しばらくして司会者が
「奥様、今日は是非、私たちの知らない先生のことを何かお話ししてくださいませんか」
と申し上げると、
「それじゃ、今日は皆様のご存じない主人の ことをばらしてしまいましょう」
といたずらっぽい笑顔でおっしゃいました。
 奥様のお人柄は風薫る五月の気候のように温厚で、清々しく、心暖かで、情深い、「和顔愛語/わげんあいご」という語がそのままあてはまるような、物腰ていねいな方でいらっしゃいます。
 例えば、私たち研究会員に出会いますと、常に奥様の方から挨拶されるので、こちらの方が恐縮してしまうほどなのです。
 その奥様が「ばらした」お話はあまりにも楽しかったので、ここにいくつか御紹介致しましょう。 
その一
御結婚は見合どころか、両家の御両親が決めてしまった有無を言わせぬ「命令結婚」だったそうで、奥様は、ちょっと今の若い方達の状況がうらやましそうでしたが、当時は、大なり小なりみんなそういう状況だったのでしょう。
その二
新婚時代、眠っている先生の枕もとに目覚まし時計が置いてあるのを見たお姑さんが、突然目の色を変えて怒りだし、「休んでいる学者の枕元に目覚まし時計を置くとは何ごとですか!」とたいへんな雷を落とされた由。奥様は、ちぢみあがったそうです。
その三
先生から奥様へのプレゼントは、小物からお饅頭にいたるまですべて色は赤。  あるとき奥様が不思議に思って「どうして私にくださるものは全部赤い色なのですか」と問われたそうです。すると先生は「女性というのは、赤い色が好きなものだと男友達が話していたので、(先生は男兄弟ばかりで育った)そういうものなのだと思い込んでいたのだが、そうではないのか?」と答えられたので、奥様は、お返事に困ってしまわれたそうです。
その四
ある日、先生が地下鉄の改札口で切符を出そうとしたら、どうしたものか見つからないので、慌てた先生は、上着のポケット、内ポケット、Yシャツ、ズボン、鞄の中まで、必死の形相でさがしまわる。
はじめは迷惑そうに怖い顔をしていた駅員さんも、あまりに真剣な先生のうろたえぶりに、だんだん笑顔になり、「わかりました。結構です、どうぞお通りください」と通してくれたそうです。
 家に帰って私はこの話を早速家内や子供たちにそっくり聞かせたところ、もちろん家じゅうで大笑いになり、とてもほほえましく感じたことを覚えています。

 

