昨日やっと大谷選手のホームランが出てほっとした人が多かったのではなかろうか。私もその一人である。それはそれで良いのだが、このホームランボールの帰属についてここでまた微妙な問題が持ち上がっているということをご存じだろうか。

 

この問題について日本側ではまず次のように報じられた。

 

≪ 試合後、ホームランボールは戻ってきたのか問われた大谷選手は「戻ってファンの人と話して、いただけるということだった。僕にとっては特別なボールなので、ありがたい」と説明し、ファンには代わりに「ボールとハット2個とバット1本ですね。サインを書きました」とプレゼントを手渡したことを明かしました。 (==>「特別なボール」大谷翔平 移籍第1号記念ボールはファンと交渉し本人の元へ 

 

ホームラン・ボールをキャッチしたのはローマンさんという女性で昔からのドジャーズ・ファンだという。この記事を読むと、ファンである彼女は大谷から直にプレゼントを渡され、大谷本人から感謝されてさぞやハッピーだったに違いない、と思うのではないだろうか。(私はそのように受け取った。)ところが、おなじYahooでもアメリカのヤフーニュースでは全然違うのだ。

 

  ==> "The Dodgers couldn't even avoid drama with Shohei Ohtani's 1st HR with team"

 

上の記事では、ローマンさんはハッピーではなかったというニュアンスで記述されている。どうも10万ドルの価値があるというボールをそれより価値の劣るプレゼントと交換させられたことに納得していないらしい。それと見逃すことの出来ないのが、彼女は大谷と会っていないと主張していることである。 しかし、記事では大谷が次のように述べたと書かれているのである。

 

 “I was able to talk to the fan, and was able to get it back,” Ohtani said through interpreter Will Ireton. “Obviously it’s a very special ball, a lot of feelings toward it, I’m very grateful that it’s back.”

 

私の考えでは、たぶん大谷は通訳に言伝を頼んだのだと想像している。しかしこの文章だと明らかに大谷がそのファンにその場で話しかけたように受け取れる。この記事を書いた記者はそのように解しているはずだ。そして次のように語ってもいる。

Given that Ohtani's willingness to tell the truth is already a central part of one of the biggest stories of the season, his getting caught in an apparent lie over something as trivial as meeting a fan can't be ignored.

 こんな些細なことで大谷があからさまな嘘を言っていると述べている。アメリカ人が「嘘」という言葉を使う場合は軽く受け流すことは出来ない由々しき問題だと思って間違いないだろう。この記者は大谷という人物にかなりの疑いの目を向けているということである。

 

 私自身は大谷がこのようなことでつまらない嘘をつく人間であるとはみじんも思ってはいない。もし大谷が通訳を介する必要がないほど英語に通じていたならこのような齟齬は生まれなかっただろうと思っている。しかし、既に日本人が知っている大谷翔平とアメリカ人の知っているShohei Ohtani はかなり乖離しているのである。まわりのスタッフはそのことにもっと留意して早めに対処した方がよいと思う。とりあえず、この記事を書いた記者本人にきちんと説明してあげて欲しいと思っている。でないと、大谷はうそつきであるというレッテルを貼られてしまうことになるだろう。大谷ファンにとっては耐えがたいことである。

 

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 昨夜のTBS「報道特集」を見て、「ああこれは物議をかもすにちがいない」と思った。既にご存じの方も多いかと思うが、イギリスのBBCのジャニーズ性加害問題第二弾における、東山紀之氏のインタビューの内容である。

(参考==>「【単独取材】ジャニーズ解体のその後」

 

 ジャニー喜多川氏による性被害を訴えた男性が誹謗中傷で自死した件についてその妻は、「旧ジャニーズ事務所が『虚偽のケースがある』と発表した後から誹謗中傷が増えた」とBBCの取材記者に訴えた。彼女によれば、殺害予告を受けたり、家族の情報をネット上にさらされたりもしたそうである。(旧ジャニーズ事務所の発した)メッセージが中傷を助長したのではないかという指摘に対して、東山氏は「僕はそのように感じていません。言論の自由もあると思うんですよね。ぼくは別に誹謗中傷を推奨しているわけではなくたぶんその人にとってはそれが正義なんだろうと‥」と答えている。

