奈良旅行二日目の平成31年(2019年)4月29日(月・祝)、室生寺の参拝を終え、中村屋旅館でにゅうめんをいただいた私は、奈良県桜井市多武峰にある談山神社(たんざんじんじゃ)へ向かいました。

 

◇談山神社

 

 飛鳥寺(飛鳥の元興寺法興寺)の蹴鞠会で出会った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足。ちなみに、この当時の名は中臣鎌子。以下、生前の鎌足について話すときは「中臣鎌足」、藤原氏の祖としての鎌足及び死後の鎌足について話すときは、「藤原鎌足」と記します。)が、藤の花が盛りの頃に、談山神社本殿の裏山で、極秘の談合をしたことから、それ以降、多武峰(とうのみね)のこの地は、談峯談い山(かたらいやま)、談所が森などと呼ばれるようになりました。

 現在の談山神社社号も、これに由来します。

 

 そして、この極秘の談合により、中大兄皇子中臣鎌足は、乙巳の変(いっしのへん)によって蘇我入鹿暗殺に成功し、蘇我入鹿(そがのいるか)の父とされる蘇我蝦夷(そがのえみし)を自害に追いやり、蘇我本宗家を滅亡させます。

 

 前回の奈良旅行で、 奈良県橿原市小綱町にある蘇我入鹿を祀る入鹿神社を訪れ、そのお話をした『婆娑羅日記Vol.47~奈良旅行記in2018⑨(入鹿神社)』でも触れましたが、田村圓澄氏は、その著書『藤原鎌足』(塙新書)の中で、入鹿神社のある小綱の集落の人たちは、決して多武峰の談山神社には参拝せず、また、多武峰の人たちとは仲が悪く、絶対に縁組(結婚等)をしないということを指摘しています。
 なぜそうなのかといえば、
談山神社で祀られているのは、蘇我入鹿を殺した中臣鎌足(後の藤原鎌足)だからです。

 さらに、小綱の西隣の曾我の集落では、曾我川下流域の「
百済(北葛城郡広陵町百済)」の集落と仲が悪いそうです。
 これは、百済のエリアが、中世以降
談山神社の所領になったことが原因だそうです。

 小綱町や、その西隣の曾我町の人達は、「
談山神社に行くと頭が痛くなる」などの理由で、子供の遠足で談山神社に行くのを嫌がる親がいるという話も聞いたことがあります。

 

 以前もお話ししましたが、全国の鈴木氏の発祥の地は、紀伊国藤白(現在の和歌山県海南市藤白)とされており、その藤白鈴木氏は、紀伊国熊野の穂積氏の流れを汲みます。そして、穂積氏は、『新撰姓氏録』によると、饒速日命(にぎはやひのみこと)の六世孫とされる大水口宿禰を遠祖とするので、物部氏熊野国造家と、同祖となります。

 

 私の先祖が、この物部氏と同祖の穂積氏かはわかりませんが、蘇我氏物部氏所縁の寺社仏閣を訪れると、なぜか、初めて訪れたときでも、故郷に帰って来たかのような感覚に包まれ、他方、藤原氏の所縁の寺社仏閣に行くと、急に大粒の雨が降り出したり、強風が吹き始めたりということがけっこうあり、藤原氏所縁の寺社仏閣には、拒絶されているような感じがします。

 

 これは、小綱町や曽我町の人達が、「談山神社に行くと頭が痛くなる」というのと、似たような感覚だと思います。

 

 

 このようなこともあり、談山神社は、前述のように、藤原氏の祖である中臣鎌足中大兄皇子と談合をした場所に建つ神社で、御祭神として、藤原鎌足中臣鎌足)が祀られていることから、聖徳太子蘇我氏物部氏、初代神武天皇、第15代応神天皇の母の神功皇后の足跡を辿ることが目的だった前回の奈良旅行では訪れませんでした。

 

 

 しかし、今回は、敢えて、藤原氏所縁の寺社仏閣も訪れてみようと思い、談山神社を訪れることにしました。

 

 

 談山神社の駐車場にレンタカーを停めて、境内へと向かうと、石垣が見えます。

 

(談山神社/石垣)

 

 『日本書紀』には、斉明天皇2年(656年)の条に、「田身(たむ)の峯に石垣をめぐらし、2本の槻(つき)の巨木のそばに観(たかどの)を建てて両槻宮(なみつきのみや)と名付けた」と記されており、この「田身の峯」が多武峰のことなので、斉明天皇2年(656年)から、多武峰のこの地には石垣があったようです。

