今年のお盆は、台風6号と7号に挟まれた異例の事態となっている。

迷走の末四国にも大雨をもたらした6号が日本列島に上陸せず朝鮮半島へ去ったあと、今度は7号が本州中央部をうかがっている。帰省客と、コロナ明けのお盆の各種行事の関係者の皆さんにとっては油断ができない状況である。

何事もなければいいのだが・・・。

 

さて、油断のできない状況といえば、昨今の長崎大学の一件である。

思い込みで暴走・迷走する権力者は、マイナンバー保険証に血道を上げて無駄に支持率を下げ続ける岸田首相だけでいい。

今年6月に、ヤフーで長崎大学当局が片淵キャンパスにある経済学部と文教キャンパスの新設の情報データ科学部と多文化社会学部を常盤地区へ移転するというプランを断念したというニュースを見た。

が、そのわずかひと月後に今度は長崎大学当局は唐突に120年以上の歴史のある経済学部のキャンパスを不動産として叩き売り、それで得た資金で18万平米の敷地に7学部といわゆる旧教養課程の低学年の学生がひしめき、すでに過密状態な文教キャンパス内に、新しく多文化社会学部・情報データ学部・経済学部を一体にした建物をつくって移転させるのだという。

朝令暮改というか、なんというか・・・。つまるところ、どうしても文系学部の統合をやりたいということだろう。

ちなみに長崎大学の河野茂学長は昭和25年生まれ。長崎大学医学部生え抜きの御年73歳である。

長崎ならではの複雑な学内事情についても当然精通している。

言い換えれば、長崎大学の中では離れ小島であり、「半独立国」ともいうべき性格の経済学部を、自分の目の黒いうちに「何とかしたい」ということだろう。

 

長崎大学文教キャンパス

 

 

片淵キャンパスは、明治38年の旧制長崎高商創立以降、長崎大学経済学部の単独キャンバスとしてあり続けた。専門課程の学生400名足らずという今の収容人数は旧長崎高商と戦時中の長崎経専時代の学生数360名とほぼ変わらず、5万平米のこじんまりとしたキャンパスは桜並木に国の登録有形文化財である長崎大学瓊林会館(旧長崎高商研究館)や倉庫等、戦前からの赤煉瓦の建物が映える閑静な場所である。

もともと長崎は坂の町であり、今の人口は40万人を割っている。1980年代には同じ市域の人口が50万人いたことを考えれば、人口の減少が著しい。市内中心部に平地が少なくマンション・アパートの適地が少ないことが致命的だ。

おかげて市内の家賃相場は福岡市のそれよりも高く、三大都市圏なみだという。

 

太平洋戦争末期の長崎原爆投下では、浦上にあった旧制官立長崎医科大学は学校も附属病院もその直撃を受けて人的、物的資源に文字通り壊滅的被害をこうむった。医科大学当局はやむなく被害の少なかった片淵町の長崎経専キャンバス内に一時身を寄せることになる。

結局、校舎・病院の再建までの数年間、長崎を離れて大村の旧海軍病院等への移転を余儀なくされたが、片淵キャンパスのほうは山陰に位置していたことが幸いし、爆風による被害こそ受けたものの、建物と資料の被害は限定的で、戦後の新制大学移行につながった。

この当時は、両校は同じ町にある別の官立学校ということでそれなりに助け合っていたようだが、戦後に新制長崎大学となるやその関係は微妙に一変する。

敗戦直後は誰もが自分が生きることに必死だった時代である。

長崎大学は文部省の強いた「一県一大学」の原則に従って、長崎県内にあった官立の専門学校・大学をすべて統合して昭和24年に新制大学として成立した。もともと単科大学であった長崎医科大学や、長崎経済大学として単独での新制大学移行を目指していた長崎経専もともにその希望は容れられず、無理やりひとつの大学を構成する部局になった。

たとえて言えば、「同じ町内に住んでいるから」という理由で、市役所の命令で無理やり生まれも育ちも違う独身男女が結婚させられたに等しい。

このため、各大学とも新制大学スタート後、内部の不協和音が絶えなかった。

一口で言うと、全国の国立大学で敗戦国の文部省からあてがわれる貧弱な予算を、学内の各学部が奪い合う光景が現出した。

もちろん、それまで学部ごとが持っていた財産は、新制大学発足後も再分配はされずレガシーとして後身の学部に継承され、「持てる学部」と「持たざる学部」の状態からの「平等なスタート」が行われた。

