40日を一回で書いてみました。くっそ長いので、適当に読み飛ばすくらいで間違いなくちょうどいいです。ではではいってみましょう~

day1:トロント空港。幾分の不安と緊張。親切にしてくれたインフォメーションのおじいちゃんに異常に感謝。夕食は、ピザにやられる。

day2:ナイアガラへ移動。長距離バスに自分ひとりで乗れた!!それに満足。ナイアガラの滝、お~結構すごいやん。

day3:タクシーを使って、近くのワイナリーへ。昼食は、subway。普通のサイズ長!!!!!日本の二倍くらいの長さがある。ワイナリーはすばらしかった。景色も味も。本場アイスワインを試飲。ワインというよりもデザート。夜は、ブログにも書いたけど、とことん話す。なんでこういう時って、宗教の話題が必ず出るとやろ。

day4:トロントへ移動。日本食を早速食べる。かつ丼うまし。ホステルは、下の段のやつが完全にいかれてた。

day5:トロント散策。知らない街を好き勝手、適当に歩きまくる。選挙ポスター発見。か、かっこいい。いいポスターやんけ。
22歳、法学部政治学科生のつぶやき
元電通マンの40オーバーのおっちゃんに出会う。ほぼ小学生の無邪気さ。うん、すげー人だった。

day6:リマin。深夜着。トロント発の搭乗口が三回変わったせいで到着が3時間遅れる。タクシーの運ちゃんにホテル前で降ろされるも、ホテルのドア開かず。人気なしに、不良あり。目測、35メートル。4人組。ちょっとしたパニック。半端ない勢いでノックする。だいぶ迷惑そうな顔でガードマンのおっちゃんが現れる。一安心で睡眠。

day7:昨日のうちに探したホステルへ。ブログで書いたとおり。昼飯は、ケンタッキー。太平洋の雄大な景色を見ながらのケンタッキーうま!!と一人で感動。

$22歳、法学部政治学科生のつぶやき

街で声かけてきたおっちゃんと観光。二時間くらい。リマからクスコへのバスチケットを予約してくれる。別れ際、タクシー代をくれとせがまれる。300円くらい。確かにめっちゃお世話なったけど、なんか嫌だ!!ちょっと喧嘩して別れる。結局、150円分あげました。

day8:リマの中心街へ。昼飯はケンタッキー。だって、めっちゃうまくて味は日本と変わらないのに、半額くらいなんやもん。。。夜、マルタからやってきた3人組とバランコという地区に行こうと約束するが、ねぶっち。ちょっと横になって起きたら、朝でした。

day9:リマからクスコへの長距離バス。22時間。おっちゃんがめちゃめちゃいい席取ってくれたので、超快適。景色に感動。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき

ハルジオンの歌詞の意味が突然氷解。そういうことだったのか。。

day10:クスコへ。バスで知り合ったドイツ人トーマス(バスの中でビールを飲んでて乗務員に注意されてた人)と飲もうと約束するも、高山病により無念の断念。頭がぐわんぐわんいってやがる。ということでホステルで休憩。夜は、街へ。帰ってきたらアイポット消失。

day11:宿移動。ペンシオン八幡へ。夜はおっちゃんと少し話す。最近は、長期滞在者が減ったそうな。

day12:マチュピチュ発!!のはずが、雨により延期。だらだら。

day13:マチュピチュへ。電車で行けば2,3時間のところをお金節約のため10時間かけていく。道恐すぎ。十字架立ち過ぎ。

$22歳、法学部政治学科生のつぶやき-マチュピチュ危険な道

途中、溝にはまって動けなくなってた車を救出。俺の車のドライバーがね。俺は、ぼけーと立ってるだけ。

道中の橋は落ちかけ。外れた底板をはめて一気に駆け抜ける対向車。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-橋1
22歳、法学部政治学科生のつぶやき-橋2
僕らの車は、川へダイブ!!いよいよ冒険って感じ。
22歳、法学部政治学科生のつぶやき-三人写真
マチュピチュの神秘性が、レベル15上がった。夜の7時過ぎ。マチュピチュ行きの拠点となるマチュピチュ村に到着

day14:朝4時おきでマチュピチュへ。先着300名に与えられるワイナピチュの登山権を獲得。一時間半かけて登る。頂上に着き振り返ったその先は、まっっっしろ。視界ゼロ。霧半端なす。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-マチュピチュ 真っ白

