【その6】から続き
「竜胆!? どうしたんだ、竜胆!!」
父の悲痛な叫びが今も耳に残る。正気は失っていたが、記憶はすべて残っている。どうせならば、忘れていた方がまだしも幸せだったかもしれない。しかし、これも贖罪なのだろう。心に刻み込まれたスティグマは一生消えはしないのだ。
「ひぃ」
また、一人、使用人の男が倒れた。
それを見て、無様に腰を抜かし、恐怖に震え、怯えた顔で年端もいかない少女を見上げる男。それが父だ。誰よりも立派で紳士で、絶対的な存在だった父親だ。そして、そうさせてしまったのは自分なのだ。
「やめろ、やめてくれ……」
やめたくても、自分の身体が言うことを効かない。後から判明したことではあるが、私は、繭期の中でも稀少な症状『エディプスキル』を発症する性質だったらしい。異性の体臭を嗅ぐと、凶暴化して噛みつきイニシアティブを奪おうとするという厄介なものだ。
繭期が終われば自然と収まる、とは、すべてが終わってからの医者の談であり、発症した時にはもう手遅れであった。
「ウウウウ……」
「ダメだ、それだけはダメだ!!……ああああ!」
私は、あの日、父を噛んだ。
親を噛み、イニシアティブを奪う。
ヴァンプ最大のタブーを犯してしまったのだ。
あの時から私の世界は一変した。
父は器の大きな男だった。私を決して怒らなかった。許してくれた。
繭期だから仕方ない、と。
だが、父は私に怯えていた。絶対的な支配者が、支配していた娘にイニシアティブを握られた。主従関係は、父と私の支配的な関係は、完全に逆転してしまったのだ。
私は、私が生きる上で最も必要な『支配者』という存在を失ってしまった。父が信じていた神も信じられなくなった。苦しい時、最後にすがる存在さえなくなった。私はゼロになった。
「竜胆、お医者様が言うには、繭期が収まるまで、やはりクランに入った方が良いらしい。どうだろう。落ち着くまで」
平静を装うお父様。かつての優しき命令ではなく、顔色を伺っての提案。いつも凜としていた、お付きの執事の顔もひきつって見える。可愛がってくれていた屋敷中の大人たちも、あれからずっとよそよそしい。かつては「繭期になってもクランに入る必要なんてない。この屋敷の人間みんなで面倒みるぞ」なんて言ってたのにね。
この屋敷の支配者は父だ。それが溺愛する娘であっても、自分を支配する人間を傍において、生きていけるわけがない。この提案を断って、無理に留まっていたら、もっと酷い別れ方をしなければいけなくなるだろう。
幼い頃から育ててくれた屋敷の人間もそうだ。男たちはやはり竜胆がイニシアティブを取ってしまっている。それが竜胆の意思ではないとわかってはくれている。彼らは優しい。だからこそ、我慢を重ねて、いずれ崩壊する。みんな大好きだったからこそ、ここにいるのが耐えられなくなってきていた。
「わかりました。クランで治療して参ります。女子しかいない環境の方が私も落ち着きます」
「そうか」
ホッとしたように見えたのは気のせいではないだろう。体の良い厄介払いだとわかっている。
私がこの瞬間にでもイニシアティブを発動させて、ここの支配者になることはできる。父は、私が『良い子』だから、それをしないと思っているのかもしれない。ただ、私は支配される側じゃないと生きられないだけなのに。そういう私にしてしまったのは、父だというのに。
そして、私はこの最果てのクランに辿り着いた。
「!」
銃声の音で竜胆は目を覚ました。どこまでが夢だったのか、と一瞬思うが、場所が変わってないので、やはりファルスと『噛み合った』のは現実だったとわかる。
「……殺ったか?」
「ファルスを撃ったの?」