その結果、毎年、学生数に応じて予算が「平等に」分配されたとしても、その差は残ったままである。

現在の長崎大学の各キャンパスの状況がそれを雄弁に物語っている。

看板学部である医学部、歯学部付属病院と薬学部の一部(模擬薬局等)の敷地面積が17万8千平米(坂本キャンパス)、経済学部の敷地面積が5万1千平米(片淵キャンパス)、これに対して原爆で壊滅した長崎師範学校の跡地と隣接地に戦後作られた教育学部以下残りの7学部の敷地面積18万7千平米(文教キャンパス)という「資源」の差は、その象徴である。

 

戦後、長崎大学内部において、片淵の経済学部を文教キャンパスに統合する案は何度か浮かんでは消えた。

そもそも長崎大学の医歯薬系を除く学部を文教地区に集約するという案は、昭和39年の工学部新設にからんで湧き起こった。

造船の町長崎に国立工学部を新設するため、敷地として県から文教地区にあった工業高校のキャンパスを譲り受け、その代わりに経済学部の片淵キャンパスを県立高校の敷地として差し出すというものである。大学としては万々歳だが、そこには経済学部の意向は反映されていない。学部に協力をお願いするならば多少の優遇があっても当然だが、むしろ大学当局は、近い将来の移転を前提として経済学部の校舎維持予算を削りにかかった。そのため、戦後10年たっても木造校舎の窓のいくつかは原爆の爆風で歪んで開かない状態で放置されたままだったという。どうせ移転すればいま修繕費をつけても無駄になるからという理系らしい思考法である。いやならば移転に同意せよ、そうしたら文教地区に鉄筋の校舎を新設してやるよという、地上げ屋まがいの恫喝が学内で横行していた。

筆者の蔵書の中に昭和39年刊行の朝日ジャーナル編の「大学の庭」という単行本がある。

朝日ジャーナルという雑誌が連載していた記事を単行本にしたものだが、長崎大学の項は、ずばりこの経済学部の移転問題がテーマとして埋め尽くされている。

 

しかし、従来の合議制による大学のシステムでは当の経済学部自体がそれに反対する以上、それ以上は進められなかった。

せいぜい、予算配分で経済学部に冷や飯を食わす「嫌がらせ」が限界であった。

結局、昭和46年までの戦後25年間以上、経済学部の校舎は長崎原爆の洗礼を受けた古びた木造校舎のままであったし、大学の主だった建物は文教キャンパスに新設された。

 

しかし、小泉内閣以降の国立大学の法人化後はどうだろうか。

国立大学法人化以降は大学の各先生は公務員ではなくなり、一方で学長の権限が大きく拡大された。

今回の長崎大学の方針は、経済学部の片淵キャンパスを、一部分だけを残してあとは不動産として叩き売り、それで文教キャンパス内に新しいビルを作ろうというものである。

長崎大学は岡山大学、千葉大学、新潟大学等と同じく旧制官立医科大学を母体に、県下の官立専門学校をすべて統合してできた新制国立大学である。それぞれの大学とも、地域的に見れば「二番手大学」ではあるが、学部数もそれなりに多く、なかでも医学部は戦前からの講座制の学部であり、ほかの学部は文系を中心に学科目制の学部がほとんどである。

このため、どうしても学内の勢力図式的に歴代学長は医学部から選ばれることが多い。

ご多分に漏れず長崎大学の河野学長も、長大医学部生え抜きの医学部長だった。

これまでの経緯を熟知している学長には、(医学部出身の)歴代学長がなしえなかった60年越しの「偉業」を自分の手で達成したいという強い意志を感じる。

 

 

《参考》

 

 