その後、霧が晴れた先にあったマチュピチュは、ごちゃごちゃしてました。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-マチュピチュ しょぼしょぼ

個人的には、眼下一面に広がる森がよかった。

day15:昼まで時間つぶして、クスコへ。行きに僕らがダイブした川で、別の車が動かなくなってました。

day16:朝一のバスでプーノへ。だいたい8時間くらいだったかな。夜は、中華へ。ホールの中国人の店員の愛想のなさが奇跡的。面白すぎるくらい。俺にはまだしも、厨房のペルー人のおばちゃんにオーダー伝えるとき、伝票を机にたたき付けるっていうね。

day17:ボリビアへの国境越えの日。国境の空の青さが、この旅一番の青さだった気がする。バスの隣に座ったイタリア人のおっちゃんがほぼジローラモ。な、なんてかっこいいおっちゃんなんだ、と思ってたら、足がめっちゃ臭かった。頼むからサンダルを脱がないでくれ。。。おっちゃん、バスを降りた一瞬後には、もう女の子と仲良くなってたけど。お~ある意味、完璧なステレオタイプ。ボリビアのラパス、ホステル「エル・ソラリオ」へ。

day18:自転車によるデスロードツアー。標高4600メートルから1300メートルくらいまでを延々下る!!3分の2はオフロード。狂気の沙汰。けど、最高。最後のほうは握力なくなるけど、とにかく飛ばす。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-デスロード
22歳、法学部政治学科生のつぶやき-デスロード集合写真

やっとガイドに追いつける!!って感じになったときにゴール。もう一回参加しようかな…一瞬悩んだほどに最後の坂を責めれてる、って感じはたまらん。昼飯、8人中俺だけビールを飲む。え、なんで??欧米の人は、昼間からは飲まないものなんかね?

day19:ラパスで休憩。お土産散策。

day20:ワイナポトシ登山出発

day21,22:ワイナポトシ登山→ラパス

day23:休憩、お土産散策。

day24:アマゾンツアーに参加するために、一路北へ向かう。バスで悪路を行くこと18時間、疲労の果てに拠点となるルレナバケという街に到着。というところを、一気に飛行機でびゅーん!!!!35分で着きましたけど何か。

day25,26,27:アマゾンツアー。川をボートで下る。伝説のガイド、ランボーとの出会い。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-ランボー

普段のお返しとばかりに、自然に搾取されまくってきた。蚊の野郎に、たんと血を分け与えて帰路へ。

day28:夜行でウユニへ。それまでは、最後のラパスを満喫。とにかく、その場で絞るオレンジジュースがうまかった。あと、日本食のけんちゃん、行きまくりました。飯がうまいと感じないと死んでしまう病なんで。

day29:朝の9時に街に着き、ツアー会社を探して11時半にウユニ塩湖ツアーに出発。一泊二日ということで、夕方までいろいろ周って、その後塩湖のホテルに行く、と思ってたら、午後一時にホテルにおろされる。ホテルというか、掘っ立て小屋?? ホテルの宿泊客、俺一人。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-ウユニ塩湖

一面真っ白な世界、確かにすごいけど、もって2時間でした。お、無限とも思える時間が目の前に広がってるぞ。よし、本を読もう。二時間半後、読了。まだまだ待機。ということで、一人で飲む。ビールうめー。夜、満点の星空を見に外へ。うわー、満点の月明かり。このタイミングでほぼ満月って、やってくれますな。ともう死期を迎えつつある老人並みの独り言を発する。

