって、住民の放射線防護は全くなされていない実態が浮き彫りになった。



【「吸い込むのは俺たちなんだ」】

 「まさか指定廃棄物が燃えたとは知らなかった。消防車が何台も停まっていたから火災が起きているのは分かっていたけれど…」

 自宅が火災現場に隣接する男性の表情は、怒りに満ちていた。地元テレビ局のニュースを見て、初めて指定廃棄物が燃えたと知った。すぐに郡山市役所に電話で問い合わせた。住民とすれば当然、まず地元自治体が対応しているものと考える。しかし、電話に出た市職員の対応は淡泊だったという。

 「『指定廃棄物は環境省の管轄だ』とばかり言って逃げるんですよ。どこが担当かなんて俺たちには関係ないでしょ。何のために市に税金を納めているんですか。行政の怠慢です」

 男性の自宅には、日頃から砂ぼこりが舞って来る。これまでにも何度、苦情を申し入れたか分からない。車やサッシは、洗い流してもすぐに汚れてしまう。国道4号から産廃処理施設につながる道路は、業者側が1日に何回も散水をしているが、すぐに乾いてしまう。風が吹けば舞い上がる。それに加えて今回の火災。詳細な情報が無ければ、マスクをするなどの防護が出来ない。「なぜ注意喚起をしないのか。健康に影響が無いというのはあくまで結果論でしょ。実際に吸い込むのは俺たちなんですよ」。男性の怒りはもっともだった。
 ようやく業者幹部が火災の説明に来たが「環境省が空間線量を何カ所も測っているが、全く上昇していないから心配は要らない」と強調したという。しかし、具体的な数値を回覧板で周知するような事は無い。「口でいくら言われてもね…。そもそも、その数字が本当かどうかも、俺たちには分からない」。
 男性が至極当然の怒りを口にする一方で、他の住民の中には業者へ好意的な言葉を口にする人もいた。「そりゃそうでしょう。そういう人たちは業者に土地を貸して収入を得ていたり、工場で働いていたりする人たちですから。悪い事は言えないでしょう」。産廃処理も、原発と構図は同じなのだ。

 「どうしてこんな酷い話が全国ニュースにならないんですかね?きちんと書いてください」

 男性はそう言って頭を下げた。

 処理場に隣接する土地で、手元の線量計は0・3μSv/hを超えた。
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(上)焼却炉で発生した焼却灰のうち、8000Bq/kg

を超えたものが「指定廃棄物」として保管されている。

(下)火災が起きたのは倉庫の一番奥。「たてこんで

いる」として撮影は拒否された。


【「安心して欲しい」と産廃業者】

 福島市にある「環境省福島環境再生事務所放射能汚染廃棄物対策第二課」が福島県政記者クラブに流した「お知らせ」によると、郡山地方広域消防組合消防本部に火災の一報が入ったのが16日午前3時43分。7時30分に鎮火を確認したという。「人的被害や周囲の建物等への被害はなし」、「出火点近くのモニタリングポスト(大口原緑地)の値は、火災の前後で大きな変化はありませんでした」として、16日午前8時に0・192μSv/hだったと記載。「周辺環境や健康に影響はない」と結論付けている。

 火災現場で取材に応じた「郡山リサイクル協同組合」の男性専務は「これまでも、これからも問題はありません。たてこんでいるのでフレコンバッグの保管場所まで案内する事は出来ませんが、何も隠すことはありません。安心して欲しい」と繰り返した。
 同組合は木くずや金属くず、がれきなどの産業廃棄物や動物の死体を受け入れ焼却する中間処理施設。焼却炉で生じた焼却灰を測定し、8000Bq/kgを超えるものは「指定廃棄物」となるため、環境省に引き渡すまで倉庫で分けて保管。その数は800個ほどで、今回は保管倉庫に隣接する物置から出た火で、一部のフレコンバッグが燃えたという。「100~200個が燃えた」という報道もあったが、専務は「誰がそんなことを言ったのか。数は分からない」と首を傾げた。消防本部にも取材をしたが「現在、調査中。特殊な事案なので概要がまとまるまでに時間がかかるだろう」との回答だった。

 同組合で受け入れている産廃は郡山周辺のものが8割で中通りが中心。浜通りのものは受け入れていないという。「業者に測らせて0・3μSv/h以下の産廃しか受け入れていません。抜き打ちで測定することもあります。その場合は契約を打ち切ります。きちんとやっているんです」と専務。「今回の火災で穴が開き消火活動で焼却灰が濡れてしまったので、完全防水のフレコンバッグに入れ替えます。水は吸い取ってタンクに入れてあります」。

 専務は、環境省が敷地内の複数個所で定点測定した空間線量の書かれた紙を見せながら「中には逆に下がっている地点もあるほどですよ」と強調した。しかし「見せるだけ」と写真撮影は拒否。環境省福島環境再生事務所は、電話取材に対し「確かに数値は公表していない。いただいたご意見は参考にしたい」と今後の公表に含みを持たせた。

