MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

今日は、キューバ出身でスペインで活躍している脚本家、アレハンドロ・エルナンデスを紹介します。

 

彼が長年仕事を共にしているマリアノ・バロッソ監督と共同で脚本を執筆したスペインのドラマ『華麗なるファラド家』はアマゾンプライムで配信中。

 

華麗なるファラド家 シーズン1を観る | Prime Video (amazon.co.jp)

 

主人公オスカル(写真↓手前右)はしがないエアロビ・インストラクターだったが、武器商人レオ・ファラド(真ん中)の長女サラ(右から2人目)と出合ったことで、隠れた適性を発揮し、恋人から夫へと“昇進。家族として活躍の場を広げていく。

背景は1980年代。武器商人の話ゆえ、世界各地の様々な紛争(中東、アフリカ、ニカラグア)が舞台で、アンゴラ内戦もそのひとつ。ちなみに、ファラド家の顧客は社会主義陣営側。

 

アンゴラのエピソードでは、キューバ人俳優も出演。ウラジミル・クルスがキューバ人大佐パトリシオ(左奥)、エクトル・ノアがキューバの諜報部員ヘンリー(その右のサングラスの男)を演じている(ほかに、イサベル・ディアス、ラウラ・ラモスも出演)。

 

キューバ出身のエルナンデスは、徴兵でアンゴラに2年間派遣されていた経験をエピソードに盛り込んだと言っており、フィクションとはいえ、キューバとアンゴラ内戦の関り(例えば「アンゴラ戦争は部族間の争いだ」というセリフ)や、冷戦からその終結までを、エルナンデス氏の視点を通して垣間見ることができるかもしれません。

 

アレハンドロ・エルナンデス:脚本家、作家 マドリッド在住

1970年 ハバナ生まれ

18才のとき徴兵でアンゴラに送られるが、戦闘兵としてよりも占領軍兵士として過ごし、軍の機関紙に記事を書いたり、空軍の整備士として働く。空軍基地の図書館でフロイトの著書に出会い、心理学に興味を抱く。キューバに戻ると、英語の学士号を取り、サン・アントニオ・デ・ロス・バニョス映画テレビ学校(EICTV)で映画を学ぶ。同校でハイメ・ロサレス(スペインの監督・脚本家)と出会ったほか、ガブリエル・ガルシア・マルケスが教えるワークショップで、マリアノ・バロッソと知り合う。

28歳の時、ノルウェーのベルゲンにある学校で脚本を学ぶ。留学中にキューバからの一時帰国命令に従わなかったため〈離脱者(desertor)〉とされ、5年間入国を禁じられる。スペンに移住し、身分を証明する書類のないまま約3年が過ぎたころ、仕事が舞い込む。

以後、映画やテレビドラマの脚本家として活躍しており、脚本賞へのノミネートも数多い。

2014年にテレビドラマシリーズ Todas las mujeresでゴヤ最優秀脚色脚本賞を受賞。

 

日本では、スペインのベニート・サンブラーノ監督の『ハバナ・ブルース』(2005年)や、アレハンドロ・アメナバル監督の『戦争のさなかで』(2019年)が映画祭で上映された。

 

★ キューバ映画との関り

1996年、最初の小説“La milla”をキューバと米国で出版(英語のタイトルは“The Cuban Mile”)。

その後、キューバ映画産業庁(ICAIC)主催のシナリオコンクールに応募。

キューバ独立戦争を題材にした内容で、最優秀賞を獲得。

ICAICと契約を結んだが、受賞作が映画化されることはなかった。(2009年、この時の構想を元に小説”Oro ciego”を執筆し、翌年スペインのノワール小説のコンクールで最優秀歴史小説賞を獲得)

2001年、 ホルヘ・モリーナ監督の短編 "Molina's Test" 

2005年、ベニート・サンブラノ監督『ハバナ・ブルース』

2007年に出版した2作目の小説”Algún demonio”をキューバのヘラルド・チホーナ監督が“Los buenos demonios”というタイトルで映画化。2018年のマラガ映画祭で最優秀脚本賞を受賞。

2022年、パベル・ジロー監督のドキュメンタリー『パディージャ事件』でエグゼクティブ・プロデューサーを務める。

新しいキューバ映画誌「ALTERNA」(ウェブ媒体)が今月16日に創刊された。

記念すべき第1号の表紙はフェルナンド・ペレス監督。

 


雑誌作りに携わっているのは、昨年6月にこの事件がきっかけで発足したACCこと映画人集会(Asamblea de Cineastas Cubanos)の面々。

発案者にして編集長は、エステバン・インサウスティ
彼はキューバ在住だろうが、海外に住むキューバ人も参加している。
ACCメンバーのひとり、映画研究家のガルシア・ボレロ氏は自身のFBで次のように抱負を語っている。
違いを超えて、多様な声を統合する映画誌を目指す。

