いやあブログって、続かないもんですね。。
NZ日記はとりあえず置いといて、最近思うコトなどを。唐突に。


東日本大震災。
この存在が大きい人、小さい人。
歴史の年表のように、震災前と震災後で色が違って、「今」があの震災から何年目なのかを常に考えてしまう人。

私もそうです。
関東にいた私は、地震と津波、というより、原発事故によって生活が変わってしまった。
住む場所も、家族形態も、生活スタイルも、食べるものも、仕事も服も言葉も。
でもそれらは自分で選んだことで、私は「自主」避難者です。

当時、0.1マイクロシーベルト未満だった流山市が、震災後0.4マイクロシーベルトになって、それが子どもの健康にどう影響するのかを私は知りたかった。
チェルノブイリでは5年くらいから病気が増えたというが、ここではどうなのか。
早く5年後が知りたい、5年後の新聞が読みたい、と思っていました。

震災直後から行動を記録し、被ばく量を計算し、一か月。
計算から出した答えは、このまま住んでいて「大丈夫」でした。
それでも理性で出した答えを、感情で受け入れられず避難したように思います。
そして岡山に来て、たくさんの「自主」避難者さんたちと繋がりました。
ほとんどが関東圏からです。

私から見える、放射能に関するいろいろ。を、ちょっと書いてみたい。
何が言いたいわけでもない。まだ言いたいことなんてない。
着地点みえないまま、書きます。

同じ避難者でも、放射能を避ける程度に差はある。
その隔たりは大きい。
とりあえず食べ物だけという人から、原料・肥料・飼料や製造地もチェックする人。
さらに食品以外の日用品、リサイクル品の使用地履歴まで気をつける人。
そして医療被曝も避けたいと病院でX線検査を拒否する人、給食・入院食・学校行事の食事を拒否する人。投薬もしかり。

また、インターネットでは、汚染地域での他者の行動を否定する意見も見かける。
いいことでも、開催地が汚染地域であるという理由で否定する人もいる。

気にしない人からすれば、理解に苦しむかもしれない。
それでも、私の住む地域は避難者が多いこともあり、理解しようとしてくれる地元の人がたくさんいる。

私もそこまで気にするほうではないが、なぜそんなに大変な思いまでしても避けるのか、なぜそんなにも嫌なのか、その背景を想像する。

3月15日とか、3月20日とか。そのあたりを想像する。

停電していた。ガソリンがなかった。水がなかった。ミルクがなかった。
お店の外の行列に並んで水を買った。子どもと一緒に並んでいた。

赤ちゃんがいた、妊娠していた、小さな子どもがいた。
公園で遊んだ。水たまりで遊んだ。泥んこになって遊んだ。口の周りには砂や土。
雨の中、傘もささずに遊んでいた。いつものように。

給食を食べた。庭の野菜を食べた。実家の野菜や山菜、果物が送られてきて食べた。いつものように。

知らなかった。後から全部知った。
あのときの雨に、あのころの水道水に、放射性物質がたくさん含まれていたこと。
関東なのに、あのあとの公園が高線量になっていたこと。子どもを被ばくさせていたこと。

鼻血が出たり、くまができたり、じんましんがでたり、長い咳や風邪が続いたり、そういういろいろ。
何も知らず、疑わず、あとになって「もしかしたら関係があるかも」なんて言う人がいること。

そのときの混乱や後悔を想像する。
そのあとも、4月、5月、夏、秋、冬、次の年。放射能を気にするそのときまで、の期間。
知らずにいた期間が長ければ長いほど、知ったあとのショックと自責の念は大きい。

その反動かなとか、想像する。
医療被曝は、被ばくのリスクと治療のメリットとを天秤にかけた上で、とか、何度も言われて知っている。
でももうこれ以上、絶対に被曝量を上乗せしたくない、って。
私が計算で出した答えを感情で否定したように、「それでもいや」、なんだろうな、とか。

母親であるということ。子どもを守りたいっていう気持ち。

それでもどこかで、線を少しずつゆるめないと、生活が破たんしてしまう。
親が倒れたら、子も困る。いざというとき守れない。
それに、緊急時に医療を拒否はできない。
気持ちはわかる。わかりたい。
でも自分がすりへるほどの、放射能拒否はもう十分だよって、言いたいときもある。
どこかで、いつかどこかで、少しずつゆるめようよ、って。

でも、もしこの先、子どもに何かあったら、あのとき避けなかった1ベクレルのせいかもしれない、とまた自分を責めてしまうかもしれない、だからゆるめることができない、もわかる。