倒れるファルス。銃口からまだ煙を出している銃を構える紫蘭。考えるまでもないが衝撃的な事実を、しかし、竜胆は冷静に尋ねた。その後の展開に予想がついていたからだ。
「いったいなあ、無茶するなよ。僕のきれいな顔が元に戻らなかったらどうするのさ。恨むぞ、紫蘭」
「やっぱり」
ファルスはムクリと何事もなかったように起きがっていた。撃たれた部分だろうか、顔の皮膚が少し蠢いているように見える。虫が中にいるかのようで少々気色が悪い。
紫蘭が怒りに満ちた険しい目つきで叫ぶ。
「なぜ死なぬ、化け物!」
「TRUMPよ」
「え?」
紫蘭が驚いて、後ろを振り返る。
竜胆は落ち着いた瞳で紫蘭を見つめ返して繰り返した。
「TRUMP……TRUE OF VANP。真なる吸血種。我らヴァンプの真祖。始まりの吸血種。永遠の存在。つまり、不老不死の存在よ」
「そんなことは知っている! 『それ』がこいつだというのか!?」
「もうわかってるんでしょ、紫蘭。あなたが撃ったのだから」
紫蘭は銃の名手だ。弾が急所に当たった手応え、何より目でその瞬間を捉えていただろう。紫蘭は不本意だというように奥歯を噛み締めている。
「……くそっ。そうだな。頭を撃ちぬかれて生きているヴァンプがいるはずがない。ならば、こいつはTRUMPなのだろう。だが、こんなチャらいファルス野郎がTRUMPだという事実に腹が立つ」
「ひでえ……あと、その罵倒、卑猥な感じになるから止めてくれ……」
TRUMPに対して容赦がなさすぎる。肉体攻撃が効かない以上、精神攻撃は有効かもしれないが。
ファルスは一瞬よろめいたが、気を取り直し、にっこりと笑って尋ねてきた。
「で、君たちはどうするの?」
意地の悪い笑顔。
「僕を殺すかい? 『もう一度』。ムダだとは思うけど」
「そんな! 殺すだなんて……」
紫蘭はともかく、竜胆は考えてもいないことだ。
「ふん、私はムダなことはしない主義だ。それで? では、貴様は私たちを殺すのか?」
紫蘭はふんぞり返って聞き返した。もはや強がりを通り越している。イニシアティブは握られ、銃で撃っても死なない。生殺与奪権は完全に握られていることはわかっているのだろう、顔は引き攣っているが、誇り高い姿に竜胆は感動を覚えた。彼女は誇りを抱いて死を選ぶかもしれない。
「やめて……紫蘭……」
だが、竜胆が今求めているのは、そんな終着点ではない。
竜胆は教師に教えを乞うように、右手をスッと高く掲げた。
「ねえ、ファルス。ひとつ教えて」
「ん?? なんだい」
意表を突かれたらしく、ファルスは少し驚いた顔をした。
「さっきの話をまとめると、つまり、リリーとスノウはもう500年も生きてるの?」
「そういうことになるね。正確には512年かな」
意外と細かい男である。
「『お薬』、つまり、あなたの血を飲んでいたから?」
「そうだね。彼女たちは『不老』になった。ただ、500年も生きてるのはあの2人だけだけどね」
「他の子は効果がなかったということ?」
「最初の頃はね。でも、今君たちが飲んでる『お薬』……『ウル』の効果は誰にでも効く。それに、全員がこのクランに残っていないのは、迎えに来る親もいるからだよ」
ファルスは寂しそうな顔で説明した。
「忌み子。ダンピール。みなし子……。誰でも受け入れるから、こんな辺境のクランにも、少女たちはやって来る。とんだ面倒事の不法投棄場だけど、だからこそ、僕は気兼ねのないユートピアを作ることができた」
「……」
気兼ねのない、とは、なんともエゴイスティックな考えではあるが、理屈としてはわかった。
