うはのそらにて
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スープの本

辰巳芳子さんのスープの本が、一文字一文字が、ほんとうに素晴らしくて、
読んでいると、涙が出そうになる。
それは、まるで栄養が不足しきってからからになった肉体に、
温かく澄んだスープがじんわりと染み渡って、だんだんと、指の先から赤みが差していくような、
そんな感覚に似ているからだとおもう。

一人で暮らすいまは、自分のために、食べ物を作って食べている。
幸い、何かを作るのがもともと好きで、料理やお菓子作りはたのしい。
それでも、何であれ自分の作ったものを相手にふるまうとなると、途端に肩に力がはいってしまう。
まだまだ、慣れていなくて怖いのだ。


毎日毎日、自分ではない誰かに何かを食べさせる日が、そのうちやってくる。とおもう。
赤ん坊も、食べ盛りも、働き盛りも、お年寄りも、みんなのいのちを繋ぎ続ける食べ物を。
だから、この本は、生涯わたしを助けてくれるとおもう。

この手も、誰かのいのちを支える手になるはずだ。そんな予感がする。映像が浮かぶ。



『作るべきようにして作られたつゆものは、一口飲んで、
肩がほぐれるようにほっとするものです

(略)
人が生を受け、いのちを全うするまで、特に終りを安らかにゆかしめる一助となるのは、
おつゆものと、スープであると、確信しております』



まったく、
スープそのもののような本だと思う。
辰巳芳子
「あなたのために いのちを支えるスープ」



はじめのページの、
『「おつゆ—露」いつ、どなたがこの言葉を使いはじめられたか知るよしもありませんが、
露が降り、ものみな生き返るさまと重ねてあります。

私たちの先祖方の自然観と表現力をたたえ、この美しい言葉を心深くつかってゆきたいと思うのです』

という部分がうつくしくて、
なんどもなんども、繰り返し読んだ。



$うはのそらにて

余白

電話をして、きょうの一日をまた終える。
先週末に買った、ワイヤープランツとピンクのばらの鉢植え。
それよりもっと前に買った、黄色とオレンジの花をつけた鉢植えはようやく咲き始めて、
部屋に色が挿していく。

大きな口内炎ができた。
普通の状態で居れば、舌の先が常に当たるところにあるので、
四六時中、その厄介な存在を感じながら生きている。
こういうイレギュラーなものがからだに出来ると、
つい鏡でまじまじと見てしまう。
涎も垂れる。
口内炎は、ぬらっとしたピンクの歯茎の中で、ぽつんと青白い顔をしていて見るたびぎょっとする。
単細胞生物や深海のいきもの、
とにかく真ん中に目を持つ構造で、吸盤のようなものを持った、
なにか別の生命体が口の中にとりついたみたいだ、と、一瞬だけ思う。
たとえば口内炎が何たるか、が未だ普通に広まっていなかった過去に、
初めてじぶんのからだにそれを見つけたひとは、
そんなふうにぎょっとしたんじゃないかね。


じぶんのからだで知るよりもはやく、それよりもはやく、
いま、ここにはまず情報があるんだ、なにもかも。
こういうイレギュラーなものがからだに出来ると、そんなことを考える。



手を口に当て、声を出しながらその手をパタパタさせると、
「あぽわあぽわわわわわわ…」というようなへんな音が出る、というのを

姪とか甥とか、小さなこどもが、
こないだまでやってなかったのに、今や当たり前みたいにやっているのを見るとき
ああ、この子は、じぶんのからだのシステムをまたひとつ知ったんだなと思う。

「あぽわあぽわわわ…」の遊びだけでなく、
ここをこうしたら、目玉がこっちに行ったりあっちに行ったりする、とか
ベロを素早く出したり戻したりして、これまたへんな音を出すやり方とかもね。

きっと彼らには、来る日も来る日も、知らなかった新しい発見が押し寄せて。

わたしが初めて、じぶんのからだを使って
その「あぽわあぽわわわわ…」を知ったときのことも、
ベロをぺろぺろ出したり戻したりできたときのことも、勿論覚えていない。
だから、それがどんな感覚なのかあまりよく分からない。
あっすげー、こうやったらこんな音が出た、たのしーじゃんか
というような感じかな、っていう陳腐な想像をひねりだすしかない。
だけどそのときに、
てことは、からだってこうしてみたりこうしてみたら
もっと面白い、知らないことが起きるに違いない!
って思うのだとしたら、
それは、どれほどワクワクすることだろうか、とも、想像するのだ。


