空気を読まずに生きる

空気を読まずに生きる

弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

黙秘権を行使する江口大和さんに対して、横浜地検特別刑事部の川村政史検事が、取調べと称して「僕ちゃん」、「お子ちゃま」、「ガキ」呼ばわりし、「うっとうしい」、「どうやったらこんな弁護士ができあがるんだ」、「嘘を付きやすい体質」などと言ったり、江口さんの弁護人の活動を侮辱したりする発言をし続けた問題。

 

国家賠償訴訟の公開法廷における江口さんの原告本人質問において取調べの動画が一部上映されたのは前回のブログに書きましたが、法廷で公開された動画を一緒に見ながら江口さんと江口さん弁護団(宮村啓太弁護士、高野傑弁護士、趙)とで対談をしてみました。

 

ちなみにこの対談の内容は、原告本人尋問で江口さんが話した内容、この訴訟における私たちの主張内容をベースにしています(一部、対談という性質上それをはみ出た発言もありますが、基本的には裁判での主張内容です)。

 

前回、YouTubeで取調べ動画を上映して以降、北海道でも同種の国家賠償請求訴訟で取調べ動画が上映されたようです。

一方で、別の同種訴訟では、国は民事訴訟で証拠となる取調べ動画について「閲覧制限の申立て」をしてきたという情報もあります。(つまり、メディアを含めて訴訟当事者以外には閲覧させないでくれ、との申立てです)。

国はあの手この手を使って違法な取調べが映っている動画を隠そうとしているのです。

私たちは決してそれに屈してはいけません。

こちらはあの手この手で1人でも多くの人に、取調べのリアルな実態を伝えなればならないと思っています。

 

 

 

江口大和さん(元弁護士)が横浜地検特別刑事部から犯人隠避教唆の疑いをかけられ、逮捕されたのが平成30年10月15日。

彼はそれまでの任意の検事取調べにおいて被疑事実を否認していた。

そして、逮捕直後の弁解録取において彼は黙秘権の行使を宣言した。

 

日本国憲法第38条1項

何人も、自己に不利益な供述を強要されない。

 

ところがそこから約21日間、合計約56時間、一言も話さない江口さんに対して、横浜地検特別刑事部の検察官(そのうちのほとんどは川村政史検事)は取調べと称して「僕ちゃん」、「お子ちゃま」、「ガキ」呼ばわりし、「うっとうしい」、「どうやったらこんな弁護士ができあがるんだ」、「嘘を付きやすい体質」、「詐欺師的な類型の人に片足突っ込んでる」などと言ったり、江口さんの弁護人の活動を侮辱したりする発言をし続けた。

それでも江口さんは決して口を開くことはなく、耐え抜いた。

 

このような検察官の取調べは、憲法が保障する黙秘権を侵害するものであり、また江口さんの人格権を侵害するものであるとして国家賠償請求訴訟を提起しています。

そして今日、江口さんの原告本人尋問が行われ、法廷において取調べ録音録画映像の一部が上映され、江口さんが質問に答えました。

 

今回、私たち弁護団は、法廷で上映された動画について一人でも多くの方に見ていただくために公開することにしました。

なお、この動画は、国家賠償請求訴訟において国から証拠(民事訴訟の乙号証)として提出されたもののうち、その一部を抜粋したもの(法廷で上映したものと同じもの)です。

 

被疑者という立場になったら検事から何を言われてもサンドバックになって耐えなければならないのか。そんなはずはありません。

憲法が黙秘権を保障している意味は何なのか。検事からの罵詈雑言にひたすら耐えることは、憲法が黙秘権を保障していなくともできることです。

江口さんは今回22日間耐え抜きました。だから黙秘権は侵害されなかったと言えるのでしょうか。違います、彼の黙秘権は侵害されているのです。

憲法が黙秘権を保障していることの意味は、権利を行使する人に対して捜査官は取調べと称してこのような罵詈雑言を浴びせることが許されないということではないのか。

 

私たちはこの裁判で黙秘権の意味を正面から問うています。

 

 

この事件については内容がよくわからないのでなんとも言えないのだが、

この事件から離れて、弁護人が証拠隠滅に加担したならば当然処罰されるべき。

そのことは措いといて、

この記事の最後にある

 

「接見室には弁護人も含めて携帯電話の持ち込みが禁止されているが、同課は弁護士が隠し持って組員と接見していたとみている。」

 

という部分について。

 

この記事を書いた岩田恵実記者は何を根拠に書いているのだろうか。

拘置所や警察署などに収容されている人と弁護士との面会について、刑事訴訟法や刑事収容施設法という法律があるが、そのどこにも「弁護人が接見室に入るときには携帯電話を持ち込んではならない」などという規定はない。

