騰奔静想~司法書士とくたけさとこの「つれづれ日記」

騰奔静想~司法書士とくたけさとこの「つれづれ日記」

大阪の柏原市で司法書士をやってる徳武聡子といいます。
仕事のかたわら、あっちこっち走り回ったり、もの思いにふけったり。
いろいろお伝えしていきます。

世によく言われる「自己責任」ってのは、ひじょーに便利な言葉だと思う。
特に「そんなん自己責任やろ?」と他者に向かって、かるーく簡単に言い放たれるとき。
   
その人に起こったこと、その人が抱えている困難の原因と解決をすべて、当人に求める。当人以外は責任をとらんでいい。その困難をどう解消するか、ともに悩まんでいい。「自己責任やろ」と言っとけばよい。
社会の仕組みや国の在り方という、根本的に歪んでいるところがあっても、そこに疑問を呈したり、反対したり、改善を求めたり、声を上げたり、そういった遠大で手間のかかる道を踏まんでも、別にいい。
「責任」という単語を用いつつ、「責任」からこれほどかけ離れた言葉はない。
 
といっても、私は「自己責任」そのものを否定する気は、ない。
よりよい生き方や選択をするために、自分を振り返ってみたり、過去を反面教師に改善を追求していくことは、やり過ぎなければええことやと思う。
司法書士という仕事上、貸金返還請求などの法的トラブルの相談を受けるけど、それが望み通りに解決しなかったとき「私も●●やったな…」と、自分を納得させる材料とするのもありやと思ってる。
 
でも、今、世にはびこる自己責任論は、次元が違う。
「自己責任」が声高に叫ばれれば叫ばれるだけ、国や地方の役割(責任)は小さくなっていく。困っている人は声を上げられなくなる。いやーな図式。

気がついたら3年ぶりの更新です…。

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3月11日(日)

朝から2件の打ち合わせを経て、午後からは、NPO法人CPAOの定時総会に監事として参加しました。
 
 調理ボランティア(ときに借金整理相談)として参加していましたが、その後はなかなか活動自体に参加できず、かなり久しぶりの関わりとなりました。
 子どもの貧困の最前線での一年間の活動報告、それから今後の活動計画を聞くにつれ、お母さんや子どもへの支援の難しさを感じます。そこを「困難を抱えた」とか「課題を抱えた」と、書くのは簡単なんだけど、実際の状況はそれどころではない。
 ただ、生活保護を主なフィールドとしている私からすれば、少なくとも生活保護の運用がしっかりしていて、経済的にほんまに最低限度の部分でも保障されていれば、あるいは、もっと使い勝手の良い制度であれば、解決する部分も少なくない、と感じます。というより、そこが機能していれば、お金のストレスはかなり軽減されます。
しかし、いまもって、生活保護の水際作戦はなくならない。行政の窓口の知識と経験と自覚の欠如が、制度を機能不全に陥らせ、困った人を助けない。
 総会の後のぶっちゃけトークで聞く、そんな機能不全の窓口は困った市民に対応する部署全般に及んでいて、生活保護だけでないようです。
 
 支援、支援と言うけれど、マイナスからゼロに持って行く支援をなぜ民間がしなければならないのか。せめてゼロの状態から下がらないようにするのが、「健康で文化的な」生活を保障する国・地方の役割なんじゃないでしょうか。同じ力を尽くすなら、ゼロからプラスになるような支援をしたいもの。運動でも同じ。制度改悪に対抗する守りの運動より、より制度を使いやすくする攻めの運動をしたいものです。
 マイナスからゼロへの支援が嫌だとか、いうことではないです。国が役割を果たさず、自治体も責任放棄するその尻拭いをさせんなや、ということです。
 
 なにも、特別なことは望みません。
その役割にふさわしい知識と経験と自覚をもって、フツーに。ほんまにフツーに仕事してほしいだけです。それだけで、助かる人は沢山いるから。
  
