なんかいいことあった?

なんかいいことあった?

「いいこと」「楽しいこと」を不定期更新。
子育て、ことばの環境作りがメインです。

【登場人物】

<くちん>
書き手。2児の母。多言語生活案内人。雪音→多言語活動でのニックネーム、くちんに変更しました。猫好き。

<旦那さん>
いつのまにか技術職に。珈琲中毒。いそがしすぎる。

<ひーちゃん>
ムスメ。いつのまにか6歳になってる。
お絵かき大好き、奔放でいて繊細。

<りょーちゃん>
ムスコ。もうすぐ4歳に…(汗
電車と車ラブ。ついに来た!下ネタブーム。
Amebaでブログを始めよう!
明らかに使い方の定まっていないこのブログ同様、
とっちらかっている私の人生ですが…

どうしても出てみたくて。

多言語活動の予定も詰まっていて、
冬になりかけのこの季節は体調をくずしやすいし(昨年の悪夢がよみがえる)
それなのに、どうしても出てみたくて。

このライブのためだけに数か月、集中して時間をとったとはいえないかもしれない。
でも、暇な時なんて一生やってこない。
大きなイベントをやるんだ!という時って、自分の気持ちが試される。
そういうめぐりあわせに乗ったのだ、と思います。

明日、ステージに立ちます。

12時半から、渋谷PLUGにて。
詳細はこちら



長くなりますが、このライブと、先日11/13・19・23に行った多言語活動のイベントを通しての私の発見をつづります。


たくさんの、はじめての人に会うこと、
短い時間のなかでどれだけ出せるか、的確なことばで伝えられるか、
歌をえらび、話すことをえらび、アクティビティをえらび、服をえらび、メイクをえらび、
何を表現したいのか?何を伝えたいのか?どうしたいのか?を問うには、
短期間にこの全く土俵の違うと思われる大舞台を連続することは、
お尻に火がつかないと頭の回らない私には、必要なことだったのかもしれません。


私はいつも役割を生きることを自分に課してきました(勝手に)。
娘で、姉で、こどもで、先輩で後輩で、上司で部下で、嫁で、妻で、母で、もうアラフォーのいい大人で、先生で、生徒で、患者で…
誰かに、あなたはこういうキャラだよね、と言われるところを守ってみたりもしました。

それぞれの役割に、こうあらねばならない、という姿を(勝手に)決めて、
仕事だから、仕事だと思えば、頑張れる。耐えられる。
その役割にふさわしくない自分の性質は切り捨てて押し隠して、
違う役割の時間に、抑えたところを発散することで生きてきました。

もちろん、うまくいきっこありません。
まあ、うまくいかないなりに、いくつもの役割を使い分けて、自分の気持ちを保てたのは
ぎりぎり、子どもが生まれる前まで。

母になって、さらに、多言語活動の研究員になったら、
24時間子どもといっしょ、多言語活動は生活そのもの(もちろん子どももいっしょ)。

仕事だけど仕事じゃない、仕事じゃないけど仕事…
今までのように、役割とか顔とかオモテとかウラとか使い分けるわけにいかない。
自分自身をまる出しで、生きていかなければならなくなりました。

だから苦しかった。
24時間お母さんでなんかいられない。よくそう思っていました。
お母さんであるためには、自分には足りないことできないことがいっぱいあって、
でも無理やり頑張らなくちゃいけなくて。
ひとつでもできないことがあるうちは、自分はダメなんだ、
心から遊んだり楽しんだりしちゃいけないんだ、と思っていました。

この歌プロ最初のレッスンの頃、
普段のくらしでは抑圧して出せていないところを解放するんだ!
本当は私もっと汚い!幼い!エロいw!でも可愛いとこだってある!…等々
と言ってました。
きちんとした大人?として生きていくうえで、表沙汰にできないことを、
歌をうたうこんな時くらい、ばーんと出したっていいじゃない!と思っていました。
それがとてもうれしくて楽しくていいことだと思っていました。
私だって好きな事やったっていいじゃない!って思っていました。

…で、出したらどうするの?
ステージでだけ出して、あとはまた隠して生きていくの?生きていけるの?


そうじゃない。

認めるしかないんだ。
自分はそういう人間だってこと。足りなくて、できなくて、ふさわしくなくて。
そんな自分だって、
べったりと家族に愛されていて、
多言語活動のメンバーにだって愛されていて。

卑屈にも傲慢にもならず、ちょうどいいバランスで自意識を保つのって
私にはとても難しいのですが、
そのヒントが、初夏からこの11月のイベントウィークまで、
ずうううぅぅっと走り続ける生活の中で、見えてきたように思います。

イベントじゃなくても、ステージじゃなくても、
デコボコの自分そのまんまで、いつでも何事にでも向かっていけること。
出したりしまったり、隠しきれないものをごまかしたりするんじゃなく。

自分自身まるごとで、生きていくこと。

私が私のために、本当にチャレンジしたかったことは、ここだった。

本当に直前まで、わからなかった。
恥ずかしかった。
やったほうがいいこと、やらなきゃいけないことをやっていないことを認めるのも、
なりふり構わない姿をさらすことも、名前を出すことも
何もかも怖くて恥ずかしくて、直前まで言えなかった。
いまでも恥ずかしいけど、それでもやっぱやめた、とはもう言わない。

多言語の音の波に浸っているときにはわからなくても、
確実に自分の中に何かが蓄積されていて、
あるきっかけを得てドッとことばになって湧き出てくるように、
今回の経験も、今後の人生の中で、ことあるごとに力となって知恵となって、
私を支えてくれるものになると、思っています。