 なお、「指定廃棄物」のうち10万Bq/kg以下のものは富岡町の管理型処分場「フクシマエコテッククリーンセンター」に、10万Bq/kg超のものは中間貯蔵施設に埋め立てられることになっている。
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(上)火災があった「郡山リサイクル協同組合」。

専務は「皆さんが心配するような状況ではない」

と強調した。

(下)敷地に隣接する土地で、手元の線量計は

0・3μSv/hを超えた=郡山市日和田町高倉


【低すぎる内部被曝への危機感】

 住民が守られない最大の原因は縦割り行政による連携不足。そして何より、内部被曝への危機感の無さだ。

 郡山市廃棄物対策課は、取材に対し「指定廃棄物なので環境省の管轄になる。マスクなどの注意喚起? そういうこともあるかもしれないが、中途半端に市が住民に伝えるわけにもいかない」と話す。原子力災害総合対策課に至っては「保管場所も数も把握していない。保管責任者は事業者であり、監督するのは環境省」と言う始末。「こういう場合の対応方法も事前に決まっていなかった。市としては、どうしても受け身にならざるを得ない」。まるで他人事だ。

 「今回の案件を教訓として、環境省や事業者と連携をとっていきたい。住民への注意喚起についても検討する」と原子力災害総合対策課。議会答弁のような回答だが、本当に検討するのか。環境省福島環境再生事務所も「注意喚起をしないと、周辺住民が防護策をとれないというのは理解できる」と語るが、伊達市内の山林火災でもそうだったように、火災による放射性物質の拡散、住民が吸い込む事による内部被曝に対する危機感があまりにも低いと言えよう。

 郡山地方広域消防組合消防本部によると消防士は通常、黒煙を吸い込まぬようマスクで顔を覆い、酸素ボンベを背負って消火活動にあたる。今回もそのような装備が使われたという。しかし周辺住民には注意喚起もなく、どれだけ吸い込んでしまったのか分からない。今後、体調を崩したとしても、それが内部被曝による症状だという証明も出来ない。だからこそ、大げさであっても予防原則で対応するべきなのだ。初めから「大丈夫」ありきでは住民は守れない。

 放射性物質は少しもコントロールされてなどいない。これが汚染地の実態だ。安倍晋三首相は被曝のリスクも避難者も無きものにしたいと願っているようだが、首相こそ理解していただきたい。

 原発事故は現在進行形。


(了)

【南相馬】避難指示解除へ市民説明会。〝世界の〟桜井市長、低線量被曝のリスクを無視して復興に邁進

一部住民が強制避難を強いられている福島県南相馬市で間もなく、避難指示が解除される。19日夜、小高区、原町区の避難住民を対象に開かれた市民説明会では、国は除染の効果や空間線量率の低減を強調した上で、改めて7月1日の解除方針を提示。桜井勝延市長も「前へ進もう」と呼びかけた。土壌を測らず、低線量被曝のリスクも無視。原発事故直後、米TIME誌で「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたこともある桜井市長の〝本当の顔〟が垣間見えた説明会だった。



【被曝リスク答えられない市長】

 復興のためには被曝リスクには目をつぶれ─。桜井市長はそうとでも言いたいのだろうか。合言葉は「前へ前へ」。まるで、どこかのラグビーチームのようだ。威勢の良い、時には市民を諭すような言葉が次々と口をついて出た。「世界で最も影響力のある100人」に選ばれ、脱原発首長として脚光を浴びる桜井市長の真の顔だった。

 「原発事故の悔しさだけでは復興できない。国や東電とケンカをしても街は良くならない」

 「空間線量は下がっている。市内で生産された米に関しても、出荷制限になるようなものは全く出ていない」

 「市外に避難していた子どもたちは、震災前の7割の水準にまで戻って来た。出産数も増えて産科医が足りないくらい。お母さんは安心感を持って市内で出産している」
 「市民の怒りや不安はもっともだと思う。2015年3月の『脱原発都市宣言』で、国には一定のメッセージを送ったつもりだ」
 とにかく戻ろう。放射線防護はそれからだ。市長の腹は固まっている。もはや住民の意見を「聴く」会ではなかった。ある女性は「ずっとでたらめな原発政策をしてきた経産省が憎い。帰れ帰れと本気で言っているんですか?」とマイクを握った。やや感情的な発言だったが被害者として当然の想い。経産省職員は何度も「お詫び」と頭を下げた。だが桜井市長はなぜか、国を擁護してみせた。

 「弁護するわけじゃないが、今も廃炉に向けて一生懸命にやっている。いけにえのような形にして心が安らぐのですか?」
 別の男性は「市長は、低線量被曝が子どもたちに与える影響について分かっているのか」と迫った。不幸にして放射性物資に汚染された町には、低線量被曝のリスクが長くつきまとう。しかし、桜井市長は正面から答えなかった。答えられるはずがなかった。誰も分からないのだから。質問に答える代りに、苦し紛れの言葉を繰り返すしかなかった。