 

 ただし、現在残っているのは、平安時代以降のものだと思われます。

 

 元々、多武峰には、多武峯妙楽寺多武峯寺)がありました。

 

 藤原鎌足の遺骸を、長男の定慧(じょうえ)が白鳳7年(678年)に多武峰の地に埋葬し、十三重の供養塔を建立し、その後、藤原鎌足の次男藤原不比等(ふじわらのふひと)が、金堂常行三昧堂藤原鎌足像を祀る聖霊院を建立し、天武天皇8年(679年)に多武峯妙楽寺が創建されました。

 この多武峯妙楽寺は、法相宗の寺院だったのですが、天暦10年(956年)に、比叡山の末寺となったことで、天台宗に宗旨替えをしました。

 

 奈良の興福寺は、藤原氏の氏寺なので、藤原氏の祖である藤原鎌足の祖を祀る多武峯妙楽寺と相争う関係にはないはずなのですが、前述のように、多武峯妙楽寺天台宗に宗旨替えをしたことから、法相宗の大本山である興福寺は、多武峯妙楽寺に対し、法相宗の末寺となるよう、度々要求をしますが、多武峯妙楽寺はそれに応じず、他の事情なども絡み合って、多武峯妙楽寺は興福寺から数度にわたって、焼き討ちをされます。また、吉野の金峯山寺からも焼き討ちを受けたこともあります。

 

 現在残る石垣の多くは、おそらく、多武峯妙楽寺の僧兵が、その興福寺などの他の寺院からの攻撃から守るために築いたものだと思われます。

 

 

 石垣を右手に眺めながら歩いて行くと、社号碑がありました。

 

(談山神社/社号碑)

 

 社号碑の先の北に伸びる参道を歩いて行くと、鳥居があります。

 

(談山神社/鳥居)

 

 鳥居を潜り、参道を登って行くと、社号碑の手前にあった石垣よりも、さらに立派な城のような石垣が見えます。

 

(談山神社/石垣)

 

 

この石垣の上には、神廟拝所があるのですが、そこを通り過ぎ、さらに参道を登って行くと、右手に拝殿があります。

しかし、拝殿に行かずに、先に左手(西側)にある十三重塔に向かいました。

 

 

(談山神社/十三重塔)

 

 この十三重塔は、元々、藤原鎌足の長男定慧が、鎌足の供養のために白鳳7年(678年)に建立したのですが、その後、前述のように何度も焼き討ちなどにあっており、現在の物は、元禄5年(1532年)に再建されたものです。

 ただし、木造の十三重塔として現存しているのは、この談山神社のものが唯一で、国の重要文化財に指定されています。

 

 十三重塔の隣(西側)には、権殿(ごんでん)があります。

 

(談山神社/権殿)

 

 説明板によると、権殿は、天禄元年(970年)摂政右大臣藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の立願によって創建されたもので、元々は、藤原伊尹の実弟の如覚が、阿弥陀像を安置した常行堂だったそうです。

 

(談山神社/権殿説明板)

 

 藤原伊尹如覚の兄弟の父は、藤原北家九条流の祖となった藤原師輔(ふじわらのもろすけ)で、師輔村上天皇の御世で、右大臣を務めています。

 如覚の出家前の俗名は藤原高光といいますが、父の藤原師輔の急死を契機に、比叡山延暦寺の横川の良源の下で出家し、その翌年に、多武峰に移り住み、草庵を営みます。

 藤原高光(後の如覚)は、藤原師輔の八男であったとはいえ、右大臣を務めた師輔の子息が出家したのは衝撃だったのか、その経緯を描いた『多武峰少将物語』のほか、多くの物語に藤原高光の出家の逸話が記されています。

 

 談山神社から1.3kmほど東に行ったところに、藤原高光の墓如覚禅師廟があります。

 

 ちなみに、兄の藤原伊尹の孫は、書家として名を馳せた藤原行成です。

 

 権殿の隣(西側)には、末社比叡神社の本殿を始め、いくつかの末社の本殿が並んでいました。

 

(談山神社/末社比叡神社本殿など)

 

 真ん中にある大きな社殿が、比叡神社の本殿です。

 この比叡神社の本殿は、寛永4年(1627年)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。

 

 比叡神社の向かって左側にあるのが、末社の稲荷神社で、御祭神は宇賀之魂神比叡神社の向かって右側にあるのが、末社の山上神社で、御祭神は大山津見命です。

 

