そんなわけで読み始めたのが

『No Place to Call Home』。

 

 

 

 

いや、読みたかったんですよ。

 

読みたかったんです、

読みたかったんですけど

・・・これ、英書で、

日本語訳が

(たぶん)出ていなくて・・・

 

自慢じゃありませんが

私はこういう

社会学系っていうか

学術系っていうか

とにかく『小説』、

『フィクション』じゃない本を

英語で読んだのは

学生時代が最後なので。

 

本当に自慢じゃない

 

ちなみにその学生時代の

『英文読書』も、あれ、

どこかにレジュメを

仕舞ってあるんですけど、

ゼミとか有志とかで

持ち回りで英書を和訳していく、

みたいな勉強会で、私の

担当した箇所の訳文は

本当にひどかったですからね。

 

当時の私は思い込みと勢いで

訳を進めるところがあり、

結果として壮大な誤訳

堂々とたどり着いてしまう。

 

(この悪癖は

今も残っています)

 

そりゃ私は今年に入って

某ミステリ小説を

英文で読みましたよ?

 

でもあれは本当に前もって

和文名訳を読んでいたからこそ

理解できた側面が強くてですね。

 

今回は、この

『No Place to Call Home』は、

取り上げられている事件についても

私はほとんど知識がないし・・・

 

いざという時に盗み読みできる

和文文献も存在しないし・・・

 

数ページ読んで

「歯が立ちませんでした、

すみません、読めません」は

悔しいし悲しいな、と

試合前から敗戦気分、

みたいな状態で本を開き

・・・ところがどっこい。

 

あの、これ、この本の

この英語、

非常に読みやすいです!

 

 

比較しちゃうのは

失礼かもしれませんけど

M.クレイヴン氏の英語より

数段意思の疎通が図れる感じ!

 

 

 

 

『No Place to Call Home』、

これ、この英語、たぶん

『新聞で使われる英語』なんです。

 

それも大衆紙ではなく

(大衆紙の英語は

私には本当に難しい)

『テレグラフ』とか

『フィナンシャル・

タイムズ』とかの

いわゆる高級紙の英語。

 

ニュース文体というか・・・

 

勿論単語は辞書を

引かなくちゃ

仕方ないんですけど、

文法が『学校で

習った通り』なんです。

 

だから読解に躓いても

「はい大丈夫大丈夫、

落ち着け落ち着け、

まず主語がここ、述語がここ、

目的語がここ、まずは

主語と述語だけで訳して、

そこに目的語を追加して、

はいそれから副詞を入れて」って

順番にやっていくとちゃんと

『意味が通る』んです・・・!

 

でもこんなことを書いていますが

私は英文を読んで

『これが動詞』とか

『これが目的語扱いの名詞』とか

そういうのはわかったんですが

その動詞と名詞の意味を

『わかる』には辞書が必要で・・・

 

というわけで久々に

作りましたよ『単語帳』。

 

本の内容がどうこうの前に

自分に割と向学心的なことに

驚いた英文読書でございました。

 

続く。

 

 

『No Place to Call Home』で

扱われている

『デール・ファーム事件』は

「日本などからも

報道陣が来たくらい

世界的に注目された」って

こっちでは言われるんですが

私は全然記憶になく

 

後述しますがこれ

2011年10月に

起きた話なんですよ

 

・・・2011年は

我々にとっては

東北大震災の年ですものね・・・

 

報道陣が現場入りしても

番組や紙面に枠が

とれなかった可能性も

ゼロではないだろうし・・・

 

そんなわけで

明日よりいよいよ

『No Place to Call Home』の

内容に触れてまいります

 

壮大な誤訳を

かましたらすみません

 

お帰りの前に1クリックを


ヨーロッパランキング

 

「本を読むと頭が

良くなる」みたいな言い方、

私は嫌いなんですが。

 

いやだって・・・

 

それが本当なら私は

もっと『頭が良く』

なっていたと思うし・・・

 

いや待てよ、『なって』

やっとのこと

今のレベルなのかしら?