「でもね、僕も意外だったんだけど、厄介だからとクランに入れたはずなのに、数年経つと情が戻って寂しくなるのか、娘を迎えに来る親が、殊のほか多い。といっても、全体の2割ぐらいだけどね。僕も面倒事は御免だから、迎えに来る親がいたら、素直にクランを卒業してもらったんだよ」
「……2割? 全然計算が合わないんだけど。他の8割は?」
ファルスはニタッと笑って、肩をすくめた。
「それはあまり聞かない方がいいね」
「そう」
竜胆が聞きたいのは、他の少女が消えた理由ではなかったので、深くは追及しなかった。いずれにしても、楽しい答えが返ってくる気はしない。
「次に長いのは誰だ?」
「え?」
紫蘭が口を挟んだ。最初は積極的な竜胆を訝しげに見ていたが、興味が湧いたらしい。
「リリーたちの次に長くクランにいるのは誰だ?と聞いている」
「えー? 竜胆と紫蘭、キミたちじゃないかな」
『え!?』
二人の驚きの声がハモった。
「キミたちがここに来てから、もう30年は経つよ。リリーたちとはだいぶ間が空いてるけど、もう中堅どころだね、あはは」
軽く笑うファルスだが、竜胆たちは少なからず衝撃を受けていた。
リリーとスノウは、記憶を消されて、ずっと少女の記憶のまま、500年を過ごした。ならば、自分たちだって、同じ目にあっていて然るべきなのだが、なぜかその考えに思い至らなかった。『記憶がない』とは、そういうことなのだ。
「本当はもう50歳近いのか、私は!」
紫蘭が天を仰いで絶望している。確かにそれもそういうことなのだが、何百年と経ってないだけに、半端すぎてどこか間が抜けている気もする。竜胆は、少し笑いそうになったが、ふと、一つ残酷な事実を理解し、身を震わせた。
「ねえ、ファルス」
「なんだい竜胆」
ファルスは先ほどと同じ寂しそうな顔で聞き返した。いや、これは寂しそう、ではなく。
「この30年で、私の家から、何か連絡はあったのか。お父様は私を迎えに来なかったのか」
声が震えた。聞くまでもない。迎えに来たら、ファルスは返すと言ったばかりだ。果たして、ファルスは『気の毒そうな』顔で頷いた。
「ああ。連絡は一度もなかった」
「あ、ああああああ……」
竜胆の瞳からついに大粒の涙が溢れ始めた。
わかっていた。わかってはいたのだ。ここに入れられた時点で、とうに見捨てられていたことを。それでも、心の奥底で、父が迎えに来てくれるのではないかと、諦めきれない願いがあった。そうすれば、自分は『許す』つもりでいたのだ。そんな傲慢で卑小な考えを持っていたのは、自分だけだったのだ。
「竜胆……」
紫蘭が不器用に泣きじゃくる竜胆の背中を撫でる。竜胆はその優しさが嬉しくて、紫蘭に抱きついた。
「ごめんなさい、紫蘭。あなたも辛いのに、私ばかり……」
「私のことはいいんだ。あの馬鹿おやじが私を迎えに来るはずがない。私の手であいつを殺せなかったことだけが心残りだがな」
「あ……」
紫蘭の言葉を聞いて、ファルスが何か言いかけた。
「なんだ?」
紫蘭が睨むと、ファルスは少し言い淀みながらも、告げた。
「5年ぐらい前に、君のお父さんが亡くなったと、一度だけ手紙が届いたよ。何番目かの妹だか、から」
「…………そうか。じゃあ、もう何も未練はないな」
竜胆が心配になるほどの長い沈黙。紫蘭がその間に何を思ったかはわからない。その表情は少し憂いを帯びてはいたが、晴れ晴れとしているようでもあった。
「さて、そろそろ、君たちの記憶を消そう。これ以上争っても仕方ないだろう。僕は君たちを殺したいわけじゃない」
ファルスはさすがに竜胆を泣かせてバツが悪かったのか、しおらしくそんなことを言った。
しかし、竜胆は抗った。ファルスの予想もしない形で。
「待って! いや、お待ちください、御館様!」