 「不安だからこそ、しっかりと測定・検査している。子どもを連れて戻って来た親たちは安全性について確信を持っている」
 内閣府原子力災害現地対策本部の後藤収副本部長は、こう言って市長をアシストしてみせた。

 「避難指示が出ている所に企業は進出しない。正直、5年前と同じ姿にはならない。不完全な状況で解除するのは致し方ない。全てが出来るまで待っていたら他にとられてしまう。国はやれる事は全部やる。恨みがあるのは分かるが、それでは小高は良くならない」

 被曝リスクを口にする市民は、企業誘致や復興を妨げる存在なのだ。
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「市民説明会」に出席した桜井勝延市長。

低線量被曝への不安や原発事故への怒りの

声もあがったが「そんな事を言っていては前に

進まない」と一蹴した


【除染効果を高評価する東大・児玉氏】

 「ここで線量の話をしたってしょうがねえべ」

 ある男性は終了後、ため息をつきながら会場を後にした。

 国の姿勢は明確だ。「避難指示を解除しても生命、身体に影響は無い」(内閣府原子力災害現地対策本部・紺野貴史次長)。配られた分厚い資料には、安全安心をアピールする文言が並んだ。

 「対象地域全体で、空間線量率1mが平均38%低減しました」

 平均0・75μSv/hだった空間線量は、除染によって0・46μSv/hにまで「下がった」というのだ。単純換算で、1年間の積算被曝線量が3mSvを超える水準。「金谷」、「大和田」、「川房」、「神山」の4行政区で実施されたフォローアップ除染の効果も強調された。「2・41μSv/hから70%も低減した」としているが、現在の空間線量率は0・72μSv/h。これで「下がった」と言えるのか。

 この数字にお墨付きを与えたのは、やはりここでも児玉龍彦氏(東大アイソトープ総合センター長)だった。児玉氏が委員長を務める「南相馬市除染推進委員会」は今年3月17日、報告書で「面的な除染の効果はおおむね維持されている」、「居住をしつつ、復興、環境回復に関わろうとしている市民を積極的に支援していく状況へと移行する段階に来ている」と評価した。説明会終了後に取材に応じた紺野次長は「専門家の判断をいただいた」と〝歓迎〟した。

 1時間ごとの被曝線量を測れる個人線量計「Dシャトル」を使い、準備宿泊をした小高区の住民の被曝線量を測定。年間被曝線量を推計したところ0・69mSv/年~3・96mSv/年。平均で1・36mSv/年だったという。しかし、これは「外部被曝」のみ。微粒子を吸い込む「内部被曝」は考慮されていない。
説明会の席上、紺野次長はこう言った。

 「早く戻りたいという人もいる。避難指示が出されたままでは町のにぎわいを取り戻す上で支障が出る。生命、身体に影響が無い限り、早急な避難指示解除が必要だと考えている」
 土壌汚染を測らず空間線量のみ。汚染された砂ぼこりを吸い込むことによる内部被曝も考慮しない。これが「専門家」と呼ばれる人々の物差し。桜井市長は言う。「この街に住んでいて良かったと子どもたちが思えるよう、復興に全力で取り組みたい」。臭いものにフタをしたまま、復興という名の公共事業がここでも進められていく。

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環境省(上)も内閣府(下)も、除染の効果を強調。

「生命、身体に影響が無い」との見方を繰り返した

=南相馬市・原町生涯学習センター


【「7月1日過ぎたら安全」の不思議】

 「市民説明会」は21、22の両日で終了。住民から出された「忌憚の無い意見」を集約し、国は避難指示の解除を正式に発表する。7月23日から25日にかけて開催される「相馬野馬追」の前には解除したい意向で、現段階では7月1日の解除を目指している。

 「7月1日を過ぎたら安全を保証出来るのか?だったらなぜ、避難させたのか?」

 宮城県内に避難中の男性の疑問は当然だ。だが、桜井市長は「不安の無い方はいらっしゃらない」と一蹴した。意見を求めておきながら、放射線への不安を口にすると封じられる。これが結論ありきの「説明会」の実態。国も市も結論は出ている。

 「2013年以降、住民説明会を3カ月に1回開いてきた。何も唐突に避難指示解除を持ちかけているわけではない。議論を積み重ねた上での解除。機は熟したと考えている」(紺野次長)
 命よりカネ。低線量被曝より企業誘致。〝世界のサクライ〟と国が「復興」に邁進する。


(了)

【地震と原発②】新規制基準を見直すまで川内原発を無期限停止せよ!~「原子力市民委員会」が声明発表

原発のない社会を目指すシンクタンク「原子力市民委員会」(吉岡斉座長=九州大学大学院教授)は17日午後、声明「熊本地震を教訓に原子力規制委員会は新規制基準を全面的に見直すべきである」を発表。規制委にも提出した。市民委員会は、熊本地震で避難計画に実効性が無いことや耐震審査の甘さが露呈したとして、新ら規制基準をつくるまでの川内原発1・2号機の運転停止を求めている。