 

 東山さんは一流の芸能人である。子どもの頃から歌や踊りのレッスンに忙しくて、公教育を十分受けられなかったという事情は理解できる。しかし、ここで「言論の自由」とか「正義」はなかろうと思うのである。あまりと言えばあまりにお粗末な発言である。なまじ俳優であるために堂々とそれらしく喋っているので、その発言内容の空疎さが際立っている。

 

 性加害と言うのは大抵密室で起こる。100%の事実を求めるのは無理である。被害の申請が虚偽である可能性も十分にあり得る。そんなことは初めから分かっていることではなかったか。ことさら「虚偽の申請もある」などとアナウンスするのがおかしいのである。スマイルアップ側に求められる態度は、虚偽申請者を排除することよりも被害を被った人々をもれなく救済することの方に軸足を置くことべきだろう。

 

 さらに記者から(ジャニー氏以外の)別の2人のスタッフ(そのうちの一人は東山氏のマネジャー)による性加害を指摘されると、東山社長はそれを認めたが、記者の「あなたたちから警察にその情報を提供すべきでは」という問いには、「法的なことを考えると僕らには権限がないと思いますので、その当事者の人たちがそれに対して刑事告訴したら僕らとしたら全面的に協力することにはなると思います。」 

 

 なぜここで「法的な‥‥権限がない」などという言葉が出てくるのだろう。性被害者救済のための責任者という彼の立場なら、法的権限はなくとも道義的義務があるのではないか? もっと言うなら、このことは性加害というれっきとした犯罪であり、普通の一市民としてでも積極的に警察に協力すべき性質の事柄である。

 

 どう考えても東山さんが自分の置かれたポストの社会的責任を認識しているとは思えない。俳優だからそれらしく振舞うことは出来る、しかし中身が備わっていないというかあまりにもお粗末すぎて話にならない。こんなものが世界中に配信されてると思うと日本人としてとても恥ずかしい思いがする。

 

 

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 先ほど水原氏の賭博問題に関する大谷選手の声明を聞いたが、その内容に驚いている。それによれば、水原氏が大谷のあずかり知らぬところで彼の金を盗んだということになり、れっきとした窃盗である。しかも、大谷に対してはすぐばれてしまうような大ウソをついていたことになる。

 

 おそらく、日本人の多くは彼の釈明を聞いて胸をなでおろしたことだろう。彼が賭博にも違法な送金にもかかわっていないことがこれではっきりしたのだから。私もその一人である。私はてっきり彼が水谷氏を助けるために借金の肩代わりをして上げたのだと思っていたのだが、あらためて彼自身の口から事実はそうではないということを聞いて安堵した。だが、客観的な事実を並べていくと彼の言い分は必ずしも受け入れやすい話ではない。それでも私が大谷のいうことを信じることができるのは、多分同じ日本人だからだろう。同じ文化的背景をもち同じ言葉を話す私たちは、これまでの大谷の野球に対するひたむきな態度や言動に触れてきて、彼が話す時の態度や表情から彼が嘘偽りを言っているのではないということを信じることができるのである。

 

 しかし、アメリカはご存じの様に多民族国家であり、日本人同士の腹芸などというものは到底通用しない社会である。特に、一介の通訳に過ぎない水原氏が彼の口座にどうしてアクセスできたのかということが最大の問題である。しかもその口座から大金が動かされたことにも当の本人が気づかない。普通はあり得ない話である。いずれこの件については詳しい弁明を迫られることになるだろう。Yahooアメリカでもこのニュースは流されているが、早速一般読者からはネガティブなコメントが山のように寄せられている。その中の数例をとりあげてみよう。

 

「大谷が通訳を通じてスポーツ賭博をしていたとしても驚かない。自分の銀行口座から450万ドルが引き出されたことを、彼が知らないわけがない。真実はいずれ明らかになるだろう。」

 

「大谷の弁護士が最初の通訳面接の後に扇動し、通訳が🎤に戻って180度変わった、大きな隠蔽工作を感じる。大谷はこの件に関して、ある意味汚い。」

 