大人になって、来る日も来る日も新しい発見が押し寄せるわけにはいかなくなる。
たぶん、日常、というのがそういうものだからだ。
じぶんのからだの感覚くらい、知らないものなど無いさという錯覚すらしそうになる。

だから、小さなこどもを見ているとはっとする。
わたしのからだにも、まだまだ余白がいっぱいあるに違いない。
目にも、耳にも、肌にも、舌にも、鼻にも、
あと、胸の奥のずるっとした感覚とか、一瞬の間にほとばしる感情にも。
彼らは、そんなふうに思わせてしまう。そばで突っ立っているだけの大人にまでも。たやすく。

こどもがきらきらとして見えるのは、
じぶんが完成されていないのを知っていて、
その余白の存在をきちんと理解し、きちんとワクワクしているからなのかも知れないな。

うはのそらにて

うはのそらにて


こどもってだけで、ずるいけど、
恋愛やスポーツや、漢字ばっかりの本や、難解な映画や、お酒や、ひとりでする旅行や、
考えてみれば、まあ、大人にしかできないこともいっぱいあるな。

考えてみれば、
大人も、もっときらきらできそうですね。

うはのそらにて

うはのそらにて

「この冬は寒いねえ」

数日前から、みんなきょうの寒さのことを話していた。
週末、寒波らしいよ、とか、最低気温が何度だ、とか。
あと、水道管をゆるめて寝てくださいっていう乱筆の張り紙とか。

そうやってきょうがやってきたのだけど、やっぱり裏切ることなくきっちりと、おそろしく寒かった。
へんな話だが、というか不謹慎だがちょっと安心して、
台風や集中豪雨の日のような気分になって浮き足立ちさえした。
案外人で溢れた街を歩きながら、
”他人と異常事態を共有する”という、妙な一体感を心地好く感じていたんだけど、
あれって一人芝居だったのかしら。あの人たちも、そうじゃなかったの?

きょうは寒いから家を出るまいかと思ったのだけど、
この所いろいろ思うところあってどちらかというと感情的になっていたこともあり、
なにか重量のある塊のようなもので、感覚をぐわんとゆらす、
そういうことがしたい気がして、自転車を飛ばして映画を観に行った。
「息もできない」という、韓国の。

やっぱり映画館は好きだ。

殴って殴って殴るシーンがたくさん出て来るんだけど、
赤い椅子にはまり込んでいるし、”ボッボッ”と鈍い音でコブシがぶつかる音が耳に入ってくるし、
スクリーンは大きくて目の前にあるので、背けられないし、と
空間ゆえの、逃げようとしても逃げられない感覚が、
どうしようもなく何度も何度も殴ってしまう主人公とリンクして、よかった。

あと、暗くて顔もわからない他人と一緒に観ているというのも、いい。
見始める前も見終わった後も、だいたい顔を見合うことはないので、
いつかどこかですれ違うことがあっても、
このひとと一緒に映画を観たことがあるだなんて、思いも寄らないわけだから。


最近、誰かとふたりきりで長時間話をすることが多くて、たのしい。
お酒を飲んで熱くなったり、ふたりしてやたら気が大きくなるというのもいい。
ぎゃはは、わたしたちってなんて生意気!とか言ったりする。

興味深くて、たのしい友人が多くて有難い。多いっていうか、そういう人しか居ない。
数年後に、数十年後に、だいぶん年をとってから、
この人たちにまた会いたいって思う。
その時、この人たちのたのしそうに笑う顔が見たい。
くそう、きみったら、この数年もたのしくやって来たんだろうね!そう思うの。
わたしも見てほしい、と思う。わたしの顔を。
このうえない。


そんな風に人と向き合って話をしたり、恋人との長電話が年々たのしかったり、
また、ある場面で自分の無知に何度も呆然としたり、自分の癖を改めて認識したり、
そんな諸々が関係あるのか無いのか、年なのか、時期なのか、

こんな風になりたい、こんな感じに生きたい、とか、こんな考えを持っているんだ、とか、
そう考えたり話したり、声に出して自分で納得したりすることが増えた。
まあ、気恥ずかしいことです。
それは、確固としたものではなく当然変わりゆくもので、
でも、これからのベースになっていくものなんだとぼんやり感じる。
それが25歳のいま。ようやく?
遅いのか早いのか、そんなことは知らん。