 

「禁止」をするには、ルールがあるはずです。

拘置所といった国家が、一市民である弁護士に対してある行為を「禁止」するには、法律によるのが基本です。

 

ではなぜこの記者は「接見室には弁護人も含めて携帯電話の持ち込みが禁止されている」と書いたのか。

それは、拘置所や警察署が弁護人に対して一方的に「携帯電話持ち込みは禁止しています」と言っている(あるいはそのような貼り紙をしている)からだと思われる。

この「携帯電話持ち込み禁止」について法律の根拠はないのです。

(ちなみに国は、このことが問題になったときには「施設管理権」が根拠だと言うことが多いです)

 

弁護人と依頼人との接見室での面会は、憲法上秘密が保障されています。誰も立ち会うことは許されません。

では、弁護人は何をしてもいいのかと言われれば、もちろんそんなことはない。

弁護人が証拠隠滅行為などに加担してはいけないことは当たり前で、それは職業倫理によって担保されています。

(倫理に悖る行為があれば当然懲戒される)

 

警察署や拘置所の接見室で弁護人が何を持ち込むか、そこでどういう方法で法的なアドバイスをするかなど干渉されるいわれはないんです。

実質的に見ても、いまやスマートフォンにはあらゆる情報が入っており、例えばスケジュールなどもすべてスマートフォンに入っているし、事件の資料もスマートフォンからアクセスすることもできる。

接見室で依頼人と打ち合わせをするときに、「次にいつ面会に来れそうですか?」と聞かれれば、スマートフォンのカレンダーアプリを見ないと少なくとも私は答えられません。

依頼人から「前回の証人のあの証言、私はおかしいと思うんですけど?」と聞かれれば、自分の備忘メモにアクセスしないと正確なアドバイスはできないかもしれません。

 

接見室にスマートフォン(携帯電話)を持ち込むことを禁止することは、明らかに依頼人が弁護人から十分な援助を受ける権利を侵害するものであるし、弁護人にとっても十分な防御を尽くすことができなくなるんです。

 

法律の規定によらずに(「施設管理権」というよくわからないものを根拠に)弁護人が接見室に携帯電話を持ち込むことを禁止するなんてことは許されないんです。仮に「禁止」したら違法、違憲だと私は思います。

 

そして実際にも、警察署や拘置所で私たちが接見をする際に携帯電話をどうしているかというと、千差万別です。

職員から「携帯電話持ってますかー?持ってたら中で通信しないでくださいねー」という注意喚起だけの場合もあれば、

「もしよかったら預けてください」などと言われ、こちらが「いや、お断りします」と言えば、あちらも「あ、そうですか。わかりましたー」という反応のこともある。

中にはもっと強く要請をしてくるケースもある。

 

もしこれが一般的に「禁止」されているのだとすれば、こんな対応にはならない。

 

話は朝日新聞の記事に戻って、この記事を読んだ読者はほぼ全員が

「接見室には弁護人も含めて携帯電話の持ち込みが『禁止』されている」としか思わないだろうし、

その『禁止』をかいくぐって携帯電話を持ち込んだことが悪いんだと思うだろう。

 

しかしそれは誤りです。

(もしこの記事通りの事実があったならば)悪いのは、中で携帯電話を証拠隠滅行為に用いたことそのものなんです。

そして弁護士にはそのようなことをしない職業倫理があり、そのような倫理によって弁護人と刑事被告人との関係は保たれてる。

私は2020年7月31日に、このブログに「刑事弁護の存在意義に思いを馳せる――被告高野隆の意見陳述」と題する記事を書きました。

その記事の中で、高野隆弁護士が、カルロス・ゴーン氏の事件で懲戒請求されたことに端を発した民事訴訟(高野弁護士を懲戒請求したNS氏が原告、高野弁護士が被告)の口頭弁論期日において行われた被告高野隆氏の意見陳述の内容を紹介しました。

この意見陳述は、「刑事弁護」という職業について深く考えさせられるものであり、またこの刑事弁護を生業にしている1人として非常に誇りを感じさせられるものでもありました。

そして、この素晴らしい意見陳述を1人でも多くの人に見てもらいたく、意見陳述の内容を紹介しました。

(なお、この意見陳述の中には、高野氏を訴えたNS氏も名前も登場します)

 

ところがそれから約2年経った先日、NS氏からこのブログの運営会社であるサイバーエージェント社に権利侵害があったことを理由にブログ削除の申立てがありました。理由は、

 