長崎文化放送

産学官7団体のトップが話し合う26回目の「長崎サミット」が開かれました。長崎大学の河野茂学長は長崎市の片淵キャンパスの売却を検討していることを明らかにしました。 

長崎大学・河野学長:「経済学部を文教キャンパスに動かす方向。経済学部のキャンパスを売却した資金で、文教、キャンパスに多文化社会学部・情報データ学部・経済学部を一体にした建物をつくる」 河野学長は前回2月の長崎サミットで、片淵キャンパスの経済学部と、文教キャンパスの情報データ科学部・多文化社会学部を、長崎市常盤町にある県営常盤駐車場に移転することを検討していると表明しました。しかし、6月、少子化で移転候補の学部の一般選抜の競争率が平均で2倍を下回り、大学の改革や教育環境の整備を急ぐ必要性や財源の確保の見通しがつかないことなどを理由に断念を発表していました。 河野学長:「しっかり大学の機能を移して本学がしっかり生き残れるように」 一方、長崎商工会議所の森拓二郎会頭は次世代のリーダーの育成などを目的とした国際会議の誘致に取り組むことを明らかにしました。 長崎商工会議所・森拓二郎会頭:「世界中から2000名を超える若手リーダーが集まる大規模な国際会議、ワン・ヤング・ワールドの本大会のサテライトプログラムとして『平和』をテーマにしたワン・ヤング・ワールドピースサミットIN長崎。ぜひ産学官オール長崎で誘致に向けて取り組みたい」 「ワン・ヤング・ワールド」はヤング・ダボス会議とも呼ばれ、次世代のリーダーの育成とグローバルな交流などを目的としています。2010年にイギリスの首都ロンドンで第1回が開催されて以来、世界各地で毎年開催されています。会議では環境問題など6つの課題を議論していて、そのうち『平和』をテーマにした分科会を長崎市で毎年開催する計画です。国内外から合わせて300人規模の参加者を想定しています。 鈴木史朗長崎市長:「平和をテーマに若者の祭典が行われる。これを世界に発信する意味は大きい。MICE都市長崎のブランディングという意味でも大きな意味がある」 来年、春ごろの開催を目指していて、実現すれば国内では初めてとなります。

 

NHKより

 

 

長崎大学は情報データ科学部など3つの学部のキャンパスを長崎市中心部に移転させる計画を進めてきましたが、志願者数の低迷が続く中、現在ある資源を活用した大学の改革が急務であるなどとして断念したと発表しました。

長崎大学の発表によりますと、情報・デジタル分野の研究などで地元の企業や自治体との連携を強化しようと、去年8月以降、▽情報データ科学部、▽経済学部、▽多文化社会学部の3つの学部について、長崎市中心部の常磐町にある県有地に移転させる計画で検討を進めてきましたが、このほど断念したということです。

大学は計画を断念した理由として、▽少子化が想定以上のペースで進み、ことしの長崎大学の一般入試の前期の倍率が全体で2倍を切るなど志願者数の低迷が続く中、現在ある資源を活用した大学の改革が急務であることや、▽物価高の影響で建設費が高騰するなど財源確保の見通しが厳しくなったことなどを挙げています。

長崎大学は、今回は移転を断念したものの、各キャンパスの機能の再編や地元企業や自治体との連携強化については、今後、さらに検討を進めていくとしています。

【移転計画の経緯】
長崎大学によりますと、去年8月に開催された産学官7団体のトップが集まる「長崎サミット」で、出席者から産業やまちづくりに若者の発想を取り入れるためには長崎大学を町の中心部に移転させた方がいいなどという意見が出されたのをきっかけに、大学の「まちなか移転」計画が立ち上がります。

ことし2月の「長崎サミット」で、長崎大学は、現在、長崎市の片淵キャンパスにある「経済学部」と文教キャンパスの一部の「情報データ科学部」、それに「多文化社会学部」の3つの学部を移転の対象とすることを明らかにしました。

そのうえで、県や市の協力を受けながら、移転先の候補地として県が所有する長崎市の「常磐駐車場」と「常磐南駐車場」であることを表明していました。

その後、長崎大学は移転先として適切かどうかを検討してきました。

 

 

《参考》

 

昭和40年3月9日の長崎大学学長通達と同年3月22日の経済学部教授会決議に基づく回答

(長崎大学経済学部70年史「暁星淡く瞬きて」より)

 

(通達)

長崎大学施設総合計画

 標記のことに関しては3月13日付け長大経庶第88号をもって回答があったが、本職としては、2月19日の評議会の議決に基づき、貴学部は文教地区へ移転すべきものとし、今後諸施設等の整備に関しては、この基本方針に則り実施することと決定したのでご承知ありたい。

 

(回答)(40年3月22日)

昭和40年3月20日付通達によれば、かかる決定は大学自治の基本を破壊する暴挙であり、経済学部教授会はこれを拒否することに決し、即時その撤回を要求します。

 

  附記

経済学部教授会は、学部の自治を根幹とする大学自治の原理にたって、従来くりかえし学長の非民主的大学行政を批判し、反省を求めてきた。しかるに、学長は、いささかも自己を反省することなく、学部移転を強要してきた。とくに今回の通達は学長自ら大学の自治を破壊する暴挙であって、大学史上かってないこの暴挙を全国の大学人はこぞって非難し、その責任を追及しないではおかないであろう。学長が大学の自治を破壊している点は、次の如くである。