day30:月が沈んだ深夜三時半に起床。ついに星の輝きに身を浸す。ん、ん、ん。ん、ん。一体誰だ、一生忘れることができない星空でした!!みたいなもりもりのコメントをしたやつは!!その後、ちょっと寝て6時おき。朝の7時に迎えが来る予定のところ、待ち5時間半おねがいしまーーす。てな感じで、待ちに待たされる、とりあえず、朝の9時時点で、ビールを飲み始める。他のツアーの運転手のおっちゃんが自分が飲んでたのをくれました。そりゃ、真っ白なだけの道の運転とか、飲まなきゃやってられんよね。その後、12時半過ぎに迎えが来て、町には18時に戻る。22時半の夜行列車で、アルゼンチンとの国境の町ビジャソンへ。かわいい二人のお子ちゃまの泣き声でほぼ眠れず、けど、それは絶対におこっちゃダメなところ。

day31:朝の9時前にビジャソン着。国境がよく分からなかったので、近くにいた人に、スペイン語も国境も分からないから一緒に行ってもいい?、って電車の荷物を受け取るところでお願いする。そしたらその三人組、なんでも火山の研究でボリビアに来てたんですって。荷物の中、たっくさん石が入ってるんですって。直後、この旅一番の重労働。くっっそ重い。もう必死の思いで国境を4人で越える。そしたら、手荷物検査で「この石は、持ち込めない。」とのこと。いやいや、研究用っていう証明書あるやん!!「はんこがないからダメだ。」とのこと。国境で待つこと一時間。僕はここでお別れを告げ、アルゼンチンの町ラ・キアカへ。果たして3人は無事に石を持ち込めたんだろうか。午後1時発のバスでブエノスアイレスへ向かう。

day32:「このくそ餓鬼、ぶち殺したろかー!!!!!」ブエノスへの長い長い道のり、移動で越す二日目の夜。隣の席に、またまた小さな男の子がいました。やっと眠りにつけそうになった瞬間、その子は、僕を蹴りました。そして、僕は、この旅一番の怒りに震えたのでした。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-赤ちゃん

ウユニで移動を開始し始めて、44時間。まともに寝れずに、くたくたになってブエノスアイレスに午後7時に到着。日本人宿のファッキンスタッフに再び怒り心頭した後、別のホステルで一泊。アルゼンチンといえば、牛肉と赤ワイン。ということで、早速繁華街に繰り出し、優雅な夕食。いや~、肉がでかくて、うまい!!と大満足で就寝。

day33:昨日ネットで調べたホステルに移動。この旅、一番のホステル。雰囲気も、ホステルをやってるマウロ・ディエゴという二人の兄弟も大好き。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-リビング
22歳、法学部政治学科生のつぶやき-部屋

で、昼ご飯は、またまたステーキ+赤ワイン。サイズがsmall(200g)とmedium(400g)とlarge(600g)があって、smallでいいかなぁと思ったけど、周りがmedium,largeばかり。大の日本人がこんなところでsmall頼んで恥を晒すのか、いいや、晒さない。と自問自答し、mediumを注文。完食後、お腹の異変を感じる。ま、まずい感じの痛みだ。ホステルに直帰。この旅、一番の腹痛とお腹の下し方。結局その日は、全くホステルを出れず、トイレに10回以上駆け込む。肉が原因なのか、なんだったのか。よく分からない。

day34:ディエゴが教えてくれた通称leather streetに行く。その通りで売られてる物が、観光名所でだいたい2,3倍の値段で売られてるよ、の言葉通り革製品が激安で売られていた。テンション上がりまくり。ということで、積極的に物色。夜は、ホステルの近くの沖縄料理屋へ。日本食、万歳。

day35:とある有名な日本人宿へ向かう。目的は、本の入手。ちょっと部屋を見させて欲しいんですけど、という出任せの口実で潜入。なんとかうまいこと話を持って行き、これまでに読んだ3冊と宿にあった本を交換してもらう。城山三朗「経・暦・年 不問」とヘミングウェイ「誰がために鐘はなる上・下」をゲット。十分すぎるほどの戦果と言っていいだろう。そして、その日も、沖縄料理屋へ。

day36:旅の中でも最高の一日。朝はのんびり起きて、朝食食べて読書。シャワー浴びて、昼間は、宿の近くのところに食べに行って、ビールと鶏肉のクリーム煮込みみたいなの。うまし。その後、宿に戻って昼寝。それで夕方5時くらいから、有名な墓地へ。すごいきれいに整備された墓地で、歩いてて気持ちがいい天気で、夕焼けがすごいきれいだった。人がたくさんいるおしゃれな建物があったから入ってみると、美術展のスタートの日だったらしく。ワインを無料で配ってて、それを飲みながら美術館見学。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-ワインwith美術館