■侵害されたとする権利:
プライバシーの侵害・氏名の無断掲載

■権利が侵害されたとする理由:
一方的に裁判の内容を公開し、私が
悪いという誹謗中傷と氏名を出された。


これに対して私は、以下のように返答しました。

 

 

憲法82条1項で裁判の公開が定められています。
またこの訴訟はNS氏が起こした訴訟です。
私は当該訴訟の被告代理人である高野隆氏の代理人として裁判に出廷しており、
その裁判における高野氏の意見陳述の内容が素晴らしく、一人でも多くの人にその内容を知ってもらいたく、
高野氏の承諾のもとでその内容を紹介したものです。

私自身は、私自身はNS氏のことについて一言も触れておりません

NS氏はこの後さらに私を訴えましたが、NS氏の訴えは裁判所から全く相手にされずにその請求は排斥されています。
また、このような氏名の掲載がプライバシー侵害にはあたらないことも裁判所は判断しています(知財高裁令和3年12月22日判決)

このような投稿が削除されることがあれば、表現の自由、知る権利に対する著しく不当な制限だと思いますので、慎重なご判断のほどよろしくお願いします。

 

ところが、本日、私のブログ記事は削除されました。

amebaブログからは「該当記事につきましては、Amebaの利用規約や関連法規に基づき削除をさせていただきました。」

との通知が来ました。

 

この措置は、現代における表現活動の事実上のインフラ――「プラットフォーム」――を運営する企業の基本的な使命に反するのではないかと私は考えます。

今回の記事削除措置に対してどうするかはまだ未定ですが、このブログの読者の皆さんに経過報告をした次第です。

乳腺外科医事件の最高裁判決について。

 

まず、2020年7月13日に言い渡された絶望的な控訴審判決が破棄されたことは本当によかった。

この絶望的な控訴審判決については、当時の思いを記事にしていたよう。こちら

 

しかし、今回の最高裁判決は、S医師の無罪を確定させるものではなく、審理を高裁に差し戻した。

この差し戻しという判断がいかに誤りで、いかに過酷なものかを記しておきたい。

 

 

判決文は裁判所ウェブサイトに掲載されているので、こちら

 

この判決の結論部分は、

「Aの証言の信用性判断において重要となる本件定量検査の結果の信頼性については,これを肯定する方向に働く事情も存在するものの,なお未だ明確でない部分があり,それにもかかわらず,この点について審理を尽くすことなく, Aの証言に本件アミラーゼ鑑定及び本件定量検査の結果等の証拠を総合すれば被告人が公訴事実のとおりのわいせつ行為をしたと認められるとした原判決には,審理不尽の違法があり,この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであって,原判決を破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。

 よって,刑訴法411条1号により原判決を破棄し,同法413条本文に従い, 専門的知見等を踏まえ,本件定量検査に関する上記の疑問点を解明して本件定量検査の結果がどの程度の範囲で信頼し得る数値であるのかを明らかにするなどした上 で,本件定量検査の結果を始めとする客観的証拠に照らし,改めてAの証言の信用性を判断させるため,本件を東京高等裁判所に差し戻すこととし,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。」

という部分である。

 

つまり、この最高裁判決は、控訴審の審理が十分ではなく、審理を尽くしていなかったことを理由として控訴審判決を破棄するとともに、あらためてDNA定量検査の信頼性などについて審理をさせるために高裁に差し戻した。

 

一見するとこの最高裁判決は、「慎重な判断」に見えるかもしれない。しかしそうではない。

この事件は第一審で無罪判決が出されている。

この第一審は第1回公判の後、期日間整理手続に付され、1年以上もの時間をかけて検察、弁護双方が必要な証人尋問、証拠請求を検討し、検討に検討を重ね、その結果、検察は19人の証人を請求し、15人の証人が採用され、弁護人は15人の証人を請求し、11人の証人が採用され、濃密な尋問が実施された。

その概要も第一審判決後に記事を書いていたのでこちらを参照。

この中には、もちろんDNA定量検査に関する証人も登場している。検察からも弁護からもこのテーマについての証人が請求され、実際に尋問が行われた。

 

このような濃密な証人尋問の末に出された無罪判決に対して、検察官が控訴をした。

被告人というのは、何の力もない一個人である。弁護人も強制的に証拠を収集したりする権限など何もない。

一方で国家の代表である検察には、膨大なお金と、膨大な人員と、法律によって強制的に証拠を収集する権限まで与えられている。

刑事裁判というのは、このような極めて偏った当事者による裁判である。

そして国家による訴追に対して無罪の判決が下された後に、もう一度一人の個人が危険に立たされるのが検察官控訴という制度である。

 

