【ふぉとばしょ】写真や創作のこと

【ふぉとばしょ】写真や創作のこと

ふぉとば(photo+ことば)作品作ってます。
本やポストカードやしおりなど。


ここではイベントや写真のこと日常のことなど、つらつらと。

Amebaでブログを始めよう!
お友達の伴さん(Twitter:@misatovan)が
私の写真から小説を書いてくださいました!

とても好きなお話なので
ぜひぜひご覧ください✨✨

伴さん、素敵なお話を
ありがとうございました(*´-`)





カクヨムはこちら




種の行方


 うまく噛み捨てたときの爪のような形の月が紺青の空に浮かんでいる。右目で見ながら、アパートの外通路を歩く。金属の重い扉のすぐ横に、さんしょうの実のようなお腹をした蜘蛛が一匹、巣を張ってゆっくりと動いている。

 蜘蛛は夜行性だろう、朝や昼には姿が見えない。周りに植物が多いせいか風が吹いた日の翌日は通路に必ず落ち葉が吹き溜まり、業者の人がときどき掃除に来る。そのときには、水がかかりますので注意、という紙がポストに入る。蜘蛛の巣も洗い流されてしまうのではないかと思うのだけれど、ふとした夜にまた同じ場所に、同じ蜘蛛がいるのだ。


 蜘蛛がいるんだよね、ずっと、と崇史に言うと、崇史は手に持っていたスマホを律儀にソファに置きこちらを向いた。


「え、どこ?」

「あ、家じゃなくて、外、っていうか、玄関の横」

「なんだ、……取っちゃえば?家に入ってきてもあれだし」


 うん、と生返事をして流しに向かう。あ、俺洗おうか?、という声に、ううん、今日はいい、と応えて水を流す。

都会の子だよな、と思う。いや、もう三十近い男に、子というのも可笑しいな、とも思って、けれどわたしの口もとは笑わずに、飛んだ食器洗剤の泡が口に入ったりなどしないように引き結ばれている。田舎で育ったわたしより、崇史の方が虫とかへびとかそういうものが苦手だ。もうちょっと街なかのほうに引っ越そうよ、と何度か言われているけど、のらりくらりかわしている。


「風呂洗うよ、一緒に入る?」

「ううん、……生理、来ちゃったから」

……、そっか」


 風呂場から湯の音が聞こえて、わたしの手元に落ちてくる量はそのぶん少し減る。フライパンの横をゆるゆる流れ落ちる泡を見るともなく眺めながら、インターフォンの下から器用に張った糸のうえをゆっくり動いていた蜘蛛の、小さな頭に似合わぬ大きな腹を思う。あの蜘蛛は孕んでいるのだろうか。カン、カン、と窓の外から鎮火報の音が聴こえる。



 アパートは二階建てですぐ横に大きな樹がある。季節に一度は伐採の人が来るが、成長の早い種類の樹なのか二階の角部屋のわたしたちの部屋の前まで、すぐ葉を伸ばしてくる。ときどき、百円ショップで買った小さな園芸鋏でぱちんと切ってこっそり下に落としておく。伐採の人は、通路を洗いに来る人とおなじだろうか。雨が降るまえ一瞬だけ緑の匂いがたちこめる。乾いた日は排気ガスや夕食やなにかわからない物質の、街の匂いにかくれている。


 綿毛のついた種がよく飛んでくるのは秋で、たんぽぽには季節外れのような気がするし、大きな樹から出るものでもない。それが何の植物なのか、知らない。洗濯ものを取り込むとき付いていれば、ベランダから飛ばす。どこかの地面に飛んで落ちて、なにか生えるだろうと思いながら。