絵とか写真を見て、あんなに心がざわざわしたのはいつ以来だろう。ちっちゃい映画館みたいな部屋では、高校生くらいの子達が、家族とかを呼んでバンド演奏会をやってて、それにも潜入。最前列の通路、最高の席で演奏に聞き入るちっちゃいお嬢ちゃん。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-最前列の女の子

おねぇちゃんでもいるのかな、なんかいいなぁ、と思ってたら、最後らへんのバラードの曲で大暴れし始めました。で、結局ワインを4杯くらい飲んで気持ちよくなって、それで締めは恒例の沖縄料理屋。

day37:ボカ地区に行く。芸術の街かと思ったら、下品な日本語が飛び交う街でした。俺が日本人と判明した途端、レストランの客引きの兄ちゃんは、「チン●、マン●、オカマ~!!」と大声で叫びだしてました。誰だよ、こんな言葉教えたの。辞書を引いても決してのってない言葉なので、必ず犯人はいる。重罪に値します。なんかげんなりしたのであまり長居せずに、沖縄料理屋へ。

day38:それで今日。一日行動できるのは最後ということで、昼食のちょい前から行動開始。昼名は、「asparragus gullatten」とかなんとかいうやつを「アスパラガスグラタン」と解釈し注文。結果がこちら。
22歳、法学部政治学科生のつぶやき-残念な昼食
前菜をおがずに、パンを食ってやりましたよ。レストランにくっそ絵になる男の子がいたのでそのこの写真もどうぞ。俺今かっこいいよね、って4歳くらいにして的確に自己客観視できる天才。

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-絵になる男の子1

22歳、法学部政治学科生のつぶやき-絵になる男の子2


これっぽっちも満たされることなく撤退。今まで回った中でのお気に入りのスポットをぶらぶらしてブエノスアイレスを満喫。夕食は、最終日ということで、ステーキ!!これが、今までで一番おいしいステーキで大満足。それで、ホステルに帰って、ビールを飲みつつ、この文章を書いて、今。39日目は飛行機乗って、40日目で東京着いて、僕の旅は終了。ちゃん、ちゃん。




 ハイキャンプを境に山は一変する。ハイキャンプ以下は雪のないごつごつとした岩を登っていくのだが、ハイキャンプ以上はほぼ完全に雪と氷の世界になる。靴にはアイゼン(雪、氷を捉えるための鉄の棘)、手にはアイサックを持ち、山小屋を出発した。幸いなことに、昨日のような重い荷物を持たなくてすんだ。ガイドが僕の分の水とエネルギー補給のためのチョコレートを持ってくれたので、僕はバックを持たずに登頂を開始した。

 ハイキャンプを出てすぐ、急な上り坂が続く。心拍数はあっという間に上がり、息を吸っても吸っても空気が足りない。登り始めて10分もしないうちに、ぜーぜーとあえぐような呼吸になった。坂道が急なときは、ただただ足を動かすのに精一杯。けれども、ゆるやかな坂道や平坦な道を歩いているときは、まだ若干の余裕があり、思考が働く。登り始めて30分くらいたち、まだ先も見えない状況のとき、ふと頭の片隅に、

「なんでお金払って、こんな思いしてる……」

という言葉が浮かんだ。意味をなす完結した文になる直前に、その思いを振り払った。軽はずみな行為には、後悔はつきもの。軽はずみな浮気で一生ものだと思っていた彼氏/彼女を失った人は、浮気を強く後悔する。軽はずみな発言で大切な人を傷つけたときは、その発言に後悔する。軽はずみな行為はその代償を計算に入れていない、だから人は後悔する。

