ゼルプスト殿下の事情

ゼルプスト殿下の事情

ご多分にもれず、わたくしにもいろいろな事情があって、ここに書けたり書けなかったりいたしますが、書けることは書きます。

Amebaでブログを始めよう!
すみません。ずっと放置していましたね。くどくど言い訳はしません。

ブログのネタを用意する意味もあって、しばらく Day One という日記用iOSアプリで非公開の日記を書いていたのです。ソフトウエア自身は使いやすくてけっこう気に入ったのですが、これも止めてしまいました。非公開日記の打ち切りも「て日々」の中断も、旧「て日」の廃止も、だいたい同じ理由で、一言で言えば精神的に余裕がなくなったってことです。

それにしても、俺みたいな者にとっては、非公開日記は妄想の温床ですね。人に言えない妄想を書き綴ることにエネルギーを注ぐくらいなら、Webの公開日記を再開したほうがよっぽどいい。

だったらブログを書けばいいのですが、どうもこのブログでは、気の利いたことを書かなきゃいけないような気になって、手が止まりがちです。

やっぱり自前のサイトで好き勝手にやるのが自分の性に合っているようです。

なので、臆面もなく「て日々」を再開することにします。4月からやります。

以上、予告でした。

5月下旬から9月上旬にかけて、ツイッターで #本日の無料ダジャレ というハッシュタグをつけてくだらないダジャレを一日一個ツイートするということをやっていました。9月になって仕事の気掛かりが増えると、定期的にダジャレを発行することができなくなったので、それで止めましたけど。


そのときにツイートした104連発をここでまとめて振り返ります。けっこうくだらないです。「なんのことかわからんぞー」というのもあると思いますが問い合わせには答えませんのであしからず。


なお、#本日の無料ダジャレ の定期発行を止めたからといってダジャレを言うのをやめたわけではありません。むしろ「有意義そうなこと」を言うほうをやめた感じですね。自分がそういう立派なキャラクターじゃないことがわかってきたんで。


