晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

「阪俗研便り」希望者受付
大阪民俗学研究会では、講演、マチ歩き情報満載の「阪俗研便り」配信の登録を受け付けています。
ご希望の方は、氏名、電話番号をお書き添えの上、tano@folklore-osaka.org
まで、直接メールいただきますようお願いします。毎週無料でメール配信します。 田野 登

大阪あそ歩で「海老江・浦江いま昔」をガイドします。

2024年4月15日、下見に歩きました。

集合場所は、ここです。

写真図1 野田阪神藤棚の下

阪神本線野田駅南の広場です。

大阪メトロ「野田阪神駅」、JR東西線「海老江駅」下車、地上です。

福島区の花は「のだふじ」です。

お目当ては鷺洲の浦江聖天(福島聖天)の藤、今年や如何?

かつて「海老江の芦屋」を謳った石畳路地をソーロっと抜けます。

気になるのは、「大和田街道・梅田街道」石柱と地図です。

ここで一くさり。

福島区歴史研究会顧問の末廣訂さんからいただいた地図で

街道筋の確認をします。

 

海老江の町で見かける「稚児行列」のポスターです。

写真図2 「稚児行列」のポスター

「鷺州山 南桂寺」が親鸞聖人七百五十回御遠忌、

本堂屋根修復落慶法要の稚児行列のお稚児さん募集です。

お寺にとっての慶事に際し、古式の衣装で着飾り、町を練り歩くのです。

海老江やのに山号が「鷺州山」とは、これ如何?

「鷺洲」の村名・町名の話を一くさりしましょう。

海老江の伝統は宮座の神事、ダンジリ宮入だけではありません。

町中の酒屋の陳列棚の「松竹梅」は奥にあって、

据えられているのは、鎧兜の五月人形です。

早くも初夏を感じさせられワンショット。

写真図3 酒屋の五月人形

かつての水郷・海老江の井路(いじ)川跡をたどり、

かつての南浦江・鷺洲に出ます。

ここでホッと一息。

鷺洲小学校を左手・北に東進しますと、

バスの停留所の先が鷺洲交差点です。

今回、小学校前の歩道橋からのショット。

写真図4 小学校前の歩道橋からの東の眺め

道路が左折・北向きにカーブする所を直進するのが

聖天通り商店街です。

聖天さんやからか、巾着「きんちゃく」を掲げています。

ここまで来ると夕暮れ時なら聖天さんの晩鐘が聞こえてきます。

聖天さんは、聖天通りの左手・北です。

ここまで来ますとホテル阪神のロゴがある、

ベージュ色の高層ビルが見え隠れします。

子どもの頃、阪神の福島駅のあった場所です。

 

聖天さんには、聖天通りの傍らから参ります。

すると、この奇観に出くわします。

写真図5 浦江聖天(福島聖天)了徳院境内

正面には聖天さん本堂前に般若心経塔が立派に立っています。

その借景となるのは、高層のタワーマンションです。

右手は「シティタワー西梅田」左手は「シェリアタワー大阪福島」です。

「梅田」と「福島」が錯綜する「今」のエリアです。

その場所は福島区鷺洲、元の浦江です。

手前の保育園「和光園」の金網に藤の花を見つけました。

浦江の聖天さんは、江戸の文人・蜀山人が野田の藤を見物したついでに

立ち寄り「花大なりめづらしき藤なり」と『葦の若葉』に

綴ったスポットでもあります。

池は四季折々に目の保養になります。

写真図6 聖天さんの弁天池

往時、杜若の名所でもありました。

さて今日や如何?