平成三年五月十六日
  この年首都東京では、都庁新庁舎が新宿にその威容を顕した節目の年でもありました。
 新緑の若草色の鮮やかさが目にも心にも沁みこんで、五月晴れの空に向かって思わず深呼吸をしたくなる季節でした。
 中村先生の傘寿を記念して、東方学院で学ぶ研究会員が企画し、先生御夫婦と共に親しく日帰り旅行をするので参加しないかとのお誘いをいただきました。
 久しぶりに先生にお会いできる喜びに、うきうきした気分で、前日の五月十五日に高松より上京。
 残念なことに当日はあいにくどしゃぶりの雨でしたが、エアコンのきいた大型バスの車中では先生御夫婦と、皆なごやかに歓談したり、愉しそうな笑い声も聞こえて、私もはるばる参加した甲斐があったと、また日頃の慌ただしい日常の暮らしや諸々の煩わしさを忘れさせて頂いた心愉しい一刻でした。
 神田明神町前の東方学院を午前八時に出発し、神奈川県立金沢文庫(北条実時によって作られた日本最古の武家文庫)に到着したのはお昼少し前でした。
 我々が三々五々入館すると、早々に事務局の方がにこやかに近づいて来られ、懇切丁寧に館内を案内して下さいました。たぶん、前もって先生が御連絡してくださっていたのでしょう。いつもの事ながらその細やかな御配慮をありがたく思いました。
 先生は普段学問一筋の方とお見受け致しますし、またその通りなのですが、身近に接しておりますと、ちょっとした俗事に、思いがけないお心遣いをなさる一面をお持ちであることに気づかせられます。
 例えば、私がたまたま東方学院にお邪魔して、先生とお話中の折、事務局の女性が、多分先生の講演旅行のためだと思われるのですが、東京、大阪間の新幹線切符の手配の電話をかけようとしていた時、先生はその女性に、
「OO旅行社のOO君に頼みなさい。この前 の海外旅行では、OO君に大変よくして貰 いましたから、例え僅かのことでも、きっ と彼は喜んでくれると思います」
と指示されたのです。かたわらで拝見していて、なるほど、世界的な学者と呼ばれる方でも、一旅行会社の一営業社員に対して、これほどのお心遣いをなさるのかと感服したことでした。
 私事で恐縮ですが、私の会社は、海産物の通信販売も手がけておりますが、先生は、必ず、ご自身で、ご注文のお電話を四国の高松まで掛けてきて下さいます。
 先生は、特に「ちりめんじゃこ」がお気に入りで、家内など、先生の張りのあるどっしりとしたお声を聞くと有り難くて、緊張し、恐縮してしまうと申します。
 また、中村先生は、贈答品を使われるときは、かならず、ご出身地の松江のお菓子をご利用になるということです。東京のデパートの高級品を贈るより、その方が印象的であり、同時にたとえ僅かなお金でも郷土への貢献、広報活動につながるとのお考えからと伺っております。
 このようなお考えは、東方学院の若い講師の先生方にも影響を与えているようで、時折私に贈って下さる品物が、その講師の方の郷里の名産であったりするのです。
 話が、横道に逸れてしまいましたが、金沢文庫の館内を一時間ほどかけて見学させていただきました。
 そのあと先生御夫妻をかこんでの昼食会は、お昼時を少し過ぎておりましたが横浜中華街にある某有名大飯店で行われました。
 東方学院の研究生の司会で、二、三人の方がお祝いの言葉を述べられた後、遠い四国から参加したのだから何か一言、と私も指名されたので、一瞬躊躇しましたが、せっかくのお祝いの席ですから、気持ちだけはお伝えしたいと、さぬき風江戸弁?!で、日頃の先生への想いを述べさせていただきました。細かなことは、定かではありませんが、おおむね以下のような内容だったと記憶しております。
「中村先生、奥様、本日は、本当におめでと うございます。私は、先生の傘寿のお祝い の席に列席出来ましたことを心から嬉    

 しく誇りにおもいます。 そして叶うなら、ぜひ米寿のお祝い、白寿のお祝いにも、お声を掛けていただきたいと希望します。
 先生との出逢いから十数年、先生の教えを受け、ご著書を読み、つたない能力で自学自習を続けてまいりましたが、その学問、   

 思想を知れば知るほど、先生のお人柄に触 れれば触れるほど、その奥深さと広大さにとり憑かれてしまいました。
 揚げ句に、私財を擲って、四国の山中に国 際禅道場(単立寺)を建立するに至り、目下建設中です。
 想うに、何故ここまで決心して行動を起こしてしまったのか私自身にも解りません。
 目に見えぬ大きな力に導かれているとしか 考えられないのです。 これを人は、仏縁というのかも知れません。 私が、この  

 道場(専修院と命名するつもりですが)を建立するに至ったバックボーンに、中村先生のご著書にあった、

 〈日本全体のことは、どうにもならないが、自分の成し得ることを、その範囲で実行しようと思っている〉との一文が強い精神 

 的支えになっております。
 この秋には、専修院が落成致しますので、四国路へお越しの機会には、是非お立ち寄 りくだされば、嬉しく存じる次第です。
 世界に誇る、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋も 完成しておりますので、併せて観光もして 頂けると思います。
 つたない言葉で、言い尽くせませんが、お 祝いの言葉に代えさせて頂きます。ありがとうございました。」
 先生は、今日はとても楽しかったと返礼され、これからも学問を志す方たちの真っ先に立って新しい学問を開拓する必要があ 

 る、まだまだ悠々自適といった身分ではないと話されました。
 八十歳にしてなお、ますます学問に捧げる情熱の熱さ、強さその生き様(いきざま)の力強さを目のあたりにして、改めて先生の 