 

(1)学長が議長であったところの2月19日の評議会は投票によらず、また、経済学部関係の評議員の絶対反対にもとづく退場にもかかわらず、経済学部の文教町地区への移転を希望する旨を大学の意思とすると決定した。

1学部のみの教育と研究に直接重大なる影響をもつ学部移転の問題は、すでにくりかえし言明してきた如く、大学自治の原理にもとづき、当該学部の同意をえずしては、決定することができない問題である。

したがって、これに直接関係なき他の学部の意思をもって決定することは、大学自治の破壊である。この決定に参加した他学部評議員の責任はもちろんのことであるが、学長の責任は、強く追求されなければならない。

 

(2)2月19日評議会の決定は「移転希望」にとどめられたものであったが、今回の学長の通達は学長による「移転決定」の通告であって、2月19日評議会の議決から完全に逸脱している。しかるに、学長は、今回の通達においても、前回同様「2月19日の評議会の議決に基づき」と述べている。

これは、議決の内容を完全に歪曲し、責任を評議会に転嫁しようとする欺瞞的行為であって、学長自らかかる行為に出たことの責任は、何ものにもまさって重大であるといわなければならない。

 

(3)学長の移転決定は、当該学部の意思を完全にふみにじって行われたものであって、大学自治の完全なる破壊である。このことに伴って発生するであろうあらゆる事態は、学長に全責任があることを、再び、ここに、明確に宣言する。

                                                     』

 

 

 

 


前回の投稿から早いもので1年となった。

この間、コロナの影響や筆者自身も体をこわしたこともあってプライベートの活動が極限まで低下し、同時にPCに向かう機会も激減していた。が、政府のコロナの5類への移行が近いこともあって久しぶりにページの更新を行うことにした。

 

まずは、先日同窓会である又信会の理事会に出席したことである。

その議題でもあった香川大学経済学部100周年のことについて述べたい。

 

香川大学経済学部と法学部の前身、旧制高松高等商業学校が設置されたのは大正12年12月10日である。

勅令502号により文部省直観諸学校の定員令が改正され、官立高松高商の官制が初めて追加された。

すでに建築に着手されていた高松高商の校舎竣工は年末も押し迫ったクリスマスイブの12月24日だという。

これをもって、香川大学は本年11月中旬に100周年の記念式典を行うという。

本来ならば、旧制高松高商時代に開校記念日とされていた11月3日にすべきものである。上記日程の根拠がよくわからない。

 

そのせいなのか、同窓会である又信会は、経済学部の100年を祝うとともに、これとは別に3年後に又信会の創立100年を祝う。

これはわかる。

同窓会である又信会は経済学部単独ではなく、経済学部と法学部の両方の卒業生で構成されている。そのことから、学部の創立を祝うとするより、同窓会の創立記念日のほうが双方にとってバランスがいいということなのだろう。高松高商の最初の卒業式は昭和2年3月11日に行われ、その年6月の第一回同窓会名簿作成にあわせて「又信会(ゆうしんかい)」という名称を初めて使ったことを起点とする。

法学部の源流は昭和51年に新設された経済学部「経済法学コース」であるというものの、法学部の卒業生にも、すんなり、ともに100年を祝ってもらうとすれば、経済学部の100年より同窓会の100年を祝うとしたほうが自然ということである。

近年データサイエンス学部を新設した滋賀大学が、「経済学部の100周年」ではなく共通の源流とされる「彦根高商」の「創立百周年記念事業」としたことに通じる。理由として、これはよくわかる。


筆者として奇異に思うのは、香川大学経済学部当局の運営センスである。

上述のように創立記念式典の日付の根拠が希薄であることはひとまずおいておくとして、まだ政府の言うように月に本当にコロナの影響が収束するかどうか全然未確定な今年の秋にわざわざ行う必要があるのか?