当日は、売れても占い商店街「福島聖天通り商店街」を東進し、

JR大阪環状線「福島駅」で解散します。

野田から福島まで、一駅をたっぷり3時間以内でガイドします。

お申し込みは、大阪あそ歩事務局まで

  ↓アクセス

まち歩きコース一覧から選ぶ|大阪あそ歩 (osaka-asobo.jp)

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師

大阪あそ歩公認ガイド  田野 登

今週の「暮らしの古典73話」は「名告り(結)」です。

前回、示しましたように、「暮らしの古典」での「名告り」を       

最後の戦に出陣する木曽義仲の名告り110字程度に焦点を絞りました。

本ブログでは高校での「古典」の定番を載せています。

写真図 甲冑姿の木曾義仲イラスト

テキストは『平家物語二』(日本古典文学全集30、小学館、1975年)を用います。

適宜、私的に漢字を宛て、原文に振られたルビは現代仮名遣いに改めます。

◆鐙(ルビ:あぶみ)踏ンばり立ちあがり、

大音声(ルビ:だいおんじょう)を上げて名のりけるは、

「昔は聞きけん物を、木曽の冠者、

今は見るらん、左馬頭(ルビ:さまのかみ)兼伊予守朝日の将軍木曽義仲ぞや。

甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによい敵ぞ。

義仲討ツて兵衛佐(ルビ:ひょうえのすけ)に見せよや」とて、をめいてかく。

今回は、兵衛佐からです。

 

 兵衛佐 

「義仲討ツて兵衛佐に見せよや」の「兵衛佐」に注目します。

「兵衛佐」が源頼朝であることが自明のこととして、

この段では註が付されていないようですが、

ここで穿鑿することは、作中の義仲の性格を捉える上で大事と考えます。

抑も「兵衛」とは如何なる役職なのでしょうか?

*『国史大辞典』:『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、1992年

まず「兵衛」の項の記述を拾い上げます。

◆律令制下、天皇の側近にあって宿衛などの任にあたった武官。(中略)

9-10世紀には新たな地方有力者が台頭する一方で

兵衛の重要な武力の基盤であった

伝統的な地方豪族層が分解していったため、

兵衛はその独自の存在意義を次第に失った。…

「義仲の最期」の時は寿永3(1184)年正月です。

時既に疾く閑職と成り果てています。

その上「兵衛佐」です。

「兵衛府」に「佐」を確かめました。

◆・・・・『養老令』では他の衛府と同じ督・佐・大少尉の称に改められた。

「すけ」は「かみ」に次ぐ二等級の職です。

 

建久3(1192)年に征夷大将軍となる頼朝が何たることでしょう。

頼朝の『平家物語』初出は治承3(1179)年のことです。

江大夫判官遠成と子息家成は清盛の命に攻められ東国に落ちようとする時の

親子の言い合わせの言葉に「頼朝」が見えます。

◆「東国の方へ落ちくだくだり、伊豆国の流人、

前右兵衛佐頼朝をたのまばやとは思へども、

それも当時は*勅勘の人で、身一つだにもかなひがたうおはすなり。

(中略)とて、

川原の宿所へとて取ツて返す。…*勅勘:天子のとがめ

 

「伊豆国の流人、前右兵衛佐頼朝」とあります。

「前兵衛佐頼朝」頭注は以下のとおりです。

◆源頼朝。平治の乱に敗れて捕えられ、伊豆国へ流されていた。

平治元(1159)年12月14日右兵衛権佐になり、同28日解官。…

 

流されて19年後にあって、なお勅勘の人であり、

義仲をして頼朝を「兵衛佐」たる卑官呼ばわりしているのです。

二人の間の確執が言葉遣いから読み取られます。

この確執について『国史大辞典』「源義仲」記事から若干の補足をします。

 *『国史大辞典』:『国史大辞典』第13巻、吉川弘文館、1992年

◆*(寿永2*(1183)年7月)

 後白河法皇は義仲を伊予守に任ずるが、

 頼朝を勲功第一として上洛を促して義仲を牽制、

 さらに大軍の京都駐留・兵糧徴収問題や、

 安徳天皇の皇位に義仲が以仁王の皇子北陸宮を

 強く推したことなどもあって、

 両者の間隙は急速に拡大した。…

 