とにかく、未だ何にもなりきれていない、いま、“向かっている”ところ、そんな今が、
この1年も、いっそう楽しみだなあと考えている。



ところで、家族や親戚の小さい子どもたちに囲まれていることが多いからか、
この頃子どもの夢をしょっちゅう見る。
子どもの夢を見ると、自分の立ち位置がよくわからなくなる。
目覚めのぼーっとした時間に、
そこはかとない母性のような、ものすごい心地好さに包まれていることもあるし、
突き放したところに居るような、不安定な感覚のときもある。
まあでもいずれにしても、最近浮いていない。
絶対的に確かな、浮く感覚、よく浮いていた、あの頃の夢はなんだったんだろう。



うー日記を書くと、どうも長くなる。
昔から日記が書けないのはそういう理由で…

眠くなって来たので、特にシメられない。

アンビシャス

寒い。

ただ夜の長電話は暖まる。

さっき、新年ひとつめの約束をした。
ちょっと瑞々しいきもちになった。


新しい年は、たぶんたのしいと思う。

春になったらきゅうりとすいかを植えると思う。
陽がいっぱい当たるベランダをちゃんと見つけると思う。
ワインもまたいっぱい飲むんだろうと思う。
早寝早起きと"オプションとしての苦しみ”をもっときちんとやると思う。
炊き込みごはんはもっと美味しく炊けるようになって、
ひとつ年をとるから果物もこれまで以上にたくさん摂ると思う。
不安も増えるが安らぎも増えるのだ。
生意気は言わない。でも頭は働かせる。
大胆になるのを忘れない。くすくす笑うのも忘れない。
たのしいことをしようと持ちかける。
会いたいひとと読みたい本を先延ばしにしない。
品よくふるまい、おいしいものをもっとおいしく食べる。
ひとりじゃ出来ないことをさらに知る。

いさぎよく

まだまだ大変拙くも、
文章(それも勿論自分の話をするのではなく、誰かのなにかのための、)を書く仕事をさせていただいていることや、
勉強で、まとまったテキストを日本語に訳す練習を繰り返していることから、
言葉を選ぶ探す、という作業が、わたしの中で
とても日常的に、また至って生真面目に、どちらかと言えば感覚的に為されていると感じる。
この頃は、特に。

だから、反対に口を使ってする会話というのがあまりに突発的瞬間的過ぎるように感じられて、
"取り繕い"というか、"間に合わせ"というか、
あるいは、"枠内"というか。
あれ、こんなふうなこと言いたかったの?
取り敢えず声にしたかんじ?
私の思っていることって何にも言い得てないんじゃない?という気持ちになることが、たまにある。

といって、頭で長い時間をかけて、これがベストだ間違いないとずるり引っ張り出して来た言葉が、
後になったらやっぱり全然言い得てないんじゃない?と感じられることもしょっちゅう。



土曜日に通っている学校の、秋からのクラスでは、新入の方も数人いらした。
いつも斜め向かいの席に座っている若い女のひともそのひとり。
一番初めの自己紹介で、10歳までフランスに暮らしていた、と彼女は言った。

俄然気になってしまう。
気になるというのは、
ストレートでショートカットという私の好みのタイプであることや、
ものすごく小さくてくぐもった、なんとなく部屋の隅にかたまっている灰色の埃(決して悪い意味ではない)をイメージさせる声をしていることだけではなく、

子どものころの言語環境、つまり頭の働かせ方がやはり違うんだな、とつい納得してしまうような
日本語訳の際の、彼女の言葉の選び方。

何と言っても大胆だ。
小心者のわたしからすれば、彼女が充てた語というのが、思い切りすぎててハラハラしちゃうこともある。

だけど惚れ惚れしてしまう。
あんな小さくくぐもった声なのに、そんな潔い選択を。清々しくて、あっぱれとすら言いたくなる。

たとえばわたしとかが恐る恐る近づいて、
辞書に映った文字からどれほども抜け出せないでいて、
誰がやっても近しいような、ロボットみたいな訳語をカタカタ繋ぎ合わせてしまうのに対して、
彼女のは、「意訳」というのともすこし違う。何と言うか、一歩踏み出している。


わたしは、感銘を受けた。
ちゃんとメトリゼ("てなずけ"る)したいなら、
勇気を持ってもっとダイナミックに、身軽に、のびやかに言葉に歩みよらなくちゃ。
きっといつでもそう。普段でも。