 

ともあれ。

 

本やら論文やらを読むことで

それまでの自分にはなかった

視点を獲得する、というのは

大事なことではないかと

最近の私は思うのです。

 

多面的に物事を

見る練習というか・・・

 

理解力の画素を

上げるというか・・・

 

なんでこんなことを

今わざわざ書いているのかと

申しますと、ほら、私、

「英国のジプシー問題を

理解したい」と最近

イアン・ハンコック著

『ジプシー差別の歴史と構造』と

水谷驍著『ジプシー

歴史・社会・文化』を

読んだじゃありませんか。

 

 

 

 

 

この2冊を読み終えた時点で

私が英国ジプシー問題を

理解できたかというと

全然できていない、

謎および疑問は

深まるばかりなり、な

状態ではあるのですが、

でもなんとなく、今まで

当地にてぼんやりと

やり過ごしていた事象の

『意味』みたいなものが

把握できるように

なってきたのです。

 

 

たとえばですね、

「数年前に私の知人の

スコットランド人殿方が

同じく私の知人の

アイルランド人殿方と

口論になり、とある言葉を

口走ったせいで

拳を交える状態になり

現在もお互い絶縁中」

という話を私は余所から聞いて

「なんだよ二人とも

血圧高いな」とかこっそり

笑っていたのですが、

今思い返せばその

『とある言葉』というのは

アイルランド系トラヴェラーを

侮辱する言葉であった・・・!

 

つまりなんというか本当に

公の場で使ったら

使ったほうの人の神経が

疑われる言葉。

 

使った人が間違いなく

『差別主義者』と

叱られるレベル。

 

ここが理解できてしまった

今となっては私は

「なんでそんな言葉

口にしちゃうんだよ・・・

私に向かって『ジャップ』とか

口論中に言っちゃうような

もんじゃないか・・・

それは擁護できないよ・・・」

という気持ちになるほかない。

 

こっちの土地持ち

(牧場主など)が

基本的に恐れている

『ある日気づくと敷地に

停められている

キャラバン』の話の

複合的な怖さであるとかも

このたびやっと

わかった気がします。

 

結局はこれ、今の

移民問題に

通じる話なんですよ。

 

で、「移民は迷惑だ、

もといた国に帰れ」は

差別的言説とされている、

でもジプシーに

「うちの地域に

来られるのは迷惑だ、

どこか余所に行ってくれ」は

言う人はまだ

言っちゃう、みたいな・・・

 

だってそれは本音でしょ?

みたいに開き直る人もいる、

でもそうした人々は

ジプシーと呼ばれる人々が

何故今も非定住の状態にあるのか

深く考えてみたことはない。

 

私は以前(今、日付を

確認したら2019年5月)に

世の中、わからん事多し

という記事をブログに

書いているんですが、

イングランドで起きた事件で

ある高齢夫婦の家に

武装強盗2人組が押し入った。

 

夫婦の旦那様のほうが

包丁片手に反撃、犯人のうち

1人は逃走、1人は刺されて死亡。

 

旦那様には正当防衛が認められたが

以来この高齢夫婦の家の壁に

刺殺された強盗の親族や友人が

花やカードを飾り付ける事態になり、

身の危険を感じた夫婦は

引っ越しせざるを得なくなった

・・・という話で、で、

この亡くなった強盗君の

お父様とおじさま方(5人)と

従兄弟数名には収監歴がある。

 

それで私はこの時自分の記事には

書いていないんですけど、

この強盗君とその親族は

『トラヴェラー』なんです。

 

ハンコック氏と水谷氏の

本を読み終えた私が思うのは、

その『彼はトラヴェラー』情報は

報道に本当に必要だったのか、

という点と、同時にもう一つは

・・・この事件が今起きていたら

私は果たしてブログで

『彼はトラヴェラー』と

書いたうえで事件に

言及したかな、という・・・

 