権謀術策に長けた後白河法皇による義仲への牽制もあって

両人の不仲が助長されたことも否めません。

テキストに戻りますと、

義仲は「義仲討ツて兵衛佐に見せよやとてをめいてかく」とあります。

 見せよや 

テキストの頭注に「見せよや」はありません。

広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店の「実検」には

次の記述があります。

◆じっ‐けん【実検】

 ある事の実否を検査すること。実情を吟味すること。

 平家物語(11)「内裏にて賊首の―せられん事然るべからずとて

 大臣殿の宿所にて―せらる」

 

*国語辞典の「首実検」に次のようにあります。

 *国語辞典:『明鏡国語辞典』大修館書店、2003年

◆昔、戦場で討ち取った敵の首が本人のものかどうか、

 大将が自ら検分したこと。

 

この場合、頼朝が義仲の首を見ることです。

生首を槍に挿し進軍する絵を目にすることがあります。

 をめいて 

「をめいて」を探るべく*『日本国語大辞典』の「おめく」に当たりました。

 *『日本国語大辞典』:『日本国語大辞典』第2版第2巻、小学館2001年

◆お-めく[喚・叫](自カ四)(「お」は擬声語、

 「めく」は接尾語)大声をあげて叫ぶ。

 叫び声をあげる。わめく。

 

テキストの「をめく」が語幹がワ行であるのにア行に転換されております。

「わめく」なら段がア段に転換されています。

17世紀初頭出版の*『邦訳 日葡辞書』に当たりました。

 *『邦訳 日葡辞書』:土井忠生ほか編訳『邦訳 日葡辞書』

  1980年、岩波書店

◆Vomeqi,qu,eita ヲメキ,ク,イタ(喚き,く,いた)大声をあげて叫ぶ.

 例, Futacoye,micoye fodo vomecareta.(二声三声程喚かれた)

 二声か三声大声をあげた.

 

ポルトガル語表記"Vo"は日本語表記「ヲ」に対応します。

『平家物語』テキストの発音が近世初頭まで行われていたことになります。

 かく 

「をめいてかく」の「かく」や如何?

『広辞苑 第七版』 ?2018 株式会社岩波書店では「駆ける」から入ります。

◆か・ける【駆ける・駈ける】

《自下一》 か・く(下二)

①馬に乗って走る。平家物語(9)「木曽さらばとて、

 粟津の松原へぞ―・け給ふ」

 

用例は『平家物語』巻9「木曽の最期」です。

言い切りの形「終止形」は「駆ける」ではなく「駆く」で、

下二段で活用する動詞でした

 

ここまで73回、高校での古典の授業で話しきれなかった話題を綴りました。

次回の「暮らしの古典」からは、しばらく葦を踏み分け、

万葉の世界を訪ねることにします。

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

前回、示しましたように本ブログ「名告り」を

「木曽義仲の最期」として語られる

最後の戦に出陣する源義仲の名告り110字程度に焦点を絞りました。

 

テキストは前回と同じく『平家物語二』

(日本古典文学全集30、小学館、1975年)を用います。

適宜、私的に漢字を宛て、

原文に振られたルビは現代仮名遣いに改めています。

◆鐙(ルビ:あぶみ)踏ンばり立ちあがり、

  大音声(ルビ:だいおんじょう)を上げて名のりけるは、

 「昔は聞きけん物を、木曽の冠者、

 今は見るらん、左馬頭(ルビ:さまのかみ)兼伊予守朝日の将軍

 木曽義仲ぞや。

 甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによい敵ぞ。

義仲討ツて兵衛佐(ルビ:ひょうえのすけ)に見せよや」とて、

をめいてかく。

 

今回は、「左馬頭兼伊予守朝日の将軍木曽義仲」からです。

これが義仲の名前です。

長ったらしいですが、

ちゃんと名目上の肩書き示し布告しているのです。

以下、継ぎ接ぎだらけの語釈を試みます。

 左馬頭 

「左馬頭」(さまのかみ)や如何?