ツイッターアカウントは tenapyon です。よかったらフォローしてください。


~~~#本日の無料ダジャレ の記録~~~


5月24日(土) こんなん難しいか?
5月26日(月) 冷たく「この布では涙を拭かんように」という不寛容。
5月27日(火) 割印のなにが悪りぃんだよ!!
5月28日(水) また先ほどマタサキになりました。
5月29日(木) 虫の苦手な方はさきほどのわたくしのツイートの写真を開かず無視してください。
5月30日(金) うかうかしていたら蜂が羽化してしまうな。
5月31日(土) 苦情がくる前に蜂の巣の駆除をしなくては…
6月 1日(日) このところ連日お送りしている「#本日の無料ダジャレ」は、ものの拍子に思いついた軽いダジャレです。丹精込めて育てあげた優良なネタは(以下省略
6月 2日(月) これはまた邪なことを書いてよこしましたね。
6月 3日(火) 大人ぁーーーーーーーーーーーーーーーー買ぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーいぃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
6月 4日(水) 車で追うと、もうビルだ。
6月 5日(木) 値が null になる。
6月 6日(金) 冤罪、無駄と言わずに控訴。
6月 7日(土) もう七日なのか。
6月 8日(日) 週末の夜だったとはいえ、昨晩の盛り上がりは正気の沙汰でないと思う。
6月 9日(月) 月曜日やでー、また1週間が始まんでー
6月10日(火) 31502.69 (サイコオニロック)
6月11日(水) 寝ようとしたら布団がふっ飛んだので、男は言った「ふっ…。とんだ災難だぜ。」
6月12日(木) 児童手当・もっとくれー給付
6月13日(金) 金曜の朝も早起きできんよぉ…
6月14日(土) この習性を終生修正できない。
6月15日(日) 堂 ジ ュ 書 ン 店 ク (順不同)
6月16日(月) 原始的ですが加減してきました。
6月17日(火) 核酸と酵素は隠さんとこう。そうしよう。
6月18日(水) 落しドワンゴの謎解き
6月19日(木) 四季折々のお料理
6月20日(金) 板前は調理場に居たまえ。
6月21日(土) 手打讃岐牛
6月22日(日) 高くて不味い 真っ黒フライ フライ♪ #谷山浩子さまトリビュート
6月23日(月) (三波)Hello World.
6月24日(火) ベルとベルトを比べると?
6月25日(水) 鳴門になると?
6月26日(木) デカルトの髪をバリカンで刈ると?
6月27日(金) ナイキの靴をはかない気?
6月28日(土) キルトを切ると?
6月29日(日) ホストが干すと?
6月30日(月) 色が気に入ったからー!!
7月 1日(火) 皮算用で贅沢品を買わさんように。
7月 2日(水) よっこいしょと、よいことしょっ
7月 3日(木) じゃあそろそろ、本郷猛を改造しよっかー。
7月 4日(金) 家庭科の材料買っていかないと
7月 5日(土) 「徳島で会わない?」「香川には行かさぬ気?」「愛媛に来いよ。」…高知に行ったとさ。
7月 6日(日) 三津浜の秘密はまだ言えない #松山ローカル
7月 7日(月) 七夕の 笹を食ったな バッタども
7月 8日(火) 光源から9光年離れた人「暗いとイヤ。」
7月 9日(水) 仕事で2光年先まで行かねばならん人「つらい。遠いや。」
7月10日(木) なにしろ、女にしろ。
7月11日(金) だいたい太もものあたり。
7月12日(土) なんやな、さっき散髪して来たとこやがな。
7月13日(日) 幼稚な敵を夜討ちして要地を奪う
7月14日(月) なんか、イモを何回も食ってます。
7月15日(火) 住まいの場所は明かすまい
7月16日(水) 胃は内臓だから何も言わないぞー
7月17日(木) ものを書く仕事をしているが隠し事はしていない
7月18日(金) どいつの持ち物かわからんが、ジャマになってるぞ。
7月19日(土) 意表をつくよい表を作る。
7月20日(日) ここで豆板醤が登板。「ジャーン!!」
7月21日(月・祝) 「きょう、海の日ですしー」「おお!! シャンパンで祝おう」
7月22日(火) わし、対話したい。
7月23日(水) そんなに会議があるの何か意義があるの?
7月24日(木) サヨナラなんて言ってるバーイじゃない。
7月25日(金) 各自の書く字
7月26日(土) 野心家や進化論者
7月27日(日) 大イタチのおいたち…
7月28日(月) 恋した小石たち
7月29日(火) たいした大使たち
7月30日(水) 昨日二十歳になった木の葉たち
7月31日(木) 十人十色の住人と居ろ
8月 1日(金) 皇太子が乞うた石
8月 2日(土) 奈良市内でオナラしないで。
8月 3日(日) 補遺するホイッスル
8月 4日(月) ホラーな洞穴
8月 5日(火) かなりヤなカナリア
8月 6日(水) 菅原道真「遣唐使の廃止を検討しよう」
8月 7日(木) 聖武天皇「東大寺のご本尊にだいぶ費やした」
8月 8日(金) 桓武天皇「遷都せんと…」
8月 9日(土) 懇談会は混んだんかい?
8月10日(日) 自然の猛威はもういい。
8月11日(月) 聖歌隊の指揮者が怖いや
8月12日(火) 鬱屈した靴下