そもそも、大学の過去の記録を確認すれば、現「校友会館」を新築寄付した経済学部創立50周年の起点は一期生が入学した開校の年、大正13年とされている。唯一の正史である「又信回顧三十五年」を編み、記念事業として現「又信記念館」を新築寄付したその前の創立満35周年についても、起点は同じである。
いっぽう、香川大学の1年前に前身校が創立された滋賀大学経済学部の100年記念式典は令和5年の今年に行われる。

これは、旧制彦根高商の第一期生を大正12年に受け入れて開校したことに起因する。

これがため、滋賀大はギリギリコロナの自粛期間外に挙行することになるわけだが、それを本校に置き換えてみればどうだろう。

 

大正11年創立の滋賀大に比べ、さらに1年の余裕がある香川大ならば、本来それを利用してじっくりと準備を行い、コロナで痛めつけられた卒業生や企業側の経済状況が回復のするのを待って、相応の周知期間と寄付を集めて挙行するのが正道である。

それを、まずは日程ありきで窮屈な日程で大慌てで準備することの意図がわからない。

同じやる以上、最大限の効果を求めるのが企業家マインドであろう。

それを官僚的というべきか、考えがないというべきか・・・。

高松高商より先に開校しコロナ禍のさなかの令和4年に100周年記念式典を行った九州の大分大学経済学部では、すでに準備がコロナ期間前に始まっていたこともあったのか、令和4年春までに1億4千万円の寄付を集めた。滋賀大学経済学部では、募集期間を3年間と多めに取って2億の目標で寄付を募集するのだという。「減ることはあっても増えることのない」(と思われる)地方国立大学文系学部の貧弱な予算の支援としては億単位の資金は馬鹿にできない金額であるはずである。

 

大分大学経済学部100周年記念碑除幕式

 

逆に、香川大学と同時に大正12年12月に設立された旧制横浜高商、すなわち近年は設備的にも偏差値的にも旧二期校時代のそれを回復したと思われる横浜国立大学経済、経営学部では、同じく意外にも100周年の記念事業の目標募金額は3千万円でしかない。もっとも同校は、創立時から首都圏所在で所轄官庁までの交通費がほとんどかからないという地の利の良さを生かした陳情名人である。歴代文部省から予算を引っ張り出すのに長け、創立時の旧校舎は「関東大震災」を理由に旧制高校のデフォルト規格である木造二階建の校舎ではなく、例外として鉄筋の本館を認めさせた。現在の保土谷常盤台キャンパス移転時(元は戦前からあるゴルフ場の程ヶ谷カントリー倶楽部)には、狭くて劣悪な学習環境が横浜国大の学生運動の激化を招いたという論理で広大な高台のキャンパスを要求し、旧帝大である大阪大学吹田キャンパスの倍の土地購入予算を分捕ったという実績がある。無理をしなくても別段、手元不自由は感じていないということだろうか。

 

まあ、学部スタッフの明快な意思として、算術よりも学術を重視されるならばそれはそれで尊重すべきことなのだと思うが、文系学部と言ってもいまや昔のようにチョークと黒板だけで学部教育が運営できるというものではない。

先立つものがなければ、研究以外のことに多大なエネルギーを割かれることは文系・理系を問わず全国の多くの研究者が実感していることだと思う。

ならば、そこは創意と工夫の問題ではなかろうか。

その昔、高度経済成長期までは銀行には「預金獲得競争」なるものがあり、銀行の創立50周年、60周年、果てはマスコットキャラの制定記念や支店単位の30周年、40周年や店舗の改築記念といったものまで持ち出して取引先から預金をかき集めるネタとした。全国の銀行の預金商品の金利がほぼ同一の「護送船団方式」の時代ならでは話ではあるが、だからこそ大ネタから小ネタまでたんねんに拾って少しでも自分のところに有利になるよう工夫したものである。

ひるがえって、今の全国の地方国立大学文系学部の現状を見るに財務、予算から入試状況に至るまで、とても殿様商売を気取っていられる状況ではないはずである。国立大学の法人化以降、図書館の専門雑誌購入費用すらカットされ、研究者が自腹を切る風景は当たり前になった。すでに旧帝大に統合された大阪大学外国語学部でさえマイナー言語の学科では購読費の工面に苦慮しているというし、日本唯一の陣容を誇る東京芸術大学の音楽学部でさえ、老朽化した教室や楽器の整備に予算が出せず、悲鳴を上げているのはマスコミに何度も取り上げられている。

 

ならばこそ、とっくの昔に経済学部の看板をおろして過去とは一線を画し、「経済経営学類」に改組されてしまった福島大学でさえ、コロナ禍で祝賀会こそ自粛したが母校100年にあわせて2017年に創立95周年記念事業として立ち上げた「福大経済100周年基金」については看板架け換え前の古い経済学部卒業生たちに訴え、募集期限の令和4年までになんとか目標額の5千万円の寄付を達成した。戦時中に高岡経済専門学校から工業専門学校に転換され、母校が富山大学工学部になったあと、旧制富山高等学校の新制大学文理学部転換によりちゃっかり高岡市ではなく富山市の五福キャンパス内に経済学科として新発足した富山大学経済学部でさえ、一度廃校となり分断された高岡高商こそ前身校だとして持ち出し、富山大学経済学部(旧制高岡高商)創立100周年記念事業として1億円の募金活動を進めている。五福キャンパスの校舎のリニューアルや、寄附講座の創設などか目的だという。