『国史大辞典』の「馬寮」(めりょう)に次の記述があります。

◆律令制下、政府の馬の管理をした官司。(中略)

 『大宝令』で、太政官管下に左右馬寮を設置。(中略)

  長官の頭は従五位上相当。(中略)

  諸牧馬貢進は平安時代中期には衰えたが、

  武官として治安警察の任につく馬寮官人の地位は重視され、

  中世以降まで続いた。

 

「昔」こそ田舎武士たる「木曽の冠者」であれ、

名告りの最後に挑発する文句に

「兵衛佐」呼ばわりされる源頼朝と比較して

「左馬頭」は位が高く、義仲自身の自尊意識を演出して語られます。

「伊予守」(いよのかみ)や如何?

 伊予守 

「伊予」は、今の愛媛県の旧国名です。

「伊余」「伊与」が宛てられますが、

「よ」は「ゆ」であって「湯」、道後温泉のある

「湯の湧き出る国」であります。

「かみ」は、前掲『広辞苑』に次の記述があります。

◆かみ【長官】(上の意)

  律令制の四等官(しとうかん)の最上の官。官庁によって文字が異なり、

  太政官では「大臣」、神祇官では「伯」、省では「卿」、

  弾正台では「尹」、坊・職では「大夫」、寮では「頭」、司では「正」、

  近衛府では「大将」、兵衛府・衛門府などでは「督」、

  国では「守」

  (826年以降、上総・常陸・上野では介(すけ)を守、長官を太守と称)と

  書く。

 

この記事から「さまのかみ」は、左馬寮の一等級の長官は「頭」、「左馬頭」

「いよのかみ」は、伊予国の一等級の長官は「守」、「伊予守」となります。

強いて云えば、現在の愛媛県知事でしょうが、当時は名目上の肩書です。

「さまのかみ」「いよのかみ」いずれも一等級の官位を名告っております。

 朝日の将軍 

これに続く「朝日の将軍」や如何?

前掲『集成』本の「朝日の」頭注を挙げます。

◆この合戦の5日前、1月15日に義仲は征夷大将軍の院宣を受けた。

  「朝日」は私称で、

  北陸で根拠地としていた越中宮崎(現朝日町)が南方に

  朝日岳を望む地であったところから、

  義仲の栄誉の象徴として称したものであろう。

 

直前に院宣を受けて授かった称号「将軍」を織り込んでいるのです。

冠称としての「朝日」は、ゆかりの山岳の名称を引いたもののようです。

まことに旭日に輝く山岳を「栄誉の象徴」としてあしらったわけで、

実に意気軒高な仮名「けみょう」であります。

 義仲 

「源義仲」の「義仲」は、元服前の名前「幼名」に代わっての

実名「じつみょう」です。

相手方は呼び捨てです。

 一条次郎 

「甲斐の一条次郎とこそ聞け」につきましては、

前掲『集成』本の「冠者」の頭注引用箇所の続きに次の記述があります。

◆なお「一条の次郎」と呼んだ相手の名には

  無官の田舎武士にとどまることが意識されている。

 

発語「聞け」に注目しますと、

義仲は実際に、この名告りをあげる前の場面に今井兼平から、

その名を聞いているからです。

写真図 木曾義仲イラスト

    向かって右の武将が今井四郎兼平

「聞け」は係助詞「こそ」を受けての已然形で、

別に偉そうに言っているわけではありません。

『全集』本から今井兼平と木曾義仲との会話の場面を引用します。

◆京よりおつる勢ともなく、勢田よりおつる者ともなく、

 今井が旗をみつけて三百余騎ぞはせ集る。

 木曽大きに悦びて、

 「此勢あらば、などか最後のいくさせざるべき。

 ここにしぐらうてみゆるはたが手やらん」。

 「甲斐の一条次郎殿とこそ承り候へ」

 

義仲の問いに対して今井は「甲斐の一条次郎殿」と

敬称の「殿」を付けて一条次郎の名を告げています。

尤も一条次郎が無官であったことは、

巻第四「源氏揃」の名前列挙の記述からも明らかです。

◆「まづ京都には、出羽の前司光信が子共、伊賀守光基(中略)