************
おこがましいような気もするけど、
最後には、誰かが喜んでくれることに繋がるような、
そういったものがいつかは書けるようになりたいと思う。
ぼんやりと求められているものを、正しくはなくても、ワッと嬉しくなっちゃう言葉にできるような。
厚かましい夢だけれど。





話は変わって、こないだ古い友達とお酒を飲んで喋って、とてもたのしかった。
たのしい、とはまさにこのこと、という感じ。
その時に生理の話になって、それが何だかおもしろかったから、
それについてちょっと考えた。
また次回。


窓際が寒い。

個人的なカイエ

仕事をしているときに、突然ぽんといいことが頭に浮かんだ。
その無謀さ加減とか、都合のよさとか、笑い出したくなる衝動とか、
夢に思いを馳せる感覚にぼんやり似ている。

だからこんなの夢にしてみてもいいなあ。なんて考え出すと、途端に手が進まない。
体操座りで深爪でもいじりながら、それについて暫く考えを巡らせたくなって、
そんなわたしを、まあ、すこし見直した。



*******************

関わりの深い浅いに関わらず、また1日多く生きる分だけ多くのひとに会い、声を聞き、顔を眺めて、
映画も観るし、本も読むし、"アート"にも触れるし、ひとのお料理もいただく。
画面の右帯の取るにたらんニュースだってクリックするし。


ヒロインの着こなし、偉人の生き方、電話越しの顔も知らない取引先の声色・間合い、
電車の向かいの女子が恋人に見せる表情、旨いもの、
かっこいい大人の趣味、好きなひとの思想、

といった、微かな、そして膨大な接点たち。

考えてもみれば、
ぶわあっと次々にこちらを通過していく接点たちから、
なんかいいなあと、
半ば直感的にひっかかる要素を、
知らず知らずに真似ている。

細部を抽出し、図らずも、あるいは意図的に模す。
要は、なんかいいなあ、がうねうねと集まったような、分散していくような、
そんなひとになりたいのだ、おそらく。

「わたしはわたしだ」という拙いオリジナリティや柔い自我の正体は、
そのセレクトのセンスなんだったりして。
清々しいじゃないか、
なあんてね。って愉快な思いつきに夜を割く

普通の日記(ウィーケンド)

きょうは、たくさん雨が降った。
家の中から音を聴くと、とても重たそうな雨。
空気を、上からグーッと地面に撫で付けるようなイメージだ。

ここ数日の熱気を"なだめ"ている、と思った。
昨日ちょうど授業で出てきた「アペゼ(なだめる)」という動詞が、
頭の中できょうの雨としっくり馴染んでいくようで、愉快な気持ちになる。


それから思い出して、昨日。
もう道に迷うのは慣れたけど、昨日のやつはひどかったな。
周りは巨大で背の高い建物ばかりで、遠くがまったく見えずに途方に暮れた。
みんながどんどん歩いて進むから、わたしだけ立ち止まって方向を考えるわけにいかず、
なんとなしに足を動かしていたら、「駅から10分」の場所に結局1時間ちょっと掛かって着いた。
遠くが見えなきゃ、わたしはだめだ。
あんなふうに、囲わないで。

友だちの写真展では、胸の奥がぐらぐら揺らいだ。
(照れるから言わなかったけど、おばあちゃんの顔がとても美しくて、
ほんとうは胸の奥でいろんなものがうごめいていたよ。)


夜は、映画を観てカレーをいただく。
行くみちみちの電車は、愉しかったね。阪神電車は、いつでも異空間だ。
「ファンタスティック・プラネット」。
はじめからもう堪らなかったけど、じわじわ昂って最後には踊り出したくなった。
それにしても、映画に抱いた気持ちを言葉にするのがいつでもいつまでたっても、へたくそ。
フラストレーションがたまるからそもそも挑戦すらできない。
ブラヴォ!でまとめることにする。



それから、

きょうは、たくさん雨が降ったよ。
商店街の入り口に突っ立っていたきみに、とてもデジャヴュを感じた。
重たい雨の所為ですっかりうなだれたまっピンクのあじさいは、9つの頭の怪獣みたいだった。
白いねこのボタンは、指輪にしたよ。
ひとりでマンゴーをむいて食べた。
きょうみたいな日には、なにか楽器があったらいいのに。
慌ただしくて穏やかな、こんなウィーケンドには。