言及しない選択をしたら

それは逆差別なのでは

ないか?とも思いますし、

言及するにしてもその言及は

何のためになされるのか?と。

 

要は本を読んだことにより

私は物事を以前より

少し掘り下げて

考えられるようになった、

ということでございます。

 

それはよかったのでございます。

 

 

お帰りの前に1クリックを


ヨーロッパランキング

そんなわけで欧米の

『ジプシー・ロマ』問題について

初歩的な知識を得たい方には

イアン・ハンコック著の

『ジプシー差別の歴史と構造』を

強くお勧めしたいところです。

 

 

 

 

で、こちらの本の

翻訳をしたのが

水谷驍(たけし)さんという

学者さんなのですが

この水谷さんの書いた

『ジプシー 

歴史・社会・文化』も

読む価値ありです。

 

 

 

 

(上から目線ですみません)

 

イアン・ハンコック氏は

自身の出自がロマであるため

「この問題は他人事ではない」

というヒリヒリと

張りつめた緊張が

著作内にあるのですが

(『お前ふざけんな

こっちはそういう偏見で

殺される

可能性があるんだぞ』)、

対して水谷氏は

「東欧史が専門である自分は

東欧の諸問題に

通じていたつもりが

ジプシー問題を見落としていた、

学者としてこんなに

恥ずかしいことはない、

よっしゃ勉強したるで」が

出発点である感じで、

そこから学究の徒の底力で

貪欲に書物を読み漁って

満を持してこの本を

アウトプットした、

そんな印象です。

 

ハンコック氏も著作の中で

『文芸作品の中で無責任に

描写されるジプシー像』を

批判していますが、

水谷氏は一歩間違えば

自分もそっち(無責任

著述者)側に行っていた

可能性があるためか

(『お前らマジでふざけんな

こっちはそういう偏見を

信じて広めて

被害者を殺す側になる

危険性があるんだぞ』)

やはりそういう

文筆家に対しては辛辣で、

『物質文明に背を向け

漂泊する青空と草原の民』とか

『ジプシー=乞食・泥棒』

とかいう書き方をする手合いは

偏見を鵜呑みにし過ぎじゃいと

憤っていらっしゃいます。

 

この二つ目の見方は

『発展』すると

『乞食・泥棒=ジプシー』

というド偏見に行き着く。

 

ジプシー関連書籍の本を

訳した人間が欧州で

物乞いをする子供を見て

『あの子もきっとロマ』

とか『あとがき』に書いちゃう、

出版社もその発言の

問題性に気づかず

それを印刷しちゃう、

この現状の危なさよ。

 

(つまりたとえば

『今週捕まった痴漢は

日本人男性だった』から

『痴漢=日本人男性』と

言ってしまうのは

そもそも極論ではないのか、

日本人じゃない

痴漢だっているだろ、

で、さらにそこから進んで

『日本人男性=痴漢』は

絶対違うだろって話です)

 

ハンコック氏の本の

『訳者あとがき』でも

水谷氏はこの点に触れていて

「今のこの時代になっても!

『ジプシーに勝手な

イメージを押し付けるな』と

ハンコック氏が警鐘を鳴らして

数年経ったというのに!

なおのうのうと『おお

ジプシー憧れの流浪の民よ』

とか書いちゃう連中は

皆恥を知れ!」と・・・まあ

水谷氏はもっと抑制のきいた

知的な文章で上記の内容を

述べていらっしゃるんですが、

こういう『正義感を怒りとして

ほとばしらせる』学者さんは

良識派と私は思うのです。

 

そんな水谷氏はどうも

「自分が訳したいと思った

本しか訳さない」方なので

水谷さんが訳した

ジプシー関連書籍は

たぶん読む価値アリ。

 

(だからどうしてここまで

私は上から目線なのか)

 

今度日本に帰国したら

まとめ買いをする予定です。

 

 

で、実は私の手元には

このハンコック氏や

水谷氏以外の方が書いた

ジプシー関連和書も

いくつかあったのですが・・・

 