 甲斐国には*(10名中、6番目に) 一条次郎忠頼(中略)

 木曽の冠者義仲、伊豆には、流人前右兵衛佐頼朝、(中略)

 陸奥国には故左馬頭義朝が末子、九郎冠者義経、

 これみな六孫王の苗裔、多田新発満仲が後胤なり。(中略)」とぞ申したる。

 

「出羽の前司」「伊賀守」といった

肩書きが実名の前に仮名として称えられています。

当時、無官であった義仲には「木曽の冠者」と仮名が付いているの対し、

「一条次郎忠頼」は、

仮名に肩書きがなく、無官であったことは明らかで

作中の義仲が

「無官の田舎武士にとどまることが意識されている」と

言えなくもありません。

 

最終回は、源頼朝が義仲の口から告げられます。

頼朝・義仲関係や如何?

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師 田野 登

今週の「暮らしの古典71話」は「名告り(前篇)」とします。

菜種梅雨を思わせる長雨から脱し、桜も開花し4月になりました。

学校では、入学・進級があり生徒たちは新しい友だちと出会います。

担任をしていた時、

苦労しましたのはHRの生徒どうし自己紹介しあう時間です。

写真図 学校での自己紹介のイラスト

 

いきなり「自己PRをやってください」と要求したところ、

最初は白けていました。

今、思えば多様な生徒たちがいて、

自己紹介すること自体に抵抗感があった生徒もいたことでしょう。

 

今回の「暮らしの古典71話」は、武士の自己紹介ならぬ

「名告り」を取り上げます。

武士の「名告り」にはオーラのような霊気を感じさせるものです。

名告りは戦場にあって、軍団の気持ちを高ぶらせる行為です。

高校での「古典」の授業で『平家物語』の「木曽義仲の最期」を何故か、

三学期に教えたものです。

時あたかも「薄氷は張ったりけり、深田ありとも知らずして・・・・」を

声を嗄らしながら一所懸命に朗読したものです。

 

今回、最後の戦に出陣する木曽義仲の110字程度の

名告り記事に焦点を絞ります。

テキストは

『平家物語二』(日本古典文学全集30、小学館、1975年)を用います。

適宜、私的に漢字を宛て、

テキストに振られたルビは現代仮名遣いに改めます。

◆鐙(ルビ:あぶみ)踏ンばり立ちあがり、

  大音声(ルビ:だいおんじょう)を上げて名のりけるは、

 「昔は聞きけん物を、木曽の冠者、

 今は見るらん左馬頭(ルビ:さまのかみ)兼伊予守朝日の将軍木曽義仲ぞや。

 甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによい敵ぞ。

義仲討ツて兵衛佐(ルビ:ひょうえのすけ)に見せよや」とて、をめいてかく。

 

「左馬頭兼伊予守朝日の将軍木曽義仲」が名前です。

ずいぶん長ったらしいですが、

ちゃんと名目上の肩書き示しPRしているのです。

以下、継ぎ接ぎだらけの語釈を試みます。

 

 

まず「鐙」ですが、「あぶみ」と読みます。

*『大言海』の「鐙」には、

「足踏(ルビ:アシフミ)ノ略(足掻(ルビ:アシカキ)、あがき。

足結(ルビ:アシユヒ)、あゆひ)障泥(ルビ:アフリ)モ、

足触(ルビ:アシフリ)ノ略ナリ」とあります。

 *『大言海』:『新編 大言海』冨山房1982年、「鐙」

「あじろ」が「網代」であったりもするように、

「あぶみ」は「足」を意味する一音節「あ」に

動詞が付いた複合語というのです。

用字につき*『大漢和辞典』親文字「鐙」の末尾に

「あぶみ」が挙げられています。

 *『大漢和辞典』:『大漢和辞典』巻11修訂版、1985年

中国の漢字字典『正字通』からの引用は以下のとおりです。

◆鐙、今馬鐙、馬鞍両方旁足所レ踏也。

 