日本国憲法39条はこのように定めている。

第三十九条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。

 

一審無罪事件の控訴審というのはこの憲法39条に反すると私は思うが、最高裁判所は二重の危険にはあたらず、憲法39条に反しないとしている。

 

このような一審無罪事件に対する検察官控訴による控訴審も、なんでも無制限に審理できるわけではない。

控訴審は、裁判を一からやり直すのではなく、第一審判決を事後的な視点で検証して誤りがあるかどうかを判断するというものである。

こういうのを「事後審」という。

なので、控訴審において新たに証拠を提出すること自体、法律でとても例外的なものとされている。

控訴審で新たに証拠調べを求めるには、第一審の弁論終結前に証拠調べ請求をすることができなかったことについての「やむを得ない事由」が必要とされている。

「やむを得ない事由」がなければ、そのような証拠調べはしないと法律で定められている。

 

また、この事件のように第一審において公判前整理手続(期日間整理手続)が行われた場合、整理手続き後に新たに証拠調べを求めることも原則としてできないこととなっており、これについても「やむを得ない事由」がなければならないと法律で定められている。

 

つまり、公判前整理手続が行われた事件においては、検察も弁護も必要な証拠請求、証人請求はすべて整理手続きの中でやらなければならず、後出しで証拠調べ請求することについては、検察も弁護もできないことになっている。

そして、その事件の控訴審においても、基本は第一審に出てきた証拠のみに基づいて判断するというのが、法律の決まりである。

 

このようなルールのもとで行われたこの事件の控訴審の審理において、裁判所は「せん妄」について2名の医師の証人尋問を職権で実施した。せん妄については、第一審でも当然検察も弁護も証人を請求し、証人尋問が実施されており、控訴審において新たに2人の医師の証拠調べをすること自体、本来は認められないはずのものである。

本来はこのような証拠調べをすることなく、第一審の無罪判決に誤りがないかどうかを事後的に判断するのが控訴審裁判所の役割である。

 

東京高裁はこのような本来の法律の定めとは異なるやり方で証人尋問を実施し、第一審の無罪判決を破棄してS医師に懲役2年の実刑判決を言い渡したのであるが、これが余りにも非科学的な判断であったことは今回の最高裁判決も認めた。

 

話は戻して・・・

今回の最高裁判決は、上にも書いたとおり、

控訴審の審理が十分ではなく、審理を尽くしていなかったことを理由として控訴審判決を破棄するとともに、あらためてDNA定量検査の信頼性などについて審理をさせるために高裁に差し戻した。

 

私はどう考えてもこの理屈が理解できないでいる。

控訴審の審理というのは、あくまでも第一審の証拠に基づいて、第一審の判決を検証するものである。そのように法律に書かれている。

この事件の控訴審は、本来ならば行うことのできないはずの、せん妄についての証人尋問をあらためて実施し、S医師に誤った有罪判決を言い渡したわけであるが、この控訴審の審理が十分ではなく、審理を尽くしていないというのは、どういう意味であろうか。

最高裁は、DNA定量検査の信頼性について控訴審で審理を尽くせと言うが、DNA定量検査については第一審の段階から検察も弁護も証人を出しており、証人尋問が実施されており、その結果として今回のDNA定量検査が十分な信頼性がないことは明らかになっている。

少なくとも、信頼にたるものであることを検察が証明できていないことは、今回の最高裁判決も認めるところである。

 

そのようなテーマであるDNA定量検査について、さらに証拠調べをするということは、控訴審の役割ではない。

少なくとも法律に反していると思う。

DNA定量検査の信頼性について、検察が控訴審で証人請求することについて「第一審で証人請求できなかった「やむを得ない」事由」など全くない。

 

それにも関わらず、最高裁は再び控訴審において検察に対してDNA定量検査の信頼性について立証をする機会を与えるというのが、今回の判決である。

 

この判決によって、被告人であるS医師は、三回目の「危険」に立たされる。

 

第一審無罪の事件の検察官控訴について、上告審が控訴審判決を破棄して、さらに控訴審に差し戻すというのは、極めて非人道的だと思う。そして、これは明らかに刑事裁判のルールに反していると思う。

 

残念ながら、この最高裁判決に対する実質的な不服申立ての手段はない。

審理は再び控訴審に移るが、もう事件から6年が経とうとしている。

5年以上もの間、刑事被告人の立場に立たされ、三度目の「危険」に立たされるS医師のために、私たちは三たび防御をすることとなる。

これがいかに残酷で、非人道的なことかを想像してもらいたい。