8月13日(水) お盆をボンヤリ過ごす
8月14日(木) いやしんぼうもいやいや辛抱
8月15日(金) 承認欲求で少年野球
8月16日(土) 思想なくしそう。
8月17日(日) わたくしも次から気をつけます。自戒。
8月18日(月) 無理そうな理想。
8月19日(火) 身体壊すから抱っこはするな
8月20日(水) 質量あり〼
8月25日(月) 「これを手掛りに謎を解いてほしい」←アリアドネの意図
8月26日(火) いろんな素粒子が、ぱぁ~~って来る。
8月27日(水) 辛さは中辛っちゅうからさあ
8月28日(木) 御家人衆「いざキャバクラ!!」
8月29日(金) ノルウェーの新聞に載る絵
8月30日(土) 鶏肉、取りに行く。
8月31日(日) 雌牛飼う。
9月 1日(月) 鳥のキモ、食べればぁ?
9月 2日(火) a±2>0 (えーかげんにせい)
9月 3日(水) 清和天皇「みな、もっと源姓を名乗るがよい」
9月 4日(木) ギリシャにも首都があってね
9月 5日(金) A^u≠A^i (友情と愛情は違う)
9月 6日(土) 新しい朝があったらしい
9月 7日(日) ハマチがいないのは間違いない
9月 8日(月) まず考えられないと図鑑が得られない
9月 9日(火) マクロ使いまくろう

大学で『松山TGSAセミナー』というのをやっています。

TGSAとは、

Topology, Geometry and Something Awkward
 (位相数学, 幾何学およびなんだか厄介なもの) 

という意味ではなく、

Topology, Geometry, Set Theory and their Applications
 (位相数学, 幾何学, 集合論およびそれらの応用) 

という意味です。今日が5回目のセミナーで、知人のミナミさんをお招きして、集合論における強制法と位相空間論の興味深い関連について講演していただきました。

セミナーの打ち上げ会場は同僚のロシア人=シャクマトフ教授のお気に入りのアミティエ。フランス人シェフのフィリップが作る南仏プロヴァンスの料理がリーズナブルな値段で楽しめる人気の店です。食事が一段落したころ、フィリップがカルヴァドスのボトルを持ってやってきました。フィリップがイタリア人数学者と早口のフランス語で会話し、フランス語はひととおり勉強したつもりなのにまったく聴きとれなかった俺が、片言で

»Je ne comprend pas français« 
(フランス語ワカリマセン) 
と言ったらすかさずフィリップに

»Moi, non plus«
  (私モ, ワカリマセン)

と返されたのには、個人的に大受けしましたね。

イタリア人のゲストの先生 (ウディネ大学のディクラニアン教授) が一緒だったので俺たちどうしでは当然英語での会話になるんですけど、お開きのときに

《英語では、パーティの最後には Let's close (閉めましょう) と言うけど、日本語では お開きにしよう (Let's open) という。だから今回は

Let's clopen

と言おう》とかなんとか、数学者ならではのことを言って解散しました。ミナミさんを宿まで見送ってから、一人で酔い覚ましに徒歩で帰りましたが、途中のBOOK・OFFに、ツイッターのネタ画像を仕込むため横山光輝『三国志』のコミックを入手しようと思って寄ってみたものの、『三国志』を見つける前に車田正美『聖闘士星矢』につかまってしまい・思わぬ長時間を過ごした末に、結局なにも買わずに帰りましたとさ。

(いやあなんともトリトメのない記事だなあ…)

イアン・サンプル著『ヒッグス粒子の発見』(講談社ブルーバックス)を読み終えたので、思ったことを書きます。


まず最初にはっきり言わなければならないのですが、オビの宣伝文句の「ヒッグス粒子のすべてがわかる」を文字通りに受けとってはダメです。いちばん知りたかったこと、すなわち《ヒッグス粒子あるいはヒッグス場とはどういう働きをするもので、素粒子の質量の源となるヒッグス機構とはいかなるものなのか》ということは、最後までわかりません。わたくしは物理学者ではないので推察するほかないのですが、ヒッグス機構は高度な数学的な理論を用いてはじめて十全に説明できるような複雑なからくり、いわば数学的なトリックのようなもので、きちんと理論を学ぶことこそが、それを本当に理解する唯一の正しい道なのでしょう。ですから、この本を読んでヒッグス粒子が素粒子の質量のミナモトである理由がわからなくても、落胆してはいけないと思います。


ですが、この本にはヒッグス粒子を含めた素粒子理論を探求する物理学者たちが直面した「それ以外のすべてのこと」が実に克明に記されています。たとえば

  • ピーター・ヒッグスと彼の同時代の学者たちがヒッグス機構という着想に至った経緯
  • ヒッグス粒子という名前が適切なのかどうか
  • 高エネルギー物理に不可欠な加速器という実験装置の歴史
  • 科学者グループ間の協力と競争
  • 科学研究と政治とお金の問題

などなど。