それがまあいわゆる

『おおジプシー

流浪する憧れの民よ』系の本で・・・

 

頭を空っぽにして読めば

それなりに楽しめる

内容ではあるのですが

『無意識の偏見』

という視点を持って

内容を検討しちゃうと

「・・・これは偏見の

再生産というか助長に

つながりますね」みたいな

暗い気持ちに

なってしまう、という・・・

 

ここは水谷先生に倣い

暗い気持ちを

熱い怒りに切り替え

さあ本丸

『No Place to Call Home』です!

 

・・・不安は何よりも

己の英語能力なのでありました。

 

続く。

 

 

英書を読むのが得意なあなたも

そこに壁を感じるアナタも

お帰りの前に1クリックを


ヨーロッパランキング

本日の記事は

書くのに勇気を要するというか

ずばり己の恥と無知を

告白する内容になるのですが

・・・その前に、皆様の中に

「ジプシーはその言語に

『所有』という言葉を

持たない」という説を

耳になさったことがある方は

いらっしゃいませんか?

 

「彼らは生粋の

自由民であるがゆえに

『所有』などという言葉で

己を義務に縛り付けたりは

しない」みたいな感じで・・・

 

 

なんだったら一部にある

「ジプシーは盗む」みたいな

悪意ある偏見に対して

「違う、それは

『盗み』ではない、

彼らに『所有』の概念は

存在しない、故に『盗み』の

概念もない、誰かが

ジプシーに何かを

『盗まれた』とするなら

そこに存在するのは

文化的差異による

誤解である」とジプシー擁護の

論拠として使っちゃうくらいの・・・

 

いや、私はあるんですよ。

 

それで不思議なのは

私は自分がこの考えを

どこで得るに至ったかで・・・

 

そこが思い出せないんです!

 

それでですね、私は絶対に

反ジプシー的な文脈で

こうした説には

触れていない筈なんです。

 

何故なら私はこの

「ジプシーに『所有』の

概念はない」説を

一種の憧憬とともに

信じていたので。

 

信じていた、過去形です。

 

『ジプシー差別の

歴史と構造』を書いた

ハンコック氏によりますと

この「ジプシーに

『所有』の概念はない」は

古来より広く世間に

信じられてきた説で、

・・・しかし

ジプシーの言語に

『所有』を示す言葉は

バリバリに存在するそうです。

 

 

 

 

それでも多くの記者や

小説家や言語学者までもが

「ジプシーは『所有』という

言葉を持たない」と

無邪気に信じ、書き記し、

その間違いを世に広めて来た。

 

何故か。

 

「『所有』という概念を

持たない」ことに憧れるあまり、

そうした願望をジプシーに

押し付けたのではないか、と

ハンコック氏は指摘します。

 

しかしこういう憧れは

何かの拍子に簡単に強烈な

差別意識にすり替わる。

 

「『所有』という概念を

共有できない人間との

共存は無理ではないか」とか

「語彙の欠落は知能の欠落を

意味するのではないか」とか。

 

「ジプシーへの勝手な

『憧れ』の押し付け」として

ハンコック氏が

他にも挙げているのは

「馬にひかれた幌馬車で

移動生活をするのが

本当のジプシー」みたいな

見解で、こういう人は

トレーラーハウスだの

家だのに住むジプシーには

幻滅を感じ批判的になる。

 

怖いのは私も実は少し

そうした幻滅が

理解できるところです。

 

自分以外の誰かに

勝手に幻想を抱いて

相手がそれに

反する行動をすると

勝手に幻滅する。

 

誰しもが一度は通り

後から羞恥にさいなまれる

道かとは思うんですが

・・・私はそういうの、

若い頃に一通り経験して

「もう自分はしない」と

思っていたんですけどね・・・

 

そういう危ない感情を

対象に抱いた時は

少なくとも自覚できるものと

考えていたんですけどね・・・

 

まさか自分の中に

『ジプシー』に対して

ここまで強い思い込み、

差別が存在しているとは!

