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 3月31日に行われたトルコの統一地方選は、レジエップ・タイイップ・エルドアン大統領(70)の与党が惨敗した。イスタンブールやアンカラでは、野党候補が勝った。エルドアン政権にとっては、大きな打撃である。

 イスタンブール市長選では、最大野党の共和人民党(CHP)の現職のエクレム・イマモールが51.1%を得票し、与党、公正発展党(AKP)のムラト・クルム候補の39.6 %を大きく引き離した。また、首都アンカラでもCHPの現職のマンスール・ヤワシュが60.4%を得票し、与党候補(31.7%)に勝っている。この2都市で与党が市長職を奪還できなかったことは、エルドアン政権にとっては大きな失敗である。

 その他、大半の主要都市でCHPが圧勝した。主要30都市のうち、イズミル、アンタルヤなど14都市で勝っている。AKPが勝ったのは12都市のみである。伝統的なAKPの地盤である中部でもCHPが勢力を拡大した。全国81市長選のうち35でCHPが勝利した。AKPは24市で勝っている。

 全体の得票率は、CHPが37.76%、AKPは35.48%であった。前回の2019年の地方選と比べると、AKPは9%の得票減である。

 エルドアンは、1991年の総選挙に立候補するも落選したが、1994年3月にはイスタンブール市長選に立候補し、当選した。2001年8月にはAKPを結成し、党首に就任した。2003年3月には国会議員に選出され、首相に就任した。2007年7月には国会議員に再選され、8月には第2次エルドアン内閣を発足させた。2011年6月には国会議員に3選され、7月に第3次内閣を組閣した。

2014年8月に、トルコ初の直接選挙による大統領選挙で当選した。それ以前は議会が大統領を選んでいた。

 2017年には大統領権限の拡大を目的とした憲法改正を実現させ、2018年の大統領選挙で再選された。しかし、2023年の大統領選挙では野党統一候補に追い上げられ、決選投票で何とか当選するという状態となった。

 首相時代から通算すると、エルドアンは、20年以上にわたって権力の座にいることになる。政権初期には経済運営に成功し、インフラの整備も進めて高い支持率を誇った。しかし、政権が長期化するに従って、言論弾圧など権威主義的傾向を強めていった。2016年7月には軍事クーデターが失敗すると、エルドアンはさらに規制を強化。まさに、「長期政権は腐敗する」という事態となっていったのである。

 地方選でのAKP敗北の最大の原因は、長引くインフレである。70%近いインフレ率が庶民の生活を直撃している。この庶民の不満が反エルドアンへの流れを加速化させたのである。

 エルドアンは、「今回の結果を真摯に受け入れて、大いに反省する」と敗北宣言をした。これから経済政策を練り直して、インフレを抑えることに全力をあげる決意である。

 今のトルコ憲法は、大統領の任期を2期までに制限している。しかし、エルドアンはさらに長期政権を続けることができるように、憲法を改正して2028年の次期大統領選に出馬する意向である。プーチン大統領が憲法改正によって、超長期政権を維持してきている手法を真似ようというわけである。

 しかし、今回の地方選の敗北で、その目論見は潰え去ってしまった。プーチンの手法は使えなくなったと言ってよい。

イマモール市長が強力なライバルとして躍り出てきた。エルドアンとしては、自分の後継者を選んでAKP党内で影響力を保つしか手はなさそうである。

 

 

  昨年10月に始まったイスラエルとハマスの戦闘はハマスによるイスラエルへの奇襲攻撃で始まったが、その後のイスラエルによる報復攻撃の凄まじさに、パレスチナ人に対するジェノサイド(集団殺害)ではないかというイスラエル批判の声も上がっている。

 

 キリスト教が広まったヨーロッパ社会では、キリスト教徒はユダヤ教徒を軽蔑してきた。こうして中世以来、ユダヤ人は差別や迫害の対象となり、就くことのできる職業も限定された。極論すれば、人間として扱われなかったのである。

 それだけに、ユダヤ人は宗教的にも、人種的にも強固なアイデンティティを確立していった。

このユダヤ人蔑視の感情や行動は、19世紀後半のヨーロッパで、ユダヤ人はセム語系統の民族であって、西欧のアーリア民族に比べて劣っているという人種主義思想となり拡散した。これが「反ユダヤ主義(Antisemitism、アンチセミティズム)」である。

 ロシアでは、1881年にアレクサンドル2世が暗殺されたが、反ユダヤ主義者は、これをユダヤ人の犯行と決めつけて、多数のユダヤ人を虐殺した。そして、それ以降、「ポグロム(ロシア語で、「破滅」、「破壊」を意味する)」と呼ばれるユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れた。

 

 反ユダヤ主義を象徴するのがフランスで起こったドレフュス事件である。ユダヤ系のアルフレッド・ドレフュス大尉がドイツのスパイだという嫌疑をかけられ、1894年10月のパリ軍法会議で有罪になり、翌年4月に仏領ギアナの悪魔島に流刑になった。