 けど、僕の登山は、軽はずみな行為ではなかった。決して、なかった。友達から、その辛さ、きつさは重々聞いていた。共通の体験、自転車で8時間かけて1200メートルの山を登った体験、と同じかそれよりも少しきついくらいだと、具体的に聞いていた。僕は、自転車でその山を登っていたとき、唐突に「松村邦和が東京マラソンの途中、心肺停止状態に陥った」というニュースを思い出した。無意識にそのニュースを脳がチョイスするほど、きつかった。そして登りきった日の夜、おそらく完全に体力を使い果たしたせいで、38、9度近い熱を出した。その経験と同じくらいきついと聞き、覚悟して望んだ。
 十分な情報を熟慮して望んだ行為に対して後悔はしてはいけないだろう、と思った。そして、自分から志願したくせに苦しみだけに顔をゆがめて登るのは、なんか違うと思った。きついときこそ朗らかでありたいとその時は本気で願ったので、他の誰かが見て憂鬱になるような顔で登るのは止めることにした。きついときこそ、上がれ口角。これを合言葉に登ろうと決めた。
 
 その後も、延々と上り坂が続く。や、やるじゃねぇか、ワイナポトシ。これは想像通りのしんどさだぜ。とよく分からないテンションで登る。いつまで坂が続くんだ、などと答えが分かりきっている質問をワイナポトシにしながら登る。
 そんな時、突然下り坂になった。登り始めて1時間くらい経ったときだと思う。呼吸が楽になる。救われた。下り坂に感謝した。ワイナピチュに登ったときは、頂上が見えているから下りの階段に出会うとブーイングだ。どうせ今下った分、今から登るやん。そう思うと、むしろ下りの階段はせっかく登ってきた努力を帳消しにする忌々しい存在だった。けれども、ワイナポトシの下り坂は、恵みだった。登山の全体像が見えないとき、下り坂は、違うものとなっていた。
 
 こんなことを考えながら登る。急な坂のときは、考えずに登る。そして、しばらく登っては休憩する。15~20分ほど歩いたら休憩をガイドが挟んでくれた。最初のうちは、休憩は、嬉しいものだった。喘ぐような呼吸が、一旦収まる。一息つける。それなくしてはやっていけない、休憩はそんな存在だった。けれども、登り始めて2,3時間が経ち、ほんの少しではあるけれども登るペースをつかんでくると、この休憩が「曲者」になった。歩いている時は、相変わらず息は上がり、ぜーぜーと喘いではいる。心拍数は上がりきっている。血と酸素を最適に配分するためなのか、思考も停止し、体全体は脱力しリラックスした状態で、足だけがガイドのロープに引っ張られながら動いている。両手をぶら下げ、目もうつろに歩く、腰縄をつけたゾンビのように僕は歩いていたのだけれども、その状態にまで体がなると、きつさは、臨界点ではあるけれども、ある程度収まっているのだ。体が状況にぎりぎりのところで適応してくれている。そんな感じ。
 確かに、休憩をとると、心拍数が一旦低下し、呼吸が落ち着く。その時は心底、助かったぁ、という思いに駆られるのだが、再び登り始めた後に、心拍数が上がり、呼吸が激しくなっていく時の苦しさは、半端じゃない。おんぼろの車が急な坂道で発進すると、エンジンは壊れるんじゃないかってくらい唸りを上げて、走り出すけれども、まさにそんな感じ。心臓と肺が壊れそうになる。息を吸っても吸っても足りない。過呼吸状態のように喘ぐ。それが一番つらい。休憩したい、けどしたくない。休憩に対する相反する思いは、山頂につくまで続いた。
 
