日々 これいかにか

日々 これいかにか

日々何気なく発見したことの総本山。ここに木を植えると栄養を吸収して大木になっていくのです

時代はblogなわけで、わかりやすさとはそのときの流行なわけで、まずはまんまと乗っかってみますよ、フフフ

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(更新が遅くなりました、お待たせしました!)

先日、NHKスペシャルの再放送があり、
これが、
手塚治虫さんの密着取材でした。

その中での一シーンとして、
「手塚番」
についての紹介がありました。

ご存知のように、
マンガ家には担当の編集者がつくもので、

ただ原稿を受け取るだけの人から、
週刊ジャンプのような、マンガの方向性を一緒に相談するプロデューサのような
役割の方もいるようですが、

この手塚番、
というのは、
手塚プロダクションに寝泊りし、手塚治虫さんの原稿を待つ
編集者
のようでした。

番組では、
もう何日も寝泊りしている人のシーンが映されていて、
なんでまあ、
寝泊りしてるんだろうなあ、
とぼくは思っていたのです。


いつものことですが、
ぼくの仕事は
突然過酷になるようなことが多いので、

実は今も
寝る時間をどう作るか、みたいな状態に
なっています。

特に
ゲーム制作に関して言えば、
どこまで出来たか、ということを
気にするクライアントが非常に多いので、

どこまで実装したか、みたいな目標が設けられることが
多いのですが、

不思議なもので、
いろいろやり取りをしていると、

いついつまでにこれこれを実装して欲しい、
というようなオーダーが、

実は、
それほど深刻でない、ということが
口調から判ってしまうときがあります。


昨日再放送されました、
宮崎駿氏出演の、100年インタビュー
で宮崎氏が言われていたように、

締め切りがないと、仕事が進まない、

のですが、

死に物狂いでプログラムを構築しているようなときに、
それほど重要でない締め切りであることがわかってしまうと、
自分の体調を壊してまでやるのはなあ、と
思ってしまうのですが、

そう思ったとき、ハタと気付きました。


だから「手塚番」なのか!

と・・・!



当時手塚治虫さんは何本も連載をかかえていて、
原稿を待つ編集者も、
手塚さんはどの編集者が待っているか見極めていて、
そこの原稿が早く上がる、
みたいに話している風景が放送されていました。

つまり、
寝泊りし、
とにかくウチははやく原稿が欲しいんだ、
という
体を張った姿勢が手塚さんに伝わったとき、

手塚さんも体を張って
その原稿を
死に物狂いで先に仕上げるのではないか、
と。


つまり、
その締め切りに

どれほどのリアリティ、説得力があるか、

ということなのでは
ないか、

とぼくは思いました。


研究をするにはまず、ものの道理を通すことが第一ですが、
同じように、
人間関係にも、まっとうである、こういう道理が、
あるんだなあ、と思いました。

それでは、また

[ 話了 ]


(そうとう更新が空いてしまいました!お待たせしました!)

空中キャンプのエントリ(*1)で、個人的な儀式についての記述がありました
ちょっとそこから膨らみそうなので、今日はその話です。

同じことを日々、何度も反復しているうちに、しだいにその行為が儀式化していく、セレモニー的に変化していくということがある。イチローは出塁すると、一塁上でまずは肘のプロテクターを外し、次にヘルメットの穴に右の人差し指をちょこっとだけ入れる。この動作を、毎回かならず同じタイミングでおこなう。そうすることで、精神状態を安定させていくのである。なぜヘルメットの穴に指なのかはわからないけれど(なにか性的なものを感じました)、心理とはえてしてそのようなものだとおもう。

仕事でも、まずは机の上をきれいに拭いてからはじめる人、始業開始と共にトイレに籠る人、メールのカタカナをすべて半角にする人などがいて、そうした動作は仕事じたいに直接は関係していないものの、その人にとってはなんらかの意味がある。そうしないと、どうにも落ち着かないのである。よって一緒に働いている人は、そうした個人的なルーティンを理解してあげて、それが無意味に見える場合であっても、できるだけ許容するべきだとわたしはおもう。


このエントリを読んで思い出すのが、
ポニョの宮崎監督です。

以前やっていたNHKで密着ドキュメントで、
「ポニョの本質」であるシーンを描いているとき、
彼は、ワーグナーのワルキューレを大音量で流していたのです。

このアメブロでも散々書いてきたことですが、

外部入力、
つまり、
音だったり、身体の動き、視覚、
といった、
五感に基づくなにかしらの定入力、があると、

そのあとする行動の出力が誘発されるように
ぼくは思うのですね。

なので、
ワルキューレを流すことで、

以前ワルキューレを流して作ることの出来た何か、を作る環境

を用意している、
ということだと思います。

ちなみに、
同じくNHKのドキュメントで、

イチローがマウンドに上がるときの階段を、

 うまくいっているときは右、

 どうもうまくいっていないときは反対側、


しているジンクスな行動

紹介されていましたが、

これは、
うまくいっていないときの環境が含まれている点で興味深い行動で、

うまくいっているときの環境(自分の行動も含む)と
区別するために行動を敢えて分けている、

つまり、
うまくいっているときの純度
を高める行動だと言えるとぼくは思います。


安野モヨコさんの漫画、ジェリービーンズの中で、
失恋をした女の子が、黒い服を着る、というシーンが
ありました。

 女の子は気持ちが服に出てしまうの、

ということでしたが、

これも、実は、
上手くいっていないときに、上手くいっていないときの服を着ている、
という状態を見る限りでは、
まさに、先ほどの、区別している行動だといえる
のだなあと今気付きました!