せっかく「ネタ」があるのに、使わないというのはもったいない話ではなかろうか。

 

>J-CASTニュース 2016年04月26日13時37分

大阪大学図書館の「悲しすぎる台所事情」 
外国語学部なのに「中国語研究」「ロシア月報」など70冊購読中止


  大阪大学外国語学部に附属する外国学図書館(大阪府箕面市)が、70冊を超える雑誌の購読中止を決めた。キャンパス内の図書館に雑誌の購読中止を知らせる張り紙が掲示され、学生から「まともな研究が出来なくなるのは残念」と困惑の声が上がっている。
   背景にあったのは資料費の大幅な削減。同じような問題は他大学でも起きており、大学図書館の台所事情が急速に悪化している。

 

予算激減で「新刊本が購入できなくなる」
   「決して独断と偏見で決めたわけじゃないんです」――外国学図書館の担当者はJ-CASTニュースの取材にこう答える。同図書館は、70冊にものぼる雑誌の購読契約を2016年度から打ち切った。購読中止が決まった雑誌の一覧は、貼り紙で館内に掲示。それを見ると、「AERA」「週刊東洋経済」など公立図書館でも読める一般誌だけでなく、「ロシア月報」や「英文學研究」「中国語研究」「フランス語学研究」といった外国語学部には必要と思われる学術雑誌も対象となっている。

   主な原因は、書籍をはじめとした学生用の資料に使える予算の激減だ。

「16年の1月に入って、16年度の学生用資料の予算が大幅に減らされることが分かりました。年々減ってはいたのですが、16年度の減り具合はかなり大きかったです」
   雑誌のほとんどは定期購読の契約で購入されている。予算の削減にともなってこうした購読料が財政を圧迫し、新刊本を購入する余裕がなくなった。「このままでは新刊本を購入できなくなる」―。そうしたやむを得ない事情もあり、雑誌の定期購読契約を更新する15年度末までに購読中止を決断した。

   図書館側は関係者らと対応を協議し、外国語学部の教員らにもアンケートをとった。そのうえで、購読を中止する雑誌をピックアップしたという。

「お金がないので、優先順位が高いものを残しました。公立図書館で読めるものや、特定分野にしか需要のないものは削らざるをえませんでした。どの専攻にも共通して必要と思われる雑誌を残すようにしています」
   現在、特定の専門分野でどうしても必要な雑誌は、個別の研究室などで購入してもらうよう教員に依頼しているという。とはいえ、同学部の言語専攻は全部で25を数える。これだけの雑誌を一度になくして、研究に支障は出ないのか。

「研究に支障が出ない、と言えば嘘になりますが、すべての雑誌を購入するのは予算の関係上とても無理です。今後も、ごく特定の分野に偏らない、共通に必要と思われる雑誌があれば契約を検討しますし、場合によっては今回購読中止となった雑誌の『復活』もありえます。ただ、いずれも予算次第ですね」
雑誌「Newton」を教員個人の「寄贈」で存続した大学も
   図書館側の決定を阪大外国語学部の学生はどう感じているのか。取材に応じた、ある学生は「せっかく阪大外国語学部に入ったのに、まともな研究が出来なくなるのはとても残念です」と複雑な心境を明かす。

   購読中止の影響について尋ねると、「専門の学術誌や、この図書館のみ所蔵の雑誌も多いので、影響はとても大きいと思います」と心配の声を寄せた。この学生は、図書館内に設置されている目安箱(投書箱)に意見書を投げ入れたという。

   大阪大と同じようなことは、他大学でも起こっている。関東の、ある理系の国立大学の附属図書館は35冊を超える雑誌の購読を2016年度から中止した。購読中止が決まった雑誌の一覧には、一般誌に混じり、やはり大学の専門分野であるエネルギーや情報技術に関係する学術雑誌も含まれている。

   J-CASTニュースが取材したこの大学担当者は「(35冊も購読を中止した例は)ありません」と答える。原因については、阪大と同じく「予算削減のため」だと明かした。

   ただ、こちらは教員による支援の動きが見られた。当初、購読中止が発表されていた科学雑誌「Newton」が教員の「寄贈申告」によって、一転、残される方針に改まった。

   教員個人の力も借りなければやっていけない――。大学図書館のそんな苦しい台所事情が日本のあちこちで露わになっている。

 