「ピート・ローズにその質問をすれば、喜んでアドバイスをくれるだろう。」

 

ざっとこんな調子である。日本では大谷のニュースには礼賛的なコメントがほとんどで、否定的なものほとんどないが、かの地では普段でも肯定的なコメントは少なくネガティブなものの方が多いのだが、今回の件ではもうほとんどが非難の嵐状態である。これには多少人種差別的な要素があるだろう。大谷が英語で話さないということも一つの要因かも知れない。いずれにしろ、さらに詳しい事情説明は必要だと思う。

 

 3月23日の記事で私は「大谷は親しい友人と有能な通訳を同時に失ってしまった 」と述べたが、今日の会見で水原氏は初めから友人ではなかったということが分かってしまった。友人を窮地に追いやっておきながら、それを糊塗するためにすぐ分かるようなその場限りの嘘をつく、そんな友人は友人ではない。

 

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(今回は病気の話です。多分面白くないと思います。腎臓が丈夫な方にはこの記事をスルーすることをお勧めします。)

 

 先週14日が今年2回目の受診日でした。尿中蛋白はほぼ正常値となり、血中アルブミンも少しずつ改善して正常値まであと一息です。なので毎日のステロイド投与量も 2.5mg 減らしてもらって 12.5mg となりました。

 

 

 検査結果から見ればすべては順調に推移しているのですが、気にかかることが2点あります。その一つはステロイドのの副作用です。上記の表を見てもらえばわかりますが、ステロイドの摂取量はだんだん少なくなっていますが、副作用の方はむしろ顕著になっているという実感があります。ネフローゼ症候群というのは、タンパクが尿から漏れ出すので血中アルブミン濃度が薄くなる、そうすると浸透圧の関係で血液中の水分が血管外に漏れ出してそれが浮腫みになるという、そういう病気です。なので血中アルブミンが増えてくれば浮腫みも改善されるはずなのですが、私の場合は足の甲やほっぺたなど特定の部分が腫れて来てむしろひどくなっているような気がするのです。

 

 ステロイド剤はあらゆる炎症に効くと言われる薬ですが、それだけに副作用も多くそれを抑えるためにいろんな薬を合わせて併用します。ところがそれぞれの薬にも副作用があるわけで、その時々の体調によってさまざまな症状が出ます。塩分が滞留して急に体重が増えたり、逆に急に体重が減りだしたり、やたら内出血しやすくなったり、手が急に硬直したり、今まで経験しなかったようなことが次々と起こります。中には、毎年冬になると悩まされていた乾燥肌の悩みがなくなったというような好ましい副作用や、とにかく御飯が美味すぎて食べだすと止まらないというような悩ましい副作用もあります。というような具合で、最近は少し薬の副作用に翻弄されているような感があります。

 

 もう一つの懸念は、このステロイドと何時決別できるのか?  ということです。受信日の検査結果が良好であればステロイドの服用量を減らしてもらえるのですが、今回は 2.5mg の減量です。受診は8週間に一度ですので毎回 2.5mg 減らしていっても、12.5mg がゼロになるにはあと5回はかかります。しかも、ステロイドの摂取量が少なくなればなるほどその減量幅も小さくしなければならないらしいので、順調にいってあと1年以上はかかります。

 

 もう少しこの副作用と付き合っていくしかなさそうです。

 

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 MLBの大谷選手の通訳である水原氏がドジャーズから解雇された。その解雇理由がとても分かりにくい。「大谷選手の金を盗んだ。」と言っているようだが、どうも歯切れが悪いと言うか、説明が全然整合的でない。それよりは、開幕第一試合の後に水原氏が自ら告白した内容の方が自然で筋か通っている。つまり、水原氏が悪質なギャンブル詐欺に引っかかって莫大な借金を背負ってしまい、こわもての兄さんに返済を迫られて大谷に泣きついた。泣きつかれた大谷は仕方なく借金の肩代わりをして上げた。そういう話だろう。