 近くに、談山(かたらいやま)、御破裂山(ごはれつやま)への道標が立っていました。 

 

(談山神社/談山標識)

 

 談山はここから280m、御破裂山はここから510mで、大した距離ではなかったのですが、談山神社に近づくにつれ、雲行きが怪しくなって来ていて、いつ雨が降り出してもおかしくなかったのと、この時点で13時40分だったので、この後のスケジュールを考えて、山に登るのは断念しました。

 

 比叡神社本殿を別の角度からも写真を撮りました。

 

(談山神社/末社比叡神社本殿)

 

 一番右側に見える社殿が、末社の神明社で、御祭神は天照皇大御神天照大神)、その向かって左側にある小さな社殿が、末社の杉山神社で、御祭神は久々能智神(くくのちのかみ)で、記紀にも登場する木の神様です。

 

 十三重塔の西側の末社を参拝した私は、来た道を戻って拝殿に向かったのですが、その手前に、龗神社龍神社)がありました。

 

(談山神社/龗神社)

 

 近くにある説明板によると、ここは、龍ヶ谷の古代「岩くら」とで、飛鳥時代に大陸から入って来た龍神信仰と、日本の水神とが集合して、龗神社と書かれていました。

 

(談山神社/龗神社説明板)

 

 古代の出雲王朝東王家である富家(とびけ。向家。)が口伝で伝えるいわゆる『出雲口伝』によると、龍神信仰が飛鳥時代に大陸から日本に入って来たという点は、私には違和感がありますが、そのお話をするためには、古代出雲の成り立ちからお話ししないといけなくなるので、それはまたの機会に譲るとして、少なくとも、古神道は、山、川、瀧、岩などの自然の万物に神が宿るというアニミズム自然崇拝)で、従来は、社殿を建てず、山、川、瀧、岩などを御神体として拝んでいたことから、この談山神社岩くら磐座)やも、古くから信仰の対象となっていたことが伺えます。

 
岩くら磐座)とに手を合わせた私は、拝殿へと向かいました。

 

 

(談山神社/拝殿)

 

 階段を上がったところが楼門となっていて、それに、右側の拝殿が繋がっているような造りになっています。

 階段の下から見ると、一見、拝殿は鉄筋コンクリート造りのようにも見えるのですが、朱塗舞台造拝殿は永正17年(1520年)に造営されたもので、中央の天井は、なんと伽羅香木で作られているそうで、この拝殿・楼門・東西透廊も、国の重要文化財に指定されています。

 

 この拝殿が、奥にある本殿を囲うような構造になっているので、私も拝殿から、本殿を参拝させていただきました。

 

(談山神社/拝殿)

 

 拝殿・楼門・東西透廊の説明板の隣に、本殿の説明板もあったのですが、それによると、現在の本殿は、嘉永3年(1850年)に造営されたもので、これも、国の重要文化財に指定されています。

 

(談山神社/拝殿・本殿の各説明板)

 

 拝殿での参拝を終えた私は、再び権殿まで戻り、その前の階段を下りて、末社の総社拝殿に向かいました。

 

(談山神社/末社総社拝殿)

 

 説明板によると、末社の総社拝殿は、寛文8年(1668年)に造営されたものだそうです。 

 

(談山神社/末社総社拝殿説明板)

 

 この拝殿の西側に、拝殿とは独立して本殿があるのですが、本殿の方は、写真を撮りそびれてしまいました。

 

 総社は、延長4年(926年)に勧請されたもので、天神地祇八百万神を祀る総社としては、日本最古と言われているそうで、現在の本殿は、拝殿と同じく、寛文8年(1668年)に造り替えられた談山神社の本殿を、寛保2年(1742年)に移築したもので、本殿も拝殿も、いずれも国の重要文化財に指定されています。

 

 末社の総社の拝殿の東側には、神廟拝所があります。

 

(談山神社/神廟拝所)

 

 説明板によると、神廟拝所(旧・講堂)は、藤原鎌足の長男定慧が、白鳳8年(679年)に、父の藤原鎌足の供養のために創建した多武峯妙楽寺講堂で、現在のものは、寛文8年(1668年)に再建されたものです。

 

(談山神社/神廟拝所説明板)

 

 神廟拝所から、私が拝殿まで登って来た参道を横切り、東に向かうと、東殿がありました。

 

(談山神社/東殿)

 