ぼくが思うに、

ジンクスとは、

うまくいっているときと
うまくいっていないときの
場合分け
をするための区別のためのしるし付けで、

それを、
本能的にしているのだと思うのですね。

だから、
おそらく世の中で成功している人は
例外なく
ジンクスとか運とか
そういうものを重んじているとぼくは思います。

ここで大事なのは、「信じる」ではなく、「重んじる」である点です。

それらそのものの信憑性はおいといて、
その通過儀礼の効果は利用する、
という感じではないでしょうか。


よく、占い師に今後を占ってもらう、という経営者の方もいるようですが、
それも、
ここぞ勝負、というときに、
 
占ってもらう行為それ自体がジンクス

なんじゃないかとぼくは今思いました。

だから占ってもらったこと、内容はそれほど重要ではない
と思うのです。

で、
そのジンクスの行動となる部分を儀式、と呼んでいるのではないか
と思うんですね。


もちろん、その儀式は、
何かがうまくいったときに、たまたまやっていたこと、
にしかすぎなくて、

で、
次のときにまたうまくいったときに、やはり同じようにやっていた行動、があり、
なんとなくそれが定着した、
のが儀式、

なのではないかと
ぼくは思うのです。


以前
スラムダンクの井上雄彦さんが、

 ネーム(マンガの下書き)は、ファミレスでやる
 ファミレスのハシゴをしている、

みたいなことをトップランナーで話されていましたが、

これも、
なぜかわからないが、はかどる場所が、結果的にファミレスだっただけ
に過ぎないわけで、これも実は儀式、なのだとぼくは思います。


で、
ぼくもそうなのですが、
どうにも行き詰まるようなとき、というのは、
例外なく、この儀式が薄まったとき、のように思うんですね。

その儀式をやったときに、うまくいかない例が混じり混んでしまった状態、
というか。

なので、そういった状態の解消のために、

仕事なんかでもそうですが、
とにかく進むなら山の中でも雑踏の中でもパソコンを持って放浪したりします。
それでもし進んだなら、その方法でしばらくやる。だって進むんだからしょうがない(笑)

どんな奇行であっても、それで物事が進むなら万事OK、
それが他人から見ると奇妙な儀式に見えるだけ、

だとぼくは思います。


そして、ほとぼりが冷めたころ、
また以前の儀式をしながら以前やっていたことをやると、
その儀式の神聖度が復活するようにも思うのですね。

うまくいかないときに、かじりつくことだけは避けなければいけないと
ぼくは思うのです。

というのは、その、
うまくいくはずの環境で、
うまくいかない例を積み重ねてしまうことになり、

その環境、つまり儀礼の純度が
どんどん落ちていってしまう
からですね。

うまくいかなかったならば、即その環境で失敗例を重ねなければ、トータルの
成功率は高いわけですから、
イチローのように、逆の足で踏み出す、みたいなことをして、今回は失敗環境だぜ、
と刻まなければいけないとぼくは思います。

このあたりの概念は、物事の学習とか技術の鍛錬とか
とも密接に関連している話ですが、
今日のところはこのあたりで!

では!

[ 話了 ]

空中キャンプ「個人的なルーティン」→HP

今日、田原総一郎の番組、サンデープロジェクト(*1)で、
北欧フィンランドでの教育政策、についての、第二回目がありました。

フィンランドは、
携帯電話のノキア(NOKIA)とか
レゴ
を生んだ国ですが、

小学校から大学まで、教育費が無料らしいんですね。
で、
教育というのも独特で、

本を読んで感じたイメージを、
絵にしたり、
音にしたりしてみる、

そういう教育なんですね。

一生を通じて使える技能、というものを取得するのが教育、
という理念に基づいているので、
卒業した人が、職に困ることがない、というわけです。

前回の特集のときも、レゴ社を取材していて、

レゴが業績不振に陥ったときも、
従業員の就職先の相談や斡旋をレゴ社が最後まで面倒を見たりしていて、
また、
国の社会保障制度もしっかりしていて、
安心して働くことができる、
というものでした。

これを見ていて思い出したのが、

横山光輝さんの名作漫画、バビル二世、
でした。

バビル二世では、世界征服をたくらむ、ヨミ、との戦いになるのですが、
主人公バビル二世によって、ヨミの部下の船が壊され、
戦闘員が暗い海の上、救助ボートでさまようシーンがあります。