「え?」
「竜胆?」
竜胆は、両膝を折り、両手を握り締め、ファルスに祈るように頭を垂れた。
「私たちに、このクランの監督生をさせてください。自由なばかりではいけません。本当の淑女は、秩序の中でこそ生まれるのです。御館様が動けぬ分、我らが手足となって働きましょう」
「たち!? 私も巻き込まれてる!?」
「へー、それは良いね」
ファルスは竜胆の急な提案に驚いたものの、内容にはいたく乗り気のようだ。有無を言わさずシステムに組み込まれている紫蘭が悲鳴を上げる。
「一日に一回は、学校のように、私たちが彼女に授業をしましょう。いくら繭期だからといって、頭がお花畑では美しくありません。それに、御館様からのご命令を伝えるにも、手紙だけでは難しいでしょう」
「そうそう! そうなんだよ。たまに読まずに捨てられたりするしさあ。一人だとトラブル起きた時に手が回りにくいし、フォローが大変なんだよねえ。リリーたちがなんとなくのリーダーではあったけど、表向きはみんなと同い年で対等の立場だし、彼女たちは性格的に不向きだからねえ」
「理解してもらえて嬉しそうだな、おい……」
半分呆れて紫蘭がつぶやくが、盛り上がる二人の耳には入っていなかった。
そして、竜胆はどこまでも真剣で切実だった。さらに深く深く頭を垂れた。
「お願いします。私の主となってください。私には……私は……」
私は支配されなければ生きていけない。
TRUMP。真なる創造主。
我らヴァンプの『父』であり『神』よ。
「私をお救いください……」
「……僕はキミが思っているようなモノじゃないかもしれないよ」
ファルスは自嘲するかのように笑った。竜胆は首を振った。もう真実は彼女の中で完成していた。それで十分だった。
「貴様がチャラいことなど、もうバレてるだろ。これ以上酷いのか?」
「紫蘭……、キミこそ、僕に仕えるなんてできるのか? 暴言を吐き続けるなら、僕はキミをすぐに罷免するぞ」
「わかったわかった。もう金輪際、悪くは言わん。いや、言いません、御館様」
紫蘭は神妙な顔になって、竜胆の隣で片膝をつき、服従を示した。
「私はこのクランが好きだ。過去の事情はどうあれ、少女たちはここでノビノビと明るく過ごしている。その姿を見ているのが幸せだ。私はこのクランをずっと守っていきたい。それこそ永遠にでもな」
「そいつは嬉しいねえ」
「変態と趣味が一緒というのも困ったものだがな」
「じゃあキミも変態じゃないか!?」
紫蘭は吹っ切れたのか、呵呵と楽しそうに笑った。
「冗談だ。それに私にも戻る場所などない。たとえ30年経っていようが、いまいがな。それに……」
紫蘭は自分で言っておきながら巻き込んだことを申し訳なさそうにしている竜胆の肩を、グッと抱き寄せた。
「隣には永遠の美しさを保つ優しくやらしい嫁がいる。そんな幸せなことがこの世にあるか?」
「ちょ、ちょっと紫蘭!?」
顔を赤らめる竜胆とドヤ顔の紫蘭を見て、ファルスは脱力したように呆れたため息をついた。
「あー、そう……。好きにしてくれ。でも、頼むから風紀を自分たちで乱さないでくれよ」
「そんなことしません! ……って、じゃあ!?」
竜胆が見ると、ファルスは頷いた。
「ああ。正式に任命するよ。僕の楽園作りを手伝ってくれ」
「あ、ありがとうございます」
竜胆は震え、歓喜の涙をこぼした。
「私の『父』そして『神』よ……」
体中が支配される充実感で満たされていくのを感じる。少し奇妙だが、それが彼女の幸せだった。
竜胆は新たな神に拾われたのだ。
竜胆、紫蘭、ファルス、リリー、スノウ。
この奇妙な関係性はこの後300年続く。それはまた別の物語。
【リンドウは一人咲く 終】