表現の自由、敬意ある意見交換、あらゆる検閲や差別との闘い、権利と行動のための場となることが、我々の願いであり、究極の目的だ。
批評的思考と自由な意見交流の促進を夢見ている。
そのためにも、映画に関係するクリエーター、研究者、批評家、教育者、提案者の参加を呼び掛る。

この第1号が、我々が望み、我々にふさわしいキューバ映画を作っていくことに貢献できるよう願っている。


Marysolより

新しく誕生した雑誌「ALTERNA」がキューバに良い変化をもたらすことを期待しています。

日本での公開を待望していた『オッペンハイマー』をようやく観た。

 

  

映画『オッペンハイマー』公式|3月29日(金)公開 (oppenheimermovie.jp)

 

普段ミニシアターに行くことが多いせいか、大スクリーンが放つ《体感的衝撃》に圧倒された。

核実験での爆発シーンでは、思わず手を合わせ、途方もない悲しみに襲われた。

あれが広島と長崎の人々の頭上に起きたのだから。 

 

もしナチスが先に降伏していなければ、日本じゃなかったかもしれない…

そんな映画の示唆に困惑した。

 

想定外の連鎖。それは、オッペンハイマーの身の上にも起きる。

原爆を生んだのは、オッペンハイマーを始めとする科学者たち。

だが、その使用を決めるのは、大統領を始めとする政治家や軍人。

原爆の破壊力を知って、核開発に反対するオッペンハイマーは“邪魔者”となっていく

 

アメリカを勝利に導いた“英雄”から、赤狩りの標的に仕立てられていく「聴聞会」の茶番!

よその国の過去の話とは思えなかった…

だからこそ、誠実な証言(人)には救われた。

 

本作には色々な問いを見いだせるが、原爆を造ったオッペンハイマーに罪はあるのか?

 

ユダヤ人の彼にとり、原爆開発でナチスに先を越されてはならなかった。

もしオッペンハイマーが造らなくても、いずれどこかで誰かが造っただろう。

(日本も研究開発していた)

水爆を造ったテラーは、オッペンハイマーのように苦悩しただろうか?

オッペンハイマーには良心と誠実さがあり、だから自問自答し続けた

と私は思うし、それは別のドキュメンタリー番組で確認している。

問い続けること、問を共有することが大切だ。

 

『オッペンハイマー』を観ているとき、何度か泣きたくなった。

その気持ちを思い返していたとき、ふと広島での思い出が蘇った。

 

大学生の夏休み、山口県の青海島に友人と旅行し、帰りに時間があったので広島に寄り、原爆ドームと資料館を訪れた。出てきたとき、私はショックで呆然としていた。

「あの時代に生まれなくて良かったね」と友人が言ったとき、素直にうなづけなかった。

「それでは死者が報われない」気がして、言葉を探していたとき、平和を呼び掛ける人たちの声がした。

「これだ!」と思った。「二度と戦争を繰り返してはいけない」と。

起きた事は変えられない、でもその意味は変えられる。

 

泣いて終わりにしてはいけない。

あのときの思いが、キューバ映画『低開発の記憶』に、そして今『オッペンハイマー』に繋がっている。

 

追記:広島・長崎の悲劇は表現されていない?

 

本作について、公開前から〈広島・長崎の悲劇を伝えていない〉との意見を見かけていたので、その点に注意して鑑賞したが、台詞のなかで何度も「ヒロシマ」「ナガサキ」の名が出たし、映像の迫力で原爆の脅威は十分に伝わったと思う。

 

日本の悲劇が描かれていないという方は、どのような表現を期待しているのだろうか?

眼をそむけたくなるような映像は、かえって被害者に失礼になり兼ねないし、被爆者を演じる役者が日本人でなければ、それもまた問題になったかもしれない。

 

NHKの「クローズアップ現代」のインタビューで、ノーラン監督は「オッペンハイマーが直接見ていない広島・長崎は描いていない」と言ったが、実際には〈幻影〉として〈やけどを負った若い女性の顔〉を描いている。

しかも、映画評論家で監督の友人、トム・ショーン氏は同番組のなかで「重要なのは、“やけどを負った被害者”を演じたのがノーラン監督の娘だということです。監督は核兵器の破壊力を自分ごととして捉えている」と指摘した。

 

一方、娘を起用したことについて、ノーラン監督自身は「あまり自分の意図を分析しないようにしています」と言いながらも「もし究極に破壊的な力を創りだしたなら、それは自分自身の近くにいる大切な存在をも破壊してしまう、ということです」と説明し、「私にとって、可能な限り強い言葉でこれを表現する方法だったのだと思います」と語った。