さまよって間もなく、ヨミの救助の飛行機が彼らの救助ボートの上に現われます。
彼らは、
「このサポートがあるから、我々は安心してヨミさまに仕えることができるのだ」
と言っていて、

これこそが仕事に専念できる環境、ということになる
とぼくは思うのですね。

大学でもそうですが、
奨学金、というのは、バイトしたりして本来勉強する時間を割かれる
という本末転倒な事態を避けるためなんですね。


まあ、それを見たあと、
今日は仕事始め、で仕事場に出たのですが、
外の待ち時間の寒さで、
ふと、スキーのシーズン、スキーを思い出したのです。

昔はすごく苦労して修得していたのですが、
たぶん、今なら学習の方法がわかっているので、簡単に修得できるだろう、
と思いながら、

でも、
それでは修得できない壁、があるなあ、と
気付きました。

それは、体力です。

スキーでもスノボでもいいですが、
例えば曲がるときには、エッジを利かせ、体重を乗せたりしなければ曲がりません。

そのとき、
体重を乗せた足が、カーブの間、持ちこたえることができなければ、
曲がりきることができないことになるなあ、
と気付いたのです。

つまり、
いくら学習能力が高くても、
足が持ちこたえられなければ、学習をすることができないのです。

思えば、スキー部は、夏の間は、ずっと筋トレでした。
何が悲しゅうて筋トレか、と思っていたのですが、今ならその重要性がよく
わかります。

先日、B'zの密着ドキュメントが再放送されていて、
ぼくはそれまでB'zには、まったく興味がなかったのですが、

3時間のステージをやりきるために、
ボーカルの方が毎朝走りこみをされていたのですが、
今から思うと体力のため、です。

体力がなければ、いくら歌いこむ才能があっても発揮することが
できない、ということなんですね。



フィンランドの教育に対して、
日本は、と思えば、暗記教育ですが、

その暗記能力は、
例えば、ゲームでマニュアルを読む能力、
バイトで、仕事のマニュアルを読んでそのとおりやる能力、
に繋がっているんだなあ、とも思いました。

臨機応変な対応はできないかもしれなくても、
臨機応変な対応を記載したマニュアルを実行することはできるのです。

ただ、
日本は、
その、臨機応変なマニュアルを書く人、の育成、
つまり、リーダー育成

急務なのではないか、と今、思いました。


何かを修得するには、学習過程が必要です。
最初の時間は退屈かもしれませんが、
その退屈を超えなければ、学び、修得することができないわけですが、

もし、
退屈に耐える体力、つまり、退屈体力がなければ、勉強ができません。
学習能力があっても、体力がないというだけで、学習ができない結果に
なってしまうのです。

先日の番組で、
アマゾンの森で、土地に住み着いた原住民の取材で

 彼らは農耕の技術がないため、切り開いた土地を売り払い、また森を切り開いていくのだ

とナレーションがなされていましたが、

学習ができない、ということは、
生きていく上で、非効率な作業しかできないことになり、負担が強いられるだけでなく、
それが社会的に大きな損害にもなっていく。

フィンランドの教育は、
そういったことのないよう、
基本的な技術の修得、に目が向けられているのだなあ、と
ぼくは思いました。



ぼくの場合ですが、
何か企画をするときでも、仕事の相談を受けたときでも、
問題点の洗い出しとその優先順位をつけることは簡単にできます

が、

どうも
普通の人は、
問題がたくさんあると、それだけで絶望してしまうようなのです。
これは最近気づいたことですが、
これも、体力、のように思うのですね。

そういった、体力は、
精神力でどうこうする
というよりは、
昔から自然に身についていた、
というようなもののような気がして、

それは、
身の回りの人たちや、本や、とにかく触れていたすべてのもの
から教わったように
思うのですね。

フィンランドの教育にすごく思うのは、
知らないうちに、そういった体力をつけさせているのではないか、
ということなんです。


正月に、
3歳児の相手をしていましたが、
子供には子供の理論があり、それに臨機応変に対応していくには
かなりの体力が必要だと思いましたが、

そうやって対応することで、逆に彼に体力を与えていくことでも
あるとぼくは思っていて、

ぼくのできることは、身近な彼とか、
このブログを読んでいる方々に行動をお見せして
伝えていく、少しずつ変えていくことかと思っています。

ただ、
言うまでもありませんが、
日本では異質は排除される風土がありますので、
ぼくもかなり苦労してきました。

正しい成長曲線を得るだけでなく、
そういったことで得た自分の行動パターンが
攻撃を受けないようにする技術、
攻撃を受けたときに相手を否定することなく防衛しながら逆に取り込んでいく技術、
なども
修得および開発していく必要があるのですが、

それらは追って、
このアメブロで書かれることになるのでは、となんとなく思ったりしています(笑)

今年もよろしくお願いいたします!

[ 話了 ]


*1 テレビ朝日、サンデープロジェクト →HP