「竜胆!? どうしたんだ、竜胆!!」
父の悲痛な叫びが今も耳に残る。正気は失っていたが、記憶はすべて残っている。どうせならば、忘れていた方がまだしも幸せだったかもしれない。しかし、これも贖罪なのだろう。心に刻み込まれたスティグマは一生消えはしないのだ。
「ひぃ」
また、一人、使用人の男が倒れた。
それを見て、無様に腰を抜かし、恐怖に震え、怯えた顔で年端もいかない少女を見上げる男。それが父だ。誰よりも立派で紳士で、絶対的な存在だった父親だ。そして、そうさせてしまったのは自分なのだ。
「やめろ、やめてくれ……」
やめたくても、自分の身体が言うことを効かない。後から判明したことではあるが、私は、繭期の中でも稀少な症状『エディプスキル』を発症する性質だったらしい。異性の体臭を嗅ぐと、凶暴化して噛みつきイニシアティブを奪おうとするという厄介なものだ。
繭期が終われば自然と収まる、とは、すべてが終わってからの医者の談であり、発症した時にはもう手遅れであった。
「ウウウウ……」
「ダメだ、それだけはダメだ!!……ああああ!」
私は、あの日、父を噛んだ。
親を噛み、イニシアティブを奪う。
ヴァンプ最大のタブーを犯してしまったのだ。
あの時から私の世界は一変した。
父は器の大きな男だった。私を決して怒らなかった。許してくれた。
繭期だから仕方ない、と。
だが、父は私に怯えていた。絶対的な支配者が、支配していた娘にイニシアティブを握られた。主従関係は、父と私の支配的な関係は、完全に逆転してしまったのだ。
私は、私が生きる上で最も必要な『支配者』という存在を失ってしまった。父が信じていた神も信じられなくなった。苦しい時、最後にすがる存在さえなくなった。私はゼロになった。
「竜胆、お医者様が言うには、繭期が収まるまで、やはりクランに入った方が良いらしい。どうだろう。落ち着くまで」
平静を装うお父様。かつての優しき命令ではなく、顔色を伺っての提案。いつも凜としていた、お付きの執事の顔もひきつって見える。可愛がってくれていた屋敷中の大人たちも、あれからずっとよそよそしい。かつては「繭期になってもクランに入る必要なんてない。この屋敷の人間みんなで面倒みるぞ」なんて言ってたのにね。
この屋敷の支配者は父だ。それが溺愛する娘であっても、自分を支配する人間を傍において、生きていけるわけがない。この提案を断って、無理に留まっていたら、もっと酷い別れ方をしなければいけなくなるだろう。
幼い頃から育ててくれた屋敷の人間もそうだ。男たちはやはり竜胆がイニシアティブを取ってしまっている。それが竜胆の意思ではないとわかってはくれている。彼らは優しい。だからこそ、我慢を重ねて、いずれ崩壊する。みんな大好きだったからこそ、ここにいるのが耐えられなくなってきていた。
「わかりました。クランで治療して参ります。女子しかいない環境の方が私も落ち着きます」
「そうか」
ホッとしたように見えたのは気のせいではないだろう。体の良い厄介払いだとわかっている。
私がこの瞬間にでもイニシアティブを発動させて、ここの支配者になることはできる。父は、私が『良い子』だから、それをしないと思っているのかもしれない。ただ、私は支配される側じゃないと生きられないだけなのに。そういう私にしてしまったのは、父だというのに。
そして、私はこの最果てのクランに辿り着いた。
「!」
銃声の音で竜胆は目を覚ました。どこまでが夢だったのか、と一瞬思うが、場所が変わってないので、やはりファルスと『噛み合った』のは現実だったとわかる。
「……殺ったか?」
「ファルスを撃ったの?」