 大谷としては善意で水谷氏を助けてあげただけの話だ。その話を聞いた球団関係者は目をむいた筈だ。大谷は善意のつもりでも、振り込んだ金は不正な取引による不正な金である。それを自らの手で振り込んだとなると、大谷自身がその不正取引の中の当事者になってしまう。ことは選手生命にかかわる重大な問題である。

 450万ドルと言えば人の一生を左右するような大金である。普通なら、誰にも相談せずにこっそりとすませてしまえる性格の話ではない。しかし、野球ばっかりやって来た純粋な若者には有り余る金をもっていたし、親しい友人の為にことを穏便に済ませたかったので、つい親切心で「今度だけですよ」と言いながら送金してしまったのだろう。

 

 これまでの大谷選手の言動から判断して、それはあくまで友人に対する純粋な親切心から出たことだと私個人は信じている。問題はそんな言い分がアメリカの法廷で通用するかどうかだろう。トジャーズ球団は何が何でも大谷の知らぬところで事が運んだということにしたいようだが、それは針の穴をラクダにくぐらせるような話である。そのような筋道の中で大谷に何を語らせようというのか、それともこれから後ずっと口をつぐんだままにさせようというのか? 私は大谷の一ファンとして、大谷自ら正直に本当の事情を語って欲しいと思う。大谷にはこれからもずっと大谷らしい大谷であってほしい。それは MVP やホームラン王をとることよりも重要なことである。 

 

 この後事態はどのような展開を見せるか予断は許さないが、大谷は親しい友人と有能な通訳を同時に失ってしまったということだけは間違いない。

 

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 ダーウィンの進化論は自然科学において、ニュートンの万有引力の法則と並んで最も重要な発見であるとされている。思想史的に見ても、私達の世界観にこれほど大きな衝撃を与えた学説は他にないと言ってもよいのではないかと思う。ところが、未だに「猿が人間に進化した」とか「キリンは高い枝の葉っぱが食べられるよう首が長くなった」式の説明が堂々とまかり通っている。

多分「進化」という言葉がいけないのだと思う。進化という言葉を使うのなら、進化する主体というものががなければならないはず。しかし、そんなものはないのである。下の図を見て欲しい。この絵を見ると、まるで猿が人間に変化していくように見える。

 

 

 しかし、そうではないのである。この図の中に変化などしているものはない。ここに描かれているものは一つひとつがそれぞれ別個の個体であり、猿として生まれたものは一生を猿として過ごしそして猿として死ぬ、ただそれだけである。ただ、その猿から生まれる子供は全く親と同一ということはなく、いろんな変異が生じる。その変異が環境に適合しておれば、その子はまた子孫を残す。ただそれだけのことである。決して、変異する主体というものがあるわけではない。上の図は、無数に枝分かれしていった個体群の一部を恣意的に選び出して(※注)プロットしたものに過ぎない。進化論というのはかいつまんで言うと「あるべきようにあり、なるべきようになった。」と、実に当たり前でニヒルなことを述べているに過ぎない。

 

 「キリンは高い枝の葉っぱが食べられるよう首が長くなった」と言うと、高い所に届くように首を長くしようという意志がどこかに存在したかのように響く。繰り返して何度も言うが、決してそのような意志というものはない。私たちは言葉で「進化する」と言ってしまえば、反射的に主体となる「何か」が進化すると錯覚してしまうのだ。そして「進化」という言葉には進歩とか前進のようになにか目標のある運動のようなニュアンスがある。それで、ついつい進化論を目的論的に解釈してしまいたくなるのである。自然科学の学説の内容は単なる事実であり、われわれの価値観とは本来別次元のものである。しかし、つい淘汰を免れて生存競争に打ち勝つことが価値あることのように錯覚してしまう。その結果として優生思想のような歪んだものの見方が生まれてくるのである。ヒトラーは美しくて健康なドイツ民族を作るために本気で優生学を採用した。その結果、戦争遂行上国家にとって役に立たない障害者や重度の病人を安楽死させるというT4作戦までやってのけたのである。(==> 「優生思想と向き合う」)

 

