Twitterとnoteに移行し、和歌や古典文学について、少しずつ発信したいと思います。

どうぞよろしくお願い申し上げます。


 

 




昨日の『鎌倉殿の13人』、後妻(うはなり)打ちと髻切りというバイオレンスシーンが描かれていました。亀の前を演じる女優さんもすばらしい存在感ですね。登場するだけで目がはなせない感じ。

 

「後妻打ち」は、藤原道長『御堂関白記』寛弘9年2月25日条にも「宇波成打」に早く登場していますし、平安時代末期、後白河院編『梁塵秘抄』所収の歌謡(205番)にも見えます。

 

池の澄めばこそ 空なる月かげも宿るらめ 沖よりこなみの立ち来て打てばこそ 岸も後妻(うはなり)打たんとて崩るらめ

 

「こなみ」に「小波」と「前妻」(植木朝子『梁塵秘抄』ちくま学芸文庫に詳しい解説があります)を掛け、「うはなり」と対をなしています。澄んだ水には悟りの象徴の月が宿り、波が立つ水には後妻打ちがおきて崩れるというのは、心のあり方を教え諭しているのでしょうか。

 

髻切りは、出家、犯罪、制裁などを意味します。すぐに思い浮かぶのは、業平が二条后と駆け落ちした咎で髻を切られたという説話です(源顕兼『古事談』2-27。伊東玉美『古事談』ちくま学芸文庫に現代語訳と解説があります)。髪が生えるまで歌枕を見ると称して、東国に向かったとし、『伊勢物語』東下りの段につなげるわけです。髻を切ると烏帽子がかぶれなくなるので、社会生活が送れなくなるんですね。厳しい制裁でした。

ホワイトディにもらった鉢植えの桜🌸
あと数日で開花しそう。



昨日の『鎌倉殿の13人』で、頼朝の異母弟義円が弓矢の技と兵法・和歌に通じていたことが強調されていた場面がありました。ここで思い出したのは、西行(『百人一首』86番)です。

 

『吾妻鏡』文治二年(1186年)8月15日条によると、東北への旅の途中鶴岡八幡宮に立ち寄った西行に、頼朝は和歌について教えてほしいと願い、御所に招き入れ、「歌道并弓馬事」について質問したと言います。西行は、弓馬のことは昔のことで(出家前は北面の武士)、兵法の書も燃やしてしまい、和歌についてもお教えできるほどのことはありませんと断りますが、頼朝の熱心さに折れたのか、兵法については詳しく教えたと伝えます。頼朝は藤原俊兼に西行の話を書き留めさせたと言います。夜通し続いたとも。

 

この逸話がどこまで真実を語るかはわかりませんが、弓馬と和歌が武士にとって重要なものであったことことは言うまでもありません。頼朝はどうやって和歌を学んだのか。久保田淳氏は、昨日面会した梶原景時の影響があったのではないかと推測されています。

 

昨日のドラマで、義円が和歌を語っていた相手は、北条政子たち女性でした。平安時代の日記や物語などを見るに、女性の教育の重要な科目が和歌であったこと、なかでも『古今和歌集』がその筆頭であったことがわかります。『枕草子』でも、村上天皇の時代、(書道と琴(きん)の琴と)『古今和歌集』の20巻の和歌を暗記することを「御学問」にしなさいと父に教わった女性の話が登場します。

 

ちなみに昨日義円が紹介していた和歌は、紀貫之の

  歌たてまつれとおほせられし時、詠みてたてまつれる

春日野の若菜摘みにや白妙の袖ふりはへて人のゆくらむ(『古今和歌集』春上・22)

でした。詞書の「おほせ」の主語は帝、この「人」は女性たちだろうと推測されています。新春の華やかな、そしておめでたい祝賀ムード漂う歌です。

 

若菜摘みは、現在の七草粥につながる早春の行事で、『万葉集』巻頭の雄略天皇の和歌も「菜摘み」する女性が登場し、『古今和歌集』以降にも重要な年中行事として受け継がれていきます。

 

ちなみに、美智子上皇后『瀬音』にも若菜を詠んだ歌が見られます。

若菜つみし香(か)にそむわが手さし伸べぬ空にあぎとひ吾子(わこ)はすこやか

『和歌・短歌のすすめー新撰百人一首―』(花鳥社)p212に解説は譲ります。

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一昨日学位授与式が挙行されました。

ご卒業、おめでとうございます✨




大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、愛らしい小鳥、ヒヨドリ!って最初言ってたけど、実はツグミだったという場面がありましたね。ツグミも鳴きますが、ヒヨドリのほうがはるかによく鳴きます。