 人間として、学者としての凄さに感動し、学問の師としてだけでなく、人生の師として尊敬の念を深めたのでした。
 

その懇親会の席で、ある出席者の方から、
「西村さん、あんたは中村先生のような素晴 らしいお師匠さんに出会えて良かったね」
と声をかけられました。
そうです。
不思議な運命の力で、中村先生とお近づきになれたことは、私の終生かわらぬ至宝であると今も思い続けています。
 夕食をとりながら、話題は各方面に及び、和やかに時が過ぎてゆきました。
 翌、九月七日には中村先生のご尊父の故郷香川県財田町へご一緒しました。
旧い縁戚を訪ね、一軒ごとに菓子折を携えて、淡々とにこやかにねぎらいの言葉をかけられて辞するお姿は、世界的学者とは思われぬ謙虚な態度でいらっしゃいました。
 同日午後、先生は慌ただしい四国路の旅を終えられ、空路帰京されました。私にとっては思い出深い、充実した二日間でした。
 後日、先生から「御令室様」と家内宛に葉書が届きました。
「昼間のお仕事で疲れておられるにもかかわ らず、懇親会の席では長時間立ったままで お世話いただき感謝しています。そのとき の姿は観音様のようでした」
と書かれていました。
 懇親会の席で初めて先生にお会いし、その温厚なお人柄、人と接するときの御姿勢を目の当たりにしていた家内は、この葉書のお心遣いにいっそう感動し、以来私同様、中村教の篤き信者となったのです。
 この記念講演以降、東方学院香川地区教室ができ、年に一回、中村先生の講演会が催されるようになりました。                  主催者側の意向は、できるだけ多くの聴講者を集めること、そして夜には大きな宴会を催すことのようでした。
そのため、参加者の中には、テレビに出演しているタレント学者だと思ってやって来る人もあり、話が面白くないからと居眠りをしたり、夜の宴席では「有名人」との記念撮影だけを楽しみにしている人がいたりで、私から見れば、先生にはお気の毒な、まったくの時間の浪費としか思えない状況だったようです。
 比較思想の必要性を感じ、その基盤となる東洋思想を普及させるには、まず地域の政財界の指導者層へ働きかけるのが早道、と考えていた私の見解との相違は否めませんでした。 せっかく中村先生を招聘するのですから、人数は少なくとも本当に学びたい人が集まって真剣に学び、思想を「生きたもの」にするべきと考える人々の、勉強する集いでなければ意義がないのです。
 中村先生は来県のたびに、私の店(珊瑚店)にお立ち寄りくださり、
「川六(近くのホテル)に泊まっておりましてね。御商売はどうです、うまくいっていますか」
と私たち夫婦と雑談をされるのが常でした。
 また、何度目かの御来県の時、父上の故郷である香川県財田町の公民館で講演をされるというので、当時まだ小学生だった末娘と家内を伴って会場まで車で馳せ参じたことがありました。開演前にちょっと御挨拶をと控え室へ伺いましたところ、奥様もご一緒で、なごやかに談笑していたのですが、何度か末娘に笑顔を向けられて、
「ぼっちゃんは、何年生におなりですか?」
「ぼっちゃんは、なかなかお利口そうなお顔をしておいでです」
「男のお子さんにしては、大人しいですね」
などと話しかけてお気遣いくださるのです。 最初に家内が、蚊の泣くような小声で
「いえ、あのー、女の子なんですが…」
 と申し上げたのですが、お耳に入らなかったようで、側で奥様が気を揉まれて、先生の袖をそっと引きながら、小声で
「あなた、お嬢様だって、さっきからおっしゃってるじゃありませんか」
とお口添え下さって、先生もすっかり照れてしまわれたこともございました。
 娘のいでたちも超ショートカットで、地味な色のセーターとズボンという格好だったせいもあったかと思うのですが・・。
 そして、お会いする毎に口癖のように言われるお言葉をその折にもおっしゃられ、
「学問はきっとお続けになるように、覚悟し て堪え忍んで勉強してゆけばいつかは芽が でるものです。たとえ評価が没後であろうと、何をなそうとしたか、それ自体に大きな意義があると思うのですよ」
と繰り返されました。
 プライベートな場でも先生のさりげない一言に心うたれ、そのたびに勇気が湧いてくる思いでした。
 丁度その頃、東方学院で学び、瑞岳院(永平寺)での参禅修行を通して私が体得したことを具現するには、大きな組織の中では困難であること、また地方の公開講座に興味本位で参加している人たちといくら話し合っても、しょせん書生論にすぎないということに気づきはじめました。
 仏教の教えを具現するには仏道修行の基本である独りでの修行を重ね続け、「利他行」を心がけることだ、と確信するに至ったきっかけは、この東方学院香川地区教室の一件だったのです。
 そうして私が山岳禅堂「専修院」という単立寺の建立を決意した理由のひとつもこの一件が絡んでおります。
 