 私自身が、もし頭が良くて男前でスポーツ万能に生まれていたなら、私はそれを嬉しく思い、また価値あることだとも思うだろう。だからと言って、私はそのように生まれてくるべきであったなどとは考えない。すでに一個の人間として生まれてきた私の尊厳はそういうこととは無関係なのである。そこのところは絶対に勘違いしてはならない。

 

(※注) 「恣意的に選び出して」という表現は少し言い過ぎかもしれない。現在生存しているものからその親を遡って古い順から並べれば当該図のようになるからである。しかし、それはあくまで時間を逆に遡っていけばの話である。あくまで時間に沿って順に追っていけば、無数に枝分かれした系統の中のたった一つの系統でしかないことがよく分かるはずである。

 

 

 

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 NHK「100分de名著」という番組の2月のテーマはリチャード・ローティの「偶然性・アイロニー・連帯」であった。私はローティという哲学者のことは全然知らなかったのであるが、朱喜哲先生の説明を聞いて、とても偉い人であると思った。と同時に、その根底にある思想は仏教に通底しているとも感じた。

 

 ここでローティの言う「偶然性」という言葉について考えてみよう。随分前の話になるが、あるテレビの番組における若者の投げかけた「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが大きな波紋を呼んだことがある。結局決定的な結論には至らず今も問題は宙に浮いたままである。しかし、どう考えてみても「人を殺してはいけない」という結論は理屈では導き出せない。現実に人類は正義の名のもとに盛大な人殺しを繰り返してきたのだから、「人殺しは必ずしも悪いとは決っていない」と言い得るのではないだろうか。 しかし、おそらくそれではこの問題を提起した人は納得できないだろう。

 

 なぜ納得しないのか? それは人々が倫理に対して、例えば神が決定したというような必然的根拠に基づくものであるべきである、というような思い込みがあってのことではないかと思う。それと同様に人々は、自分や日本などについてもかくあるのは必然的根拠をもってにあるべくしてあると思いがちである。例えば日本という共同体や自己などについても考えてみよう。私たちはなんとなく日本や自分というものは初めからあるべくしてあるものだと思いたがる。日本はかくあるべしまたは自分はこういう人間であるという本質、すなわち必然的な根拠によって、日本も自分も現にこのように存在しているのだと思いがちである。倫理もまた必然的根拠に基づいて実在しているものと思いたいのである。ギリシャ人は真・善・美というものがイデア的に実在するものだと考えていた。それらをもっとも的確な言葉で表現するのが西洋哲学の目的であったとさえ言える。ローティはそのような思い込みを一掃する、それらはみな必然的根拠をもたない。あくまで偶然的なものであるだけに過ぎず、ある意味「言葉によって発明された」とまで言ってのけるのである。これはかなりラディカルなことを言っているようだが、無常や空を根本原理とする仏教的立場から見れば受け容れにくい考えではない。仏教では、全ては変化し続けておりなにものも留まるところはないと説く。一瞬たりとも止まることはないのだから、特定の形とか状態というものを抽出することもできない。だから仏教ではそれだけで独立し存在する基体とか本質というものを否定する。それが空ということである。仏教の空とローティのいう偶然性は真理や倫理の絶対性とか必然性というものを否定するという意味で通底しているのである。

 

 真理や倫理がもし必然的なものであるならば、論理をつくせばその究極に到達できるはずである。かくて必然を信じる人はやがてファイナル・ボキャブラリー(究極の言葉)と言うべきものに到達する。それはその人にとってはまさに究極であるから、それに反することは全く受け入れられない、そこで対話は途切れてしまう。シオニストにとってイスラエルの存続は絶対である。だから、イスラエル自衛の為であれば何をやっても正義となる。そのように考えれば、ガザにおけるイスラエル軍の蛮行も納得がいく。言葉や論理の必然性を信じる人はたやすくドグマに陥ってしまうのである。ローティはファイナル・ボキャブラリーもまた偶然性の重なりに過ぎず、単に世界の一側面に過ぎないというのである。やがてそれは変わりゆくものであり、私達は世界がいろんな側面を持つ豊かさを意識しながら、対話を閉ざさないようにしなければならないと説くのである。

 