      鵯

  長き日のしげきの枝にかまびすく鳴くひよどりにねぶたげもなし(為忠集)

 

さほど多くはありませんが、和歌にも詠まれます。

  籠のうちにまだ住み慣れぬひえどりは心なくても世をすぐすかな(土御門院御集)

 

 京都の貴族が愛玩した鳥で、中でも楽しんだのが「鵯合(ひよどりあはせ)」という勝負(左右に分かれて、鵯の鳴き声が姿かたちの優劣を競う)でした。藤原定家の日記『明月記』建暦2年7月10日条や『たまきはる』にも登場します。

なかでも有名なのは、承安3年(1173)5月2日に行われた「院(後白河院)中鵯合」(九条兼実の日記『玉葉』)です。公卿、殿中人以下大勢の人々が集まり、左方は錦の幌を打ち、右方は黒木の仮屋を作ります。風流、善、美を尽くしたと言います。黒木の右方は、過差(贅沢)の禁制を守ることをアピールしながら、たいへん優美だったといいます(佗茶みたい!)。左の頭は重盛、右の頭は邦綱とのこと。

 

このときの鵯合は、後に『古今著聞集』(承安2年と誤記)にも詳細な記述が見えます。左右の頭が別人であったり、細かな差異があるのですが。鵯に「無名丸」とか「千与丸」とか、名前を付けているんですよね。

 

京都の貴族にとってなじみ深い愛玩動物の鵯だと思っていたら、実はツグミ(トラツグミ?とすると鵺?)だったというのも、面白いですね。

 

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ホワイトデーのプレゼント、今年も室内用の桜の鉢植え🌸まだ蕾だけど、室内でのお花見を楽しみます✨



大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、梶原景時を中村獅童さんが演じていらっしゃいます。大庭景親に与していましたが、後に源頼朝に扈従します。頼朝は自分の前に参じた景時を見て「言語を巧みにする士」と評して、気に入ったと『吾妻鏡』(治承5年1月11日条)は記しています。

『吾妻鏡』などに景時の和歌や頼朝とかわした当意即妙の連歌が見え、どれも頼朝との親しさをよく物語っていますし、弁が立つという頼朝評とも矛盾しないでしょう。

鎌倉と縁の深い冷泉為相撰かとされる『拾遺風体和歌集』に「関路千鳥」という題の和歌が見え、作者を「景時」としています。

  清見潟関の戸たたく浦風に明がたかけて千鳥  鳴くなり

ただ、この歌は『玉葉和歌集』にも入集していて、こちらの作者表記は「北条重時」です。重時の方を採るべきでしょう。


https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/taiga/documents/ferisgaido.pdf


先週の大河ドラマに登場した馬上の平維盛、美しかったですね。維盛は、平家の貴公子の中でも抜群に美しかったようです。同時代を生きた女房建礼門院右京大夫が、維盛の美貌を家集に書き留めています。


「少将はとく立たれにしが、少し立ちのきて見やらるるほどに、立たれたりし、ふたへの色濃き直衣、指貫、若楓の衣、そのころの単衣、常のことなれど、色ことに見えて、警固の姿、まことに絵物語に言い立てるやうにうつくしく見えしを、中将(実宗)、あれがやうなるみざまと、身を思はば、いかに命も惜しくて、なかなかよしなからむなど言ひて、」(略) (『建礼門院右京大夫集』)


訳:少将維盛はすぐに去られたが、少し離れて眺められるくらいの場所に立たれていた。二重の色の濃い直衣、指貫、若楓の衣、その頃の単衣は、常のことだが、色が格別に映えて見えて、警護の姿は、まことに絵物語に書き立てたように美しく見えたのを、中将実宗が「彼のような容姿だと、我が身を思ったら、どんなにか命も惜しくて、かえってよくないことであろう」など言って、立ち姿、ファッションが取り立てて賞賛されていて、「絵物語」は今で言えば、メンズファッション雑誌に近いイメージでしょう。「いかにも命も惜しくて」ということばは、後の戦死を暗示していて、不吉です。美貌が滅びと表裏一体なのです。(谷知子『古典のすすめ』「美しいということ」角川選書より)


富士川の戦いの水鳥が飛び立つ場面、綺麗でしたね✨何度も見直してしまいました。


鎌倉殿の13人、ますます佳境に入ってきました。

フェリス日文、中世文学ゼミの学生が作成したガイドブックもぜひお楽しみください✨鎌倉の魅力が伝わることを学生たちとともに期待しています。


鎌倉市のウェブサイト



pdf版

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/taiga/documents/ferisgaido.pdf