昭和六十三年九月五日
 昭和六十三年(一九八八)、遂に四国は、島ではなくなり、世界有数といわれる瀬戸大橋によって、本州と結ばれた記念すべき年となりました。
 中村先生からの新年の賀状に「本年は皆が讃岐へ参上したいと言っております。どうぞよろしく」と書かれていました。
 一月に上京し、ご自宅の方へ新年のご挨拶にお伺いした折のお話では、香川県教育委員会、県文化会館、四国新聞社主催で日本画家、野生司香雪(のうす こうせつ・一八八六~一九六九)の回顧展が開催されるので、その記念講演の依頼があり、お引き受けしたとのこと。 野生司画伯と中村先生とは、深い関わりがお有りとのことでした。
 また、讃岐(香川県)は中村先生の御尊父の出身地でもあり、九月には讃岐を訪ねることを今から楽しみにしているとおっしゃっていましたので、私も先生の来県に合わせて仕事のスケジュールを組み、心待ちにしていました。
 九月五日の夕方に来県され、その夜は高松市内のホテルで宿泊。翌六日午前には香川県庁二階ホールで「インド、サールナートを訪ねて」と題して記念講演をされました。
 聴衆約五百名で、座れない方たちがたくさん出るほどの盛況で、喜ばしいことでした。
 その後は二、三の各種団体の懇談会に出席されました。
 かなり強行スケジュールなのでお疲れかと案じたのですが、このような機会は二度と有るか無いか解らないと思い、私の音頭  

  で、夕方からは中村先生を囲んで県内の政財界の方たちを御招待して、高松グランドホテルで懇親会を開きました。
 この懇親会を催すにあたって、中村先生、また出席される方々にも、以下のように私の意向をお伝えしておきました。
「今の時代は、大部分の人が物質的には充た されているようですが、精神的には貧困さ が目立って来ているように思えます。

 そこにつけこんで、怪しい宗教が跳梁し、人は何が正しく、何が本物なのかを見分ける能力が次第に失われているのではないで しょうか。 事の善悪を学ぶには、社会人になってからでは既に遅く、青少年期から正しい宗教を学ぶことが大切だと思います。
 讃岐は、かつて空海(真言宗の開祖、七七四~八三五)を生んだ聖域であるにもかかわらず、四国にある多くの大学では東洋思 想(仏教学)を学ぶコースがどこにもないようです。このようなことを地域社会の指導的立場におられる方たちに、御考慮いた だき、また普遍性のある東洋思想を普及させるためにも、御理解をお願い申し上げます」 
「懇親会」出席者           
    東方学院 理事長     中村 元         四国電力(株)相談役   中川以良       百十四銀行 会長       中條晴夫       加藤陸運(株)社長     加藤達夫         香川大学教授           脇谷潤一        延長寺住職             大仏光良 
    香川県県議会議員    植田郁夫       元香川県知事      金子政則       高松市市議会議員    三笠輝彦       西鶴商事(株)社長    西村嘉明           
 

昭和六十三年九月五日
 昭和六十三年(一九八八)、遂に四国は、島ではなくなり、世界有数といわれる瀬戸大橋によって、本州と結ばれた記念すべき

  年となりました。
 中村先生からの新年の賀状に「本年は皆が讃岐へ参上したいと言っております。どうぞよろしく」と書かれていました。
 一月に上京し、ご自宅の方へ新年のご挨拶にお伺いした折のお話では、香川県教育委員会、県文化会館、四国新聞社主催で日本