ヒッグス粒子の《発見》を一つのクライマックスとして、このような「科学研究をとりまくいろいろな事情」を詳しく調べ書き上げることで、著者は自然法則を探求する物理学者の仕事のありさまを描き出しているのです。ですから、物理学の本と思うと確かに不満は残るし、実際、Amazon.co.jp のレビューでも評価は高くないのですが、研究者の世界を取材したルポルタージュとしての完成度は決して低くないです。日本語版には、原書刊行後の2012年の、CERNにおける「観測結果の発表」を伝える最終章が付け加わって、ひとつの感動的なドキュメンタリーになっています。


さて、この本でわたくしがとくに興味を引かれたのは、第8章《「世界の終焉」論争》です。

ここでは、自然界にもともと存在しない人工的な原子核などの異常な物質や放射線の生成を不可避的に伴う高エネルギー物理の実験が、人体や自然環境、あるいは物理的世界とか自然法則そのもの(!!)にとりかえしのつかないダメージを与えてしまうリスクの評価と、そうしたリスクへの、一部の人々の過剰な反応が記されています。


非常に高いエネルギーをもった粒子を互いに衝突させる実験では(たとえ機器の設計・施工のミスや操作ミスによる放射能漏れなどがなかったとしても)核子を構成する第一世代の三つのクォークのうち一個が第二世代のストレンジ・クォークに置きかわってしまった異常物質「ストレンジレット」や、寿命を終えた恒星の残骸である中性子物質や、局所的な時空の特異点「ミニ・ブラックホール」といった厄介な物質が生成される可能性が、少なくとも原理的にはあり、仮にそれらが通常の物質より安定して存在するとしたら、周囲の通常の物質をどんどん取り込んで異常物質が成長し、しまいにはこの地球を破壊しかねない。また、なにも粒子がない状態の場(真空)が、エネルギーの低いより安定した状態へ不可逆的に移行する「真空の相転移」を起こして、物理法則が変わり、物質を構成する粒子が存在できなくなって、結果としてこの宇宙が「終わって」しまうかもしれない。まるでSFみたいですが、実験の安全対策の一環として、そういうリスクの評価をせねばならないのです。幸い、きちんとした理論的な計算によれば、そうした危険な事故は原理的には起こりうるものの、その確率はお話にならないほど低く、この実験を宇宙の年齢ほどの長い期間にわたって際限なく繰り返して行なったところで、とうてい起きる見込みはありません。そのことはまた、この宇宙が100億年近くも安定して存在していることによっても証明されています。無数の高エネルギー粒子が飛び交う宇宙空間では、いわば年がら年中加速器の実験が行われているようなものだから、地上の加速器内で生成される可能性のある異常な物質は、宇宙空間で偶然生成される見込みのほうがずっと大きいのです。ですから、宇宙空間が危険な異常物質で満たされていない現状が、そうした異常物質が安定して存在するものではないことの、間接的ではあれ強力な証拠になっています。


ところが、実験の安全性をいろいろの計算がいくら保証してくれても、そもそも「リスクがゼロでない」ということ、あるいは事故の原理的可能性があるというだけでも、専門外の人々の恐怖心を煽って過剰な拒絶反応を引き出すには十分です。本書第8章では、そうした例として、たとえば1969年の「ポリウォーター騒ぎ」の顛末も紹介されています。そこではある学者の「そのリスクはとても重大なので、わたくしたちを安心させるのは『まったく害はない』という肯定的証拠だけだ」という投書が引用され、そうした過剰な反応が、なにも2011年以後の日本だけの特殊事情でないことを教えてくれます。


他に、第10章《「発見」前夜》の「Webが科学を変容させる」というセクションでは、観測データとその解析結果をめぐる情報を正式公開前に関係者がブログに掲載してしまったことが騒動を引き起した顛末が記されています。この騒ぎはCERNの研究チームのメンバーが引き起したのですが、そもそもWebの技術は、全世界の学者が強力して研究を進める国際的な施設であるCERNが、迅速かつ正確な研究交流をめざして開発したものだったのですから、これはなかなか皮肉な話です。


科学研究の巨大プロジェクトが必然的に国家予算規模のお金を必要とすることから、物語は政治家とのやりとりにも及びます。実際、ロナルド・レーガンとかマーガレット・サッチャーといった人々が、たんなる名前としてではなく、ストーリーにかかわる役者として登場します。レーガンの支持をうけて進行していた巨大加速器SSCの建設計画(当時「トリスタン計画」という言葉で呼ばれていたようにわたくしの耳には残っていますが、この本にその言葉はありません)は、ビル・クリントン大統領の時代になって結局打ち切られてしまいます。


科学者たちは政治家を説得して予算を獲得し/または獲得に失敗し、論敵をねじ伏せ/または論敵に言い負かされ、ライバルを出しぬき/または出しぬかれ、ありとあらゆる俗っぽい心配事をひとつひとつ片付けながら自然現象のトータルな理解をめざす研究を進めているわけです。


学者肌の人の中にはそうした俗事に関わることを厭う傾向の強い人が多く、他ならぬわたくし自身もどちらかと言えばそのクチではあるのですが、世俗的な悩みに背を向けることで純粋でいようとする態度が、「その純粋さを支えるためにいずれにせよ必要であるはずの仕事を他の人に丸投げしてそれで善しとする」ことを意味するのであれば、決して誉められたことではないでしょう。


