今回は「氷の話」をちょっとお休みして、先日手元に届いたばかりの一冊の本について書きたいと思います。

バー巡りがお好きな方なら、一度は彼の作品を見かけたことがあるのではないでしょうか。フルカラーの小洒落た写真で飾られた雑誌に、そこだけ「心地よい緊張感が漂うバーの空気」を醸し出しているかのような、バーの風景を写し取ったような切り絵です。

昭和40年代から徐々に写真が白黒から天然色になり、やがて多くの情報を雑誌は我々にもたらしてくれるようになりました。現在では定休日から営業時間、お奨めのカクテルから地図まで親切に掲載されていることが普通ですし、我々はそれを当たり前のように感じています。

そんななかで極端に情報量を落とし、シンプルな白と黒だけで構成している成田さんの切り絵が異彩を放っているのは、過剰なサービスの一方で雑誌が置き忘れてきた「空気」を一枚一枚のイラストが醸し出していたからのような気がします。

80年代に雑誌のバー特集で彼の作品に出合ったとき、僕は新聞奨学生でした。1杯飲んだだけで千円以上もするバーは雲の上の存在でしかありません。それでも成田さんの切り絵を目にすると、バーのスツールに腰を落ち着けて、常連らしい隣の客とバーテンダーの談笑を少し離れた席で聞いているかのような想いを持ちました。「あぁ、バーっていうのは大人が行くところなんだろうな・・・」と遠い世界を見ているような気がしたものです。

2012年10月、成田さんは多くの友人を残して急逝します。その頃、僕は洋酒関連の記事を書き始めて10年以上が経過していましたが、幕末から明治・大正、頑張っても昭和40年代辺りまでの洋酒文化が僕の守備範囲です。そんなこともあって、バーよりは開港資料館や国会図書館に足を運ぶことの方が多かったので、現代のバーを巡って切り絵を仕上げていく成田さんと出会うことは最後までありませんでした。

ところが、思いがけない理由でこの本が手元に届きます。バーや古いカクテルの話を追い続ける人は日本全体でもそうそうはいない筈ですが、その数少ない「同好の士」であり、僕にとって畏友である荒川さんという方が成田さんの切り絵作品に1枚ごとに丁寧な解説を加えた本が出版され、荒川さんが僕が献本した「東京府のマボロシ」の返礼として「成田一徹 to the BAR」を送ってくれたのです。

荒川さんは実生活でもかけがえの無い友人だった成田さんを失った心の穴を埋めようとするかのように、成田さんが残した作品を厳選し、一枚一枚にそのバーの常連でなければ書けないようなコメントを付し、同じく成田さんの死を悼む仲間たちの協力を受けて「成田一徹 to the BAR」が出版されました。僕が寄稿した「東京府のマボロシ」が出版される1週間前のことです。

この本は、昨今は常識となった懇切丁寧な店舗情報を意図的に排しています。このことがある意味、真逆の意味をこの本にもたらしました。

この本にはバーの地図も定休日も書かれていません。カクテルの値段どころか消費者にとって店の来店動機のポイントになる「高いか、安いか」さえ見当たりません。成田さんの切り絵に採り上げられることが、いつしか日本中のバーのステータスになった後も、成田さんは自分がいいと思わないバーからは金を積まれて切り絵を依頼されても断ったと言います。店に媚びないスタンスは、この本にコメントを書いた荒川さんも変わりません。

出版不況でコマーシャリズムありきにならざるを得ない現代では稀有なことですが、「大人の事情」や「特定のバーの宣伝臭」をこの本は注意深く排しています。同じバーを描いた作品が重複していることと、すでに閉店したバーが多数採録されていることからも、この本が成田さんの意志を最大限に伝えようとしたものであり、単に目先が変わったバーガイドにはとどまらないことを物語ります。

毎晩のように客として日本中のバーを訪れていた「客としての目線」を持った二人が、値段やカラー写真、お店のスペックだけでは伝えようがない、そのバーの「もっとも好ましい空気」を伝えてくれるこの本は、制作側の意図とは裏腹に、ともすれば初めてのバーのドアを開けることを躊躇いがちな我々読者に向けた、またとないバーへの招待状となっているのです。
最初に社会評論社の編集からお話を頂いたとき、ダイレクトに「石倉さん、氷の話を書いてみませんか?」と聞かれたときには正直、驚きました。たしかに僕の周りにはコアな方々が多い(笑)ので、参考文献に挙げた洋酒関連の洋書を持っておられる方も何人かいるのですが、それ以外で氷の歴史について興味を持っている人はバーテンダーにもおらず、ダイナースに15年前に函館氷の話を書いてからもこちらが一方的に話すばかりという状態でした。
にもかかわらず、なぜ洋酒やカクテルについては一般客と同等の知識しかない筈の編集が氷の話を知っているのか、と。逆にこっちが聞きたいくらいでしたね。