 ドレフュスの無罪を確信する作家のエミール・ゾラは、1898年1月13日付けの『オロール』紙に、フェリックス・フォール大統領に当てた「私は弾劾する」という文を書いて、この判決を批判した。

こうして、この事件をめぐって世論は二分し、フランス第3共和制を揺るがす大事件となった。当時のヨーロッパにおいて、反ユダヤ主義がいかに力を持っていたかを物語る事件である。とくに軍部とカトリック教会は、反ユダヤ主義に傾きがちであった。

1 899年に再審となったが、6月に破毀院は1894年の判決を破棄したものの、8月のレンヌ軍法会議はドレフュスに再び有罪を宣告した。しかし、ドレフュスは大統領特赦で出獄した。そして、遂に1906年7月12日に破毀院はレンヌ軍法会議の有罪判決を無効としたのである。

 

 このドレフュス事件をパリで体験したのが、ハンガリー出身のユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツル(1860年〜1904年)である。

 ヘルツルは、ウイーンの新聞の特派員としてパリに滞在しているときにドレフュス事件に遭い、フランスの反ユダヤ主義に衝撃を受けた。そして、「ユダヤ人が自らの国を建設する以外に問題は解決しない」と考えるようになったのである。ヨーロッパ以外の地にユダヤ人が安住できる国家を作ろうと考え、行動に移した。これがシオニズムである。シオンとは、エルサレム南東にある丘の名前である。ユダヤ系財閥のロスチャイルド家は財政的にこの運動を支援した。

ヘルツルは、1897年にスイスのバーゼルで第一回シオニスト会議を開いた。

 そして、その運動は1948年5月のイスラエル建国につながったのである。それから75年が経つ。今回のイスラエルとハマスの戦争で、また新たな反ユダヤ主義が台頭するのを危惧する。

 

 

 

 

 3月4日、フランスでは、憲法に女性が人工妊娠中絶を選択する自由を明記することを決定した。世界初のことである。

アメリカと比べて、フランスではキリスト教との関係はどうなっているのか。さらには憲法改正については、何度も実行しているフランスと、まだ一度も行っていない日本との比較も興味深い。

 

 憲法改正については仏憲法89条に定められている。改正案を提出できるのは、(首相の提案に基づく)大統領か国会議員である。国会の上下両院で可決された後に、国民投票による承認を経て確定する。ただし、大統領は、国民投票に代えて国会の両院合同会議(コングレ)の審議に付することができ、この場合には有効投票の5分の3の賛成によって改正が確定する。

今回は、後者の両院合同会議の議決である。コングレは、ヴェルサイユ宮殿で開かれることになっている。3月4日の投票では、780票vs72票の圧倒的多数で可決された。まさに圧勝であり、5分の3の多数を遙かに超えた。投票をテレビで視たが、議員が総立ちで拍手喝采している様子は壮観であった。

 

 フランスが人工中絶の権利を憲法に明記することを決めたとことに対して、カトリックの総本山ヴァチカンは、「人間の命を奪う『権利』などあってはならない」と懸念を表明し、生命の保護が絶対的な優先事項となるべきだと強調した。

 カトリックが多数派のフランスで妊娠中絶の自由を守ろうという機運がフランスで盛り上がった背景は、アメリカで、連邦最高裁判所が、2022年6月、妊娠中絶を憲法上の権利と認めた判決(ロウ対ウェード判決)を49年ぶりに覆したことである。

このような保守的な判決が増えたのは、トランプ大統領が在任中に連邦最高裁に3人の保守派判事を送り込み、過半数を保守派判事で占めさせたからである。

「キリスト教のアメリカ」では、妊娠中絶の自由を憲法に書き込むことはないであろう。もしトランプが大統領に再選されれば、強硬に反対することは確かである。

 

 これに対して、フランス革命の伝統を誇り、「自由、平等、博愛」を掲げ、それを三色旗の国旗にしているフランスでは、人権の擁護が最前線に出る。自由のための戦い、女性の健康、平等の実現などが国民の共通認識となっている。

 マクロン大統領は、今回の憲法改正は「フランスの誇り」であり、「普遍的なメッセージ」を送るものだと述べた。フランスでは、1975年に中絶が合法化されたが、世論調査では85%のフランス人が中絶の権利を憲法に明記すべきだと述べていた。

法律の合憲性を審査する憲法院は、中絶法に関して違憲だとの判断を下したことはない。

 

 20世紀以降のフランスのもう一つの原則は「政教分離」である。国家と教会を分離するという原則で、国や地方自治体の宗教予算は廃止され、信仰は個人の私的領域のものとなった。教会も国家から保護を受けることはない。徹底した政教分離の原則を守っている。

 このこともまた、妊娠中絶の権利を憲法に明記することに対する教会の介入を排除することにつながったのである。

カトリックのフランスと、プロテスタントのアメリカは全く違う国家である。