うーん、・・・

えーっと、
着地しないまま、おわり。すんません。
「すーこの疎開日記」、毎度、唐突に新ジャンルです。


私は関東出身なので、空襲といえば「東京大空襲」なのですが、いま住んでいる岡山でも空襲があったそうです。
今日はその体験を聞く貴重な機会がありましたので、ぜひお付き合いください。

お話ししてくれたのは、同じ地域に住む84歳のKさん。
地域の子どもたちみんなにとっての「おばあちゃん」になりたいと、子どもを広く深く愛するKさんです。

Kさんが小学5年生のときに第二次世界大戦に突入。
学校が尋常小学校から国民学校に変わり、真珠湾攻撃を知らせる大本営発表を学校で教えられたそうです。

Kさんの記憶によると、戦争がはじまり、はじめに感じたのは、ゴムが少なくなったことだそうです。
ゴム運動靴は配給になり、クラスに1足か2足。
くじ引きで当たった人が使え、何度も繕って大事に使われたそうです。

そのあとは遠足のおやつを買うにも、お菓子が減ったことを子どもながらに感じたそうです。

国民学校のあと、男子は中学校へ、女子は女学校へ進みます。
そのころは「日本が勝つ」と信じ切っていたと言います。

女学校では、敵機が近づくと警戒警報が鳴り、さらに近づくと空襲警報。
そうなると授業を中断して防空壕に入ったそうです。

教練という授業では、精神を鍛えるため(?)、冬でも雪の中を裸足で走らされたり、上半身裸で乾布摩擦をさせられたそうです。
本土決戦が近いと言われ始めたころは、「鬼畜米英」と教えられ、運動場でわら人形にヤリで突く教練もあったそうです。

火が出たときに消すための防火訓練、明かりが外にもれないようにするための灯火管制。

そのうち女学生たちは勤労奉仕に駆り出されます。
5、6人のグループが、戦争で男手がなくなった家の手伝いに行きます。
「お年寄りしか残っていなかった」とKさん。

それまでしたこともない、田植えや稲刈り、麦刈りを手伝ったそうです。

それでも勉強もしてました。
夜になると、小さな缶に入ったクジラの脂のろうそくの明かりで勉強し、朝みるとノートが煤だらけということも。

女学校では軍服を縫うなどの動員作業が多かったため、Kさんは女学校3年目に、当時、唯一勉強ができた師範学校の予科に入学します。

おかげで動員作業はなくなりましたが、この頃、食料はいっそう乏しくなります。

出征する兵隊さんのために、街角にたって一針ずつ頼み「千人針」の腹巻も作ったそうです。
当時言われていたのは「ほしがりません、勝つまでは」。
食事も服も、がまんし続けました。