 

そもそも本作は、第二次世界大戦を勝利に導いた〈英雄〉が核開発競争に反対したせいで、赤狩りの標的にされ、〈国家の裏切者〉へと転落するプロセスを描いた作品だ。

すべての史実を詰め込むことなど出来ないし、監督には独自のテーマがある。

 

ちなみに「ニューズウィーク 4・16号」には核実験の拠点のあったロス・アラモスに住んでいた先住民が強制退去させられた事にについて触れられていない、と指摘されていた。確か「速やかに戻れるよう望む」というような言葉でしか示唆されていなかったと思う。

ICAIC創設65周年を祝うトークイベントの《トマス・グティエレス・アレア監督》がテーマの回で、ミルタ・イバラ夫人が〈アルフレド・ゲバラ長官との不和〉を話しましたが、今日はアルフレド・ゲバラの反論を紹介します。

参照したのは、キューバ映画研究家で先日「アレッホ・カルペンティエル賞」を受賞したアントニオ・ガルシア・ボレロ氏のFB投稿(彼が執筆中のアレア監督の伝記の一部)。

 

背景については、下の拙ブログ記事をご参照ください。

『PM』上映禁止事件 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

アレア監督、ICAIC幹部を辞任 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

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「ルネス・デ・ラ・レボルシオン」の消滅は、当時のキューバ知識人界におけるICAICとその長官アルフレド・ゲバラの地位強化を予測させたが、ICAIC内部では重大な危機が起きていた。その危機とは、ゲバラ長官と彼に反発する映画人たちの間に生じた分裂で、PM事件はそれを露わにした。

 

PM事件に先立つ1961年5月25日、アレア(愛称ティトン)はゲバラ長官に宛て、彼の方針に批判的な長文の覚書を送っていた。

以下はその要点:

a)    反動的な映画から得られる知識が、革命的な芸術家の仕事において、積極的で革命的な解決策を生む可能性もある。

b)    我々の仲間に悪影響を及ぼし得るという理由で作品を隠蔽することは、仲間の成長の妨げになるだろう。そして、必然的な結果として、良いとされる意見に対する不信を招くであろう(なぜなら、現実と向き合わないからだ)。

c)    全ての作品をある特定の個人の好みに合わせたら、我々の作品に多様性はなくなるだろう。

d)    意見の押し付けは、たとえ正しい意見だとしても、両刃の剣となる。なぜなら、反発(非常に人間的だ)が生じるからだ。

e)   誰も他者に代わって思考することはできない。

 

これに対し、ゲバラ長官は執行委員会で次のように激しく反論した。

「私は拒絶し、告白せねばならない。許せよ、ティトン。傷つける意図は全くないのだから。だが、私に対するティトンの態度は大概において誠実ではない。私の感じるところでは、私の言葉、私の態度を常に歪曲し、私を“スターリニスト”や、教条的な立場を擁護する側に見せかけようとしている。私が図式的な芸術に到るような道をつくり、芸術家の創造的可能性を狭めたり、条件を設けたり、特定の思想を強要し得る理論的立場を擁護・実践しているかのように仕立てあげている」。  

  

 

Marysolより

アレア監督の指摘が理論的で説得力があるのに対し、ゲバラ長官の反論は客観性と説得力に欠けるように思います。

この反論を読むと、ゲバラ長官がアレアの作品に好意的でなかったことが理解できます。

また、アレアの「誰も他者に代わって思考することはできない」という指摘は、まさに『低開発の記憶』のメッセージと同じです!(時代背景も)

キューバを代表する俳優として、また、毎年ヒバラで開催される「シネ・ポブレ(低予算)映画祭」のディレクターとしての貢献が認められたのでしょう。
ホルヘ・ペルゴリアが今年のキューバ映画賞を受賞しました。


    
 

受賞のスピーチ

 

多くの人々の名を挙げて、感謝を伝えたなかに、俳優としてスタートした演劇界の恩師の名、そして映画デビューのきっかけになった『苺とチョコレート』の監督、トマス・グティエレス・アレアとファン・カルロス・タビオの名がありました。
また、常に不確かさと矛盾と闘う俳優の仕事を支えてくれた妻をステージに呼び、感謝を捧げました。
そして、受賞によって益々キューバ映画と共にあることを誓い、違いを尊重し映画人同士が和解してキューバ映画のために共に闘えるよう願い、「キューバ映画ばんざい!」と締めくくりました。

 