 上り始めて3時間くらいが経過し、ようやく登山も中ほど、5600メートルくらいに到達したとき、一番の山場が来た。そこは幅50センチメートルくらいの極めて急な坂の折り返し地点だったのだが、右手には壁、左手には底が見えないクレバスが広がっていた。ヘッドライトで覗き込むと吸い込まれそうになる。闇。足場が、雪や今までと同じような氷ならば全く問題はない。むしろ、一歩間違えれば真っ逆さま、そんなシュチエーションは今までも何度もあった。そのとき、僕を恐怖させたものは、足場と右手の壁が完全に氷だったことだ。カキ氷屋さんの板氷。まさにそれだった。足がすくんだ。恐かった。それまで、確かな信頼感をまとっていた僕とガイドをつなぐロープが、突然頼りなく見えた。ガイドは先にその氷を越え、万が一僕が落下したときのために足場がいい場所でロープを固定していたのだが、それでもとにかく恐かった。恐くて、氷の途中で、ひざをついてしまった。決して選んではならない選択肢だった。傾いたいる氷の上にひざをついたら、当然滑る。そして、落ちる。「Tomo,sutand up!!」ガイドが直ちに呼びかけた。靴の裏についているアイゼン。笑うひざを抑えて、左足のアイゼンを氷に突き立てた。十分には刺さらない。けれども、体勢が若干安定する。右手でアイサックを壁に突き刺そうとするが、壁も氷で刺さらない。選択の余地はなかった。左足を立て、右ひざをついた片ひざの状態から、壁に寄りかかるように右足を立てる。その状態で、歩いた。ガイドめがけて、必死に歩いた。3、4歩歩みを進めたとき、クレバスは既に後方にあった。生きてたぁ、それが率直な感想。
 
 そこからさらに進み5700,あるいは5800メートル地点に差し掛かったとき、左手にラパスの町並みが発する、オレンジ色の光が広がっていた。それまで、ヘッドライトだけが足元を照らしていた。僕たちを拒絶するように存在するワイナポトシ。ヘッドライトの光が消えれば、そこは完全な闇であり、僕たちは完全に拒絶されてしまう。そこに不意にもたされたオレンジ色の、人々が作り出したネオン。僕はそれに対して、美しさよりも、親しみと安心感を感じた。
 
 体力は、いよいよ限界に差し掛かっていた。というか、限界というものがもはや分からなくなっていた。上り始めて5時間近くが経過し、5900メートルを越えたあたりから、極めて急な坂が続いた。「山を右手に回りこんだこの先が、山頂だ」ガイドがそんなことを言っていた。そして、今まさに山を右手に回りこんでいる。雪があまり積もっていない。ハイキャンプを出て今まで、ほとんど存在しなかった岩場を登る。なんでここに来て、雪がないんだ。不思議だったけど、とにかく登る。息が切れる。回りこんだ先に、視界が開けてくる。そこを目掛けて、必死に登る。岩場を20~30分登りきった先に、ついにゴールがあった。視界が開けた。ゴールだ、と思った。しかし、そこは6000メートル地点だった。目の前には、残り88メートルがそびえたっている。「まだゴールじゃない、ここから最後50分だ。」ガイドが言った。僕が山頂を誤解していた。

「もう山頂まで行かなくていいかも、ここで十分だ。」

 そう思った。間違いなく、思いが形をなした。そして、直後、自分を憎悪したし、そんな自分には負けたくないと心底思った。ここまで来て妥協、それは死んだがいいでしょ。

 最後の50分を登る。これも極めて急な岩場を登っていく。動き出したとき、死ぬかと思うほど、しんどかった。けどもう、ぐんぐん登る。やけくそのように登る。空が白みだし、太陽は間もなく昇ろうとしていた。時間がない、ということを考える余裕はなかった。口角だけは上げっぱなしで登りきる。思考といえば、それだけだった気がする。そして、着いた。ついに着いた。山頂だ。最後の最後、氷の壁を登り切る。そこは、間違いなくワイナポトシの山頂だった。見上げるものは何もない。世界の全てを見下ろす。山頂だった。ほぼ同じタイミングで太陽が昇る。世界が眩しい。眩しさの中で、泣いた。きつさからの開放、達成感、目の前に広がる世界の美しさ。そんなものがごっちゃになって、泣いた。

 そして、5分後。すぐさま下り始めた。下りの3時間は、地獄だった。ハイキャンプに着くと、激しい頭痛が襲ってきた。高山病だ。2時間ほど休み、ベースキャンプまでさらに1時間で降りる。そこから車で、くたくたになりながらラパスの街に戻ると、標高3800メートルの街なのに、高山病が治っていた。
 
 
 
カナダに行った。トロントに、ナイアガラの滝に行った。

ペルーに行った。リマに、クスコに、マチュピチュに、プーノに行った。

ボリビアに行った。コパカパーナに、ラパスに行った。





ラパスに到着するまでに、多くの地に、初めて足を運んだ。



それがどうした?