戦争に反対もできない、言えない、そんなそぶりを見せれば「非国民」と言われ憲兵に連れていかれる。
逃げたくても残った家族がひどい目にあってしまう。

なんでこんな戦争をしているんだろう?という疑問は、まったくなかったとKさん。
「洗脳されていたんでしょうね。教育によるものですね」。

昭和20年4月、Kさんの師範学校の寄宿舎生活が始まった年の6月29日、未明に岡山空襲がありました。
場所はいまの岡山市の中心部、天満屋などがある地域です。

深夜2:43から、B29による焼夷弾の攻撃。
1時間半の間に、883トンの爆弾が投下されました。

宿舎で6人部屋に寝ていたKさんたち。
警報はまったくなく、いきなりの爆音で飛び起きました。
蚊帳と寝巻をきちんとたたんで、着替えて逃げます。

上級生の指示に従い、夏布団を持って逃げました。
布団をかぶり、外の水槽の水をバケツでかぶり、逃げたそうです。

焼夷弾は着弾すると油が出て引火します。
麦を干していたので、焼夷弾の火が燃えうつっている光景が見えました。

上級生の「火の手のないところに逃げるのよ!」の声で、同級生の友達と二人でひたすら走って逃げました。

熱い空気。
濡れた布団をかぶっているので、前を見るために顔の前でバタバタさせながら逃げました。

火を逃れ、振り返ると、火の海です。
しかしこの時の攻撃は、波状攻撃といって、真ん中に一度爆弾を落とし、人が逃げたら周りを攻撃するという方法でした。

また火に囲まれ、逃げます。
旭川の川沿いに逃げ、岡山城が燃えているのが見えました。
上流の牧石というところまで逃げて、小学校の体育館で落ち着きました。

寄宿舎の寮母さんがとても心配していましたが、4人の姿がありませんでした。

翌日、雨の中、学校に戻りました。
まだ電柱は燃え、ビルの窓からは火が吹き出してきました。
道端には、真っ黒に焼け焦げた死体がありました。

姿がなかった4人は、学校にある藩池(はんち)と呼ばれる池の石橋の下に隠れて、生き延びていました。

学校は焼け落ちて、何もありませんでした。
きちんと畳んだ蚊帳も寝巻も、ありませんでした。

この空襲で、市街地の6割が焦土と化し、2000人ちかい犠牲者がでました。

その後、警察で被災証明をもらい、貨物列車で倉敷の自宅に戻ったKさん。

この年に終戦を迎えますが、この後の食糧難がとっても大変だったそうです。

食事は一日に一度、常に雑炊で、少しの米とカボチャや芋のツル。
配給でもらう「どんつく」と呼ばれる麦や藁が入ったパンだけの日もあり、いかに空腹に耐えるか、という日々だったそうです。

8月15日、再開した学校で玉音放送をききました。
みんな日本は勝つと信じていたので、周りの大人は「残念だ」と泣いていましたが、Kさんは「戦争が…終わったんだぁ…」とうつろな気持ちだったそうです。

戦後も飢えは大変でしたが、予科から本科に入学し、本科2年目に師範学校は教育学部になり、Kさんは岡山大学教育学部の一期生となり、その後、30年以上教鞭をとりました。

また、多くの男性が戦争で命を奪われ、Kさんの世代はちょうど5つくらい年上の世代がいず、「結婚相手がいなかった」そうで、結婚した相手は年の近い方でした。

Kさんはこの戦争を振り返り、こう言います。
「いま考えれば、非常に馬鹿げた話だと思う。それでも当時は疑問に思わなかった。日本が負けると思わなかった。教育の怖さだと思う。
いまも戦争がある。経験した身からすると、なぜ戦争がなくならないのかと、つくづくと感じる」。

また、「幸いなことに、同じ学校の子が死んだり、目の前で人が死んだりすることがなかった。だからこうして話せるのだと思う」とKさん。
それでも、火の海をくぐって逃げる体験をお話しされるのは、重い作業だと思います。

Kさんは同じ日の午後、小学生対象にも話をしてくださいました。
Kさん、貴重なお話しを本当にありがとうございました。


私が話を聞いた会では、Kさんが当時の「ほぼ水分、少しのお米とカボチャの雑炊」を再現してくださり、いただきました。

参加者からも、分かり合うための、対話の大切さが出されました。

なんとなく、日本はいま、戦争に向かっています。
小さな会でも、こうして「戦争と平和」について、語り合う場が、もっと必要だと感じたのでした。


※この会は「おかやま昭和暮らしプロジェクト」の一環で行われました。
https://www.facebook.com/showagurashi
私と娘(10)のニュージーランド旅日記。
レンタカーで一か月、気ままな母子旅。のこりわずか。

2月26日
なぜか早く起きた。隣の部屋は寝ているから静かにしていたが、8時前には娘も起こした。
10時に部屋の移動をと言われていたので、朝ごはんのあと、荷物を片付けた。
9時に郵便局に行って、頼まれていたハチミツを送ろうとしたが、住所を忘れたので取りに戻る。
ネットはまだ使えない。

同室の若い二人も移動の準備をしていたので声をかけたら、この近くに部屋を借りられたから移動するとのこと。長期滞在、うらやましい。
フランスの隣の国ということで、昨日は聞いた国名がわからなかったけど、辞書でヨーロッパ諸国の名前を見ていたらベルギーかも、と思った。
二人に「二人の国はベルギー?」と聞いたら、そうだ、と。
昨日は自分の知っている音と違うからわからなかった、ごめんね、と言う。

ベルギー、いろいろな発音があるらしい。
というか、二人が教えてくれたことによると、ベルギーは小さな国なのにフランス語とドイツ語とオランダ語のエリアに分かれているそうだ。
彼らはフランス語エリアなので、英語とフランス語を話せる。が、ドイツ語やオランダ語は話せない。
それぞれのエリアの小学校では、それぞれの言語を学ぶとのこと。境目ではどうするんだろうか?

ちなみにまた知らない国名を言われたので辞書に入力してもらうと、オランダとわかった。
オランダの呼び名、Netherlandは知っていたけど、Hollandは知らなかった。

フランス語も話す彼らに、大学の時にフランス語の授業を取ったよ、と「ジュマペール、すーこ」と言ってみた。向こうも「コンニチハ」「サヨナラ」と言った。
アニメで日本語を覚えたとのこと。さすがアニメの国、日本。
若い二人、がんばれ。

街に出る。レートは89円。1万円分換金する。高くて嫌になっちゃう。
メールチェックなど、ネットを使うためハチミツを送る前に図書館に行く。
図書館のWi-Fiコーナーで、昨夜、同じ宿にいた女性を見つけたので、少し話をした。
彼女は宿を変えて、北の方にいくらしい。フランスから来た、と。
ヨーロッパづいてる。