 窓口にいる人たちだけが、責められることでもないです。フツーに仕事ができるような行政での人員配置や予算確保、行政がそうできるような市民の理解、阿呆な公務員バッシングをやめること、自己責任論ではなく社会全体で困った人を助けるという意識作り、なにより子育てを母親だけに押しつけない、ついでに言えば離婚した子の父はちゃんと養育費を払わんかい!というところまで、話は大きくなったり身近になったりしてますが、こういったことを感じた一日でした。
(半分くらいは感じただけじゃなくて、ぶっちゃけトークでぶちまけましたが…)

 日弁連が「実は『ちょっとしんどい』あなたへ あなたも使える生活保護」というパンフレットを1月中旬に公開しました。 

 生活が苦しい人に生活保護の利用を考えてみませんか、と呼びかけるパンフレットで、わかりやすい説明と相談窓口、申請書も掲載されています。パンフレットは、以下からダウンロードできます。

http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/seikatsuhogo_qa_pam_150109.pdf
(後日、紹介記事を書く予定です)

 さて、このパンフレットが、yahoo!ニュースで取りあげられました。

【記事】生活保護「不正受給」は1%未満にすぎない――日弁連が利用を促すパンフレット作成(弁護士ドットコム)

 この記事に対して「不正受給が1%未満なんて、氷山の一角だろ!」というコメントが多く寄せられていました。
 それに対する反論の意味を込めて、連ツイしたものを加筆してまとめました。

 *  *  *  *  *  * 

 生活保護の不正受給は全体の0.5%程度です。

 そういうと、必ず「氷山の一角だろ」という反論がでてきます。
 何をもってそのように言えるのでしょうか。
 確かにまだ発覚していない不正受給もあるでしょう。しかし「氷山の一角」という意見の裏には「生活保護は不正受給だらけ」という偏見があります。

 「生活保護は不正受給だらけ」という偏見は、一つには報道の偏りに原因があるでしょう。
 生活保護に関する報道は、ほとんどが「不正受給」か「利用者が過去最多になった」にというものです。不正受給ではないものを不正受給であるかのようにバッシングする報道もあります。そして、国は一切、こういう偏りを是正しようとしません。

 原因のもう一つは、制度について正しい知識と理解が広がっていないことです。
 生活保護は、基本的に「そのときの収入が基準以下なら利用できる」という極めてシンプルな制度です(資産の要件はありますが)。働いていても、年金があっても、よそに親族がいても利用できます。
 そういったことを知らないと「生活保護を受けられ”なさそう”なのに受けてる=不正受給だ!」という認識に結びつきがちです。記事でも取りあげられた芸能人の件がいい例ですね。

 何が不正受給で何がそうでないかも知られていない。

 生活保護は恥だという前時代的な認識も根強い。

 否定的な情報や認識しか持っていなければ、不正受給だらけにも見えてしまいます。だから「氷山の一角だ」という意見が出るのでしょう。

 なお、「不正受給が全体の0.5%に過ぎない」というデータを示すことは、決して、僅かだから見過ごしてよいとか許されるということを主張したいからではありません。
 不正受給は許されない、これは大前提の話です。

 とはいえ、生活保護にまつわる関する問題は不正受給だけではありません。
 生活保護という制度の利用が必要なはずの人がほとんど利用できていないという「漏給」の問題があります。利用できている人は2割程度と言われています。
 つまり、そのように、健康で文化的な最低限度以下の生活をある意味で強いられている人の数が何百万人にも及ぶということです。

 生活保護について不正受給だけを強調し過ぎると、どうしても制度全体のマイナスイメージが強くなり、生活が苦しくても生活保護を利用しようと思えなくなります。
 「不正受給は許せない」というのは、おそらく誰もが抱く真っ当な正義感でしょう。しかし、その正義感も度が過ぎると、他の誰かを苦しめることになります。

 「不正受給をなくせば必要な人が生活保護を利用できる」ということも、よく言われますが、そんなことはありません
 不正受給の額は191億円です。一方、生活保護が利用できてない人の数は現在の利用者の数倍ですから単純に考えて何兆円もの規模の話です。比較にもなりません。

 生活保護に対する誤解を少しでも解いていただきたいと思っています。