【実効性無い避難計画、甘い耐震審査】

 A4判で4ページにわたる声明で、原子力市民委員会は「九州の住民たちを中心に九州電力川内原発1・2号機の運転停止を要求する動きが広がっている」、「今後、熊本地震が川内原発近辺の断層帯の地震を誘発する恐れが無いとは言えない」などとした上で「住民たちの不安は杞憂であるとは言い難い。むしろ、われわれがまだまだ自然現象の全容を理解していないという事実をこそ認識すべきだ」、「原子炉を一時停止しておくことは、地震に対して有効な方策である」として、原発稼働停止を求める市民の声に理解を示した。

 その上で「原子力発電所の安全をもともと保証していなかった原子力規制委員会の新規制基準の欠陥が、今回の熊本地震によって一層明白となった」と指摘。「一刻も早く新規制基準を見直すべき」と結論付けている。さらに「川内原発1・2号機は十分な安全性が確保されていないのであるから、新規制基準の欠陥が解消されるまで設置変更許可を凍結し、新たな基準ができるまで無期限に停止させるべきだ」と求めている。関西電力高浜原発や四国電力伊方原発への設置変更許可を凍結し、新たな基準の下で改めて審査を進める事も盛り込んだ。

 市民委員会の指摘する「新規制基準の欠陥」とは①防災・避難計画の実効性が無いこと②耐震設計審査基準が甘いこと─の2点。

 ①について、市民委員会は「今まで自治体から提出された『地域防災計画』は、鹿児島県のものをはじめとして全く現実性が無い」と指摘。「川内原発から30km圏内の住民23万人あまりと数千人もの原発作業員を効果的に避難させるにはインフラ(避難手段や情報伝達など)が完全に機能することが不可欠だが、2011年の福島第一原発事故ではインフラが長時間にわたってマヒした」、「高齢者や入院患者などの『要援護者』の受け入れ先や避難の具体的手順が決まっていない」、「警察官、消防士、自治体職員やバス運転手などの被曝をどのように回避するか、どのように逃がすかルールも定まっていない」と問題提起している。屋内退避についても「今回の熊本地震のように地震で家屋にとどまることが危険な状況では、屋内退避に依存した防災計画は無力である」として「複合災害時では住民の大量避難が困難を極めることは誰でも容易に想像できる」と計画の見直しを求めている。

 福島での原発事故を受けて原子力規制委員会が定めた新規制基準は「全ての既設原発が合格できるよう周到な配慮のもとに策定されたものであり(中略)それをクリアしても原発の安全性は保証されない」と厳しく批判している。耐震設計審査基準の「限界」について「単一の大きな地震動に原子力施設が耐えれば良いという考え方に立っている」とし「熊本地震では、震度7の地震動が繰り返し襲う『繰り返し地震』が起きている。1回目の地震動に耐えても2回目以降の地震動で倒壊することが原子炉施設でも起こり得る」と警鐘を鳴らしている。

 そして、市民委員会はこう結んでいる。

 「原子力規制委員会のなすべきことは、川内原発1・2号機の安全宣言を出すことではない。熊本地震によって明らかになった新規制基準の欠陥を解消すべく、迅速な行動を起こすことである」
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(上)熊本地震を受け、新規制基準の見直しを

求める声明を発表した「原子力市民委員会」

座長の吉岡斉・九州大大学院教授=左=ら

(下)立石雅昭・新潟大名誉教授は「まずは

川内原発を停めるべきだ」と訴えた


【共感呼んだ地質学者の書き込み】

 都内で記者会見を開いた市民委員会。座長の吉岡斉さんは「原発事故時の避難計画は、橋が落ちたり送電線が切れたり、そういうことが起きないことを前提としている」、「住民や公務員、原発作業員をどのように逃がすか。福島の教訓を受け止めないまま、あいまいなまま来ている」と指摘。川内原発について「九電と鹿児島県は安全が保証されていないのに漫然と稼働させている。鹿児島県の伊藤祐一郎知事は、原子力規制委員会の〝安全宣言〟を盾に取って川内原発は安全だと言っている。いつでも馳せ参じてアドバイス致します」と語った。

 新潟大学名誉教授の立石雅昭さん(地質学)は、熊本地震の「本震」とされる4月16日午前1時25分頃の震度7の地震を受けて、短文投稿サイト「ツイッター」上で「川内原発、直ちに停止するべきです。少なくとも、今地震が収まるまで原発を停止し、推移を見守るべきです(中略)今、中央構造線西端付近での地震は中部九州を横断して岩盤が破壊され続けています。動きが読めません」と書き込んだ。書き込みのリツイート数(拡散数)は1700を超えた。

 「多くの国民が、川内原発は停めるべきだと考えた。なぜそれに真摯に応えないのか。まず停めるべきだ。その上で、規制基準の不十分さを議論するべきだ。それが普通の市民感覚だと思う」

 石油プラントの技術者だった筒井哲郎さんは、原子力規制委員会の耐震性審査のプロセスについて「情報開示を求めたが、大事な所は黒塗りだった」と不透明性に言及。「既設原発は本体設備をいじらず外付けの過酷事故対策設備を追加することで合格させている。テロ対策も入門管理をしていると言うが、正門から名乗って入ってくるテロリストなどいるのか」と批判した。