 

だって私は人生において

多分一度も『ジプシー』と

深くかかわったことは

ないんですよ。

 

なのにわかった気になっていた。

 

インターネットを通じ

未知の情報に触れる機会が

格段に増えている今、

その情報が本当に正しいのか、

無知と偏見から来る誤解なのか、

そこの見極めは非常に

難しくなっているとも感じます。

 

 

「ジプシーに

『所有』の概念はない」は

よく考えると

ジプシーを差別する側に

すごく都合のいい

理屈なわけですよ

 

それを口実に相手から

所有物を巻き上げられるし

「道徳がない」と見下せるし

なんだったら罰も与えられる

 

こんな怖いことを

いったい誰が言い出したのか

 

その言い出しっぺも

もしかしたら

悪意はゼロだったかも

しれないところが

真の恐怖だと思います

 

お帰りの前に1クリックを


ヨーロッパランキング

英国における

『ジプシー』問題を

いつか理解したいなあと

思いつつ準備した本

(『No Place to Call Home』)の

『読み時』を完全に

逸していた私でしたが

 

 

 

 

この春ふとした拍子に

向学心が復活。

 

ただほら・・・

 

英書はハードルが

高いじゃないですか・・・

 

当初予定では

『No Place to Call Home』を

読んだ後に、補足として

他の本を何冊か日本語で

読むつもりだったのですが

順番を変えてまずは

和書から読んでみることに。

 

というわけで手に取ったのが

イアン・ハンコック著

『ジプシー差別の歴史と構造

〈パーリア・シンドローム〉』。

 

 

 

 

読み終わった感想を一言で言うと

「とても勉強になりました」。

 

Norizoさん、それ、駄目学生が

課題図書を読んで

何も理解していない時の

常套句じゃないですか、と

思ってしまった方も

いらっしゃることでしょう、

何も知識がないところに

どかんと厚みのある情報を

投入されるとすっかり物事を

わかった気になってしまう

(陰謀論に悪い意味で

とりこまれてしまう人は

この傾向が強いと思う)のは

素人のよくないところ、

というご意見もあるでしょう、

でもこれは本当に私にとって

『読んでよかった本』となりました。

 

というかね!

 

『ジプシー』問題に関して

私はここまで物事を

知らなかったのか、と!

 

違うんです違うんです、

真実を知って目覚めた系

話じゃないんです、

純粋に歴史の話なんです。

 

そりゃ私は歴史の授業が

得意じゃありませんでしたけど

・・・そもそも我々は世界史で

『ジプシー』『ロマ』について

どれほど習いましたっけ?

 

道徳というか現代社会の時間に

「『ジプシー』という言葉は

よくない」というのは

習った気もするんですが、

では『ジプシー』とは

どういう人たちのことを

指すのかは

学習内容に含まれて

いなかったと思うんですよね。

 

「『ジプシー』って

聞いたことあるでしょ?

あれは使っちゃ駄目な言葉、

これからは『ロマ』ですよ」で

終了、みたいな。

 

 

そもそも『ジプシー』とは

どこに起源を持つ人々なのか?

 

『エジプトから来た人』から

転じて『ジプシー』だから

エジプトなのでは?

という説は現在は

疑問視されていて、代わって

出てきているのが

『インド起源』説。

 

でもインド起源ではない

『ジプシー』も存在し、

まあこの問題は

後日にとっておきましょう!

 

それよりもジプシーの歴史、

社会における扱われ方ですよ。

 

私は知識として『ジプシー』が

ドイツのホロコーストで

多数殺戮されたことは

知っていましたが、

故にその時点でそこに

ジプシー排斥の動きが

ドイツおよび欧州社会に

存在していたことは

わかっておりましたが、

皆様そういう『ジプシー迫害』が

欧州ではどの時期から

始まっていたと思います?