たび重なる世界規模の経済危機のおかげで、科学研究の予算、あるいは研究環境たる大学の学部という制度、さらにいえば学問分野そのものが、存続の危機に見舞われています。専門外の人々から投げかけられる「その研究は何の役に立つのですか?」というのは、それ自体としては是非もない問いではありますが、このごろは、科学政策に十分な予算を割けない状況が続いているせいか、すぐさま社会にフィードバックできない学問分野はこのさい消えてしまってよろしい、と言わんばかりで、たいへん危険なムードになっています。しかしわたくし思うに、悪いのはあくまでも「お金がない」ことのほうです。「いまちょっとその研究に出すお金がない。ごめん。」と言えばいいものを「そんな研究には価値がない。だから金を出さないんだ。」と言ってしまったら、将来に大きな禍根を残すと思います。お金がないのは実際どうしようもないのですが、だからといってディシプリンどうしが鬩ぎ合う状況を作るのは間違いだと思います。


こうした風潮に再考を迫る、実に興味深いエピソードが、この『ヒッグス粒子の発見』に紹介されています。19世紀も終わり近いころ(1897年)に、J.J.トムソンの率いる研究グループが電子を発見します。その発見を記念するパーティーで乾杯の音頭をとった、研究チームのあるメンバーは、《何の役にも立たない電子に、乾杯》と挨拶したというのです。電子が発見された当初は「原子より小さい粒子なんて馬鹿げてる。それにそんなもの研究して何になるんだよ。」と、当の研究者たちですら思っていたわけです。しかしその後100年の間にその電子を操るテクノロジーが世界をどれほど大きく変えたかを、わたくしたちは知っています。


これは単にJ.J.トムソンの同僚達が愚かだったことを意味するのでしょうか。そうではありますまい。彼らが愚かだったとすれば、わたくしたちも同じくらい、いや、もっともっと愚かなはずです。現在の自然探求のテーマであるヒッグス粒子も余剰次元もダークマターも、あるいはリーマン予想もウッディン基数もコルモゴロフ複雑性も、(iPS細胞やES 細胞と違って)すぐさまお金に変わったりはしません。しかし、未来の世の中に何が起こるか、いったい誰にわかるというのでしょうか。


というわけで結論:タイトルや売り文句に反して、この本では、ヒッグス粒子の理論はほとんど何もわかりません。が、科学研究をとりまく世俗的なあれやこれやのことを広く論じて、科学という「生きもの」の生態を明らかにしてくれる本という意味では、この本にはじゅうぶんに意義がありますし、大変面白い労作だと思います。


おまけとして最後にアネクドートをひとつ、無責任に付け加えさせてください。1990年代に「量子力学の観測理論」が流行したことがありました。そのころ、観測理論の泰斗である小澤正直先生を交えた雑談のなかで、誰かが「物理学がトリスタン計画の中止で当面の目標を失なったから、お金のかからない観測理論が注目されているんだ」という噂話をするのを耳にしたことがあります。ただしこれは小澤先生自身の言葉ではなかったと思いますけど。その小澤先生の、不確定性原理を精密化する研究は、その後のヒッグス粒子発見のニュースにかき消された感はありますが、実験的な検証にも成功したと聞きます。わたくしはもとより一介の門外漢ではありますが、そうしたいろいろのことに、関心だけは持ち続けたいと思います。

俺は、料理に関しては自己流の素人だけれども、それなりにキッチンに立つことを楽しんでいて、自分が調理したものの写真を記念に撮影してツイッターで公開したりFacebookに掲載したり、あるいはこのブログに載せたりする。


だから、自分が料理したわけじゃなく、人に出してもらって、これから食べるだけのものの写真は、よほど特別な理由がないかぎり撮影しない。撮影してもSNSやブログに掲載しない。なにより、まぎらわしいから。


さきほどある人のFacebookの投稿へのコメントに書いたことを敷衍して言うんだけど、外食に行って出てきた料理の写真を撮ってブログに掲載するという、悪気のない、まったくなんの気なしの行為が、すっかり普通の行為になってしまっていて、それはまあ是非もないことなんだけど、そのせいで一部の飲食店の努力が妙な方向に進む傾向を助長してんじゃないかと、俺は懸念してる。


たとえばラーメン屋で、麺が見えないほど野菜が山盛りに載ったボリュームたっぷりのラーメンが出てきたとする。それを完食すると達成感がある。それは認める。俺にも経験がある。だけど、それはもはやスポーツであって、食事じゃない気がする。

俺に言わせれば、「食う」とは、他の生き物に命をもらうことだ。他の生き物が死んでくれたおかげで自分が生きられるという事実を受けいれ感謝して、そのぶんよりよく生きようと決意を新たにする、そういう営みだと思う。おいしい食事をいっぽうでは楽しみつつ、またもういっぽうでは、そういう厳粛な側面を忘れるべきではないと思う。


料理の見ためのきれいさが大切なのは認めるけど、それはその座を囲んでこれから料理を食べようとする人たちにささやかに訴えるものであればいいと思う。食い物は、美味くて滋養があればそれでいい。視覚的なインパクトなんか、とりたてて必要ないと思う。

飲食店の料理の写真を、そんなわけで俺はブログに載せない。だけど、おいしい店の情報を共有することに吝かではないので、これこれの店に行ったらこれこれのムードのこんな店で、これこれを食ったらこういうふうに美味かった、という記事は、機会があれば書くと思う。