 最近は蜘蛛を見ない。霧雨のような雨が何度か降った。頑丈に張られた巣だけが雫をたたえてきらきら揺れていた。月は満ち、満ちては欠け、扉の横だけを見て鍵を開ける。

 そういえばこの巣になにか食べるもの、というのはほかの小さな虫とかだけれど、そういうものが引っかかっているのは見たことがない。蜘蛛が捕食しているところも。きれいに食べて、片付けてしまったあとなのだろうか。わたしたちの出す生ごみはクリーンセンターへ行き、蜘蛛の食べたのこりのものはどこへ行くだろう。どこかへ、還っていくのだろうという気もする。少なくとも、クレバスのような穴へと落ちて見えなくなってしまう、の食べ残しよりはずっと。



 ベランダを閉めたつもりで忘れたのだと思う。微かな風と一緒に崇史の声が入ってきた。ふだんぜんぜんそんなことはないのに、友達と電話で話すときだけ、少し派手になる声。


「うん、俺の方の、種……俺の、検査には、異常なかったからなあ」


 がしゃんと音がしてふたりようの土鍋がシンクに落ち、まっぷたつに割れて散った。ちょ、ごめん、と電話の向こうにことわる声がして、だいじょうぶ、と慌てた様子でこちらへ来た彼は窓が網戸だったことに気付いただろうか。放り出したスマホはソファから床に滑り落ちた。それは割れたりしない。


「ごめん」

「いいよ、土鍋、結構使ったもんな」


 もともと知らぬうちにひびがいっていたのか土鍋の断面はきれいだった。そっと新聞紙に包んだ。指のひとつも切れていない。痛みを感じたかったような気がした。手を洗ってから少し爪を噛んだ。白いところがなくなるまで噛んでしまう癖は高校を卒業してネイルをするようになるまで直らなかった。思春期を思い出すと、いつも自分の手は、指が恥ずかしくてにぎっていた。

マニキュアの苦い味がした。



 主のいない蜘蛛の巣に、綿毛の種が引っかかっているのを見つけたのは満月の前だ。上空には雲がせわしなく流れ、まだ正円にならない月は重そうなかさをかぶっていた。

 地上では風はそれほどでもない。種はふくらんだ下の部分をぴったりと巣に絡めとられ、白い綿毛だけがふるふるとひそやかな気流に揺れている。小さな、小さな水滴が、ときどき悲しくもないのに目尻に溜まる一粒の涙のように一緒に揺れた。

 そっと手を伸ばしかけて、やめた。この種はどこへも行かない。蜘蛛がもし戻ってきても、食べられることもない。ここに、芽吹かないままここに在るのだ。ざっと強く湿った風が通り、一度だけ目をつむった。開けても、種はたよりなげに、揺れ、しかし地面へもどこへも行かず、やわらかな糸に抱きしめられるようにして、そこにあるだけだった。



 カーテンを開けて、電気を点けないままソファに腰掛けた。外からの明かりは頼りない。久しぶりに早く帰れたから、冷凍していた魚を解凍して焼き魚にして、お味噌汁をつくるつもりだった。冬の上掛けもそろそろ洗わないといけない。けれどそのどれもせず、わたしはずいぶん長い間、薄闇でただ目を開けて座っていた。

 

 ただいまと言って入ってきた崇史はわたしが暗いなかで座っているのを見て大袈裟に驚くかと思ったが、拍子抜けするほど静かに、あれ、寝てたの、と言った。カーテンを閉めてから、電気を点ける。そういえば一度、カーテンを開けたまま電気を点けようとしたら、虫が明るいほうに寄ってくるからやめてと止められたっけ。それを思って、今度こそ少し笑った。


「いたよ、蜘蛛」

「え?」

「ほら、玄関の横にさ、いた」

「え、……そうなの」

「うん、まあまあでかめのやつ、たぶんこないだ言ってた蜘蛛でしょ」

……、うん」

「あのさ、理衣さ、蜘蛛、好きなんだよな」

「え」

「なんかさ、取ったらいいとか言って、ごめんな」

……、」


 ぱたぱたとベランダを打つ雨の音がした。風の音はしない。窓は閉めているのに、湿った緑と土がふっと香ったような気がした。わたしは目を閉じて、お腹の大きな蜘蛛が、芽吹かない種の綿毛に寄り添って眠る姿を思い浮かべた。



〈了〉