僕らは注意深くなければならない。

原発の問題、農薬の問題、TPP、、、、そしてマクドナルド。

いろいろあると思うんです。
でも、あんまり否定しちゃいけないと思うんです。

何かを「ダメ」だとしてしまうと、自分が「正解」になってしまうんです。
たぶんそれは気持ちのいいことだし、いいことだとも思うんです。
自分が自分を認めてあげないと人間は苦しいですしね。


でも、正解の解を得た自分は、

「ダメ」か「正解」か、、、

という2極の世界に放り込まれてしまいます。



そのことが僕は気になってしまうんです。

自分がいつまでも「正解」で居続けるなんてたぶん無理です。

自分の作ったその基準がいつか自分を苦しめるような気もするんです。



じゃあ、具体的に大きな問題が自分の目の前に降ってきた時にどうすればいいか?

原発が家の隣に建設される計画が出てきました。
自分の大好きな海がゴミ処理場として埋め立てられます。
etc


それは。。。
うーん、、、困ったですね。

でも自分の目の前に本当に起こらないと、ほんとうには分からないですよね。
(こんなところに書くことは本当に意味がない。)
その時に何が語れる人であるか、それは大事だと思います。


いろんな立場の人がいて、それぞれの立場でセリフを語ります。

僕らはゆったりとした時間の中で、お互いを伝え合い、知ることが必要なんじゃないか。

そんなことを思うんです。



オノヨーコさんは言いました。

戦争に向かうエネルギーは一点に集中して強くなりやすく、
平和活動は、みんなそれぞれだからパワーを結集しにくい。


と。


僕らがやれることはそんなにない。

やれることは、公園でピクニックでもすることじゃなかろうか。

そうしたら多くの問題が解決するんじゃないか。

そうだといいですね。




読んでくれてありがとう。
とある区の職員さんの話を聞く機会があった。(2012夏)
彼は、学校給食を統括する部署で働いていたそうだ。

震災後、彼の職場は激務を極めた。
それがどういう食材か、放射線量はどうなのか?
保護者達からの「?」は多く、それに一生懸命答えていったそうです。

彼は一生懸命勉強したし、一生懸命持っている数字も公開した。
九州の野菜を仕入れるルートも開拓した。

それでもこれは社会の風潮もある中で、数字も疑われたりいろいろあったと。


結果、小学生の給食の時間は
お弁当を持って来る子、給食を食べる子、と2種類の昼食を食べることとなったそうです。
それは、家庭の方針だったり自分の安全は自分で守るということで
構わないことだと思うのです。

彼もそう言っていました。
ただ、気になることがあると。

分断されてしまったのではないか?

ある子は、隣で弁当を食べる子を見て
「なんだよ、お前心配しすぎなんじゃねーの」と言う。
ある子は、隣で給食を食べる子を見て
「お前よくそんなもの食べられるな」と言う。


区の職員さんは言います。
学校給食とは、みんなに等しく安全な食事を提供しなければいけないんです。

それが出来なかった時に、10年後、20年後にこの子達が大きくなった時の
分断されてしまうかもしれない世界を心配していました。

それは健康被害とは別の次元の話です。





「君の出身はどこなの?」







続く

マクドナルドの話の続き。

マックのハンバーガーを6ヶ月放置しておいても腐らなかったという
実験をした人の話をみたから、なんかこれを書いている。

すごい悪い食べ物だね。変なものが入ってるんじゃないか。
そんな声を見て。


少し意味のないことを書く。例えば。


マクドナルドの設立1店舗目。
そこで働くことを楽しみにしていた定員さんがいたとする。
従業員の人は、自分達の作った本当においしいと思ったハンバーガーを
お客さん達においしく食べて貰いたかった。
子ども達が喜ぶ姿を見たいと思って、一生懸命働き
お客さんを笑顔にすることが何よりも嬉しかった。


マクドナルドの肉を提供している牧場主がいるとする。
大規模牧場かもしれない。
でも、牛を育てることに誇りを持ち、一頭一頭に愛情を注ぎ
牛達に敬意を払っていた牧場夫がいる。
牧場夫には家族がいて、子ども達が牧場で走り回って遊んでいる。
子ども達は大きくなったら牧場を手伝うかもしれない。