頭の整理

はみがきをしながら、
今朝のことを、つまり前回にはみがきをしたときのことを
あまり明瞭に覚えていないことに気がついた。

昨晩からいままでがとても短く感じられる。
そうでありながら、
きょうは多くの出来事と、様々な感情がわたしを通過していったようにも感じられる。

今夜眠っている間に行われるはずの脳の処理は、きっと大変なんだろう。
夢はまた重量感たっぷりであると、既にそんな予感すらする。
あ、でも最近わたし浮いてないや、夢で。



きょうとりわけ印象的だったのは、初対面のひとたちの前で大笑いをしたことだった。
だって、初めから愉快なひとたちだったもの。
会って数分経つ頃には、なんだかとても可笑しくなってきて、
胸の奥からふつふつとふきこぼれるような空気を我慢できなくて、
何かの拍子に大笑いしてしまったんだけど、
顔を上げたら、みんな眉を寄せて声を立てて笑っているではないか。
益々可笑しい。
名前と職業以外なにも知らない者同士。

ひとって案外まるごしなのね。

さっぱりとしていて大変心地が好かった。



すこし不思議な変化を感じている。
ひとりでいるのが好きなのは変わらないのに、
なんとなく一人暮らしには疲れてしまったようだ。
このごろは殆どぐったりしてると言ってもいい。
朝起きて直ぐや夜ご飯を食べたあとに、だれかが居たらすてきだとおもう。
だれかと暮らす、ということに興味がわいている。
これは、ちょっと意外なことだった(ç'était surprenant)。
ちょっと安心なことだった。



早々にドライにした、お洒落なデザインの黄色い花。
微かに香っている。

雨が降ってる

雨が振っているのが、耳でわかる。
とん、 と、とと、 、ってどこで鳴っているのか、
つま先立ちで跳んでは着地するような。

家の中に居ると、雨の音が不揃いに響くのは何でなんだろう。
守られているのだ、
と、その事実がいっそう際立つみたい。


きょうはお仕事を終えて姪に会ったのだけど、
彼女の”必死さ”にはその都度はっとさせられる。
何かを叶えるための、まっすぐさといったら。

欲求がくっきりしているのだとおもう。
それが彼女の表面と一体化しているのが、きっと新鮮なのだ。



必死さを出し惜しむようになったのは、いつからなんだろう。


空気がひんやりとして、湿っぽいから、つい長電話をしてしまう。
声にもモヤがかかっているようで、何度も聞き返すよ。
振動だけじゃ不完全なんじゃないかしら。


あしたは雨が降るってね。


単純なこと

ふわあクタクタ!

だけど“クタクタ”って好きだな。

クタクタだー
って言えるのなら、ちょっとくらい疲れても良いかも知れない。


きょうは日曜だけどイベントの取材でお仕事だった。
階段を何回も登ったり降りたりして、大変にクタクタだけど、
嬉しいこともあったので、
総じてよい日だと言っちゃう。

嬉しいことがあったら総じてよい日になってしまう、
この単純さは久しぶりで、ちょっと眩しいほどだ。




ところですこし前に、「ユキとニナ」という映画を観た。

お母さんとユキがテーブルでご飯を食べているとき、
お母さんが大泣きをしはじめたシーンがあった。

ユキはそれを見てなにも言わなかった。寧ろうっすら笑っていたようにも見える。
結局おわりまでなにも言わなかった。


そんな一連の映像が、心に色濃く刻まれたんだ。とても。
あとで知ったことだが、この映画には予め決まった台詞というものが一切無かった。
9歳のユキ。

言うべき言葉を探してたじろぐなんて野暮ったいことや
取り敢えず何か言わなきゃと思って「大丈夫?」、なんて無粋なこと。
そんなのが平気でできてしまうなんて
きっとユキには信じられないのだろうね。


それがわたしに強く印象を残して

以来、「いま彼/彼女に何か言うべきなのか?」とか
「わたしが言ったことは間違っていたのか?」とか
そんな場面に遭うとかならずユキが脳内に浮かぶのだった。

そしてふうっと頭の空気を抜いていく。


誰かの為に言う「べき」ものやする「べき」ことなんて
それ自体、なんだかどこかおこがましい。


わたしはもうあまり巧く取り繕ったり慰めたりできないかも知れない。
それほどユキの姿が清々しかった。




きょうのこと:
ごちそうになった水餃子が
ぷりぷりしていてとても美味しかったこと。
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