 東殿若宮)は、元和5年(1619年)に造り替えた談山神社の本殿を、寛文8年(1668年)に移築したもので、国の重要文化財に指定されています。

 御祭神は、中臣鎌足の正妻の鏡女王中臣鎌足の長男の定慧中臣鎌足の次男の藤原不比等です。

 鏡女王は、異説もありますが、藤原不比等生母とされています。

 

 

 これまでお話ししているように、私は、藤原氏所縁の寺社仏閣を訪れると、強い雨が降り出したり、強風が吹いたりということがあり、今回も、雲行きが怪しく、駐車場に着いたときから、少し重苦しいような空気でしたが、途中、若干雨がぱらついたものの、今回は強い雨には降られずに、談山神社の参拝を終えることができました。

 

 

 さて、『婆娑羅日記Vol.47~奈良旅行記in2018⑨(入鹿神社)』でもお話ししたのですが、蘇我入鹿は、父とされる蘇我蝦夷と共に、日本の歴史の中でもトップクラスの極悪人だという印象を持たれている人です。しかし、それにもかかわらず、入鹿神社のある小綱町やその西隣の曾我町では、入鹿神社蘇我入鹿を手厚く祀っており、蘇我入鹿首塚だとされている飛鳥寺五輪塔には、毎日のように、花が手向けられています。

 

 これについて、私が愛読している歴史作家の関裕二氏は、その著書『蘇我氏の正体』(新潮文庫)の中で、中国から律令制度を日本に導入し、改革を進めようとしていたのは、蘇我氏であり、中大兄皇子は、その改革を潰そうとする守旧派で、かつ、反主流派であったと分析しています。

 

 この点、『日本書紀』などで蘇我氏悪行の1つとして、蘇我蝦夷蘇我入鹿は、甘樫丘に建てた家に、柵と武器庫を築き、火事に備えて、全ての門に水を入れた舟を置き、武器を携えた警備員を常に配置し、さらに、畝傍山の東にも家を建て、池を掘り、武器庫に矢を集め、自らの家を城塞化したということが挙げられていました。

 

 しかし、NHK甘樫丘発掘調査の結果を基に、平成19年(2007年)に、『大化改新 隠された真相~飛鳥発掘調査報告~』という番組を放送したのですが、同番組では、「蘇我氏は、甘樫丘を城塞化して、自ら王権の盾になろうとしたのではないか」という推論を示しました。

 

 確かに、唐が日本を侵略し、都である板葺宮を制圧するとすれば、板葺宮の東と南は、吉野などの深い山に囲まれており、天然の要塞となっていますので、通常は船で難波まで来て上陸し、そこから東に向かって進軍するはずです。

 甘樫丘は、板葺宮の西側にあり、難波から進軍する軍勢を食い止めるのに絶好の位置にあるので、NHKの同番組で示した推論も、一理あると思うわけです。

 

 また、板葺宮甘樫丘は目と鼻の先にあり、近隣には飛鳥寺を始め、複数の寺院が建ち並んでいたことからして、甘樫丘を含むこの地域が、この当時の政治の中心地であったことは間違いありません。

 

 これに対し、中大兄皇子中臣鎌足乙巳の変の謀略を語り合った場所とされる談山神社のある多武峰は、板葺宮から東に7km離れた山の中にあります。

 そして、歴史作家の関裕二氏は、その著書の中で、談山神社は、山の上に築かれた城塞と呼べるような造りになっていると指摘し、乙巳の変テロであり、反主流派中大兄皇子中臣鎌足は、多武峰を拠点としてテロの機会を虎視眈々と狙っていたというのが実態だったのではないかと述べています。

 

 今回、談山神社を訪れてみて、石垣は、平安時代以降に興福寺などから守るために築かれたものだと思いますが、その石垣がなくても、天然の山城のような地形をしているように思いました。

 甘樫丘が、NHKの上記番組で指摘したように、王権の盾となるために、予想される唐の進軍ルートに立ちはだかる形で城塞化したのと異なり、板葺宮よりも7kmも東の山の中にある多武峰は、王権のためではなく、板葺宮近辺の主流派からの攻撃から守るための要塞となっていたように思えるのです。

 

 そのようなことからも、乙巳の変による蘇我入鹿の暗殺は、反主流派であった中大兄皇子中臣鎌足によるテロだったという関裕二氏の説は、非常にしっくりものでした。



◇次回予告

 

 談山神社の参拝を終えた私は、奈良県桜井市阿部にある安倍文殊院に向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。

 

 

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