倒れるファルス。銃口からまだ煙を出している銃を構える紫蘭。考えるまでもないが衝撃的な事実を、しかし、竜胆は冷静に尋ねた。その後の展開に予想がついていたからだ。
「いったいなあ、無茶するなよ。僕のきれいな顔が元に戻らなかったらどうするのさ。恨むぞ、紫蘭」
「やっぱり」
ファルスはムクリと何事もなかったように起きがっていた。撃たれた部分だろうか、顔の皮膚が少し蠢いているように見える。虫が中にいるかのようで少々気色が悪い。
紫蘭が怒りに満ちた険しい目つきで叫ぶ。
「なぜ死なぬ、化け物!」
「TRUMPよ」
「え?」
紫蘭が驚いて、後ろを振り返る。
竜胆は落ち着いた瞳で紫蘭を見つめ返して繰り返した。
「TRUMP……TRUE OF VANP。真なる吸血種。我らヴァンプの真祖。始まりの吸血種。永遠の存在。つまり、不老不死の存在よ」
「そんなことは知っている! 『それ』がこいつだというのか!?」
「もうわかってるんでしょ、紫蘭。あなたが撃ったのだから」
紫蘭は銃の名手だ。弾が急所に当たった手応え、何より目でその瞬間を捉えていただろう。紫蘭は不本意だというように奥歯を噛み締めている。
「……くそっ。そうだな。頭を撃ちぬかれて生きているヴァンプがいるはずがない。ならば、こいつはTRUMPなのだろう。だが、こんなチャらいファルス野郎がTRUMPだという事実に腹が立つ」
「ひでえ……あと、その罵倒、卑猥な感じになるから止めてくれ……」
TRUMPに対して容赦がなさすぎる。肉体攻撃が効かない以上、精神攻撃は有効かもしれないが。
ファルスは一瞬よろめいたが、気を取り直し、にっこりと笑って尋ねてきた。
「で、君たちはどうするの?」
意地の悪い笑顔。
「僕を殺すかい? 『もう一度』。ムダだとは思うけど」
「そんな! 殺すだなんて……」
紫蘭はともかく、竜胆は考えてもいないことだ。
「ふん、私はムダなことはしない主義だ。それで? では、貴様は私たちを殺すのか?」
紫蘭はふんぞり返って聞き返した。もはや強がりを通り越している。イニシアティブは握られ、銃で撃っても死なない。生殺与奪権は完全に握られていることはわかっているのだろう、顔は引き攣っているが、誇り高い姿に竜胆は感動を覚えた。彼女は誇りを抱いて死を選ぶかもしれない。
「やめて……紫蘭……」
だが、竜胆が今求めているのは、そんな終着点ではない。
竜胆は教師に教えを乞うように、右手をスッと高く掲げた。
「ねえ、ファルス。ひとつ教えて」
「ん?? なんだい」
意表を突かれたらしく、ファルスは少し驚いた顔をした。
「さっきの話をまとめると、つまり、リリーとスノウはもう500年も生きてるの?」
「そういうことになるね。正確には512年かな」
意外と細かい男である。
「『お薬』、つまり、あなたの血を飲んでいたから?」
「そうだね。彼女たちは『不老』になった。ただ、500年も生きてるのはあの2人だけだけどね」
「他の子は効果がなかったということ?」
「最初の頃はね。でも、今君たちが飲んでる『お薬』……『ウル』の効果は誰にでも効く。それに、全員がこのクランに残っていないのは、迎えに来る親もいるからだよ」
ファルスは寂しそうな顔で説明した。
「忌み子。ダンピール。みなし子……。誰でも受け入れるから、こんな辺境のクランにも、少女たちはやって来る。とんだ面倒事の不法投棄場だけど、だからこそ、僕は気兼ねのないユートピアを作ることができた」
「……」
気兼ねのない、とは、なんともエゴイスティックな考えではあるが、理屈としてはわかった。