   画家、野生司香雪(のうす こうせつ・一八八六~一九六九)の回顧展が開催されるので、その記念講演の依頼があり、お引き

   受けしたとのこと。野生司画伯と中村先生とは、深い関わりがお有りとのことでした。
 また、讃岐(香川県)は中村先生の御尊父の出身地でもあり、九月には讃岐を訪ねることを今から楽しみにしているとおっしゃ

  っていましたので、私も先生の来県に合わせて仕事のスケジュールを組み、心待ちにしていました。
 九月五日の夕方に来県され、その夜は高松市内のホテルで宿泊。

   翌六日午前には香川県庁二階ホールで「インド、サールナートを訪ねて」と題して記念講演をされました。
 聴衆約五百名で、座れない方たちがたくさん出るほどの盛況で、喜ばしいことでした。
  その後は二、三の各種団体の懇談会に出席されました。
 かなり強行スケジュールなのでお疲れかと案じたのですが、この様な機会は二度と有るか無いか解らないと思い、私の音頭で夕   

 方からは中村先生を囲んで県内の政財界の方たちを御招待して、高松グランドホテルで懇親会を開きました。
 この懇親会を催すにあたって、中村先生、また出席される方々にも、以下のように私の意向をお伝えしておきました。
「今の時代は、大部分の人が物質的には充たされているようですが、精神的には貧困さが目立って来ているように思えます。そこ につけこんで怪しい宗教が跳梁し、人は何が正しく何が本物なのかを見分ける能力が次第に失われているのではないでしょうか。 
 事の善悪を学ぶには、社会人になってから では既に遅く、青少年期から正しい宗教を 学ぶことが大切だと思います。
讃岐は、かつて空海(真言宗の開祖、七七 四~八三五)を生んだ聖域であるにもかか わらず、四国にある多くの大学では東洋思想(仏教学)を学ぶコースがどこにもないようです。このようなことを地域社会の指導的立場におられる方たちに、御考慮いた だき、また普遍性のある東洋思想を普及させるためにも、御理解をお願い申し上げます」 
「懇親会」出席者           
    東方学院 理事長     中村 元         四国電力(株)相談役   中川以良       百十四銀行 会長       中條晴夫       加藤陸運(株)社長     加藤達夫         香川大学教授           脇谷潤一        延長寺住職             大仏光良 
    香川県県議会議員    植田郁夫       元香川県知事      金子政則    高松市市議会議員     三笠輝彦                                                西鶴商事(株)社長    西村嘉明           
 

自然界に法則があるように、人それぞれにも運命というものがあるのでしょうか。
 知りたい学びたいと心の準備ができたとき、目に見えない糸であやつられるように中村先生との出逢いがあったのです。先生にお近づきになるまでの私は「買った売った」だけの商人でしたが、父の死を契機として、しだいに精神的な面にも関心をもって商業活動をせねばと考えるようになっていたのです。
「お忙しいでしょうに、かめいさん、遠い四国からようこそ」
  と、いつお伺いしても先生はねぎらってくださるのが常でした。
 ある日の早朝、ご自宅にお伺いした時のこと。
「風邪のため少し横になっておりました」
とメリヤスの下着に寝間着姿で現れ、
「体調が良くないので、このような格好でご無礼します」
といわれてから椅子に腰掛けられて、寝間着の前身頃をきちんと合わし、膝の上に両手をおかれて、礼儀正しく話されます。

その姿勢は、まさに荒野を槍一本で開拓してゆく気骨ある古武士のような風格を感じました。

この日、強く心に残った先生の お言葉は
「かめいさんは御自分なりに誓願し、それを確立するために修行の場として四国の山中に禅堂を建立し、法灯》をかかげたの 

 ですから、その法灯を消さないように精進なさいませ」
と励ましてくださったことです。
父が亡くなった頃にお近づきになった先生を師というより、むしろ慈父のように思って敬愛し、その思想に傾倒しているのです。

人生の師
中村元博士
     一九一二年、島根県松江市に生まれ。   元東京大学名誉教授、東方学院院長。
   比較思想学会名誉会長、学士院会員、   文化勲章受賞。
      平成十一年十月十日没
中村先生 御著書
  「インド思想史」
  「初期ヴェーダーンタ哲学史、全四巻」  「比較思想論」以上、岩波書店
  「原始仏教、全五巻」「世界思想史、全   七巻」以上、春秋社
  「佛教語大辞典、全三巻」「仏教語源策   正、続 新」以上、東京書籍
                                他多数