参考:これまでの受賞者一覧

por el 𝐂𝐞𝐧𝐭𝐫𝐨 𝐝𝐞 𝐃𝐨𝐜𝐮𝐦𝐞𝐧𝐭𝐚𝐜𝐢ó𝐧 𝐝𝐞𝐥 𝐀𝐮𝐝𝐢𝐨𝐯𝐢𝐬𝐮𝐚𝐥 𝐂𝐮𝐛𝐚𝐧𝐨 

en alianza con la 𝐄𝐧𝐜𝐢𝐜𝐥𝐨𝐩𝐞𝐝𝐢𝐚 𝐃𝐢𝐠𝐢𝐭𝐚𝐥 𝐝𝐞𝐥 𝐀𝐮𝐝𝐢𝐨𝐯𝐢𝐬𝐮𝐚𝐥 𝐂𝐮𝐛𝐚𝐧𝐨

 

2003: Alfredo Guevara (Presidente del ICAIC)

2004: Julio García-Espinosa (Director)

2005: Humberto Solás (Director)

2006: Enrique Pineda Barnet (Director)

2007: Fernando Pérez (Director), Daisy Granados (Actriz), Nelson Rodríguez (Director)

2008: Juan Padrón (Director de animados)

2009: Leo Brouwer (Músico)

2010: Raúl Pérez Ureta (Director de fotografía)

2011: Eslinda Núñez (Actriz)

2012: José Massip (Director)

2013: Manuel Pérez Paredes (Director)

2014: Juan Carlos Tabío (Director)

2015: Humberto Hernández (Productor)

2016: Iván Nápoles (Director de fotografía)

2017: Raúl Rodríguez Cabrera (Director de fotografía)

2018: Miriam Talavera (Editora)

2019: Miguel Mendoza (Productor), Livio Delgado (Director de fotografía), Jerónimo

Labrada (Sonidista)

2020: Senel Paz (Guionista), Paco Prats (Productor)

2021: Mario Balmaseda (Actor)

2022: Manuel Herrera (Director)

2023: Magaly Pompa (Maquillista)

前回に続いて、創設65周年を迎えたICAICにまつわるトークショーの紹介。

今回のテーマは〈トマス・グティエレス・アレア監督〉、愛称〈ティトン〉。

 

登壇者:ローラ・カルビーニョ(シネマテカ副館長)、ミルタ・イバラ(故アレア監督夫人、女優)、ホルヘ・ペルゴリア(俳優)、グラナード(撮影監督)

 

 

メインスピーカーは、ミルタ・イバラさん(以下、敬称略)だったので、彼女の話から個人的な関心事をメモ代わりに記しておきます。※はMarysolの注釈

 

彼女の話で印象的だったのは、アルフレド・ゲバラ(ICAIC長官)との不和や対立

『侵略者に死を』(1961年)はサンティアゴ・アルバレス監督の作品ではなく、アレア監督の作品だと主張。(※アレアはゲバラ長官に抗議の手紙を送っている。尚、このトークの質疑応答で、アレア監督を子供の頃から知る男性が異議を唱えたが、話の途中でビデオが終了し、残念!)

 

時期は不明だが、ガルシア・マルケスの誕生祝の際に、ティトンとゲバラ長官がエレベーターで乗り合わせたが、互いに目も合わせなかった!

(※アレア監督の晩年、某氏はゲバラ長官から「ティトンは反革命になったのか?」と尋ねられた、と某氏本人から私は聞いたことがある)

 

ゲバラ長官はアレア作品を評価していなかった!

『低開発の記憶』をゲバラ長官は公開したくなかったが、ドルティコス大統領が内輪の試写で観て「これぞ革命が生んだ作品だ!」絶賛したので公開できた。(※ドルティコス大統領が賞賛したという話は他でも読んだことがある)

 

『最後の晩餐』を「エリート趣味」と断じ、2年間もお蔵入りになっていた。

ちなみにアレア夫妻がパリに行ったとき『最後の晩餐』を映画館で上映していたので、話を聞くと「もう2年間もロング上映しており、奴隷制について学びに学生たちが見に来る」とのことだった。

 

“Hasta cierto punto”(日本未公開)については、公開前からネガティブな雰囲気ができていた。ゲバラ長官は「ティトンは文化人と労働者を対立させた」と言ったが、実際は逆で「両者共にマチズモを抱えており、それは文化的問題であることを描いた」。

 

『グアンタナメラ』については、ミルタいわく「フィデルに誤って伝わった」。

(※本作はフィデルを怒らせ、演説で本作を反革命と呼んだと言われている)

だが、アベル・プリエトから「ティトンの作品だ」と教えられたフィデルは「何も知らなかった」と言い、謝罪を伝えるべくレタマールを家に寄越した。ミルタいわく、フィデルは間違いに気づけば謝るし聴く耳をもっている。

 