 後藤政志さんは、東芝で原発の設計に携わっていた技術者。現在の耐震審査基準が、1回の揺れに対する耐性を対象としている点について触れ「長周期の地震荷重、繰り返しの荷重に対し、余裕を持って設計しているのか」と問題提起した。一度の衝撃には耐えられても、亀裂が生じればその後の揺れに耐えられる振動数が下がるとの実験データを示し、耐震審査基準の甘さを指摘した。「現在の日本には、その意味で安全だと言い切れる原発など無い」。
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東芝で原発の設計に携わっていた後藤政志

さんは「熊本地震のように長周期で繰り返さ

れる荷重に対して余裕をもって設計している

のか」と新基準に疑問を投げかけた

=東京都千代田区の「主婦会館プラザエフ」


【規制委「根拠なく原発停めない」】

 「原子力市民委員会」は福島第一原発事故から2年後の2013年4月に設立されたシンクタンク。座長の吉岡さんのほか、島薗進東大名誉教授、荒木田岳福島大准教授、海渡雄一弁護士、武藤類子福島原発告訴団長らが委員として名を連ねている。そのほかに、金子勝慶大教授、高木学校の崎山比早子さんらがアドバイザーとして加わっている。これまでに原発再稼働の凍結を求める提言などを発表したほか、2014年5月には、鹿児島県薩摩川内市で「川内原発再稼働についての自主的公聴会」を開催。2015年3月には、関西電力高浜原発の再稼働計画について、滋賀県の三日月大造知事と会談している。

 声明で求めている「新たな規制基準」について、吉岡さんは「新たな基準を満たす原発をつくることは難しいだろう」と、事実上の全原発停止提言であることを認めた。声明の表現については委員会内で意見の相違はあるものの「原発をやめるべきだ」という認識では一致しているという。立石さんは「いったん川内原発を停めて、熊本地震の教訓をどのように生かすか、薩摩川内市民がもう一度議論する余地を残すべきだ」と話した。
 川内原発の稼働停止について、原子力規制委員会の田中俊一委員長は4月18日の臨時記者会見で「原子力施設に異常は無い」、「安全上の問題は無い」と繰り返した上で「根拠が無く、そうすべきだという皆さんのお声があるからそうします(稼働を停止させる)ということは、するつもりはありません。政治家に言われても、そういうつもりはありません。根拠が科学的に我々が納得できるものでなければ、そういう判断はしません」と明言している。



(了)

〝飯舘血統〟「までい牛」に込められた故郷への想い。「帰村を急ぐな」。村長に注文も~東大・五月祭

14日に始まった東京大学の「五月祭」で、福島県飯舘村のブランド品「飯舘牛」の流れをくむ牛肉が販売されている。その名も「までい牛」。「心を込めて」、「ていねいに」という意味の飯舘村の方言だ。原発事故で移転を余儀なくされた畜産農家が、千葉県山武市で守り続けた「飯舘血統」。その肉を多くの人に食べて欲しいと汗を流す女性。2人に故郷への想いを尋ねた。放射性物質に汚染されてしまった土地。山積みのフレコンバッグ。そして何より、「までい」の精神を忘れた村政…。飯舘村から遠く離れた2人の言葉は重い。五月祭は15日まで。



【「村民が腹を割って話し合うべき」】

 真夏のような照り付ける陽射しに負けないように、大内彩加さん(22)は東大正門近くのブースで大きな声をあげていた。原発事故で故郷・飯舘村を離れて5年が過ぎた。高校生は役者になった。飯舘村にルーツを持つ牛肉を1人でも多くの人に食べてもらいたい─。いまだ帰れぬ故郷への想いが込められていた。

 原発事故が起きたのは高校3年になろうという時だった。福島県立原町高校(南相馬市)では放送部の部長として、部活動に青春のすべてを捧げていた。特に力を入れていたのが朗読。その年の夏には、全国高等学校総合文化祭(ふくしま総文)の地元開催が決まっており、相双地区の放送部のリーダーとして、前年の宮崎大会に視察に行くなど準備を進めてきた。そこに、無情にも放射性物質が降り注いだ。

 「全村避難が決まっても、どうしても避難したくなかった。いま離れてしまったら一生、村に帰って来られなくなるような気がしたんです」

 放送部長を全うして、友人と一緒に原町高校を卒業したかった。「私1人だけ村に残して欲しい」。そう懇願する娘に、母親は「そんな事出来ると思う?」とだけ語った。結局、親類の住む群馬県伊勢崎市内の市営住宅に家族と共に移り住んだ。「どこに行っても、朗読を続けなさい」。放送部顧問の言葉は今もはっきりと覚えている。転校先は放送部の活動が盛んな学校を探し、群馬県立伊勢崎清明高校に決めた。NHK杯高校放送コンテスト群馬大会では朗読部門で優秀賞を受賞し、全国大会にも出場した。夏の甲子園行きを争う全国高校野球選手権群馬大会では、開会式の司会を務めた。