 

記録によれば『ジプシー』と

呼ばれる人々は14世紀には

ルーマニアに存在していて、

そこから西に移動する形で

欧州に広がっていくんですけど、

そこからナチスの虐殺まで

彼らはずっと基本的に

迫害されていたというか

かなり厳しく

差別されてきたらしいんです。

 

それでこの『差別』なんですけど

私は結局のところ

昭和生まれの日本人ですから

『差別』の理解が

ぬるかったというか・・・

 

近世・近代の欧州における

ジプシー差別って単純に言うと

「東欧では『お前は奴隷

(人として扱われない)』、

西欧では『お前は出て行け

(定住は認められない)』」で、

それに対して「嫌だ、自分は

奴隷になりたくない」とか

「出て行きたくない」とか言うと

「ああ、そう」で

殺されてしまうという・・・

 

そもそも奴隷になっても

命の保証はないんですよ、

だって奴隷なんですから。

 

だから逃げ続ける、

移動し続けるしかない。

 

シューマンの『流浪の民』で

歌われている人々が

何故ぶなの森の葉隠れで

宴を開いているのかというと

彼らには家がないし

宴を開く場所を

借りることもできないし

宴なんて開いているのが

露見したら懲罰必至だし。

 

よく『悪いジプシー』の話で

「彼らは物を盗む」とか

物語に書かれるじゃないですか。

 

でも彼らはそもそも

物を『買えない』状態で、

つまり奴隷でお金がないか、

お金があっても「うちの店は

ジプシーに売るものはない」で

買い物が出来ないか、

その状態でどうしても

何かが必要になったら

人間はどうするか、

という話で・・・

 

(注:だからといって

すべてのジプシーが

盗みを働くわけではない、

ここを間違えると

善意からの偏見

至ってしまうので注意したい)

 

ただほら、人間は

歴史に学びますから

第二次大戦後は

そういうジプシー差別は

解消に向かったのかと思いきや、

そもそも「ジプシーも

ホロコーストの犠牲者だった」と

西ドイツ議会が認めたのは

1979年で(それまでは

『人種がどうこうではなく

ジプシーは犯罪者だから

処刑された』と主張していた)、

その後1990年代でも

欧州の一部国家

(本書ではチェコ

スロヴァキアの事例が

挙げられている)では

ジプシーの強制断種

実行されていて

・・・強制断種?

 

90年代に?

 

欧州で?

 

『理由:ジプシーだから』?

 

・・・となりませんか?

 

私はなりました。

 

しかし何よりも私が

愕然としたのは、

当時90年代、

大学生としてそれなりに

本とか新聞とかを

読んでいたような

気がする自分が

こういう状況をまったく

知らなかったことですよ。

 

まあでもそれは私が

物知らずの

馬鹿学生であっただけの

話かもしれないのですが

私はここからもう一歩進んで

『無知は罪なり

(byソクラテス)』に

等しい状況にあったことを

この本は暴いてくれたのです。

 

続く。

 

 

第二次大戦を生きのびた

西独在住の『ジプシー』が

市民権の確認を求めても

西独政府はその申請を

却下したそうです

 

それまでに数世代にわたり

西独に住んでいても駄目、と

 

西独政府には西独政府の

言い分・政策が

あったのかもしれない

 

でもじゃあ戦争と収容所で

家も家族も仕事もすべて失い

「せめて虐殺の賠償を」と

求めても無視された人々が

そこからどう生きるべきであると

政府側は考えていたのか

 

『ジプシーの定住は認めない』の

精神が20世紀になってもなお

西欧諸国には残っていたのか

 

勿論世界中すべての国・地域に

差別は存在してて

わが祖国日本もその例外ではない

 

でも私は欧州にここまで強い

ジプシーへの差別があったことを

この本を読んで初めて知りました

 

知らないということは

恐ろしいことであると同時に

ある意味幸せなことですが

それは愚者の幸せであるとも思います

 

お帰りの前に1クリックを


ヨーロッパランキング