ティトンの誠実さを象徴するエピソード

先のマルケスの誕生会で、パリから帰国したばかりのゲバラ長官が「キューバには本が無さすぎる。遅れをとっている」と言いだし、フィデルが「いったいパリでアルフレドに何があったのか⁉」と慌てたとき、何年も口をきいていなかったゲバラをティトンだけが挙手をして「キューバにはこれこれの本が必要だ」と擁護した。車に戻ったとき、マジート(マリオ・ガルシア・ホヤ)が悪態をつき、「なぜアルフレドを庇うのか?」と言ったとき、ティトンは「私は彼を擁護したのではない。キューバの文化を擁護したのだ」と答えた。

 

そのお返しではないだろうが、ゲバラ長官も一度だけティトンの作品を擁護した。

それは『苺とチョコレート』。ミルタいわく「映画は政府官僚たちをパニックに陥れたが、アルフレドが擁護した」。

 

検閲に反対

(上映が許されなかったドキュメンタリーをティトンは支持していたという、グラナード氏の話を受けて)ティトンは、検閲を非常に心配していた。PM事件のことは書簡集に書いた通りだ。

アレア監督、ICAIC幹部を辞任 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

PMは今観たら「何が問題なのだ?」と言う程度の作品だが、最初の検閲事件になったことで大事になってしまった。背後には別の事情があった。映画に参入したい人たちがいたのだが、ゲバラ長官が望まなかったのだ。

書簡集とドキュメンタリー(注:どちらもミルタ夫人の作品)は補完関係にある。

ミルタ・イバラ、故アレア監督のメッセンジャー | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

アレア作品の特長

「映画をショー(見せ物)と理解しつつ、現実を批判することで現実をより良くするツールとして捉えていた」

「ティトンは『批判されない現実は良くならない』と言っていた」「批判するのが敵側ではなく我々なら、我々は敵から武器を取り上げることになる」

「ティトンは非常に誠実で、キューバの現実に深く関わり通した革命家だった。多くの面で苦悩を味わっても、決して口には出さず沈黙を守った。革命を傷つけたくなかったからだ」

「彼の作品は見かけは歴史ドラマに見えても、実際には(その時の)現実を表現している」

「観る度に発見がある」

「ICAIC」創設65周年と「ラテンアメリカ映画人委員会」創設50周年

  

 

今月24日、ICAIC(キューバ映画芸術産業庁)は創設65周年を迎えました。

 

おめでたいことですが、いくつかの記事を目にする限り、ICAICの時代は終わったばかりか、かつての〈批判する立場〉から〈批判される立場〉へと変わっているのが気になります(特に、映画人集会との対立もしくは無視・軽視を指摘されている)。

 

ただ、歴史的に観れば、ICAICには評価すべき成果がいくつもありました。

今回は《ラテンアメリカ映画の統合運動》および《ガルシア・マルケスの関与》について、下の討論会を通して見てみたいと思います。

 

最初の6分間のドキュメンタリー映像は、「新ラテンアメリカ映画財団」の創設を発表するガルシア・マルケス理事長(以下、ガボ)。ガボの横にはフィデル・カストロ首相、右後方にいるのは、アルマンド・ハート文化大臣(ではないか?)。

ユーモアたっぷりのスピーチの一部はこちらでも紹介済みです。

 

65周年を記念したパネル討論会1

 

マノーロ・ペレス監督(左端/ICAICの生き字引)の証言

 

ICAICは創立(1959年)当初から〈ラテンアメリカ映画の統合〉を意識していた。

《ラテンアメリカのアイデンティティ》という意識が芽生えたのは60年代。

 

1973年、チリのアジェンデ政権が軍事クーデターにより崩壊する。

70年代のラテンアメリカ諸国は軍事政権が多くキューバは孤立する。

 

1974年、アジェンデの一周忌を記念してカラカスで開催された「ラテンアメリカ映画人の集い」にアルフレド・ゲバラ(ICAIC長官)、マノーロ・ペレスが出席。

連帯促進を図るべく「ラテンアメリカ映画人委員会」創設の合意が成る。

これにより、ラテンアメリカ映画人とキューバの関係が回復。キューバは亡命ラ米映画人を支える。

1977年、チリのビニャ・デル・マルで開催された映画祭に、アルフレド・ゲバラ、パストール・ベガ(監督)、サウル・ジェリン(ICAIC広報部長)が出席。

《ラテンアメリカという意識》がさらに強まる。

1979年、ハバナで第一回新ラテンアメリカ映画祭開催。

 → ラテンアメリカ、社会主義圏、米国、ヨーロッパの映画と関係ができる。

 

★アルフレド・ゲバラがガボをキューバに招待。

70年代にガボとキューバ、ガボとフィデルとの関係が強まっていく。

1976年 ガボ、アンゴラ戦争のルポルタージュを発表

 