 

東方学院の講義を受けるために上京して、少し早めに学院を訪れ、例によって先生と雑談を交わす中で、
「専修院を開単して三年ぐらい経った頃から、自治会とか企業、各種団体から時々講演の依頼が入るようになりまして、托鉢の体 験を主に東方学院で学んだことをお話ししています」
と申しますと、先生は大変喜んでくださり、
「かめいさんは誓願をたてているのですから、続けて精進なさいませ。また講演会で話したことや、商業活動と禅修行を続けてい て感じたことなどを書き残してみてはどうでしょう。御自分が著した書が、巡り巡って自分の人生行路に必ず恵みを与えることに

なるのですよ」とおっしゃって下さいました。
 その時点では苦手な文を書いたり本を出版しよう等とはおもってもいませんでした。
 しかしその二年後には「生きる、我が托鉢日記」(専修大学出版局)を出版することになりました。
 その時、出版に際して細々と適切なアドバイスをしてくれた編集者が、校正の最終段階になって、突然、中村先生の推薦文をiいた

 だけないかと言い出したのです。
 若輩、浅学の私が、世界的学者の先生に推薦文をお願いするとはと、随分躊躇したのですが、もの書きとしては素人の私が、生ま  れて初めて、四苦八苦の末何とか書き上げたものを、何としてもしかるべき所から出版したい一心から、怖いもの知らずの体当たりでお願いしましたところ、
「そうですか、書き上げましたか。かめいさん、精進なさいましたね。わたくしでできることで協力しましょう。推薦文の件は、        

 どうでしょう、私とかめいさんが近づきになったことなどを原稿用紙五、六枚に簡単に書いてみましょう。それを、かめいさんが  

 お好きなように御役立て下されば・・」
とおっしゃってくださいました。
 まったく、天にも昇る気持ちというのはこの時の気分をいうのでしょう。 一週間ほどして、先生直筆の原稿用紙が赤い紙縒りで綴じられて送られてきました。
その原稿現物はわが家の「家宝」として額にいれ拙宅の奥座敷に大切に飾ってあります。
 

禅堂を開単してからは月例茶会、企業研修、学生の禅体験、個人参禅者の指導等仏道に関する修行と商業活動の両方でプライベートな時間はなくなりましたが、精神面ではとても充実した時を過ごしております。
 個人参禅者は実にいろいろな悩みをもっていますので、指導している私自身初めて見聞することが多くあり、それに対処することは貴重な体験です。
 一例を挙げますと、ある日、知人の紹介で大柄な四十歳代の女性が二泊三日の予定で参禅修行に来られました。
 一日の日鑑(作務、食事、坐禅)が夜の九時に終わり、囲炉裏で暖をとりながら彼女の話を聞きました。それによると、御主人が五、六年前から他の女性と不倫をしていて、今は家庭内別居中だというのです。御主人が彼女に対して言うには、彼女は女として魅力がなく、抱いても藁人形のようで楽しくもなんともない、すべては彼女が悪い、ということになるのだそうです。彼女はしばらく下をむいて黙っていましたが突然、
「先生、わたしを抱いて、試して!」
と言って迫って来るではありませんか。と、ここまで中村先生に話をしますと、ほぉーっと驚いたような顔をして先生は、
「かめいさん、それからどうなさいました」と訊かれるのです。
 他に誰もいない山岳禅堂で、ローソクだけのあかりの中で顔面蒼白、目は吊り上がり夜叉面のような形相で迫られても、お相手できる男性はまずいないでしょう。私は彼女に、
「あなたは今、普通の精神状態ではなく感情が高ぶっているから、冷静になるまで今夜はいろんな話を聞かせて下さい」
  と説得しました。一晩中話をしたことで少しは気が晴れたのか、彼女は翌朝、
「男の人にもいろんな生き方があるのですね。 先生、昨夜の話は恥ずかしいので忘れてくださいね」
  と下山して行きました。
 そう申し上げると中村先生は、ハァーっとため息とも嘆息ともつかぬ大きな息をされ、
「かめいさん、いろんな苦労がおありですね。 しかしそうして元気を出した人から感謝されているのですから、やりがいもあるでしょう。まさに対機説法というか、人を見て 法を説けということですね」
と慰め励まして下さったのです。
 