 

>財政危機に瀕する東京藝大、学長の「経費節減」メールを入手「毎年4500万円も交付金が減る!」


2023/2/16(木) 11:02配信


 国内唯一の国立総合芸術大学である東京藝術大学が、運営費不足により危機的な状況にあることがわかった。きっかけは、2月2日に同大学の学生が投稿したツイートだ。《藝大、本当にやばいかもしれない、、、、》とのつぶやきとともに、1つの画像が張りつけられていた。

 その画像は、学校から学生に送られてきたメッセージで、【練習室ピアノ撤去について】と題し、「大学の予算削減のため、(中略)2部屋のピアノを撤去することとなりました」との告知文があった。

 同大総務課は、本誌取材に《「練習室ピアノ撤去について」というお知らせを行ったのは事実です》とツイートの内容を事実だと認めている。

 藝大関係者が、大学の苦境を明かす。

「今回撤去されるのは、音楽学部のピアノ専攻ではなく、弦楽専攻の練習室のものです。ですから、ピアノ専攻の学生に影響はありません。

 しかし、音楽学部では、専門の楽器のほかに副科として別の楽器を履修することになっていて、弦楽専攻の学生はそこでピアノを選ぶことがほとんどです。2台減れば、副科の練習時間が削られることは避けられないでしょうね」

 国立大学は2004年の大学法人化以降、運営費交付金を毎年1%ずつ削減されており、2022年度、藝大の運営費交付金は50億円弱までに減った。857億円(2022年度)もの支給を受けた東大は別格としても、これは全国の国立大学中でも下位レベルになる。

 もっとも、今回の財政危機の要因はほかにもあった。

 2022年11月に日比野克彦学長から教職員らに送られたメールを本誌は入手。「本学の財政状況について」というタイトルに続く文面にはこう綴られている。

《今年度の電気代について、当初の予算計画では約1千万円/月だったところ、現時点では約3千万円/月となる見込みです。今後もエネルギー価格が高騰することが予想され、来年度の電気代は約4千万円/月に上ることが試算されており、ガス代についても、今年度から年間で約2千万円増加しています。

 光熱費以外にも、インボイス制度への対応に伴う支出増や、社会保険料の負担増、人件費・資材費の高騰、基盤的な運営費交付金の削減(毎年度4,500万円減)等も重なり、来年度以降の本学の財政状況はさらに厳しくなる見通しです》

 こうした収支の悪化に対し、緊急措置としてさまざまな財源を取り崩して対応してきたが、これ以上は困難のため、大学全体であらゆる経費節減と、外部資金や収入の獲得に協力してほしいと日比野学長は呼びかけた。

 先の関係者が続ける。

「格安電力会社の電気料金が、円安による石油価格等の高騰のため、大幅に値上がりしていることはご承知のとおりです。藝大も同じで、契約した電力会社からの請求が、当初の予想を大きく上回る金額になったのです。

 日比野学長も『とにかく節約できるところはしてほしい』と教授会などに出向いて話しています。『この歳になってカネのことで頭を下げることになるとは思わなかった』と、ボヤいているそうです」

 そもそも藝大は、他大学のような産学共同研究など外部資金を導入する “ネタ” が少ない。これまでも、交付金以外の資金はほぼOBや芸術に理解がある企業や個人からの寄付金頼みだったという。

 すでに学費、学食の値上げや、藝大図書館の資料の買い入れ縮小の検討がおこなわれているが、小手先感は否めない。それだけ、藝大の置かれている状況が危機的ということだ。

「2015年に文科省が出した『国立大学経営力戦略』という通達以降、『競争的経費節減』という名目で、職員数も含めた数々の経費削減方針が各大学から打ち出されています。もちろん、国立大学も経営的な自立は必要ですが、研究教育機関にはそれぞれの事情があります。

 藝大美術館にはOBの作品が数多く収蔵されていて、国宝級の作品もあります。展示するには修復が必要ですが、現状では修復費用はほぼ出ない状況です。このまま展示できないなら売却しようといった話になりかねません。