 ローティが訴えていることは、仏教の教えである中道思想と同じ趣旨であると言っても差し支えないと思う。禅仏教では不立文字と言い、この世界を言葉で記述することを禁じている。一切は空であり、世界を言葉(概念)で規定することは不可能であるからである。だから修行することによって、世界をあるがまま把握する目を養うのである。一旦世界を言葉で切り取ると人はその言葉に制約される。ガザのイスラエル兵は「イスラエルの自衛」の名のもとに病人や女子供まで機関銃で撃つ。素朴な目で見ればただの野蛮な行為であるとたやすく分かるはずなのに、「イスラエルの自衛の為」という文言が彼らの正当性を保障する。言葉によるイデオロギーが、彼らから世界を「あるがまま看る」目を奪っているのである。

 

 仏教の中道思想というのは、言葉によるイデオロギーにたやすく安住してはならない、ということである。そういう意味でローティの言う「偶然性」を意識するということと通じているのである。

 

なんの実だろう?

 

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 私は2015年7月から横浜市主催の「よこはまウォーキングポイント」運動に参加しています。(参照=>「来年の目標」) 当該記事を読んでもらえば分かるように、一昨年の12月には三千万歩の大台まであと約260万歩というところまで来ていました。当時の私は年間約三百万歩以上のペースで歩いていたので、早ければ八月遅くとも10月には大台クリアできると思って、それを2023年度の目標としたのでした。ところが昨年の2月頃から体調が思わしくなくなり、既にご報告の通りネフローゼ症候群という難病に罹ったため昨年度中の目標達成はとん挫せざるを得ませんでした。年が明けて病気も一応緩解ということになり、少しずつペースを取り戻しています。

 そんなわけで約半年遅れましたが、本日やっと三千万歩の大台に達することができました。次の目標は82歳までに五千万歩達成を目標にしたいと思っています。 

 

 

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 1月20日の記事にて、一次性ネフローゼ症候群については緩解したとのことをすでにお伝えしてありますが、まだまだ完治にはほど遠いのが実情です。2カ月ごとに経過観察しながら、ぶり返しがなければ徐々にステロイドの摂取量を減らしていく、というプロセスが順調にいってあと一年は続く見込みです。

 どんな病気でもそうだと思いますが、腎臓病で特に問題になるのは食事制限です。私の場合特に留意するように言われているのが、一日に「塩分とタンパク質の摂取量をそれぞれ6gと50g」以下に抑える事です。平均的な日本人の一日の食塩摂取量は約10gほどであると言われています。私はアジの開きにさらに醤油をかけて食べていた口ですので、おそらく1日に15~20gぐらいの塩分をとっていたのではないかと思っています。漫然とした食生活を送っていると、とても1日に6グラム以下に抑えることは不可能です。
 まず第一に外食を止めました。外食で食べるものはかなり塩分が高めです。例えば、ココイチのビーフカレーを私は大好きなのですが、一皿で3.2gもの食塩が含まれています。町中華のはんちゃんラーメンなんていうのは論外です。というわけで、この10か月間というものただの一度も外食したことはありません。

 もちろん自宅で食べる食事にも気を配らなくてはなりません。若い頃から妻に塩分を控えるように口酸っぱく言われていました。それでも私は赤いきつねのスープを全部飲み干していました。今となっては後悔しきりですが、ここまで来て一念発起しました。口にするものはすべてその成分表示に目を通します。塩分含有量が分からないものは原則として口に入れません。調味料はすべて減塩のものにしました。パンも山崎パンの減塩食パンに、うどんは無塩のものに代えました。一日3食のうち2食は1.5g未満を目途にしています。おそらく現在の私の一日の食塩摂取量は5g以下のはずです。

 減塩パンも無塩うどんも最初のうちは違和感あり過ぎでしたが、慣れるとその味わい方が分かってきます。減塩の調味料について言うと、実はあまり意味がないような気がしています。普通の醤油に代えて減塩醤油を使ったとしても、塩味というのは結局塩の量に比例するからです。50%の減塩醤油を使うなら、初めからふつうの醤油の使用量を半分に減らせば同じことなので、その方がコスト的には安くつくと思います。重要なことはむしろ調味料を薄めないで少量使用することだと思います。したがって汁物はできる限り避けます。みそ汁やラーメンは一切食べません。麺類はつけ麺で、それもつけ汁はごく少量つけるだけです。