 高校を卒業すると都内の専門学校に入学。「昔から役者になりたかった。一番演技の難しい声優の勉強をしよう」と、多くの声優を抱える青二プロダクションの養成所にも通った。「ど根性ガエル」(実写版、日本テレビ)や、南相馬市からの避難母子の葛藤を描いた舞台「愛、あるいは哀、それは相」(東京ハンバーグ)などに出演している。昨年6月には、村のPRを行う「までい大使」に任命された。

 自宅のある草野行政区は「居住制限区域」(年間積算線量が20mSv超50mSv未満)に指定されているが、2017年3月にも解除される見通し。「やっぱり戻りたい気持ちはありますよ。でも…」。自宅の裏には、除染土壌の入った黒いフレコンバッグが山積みされている。「私ね、部屋から見る景色が大好きだったんですよ。田んぼの稲穂、トマトやキュウリ、その向こう側の友達の家。それが今は黒い袋の山なんです」。もしフレコンバッグが全て片付き、以前と同じような景色に戻ったとしたら? 「うーん。一度、汚染されてしまった土地ですからね」。葛藤が続く。

 避難指示解除に向けて邁進する菅野典雄村長には「わがままですよ。もうちょっと村民の言葉に耳を傾けて欲しい」と厳しい。「村内の学校再開にしたって、子どもたちが戻らないと村が復興出来ないというのは分かるけど、早急すぎます。とにかく一度、村の復興について皆で腹を割って話し合って欲しいです。お金とかではなくて、本気で」。
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大内彩加さんは、原発事故で避難・転校を強いら

れた。「戻りたい気持ちはあるけれど…」と複雑な

想いを口にした


【避難解除での〝難民〟を憂慮】

 牛肉を提供したのは、飯舘村から千葉県山武市に移転して畜産業を続けている小林将男さん(60)。1000食分、計80kgのばら肉ともも肉を用意した。「若者にパワーをもらったよ」。汗を流しながら肉を焼いて販売する東大生らの姿に、目を細めた。

 やはり居住制限区域となっている関沢行政区で、90頭を超える肉牛を管理していた。元号が昭和から平成に変わった頃、エンジニアとしての会社勤めを辞めて始めた畜産。「いずれは飯舘村で畜産をやりたいと考えていたんだ」。村内で生産された牛肉を村は「飯舘牛」とブランド化して売り出した。そして23年目の原発事故。村内での畜産は不可能となった。

 「あの頃の事は良く覚えていますよ。雨や雪が降ると顔がヒリヒリしたんだ。肌の露出している部分は赤くなるし、喉もいがらっぽくなった。ああ、被曝してるんだと思ったものさ」

 原発事故から1週間後には、移転先探しを始めていた。宮城、岩手…。だが候補地が見つかっても、やんわりと断られた。「口にはしないけど、福島の汚染した牛を連れて来て欲しくなかったんでしょうね。受け入れ出来ませんという返事が返ってきた」。もはや個人の力では限界だった。福島県から提示された候補地の中から、山武市の牛舎を選んだ。

 牛を連れての移転を始めたのが6月中旬。住民票も移した。現在の牛舎は、来月で5年契約が満了する。間もなく市内の別の土地に移る予定でいる。新しい牛舎は村の復興事業として建設中。「今度は8年契約。若手の育成に力を注ぎたい」と語る。牛は160頭にまで増えた。現在、生産している牛肉は「飯舘村生まれの母牛から千葉県で産まれた」仔牛。「飯舘牛」を名乗れる事は叶わないが村のルーツをくむ「飯舘血統」だ。

 原発事故直後は強制避難を拒み、わずか5年で帰村を目指す菅野村長。「子どもたちを戻して学校を再開しようというのも分からないね。除染したって山の汚染はそのまま。雨水と一緒に汚染が拡散される可能性だってある。村長はとにかく、村の名前を残したいのだろうね」。避難指示が解除されれば、村に戻らない飯舘村民も「自主避難者」と同じ位置付けになる。「戻らざるを得ない人もいるだろう。戻りたくなくて〝難民〟になってしまう人も出るんじゃないか」と心配する。

 「秋の村長選挙はどうなってしまうのかな」。

 遠く山武市の市民として、妻と故郷を見守る。
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生産者の小林将男さん。飯舘村から千葉県山武市

に移転して畜産を続けている。 「までい牛」は15日

も、東大正門近くで販売される。500円

=東京都文京区本郷


【「までい」の精神忘れた村政】

 「までい牛」の五月祭での販売は、佐藤聡太さん(東大農学生命科学研究科2年)が中心となり「までいラボ」というプロジェクトを発足。1年間の準備期間を経て実現させた。

 「初めて小林さんの生産した牛肉を食べた時、涙が出るほど美味しかった。あの味が忘れられません」と佐藤さんは振り返る。小林さんの牛舎で1日、働いたこともある。飯舘村の復興に貢献したい。そこで着目したのがブランド品「飯舘牛」だったという。五月祭では500円で販売。味を比較してもらおうとオージービーフを1枚加えたが、味の違いは明らか。特にばら肉はやわらかく、噛むほどに深みのある味わいが口の中に広がる。思わず御飯が欲しくなる美味しさだ。
 「心を込めて」、「ていねいに」という意味の「までい」。しかし、現在の村政に「までい」の精神は流れているだろうか。先日の住民懇談会で、菅野村長は「避難指示解除は村民のため」と繰り返したが「2017年3月の避難指示解除」はもはや決定事項。帰村ありきの村長からは「ていねいに村民の意見を聴く」という姿勢は見られない。