 一方で、国際協力機構(JICA)は、たとえばモロッコの基礎教育のために220億円(2022年)も出しているんです。政府の教育行政の矛盾を感じます」

 非常時には文化予算は削られがちだ。脈々と続く文化の灯を絶やさぬよう、日比野学長には藝大存続のために手腕を発揮してほしい。
 

昭和初期の満州事変・日中戦争からはじまる軍部の総動員体制はよく知られている。

そのなかであるひとつの政策を文部省が推進した。

それは、兵器開発・増産のための人材養成である。これを受けて、1939年(昭和14年)に官立高等工業学校の大増設が行われた。官立の室蘭高等工業学校(北海道)、盛岡高等工業学校(東北)、多賀高等工業学校(関東)、大阪高等工業学校(近畿)、宇部高等工業学校(中国)、新居浜高等工業学校(四国)、久留米高等工業学校(九州)の7校である。


しかし、戦局の悪化とともに軍部の要求・文部省の圧力は勢いを増し、ついに太平洋戦争中には全国にあった官立の高等商業学校、文系私立大学を工業系の学校に転換せよという乱暴な政策が推し進められた。

軍部が実権を握る政府内部には、「私立大学は早稲田の政治や中央の法といった一部の看板学部だけを残してあとは全部閉めて(兵隊に送って)しまえ」というような意見もあったようである。そういった空気を忖度したのか、1943年(昭和18年)10月に行われた「最後の早慶戦」では、舞台となった早大戸塚球場に開催に前向きな慶応側からは小泉信三塾長を筆頭に多くの教職員が観客席に陣取ったのに対し、文部省を刺激することを嫌った早大側は上からのお達しが徹底していたのか教員の姿はほとんどなく、「これがかつて早慶戦の切符を一枚でも多く寄越せとねだった早大教授陣の姿か」と早大野球部名物監督飛田穂洲をして憤慨させたという。

 

いずれにしても文部省の意向を感じ取って、慶應義塾は王子製紙の藤原銀次郎社長から藤原工業大学の寄贈を受けて工学部を設立した。ほかの私立大学もこぞって理工系の学部の新設に乗り出している。そしてそのいっぽう、当時全国に2校あった官立商大、11校あった官立高商は軍部と文部省の圧力に屈し、大幅に改変を迫られる。
すなわち、一ツ橋こと東京商科大学は東京「産業」大学に、神戸は神戸商業大学から神戸「経済」大学に、全国の高商は比較的文部省に協力的とされた5校(小樽、福島、山口、高松、大分)のみが経済専門学校と看板を架け替えて残され、彦根、高岡、和歌山の3校は工業専門学校へ改組、名古屋、長崎、横浜の3校も商業経済系教授陣を大幅に整理して工業経営専門学校への改組が決まった。
いま富山市の五福キャンパスにある富山大学工学部は、このとき1944年に廃止となった高岡高商が転換してできた高岡工業専門学校(発足時、機械科・化学工業科・電気科・金属工業科を設置)が戦後老朽化したキャンパスから五福に統合移転したものである。

結局、翌年の終戦により高岡を除く5校は工業専門学校化を取りやめて経済専門学校に復帰し、それが現在の国立大学経済学部(小樽商大は商学部)となっている。
振り返って見れば大騒動であったわけだが、何か似たようなことが最近行われているような気がする。

それが、各地方大学における経済学部の改組の動きである。
言い方に語弊があるかもしれないが、すでに自民党と文部科学省は地方国立大学の役割分担を理系人材の養成に舵を切っているように思える。養成にカネのかかる理系は科学技術振興の観点から国立大学が担い、逆に文系については都会の私立大学に担わせる。よって、地方大学の文系学部は必要最小限にとどめ、なるべく国の財政負担を軽くする。

すでに、官立第三高商の名門だった長崎大学経済学部は、1997年(平成9年)にそれまでの経済学科、経営学科、ファイナンス学科を総合経済学科 (7コース制) に改組された。
2014年に多文化社会学部を新設して学部定員を減らし昼間4コース制に改組し、さらに今年からは経済と経営の2コース制に移行するなど、正直まだ模索中の気がする。

香川大学経済学部でも2018年から経済学科の1学科5コース制に移行している。
そして、今春から滋賀大学経済学部も総合経済学科の1学科に改組となる。
筆者も香川大学経済学部の改組にあたって教授陣から聞かされ大いに憤慨したが、今回の滋賀大の件も「やっぱり」という感がする。
あるいは、国立大学初のデータサイエンス学部新設とバーターの取引が文科省側となされていたのだろうか?
本件について述べられている山内太地氏の動画を下にご紹介しておくが、筆者もまったく同感であり、学部改革がこのような方向で行われたことは実に残念な話である。
 

 

「山内太地の大学イノベーション研究所」より