 

 若い頃から塩分摂り過ぎていると妻から散々うるさく言われても、決して改めることのなかった私ですが、さすがに今回は心を入れ替えて摂生に努めています。いざ覚悟を決めれば、意外と苦にならないものです。それに薄味になれてくると、食べ物の微妙な味わいに敏感になります。特に淡白な米の味わい深さがはっきり分かるようになってきます。おかげで米のご飯が大好きになって、食事の楽しみがむしろ増えました。

 

 というようなわけで、腎臓病でない方にも減塩は是非お勧めしたいと思います。塩分による腎臓へのダメージはどんどん積算されていき回復することはありません。年とってもラーメンを食べたい人は、今のうちからきちんと対応する必要があります。

 

 

お年玉年賀はがきの2等賞で郵便局からもらったお菓子の詰め合わせ。塩分の含有量はどれもほとんどがゼロ。

※「闘病日記」というカテゴリーを新たに作りました。

 

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 普通「運も実力のうち」という言葉はよく聞くが、「実力も運のうち」はあまり聞きなれない言葉である。実はこれはNHKの白熱教室で知られるハーバード大学のマイケル・サンデル教授の新しい著書のタイトルである。私はまだその本を読んでいないので、サンデル先生がどのような意図で「実力も運のうち」と仰っているのかはよく分からないが、よくよく考えてみればなかなか意義深い言葉であるように思えてきた。

 

 大谷翔平選手の選手としての報酬は10年間で7億ドルだという。年俸100億円である。それ以外にスポンサー企業からの副収入が70億円もあるらしい。私のような貧乏人には見当もつかない金額だが、金を出す側としては大谷選手にはそれだけの市場価値があると踏んでいるわけである。その市場価値の源泉は、野球選手としての力量、魅力的なパーソナリティやルックスから来るものであり、それらはみな大谷選手の属性つまり彼の実力と言ってもよいと思う。年俸100億円は彼の価値に対して支払われるのであり、それは親の七光りでもなければ宝くじに当たったわけでもなく、もちろん他人から掠め取った物でもない。文字通り彼の実力に対する対価として支払われるのである。

 

 だから誰も文句を言ったりしない、多分‥‥‥。

しかし、誰もが納得したとしても、あえて文句つけたくなるのがへそ曲がりの私の性分である。大谷選手と同世代の若者でコンビニや飲食店で働いている人々は少なくないだろう。彼らの多くは時給千何百円ほどで働いているはずだ。仮に時給1500円で月200時か寸働くと仮定すれば、月収は30万円で年収は360万円になる。大谷さんの年俸100億円とはえらい差がある。金額が実力の反映であるとするならば、彼はコンビニ店員の3000人分の働きを一人でこなすことになる。私の常識が「そんな法外なことがあり得て良いのか?」とわめいている。

 

 しかし少し考えてみれば、その法外な事態に正当性を与えているのは現代社会の資本主義メカニズムであることはすぐ分かる。仮に大谷さんが江戸時代に生まれていたら、これほどの社会的成功を収めることは難しかっただろうし、もし野球ではなくバドミントンの選手への道を選んだりしたら、たとえ超一流選手になれたとしても現在のような収入はとても望めなかっただろう。そのように考えてみると、「3000人分に相当する実力」というような実体は実はどこにも存在しないということがよく分かるのである。すべてのことはいろんなことがらの関係性つまり因縁によって決定するのであって、言ってみればすべてが運であると言っても差し支えないのである。

 

 また、大谷選手は生まれる前に「こういう家庭に生まれ、こういう人間に育ちたい。」と意志したわけでもない。たまたま奥州市の円満な家庭に生まれすくすく育って、立派な野球選手として育っただけのことである。すべては因縁であり、実体としての実力やそれを志向する主体性自体も存在しない。一切皆空である。

 

1月26日の夜明け時、満月が茜色に染まる西の空にまだ残っていた。

 

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