前頭葉の覗き窓

前頭葉の覗き窓

日常で感じたことを書き綴っていく、そういうところです。

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本日は七夕である。天の川を隔てて彦星と織姫星が一年に一度だけ再会することを許される日であり、その諸説から様々な伝説やストーリーが現代にも伝わっている。
七夕といえば祭り、祭りといえば浴衣、桃色の浴衣を着た姿が今でも頭をよぎる。

最近音楽に感化されている。こういう音楽を聴きたいという欲がある。

当分これ聴いてると思う。

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「コンプレックス」というと、我々日本人のほとんどが「劣等感」だと考えていると断言する。とは言うものの、齢23(もうすぐ24歳ですよアピール)の社会の右も左も分からぬ、ましてや有名大学出身でもなく凡人にすら満たない若僧が言っていることなど容易に信じないでほしい。

そもそもコンプレックスというのは、“何らかの感情によって統合されている心的内容の集まりである”(Wikipediaより引用)という定義がある。

思い返してみると、日常でコンプレックスと使う場合、やはり“自分の弱み”という意味で使っている。しかもそれは身体の部位であったりすることが多い。

僕の場合、「体型」が最も強いコンプレックスにあたる。太い、細い、小さい、大きい...といったように、我々は千差万別である。その中で僕は「細い」ことにコンプレックスを持っている。痩せ型なのである。

同じような年齢層をピックアップしてみても、僕のような痩せ型はそうはいない。初対面において必ずといっていいほど体重を聞かれ、いく度となく相手を落胆させたことがある(特に女性)のであえてここでも明記しない。そういった経験から徐々に痩せている自分が嫌になり、強いコンプレックスとしての感情が心に棲みついている。

よく女性から「私の肉半分もらってよ」と言われるのだが、割と本気で欲しいと思っている。そのくらい痩せている自分が嫌であるんだなと再認識しては落ち込む。

コンプレックスを跳ね返す力というのが強ければおそらく筋トレをして見返してやるといったプラスの方向に持っていけるのだが、いかんせん何事にも億劫な自分であるので行動に移る気配すらも感じない。

まあ所詮ないものねだり。理想。

コンプレックスって自分が思うより人からはどうも思われていないのかもしれない。
楽しかった思い出はなかなか忘れることはできない。ふとした瞬間に思い出す小学生の自分、中学、高校、大学生。
年齢を重ねるごとに「これが楽しい」と思えることが減っていく。
10年後、「今」がどのような思い出になっているのだろうか。

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学生時代のころの僕というのは、学校に行けば友人がいて、サークルに行けば組織の一員になり、アルバイト先ではいわゆる社会があり、家に帰れば家族の団欒があった。愛し合った人もいた。

今の僕は、毎朝同じ時間に目覚め、前日の仕事帰りにコンビニで買っておいたパン(たまにおにぎりを買う)を頬張りながらネットに片足を突っ込み、冴えない頭のまま煙草に火を付ける。そしていつもと同じ時間に家を出て、いつもの信号で止まり隅田川の流れを横目に出社する。会社では今でこそ口を開く回数は増えたものの、自分から話題を作っていくのは苦手である。適度に煙草休憩を含めながら与えられた仕事をし、最近は積極的に仕事を見つけにいく努力をしている。自分を讃えたい。仕事が終わるといつものコンビニで夕飯と翌朝分のパンを買い、帰宅してネットに入り浸る。
ここ最近こんな感じである。

上京したての頃はなかなかのチャレンジ精神があり自炊に力を入れていたが、いつの日からか見向きもしなくなってしまった。割と料理にはこだわるほうだと自負しているが、今となっては作る気が起きない。一緒に食事をする相手がいればまた変わってくると思う。
掃除...というよりインテリアにも力を入れかけたが、半端な内装のまま現在不進行中である。
読書もまったく嗜まなくなってしまった。億劫だ。

それでもまあせっかくの東京、一人暮らし。様々なことをしてみようという意識は高まりつつある。最近は街に出たり音楽を観に行ったり季節を感じに行ったり、と簡単なことから見直していこうというゆえん。