日本を出て、地球の反対に来た。そこに特別な何かを求めてきたわけではない。学生のうちにしかできないことを今はしていたくて、だから旅に行ってみたかった。行き先は、どこでもよかった。友達が地球一周の旅をして、一番よかったのが南米だと言っていた。だから、友達の話を参考にして南米に来た。繰り返しになるけど、南米に特別な思いがあったわけではない。カナダは、たまたま経由地がトロントだっただけだ。



ナイアガラの滝を眺めていても、マチュピチュを眺めていても、ティティカカ湖という世界最高峰にある湖を眺めていても、それをどう人に伝えるか考えている自分がいた。目の前に広がる世界を、距離をとりながら眺める自分がいた。

体験に対する没入と自己の喪失。要するに、感動。

それがなかった。そんな旅が、薄っぺらいものに感じられた。

南米に来る前、世界一周をした友達が一番心に残っているのは、登山だと言った。ボリビアの首都ラパスを起点とした二泊三日の登山ツアー。登る山は、ワイナポトシと呼ばれるもので、標高6088メートル。
「死ぬほどきつかった。けど、忘れられない経験になった。」友達はそう言っていた。

二泊三日のツアーに、装備を全て貸し出して日本円で一万円弱の値段。安すぎて心配だったし、何よりも死ぬほどきついということを聞いていたから、旅に出る前はこのツアーに参加するつもりはなかった。安全第一。そんなことを考えながら旅に出発した。

けれども、ラパスに到着する時、やっぱり登ろうと決めた。これまでの旅を振り返って、心に何かを刻みつけたいと、強く思っていた。

ラパスに到着して、一緒に登る人を探したけれども、誰も見つからなかった。僕が申し込んでいたのは、11月8,9,10日のツアー。もしこの日に出れば、行く人が僕とガイドの二人だけになり、プライベートツアーとなって値段が高くなる。9,10,11日の日程に変更すれば、既に申込者がいて、安い値段でいける。7日の午前、そのことを伝えられた。

ツアーは、例え4人の参加者がいたとしても、最終日の山頂へのアタックは、ガイド一人参加者二人というグループで行う。三人一組。深夜12時半くらいにキャンプを出発し、日の出までに登れなければそこで強制下山。登頂失敗である。なので、自分ひとりが登れる体力があっても、ペアを組んだもう一人に体力がなければ登頂は失敗であるし、逆も然り。そのことを聞いてしばらく考えて、やっぱり一人で登ろうと決めた。
見ず知らずの人に迷惑をかけることもかけられることも、その時は絶対に嫌だと思った。

7日の午後一でツアーに申し込んだ。そして8日の朝8時、ラパスを出発した。
車を一時間半ほど走らせると、平原の先にワイナポトシが見えてきた。ごつごつといた岩山であり、山頂は雪に覆われている。周りにも同じような山がいくつか存在する中で、ひときわ高くそびえ立つ山、それがワイナポトシだった。それまでに南米でワイナピチュという山、というか丘に登ったが、それとは全く異なる山。ワイナピチュはマチュピチュのすぐ隣でマチュピチュを見下ろす位置にある山だが、その標高は2000メートル台。岩には苔が蒸し、地面からはところどころ花が咲き、豊かな生命を湛え、包容力に満ちた山だった。ワイナポトシは、むしろ生命を拒絶していた。岩と雪の世界。そこにあるのは、厳しさと偉大さ、そんな感じだった。