「でもね、僕も意外だったんだけど、厄介だからとクランに入れたはずなのに、数年経つと情が戻って寂しくなるのか、娘を迎えに来る親が、殊のほか多い。といっても、全体の2割ぐらいだけどね。僕も面倒事は御免だから、迎えに来る親がいたら、素直にクランを卒業してもらったんだよ」
「……2割? 全然計算が合わないんだけど。他の8割は?」
ファルスはニタッと笑って、肩をすくめた。
「それはあまり聞かない方がいいね」
「そう」
竜胆が聞きたいのは、他の少女が消えた理由ではなかったので、深くは追及しなかった。いずれにしても、楽しい答えが返ってくる気はしない。
「次に長いのは誰だ?」
「え?」
紫蘭が口を挟んだ。最初は積極的な竜胆を訝しげに見ていたが、興味が湧いたらしい。
「リリーたちの次に長くクランにいるのは誰だ?と聞いている」
「えー? 竜胆と紫蘭、キミたちじゃないかな」
『え!?』
二人の驚きの声がハモった。
「キミたちがここに来てから、もう30年は経つよ。リリーたちとはだいぶ間が空いてるけど、もう中堅どころだね、あはは」
軽く笑うファルスだが、竜胆たちは少なからず衝撃を受けていた。
リリーとスノウは、記憶を消されて、ずっと少女の記憶のまま、500年を過ごした。ならば、自分たちだって、同じ目にあっていて然るべきなのだが、なぜかその考えに思い至らなかった。『記憶がない』とは、そういうことなのだ。
「本当はもう50歳近いのか、私は!」
紫蘭が天を仰いで絶望している。確かにそれもそういうことなのだが、何百年と経ってないだけに、半端すぎてどこか間が抜けている気もする。竜胆は、少し笑いそうになったが、ふと、一つ残酷な事実を理解し、身を震わせた。
「ねえ、ファルス」
「なんだい竜胆」
ファルスは先ほどと同じ寂しそうな顔で聞き返した。いや、これは寂しそう、ではなく。
「この30年で、私の家から、何か連絡はあったのか。お父様は私を迎えに来なかったのか」
声が震えた。聞くまでもない。迎えに来たら、ファルスは返すと言ったばかりだ。果たして、ファルスは『気の毒そうな』顔で頷いた。
「ああ。連絡は一度もなかった」
「あ、ああああああ……」
竜胆の瞳からついに大粒の涙が溢れ始めた。
わかっていた。わかってはいたのだ。ここに入れられた時点で、とうに見捨てられていたことを。それでも、心の奥底で、父が迎えに来てくれるのではないかと、諦めきれない願いがあった。そうすれば、自分は『許す』つもりでいたのだ。そんな傲慢で卑小な考えを持っていたのは、自分だけだったのだ。
「竜胆……」
紫蘭が不器用に泣きじゃくる竜胆の背中を撫でる。竜胆はその優しさが嬉しくて、紫蘭に抱きついた。
「ごめんなさい、紫蘭。あなたも辛いのに、私ばかり……」
「私のことはいいんだ。あの馬鹿おやじが私を迎えに来るはずがない。私の手であいつを殺せなかったことだけが心残りだがな」
「あ……」
紫蘭の言葉を聞いて、ファルスが何か言いかけた。
「なんだ?」
紫蘭が睨むと、ファルスは少し言い淀みながらも、告げた。
「5年ぐらい前に、君のお父さんが亡くなったと、一度だけ手紙が届いたよ。何番目かの妹だか、から」
「…………そうか。じゃあ、もう何も未練はないな」
竜胆が心配になるほどの長い沈黙。紫蘭がその間に何を思ったかはわからない。その表情は少し憂いを帯びてはいたが、晴れ晴れとしているようでもあった。
「さて、そろそろ、君たちの記憶を消そう。これ以上争っても仕方ないだろう。僕は君たちを殺したいわけじゃない」
ファルスはさすがに竜胆を泣かせてバツが悪かったのか、しおらしくそんなことを言った。
しかし、竜胆は抗った。ファルスの予想もしない形で。
「待って! いや、お待ちください、御館様!」
「え?」