1981年、フィデルがハバナ映画祭に出席。

以後、フィデルとラテンアメリカ映画や映画人と関係が深まっていく。

「ラテンアメリカ映画人委員会」の規模拡大のため、基金創設案が浮上。

フィデルがラテンアメリカ映画基金の理事長にガボを提案し、ガボが引き受ける。

フィデル以外だれも理事長にガボを想定していなかった。

 

☆ミゲル・リティン(亡命チリ人映画監督)がピノチェト政権下の祖国に潜入したいとフィデルに提案。

1985年、フィデルの後押しで、リティンのチリ潜入が実現。

1986年 ガボ「戒厳令下チリ潜入記」発表

 

Marysolより

「戒厳令下チリ潜入記」は当時本も読んだし、ドキュメンタリーも日本で観ました。

手元の本にざっと目を通してみましたが、フィデルの関与については全く書かれていません。

ただ〈別人になる〉ことの描写は、チェ・ゲバラの場合とダブりました。

マノーロ・ペレスが「リティンの提案を受け、フィデルはピニェイロに電話した」と言っていますが、“赤ひげ”と呼ばれる、マヌエル・ピニェイロのことでしょうか。

去る12日の早朝、マイアミにてセルヒオ・ヒラル監督が亡くなりました(享年87歳)。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

   

 

以下は、氏の簡単な略歴です。


1937年1月2日、ハバナで、アメリカ人の母とキューバ人の父の間に生まれる。
10歳のとき家族とニューヨークに移住。絵画を学ぶ。
1959年、キューバに戻り、翌年ICAIC(映画産業庁)に入る。

(ネストール・アルメンドロスに誘われた?)
★黒人奴隷にまつわるフィクション三部作、"El otro Francisco"(1974年)、"Rancheador"(1976年)、 "Maluala"(1979年)で知られる。

1982年、"Techo de vidrio"が検閲にあい、約5年間映画が撮れなかった。

※官僚政治の腐敗を描いた内容らしい。
1991年、"Maria Antonia"が大ヒット。
1992年、マイアミに移住。

マイアミでも、"La imagen rota"(1995年)に始まり、計4本ドキュメンタリーを撮っている。
2024年3月12日早朝、マイアミにて永眠

 

フィルモグラフィ ENDACより

Henificación y ensilaje (1962), de Sergio Giral (Documental)

Héroes del trabajo (1962), de Sergio Giral (Documental)

Inseminación artificial (1963), de Sergio Giral (Documental)

El testigo (1963), de Sergio Giral (Documental)

La jaula (1964), de Sergio Giral (Ficción)

Nuevo canto (1965), de Sergio Giral (Documental)

La muerte de Joe J. Jones (1966), de Sergio Giral (Documental)

Papeles son papeles (1966), de Fausto Canel (Ficción, Asistente de dirección)

Cimarrón (1967), de Sergio Giral (Documental)

Gonzalo Roig (1968), de Sergio Giral (Documental)

Rito de primavera (1968), de Sergio Giral (Documental)

Vía libre (1969), de Sergio Giral (Documental)

Anatomía de un accidente (1970), de Sergio Giral (Documental)

Por accidente (1971), de Sergio Giral (Documental)

Un relato sobre el jefe de la Columna 4 (1972), de Sergio Giral (Documental)

Querer y poder (1973), de Sergio Giral (Documental)

Qué bueno canta usted (1973), de Sergio Giral (Documental)

El extraño caso de Rachel K (1973), de Julio García-Espinosa (Co-guionista)

El otro Francisco (1974), de Sergio Giral (Ficción)

Rancheador (1976), de Sergio Giral (Ficción)

La sexta parte del mundo (1977), de Julio García-Espinosa (Dirección general) (Documental)

Maluala (1979), de Sergio Giral (Ficción)

Techo de vidrio (1982), de Sergio Giral (Ficción)

Plácido (1986), de Sergio Giral (Ficción)

Chicago Blues (1987), de Sergio Giral (Documental)

María Antonia (1990), de Sergio Giral (Ficción)

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La imagen rota (1995), de Sergio Giral (Documental)

Chronicle of and Ordinance (2000), de Sergio Giral (Documental)

The Way of the Orishas (2004), de Sergio Giral (Documental)

To Barbaro del Ritmo (2004), de Sergio Giral (Documental)

Dos veces Ana (2010), de Sergio Giral (Ficción)

 

Marysolより

ヒラル監督の作品については、ネットでこの作品↓しか観ていませんが、お薦めです。

60年代末に亡命した重要な映画人が多数出演・証言しています。
『ザ・ブロークン・イメージ』:亡命したキューバ映画人のドキュメンタリー(1995年) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
 