 五月祭は15日も開かれる。初夏の東大キャンパスで「までい牛」を味わいながら、村民の哀しみや怒りに思いを馳せてはどうだろう。汚染も避難も現在進行形だ。

(了)

【飯舘村】避難指示解除ありき、不満噴出の住民懇談会~いら立つ菅野村長。報道への恨み節も

原発事故による全村避難が続く福島県飯舘村は、2017年3月をめどに帰還困難区域以外の避難指示解除を目指している。村民からの意見を聴こうと住民懇談会を避難先ごとに開いてきた。9日夜、伊達市内で開かれた懇談会では、帰村ありきの姿勢に村民の不満が噴出。いら立つ菅野典雄村長が声を荒げる場面もあった。葛藤する村民。安全を強調する国。両者の溝は埋まらない。「村民の忌憚の無いご意見」を踏まえ、国は来月にも、10カ月後の避難指示解除を正式に発表する。



【避難指示解除は「村民のため」】

 思い通りに進まないいら立ちが、とうとう爆発した瞬間だった。

 住民懇談会の終盤、菅野典雄村長は突然、声を荒げて語り始めた。

 「実は、長泥地区を帰還困難区域から居住制限区域に変更するという約束を、国(内閣府)から1年前に取り付けていた。もはや年50mSvを超えていないから。住民とも話をして寸前の所まで行っていたのに、土壇場で誰かの入れ知恵で『帰還困難区域のままにしておいた方が(賠償などで)良い』という事になってしまった。今年、改めて国に『あの約束は今も有効か』と尋ねたが、もう駄目だということだった。あのまま進んでいれば今回、全村一斉に避難指示が解除できた…」

 菅野村長はまた、何度も「村民のため」という主旨の言葉を口にした。「『ただただ村を残したいための避難指示解除じゃないか』という意見もある。でも、いろいろな問題はあるが、少しでも村に戻ってもらえばこそ、私たちは何をすれば良いか見えてくる。村の外にいては復興できない」。まるで釈明会見のような場面もあった。「100点の考え方は無い。ベターな状況をつくるのが村としての判断だ」。

 「皆さんの生活をいくらかでも守っていく」。そう話す一方で被曝のリスクに関しては、こんな本音も漏らした。「残念なのは、放射線に対する考え方が百人百様だということです。幅のある中で、どこかに決めなければならない」、「問題が解決しないと帰れないというのでは…」。そして「年1mSvは、安全と危険の境ではない」。

 住民懇談会には福島県や内閣府、環境省、経済産業省・エネルギー庁、農林水産省・東北農政局の担当者がずらりと顔を並べた。原子力災害現地対策本部の後藤収副本部長は、冒頭のあいさつで「忌憚のない意見を」と語ったが、2017年3月の避難指示解除は既定路線。参加した村民の1人は「意見聴いたって、村長の腹は決まっているんだべ」と話した。事実、内閣府が用意した資料には、除染の効果で村内の放射線量が低減していること、商業・医療施設が再開するなど、生活環境が改善しつつあること、避難指示解除後も復興支援は続くことなど「前向きな」情報がふんだんに盛り込まれた。今年3月に実施された特例宿泊を利用した村民の「避難指示が解除されたら、すぐ帰ろうと思っている」という「ご意見」まで掲載された。

 まさに「帰還ありき」なのだ。その証拠に菅野村長は何度も繰り返した。「村民の間の補償の格差を少しでもなくしたいんです」。強制帰還ではないと口では言っているが、国にも行政にも「帰村しない」という選択肢は存在しないのが実情なのだ。
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(上)「村に帰らない事には復興は始まらない」

と語った菅野典雄村長

(下)原子力災害現地対策本部などが作った配布

資料には、汚染の低減を強調する「データ」が並んだ


【「被曝者手帳」の交付は拒否】

 村民も、帰還と不安のはざまで揺れている。

 集団ADR「原発被害糾弾飯舘村民救済申立団」の団長を務める長谷川健一さんは、質疑で「狭い仮設住宅での生活が長引き、村民は限界に来ている。来年3月の避難指示解除はしょうがないのかなと思う」とマイクを握った。誰だって住み慣れた土地に帰りたい。帰還困難区域・長泥地区の男性も「我々も村民です。帰りたい気持ちは同じです」と訴えた。