「竜胆?」
竜胆は、両膝を折り、両手を握り締め、ファルスに祈るように頭を垂れた。
「私たちに、このクランの監督生をさせてください。自由なばかりではいけません。本当の淑女は、秩序の中でこそ生まれるのです。御館様が動けぬ分、我らが手足となって働きましょう」
「たち!? 私も巻き込まれてる!?」
「へー、それは良いね」
ファルスは竜胆の急な提案に驚いたものの、内容にはいたく乗り気のようだ。有無を言わさずシステムに組み込まれている紫蘭が悲鳴を上げる。
「一日に一回は、学校のように、私たちが彼女に授業をしましょう。いくら繭期だからといって、頭がお花畑では美しくありません。それに、御館様からのご命令を伝えるにも、手紙だけでは難しいでしょう」
「そうそう! そうなんだよ。たまに読まずに捨てられたりするしさあ。一人だとトラブル起きた時に手が回りにくいし、フォローが大変なんだよねえ。リリーたちがなんとなくのリーダーではあったけど、表向きはみんなと同い年で対等の立場だし、彼女たちは性格的に不向きだからねえ」
「理解してもらえて嬉しそうだな、おい……」
半分呆れて紫蘭がつぶやくが、盛り上がる二人の耳には入っていなかった。
そして、竜胆はどこまでも真剣で切実だった。さらに深く深く頭を垂れた。
「お願いします。私の主となってください。私には……私は……」
私は支配されなければ生きていけない。
TRUMP。真なる創造主。
我らヴァンプの『父』であり『神』よ。
「私をお救いください……」
「……僕はキミが思っているようなモノじゃないかもしれないよ」
ファルスは自嘲するかのように笑った。竜胆は首を振った。もう真実は彼女の中で完成していた。それで十分だった。
「貴様がチャラいことなど、もうバレてるだろ。これ以上酷いのか?」
「紫蘭……、キミこそ、僕に仕えるなんてできるのか? 暴言を吐き続けるなら、僕はキミをすぐに罷免するぞ」
「わかったわかった。もう金輪際、悪くは言わん。いや、言いません、御館様」
紫蘭は神妙な顔になって、竜胆の隣で片膝をつき、服従を示した。
「私はこのクランが好きだ。過去の事情はどうあれ、少女たちはここでノビノビと明るく過ごしている。その姿を見ているのが幸せだ。私はこのクランをずっと守っていきたい。それこそ永遠にでもな」
「そいつは嬉しいねえ」
「変態と趣味が一緒というのも困ったものだがな」
「じゃあキミも変態じゃないか!?」
紫蘭は吹っ切れたのか、呵呵と楽しそうに笑った。
「冗談だ。それに私にも戻る場所などない。たとえ30年経っていようが、いまいがな。それに……」
紫蘭は自分で言っておきながら巻き込んだことを申し訳なさそうにしている竜胆の肩を、グッと抱き寄せた。
「隣には永遠の美しさを保つ優しくやらしい嫁がいる。そんな幸せなことがこの世にあるか?」
「ちょ、ちょっと紫蘭!?」
顔を赤らめる竜胆とドヤ顔の紫蘭を見て、ファルスは脱力したように呆れたため息をついた。
「あー、そう……。好きにしてくれ。でも、頼むから風紀を自分たちで乱さないでくれよ」
「そんなことしません! ……って、じゃあ!?」
竜胆が見ると、ファルスは頷いた。
「ああ。正式に任命するよ。僕の楽園作りを手伝ってくれ」
「あ、ありがとうございます」
竜胆は震え、歓喜の涙をこぼした。
「私の『父』そして『神』よ……」
体中が支配される充実感で満たされていくのを感じる。少し奇妙だが、それが彼女の幸せだった。
竜胆は新たな神に拾われたのだ。
竜胆、紫蘭、ファルス、リリー、スノウ。
この奇妙な関係性はこの後300年続く。それはまた別の物語。
【リンドウは一人咲く 終】