8日10時半、ラパスから車を走らせること二時間半、ベースキャンプに到着した。ベースキャンプの標高は4800メートル。既に空気は薄い。一日目の予定は、昼食をとった後、3時くらいまでトレーニング。アイスクライミングの練習だ。プラスチックブーツの底に、氷でも滑らないように鉄の棘が出ている器具を付け、手にはアイサックという鉄の棒を持つ。棒の先は尖ったハンマーのようになっていて、これも氷の壁に打ち付けて、体勢を安定させるための器具だ。装備を付けるとかなり動きづらい。その状態で氷の壁を登る練習をした。

練習をするところまでの往復に1時間強。道程には、草が岩陰に隠れるようにして生えていた。茶色に近いような色で、岩山に花を添えるとはいってなかった。この標高で、細々と、生きていた。練習自体も1時間程度だったが、かなり息が切れた。急な上り坂、というか氷の壁では、壁に突き刺したつま先の棘だけを頼りに体重を支えるため、足の疲労も早い。また、下りでは、体重を後ろに残した状態で一歩づつ踏みしめるように足を運ぶため、ちょっとした電気椅子の状態で移動することになる。これもしんどかった。それでも、全部あわせて2時間~3時間の工程だったため、一日目はそれほど疲労することなく終わった。むしろ、ついに来たな、とわくわくのほうが大きかった。

二日目は7時半に朝食をとった後、8時過ぎに標高5130メートルにあるハイキャンプ目指して移動を開始する。平均では、二時間半の道のりらしい。「二日目にすることはそれだけ??」ついついガイドに聞いてしまった。一日目といい、二日目といい、フリーの時間がかなりある。僕は、小説を持っていっていたけど、7時過ぎに山が暗くなり出すともう読めない。ということで一日目から暇を持て余していたこともあって、二日目も午前11時くらいにはその日の予定が終わると聞いた時、一泊二日のツアーに参加したがよかったな、などと思った。

8時過ぎに移動を開始する。ハイキャンプに行くまでは雪がないので、上下の登山服にブーツやアイサックなど諸々の道具をバックパックに入れて運ぶ。重さは、15キロ弱。たった二時間半、そう思っていた道のりが、バックパックの重さと空気の薄さで、半端じゃなくきつかった。

若干の頭痛も感じた。ラパスは世界最高の標高にある首都であり、その高さは富士山の山頂よりも高い。ラパスで過ごしていたので高地順応できていたのだが、標高が5000メートルを超え、再び高山病が出た。ハイキャンプに着いたときには、やっぱり二泊三日で正解だったとすぐに考えを改めていた。一日目にベースキャンプ、二日目にハイキャンプ、三日目に山頂。そうやって、徐々に高度を上げていかなければ、高山病がかなり苦しかった。

ハイキャンプに着き、昼食を食べ、自由時間に読書。5時くらいに夕食を食べ、それからは眠らなければならなかった。三日目が、夜の11時半に起き、12時過ぎにハイキャンプを出発し、6時間程登って日の出を見て、すぐに下山。ハイキャンプに10時前に到着。というスケジュールだったため、夕方には眠らなければならなかった。しかし、ハイキャンプに到着後、昼食と夕食の間に1時間寝てしまっていたため、本来眠るべき時間になかなか寝付けない。最初は焦ったが、友達も一睡もできずに登頂に成功したと聞いていたので、途中からは開き直って、のんびり眠りを待っていた。

梶井基次郎の「檸檬」という小説を持って行っていたのだけれども、その小説のことを考えたりしていた。作者のうちに抱えた不安定さがひしひしと伝わってきた。けど、表現は透き通っていてきれいだった。桜の美しさが不安で、その根元に屍体が埋まっていると考えることで、精神の平衡を取り戻す。その話が忘れられない。太田光代も桜の美しさが不安だと言っていた。

小説をあれこれ考えるのに飽きると、絶対に登りきるぞ、などど決意表明を10回はしていたと思う。結果、眠りは訪れ、一時間くらいだけ眠れた。

11時半に起床、服を着替え、パンとクッキーなど簡単な食事。この時点で他のツアーに来ていた人たちは僕より先に出発しており、少し焦っていた。そして、12時半。遅ればせながら、完全な闇の中、ヘッドライトの明かりを頼りにハイキャンプを後にした。
(続く)