ふとした瞬間に「あれ、これ前にも同じことがあった気がする」と感じることがある。デジャヴ現象ですね。そのシチュエーションは様々で、友人や上司と会話をしているときであったり、街にいるとき、一人のとき。日常のどこに潜んでいるのか分からない。まるで待ち望んでいたかのようにそこに存在しているのだ。

そもそもデジャヴというのは「脳の勘違い」と僕は考えている。この考えに科学的根拠は微塵もないが、僕がそう思うのであれば僕の中ではそういった解釈でいい。
おおよそデジャヴ現象が起こるときというのは初めて訪れた地で感じることが多い。過去の記憶のどこにもない場所を、この光景知ってるよと脳が伝達してくる。その瞬間というのは、言葉では表せないがとても不思議な感覚になる。
もしかしたらいつぞやみた夢が僕に語りかけているのかもしれない。なにかのサインなのかもしれない。未知である。

デジャヴの逆パターンがあり、見慣れたはずのものがふとしたときにそれを見慣れたものと感じとれなくなり、未知のものと感じてしまう。これをジャメヴというらしい。これはおそらく僕の人生ではまだ経験したことがない現象なのでまたの機会に。


先日電車に乗って街に出かけたのだが、女性専用車両でもないのに女性に囲まれたことがあった。三人掛けの座席が向かい合っている作りで、僕はドア寄りに座っていたのだが、対面の三人掛けと僕の横、さらに隣、吊り革に掴まっている目の前の人間も女性であったため、ものすごい不信感・不安に襲われた。幸い音楽を聴いていたので、僕は悪くないですよ~貴女の脚なんてまったく興味がないですし、良い匂いも感じませんアピールを心の中でしきりに唱えていた。やがて正面の女性が降りていくと、対面に座っていた女性のスカートから覗く秘密の三角ゾーンの奥に白い布地のモノが見えたので僕はもう寝ているフリしかできなくなった。電車で足を組むのはやめていただきたい。

足を組むといえば、数年前から足を組む癖がついたという実感がある。単に足を組んでいるほうが座っているときに楽であると感じるからであるが、足を組むことによる心理的状況というのがきっとあるはずだと思う。例えば、社会的優位にある人間は足を組むイメージがある。一種の力の現れなのであろうか。さすがに目上がいる状況で足を組む行為はしていないが、少なからず足元がムズムズする感覚はある。
似たような行動に、椅子に座っていると胡座をかきたくなる衝動が生まれる。もしかしたら骨の作りがその姿勢に合うように変わってしまったのかもしれない。整体のお世話になる日も近いのでは。


仕事帰りに隅田川沿いを少し歩いてきた。本来ならライトアップされているだろう桜の木は暗く、強風にあおられていた。それでも花見をしているサラリーマンは結構いたし、カップルで写真を撮っている姿もちらほら。春の陽気に人々は酔いしれていた。缶ビールでも買って混ざってやろうかとも思ったけれど、僕にそんなことをやれというのが間違いである。


帰りがけに見た桜吹雪や屋形船は、これを書いているころには過去になっている。数年後、数十年後にまったく別の地でこの時期に桜を見たときに、果たして今日の桜はデジャヴを引き起こす「過去」になるのだろうか。

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140文字で各々の「今」を発信していく某Twiたerよりは少し真面目なことを綴りたくなったので、去年のそれこそいつ登録したかも忘れていたこのブログに、不定期ではありますが戯言を書いていきたいという次第でございます。

こんばんは。

季節はまた一回りして陽気に眠気、各地では桜が見所を迎えてきておりますね。
こんなときカメラでも趣味にしていれば外に飛び出すのも楽しいのではないかと常々考えてしまいます。
(親父が高校生のときに写真部だったので、実家にはそうれはもうタイソウな一眼レフと、朝焼けと富士五湖のどこかと富士山、といった写真が飾られています。)

写真は「その時(過去)」を未来まで残すための数少ない媒体である。
しかし年月とともにそれは風化し色褪せていく。

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先の東北地方大地震によりどれだけの記憶が流されたのだろうか。
幾万人が死んでいったのだろう。

正直なところ日々ニュースで放送している災害状況を観ても、ネットで不特定多数が現状の議論をしていようと、僕は当事者ではないので実感が湧いてこないのが本音である。

しかし考察することはできる。

脳は生きているうちに活用せよ。

さもなくば人は死ぬのではないか。