鞍の両側にあって、足で踏ん張る所にある馬具です。

名告りをする際、立ち上がって、敵を威圧する姿勢を取ります。

敵をビビらせるのに少しでも大きく見せるのです。

そして大声で堂々と自分を紹介するのです。

 大音声 

「大音声」は『広辞苑 第七版』 ?2018 株式会社岩波書店に拠りますと

「だい‐おんじょう」と読み「大きな音声。おおごえ」を意味します。

『平家物語』では、「大音声」は、32例用いられていますが、

そのうち15例は「なのり」に用いられ、当該の用例のごとく

「大音声を上げて名のり」が常套句となっていました。

 なのり 

「なのり」は『広辞苑』の「な‐のり【名告・名乗】」に

次の記述があります。

◆①自分の名・素性などを告げること。

また、その名。特に、武士が戦場でおこなうもの。「―を上げる」

 

戦場における名告りは、

声を張り上げて軍陣を鼓舞するパフォーマンスでもありました。

 昔は聞きけん物を 

昔は聞きけん物を」につき、*『平家物語全注釈』の

「日来は聞きけんものを」頭注に次の記述があります。

 *『平家物語全注釈』:『平家物語全注釈』下巻(一)

(日本古典評釈・全注釈叢書、角川書店、1967年)

◆日頃は聞いていたであろうな。『覚一本』には

「昔は聞きけん物を、木曽の冠者今はみるらん、左馬守云々」とある。

「昔」は「今は」が対句の形であったのを、

「日来は」と変わったもので、*〈( )内省略〉

「日来は木曽の冠者の名を聞きけん物を、

今は左馬頭・・・・源義仲ぞや、その我を見るらん」の意。(以下略)

 

『平家物語』のような軍記物語のカタリは、

さまざまに書き写され伝承されてきたものであり、

変遷をたどることができます。

語りの聞き手である客に対して

如何に感動的な出来事として語るか、

その演出の形成過程を知ることができます。

教える側からしますと、テキストのとおり

「昔は・・・・けん」「今は・・・・らん」が今日差異が消えた

助動詞の過去の推量と現在の推量に気づかせるのに

恰好の箇所でもあります。

 木曽 

ここでの「木曽」は、「生まれ育った境遇」を指します。

『広辞苑 第七版』 2018 株式会社岩波書店の

「源義仲」の冒頭は以下のとおりです。

◆平安末期の武将。為義の孫。父義賢(よしかた)が義平に討たれた後、

木曽山中で育てられ、木曽次郎という。

 

乳母子「めのとご」にして乳兄弟の今井四郎兼平とは、

最期の戦を共にしましたが、

山国育ちなるゆえか、都人とトラブルを起こすところもあり、

物語では*「華麗で孤独な風雲児像」として語られます。

 *「華麗で孤独な風雲児像」:

『平家物語下』(新潮日本古典集成(第47回)1981年)「義仲評価」

 冠者 

「冠者」(かんじゃ)について

『新潮日本古典集成』本の頭注に次の記述があります。

◆「冠者」は元服(加冠)した者であるが、

官職や然るべき肩書きがあればそれを呼び名とする。

したがって、冠者としか言えない、肩書きのない者という卑称でもある。

次の将軍の肩書きと対照させて、

一介の田舎武士が天下の覇者となったことを誇らかに示したのである。

 

かつての田舎侍が今や、「左馬頭兼伊予守朝日の将軍」となった、

「この俺様を篤と見給え」というわけです。

喧嘩を売るようなものですさかい、迫力満点にやるものです。

なんだか授業をやりたくなってきました。

 

この続きは来週にします。

義仲の名告りの佳境を取り上げることになります。

 

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師

大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

2024年3月31日は、

大阪市港区磯路桜通りのお花見の最後の日です。

大阪あそぼ市岡安治川コースでは、その前日30日にガイドをします。

3月18日(土)に下見をしました。

 

JR大阪環状線弁天町駅をスタートします。

駅舎東側は2025万博に向けて工事中です。

コースは北進し、まず波除公園に。

さながら安治川開削時に川村瑞賢が築いた「波除山」を擬えたかの如き、

人工の山が設えられています。

写真図1 波除公園の人工の山

当日は「登山」して国見をしましょうか?