例えば鉄道マニアが一般人から鉄道の話を聞かれたときや、女子高生が片思いの話を振られたときに、状態としては近かったでしょうか。「よくぞ聞いてくれた」と言わんばかりに話し始め、気が付いた時には何の気なしに聞いた側の人がドン引きしている・・・位には僕も氷に熱い思いを持っていたので、自分としては読みきり原稿としては過去最大の30ページを書くことになったわけです。

人間、なにか自分に興味がある単語を見たり聞いたりすると、その前後はほとんど見てない、聞いていないことがままあるもので、自分としては「氷」がそれだったわけですが、もし一般論として編集が「こんど『東京府のマボロシ』という本を出すんですが、なにか書く気はありませんか?」とフリーハンドを与えられていたら、たぶんもっと短い文章で他のことを書いていたと思います。

「東京府のマボロシ」という、ちょっとミステリアスで魅力的なタイトルで想起する洋酒関連の話は幾つかあるので、その辺を「マボロシ」をキーワードに、もしかしたら『東京府のマボロシ』に書いていたかもしれない」話のさわりを今回は並べてみましょう。

僕の中で「幻」と言えば、やはり筆頭に挙げられるのは横浜グランドホテルです。日本の洋酒の歴史がようやく始まったばかりの明治初期に誕生し、その後紆余曲折を経ながらもカクテル「バンブー」の考案者として知られるルイス・エピンガーという髭面のドイツ系アメリカ人が支配人として来日したことをきっかけに、このホテルの伝説は始まります。もちろん、伝説は「バンブー発祥のホテル」であることにとどまりません。その際たる功績は濱田晶吾(初代Mr.バーテンダー)・高橋顧次郎(日本バーテンダー協会の二代目の会長)・本多春吉・・・といった黎明期の洋酒業界を担って立った珠玉のバーテンダーを多く輩出したことにあります。

大正末期に関東を襲った大震災で跡形もなく瓦解したことと併せて、「東京府のマボロシ」の趣旨に沿えばこちらのほうがふさわしかったかもしれません。時期的にも関東大震災が大正12年だから東京府(明治元年~昭和16年)にも合致しますし。現在も横浜で営業しているニューグランドホテルを思い出される方も多いでしょうが、横浜グランドホテルと横浜ニューグランドホテルの間に名称の類似以外の共通点はありません。バーテンダーも再建されたニューグランドでは別の方に代わっていました。

鹿鳴館の酒場の話も魅力的ですね。僕の中ではリサーチの結論はたった一言で終わるんですが、そこに至るリサーチの過程など、短編ながら面白い話が書けたかもしれません。現在でも「戦前の洋酒・バー」といえば、バーテンダーだけでなく一般の方の脳裏にも鹿鳴館が浮かぶ方も多いはずです。

東京府が東京都になってからも10年少々は続いたのですが、サントリー(壽屋)とニッカ(大日本果汁)の陰に隠れて、今では知る人も稀な本格ウイスキー「トミーモルト」を造っていた東京醸造も「幻」としての魅力については人後に落ちません。社名には「東京」とありますが、現在の藤沢に本格的な銅製の蒸溜器を設えて戦前はサントリーやニッカと覇を競っていた時代がありました。

戦前から戦後の長きに渡って洋酒とホールの女性には不可分の関係がありました。古くは射的場からの系譜を引く銘酒屋が横浜や浅草界隈には多くありましたし、その後のカフェー文化は北は樺太から南は台湾までを席巻しています。彼女達のなかには、酒を運んだり煙草に火を付けたりする「以上」のサービスを店側の黙認(場合によっては奨励)でする方もあり、いささか艶っぽい話と洋酒酒場には不可分の関係が戦前から戦後にかけてあったわけです。

現代の我々がイメージする、背後に洋酒瓶が並び、寡黙なバーテンダーがグラスを磨いている姿が一般的になったのはバブル期を連想させるカフェバー文化が終わりに近付いていた80年代以降の話です。たしかに戦前から上記のようなスタイルのバーはあったものの少数派であり、一部の富裕な粋人の隠れ家的な性格でした。そんな中で、懐の小銭だけで冷えたズブロッカを飲むことが出来た「ウォッカ屋」というシュールなバーがあったことも「幻」というキーワードで語ると面白いかもしれません。こちらは戦後しばらくまで、やれ実存主義だ、やれドストエフスキーだと志は高いものの懐がさびしい文学青年の憩いの場として機能していました。