2000年代初め、ヒラル氏のブログかホームページを何度か読んだことを思い出しました。

検閲にあった作品のことや、ICAIC映画人を何かに例えていたことを覚えています。

アレア監督のことは〈グル(導師)〉と称していたっけ。

『もうひとつの島』原題:En la otra isla/1968年/ドキュメンタリー/40分 

  

監督、脚本:サラ・ゴメス

撮影:ルイス・ガルシア

編集:カイタ・ビジャロン

録音:ヘルミナル・エルナンデス

音楽:ヘスス・パスカウ

内容:

1965年から67年にかけて、《新しい人間》像に適合しない若者たちがピノス島(現在の「青年の島」)に送られ、再教育のための集団生活を強いられた。

本作は、彼ら収容者の意識調査を目的に製作されたが、キューバの中の“もうひとつの島”で、各人がどんな生活を送り、どんな変化があり、どんな思いでいるのか、踏み込んだ記録となっている。

 

登場人物と概要 (注:聞き取れない部分も多く不十分な内容。メモとして掲載)

1.マリア (17歳)

  5時半に起床し、6時半から昼食まで農園で働き、午後3時半からは美容の授業と実践教育を受けている。文化活動では、パーカッションの伴奏に合わせて歌い踊る。島の生活に満足している。

 

2.ファハルド 演劇人

  農場の牛舎で働きながら、演劇活動を行っている。「演劇・芸術・文化の仕事は生産活動と同じ価値がある」と主張し、その素晴らしさを熱く訴える。

 

3.ラファエル 歌手

  国立芸術学校で音楽や歌を学び、卒業後はオペラ(ブルジョア趣味的?)に出ていたが、黒人ゆえに女性団員から共演を嫌がられ、舞台を去る。ピノス島の生活に満足しているが、「いつか『椿姫』を演じられるだろうか?」とゴメス監督に問いかける。

      

 

4.ラサロ 元神学生

  聖職者になるための勉強を終える頃、革命が勝利し、今は聖職とはかけ離れた世界、牛舎で働いている。神を信じていた頃は暴力を否定していたが、識字運動員の若者が殺された事件を見てショックを受け、志を達成するためには同じく暴力に訴える必要があると考えるようになった。直面する多くの困難については、それをヒロイズムとしてではなく、(成すべきことをしているという意味で)幸せと受け止めている。恋人グラディスとの間に距離的・精神的距離を感じている。

 

5.バイキングたち 

  再教育のため都会から送られてきた「バイキング」と呼ばれる少年たち。監督いわく、「指導者たちは(本作のなかで)最も美しいシーンを期待し観たがったが、我々は『ミゲルの島』という別のドキュメンタリーを撮ることに決めた」。

       

 

6. マピーとハイメ(対照的な二人)

  マピーはキャンプのカフェテリアで働いている。かつて“Las suicidas(心中者たち)”という大きなグループに属し、昼は農作業、夜は建設現場で明け方まで働いていたことを誇りに思っている。

  一方のハイメは〈長髪にピッタリしたズボン〉が好きな、流行に敏感な青年。島での労働は気に入っているが、「大部分の若者は自分らしくありたいし、誰からも押し付けられたくないと思っている」。

 

7.マヌエラ、アダ、カチャ

  カチャは、マヌエラとアダのいる班の責任者。マヌエラの父は、CIA要員と米国に渡り1年滞在した後に帰国し、今はカバーニャ刑務所にいる。カチャのことを〈自らも収容者の一員のように接してくれる〉と評価。

  一方、カチャはマヌエラを〈我が強く、口も悪かった。衛生係の役割を与えたことで責任感が養われた〉と言う。アデラは〈内気で無口〉。カチャは、もっと若者らしく自己表現して欲しいと言う。

  ゴメス監督がカチャに〈労働や男女間の規律〉について尋ねると、次のように答えた。

〈若い男女関係の問題はノーマルなこと。行き過ぎることがないよう話しているが、もし子供が生まれたら私達より共産主義者になるだろう〉。

 

★本作と『ミゲルの島』の意義(ファン・アントニオ・ガルシア・ボレロ氏の論考より)

サラ・ゴメスの作品は、誠実かつ挑発的で、観客を落ち着かない気分にさせる。

そして、彼女は我が国の最も勇気ある知識人のひとりだ。

サラがピノス島でドキュメンタリーを撮った年、1968年のキューバは、後に《灰色の5年》と呼ばれる時期の前兆が現れていた。

 

当時、レオポルド・アビラという名の顔のない男が「ベルデ・オリーボ」誌で毎週のように罵言を吐き、エベルト・パディージャやレネ・アリサ、ビルヒリオ・ピニェラ、アントン・アルファを攻撃していた。