今日3月27日の陽気に花盛りかも?

この日は、安治川水門を安治川左岸を行くも、閉じられていて、

いっそ安治川大橋から全貌を一目見んとて

長い階段を登り川の中央に立ち、下流を眺めました。

なんと閉じられていた水門が海に向かって起き上がり始めました。

写真図2 安治川水門作動開始

登り口で、その高さに泣きじゃくっていた園児をあやしていた母親に

「水門が動き出しましたよ」と大声で知らせました。

親子とは50mほど離れて、暫し一緒に眺めていました。

園児もご機嫌を取り戻したのか、礼を言われて立ち去られました。

写真図3 平常時に戻る寸前の安治川水門

水門が平常時に戻ったのを確かめ、

長くて緩いスロープを下り、西進し弁天東公園の「波除山碑」に向かいました。

なぜ、この水門にこだわったのかですが、

実は、三大水門と云われる安治川、尻無川、木津川に架かる水門は、

前にあった0万博の年、1970年に設置されたもので、老朽化が進み、

撤去され新たな水門が建設されるとのこと。

これが最初で最後の見納めでしょうか?

 

前の万博に先立つ1965年、弁天埠頭が完成しました。

それが埠頭の一部の建物を残し観光バスの駐車場とトラックターミナルとなりました。

今や懐かしの瀬戸内航路です。

写真図4 弁天埠頭緑地から東の眺め

上流に安治川水門が見えます。

磯路町通を南下し中央大通、みなと通を西進します。

お目当ては、磯路桜通りです。

 

お馴染みの白地に紅色の「磯路三丁目 桜通り」

桜通りを世話する桂音会の旧音羽町側からの看板です。

写真図5 「磯路三丁目 桜通り」

桜の蕾は固い、まだ開花は先のことです。

通りを隔てた桂町側にも看板が立っています。

「3/31㊐桜まつりの為 通行止め 午前九時より午後五時まで

 ご協力お願い致します。」

やったア。コロナ禍明けの久々のイベントか?

それも大阪あそ歩の翌日です。

それにしても昨夏は、老朽化している桜の木を切るとかの

掲示が桜の木に括られていたはずです。

あそ歩を始めて10年来、年に数回しか訪問しない者のとまどいです。

この日は、訊ねる方は昨年亡くなられておられない。

 

この日も夕凪の交差点まで出て、市岡パラダイス跡地をめぐって

いつもの小学校近くの文房具店のあった掲示板に目を走らせました。

「磯路地域活動協議会通信133号」2024年3月とあります。

◆町並み清掃 3月30日(土)7時~8時

 桜通り・小学校周辺

 桜まつりの開催に向けて、清掃作業のご協力よろしくお願い致します。

 

「桜まつりの開催」とあります。

大阪市による伐採計画は、住民の反対によって頓挫したのか?

桜通りには、手作りの雪洞が吊り下げられています。

校舎フェンスにはメッセージのようなのが貼られています。

「磯路小学校2023年5年生さくら通りproject

[私達の想い]」とあり9名の児童からの桜へのお手紙でした。

中に、こんなのがありました。

◆毎年春に木の上から学校や児童たちを見守ってくれてありがとうございました。

 さくら通りには思い出がたくさんあります。

 そう思うととても悲しいです。

 本当に60年間、今まで私達を楽しませてくれてありがとう!

 

桂音会HPに当たり、「最初で最後」を目にしました。

◆桜まつり/2024 3/31㊐ 10:00~16:00 最初で最後。

 大阪市港区桜通りで大花見

また同HPには、大阪市建設局「樹木撤去のお知らせ」が貼付されています。

このお知らせは昨年、見た文書です。

 

コースの詳細情報、お申し込みは

  ↓

https://www.osaka-asobo.jp/course717.html

 

究会代表

大阪区民カレッジ講師 田野 登