 「土地を汚されて、放置されたままで…。悔しい想いが分かりますか?」

 男性の怒りに、ずらりと座った役人たちも沈黙するばかり。「汚された土地を高く買っていただいて、最終処分場にしたらいいでしょう。そういう末端の声を聴いていないから、帰村の話ばかりするんですよ」。これには、後藤副本部長も「正直申し上げて(長泥地区に関しては)すぐに帰れる状況に無い。その点に関しては、お詫び申し上げる」と答えるしかなかった。

 長谷川さんは言う。「村に帰るにしても、安全性の担保が欲しいんですよ。広島や長崎のような被曝者手帳の交付、将来にわたっての医療費免除、農作物に風評被害が生じた場合の賠償など、国と明確に公文書を交わして、帰りたい人が安心して帰れるようにするよう強く要請したい」。

 4月23日から30日にかけて、長谷川さんはウクライナやベラルーシを訪問。現地の人々との会話を通じて「日本では、放射能に対する考え方があまりにも甘すぎる」と感じたという。「チェルノブイリ原発事故当時の子どもが今、親になっている。その子どもたちに免疫力低下や高血圧などの健康被害が出ているとのことだった」。

 だが、被曝リスクの存在を認めない国が前向きな回答をするはずが無い。内閣府原子力被災者生活支援チームの松井拓郎支援調整官は「そういう話は知っているが、被曝との因果関係について説得力のある根拠が無いというのが国際的な知見」と否定。被曝者手帳の交付についても「たしかに被曝リスクはゼロではないが、100mSv以下の被曝での発ガンリスクは、他のリスクに隠れてしまうほど小さいというのが国際的な合意。広島や長崎と同列に考えるのは難しい。別に考えるべきだ」と〝拒否〟した。

 小宮地区の男性は「早く自分の家に帰りたい。それは当たり前だ。でも、帰ったら黒い袋の間をぬって生活するようになる。あれはいつになったらなくなるのか」と質した。環境省の担当者は「現在、村内には約160万袋のフレコンバッグがある。今後、除染でさらに増えて行く見通しだが、シートで覆うことで風雨や直射日光にさらされないので、3年経っても新品同様の性能を維持する事は確認出来ている」と説明。菅野村長も「ちょっと今、直しをかけているので動いていないが、約4割ある可燃汚染物は蕨平の仮設焼却炉で燃やす」と減容を強調。「村内に埋設処分したらどうか」との意見の出たが、菅野村長は「非常に斬新な案だが、村民の皆さんがOKするだろうか」と否定的な見方を示した。

 蕨平の仮設焼却炉に関しては「わが家は直線で3・5km。安全性を担保するようなデータが無い」との質問が出たが、環境省は「巨大なフィルターを二重に取り付けている」と安全性をアピールした。

 「仮設住宅にはいつまでお世話になれるのか」。女性からの質問に、菅野村長は「残念ながら法律は1年ごとの更新で、寄り添っていない。努力はしていきたいが、土地を借りているので相手の事も考えなければいけない。5年も10年も、ということはあり得ない」と答えた。福島県の担当者は「国と協議中。夏までには2017年4月以降も延長出来るかどうか示せるのではないか」と語った。避難指示が解除されれば、強制避難者も自主避難者になるのだ。
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帰還への不安や不満が噴出した住民懇談会。

ウクライナやベラルーシ訪問から帰国したばかり

の長谷川健一さんは「安全性の担保が欲しい」

と強調した=伊達市・保原市民センター


【「私だって一生懸命やっている」】

 安全性と復興支援ばかりが強調された懇談会は、11日夜に福島県青少年会館(福島市黒岩)で開かれて終了する。国側は6月にも7月1日からの長期宿泊と2017年3月での避難指示解除について方針を示すものようだが、もはや結論は出ていると言って良い。ちなみに、避難指示解除は「村と村議会が国に要望した」という形になっている。

 懇談会終了後、取材に応じた菅野村長は、私に報道への不満も口にした。顔は紅潮していた。

 「特に外から来た記者は、声の大きい人、騒ぐ人だけを取り上げて、それがあたかも全体の意見であるかのように報じる。いろんな角度から見て欲しい」

特に「間違った報道」という言葉が気になり、私は尋ねた。「間違った報道、とは村長の意に沿わない報道という意味か」。菅野村長は苦笑した。「いろんな角度から書いて欲しいという意味ですよ。意に沿わない報道にいちゃもんをつけるほど、私はケツの穴の小さい人間じゃありませんよ」。
 今秋には村長選挙がある。避難指示解除に合わせて村内での学校再開を打ち出す(最終的には2018年に延期)など、菅野村長の強引な手法には「声の大きい人」ならずとも批判的な見方が強い。4年前は原発事故直後の混乱の中で無投票に終わったが、今回は選挙戦を模索する動きが水面下で続いている。

 「避難指示が解除されたって課題は山積です。いったい誰が国や東電とケンカするんですか?私だって一生懸命やっているんですよ」
 そう言って菅野村長は私をにらみつけた。「一生懸命」に敬意を払いつつ、こんな村民の言葉を贈りたい。

 「村長なんだから、一生懸命やるのは当たり前だべ」




(了)

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