現在、海外ではメロンのリキュール「ミドリ」が日本のリキュールとして認知度が高く、他には「クレーム・ド・コーバイ」や桜のリキュールを海外のバーでは散見するようですが、今から50年以上前にちょっと現在では想像できないような素材のリキュールが海外を目指して販売されていたことも(時期は戦後ですが)「幻」ということになります。

こうして見ると、「戦前洋酒文化の歴史的考察」をテーマにしている僕のようなライターは常に「幻」を追い続けているのかもしれませんね。

次回は「慶応三年のパリ万博」に戻って、もう少しこぼれ話を拾っていくことにします。
今月社会評論社から出版された「東京府のマボロシ」に「慶応三年のパリ万博」と題して氷の話を書いております。

半年以上、こちらのブログを放置しておりました。<(_ _)>

書くテーマはあったのですが、立ち上げるたびにナントカのインストールだのセキュリティ・ソフトの更新だのパスワードだのをパソコンに要求されることもあって、ネット未開人としては離れる時期が長ければ長いほどハードルが上がってしまい、とうとう半年も放置しておりました。それでも1日50アクセス程があったとのことで驚いております。(゜o゜)

さて、今回は15年前にダイナースの機関誌「SIGNATURE」で書いた時に好評を頂いていた氷の話をその後にリサーチした内容を加えてかなりパワーアップしてお届けすることが出来ました。あまり大きな口を叩くのは僕の性分では無いのですが、洋酒に関わる氷の歴史に触れたものとしては画期的なのではないかと思っております。まだ発売から間もないのでネタバレに関わる話は書けないのですが、今回は僕と洋酒に使う氷の話のなれそめと「大きな勘違い」について書くことにしましょう。

僕がカクテルやウイスキーのオンザロックに使われる氷に特別な思いを抱いたのはサヴォイのカクテルブックの初版を見たときでした。

1930年だから日本で言うと昭和5年に出版されたこの本の巻頭に書かれた「若いバーテンダーに捧ぐ」と題したバーテンダーの心得集に「氷の使い回しはするな」という文言があって、これを不思議に思ったのがそもそもの始まりでした。

1980年代には自分のような貧乏学生の部屋にも小さな製氷皿がついた冷蔵庫があったから、お金持ちが集まる戦前のバーなら冷蔵庫くらいあるだろう・・・と思っていたので氷が貴重品だ、などとは思ってもいなかったので。

これは「慶応三年のパリ万博」には書ききれなかったのですが、戦前のバーの頂点とされていた帝国ホテルや東京會舘の冷蔵庫は、上の棚に大きな角氷を入れて冷やす「氷式冷蔵庫」でした。ゼネラル・エレクトリックなどの米国製や国産の電気冷蔵庫も戦前には販売が開始されていましたが、食品を入れるキャビネットの上に花魁のかんざしを巨大にしたようなジェネレーターが付いたもので、まだ実用品には程遠いものだったのです。

ここまで判ってくると「戦前の氷は高かったんだろうな」と思うのが自然です。実際、サヴォイに書かれている「氷の使い回し」の話もこんな印象を補強していました。しかし、事実は違っていたことを今回の「慶応三年のパリ万博」では解き明かしています。

それでは、僕が誤解をするきっかけとなったサヴォイはなぜ「氷を使いまわすな」と書いていたのか。それも今回原稿を書いたおかげで判ってきたように思います。

僕の家の台所にはスーパーで貰ったレジ袋が整理しても整理しても溜まってきます。まぁゴミを出すのに重宝はしますが、まさかレジ袋を高価だと思う人はいないでしょう。それでも僕のようにレジ袋が「何となく捨てられない」人は多いはずです。

つまり、無意識に「使いまわす」という意識や習慣がある場合(氷も同様です)、高価であるかないかはさほど問題にならない。とくに氷が貴重品だった19世紀末からバーテンダーをやっていた人や、その教えを受けていた新人バーテンダーは無意識に氷を洗って再使用する「癖」があり、それをサヴォイの著者であるハリー・クラドックがたしなめた文章を後世の「昔の氷は高価だったに違いない」という予断というか潜入観念を持って見ていたから「やっぱりな。戦前の氷は高価だったに違いない。うんうん。」と僕が勘違いしていたということなのです。

次回は「東京府のマボロシ」に氷の話を書くことになったきっかけをお話ししましょう。