ハチミツ送らなきゃ、と郵便局へ。箱と緩衝材を買う。11ドル。
送料は2万円近くかかりそう。
パッキングしたところで時間がなくなったので、送るのはまた次回にして、Thamesに向かう。
13時に2年前にフィティアンガで知り合ったみゆきさんとランチの予定。

13時まで1時間20分。グーグルマップだと1時間16分と出ていたが、意外とグーグルマップの時間はタイトなのだ。
また、山道を飛ばす。野を越え山を越え。昨日と同じ道を走る。100キロくらい。
行きの車の中で、娘にもっと英語を話せと怒る。
今回、全然話せていない。頭の中では英語を作れるらしいのだが、話そうとするとできない、と。

少し遅れてThamesに到着。みゆきさんと合流し、カフェでランチ。
猫1
猫2
(Thamesにいた猫。娘撮影)

みゆきさんは笑顔がかわいいママで、道行く地元のおじいさんにも「笑顔がかわいいねー」と声をかけられていた。ホント、そんな感じ!
今は息子くんと短期留学中。
海外移住の道を探っているが、なかなか大変~と、いろいろ迷い気味。
15時に別れ、また日本で会おうね、と約束。

Thamesの郵便局に寄って、やっとハチミツを送った。送料2万円。高い。
本屋でおいっこの絵本を買う。娘も自分の絵本を買ってた。
また来た道を戻る。100キロ。
道中

帰り道、Tairuaの町で一人のヒッチハイカーがいた。
ヒッチハイカーがいたら乗せようね、と2年前から娘と話していて、とうとう遭遇!
少し手前で車を停めて、娘に「どこまで行くのか」聞いて「私たちはフィティアンガに行く」と伝えに行かせる。
「フィティアンガだって」と戻ってきた娘。
英語、通じたらしい。

車まで来たので聞いたらHot water beachまでとのことで、通り道なので一緒に行く。
かわいい若い金髪の男の子。バックパッカー。大きな荷物。

名前は聞かなかったけど、話したところによると、ドイツから来たドイツ人で、18歳。高校を卒業したところで1年、ワーホリでNZへ。そのあとはドイツの大学に行くんじゃないかな~と言っていた。
山道を運転しながら、運転席と後部座席で会話をするのは、なかなか疲れた。

Hot water beachとフィティアンガで分かれるところまで乗せた。
そこから10キロくらいあるけど、歩ける?と聞いたら、またヒッチハイクするから大丈夫、と。
すごいぞ、若者! がんばれ、ドイツの少年!
旅はいいね。
娘も「どうしてNZに来たの?」と英語で質問していた。

帰り道、17時を過ぎていたが、通るたびに気になっていた「バード公園」の看板。
気になる看板
メインロードからそれて行ってみることに。

未舗装の道。どんどん進むが、フィティアンガの近くにこんな農場地帯があるなんて知らなかった。びっくり。景色が全然違う。
しかしいくら進んでも公園など出てこない。がんばって進む。
最後に出てきた。個人の農場っぽいが、公園の看板もある。
そしてなぜか、「Dojo」と書かれた隣にドーンと「合気道場」の看板。
筆で、板に。ここはいったい…?

公園は5時までと書いてあって、もう6時だったけど、ゲートが開いてたので進んでみたが、急斜面が砂利道で、車のタイヤが空回り。
恐ろしくなって引き返した。なんなんだ。
でもいい景色が見られた。またメインロードに戻る。

スーパーで買い物し、ガソリンを入れて部屋に帰る。
みゆきさんにもらった手作りアップルクランブルと、Azumiさんにもらったフルーツを食べる。

娘が海に行きたいというので行く。
海、暖かい。着いた頃の冷たさはなんだったんだろう。
これなら全然泳げる。
てっきり冷たいと思って、泳いでなかった。もったいない。
海に19時過ぎから足だけ入って楽しかった。
桃を手に海
両手に桃を持って食べながら海に入る娘。
白波

白波2
白波が横線になっていておもしろかった。

部屋に戻って夕飯。
シェアエリアには、オーストラリアからの老夫婦。一泊だけだそう。
夜、宿のWi-Fiが落ちているので、車で町まで出て公衆Wi-Fiスポットへ。
夜9時に、町のほとんどは終わっている。静かで暗い。

町中でさえ、見上げると普通に天の川が見える。
日本も人口が少なければ見えるんだろうな。
パパと合流するシドニーまであと数日。
明日はファームパーク、あさってはクリフとランチ。


影