牛を提供して、その仕事をすることが出来て、
家族は幸せを感じているかもしれない。



それぞれの人にはそれぞれの小さな喜び、
そして小さな幸せがあるのだと思う。

なんでマクドナルドは、、、コンビニ弁当は、、、
そんなに責められるのだろうか。

自分はそこで言われる食べ物に関わる事実よりも、
マクドナルドを否定することで起こってしまう、
正しいことと正しくないことの持つ「壁」が気になってしまった。


続く。
自分は、仲間と無肥料無農薬のお米を作っている。
なので、オーガニックいいよね、って思う人になってはいて、
その前提で書くけれど。


マクドナルドがどんなに保存料まみれのハンバーガーを作っていても、
それを否定することはしたくないと思った。

それがいかに間違った食べ物かを、友人のSNSでチラホラ見る機会があって少し考えた。
たぶん入ってはいけない添加物がたくさん入っているのでしょう。


オーガニックとマクドは対極にあるようです。


何かを正しいと思ってしまうと、正しくないという「答え」が出てきてしまう。
なんかそのことの方が気になっています。

SNS的な特徴として、シェアによる共有が容易なゆえ、
そういう主張が多いように思う。


マクドナルドで働くことが大好きなバイトの女の子。

マクドナルドの牛を一生懸命に育てている、牧場のお父さん。


大きなものに隠れているかもしれないけれど、
小さな物語がそこにはたくさんあるのだと思うのです。
12年前の4月1日
満開の桜の中、僕らの街には雪が降った。

そのことが夢の中のことだったんじゃないかと思うくらい
自分には曖昧で不思議な記憶になっている。

僕は廊下の先に見える窓に向けて、2回シャッターを切った。
そのことだけははっきり覚えている。

満開の桜と粉雪が舞うその写真は、
桜吹雪にも見える、静かな写真になった。


僕らは仲間と武蔵境の病院にいた。


この辺が曖昧なのだけれど、たしか自分が呼びかけて
俺らだけの成人式をやろうぜ、みたいなことを言ってたんじゃないかと思う。

20歳の頃、友人がバイク事故にあって入院していた。
リハビリも含めると、入院期間が1年半だったということはその事故の大きさを
物語っているように思う。

友人に順番なんてもちろんないのだけど、
もしそれがあるとしたら、彼はその時自分の1番の親友だった。

自分がバラバラになるかと思う程混乱した。
事故後、数週間の意識不明重体の中、集中治療室に入った時の感じも重たかった。
目を覚ますか覚まさないかの狭間。

友人のお母さんが「まだ見舞いは無理だと思う」とその時言っていたことが
今ならよく分かる。


間のことを細かくは書かないのだけど、
その後、目を覚まし車椅子生活を経て、今では杖を使えば歩けるようにはなっている。
ただ、完治はさすがに難しく脳に障害は残った。


人間ってなんだろうな?みたいなことはその時たくさん考えた気がする。
例えば、
植物状態のままだったらとか
コミュニケーションが取れない、取りにくい状態とか、会話が出来ないとか
どうだったら、僕はそいつをそいつだと認識出来るのかなとか。

そんなことはたくさん考えた。



仲間の中で誰よりもお見舞いに行き
誰もが言えないような、「甘ったれてんじゃねえよ」みたいなことも言った。


「俺だって、あの時そのまま死んだら良かったかもって思うこともあるんだよ」
という言葉には返す言葉は見つからなかった。
でも、本気でコミュニケーションを取ろうとするからこそ出来るやり取りなのかもしれない。


事故直後、意識が戻らない期間
凹んでいる自分にとある友人がくれた言葉。

「大丈夫、人間は弱いようでいがいと強いから」

それは今でも残っている。
この時のことを通して、僕が知ったことはそういうことだと思う。

人間は強いようで、弱い。
そして、弱いようで、強い。



散りゆくものだからこそ儚く、そして美しいのでしょうか。