 

サラは悪魔呼ばわりされることはなかったが、自ら青年の島(ピノス島)に行くと決め、処罰を受けている者たちの証言を直に聞き取った。そして我々に向けて彼らの姿を、その複雑さを交え、まるごと、ありのままにスクリーンに投映した。

 

そのおかげで、我々は当時の声や顔を知ることができる。

彼らは《新しい人間》の到来が話題だった時代の自信過剰なビジョンに当てはまらなかったが故に、再教育キャンプに閉じ込められ、反革命家、アウトサイダー、イデオロギー的陽動作戦家、人民の敵などのレッテルを貼られた。

 

フランツ・ファノンを読み込んだサラにとり、革命プロジェクトは、あらゆる社会的協定に作用する包摂と排除の力学を理解する、という挑戦を受け入れるべきものだった。そして、無批判に論証に賛成するのではなく、問題の根源を露わにし、階級差別的なレトリックを告発することだった。なぜなら、貧窮者を護ると言うイデオロギーに隠れて、実は秩序にとって危険と見なすことが多々あったからだ。

 

仏の作家マルグリット・デュラスの質問に対するサラの回答の一部(1967年):

「これは、日和見主義者や凡庸な人、裕福な人が存在しないということでしょうか?いいえ、そういう人たちはいます。私たちの間や、私の中にも居るかもしれません。でも、我々の内外にあるそれらの要素と闘う用意があれば、それは大した問題ではありません。私が貴方に確言できるのは、ここは体制順応主義者の国ではないことです。私が何よりも信頼するのは、“厄介な”若者たちの中の誰かで、どの教室にも、どの農場にも、どの工場にもいます。その人は、誰もしたことがない質問をし、回答を要求し、他の人たちを思考させるのです

※Marysolが一部原文の構成を変え、太字にしたり下線を加えています。

ミゲルの島

原題:Una isla para Miguel(直訳すると『ミゲルのための島』)

1968年/ドキュメンタリー/20分 

監督:サラ・ゴメス

脚本:トマス・ゴンサレス、サラ・ゴメス

撮影:ルイス・ガルシア

編集:カイタ・ビジャロン

録音:ヘルミナル・エルナンデス、アルトゥロ・バルデス

音楽:チューチョ・バルデス

 

内容

ミゲルは14歳。外見と粗暴さから「バイキング」と呼ばれる不良グループの一員で、両親を始め誰の言うことも聞かないため、義兄によってピノス島(現「青年の島」)の再教育キャンプに送られる。そこは彼のような問題児(13~17歳)が、集団生活を送りながら、勉学と労働と国防訓練にいそしむところ。その目的は、チェ・ゲバラが唱えた「新しい人間」のような、模範的革命青年に生まれ変わるため。

本作は、収容された少年少女たちを中心に、教育指導者を含め、彼らの日常をありのままに映すほか、ミゲルの家族にも取材し、彼の生育環境にまで踏み込んでいる。

 

本編

 

Marysolより

本作は、次の言葉で始まる。

「それら浮浪者たち、脱落者たちは断固たる戦闘的活動を通して民族の道筋を見出すであろう」

フランツ・ファノン「地に呪われたる者」より

 

キューバ映画研究家のファン・アントニオ・ガルシア・ボレロは、これを〈サラ・ゴメスの明確な戦闘的活動宣言〉と認める一方で、本作に注ぎ込まれた2種のセンシビリティに注目する。ひとつは、希少な女性監督としてのそれ。もうひとつは、ネグリチュードの意識をもった黒人女性としてのセンシビリティ。そこに今日サラ・ゴメスが評価される所以がある、と言う。

 

また、もうひとつの特長として、ゴメスが現実に根差した姿勢を貫き、決して教条的ではなかったことを挙げる。

一方、革命後のキューバでは、徐々に官僚的な思想が主導権を握っていき、規則の遵守が創造的自由より優勢になっていった。

 

ちなみに本作で、ピノス島の青年共産党同盟のマリオ・モンソン氏の言葉として「彼らは理由なき反抗者だった。彼らに理由(大義?)を与えるのが、党員としての我々の義務である」とあるが、13歳から17歳といえば〈反抗期〉で、それは親離れするための成長に必須な一段階でもある。

 

本作の音楽からは、時折り軽やかさやユーモアが伝わってくるが、私はそこにゴメス監督の懐の深さ、人間としての余裕を感じてほっとする。

 

余談

本作の最後の方でキャンプ名に「サムライ」という名前が付いているように(2回)聞こえた。

もしそうだとすれば、当時の日本映画の浸透ぶりを示す証拠だし、規律正しいイメージもあったのだろう。