中村先生が御講義のとき、度々口にされるので、印象強く心に刻みつけられているお言葉があります。

先生はとっくに八十歳を過ぎておられますが、
「皆さんはお若いのですから、時間を掛けてしっかり勉強をしなさい。私は老齢になりましたが「悠々自適」というような、そんなのん気な生活でなく、いつでも一番槍の気持ちで、真っ先に立って新しい学問を開拓して参る覚悟です。また、そうする必要があるのです。体の動く限り、報恩の念をもって進み続けたいと思っております」
とおっしゃるのです。
 どのような分野であろうとも「棚から牡丹餅」は決してないのです。あったとしてもそれは一時的なものです。
生きていくためには、いつの時代でも勤勉な労力、限りない情熱があってこそ物事は達成、成就するのです。
あらゆる情報が氾濫し、一億総評論家の感がある現代で、タレント学者が著した本を読んだ受け売りで、禅とは、仏教とはと、

したり顔に語る、まるで現場感覚の欠如しているインテリ・ミーハーの評論など、社会的には何の役にもたたないのです。
 私は、東方学院で学ぶようになってから、仏教を宗教としてではなく「正しく生きていくための智慧」として客観的にみるようになりました。世俗性のなかに宗教的価値を認めることが大切だと思うようになったのです。
 つまり思想は「生きたもの」でなければならないと思いますし、本人が知っているだけではなく、知っていること、学んだことを具現するには、他の人々に向かって、自分にしか書けないことを、誰にでもわかる言葉で表現することが不可欠であり、重要だと考えるようになったのです。

 

まだ暑さの残る初秋の頃の講義の折だったと記憶します。
 例によって興に乗ってこられると講義内容とは関係のないお話に及ぶことがあるのですが、昭和五九年(一九八四)にハワイ大学で、同大学宗教学科が中心となって、「キリスト教と仏教との対決の会議」というのが開催されたそうです。
 中村先生も出席されて、公開講座が開かれた折、教会におけるセレモニーで、
「なんと驚いたことに演壇で、日本人の男女が、羽織、袴、着物姿で、尺八と琴の演奏を始めたのです。このようなことは今まで の教会では、あり得なかったことでした。
 今後は各民族が各々の多様な文化の伝統を 継承して、その特性や個性を生かしながら 更にその中に《和の精神》を実現させることが大切で必要なことだと思ったことでした」と話されました。
 現代は、あらゆる面でグローバル化して参りましたが、世界のどこかの国々では、対立抗争が続いているのが現状です。
 自国の伝統、文化と他国のそれとを摺り合わせていくことで、お互いに理解することができるのだとおもいます。
 私事で恐縮ですが、二人の娘を小学六年生から中学生にかけて、約二年間アメリカ、バージニア州ノーフォーク市のクリスチャンスクールに単身留学させました。
 その間に、私がビジネス旅行の合間を縫って娘のホームステイ先へ訪ねていった時の出来事ですが、そのお宅のお孫さん(当時五歳くらいの女の子)が、いきなり私に向かって
「ユー・サタン!(悪魔)」
と叫んで、私の顔にツバを吐き掛けたのです。
 家族の方が驚いて慌てて取りなして下さいましたが、彼女の言い分は、私が仏教徒だからなのだそうです。クリスチャンとして教育されてきた彼女にとって、キリストを信じていない異教徒は、すべてサタン(悪魔)なのです。クリスチャンとして、自分は正しいことをしたまでと思っている風でした。
 彼女に悪気はないにしても、世界の平和と人の交流を目指す上で、自分たちが信じている神以外のものを信じる者達は、全て悪魔であるという教え(一神教)では困るのです。
「和の精神」のもとに、諸民族が協力し生きて行くためには、それぞれの文化習俗の相互理解と認識が為されなければなりません。 そのためには、人類の生んだ過去の諸々の思想の対比検討と相互批判の必要も生じてくるのは、当然の成りゆきでしょう。